家に帰り、布団に包まったまま泥のように眠る。疲れていた。朝起きると、まだ若干酒が残っていた。秋奈から来たメールを何度も読み返す。そして泣いた。
一つ、分かった事がある。
こんな状態になっても、俺は秋奈が好きでいる。
そろそろ仕事へ行く時間だ。赤い目のまま、駅に向かう。
初対面で会ったばかりなのに、いきなりキスをしてくるようなピアニストの女。昔は抱ければ良かったから、ああいう女を好んだ。顔立ちも綺麗だし、女としての魅力も充分に兼ね備えている。秋奈と出会う前なら絶対に抱いていただろう。
秋奈と逢ってから、俺はおかしい。
彼女だけが俺を簡単に癒し、簡単に傷つける事ができる。
俺は何故、こんな窮屈な恋を選んだのだろうか?
電車に乗って揺られながら、何度も秋奈からのメールを読み直した。彼女はどんな想いでこのメールを打ったのだろう。俺は何故考えてやれなかったんだ。十歳も年が離れているのに、これじゃ何の意味もない。
まず彼女に謝ろう……。
《本当に君を傷つけてしまった。深く反省している。君の事を何故もっと思いやってあげられなかったのだろう。今、とても後悔している。本当にごめん。君に俺のピアノを捧げたいよ。 神威》
秋奈へメールを送る。しばらく何も考えずに、ボーっと景色を眺めた。
電車は高田馬場に到着する。次は新宿だ。その間、秋奈からの返事はない。電車のガラスに水滴がつきだした。雨が降り出したのか。
《何度もメールをごめん。今の俺の心境を言います。正直に…。とても辛いです。君からの連絡がないだけで、とても寂しくせつない。でもどんなに辛くても、どんなに雨が降ろうとも、俺は仕事に向かわないといけない……。 神威》
再びメールを送った。祈るような気持ちだった。
電者は新宿に到着する。どしゃ降りの雨が降っていた。
傘も差さずに道を歩く。雨の冷たい感触が心地良い。この濁った心の中を雨で全部洗い流してほしかった。
ズブ濡れのまま歌舞伎町を歩く。
今日もあの『マロン』で仕事か……。
溜め息しか出てこない。いや、そもそもこんな男が秋奈みたいな子を口説こうとしていた事自体、大きな間違いだったのかもしれない。
今の俺は単なる裏ビデオを売る従業員である。こんな何の将来性もない男が、彼女を口説けたとしてどう幸せにするというのだ? ふられてちょうどよかったのである。こんな薄汚い世界にいる俺と一緒にいるなんて、秋奈には相応しくない。
自分を大いに恥じる。この街に来てから俺は、ずっと裏稼業をしてきた。ゲーム屋から裏ビデオ屋へ。すべて警察に捕まる可能性のある仕事である。一時月に百五十万円以上の稼ぎをした事はあった。しかしあれはたまたまタイミングがあったからそうなっただけで、自分の力で稼いだ訳でもない。俺は姑息な男なのだ。
過去、大和プロレスやホテル出バーテンダーをしていた事を栄光に思い、それにすがっているだけのつまらない男。それが今の俺である。
だから女性に対し、仕事はバーテンダーだとつい嘘をついてしまう。今している仕事にプライドも何も持てていない証拠だ。それはそうだ。どうしてあんな裏ビデオを売る仕事に対し、プライドを持てるのか。
そんな事を考えながらも未だ『マロン』で働く俺。自己嫌悪に陥っていた。
裏稼業で毎日を生きている俺がピアノ? 確かに不自然過ぎる。俺に裏稼業は似合う。しかしピアノと俺は似合わない。
ザナルカンドを完璧に弾けるようになれた。でもそれがどうしたと言うのだ。秋奈へ一度だって聴かせていない。単なる自己満足に終わっている。
仕事ではストレスを感じ、女にはふられる始末。
こういうのを駄目な男と言うのだろう。
プロレスも駄目。ホテルも辞める。勤まるのは裏稼業のみ。そんな俺でもピアノが弾けるようになりました。一体こんな俺に何の価値がある?
