部屋で、ファイナルファンタジーⅩのオープニング曲であるザナルカンドを聴く。何度、繰り返し聴いたか、分からないぐらいだ。それでも飽きがまったくこない。
さっきの『ノクターン』。確かピアノも教えているとか言っていたよな……。
曲のイメージと秋奈がかぶった。目をつぶると、下をうつむいた秋奈の寂しげな顔が思い浮かぶ。このザナルカンドは、秋奈の為に作られた曲なんじゃないだろうかと思ってしまう。
何故俺は、こんな事を考えるのだろう。曲と秋奈の共通点は、少し悲しげで陰りのある部分。それでいて優しく人を癒す。
今日、初めて会ったばかりの秋奈にすっかり魅了されていた。他の打算的なキャバ嬢とは違う。もっと純粋な何かを感じ取っている。
新宿歌舞伎町の裏稼業でしか、顔を利かせる事のできない自分。いや、それは店長だった『ワールド』の頃の話で、今は単なる裏ビデオ屋の店員である。今の自分の生き方が無性に恥ずかしく感じた。
何かしら悲しみを背負って生きているような表情。俺が何とかしたかった。しかしこんな俺に何ができる?
色々考えてみた。
バーテンダー時代のスキルを活かし、カクテルを目の前で作ってあげる。そしたら喜んでくれるだろうか?
おいしい料理を一緒に食べる。楽しく会話しながら、同じ時を共有する。それで、満足してくれるだろうか?
何かプレゼントをあげる。これじゃ、誰でもできる事だ。
俺にしかできない事……。
何かないか?
ふと以前に見たデュークの夢を思い出した。一度しか見ていないはずなのに、鮮明にあの姿と美しい音色が脳裏に焼きついている。
一心不乱にピアノを弾く彼の姿は、俺の心に何かを訴えかけているようだった。あんな風に俺が弾けたらなあ~。
ん…、待てよ……。
三十を過ぎた俺が、初めてピアノを始める。そして彼女の為に一曲でいいから弾けるように挑戦して、ザナルカンドを完成させ聴かせる。そうすれば、ビックリしつつも喜んでくれるんじゃないか……。
こんな俺がピアノを弾けたら……。
秋奈に感動を与えられるんじゃないだろうか?
「ゴホッゴホッ」
ふいに咳が出た。何故か無性に咳が止まらない。これじゃあまるであの天才ピアニスト、デュークみたいだ。ピアノを弾こうと思う俺に対し、どこかで応援してくれているのかな? まあ彼の咳だけ真似たってピアノは弾けない。よし何か新しい事を始めるにはちょうどいいタイミングだ。心機一転頑張ってみるか。
幸い明日は休みである。まず『ノクターン』に行ってみよう。行って頼んでみよう。俺がピアノを…、いや、ザナルカンドを弾けるようにしてくれるかどうか……。
プレステーションの電源を入れ、ファイナルファンタジーⅩのオープニングを眺める。果たしてこの曲を俺は弾けるのだろうか?
何か彼女の為にしてやりたかった。今日は早く寝て、早速明日にでも相談に行ってみよう。
この日、夢を見た。
秋奈と、デートしている最中の夢。
俺の目の前で笑う彼女は、どこか寂しさが同居していた。
何とか笑わせようとする俺。
彼女は笑顔で頷きながら、相づちを打ってくれる。
とても素敵で幸せな時間だった。
ここはどこだろう?
どこかのホテルのスカイラウンジだった。最上階から見える景色。遠くに新宿ビル群の夜景が見える。秋奈は、初めてこのような場所へ来たみたいで、お上りさんのように景色をボーっと眺めていた。
そんな姿も可愛らしい。
一日、会っただけで、こんな気持ちになるなんて、自分でも信じられなかった。
透き通った青色のカクテルが、運ばれてくる。軽く匂いを嗅ぐと、淡いフレッシュライムとラムの香り。匂いと色でスカイダイビングだと分かった。もう一つ、乳白色のカクテルが置かれる。レモンとラムの香りが鼻をつく。XYZだと、すぐに分かる。
俺はスカイダイビングを手に取り、秋奈はXYZを持つ。こぼさないように、そっと乾杯した。
乳白色のカクテルが、秋奈にはよく似合う。ホワイトレディや、バラライカなどのカクテルも、きっと似合うだろう。
彼女の為にオリジナルのカクテルを作ってあげたい。そう思った。
背後から聴こえるピアノの演奏が、神秘的な空間を作り上げる。何かのクラシックのような音楽。俺はステージのほうを振り向いた。
髪をなびかせながら優雅に感情を込めて弾く、女性ピアニスト。もし、あそこで俺が弾いていたらと、想像する。そんな格好いい姿を秋奈に見せてみたい。
待てよ? これは夢の中なんだ。きっと俺の好きなように演奏できるさ。俺は威風堂々と席を立ち、ステージへ進んでいく。
ざわめきだすラウンジ内。客全員が俺のほうを向いている。ピアニストは一礼して席を譲ってくれた。ゆっくりと腰掛け、ピアノと向かい合う。
鍵盤の上に指を乗せた。
俺は勢いよく鍵盤を叩く。
「……」
音が鳴らない……。
もう一度、鍵盤を叩く。それでもピアノは無言のままだった。
客席から失笑が漏れる。俺はオロオロと立ち上がり、ラウンジ内を見渡した。
秋奈までが、俺を見て笑っていた。
目が覚めると自分の部屋にいた。ゲームをつけっぱなしだったので、ザナルカンドの音楽が聴こえている。
「夢か……」
口に出して呟いてみる。うん、夢だったんだ。それにしても本当に嫌な夢だったなあ。現実じゃなくて良かった。
秋奈と出会ってから、俺は少しおかしい。冷静に物事を円滑に運んでいたはずなのに…。急にピアノを習いだしてみようと思ったり、一回しか逢った事のない秋奈の事ばかり考えている。
もしかしてこれが、好きになるという感情なのだろうか。ずっと勝手に女が俺に惚れるものだと思っていた。今までそうして生きてきた。現在までその考えが間違っていると思った事はない。
でも、何だろう。このせつなくむず痒い気持ち。どう説明すればいいのか。
「抱きたいんだろ、秋奈を……」
わざと声に出してみた。しかし何かが違う。単に抱くだけなら、彼女よりいい女はもっといる。顔だってスタイルだって、よりいい女は腐るほど抱いてきた。
今までで危なかったのは、出会い系サイトで知り合った女だけである。流行り始めの頃、俺も携帯でハマった事があった。もちろん最初は顔も名前も声も知らない。だからこそその事にトキメキも感じた。俺はいつも正直に自分を出し、接していた。だから相手も俺だけには正直に自分の事を話しているのだと思い込んでいた。実際に会ってみると、自分の想像とは程遠い酷い女性ばかりだった。うまい具合に仕事が入ってしまったと言い訳をして、逃げたケースがほとんどである。
一度『ユウナ』という名前の子に出会った事があった。とても性格のいい子でメールのやり取りをする度、俺は癒された。当時俺は自分の気持ちを伝えた。
《俺は君の顔も声も知らない。でも君の優しいその性格だけで充分だ。俺と実際に会い、つき合ってほしい》
『ユウナ』は喜んで返事をくれた。二人の仲がどんどん縮まっていくと、彼女はどんな感じの女性なのだろうと勝手な想像をするようになる。前に顔とか見るとかじゃなく、そのまま会おうと言ってしまっていたので、こちらから写真を送れなんて言えやしない。それでも俺は、壮大な妄想をしながら実際に会う日を心待ちにしていた。
初めて会う日。場所は新宿駅アルタ前にして、俺は新宿プリンスホテル地下一階にあるイタリアンレストラン『アリタリア』を予約した。知り合いのマネジャーへ「今日は今までで一番大切な女性を連れてきますので」と前日にお願いまでする始末だ。部屋も普段では泊まらないようなスイートルームを予約し、この日の内に結ばれるつもりでいた。そして近所の化粧品屋へ行き、女性がもらったら喜ぶ化粧品を聞く。三万円分の化粧品を買ってプレゼント用に包んでもらい、豪華バラの花束まで注文して部屋に置いておく。それだけ期待度は大きかった。
会う前、彼女から電話があり、「さっきね、参っちゃった。私の弟の近所の同級生なんだけど、私が出掛けようとすると『ユウナ姉ちゃん、どこ行くの?』って聞いてくるの。龍一さんとデートなんだって言うと、『駄目だよ。そんな奴と会っちゃ』って駅まで一緒に着いてくるんだもの」なんて言うものだから、さらに俺の期待は膨れ上がる。
実際に会う段階になって俺は正直固まってしまった。想像していた女性と『ユウナ』はかなりかけ離れていたのだ。どうやってこの子を説得して帰そうか、そればかり考えていた。「プレゼントを用意してくれたんでしょ?」と恥ずかしそうに話す『ユウナ』。俺は無下にできず、食事を終えると部屋まで彼女を連れていくハメになる。
化粧品とバラの花束を手渡すと、『ユウナ』はゆっくり目を閉じた。ここでキスをしてしまったら、俺は生涯この子と一緒に過ごす事になる。俺は漫画『あしたのジョー』のラストシーンを思い出す。チャンピオン、ホセメンドーサに挑む矢吹丈が控え室を出る前、白木陽子が「あなたが好きなの」と止める。丈は葉子の肩に両手を添え、「世界で一番強い男が待っているんだ」と去っていく。俺はその光景を頭で描きながら『ユウナ』の両肩に手を添え、「会ったばかりだろ? それでこういうのってよくないよ。今日は帰ったほうがいい」と静かに言った。それ以来俺は、『ユウナ』と連絡を取る事はもちろんない。期待していた分、そのあとの落ち込みようといったらなかった。