「チクショウ!」
思わず天を睨みながら怒鳴ってしまう。通行人たちが不思議そうな表情で俺を見ていた。
あれから一ヶ月が経つ。秋奈からの連絡は一切ない。
俺はというと、変わらず『マロン』で働き続けている。
秋奈と出逢ってから四ヶ月以上過ぎていた。もう夏だ。
暑くなると俺は本当に憂鬱だった。何故なら倉庫に行くと、前にも増して匂いが強烈になっているからだ。入口に立っただけで吐き気を催すぐらい臭かった。倉庫の住人である野中は本当に不潔な男である。ゴキブリは季節のせいか倍以上部屋の中を動き回り、そんな中で彼は寝起きをして生活をしていた。風呂にほとんど入っていないせいか、野中に近づくと何ともいえない匂いがする。
夏の暑い日差しの中を自転車で動き回り、裏ビデオを配達する野中。こんな人生を送っていて楽しい事などあるのだろうかと余計な事を考えた。
『マロン』で働いていて、一つ気に掛かる点がある。それは客が紙にビデオの題名を書き注文する際の事だが、DVDとビデオの両方同じ品物がある時だった。いつも電話口で野中は不機嫌そうに「ビデオ? DVD? どっち?」と聞いてくる。その度どちらかをワザワザ言わなければならないもどかしさを感じていたのだ。
これは倉庫に行ったから分かった事なのだが、商品管理がちゃんとできていない。それが明らかな原因だった。
ザナルカンドも完成しピアノに一区切り置いている俺は、仕事以外特にするべき事がない。初めにパソコンを教えてくれた先輩の最上さんへ連絡を取り、何かうまい方法がないか聞いてみる事にした。
快く先輩は俺の願いを承諾し、時間を作ると言ってくれる。
最上さんとの付き合いは十数年以上になる。彼はIT系の会社で働く日本でも有数のプログラマーをしていた。地元という接点がなければタイプも違うので、まったく交わる事がなかっただろう。俺はこの人と同じ地元に生まれ、仲良くなれた事を誇りに思っている。それだけじゃない。この人には数知れない恩義もあった。
二十一歳の頃、大和プロレスを目指していた俺は念願のプロテストにも受かり、有頂天になっていた。同級生たちが祝賀会をやろうと祝ってくれ、調子に乗っていた俺は大和プロレスの合宿前日だというのに飲みに行った。そこで酔った同級生の一人が大暴れし、ヤクザ者十五人と乱闘騒ぎを起こす。止めに入った俺まで警察に捕まり、プロ入りは却下された事があった。それまで応援してくれていた人も警察に捕まった事で、俺を白い目で見るようになる。あれだけ願い、それだけの為に頑張ってきた俺は限界だった。自殺すら考えるようになった。その時そばにいてくれたのが最上さんである。
落ち込み塞ぎ込んでいた俺に、最上さんは言った。
「何があっても生きてくれ。おまえは生きなきゃ駄目だ」
思わず号泣した俺。あれから十年近く経つ……。
早くから結婚をしている最上さんと時間を作るのは難しい。仕事と家庭でいつも忙しそうだった。それでも最上さんはいつだって俺に優しい。
「龍一はいつ休み?」
「え~と今だと日曜日ぐらいですかね」
「仕事が終わるのは何時ぐらい?」
「日によってまちまちですが、通常なら夜の七時。遅い時で夜の十一時半になります」
「じゃあ、毎週金曜と土曜日は夜、そっちへ行くよ」
「そっちへって歌舞伎町へですか? 裕子さん、大丈夫ですか?」
「だっておまえがパソコンに対し、やっとやる気を出したんだ。こうなるとおまえは絶対パソコンが使えるように自分の気が済むまで、しつこく電話してくるだろうからな」
「へへへ……」
「時間を決めて、その時間帯を集中してやっとほうがいい」
「ありがとうございます」
こうして俺と最上さんは金曜と土曜の夜になると、歌舞伎町の漫画喫茶に入り、野郎同士カップルシートでパソコンの勉強をした。専門的な最上さんの教え方は非常に難しい。それでも朝になるまでひたすら習い、俺はエクセルやワード、そしてどうやって映像を編集し、同じ物を作れるかを頭に叩き込んだ。
単なる力自慢だった男が、ホテルで接客術と酒の知識を覚えた。それは歌舞伎町という街で最大限発揮された。いい地位を築き、いい金をもらう生活の日々。
そのシステムが崩壊し、一からの出直しとなった。
新たな裏稼業である裏ビデオ屋を始めた俺。自分がどんどん嫌いになっていく。どうにかして現状を打破したかった。
そんな時期、一人の女と出逢う。美しくはかなさを感じさせる女だった。
今の自分の生き方を恥じる俺は、彼女に捧げたいという名目でピアノを始めた。一心不乱に練習し、一つの曲を完成させる。しかしその曲は、その子へ捧げる事すらできていない。
プライベートで特に何もする事がなく目的意識を失っていた俺に、最上さんからパソコンを教えてもらえる時間は至福の時だった。
週末になると始まる最上さんのパソコンのレッスン。ザナルカンドを覚え、ピアノが弾けるようになった俺だが、秋奈との一件以来どうも気が乗らないでいた。
俺にとって新たなスキルが備わる。どんな難しい事でも根気よく食らいついていく。仕事明けで正直眠かった。しかし最上さんはどうなる? 仕事を済ませ、これから本当なら家族サービスの時間なのに、犠牲にして俺にパソコンのスキルを教えてくれているのだ。
俺は貪欲にパソコンのスキルを吸収していった。どこへ習いにいったところで出会う事のない最高の先生に今、こうして教わっているのだ。
今までゲームしかできなかった俺だが、ようやくパソコンの本質というものを理解できるようになる。
パソコンは赤ん坊と同じ、但し知識の非常に高い赤ん坊。最上さんの言っていた台詞の意味合いが少しずつ分かってきた。
今のパソコンはどれだけアプリケーションソフトを自由に使いこなせるか。プログラムとかシステムでない限り、そこに尽きる。そう最上さんは言う。
今せっかく裏ビデオとはいえ、映像に携わる仕事をしている。これまでDVDは映画などを買うものという認識しかなかった。どうやったらDVDができるのか? その細部に渡る仕組みまで理解したら、客に質問されても何だって答える事ができる。
パソコンというものを俺の中で突出したスキルの一つにしたかった。
市販されているDVDのほとんどは、プロテクトといってコピーができないようガードされている。そのプロテクトをどう解除し、中身をどうするべきか。最上さんは専門分野でもないのに、俺が質問した事を自分で調べ上げ、次に会う際には必ず答えられるように努力してくれた。
幸い漫画喫茶には各種のDVDがそろっている。俺たちは一枚ずつ借りて、同じものを作れるよう色々と試してみた。
空のDVDーRメディア。この当時安くても、一枚三百二十円ぐらいした。俺は『マロン』でもらう『デズラ』から惜しみなく数十枚、何度も購入した。
DVDをコピーするのに分かった事。まずはプロテクトを外す作業から始まる。市販されているDVDの容量は七、八メガぐらいある。本来DVDは四・七メガしか入らない。これは片面二層と呼ばれる方法で焼くからできる事であるようだ。俺の場合、片面二層にはできないので、この大きなデータを四・七メガ以内に縮小しなければならない。この時データは三つに分かれる。映像部分、音声部分、字幕部分。これらの中で例えば中国語の字幕はいらない。音声もいいかといった具合に選んでいくのだ。
その点でいえば、裏ビデオは単純明快だった。本来の四・七メガ以内に映像は納まっており、プロテクトもついていない。ただそのままコピーすれば同じ物が作れた。
ワードを使った企画書の使い方。そしてエクセルを使った表計算。様々な事を俺は最上さんから教わる。
段々とパソコンが手放せなくなってきた自分がいた。
早速最上さんから教わった事を仕事に活かしてみる。まずはエクセルを使っての商品管理だ。
俺は『マロン』へ到着すると、ノートパソコンを開き、壁に貼ってあるDVDのジャケットをコピーしたお粗末なものを眺める。
エクセルを起動し、作品ごとのタイトル、出演女優、ジャンルなどをどんどん打ち込んでいく。番号つける事で商品は整理され、電話口で「『人妻の乱れ』をお願いします」なんてもう言わず番号を言えば済むのだ。
しかし壁に貼ってあるものを一つ一つ見ては打ち込む作業は、とても面倒で非常に時間が掛かった。
北方が降りてきて、パソコンで作業をしている俺を見る。何をしているのかさえ理解できない北方は、小馬鹿にした表情で「おまえ、何をしてるだよ」と言った。
「作品の整理をしているんです。エクセルを使って商品を整理すれば、注文の際や客に聞かれた時、一目瞭然ですからね」
せっかくここでこうして働いているのだ。ブツブツ不平不満を言うぐらいなら、売り上げ向上に一役買い、前向きに仕事をしたほうがいい。表社会でパソコンを導入している会社は当たり前にあるが、裏稼業でこうしてパソコンを導入したのは俺が初めてだろう。
「さっぱりおまえの言ってる事は分からん」
どうでもいいといった感じで北方は、上にある『グランド』へゲームを打ちに行ってしまう。あんたの店を儲けさせようと自分のパソコンまで持ち込んでデータ整理をしているのに、何て言い草だろうか? イライラしたが今は我慢しとこう。このデータが完成されたらどれだけ便利なものなのか、あの北方も分かるだろう。
運びの野中は店に商品を持ってくる度、俺のしている事に関心を示し、「何をやってんの?」と毎回同じ事を聞いてきた。
商品を分かりやすいよう管理する為だと説明しても、野中には理解できなかったようである。
「例えば野中さんに注文の電話を入れる時ですね、いつも『ビデオ? DVD?』って聞いてくるじゃないですか? これが完成すれば、DVDに関してだけは番号を言えば分かるようになるんですよ」
「う~ん、よく分からないや」
照れ笑いを浮かべながら、野中は倉庫へ戻っていく。何故これだけ分かり易く説明しているのに分からないのだろうか……。
秋奈にふられた事で、俺は仕事に対し意欲的になっていた。そうでもしないと精神的におかしくなりそうだったからである。
北方の理不尽さには苛立つ事も多い。それでも自分の好きでやっているのだと割り切るように考えた。
秋奈と出逢ってから、俺は一切他の女を抱いていなかった。自然と女の体が恋しくなってくる。
金曜の夜から土曜の朝まで最上さんと一緒に漫画喫茶へ入り、カップルシートを選ぶ。その状態でずっとパソコンについて習う週末。
朝になるとさすがにフラフラになっていた。最上さんはこのまま会社へ出勤して、仮眠室があるからそこで寝ると言って別れる。
時計を見ると朝の五時。いつもこの曜日は徹夜で仕事だ。俺も『マロン』に行き、ソファの上で少し横になるかと思ったが、あそこは汚くて嫌だ。十一時手前までどこかのサウナで過ごすか。いや、待てよ……。
たまには風俗でも行ってみるか。
気だるい体で街中を歩き、こんな朝早くでもやっている風俗があるか探す。コマ劇場横のビル入口に、『ヘルス ポテトチップス 三千八百円』という看板が目に入る。
ありえない金額のヘルス。三千八百円で、女が客のチンチンをくわえるとでも言うのだろうか?