ジャズバーのマスターには、未だにこの件で馬鹿にされる。
そういった過去の出会い系とは違い、秋奈とは運命的に出会ってしまったのだ。この喜びと感動をどう表現したらいいのだろう。導き出した答えは一つしかない。ピアノだ。俺はこれからピアノを始め、秋奈へ捧げるのだ。
ファイナルファンタジーⅩのCDケースを手に取る。
ザナルカンド……。
中に楽譜があるかどうか調べた。
「……」
そんなもの、あるはずがないのだ。
時計を見ると、お昼近くになっている。近所にできた楽譜屋の『ノクターン』は、今日やっているかな。とりあえず行ってみる事にした。
ガラス張りで外から丸見えの作り。中には昨日話した四十台のおばさんがいる。俺はドアを開けて中に入った。
「こんにちわ」
「あら、こんにちわ。昨日は、早速お買い上げいただき、ありがとうございました」
おばさんは人の良さそうな笑顔で明るく話している。素直に好感が持てた。
「いえいえ、とんでもない。実はですね。今日はお願いがあってきたんです」
「はい、何でしょう?」
馬鹿にされるかもしれない……。
でも、俺はザナルカンドを弾けるようになりたかった。そしてどうしても秋奈に聴かせてあげたい。
「ファイナルファンタジーって、知ってます?」
「うーん、何のジャンルでしょうか?」
やはり知らないか。これ以上聞くのはやめておこうか。いや、聞くだけ聞いてみよう。
「ゲームです。ゲームミュージックなんです」
「へえ、すごいですね。最近のゲームはCDにもなっているものもありますからね。ちょっと待って下さい。楽譜があるかどうか調べてみます」
おばさんはマッキントッシュのパソコンと向かい合い、モニタとしばらく睨めっこしている。俺はゲームをするぐらいしかパソコンを活用した事がないので、黙って見ているだけだ。
「あ…、ありましたね…。いくつなのでしょうか?」
「え、何がです?」
「ギリシャ数字で、ⅩやⅨ…。色々ありますよ」
「テ、Ⅹです。Ⅹ……」
「ああ、ありますよ。CDじゃなく楽譜で、ですよね?」
「そ、そうです!」
ないものだと思っていた。思いがけない嬉しさに、自然と俺の声は大きくなる。心が弾む。毛穴が全開に開き、興奮していた。
「すみません。それ、注文できますか?」
「ええ、もちろん」
おばさんは俺の喜びようを見て、クスクスと笑っていた。
「もう一つ、お願いがあるんです」
「はい、何でしょう?」
俺は覚悟を決めた。やるしかない。これだけ条件がそろったのだ。
「その楽譜が届いたら、俺に……。ピアノを教えてくれますか?」
「え?」
突拍子もないのは充分自覚していた。おばさんは…、いや、これから教えを乞うのだから先生か。
「俺、ピアノなんて、今まで弾いた事ありません。でも確か、最初はバイエルンからやるんですよね?」
「フフフ、バイエルね」
「そう、そのバイエルからとかじゃなくて、さっき頼んだ中に、どうしても弾きたい曲があるんです。それを弾けるように教えてもらえますか?」
無茶な要求なのは百も承知だった。でも、俺は真剣に頼んでいた。頭を深く下げ、目で必死に訴える。
「ええ、いいですよ」
先生はこっちの予想に反し、あっけなく簡単に答えた。拍子抜けしたが、もう一度、確認してみる。
「ほ、本当ですか? 俺、ピアノなんてやった事、一度もないんですよ?」
「ええ、大丈夫ですよ。頑張りましょう」
これで、秋奈にピアノを弾いてやれるかもしれない。天にも登るような気持ちだった。あとは俺の努力次第である。
「ありがとうございます」
心からお礼を言い、もう一度深々と頭を下げた。
そういえば習うのはいいが、月謝はどのくらいかかるのだろうか。
「あの、お金はどうすればいいですか?」
「うーんと、そうね…。うちは週一のレッスンで、月謝が一万ニ千円だから…。一時間で三千円の計算になります」
俺の性格上、定期的に通うのは無理である。
「俺、今は新宿まで仕事へ行っています。定期的に通うの難しいので、来たい時習いに来てもいいですか?」
「ええ、いいですよ」
人生、不思議なものである。昨日知り合ったばかりの人間が、今日俺の先生となった。
先日見たデュークの不思議な夢。
秋奈と出会ったタイミング。
近所に『ノクターン』のオープン。
ピアノを弾いて捧げたいというこの想い。
これらすべてが噛み合うと、どうなるのだろうか?