そういえば『ワールド』時代の従業員で、こんな安いヘルスで働いていたという奴を思い出す。
「確かに金額が安いから、ロクな女がいないですよ。だって他の普通の風俗で断れまくった女共が最後に行きつく店でもありますから。でもですね、中には当たりがあるんですよ」
何をもって当たりなのか分からないが、確かそんな台詞を言っていたっけな。
こんな暑い季節なので汗だって掻いている。すごい女が来たら、三千八百円でシャワーを浴びにきた。そう思えばいいだろう。俺はこの安いヘルスへ入る事に決めた。
入口は不思議な事に道路に面したエレベーターしか見当たらない。通常ならどこか階段ぐらいあってもよさそうなものだが……。
睡魔が襲ってくる。何でもいいか。俺はボタンを押して、エレベーターへ乗り込む。七階のボタンを押し、狭い小さな箱は上昇していく。
七階へ到着すると、俺は細い通路をそのまま進んだ。受付がその先に見える。
「ん?」
受付にいる男。どう見ても堅気には見えなかった。
「あ、いらっしゃいませ」
男は俺に気付き、挨拶をしてくる。受付頭上には料金表が貼ってあった。
《三十分一万円 四十分一万二千円 五十分一万四千円》
「外の看板に書いてある金額と違うじゃん」
すると男はビックリした表情になり、「あ、外の看板見ていらしたのですか?」と聞いてくる。
「外の看板以外、何を見て来るんだよ?」
「あ、そうですね。じゃあ、お客さまは外の料金通り、三千八百円でいいですよ」
どうもキナ臭い店である。あとになってボッタクリされるんじゃないだろうな。歌舞伎町に来て五年以上になるが、俺は一度もボラれた事がなかった。
「いいよ。そこに書いてある料金通り払うよ。それなら文句ないだろ?」
そう言って俺は財布から一万二千円を出した。
「あ、はい。四十分コースでいいですね?」
「疲れてすぐにでもシャワーを浴び、横になりたいんだ。早く案内してくれ」
「分かりました。それではこちらへどうぞ」
男は受付横にあるカーテンを引き、俺を促した。
目の前に見えるのは薄暗い木造の床だった。ヘルスには何度も来ているが、こんな古めかしい作りの店なんて初めてである。
「左手の三番目の部屋を開けて、中で待機してて下さい」
言われた通り、俺は薄暗く狭い廊下をゆっくり進んだ。旅館のような襖が左右に見える。変な造りの店だ。両サイドからは女の呻き声が聞こえてきた。
途中「フッフッ」と何かを嗅いでいる音が聞こえ、足元に何かがまとわりついてくる。足で軽く振り払うと「キャン」という泣き声がした。犬か…。それにしても何でこんなところに犬がいるのだろう?
左手三番目の襖を開けると、畳四畳の部屋に到着する。せいべい布団が引いてあるだけで、あとは横に丸い小さなテーブルが一つ。その上にきゅうすと湯のみ、ポットが置いてあるシンプルな部屋だった。ほんと大丈夫なのか、この店……。
腰掛けタバコを吸っていると、襖がガラッと音を立てて開く。振り向くと五十台後半はどう見てもいっているおばさんが入ってきた。
ふざけんじゃねえよ。こんなおばさんが相手か? 俺は警戒しながら立ち上がる。
「お兄さん、勘違いしないで。私じゃないから」
おばさんはそう言うと、畳の上に座り出した。
「お兄さん、タバコないかい? ちょっと話があるんだけどさ」
俺はタバコを一本差し出す。おばさんは火をつけながら、さらに喋り続けた。
「これからお兄さんにはエース級の子をつけるからさ。本番しても構わないから、あと一万円もらえるかい?」
「いや、今日はシャワー浴びに来ただけだからいいよ」
「何言ってんの。エース級だよ? エース級」
この小うるさいおばさんには早く消えてもらいたい。
「分かった。分かった。もしその子が来て気に入ったら一万でも二万でも渡すから。それならいいでしょ?」
「そう。じゃあ女の子来たらよろしくね。あ、そうそう。もう一本タバコもらえるかな?」
「さっきからうるせえよ。早く消えろって」
寝不足で不機嫌だった俺は、おばさんを怒鳴りつけた。おばさんは一目散に部屋から出て行く。本番専門の売春ヘルスか。どうりで如何わしい空気が漂っているはずだ。
少しして襖が再び開く。俺は入ってきた女を見て、動物のトドを連想させた。
「あの~……」
「俺さ、徹夜ですごい疲れてんだ。シャワー室、案内してくれないかな?」
「分かりました。通路を真っ直ぐ進んで突き当たり左手にあります」
普通のヘルスなら女も一緒にシャワーへ行き、客は立っているだけで女が体からすべてを洗ってくれる。ここでは客一人に勝手に行かせるのか。まああんなトドのような女に体を洗ってもらいたい訳じゃないので、俺は黙ってシャワー室へ向かう。薄暗い廊下を歩くと、さっきの犬がまた「キャンキャン」言いながら足元にまとわりついてきた。
シャワーを浴び、じっとりした体を洗い流す。終わると部屋に戻り、女に伝えた。
「俺さ、これから眠るから。四十分でしょ? 何もしなくていいからさ、その代わり時間になったら起こしてくれるかな?」
「分かりました」
そこまで言うと俺は横になり、すぐに寝てしまった。
ん? 何だか変な感じだぞ……。
俺はふと目を覚まし、足元を見た。するとさきほどのトドが俺のチンチンをしゃぶっていた。
「何をしてんだ!」
すぐ起き上がり、女を突き飛ばす。秋奈を想い、純潔を貫いてきたのに汚された気がした。
「いや、あの…、一万で本番……」
「うるせー! 何もするなって言ったろうが」
時計を見るとまだ二十分しか経っていなかった。俺はスーツに着替えながら、まだ時間はあったが店を出る事にした。
部屋を出ようとすると、先ほどのおばさんがやってきて「どうしたんだよ、お兄さん?」と声を掛けてくる。
「もう帰る」
「まだ時間じゃないよ?」
「うるせー! 何がエース級だ? 本当のエース級なんかつけやがって。どけよ!」
俺はおばさんを乱暴にどかし、廊下へ出た。他の部屋からは変わらず女の喘ぎ声が聞こえる。
こんな店、来るんじゃなかった。無性にイライラしている。その時、受付のところから先ほどの男が道を塞ぐように出てきた。ボッタクリをする店の常套手段だ。
何か俺に文句でもあると言うのだろうか?
男は俺の顔をジッと睨んでいる。この俺から金をボッタクろうとしているのか? 上等だ。最近ずっと暴れていない。
俺は右の拳を壁にフルスイングで叩きつけた。すごい音が聞こえ、女たちの喘ぎ声は一斉に止んだ。構わず拳を壁に叩きつける。右拳の皮が破れ、血が滲み出す。
受付の男の前まで来ると、「何か文句でもあんのかよ?」と凄む。
男は無言のまま下を向き、道を譲った。こんな朝っぱらから下手にケツモチでも呼ばれたら洒落にならない。俺は平然としながらエレベーターまで向かい、外へ出た。
コマ劇場横の通りに出ると、一気に駆け出しその場から逃げる。そのまま『マロン』まで行き、ドアに鍵を閉めたままソファーの上で倒れるように眠った。
秋奈からはまったく返事がない。ここ最近家に帰っても、ピアノを弾く機会が少なくなっている。ザナルカンドを奏でると、あまりの寂しさにどうにかなりそうになってしまう。だから俺はパソコンを覚える為、仕事に没頭するしかなかった。
エクセルデータをようやく完成させる。月に二回ほどDVDの新作は増えるので、全部で三百種類ほどあった。世の中もようやくDVDプレイヤーが安価で出回り、ビデオからDVDに移り変わろうとしている。
今まで裏ビデオを買っていた常連客も、徐々にDVDへと移行していった。
家に帰り、プリンターでエクセルデータをプリントアウトする。
倉庫の野中は、俺の作ったエクセルデータを見て、最初は意味が分からなかったが、各DVDへ番号を割り振り整理して、初めてその便利さを理解したようだった。
北方もプリントアウトされた用紙を見て、なるほどと思ったらしい。パソコンの中なら、女優別、ジャンル別にすぐ分かるようになっている。客に誰々の女優物は何作あるかと聞かれても、すぐに答える事ができるのだ。
当然DVDの売り上げは、今までと比べ三倍も増えた。
番号の若いDVDは古い作品。新作になるほど番号は増えていくので分かりやすい。
北方は新作が入る度、俺に「おい、神威。早くデータにしろ」と偉そうに言ってきた。考えてみれば、これは俺自身のパソコンで行っている善意である。それをありがとうの言葉もなく、当たり前のように何を威張っているのだろうか?
時間が経つと、善意でした行動に対し苛立ちを感じている自分がいた。いや、違う。北方の態度がおかしいから苛立っているのだ。
あまりセコイ言い方はしたくないので、あえて黙っていたが、パソコンだってプリンターだってタダではない。俺は数十万円も掛けて、一式を揃えたのだ。それはあくまでも自分の為であり、『マロン』の為ではない。
そういった事に一円の経費すらくれない北方。
ここではやる気を出して頑張っても、うまく利用されるだけなのだ。そう思った翌日から俺は、パソコンを仕事場へ持っていくのをやめた。馬鹿らしくなったのである。
北方は新作が入ると、「早く作れ」と命令してきた。
「すみませんが、パソコンの調子が悪いんですよ。今、修理中でしてね」
「いつ直るんだ?」
不機嫌そうに北方は言った。おいおい誰のパソコンだと思っているんだ、この男は……。
「北方さん、申し訳ないですけどね。この紙を一枚プリントアウトするんだって、金が掛かっているんですよ。例えば店に一台プリンターがあれば、俺だって何とかしたいなって思います。でも全部俺が金を払って店の事をしてるんですよ? 少しは考えて下さい」
ムッとしながら話すと、北方は財布を取り出し「じゃあ、プリンターでも何でも買って来い」と言った。珍しい事もあるもんだ。でも北方はプリンターの仕組みなどまったく分かっていない。機械だけでなく、インクだって用紙だってなければ印刷はできない。そこもちゃんと言っておいたほうがよさそうだ。
「プリンターだけでなく、用紙もインクも消耗品なので揃えないとプリントできませんからね」
「紙でも何でも買ってくればいいだよ」
そう言いながら北方はテーブルの上に、千円札を一枚だけ放り投げた。
「……?」
一体どういうつもりなんだろうか? この千円札の意味が分からなかった。
「あの~、北方さん……。この千円って一体何でしょうか?」
「だからそれでプリンターでも紙でも買ってくるだよ」