偶然かもしれないが運命的なものを感じ、鳥肌が立っていた。
早速キーボードを購入しに行く。少し気が早い感じもしたが、勢いというのが大事な時だってある。俺はデパートにある楽器屋へ向かった。
俺がピアノを弾けたら、まわりの人間はどんな反応をするだろうか。秋奈は喜んでくれるかな……。
四階の楽器屋へ到着すると、店内を見て回る。黒いスーツを着た俺。他の客層と、少し空気が違うような気がした。みんな、真剣に音楽へ取り組んでいる人ばかりなのかもしれない。
まあいい。俺だって、これから真剣に取り組もうと思っているんだ。誰にあれこれ言われる筋合いはない。
綺麗な音色が聴こえてきた。ピアノでもギターでもない音色。俺は音のするほうへ行く。すると、バイオリンを大きくしたような楽器を股の間に置いて、弦を引いている女が見えた。こんなでかい楽器もあるのか。素直に感心した。
音色が突然やんだ。
でかいバイオリンみたいなものを弾いていた女が、俺をジッと見ていた。しかも嫌そうな表情をしながら……。
仕方ないので、その場を離れる事にする。
多数のキーボードが、羅列するコーナーへ向かう。するとさっきのバイオリンのお化けみたいな楽器の綺麗な音色が聴こえてきた。
「ちっ、あのアマ……」
小声で呟いた。人に演奏を見られるのが嫌なら、こんなところでするなってんだ。
キーボードが置いてあるコーナーへ行き、ひと通り鍵盤を叩いてみる。電子音だけあって、どれも同じように聴こえた。デザイン的に黒が好きな俺は、キーボードの値段を見ながら吟味をする。様々な種類の音色。ボタン一つ押すだけで、こうも変わるものなのか。
散々迷った挙げ句、俺は黒のキーボードを選ぶ事にした。
家に戻り、早速電源を入れるみる。キーボードにつく機能は、説明書を見ないと分からないぐらい多かった。ピアノの音の種類だけで五種類。中にはギター、バイオリンのような弦楽器の音もあれば、フルート、サックスのような木管楽器もある。何の為にあるのか分からないが、鐘の音まで入っていた。
鍵盤の上にある小さな液晶の画面。そこには鍵盤が簡素に書かれている。試しに鍵盤を叩くと、液晶画面も同じ場所を表示した。面白い。俺は適当に鍵盤を弾いてみた。音を変えるだけで、それなりのメロディとして聴こえるから不思議である。
その日は、色々と適当にキーボードをいじっていた。早くピアノを弾けるようになりたい。早く秋奈にザナルカンドを聴かせてやりたかった。
休み明けなので新宿へ行くのが気だるい。せっかく秋奈とピアノの事で幸せを感じていたのに、現実を見なければならない。悩みの種はあの不潔極まりない倉庫である。あそこへ入った瞬間、汚れた匂いが鼻から毛穴から、全身に沁みていくような気さえした。
それに北方のあの意地汚さ。まさに掃き溜めの巣窟という表現がピッタリの場所である。あんなところで働いていて、果たしていいものだろうか?
真っ当な就職口でも探そうかな……。
そんな事を考えている内、電車は西武新宿駅へ到着した。
一番街通りを通過しコマ劇場横へ差し掛かった時、俺はふとハンバーガーが食べたくなった。出勤時間までまだ余裕はある。北方も食べるだろうと、二人分をテイクアウトで注文した。
その時だった。どう見ても堅気ではない二人が怒鳴り合いを始めた。一人は短い茶髪の男で、もう一人はメガネを掛けた口髭の男。ファーストフードのアルバイトの子は、その光景を見てビックリし固まっている。やがて二人は怒鳴り合いからエスカレートし、フルスイングでの殴り合いをおっぱじめた。道の向こうで三名の警察官の姿が見えた。
茶髪の男の鼻から血が滴り落ちる。口髭メガネのレンズにヒビが入る。
ヤクザ者同士が勝手に因縁をつけあって争うのは自由だ。しかしこんな店の近くで白昼堂々というのがまずい。しかし警官もヤクザ同士の喧嘩に気付いている。その内止めに入るだろう。
口髭メガネの動きが止まり、連続で茶髪のパンチが炸裂した。そのまま口髭メガネは仰向けに倒れ、茶髪は馬乗りになる。まさかまだ殴るつもりか? 俺はダッシュして間に入った。
茶髪が追撃しようと右腕を後方に開いた瞬間、横から俺は右腕を首に回しガッチリとロックする。相手の右腕も一緒に挟み込んだ状態で、そのまま力づくで引き剥がす。
「何だ、テメーは!」
いくら喚かれても暴れても俺は手を離さない。茶髪は右腕の自由を奪われた状態のまま、必死に振りほどこうとしている。
「離せ! 離しやがれ!」
「おい、あんま暴れると、このまま頚動脈絞めて落としちまうぞ」
脅しじゃないのを分からせる為に、俺は茶髪の頚動脈を軽く力を入れ絞めた。そこでようやく茶髪も大人しくなる。
「これ以上こんな状態で殴ったら、下はアスファルトだぞ? 死んじまうだろうが」
「分かったよ。分かったから離せよ」