たった千円でプリンターを買ってこい? ムチャクチャだ……。
「お言葉ですが、一番安いプリンターでも最低一万円ぐらいしますよ?」
「何だ、じゃあいい。ほら、よこせ」
そう言うと北方は俺から千円札を取り上げた。本当にこの男、底なしのケチである。少しでもこんな男に期待した自分が馬鹿だったのである。
秋奈から連絡が来なくなって数ヶ月。俺は三十一歳になっていた。
寂しさを感じながら日々を過ごしている。でもどうする事もできない。いくら俺が努力しても、秋奈はこちらを振り向いてくれないのだから……。
その代わりパソコンのスキルはかなり上達した。
週末になると最上さんとのパソコンレッスン。どうにかして自分を変えようと必死だったのだ。
一度だけ秋奈のいるキャバクラへ行ってみる事にした。しかし秋奈はもう店を辞めていた。もうどうする事もできない。俺は落胆する。
秋奈への想い。日に日に募るばかりだった。
「神威君、今、帰り?」
仕事帰り道を歩いていると、ピアノの先生が声を掛けてきた。手にビニールの買い物袋を持っているので、買い物の途中だったのだろう。いつもピアノを教えてもらっている姿しか見ないので、その家庭的な姿に違和感を覚えた。
「ええ、今帰りです。先生こそどうしたんです?」
「たまには買い物をしないとね。一応主婦ですから。最近神威君が来ないから、どうしたのかなと思ってたのよ」
「いや……」
秋奈にふられたからだなんて、恥ずかしくて言えやしない。
「もうピアノが嫌いになっちゃった?」
「いえ、そんな事はないです。逆に新しい曲を習いたいなあって思っているぐらいです」
「ほんと?」
嬉しそうな先生の顔。俺がまたピアノを始めるのが、そんなに嬉しかったのか。こんな不肖の弟子に対し、ありがたいものである。
「ええ、やっぱり先生の弟子だし、クラシックを一曲弾きたいなって……」
また頑張ってみようか。そんな気持ちになっていた。
「よ~し、じゃあ、このまま教室まで行こうか」
「はい、お供します」
『ノクターン』へ向かう。先生は歩くというよりも、楽しそうにスキップをしていた。
俺は、先生のところの楽譜を色々と眺めていた。
「あなたがどれだけ苦労して、あそこまでピアノを弾けるようになったのか。その努力を理解できる女のほうが、あなたにはいいんじゃない?」
ジャズバーにいたピアニストの女の台詞を思い出す。確かに分かってくれる女のほうが、俺にとって幸せかもしれない。しかし、俺がピアノを始めたのは秋奈に聴かせたいからだ。懸命に努力して練習したのも、彼女に捧げたい一心。秋奈以外に捧げる相手など、どこにもいやしないのだ。
では今、何の為に俺は新しい曲を習おうとしている?
秋奈の為でも誰の為でもない。自分の為に弾いてみたい。それだけだ。
綺麗な音色のドビュッシーの曲を弾いてみたかった。
「先生、ドビュッシーの曲を何曲か弾いてもらえますか?」
「ドビュッシー? いいわよ。どの曲がいいの?」
俺は楽譜を取り出して、先生に手渡す。
「できれば適当に俺が似合いそうなやつを色々と」
「う~ん、そうね。分かったわ」
先生はピアノを弾きだした。いつものように表情はとても楽しそうに弾いている。ピアノを弾くのが私の生き甲斐。見ていて本当にそう感じた。
体を弾ませながら、ピアノを弾く先生。ドビュッシーの曲だからといって、すべての曲がお気に入りという訳ではない。俺は一曲一曲聞き耳を立てしっかり聴いた。
舞曲が流れる。アラベスクが流れる。二曲とも弾いてみたい曲ではある。もし俺が弾けたら格好いいだろう。でも俺には無理だ。それぐらい分かる。
漫画のドラゴンボールのキャラクターで以前、クリリンがこんな俺でも相手の強さぐらいは分かるとか言っていたが、それと似たような感覚だった。これ以外で何かいい曲がないだろうか……。
先生は、別の曲を次から次へと自由自在に弾きこなす。ある時はゆったりまろやかに、またある時は激しく指が狂いだしたかのように鍵盤の上を動き回る。
「……!」
俺の背後に誰かが立ち、暖かい手で背中を軽く押されたような気がした。振り返っても、誰もいない。何だ、今の感覚は?