「もう暴れるなよ?」
ロックを外すと、茶髪は右肩を押さえながら黙っていた。その時、仰向けで倒れていた口髭メガネが「まだ終わってねえんだよ!」と顔面血だらけのまま立ち上がる。メガネは両方とも割れ、酷い有様だ。
「黙ってろ。おまえは俺が止めなかったら、死んでいたかもしれないんだぞ?」
「うるせー!」
「うるせーじゃねえ。こんな白昼堂々喧嘩をおっぱじめやがって。今頃起き上がっっといて、やる気になってんじゃねえぞ。おまえの負けなんだよ。それぐらい認識しろ」。それに他の人間に迷惑だろ。喧嘩やるなら目立たない隅っこで遣り合えよ」
そこまで言われると、口髭メガネは黙ってしまう。道の向こうにいる三名の警官は、俺たちの様子を黙って見ているだけで近づこうとしない。
「あんた、どこの組の人間だ?」
茶髪が声を掛けてくる。
「おいおい、俺は一般人だって。一緒にすんなよ」
「俺はよ、昨日務所から出てきたばかりなんだ。あんた、笹倉連合の宮部組長って知ってっか?」
「ああ、名前ぐらいは聞いた事ある」
「言っといてくれ。この根岸安治が昨日務所から出てきたって」
「おまえ、人の話をちゃんと聞いているのか? さっきから俺は、一般人だって言ってるだろうが。そんなの勝手に伝えに行けよ」
まったく人の話を何も聞かない男だ。こんな馬鹿共は放っておいて、さっさと『マロン』へ向かうか……。
俺はテイクアウト用に包まれたビニール袋を受け取ると、ヤクザ者二人を置いて仕事へ行く事にした。その場から俺がいなくなると、二人は睨み合い、再び胸倉をつかみだしている。もう勝手にしやがれだ。俺は気にせず歩く。
すると前方にいた三名の警官が「ちょっと君」と声を掛けてきた。
「何だよ?」
「職質だ」
こいつら頭がおかしいんじゃないだろうか。
「職質? おまえらふざけんなよな。あそこで今もそうだけど、さっきもヤクザ二人がフルスイングで喧嘩をしていたの見てるだろうが? それを見ないふりして職質だ? ほれ、まだあの二人、胸倉をつかみあってるぞ? さっさと注意しに行けよ」
街の治安を本来守るはずの警察。それがこのザマは一体何だろうか? こういう連中は税金泥棒と呼ばれても仕方がない。俺は警官を乱暴にどかし、『マロン』へと向かった。
店へ到着するのを待っていたかのように、北方の女、ミンミンが下に降りてくる。
「神威さん、サインいいか?」
例の婚姻届の保証人の用紙をテーブルの上に置き、名前を書けと言ってくるミンミン。この保証人という事を少し調べてみたが、結婚の保証人に関してだけ言えば、大した責任などないらしい。ここで保証人になっておき、少しぐらい北方へ恩を売っておくか。
そう感じた俺は用紙を広げ、名前を書こうとした。
「ん?」
用紙をちゃんと見てビックリした。中国人の女性の名前で片側のみ細かく記載してあるだけで、男性の記入欄は空白のままだった。肝心の北方の名前がどこにもないのだ。こんな訳の分からないものに、自分の名前などサインできるか……。
「ちょっと、ミンミンさん。これ、北方さんの名前ないじゃないですか?」
うっかり名前を書いたばかりに気付けば偽装結婚なんてハメになっていたら、目も当てられない。一体どういうつもりだ、この女……。
「早く神威さん、名前書く」
「これじゃ書けませんって……」
「あとでもうじきパパ、ここに来るでしょ? その時、それに名前書く。そう言っといて」
そう言いながらミンミンは用紙を置いたまま『マロン』を出て行ってしまう。何ていい加減な人間なんだろうか? ここまで非常識な人間がいるなんて信じられなかった。
誰がこんなものに名前など書くかってんだ。客が入ってきたので、俺は用紙をテーブルの引き出しへしまい、仕事をする事にする。
夕方頃になってやっと北方が店に来た。俺はミンミンから言われた事を告げ、用紙を見せると「そんなの早く名前を書いておけ」と不機嫌そうに言われた。
何様のつもりなんだ、この男は……。
あまりの理不尽さに苛立ちが走る。
「あのですね、肝心の北方さんの名前が書いてないじゃないですか? そんなものに何で俺がサインできると言うんですか」
「うるせー、早く名前書けばいいだよ」
「申し訳ありませんが、北方さんがご自分の名前を書かない限り、お断りさせていただきます」
「じゃあ早くそれを寄こすだよ」
ひったくるように用紙を取り上げる北方。何でこいつは自分の結婚なのにここまで偉そうなんだろうか? 本当に神経を疑ってしまう。
恩を感じるどころか逆に怒っている北方は、人間的に絶対間違っている。
「ほら、これでいいだろ。早くおまえも名前を書け」
あくまでも偉そうな北方。俺はボールペンをひったくるように取ると、イライラしながら保証人の欄へ自分の名前を書いた。こんな事、俺がする義理なんて何一つないというのに……。
秋奈と約束したデートの日まで、まだ一週間ほどある。待ち遠しくて仕方がない。彼女の事を思い浮かべるだけで幸せな気分になれた。
しかしそれも束の間、臭い倉庫へ行く度現実を思い知らされる。そう、俺はこんな裏稼業でも底辺の店で働く、ただの新人なのだ。それでもまだ最低限、金を稼げていれば格好もつく。『ワールド』末期の頃は月に百五十万から二百万円ぐらいの金額を手に入れていた。それが今じゃ、月三十万もいかない。現状の立ち位置を考えると、やるせない気持ちになった。
今は秋奈の為に、ピアノを弾き始める事だけが明るい希望でもある。あとの仕事や生活といったら惨めなものだ。
昼の十一時に裏ビデオ屋『マロン』を開け、北方が来ると倉庫へ行く毎日。
毎日が憂鬱だった。
キーボードも買った事だし、家に帰ったらピアノを弾こう。そしてあの先生に教えを請い、一刻も早く、秋奈へザナルカンドを捧げたい。
倉庫は変わらず悪臭を放っていた。この臭さが俺の体臭に入り混じったら、どうしてくれるんだ。そう文句を言いたくなるぐらいである。テーブルの上から床、至るところすべてにゴキブリが這っている恐怖の部屋。ここでは嫌悪感しか覚えない。
俺は『マロン』から缶コーヒーが入っていた空のダンボールを持ってきて、いつも床の上に置き、その状態で座るようにしていた。これでもまだ安心はできない。ゴキブリの奴らはこの上だって平気で、ノソノソと這い回ってくるのだ。
倉庫の電話が鳴る。配達の注文だろう。受話器を取ると、北方の声が聞こえた。
「ビデオ……。『バカン、イヤン、もう駄目』、『レイプレイプレイプ』、『缶コーヒー入るかしら?』…。以上、三本」
「はい、了解です」
俺は、各棚の中から注文されたビデオを名前順で探す。どうもこの作業が苦手だった。野中さんの割り振りでジャンル別に分かるよう置いてあると言うが、何が『和物』でどれが『熟女物』なのかが分からない。こんな全部で何百種類の中から、三本のビデオを探せと言うのだ。慣れないとできない作業である。
それでも何とか探し出し、黒いスポーツバックにビデオをしまい込む。倉庫を出て外へ出ると、俺は自転車へ飛び乗り『マロン』まで急いで向かう。これが運びの仕事だった。
裏ビデオ屋は大きく分けて二種類のタイプに分かれる。
一つは『マロン』のように商品の受け渡しを別にする店。もう一つは店内にすべての商品を置き、その場で客へ渡す店である。
金は店で受け取り、品物は外から。北方曰くこれが警察に捕まらない一番いい方法だと、以前豪語していた。
確かにそれはそうだろう。普通に考えれば想像がつく。裏ビデオを売っているという事が『猥褻図画』という犯罪になるのだ。ビデオの場合も現行犯逮捕。店に品物がなければ警察も売る現場を押さえない限り、安全だと北方は言っていた。
こんな裏ビデオを売っている仕事で捕まりたくなんかない。常々そう思う自分がいた。仕事自体は非常に楽な仕事だ。来た客にだけビデオやDVDを売ればいい商売なのだから。
この街へ最初に来た時働いたゲーム屋『ダークネス』のオーナーである鳴戸が言っていた台詞を思い出す。
「女のあそこで、飯なんか食いたくないじゃないですか。その点ゲーム屋は賭博。風俗やビデオと比べても格好いいですよね」
確かにその通りだと感じる。ビデオ屋で働いているなんて知人には言えない。ましてや秋奈には絶対に知られたくない……。
つまり俺は、今しているこの仕事を格好悪い商売だと思っているのだ。
どんな形でもいい。現状を何とか打破したい気持ちでいっぱいだった。
暇な『マロン』の仕事。俺はこの時間を使い、絵を描いてみる事にした。ピアノを目の前で弾きたかったが、どうやら間に合いそうもない。
学生時代、美術部ではなかったが不思議と絵は得意分野だった。但し写生会のような決まりきった背景を描く事や人物画は苦手である。想像で好きなように描く。そうして出来上がった作品のほとんどは入選し、上野美術館にも飾られた事があった。
得意な絵をまず見せておこう。
それにしても絵を描くなんて高校の時以来だな。さてどうするか?
俺は出勤前、東急ハンズに寄り、発泡スチロールでできたボードの板を買ってきた。これは『ワールド』時代、ビンゴを作ったり店頭の告知用に使えたりする優れもので、発泡スチロールの上に上質紙が貼ってある。みんな、この上にカッティングシートで切り文字をして貼っていた。カッターを使ってこのボードを横七センチ、縦十センチの大きさに切り分けた。
さすがに仕事中なので、すぐ片付けられないとまずいだろう。だから絵の具で描くのは難しい。じゃあ何で描こうか?
ゲーム屋でよく使っていたポスカ。『ロイヤル』を撮ったプリンターによくポスカで日付と出した客の名前を書いていたっけな。あれを使おう。
どんな絵を描いてみるか?