綺麗なゆっくりとした音色が聴こえる。先生がまた新しい曲を弾きだした。澄み切った乾いた音。ゆっくりとスローテンポに鳴り響く。少し悲しげなメロディ。先生が左の方の黒い鍵盤を二つ叩く。地の底から鳴り響くような低音。そこを境にして一気に激しく聴こえるリズム。軽く鍵盤を叩いているので、アップテンポな曲になるが、多数の和音を奏でる指がメデューサの蛇の髪の毛のようにうごめいている。
この曲の寂びの部分を聴いた瞬間、鳥肌が立っていた。
これだ……。
これしかない。はやる心を懸命に抑えた。
「先生、俺、この曲がいい!」
失礼な行為だったが我慢できなかったのである。先生の演奏中にも関わらず叫んでいた。今までクラシックなど興味のかけらもなかった。でもこの曲は違う。俺は絶対にこれを弾けるようになりたい。心の底からそう思った。
「ベルマガス組曲の月の光って曲よ。綺麗でしょ?」
「はい。俺もこの曲、頑張れば弾けるようになれますか?」
「そうね、ザナルカンドの七倍ぐらい頑張ればできるわ。神威君は小さい頃からやっていれば、今頃すごいピアニストになっているわ」
「お世辞なんてやめて下さい」
「本当よ。いい? ザナルカンドの時に出した集中力をもっと出しなさい。そうすれば、あなたならきっと弾ける」
「こんな俺が弾ける……」
「センスだけは持って生まれた天性の才能なのよ」
全身に電撃が走った。俺が真剣に真面目にやれば、本当にこんな難しい曲も弾けるようになるのか? いや、先生は嘘を言わない。ザナルカンドだって四回のレッスンで弾けるようにしてくれたじゃないか。
やってやる。秋奈の為にじゃない。自分自身の為に……。
この日から俺はドビュッシー作曲の月の光のレッスンを受けだした。楽譜は相変わらず読めない。ザナルカンドの時と同様、暗記しかない。
「男の子はみんな、ドビュッシーが好きね」
先生は笑いながら、そう言った。
「何でです?」
「だって私の教え子の半分以上が、ドビュッシーを弾きたいって言うんだもん」
「そうなんですか」
「ええ、あなたもその一人でしょ?」
「そうですね」
俺はドビュッシーの曲が大好きだった。この月の光という曲。俺は絶対に弾けるようにしてやる。
「先生、お願いがあるんですけど……」
「なあに?」
「この寂びの部分あるじゃないですか? 低音で、ジャーンってとこからです」
「あー、はいはい」
「そこから最初、教えてもらってもいいですか?」
「いいですよ」
先生はいつもこうだった。俺の好きなように、弾きやすいように、嫌な顔一つもせずに教えてくれる。
静かに一番端の黒い鍵盤の『ミ』と次の『ミ』の上に指を添える。軽く押してみた。低く鳴り響く低音。先生の出した音と同じ感じだ。
感情を込めて弾いてみる。心に重く押しかかるような感じで低音が鳴り響く。ピアノはいつだってそうだ。弾く本人の感情を表現してくれる。
俺は必死に寂びの部分から習い始めた。少しずつ弾けるようになるたび、新たな感動が俺を包み込む。嬉しい。ピアノをやって本当に良かった。
俺は部屋に帰っても弾き続けた。月の光の寂びの部分。何度、弾いても飽きがこない。これが全部弾けるようになったら、秋奈へ連絡してみよう。
俺はまだ、彼女にピアノを捧げていない……。
この日から俺の異常な毎日が始まった。
仕事に行く時も常にキーボードを片手に持ち、堂々と歩く。
裏ビデオを売りながら、店にピアノを持ち込んで弾いた人間なんて俺ぐらいのものだろう。『マロン』から聞こえるザナルカンドの音色。上からビックリしてヤクザ者まで顔を出したぐらいだった。
「神威さん、何をしてんでっか?」
「いや、この度またピアノを始めましてね」
俺のパソコンのスキルの話を聞き、上のヤクザ者が色々相談に来るようになっていた。何度か上の事務所でパソコンの設定をした事もある。それから俺はビルの住人に一目置かれるようになっていた。これも最上さんのおかげである。そんな俺が今度は『マロン』でピアノを弾き始める。みんなは目を丸くして驚いていた。そんな姿を見ると、痛快で溜まらない。
北方は小馬鹿にしたような表情で、俺の姿を見て笑っているだけだった。別にこんな人間に理解してもらおうだなんて、微塵も思っていないから平気だ。
街で通り過ぎる人々が、不思議そうに俺を見てくる。裸のまま、キーボードを持って歩く俺に対し、何者なんだという視線だった。周りの視線など俺にはどうでもいい。
暇さえあれば、『ノクターン』へ行き、先生にピアノを習った。自分でもどんどん上達していくのが分かる。秋奈の一件で気分は落ち込んでいたが、ピアノを弾いている時だけはすべてを忘れられた。
仕事とピアノだけの毎日といっても過言じゃなかった。
仕事帰りにキーボードを持ったまま、コンビニへ寄る。レジにいる女店員が興味津々に話しかけてきた。
「あの…、ピアノを弾かれるんですか?」
「ええ……」
「何だか格好いいですね」
格好いいもんか。俺は単なる裏ビデオ屋の従業員だ。
「良かったら、聴きたいですか?」
「え?」
「ええ、このコンセント繋いでくれれば、ここで弾きますよ」
俺が冗談でも言っていると思ったのであろう。女店員は笑いながらコンセントを繋いだ。キーボードをレジのカウンターの上に乗せ、俺は店内を気にせず弾き始めた。本当に弾くと思わなかったのだろう。女店員は目を丸くして驚いていた。
弾き始めた曲はザナルカンド。俺は一切の雑音を気にせず、感情を込めて弾いた。