頭の中で思い浮かぶシーンをそのまま描くしかないだろう。星の奇麗な夜空の草原の絵を思い浮かべる。俺は水色のポスカをボードの上に塗っていく。薄い色から塗っていき、渇くと次の色を重ねていくというやり方で絵を描いていった。幻想的な絵にしたい。
慎重に色を塗っていく。細かい部分は余ったボードの上にインクだけ出すようにして、楊枝やティッシュで丁寧に細かく描き込んでいった。
何日も時間を掛け、絵は完成する。
カッティングシートの透明タイプのもので絵を包み込み、渇いた布で何度も優しく擦っていく。こうする事で水に濡れても大丈夫な絵になった。
星が無数にある夜空の公園。そこに一人の人影がタバコを吸っている。
自分で見ても、いい感じの絵だと思う。これを秋奈へプレゼントしてみようじゃないか。
今日は待ちに待った秋奈と初のデートである。心がウキウキしていた。今までたくさんの女を抱いてきたが、このような気持ちになる事は初めてだった。
時刻を確認すると、昼の十一時。約束の時間は駅の改札前でニ時だったので、時間的にかなり余裕はある。
ゆっくり風呂へ入り、ヘアースタイルを念入りに整える。少しでも秋奈に格好よく見られたかった。
あとデートまで一時間…。妙にそわそわする。
俺は近所の『ノクターン』へ、顔を出す事にした。
まだ、店内は片付いてないようで、先生は楽譜を整理をしながらとても忙しそうだった。俺に気づくと、微笑んでくれる。
「先生、忙しいところ、すみません。俺、キーボードを買ったんですよ」
「あら、やる気満々じゃない」
「ええ、もうブリブリですよ」
俺の話し方に先生は笑い転げていた。こっちが思うより接しやすい人かもしれない。
「あ、そういえば、明日辺り頼んでいた楽譜、届きますよ」
「え、ファイナルファンタジーⅩの楽譜ですか?」
「ええ」
明日からでもピアノを習える。そう思うと俺は嬉しくて飛び跳ねた。その時、携帯が鳴った。
着信ではなくメールだった。見ると秋奈からだ。
《ごめんなさい、神威さん。今日、私の母が事故に遭ってしまい、今、地元の病院へ向かっています。今日、本当に楽しみにしていたのにドタキャンしてしまい、ごめんなさい。こっちに帰ってきたら、また、連絡しますので…。私の勝手な都合を押しつけてしまい、本当に申し訳ないです 秋奈》
天国から地獄とはこういう事を言うのだろうか。あれだけ舞い上がっていた気分が、急下降で落ちていく。物凄いショックを受けた。だけど、秋奈のメールの内容は信じられた。不思議だ。今までなら絶対に信じていなかっただろう。彼女に関しては理屈抜きで、何故か信じられるものがあった。
「先生、では明日また来ますね。失礼します」
「はーい、お疲れさま」
急いで部屋に戻り、秋奈へ返信のメールを打ちだした。
《大変だったね。お母さんは大丈夫なのかい? 怪我とか何もなければいいけど…。今日は仕方ないよ。俺のほうは問題ない。今度落ち着いてからゆっくり食事へ行こう。気をつけて実家へ帰ってね 神威》
メールを送信する。慌てて帰る秋奈の姿が浮かんだ。俺は彼女の母親が無事でいるように心の中で祈った。
次の日の朝になると、早起きして『ノクターン』へ行く。
先生は笑顔で注文した楽譜を手渡してきた。ファイナルファンタジーⅩの楽譜…。これで俺はザナルカンドを弾ける準備がやっと整ったのだ。
ページをめくり、パラパラと簡単に眺めた。ピアノの音符の羅列がびっしりと書いてある。当たり前だ。これはあくまでも楽譜なのである。
目次を見ながらザナルカンドのページを見つけた。
「先生、これなんです。俺の弾きたい曲」
「ちょっといいかしら」
楽譜を先生に渡す。真剣に眺めている間、大人しく待っていた。先生がグランドピアノの前に向かう。
「いい? 私が一度、弾いてみるね」
「よろしくお願いします」
先生の指がピアノの鍵盤の上を踊るように動かし出した。グランドピアノから、奏でられるメロディ……。
それはまさしくあのザナルカンドそのものだった。
感動のあまり、全身の毛穴が全開に開く。俺もこんな風に弾いてみたい。自分の理想の姿が今、目の前にある。
しばらく鍵盤の上を急がしそうに動く指先をずっと見つめていた。
耳に聴こえてくる音から、秋奈を連想した。彼女にはこの曲がピッタリ似合う。どこか悲しげで、いつも一生懸命な彼女。ついて回るのはいつも、はかなさとせつなさだった。絶対にこの曲を弾いてやる。そしていつか秋奈に聴かせるのだ。俺は心に固く誓った。
ザナルカンドの曲が弾き終わる。ピアノって素晴らしい。心の底から思った。
「すごいですね、先生。めちゃめちゃうまいです」
いつの間にか自然と拍手をしていた。
「いい曲を選びましたね。とてもいいメロディだわ」
「ありがとうございます。俺、この曲、弾けるようになりますか?」
「頑張ればできます。大丈夫ですよ」
初めて習うピアノ。三十歳を越えてから、初の挑戦でもあった。
「よろしくお願いします」
返事をする代わりに、先生はニコっと微笑んだ。
今のこの興奮をすぐピアノに投影したい。時計を見ると九時だった。十時の特急に乗れば、何とか仕事には間に合うな……。
「先生、たった今から習ってもいいですか?」
「え、だってこれから仕事なんでしょ?」
「ええ、でも最悪少しぐらい遅れても構いません。一時間だけお願いできません?」
「う~ん、分かりました。それでは早速始めましょうか?」
先生は困った表情をしながらも、どこか嬉しそうだった。
そういえば秋奈から昨日メールがあった以来、連絡がない。まだ実家で母親の看病でもしているのだろうか?