ある意味、こんな場所で演奏をした人間など、今まで誰もいないだろう。多分俺が世界で初めてだ。コンビニのレジでの演奏。俺は恥ずかしさなどまったくなかった。
曲を弾き終えると、女店員は拍手をしてくれた。それ以外にも店内にいた客まで、拍手をしだした。中には、何だ、こいつ…、というような軽蔑の眼差しで見ているのもいたが、直接文句を言ってくる者はいなかった。
いつも俺の中に同居するせつない気持ち。秋奈へ対する届かぬ想いからだった。
寂しい。ピアノを弾いている時間だけが、その寂しさを忘れさせてくれる。
休みの日、部屋でキーボードを弾いていたが、頭の中は秋奈の事でいっぱいになっていた。ここまで連絡もなく毛嫌いされるって事は、やっぱり駄目なのかな……。
一度ネガティブな思考になると、とことん悪い方向に考え出してしまう。
気分を紛らわせる為、キャバクラへ行った。キーボードを持ちながら堂々と歩く俺にたくさんの視線が集まる。俺は平然としながら席へ座った。
フリーのキャバ嬢がつくと、何故キーボードを持っているのか、不思議そうに聞いてくる。ピアノを弾く為にだと、俺はシンプルに答えた。
「へえ、そこまで堂々としていると、なんか格好いいですね」
感心したようにキャバ嬢は微笑む。最近女と接触がない。寂しかった。
「ぜひ一度、聴いてみたいです」
「だったら、今、聴かせようか?」
「え?」
「俺さ、一人の女に格好をつける為にピアノを始めたんだ。三十を越えてからね」
「三十歳なんですか? もっと若く見えますよ」
「どう見えようと俺が三十一年間は生きている事には違いない。別に今の生き方が嫌いじゃないし、いい感じで年をとれたなって思うよ」
俺もよく平気で嘘を言えるものだ。
「何だかそういうの、いいですね」
「ありがとう。でも、レッスンに行ってちゃんと弾けるようになったんだけど、俺の身勝手なわがままでふられてしまってね…。結局、曲は完成したけど、その子には聴かせぬままだった」
「私も最近、彼氏と失恋したばっかりだから、少し気持ちが分かります」
最近、女を抱いていない。秋奈からあれ以来、連絡はなかった。もういいんじゃないか。自分の女という訳でもないのに、いつまで義理立てしていればいいのだ。目の前にいる女。口説いてやるか……。
「そっか…。俺のピアノって多分、傷ついた人は癒せると思うんだ。君に俺のピアノを捧げようかな?」
「本当ですか? でもいつもそうやって女の子を口説いているんじゃないんですか?」
「俺の弾くピアノはそんな軽くないよ」
真顔で言うと、キャバ嬢は真っ赤になった。
「君の心を癒したいんだ。迷惑かな?」
「いえ、聴いてみたい……」
酒が入っているせいかヤケクソになっている。どうせ秋奈は俺のピアノを聞いてくれやしない……。
「悪いけどさ、このコンセントを差し込んでくれる?」
近くを歩く従業員を呼び止める。
「え、あの~……」
「店の迷惑になるようなら、すぐにやめるよ」
「は、はぁ……」
俺はキーボードをテーブルの上に乗せ、鍵盤を叩きだした。横にいるキャバ嬢の為に弾く。嘘だった。俺のピアノはそんなに軽くない。秋奈へ聴かせたいだけだ。でも、そんな機会すら訪れない。やるせなさをキーボードに込める。せつなさを音で表現した。
キーボードの便利な点。それはピアノの音源だけじゃなく、様々な音を出せるというところだ。DUALと書かれた場所の音色。俺は九十二番のボタンを押した。悲しげな曲を弾く時は一番ピッタリとくる音色だった。
ただでさえ悲しいメロディのザナルカンド。電子音で調整すると、さらに悲しく聴こえてくる。
キャバ嬢は真剣に俺を見て、頷きながら聴いていた。
演奏が終わると、店内にいる客の白い目が目立つ。俺は気にせず堂々とした。
「素敵…、本当にうまいですね。感動しちゃいました」
「俺はこれしか弾けないからな…。でも、君に捧げられて良かったよ」
「でも、私なんかでいいんですか? 本当は大好きだった子に……」
「きっかけはそうでも、今は君の為に心を込めて弾いた」
いくらキザで臭いと言われても、目の前でそれをやられたら女は弱い。今までの俺の哲学だった。「バラの花なんか持ってこられたら、笑っちゃう」そんな事を言う女に限って、俺が実際にそれをすると、コロリと落ちた。
下をうつむくキャバ嬢に俺はそっと手を重ねる。女は嫌がるそぶりも見せず、さらに頬を赤らめた。
「今日、何時に上がるの?」
「じゅ、十二時……」
「そのあと、俺と会えないかい?」
「……」
「嫌ならいいんだ。もう君の迷惑になるだろうから、ここにも二度と来ないようにする」
「迷惑じゃない…。でも、今日会ったばかりで……」
「確かに会ったばかりかもしれない。でも、運命的に感じるよ。俺、初めて人の為にピアノを弾いたんだ」
「嘘……」
確かにに弾いたのは嘘ではない。しかしこの子の為ではない。
「嘘はつかない。そこまで俺のピアノを弾く精神は腐っていない。俺を信じなくても構わない。でも、俺の奏でた音は信じてほしい」
次の日、俺は強引に仕事を休んだ。店で口説いた女とホテルへ行ったからである。
北方は電話口でブツブツ文句を言っていたが、どうでもよかった。
久しぶりに他の女を抱く。
秋奈との一件で傷ついた心。俺は他の女を抱く事で、その傷を埋めようとした。
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