電話をして彼女の声を聞きたかったが、そんな野暮な真似はやめておく事にした。親が事故に遭い、心配している状況なのに失礼である。
早く彼女に逢いたい……。
しかし今は無理なのだ。やるせない気持ちになる。
今は気持ちを切り替え、一日でも早くピアノを覚えるようにしよう。
『ノクターン』のグランドピアノの前に向かう俺。左側には先生が座っている。
「最初にここと、ここと、ここに指を置いてみて」
言われるまま、恐る恐る鍵盤の上に指を置く。
「はい、最初にそれを同時に鳴らして」
自分の鍵盤を押した音が聴こえる。ザナルカンドの一番初めの音だ。すぐに分かった。たった一つの音でも、三つの鍵盤を一斉に押す。俺は音符がまったく分からないので、それ以上は弾けなかった。
「先生、お願いがあるんですけど…何も」
「はい、何でしょう?」
「楽譜に音符にカタカナをふってもらえませんか?」
「構いませんよ」
嫌な顔一つせず先生はコピーをとった楽譜へ、丁寧にカタカナをふりだした。最初の左手の押さえる音は『ミ』と『シ』。右手は『ミ』。
「あー、神威君。駄目よ。左手は中指で『ミ』、親指で『シ』を押さえる。右手は中指で『ミ』にして」
「は、はあ……」
「タンタンタンタンタンタンターン……」
先生は口で、ザナルカンドの始めを表現している。
「これで、一小節ね」
「はあ……」
「例えばね、四分の四拍子とか聞いた事あるでしょ?」
「ええ、それなら」
「四分音符というものが、四つ…、四拍子が、一小節の中に入っているの」
俺にはよく意味が分からなかった。不思議そうな顔をしていると、先生はさらに説明を続ける。
「うーん、そうねえ。メトロノームって分かる?」
「はい、あのカチッカチッって、やつですよね」
「そうそう、それが四回打ったのが、四分の四拍子で、一小節なの」
「よく分かりませんが、要はそういうものだって、覚え方してもいいでしょうか」
思わず、苦笑いをする先生。
「じゃあ、四分の三拍子だと?」
「メトロノーム三回分で一小節ですよね」
「そうそう」
算数の公式のようなものだと感じる。理屈じゃなくて、1+1=2…。そのようなものだという認識で覚えないと駄目だろう。あまり深く考えないようにした。先生は続けて話した。
「ピアノはね、各鍵盤を押さえるにしても、ちゃんと押さえる指が決まっているようになっているの」
先生は俺の目の前で、手の平を見せるように両手を開いた。
「いい、左手は小指から一、ニ、三、四、五……」
小指が一番で、薬指が二番……。
「じゃあ、左の親指は五番って事ですか?」
「そうね」
左から順番になるのか。
「じゃあ、右手は親指が一番で始まって、小指が五番って事でいいんですよね?」
「そうです、よろしい。この場合は今、左の中指で押さえている『ミ』と親指の『シ』は、左の三と五って感じね。そうすると、次に弾く右の一オクターブ下がった『ミ』が、親指で簡単に弾けるでしょ?」
実際に弾いてみた。タンタン…。うん、本当に弾きやすい。俺は、先生がふってくれた楽譜のカタカナの横に、小さく数字を記入した。三、五と三……。
何度も聴いたザナルカンドの出だし、それを俺は今、弾いている。二つの音を同時に押さえた和音と、右親指で一つの音を押しただけなのに……。
とてもシンプルな行為。しかし、それは紛れのないザナルカンドの音だった。
ピアノを初めて弾く俺でも、頑張ればできるのではないか。
「先生! 俺、今自分でこの音を鳴らしたんですよね?」
「そうよ」
先生は嬉しそうに言った。俺はもっと嬉しい。
「じゃあ、次の音いいですか? あ、それより、楽譜に指の番号を書いてもらってもいいですか?」
「はいはい、いいですよ」
嫌な顔一つせず、先ほどのカタカタに続いて、番号まで記入してくれた。先生の行為に対し、曲が完成するまで絶対に諦めないでやるのが最低限の礼儀だと感じる。今後、どんなに辛くても、途中で投げたりはしない。
結局この日は、ザナルカンドのニ小節分を習った。
口ずさむと、タラタラタンタンターンって感じだ。タラというのは、タンタンと同じ意味。俺が勝手に決めた。ほんの短い部分を一時間掛けて弾けるようになったのだ。これを繰り返せば、俺でも何とかなりそうだ。たった一時間という短さでも密度の濃い時間を過ごせたと思う。
礼を言い、俺はダッシュで駅まで向かう。これで仕事を遅刻していたら何の意味もない。
最後に先生の言っていた台詞が耳に残った。
「あら、あなたって本当に優しい音色を出すのね……」
お世辞にしかとれなかった。
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