光太郎は突如ビックリした声を出してから、急に押し黙ってしまった。変な奴だ。何か考え事をして複雑な表情を浮かべている。その時、俺の携帯が鳴った。泉からだ。
「もしもし。」
「今日はちゃんと帰ってくるの?」
「うーん、分かんない。」
「何よ、それ…。」
「とにかく今、大事な事を話してる最中なんだ。あとで電話するから…。」
「ちょっと…」
俺は泉が何か言い掛けるのも構わず携帯を切った。光太郎の方を振り向くと、下を向いて何か考えている様子だった。
「おい、光太郎。どうしたんだよ?」
「…」
ゆっくり視線を向けて、悲しそうな目で俺を見る光太郎…。一体どうしたってんだ。
「あ、兄貴…。」
「何だよ。おまえちょっと変だぞ。」
「一つ聞きたい事があるんだ。」
「何だ?早く言えよ。」
「兄貴のお袋の名前は何て言うんだ?」
嫌な事を聞いてきやがる。出来れば思い出したくもない名前なのに…。
「何故そんな事を聞くんだ?今の話題に関係ないだろ。」
「思い出したくもない気持ちはよく分かってる。でも、とても重要な事なんだ。」
光太郎は真剣な表情して話している。確かに俺が素直に言えば、会話はスムーズに進行するだろう。だからってあんな奴の名を言ったところで一体何になるというのだろうか。いくら考えてもキリがないのに、俺は頭の中で自問自答していた。
「兄貴っ!」
「そんな怖い顔すんなよ。」
「俺にとっても関係ある事かもしれないんだ。」
「何だって?おまえの言ってる事はさっぱり分からないよ。」
「分かった…。じゃあ、俺から名前を言う事にするよ。」
「名前って誰の?」
「俺の家に住みついている侵略者の名前を。」
光太郎が言おうとしてる主旨がまったく理解出来ない。妹がいるという会話から何故、お互いが嫌う人間の名前を教え合わなければならないのか…。
「雪乃…。雪乃って言うんだよ。うちに居座っている侵略者の名前は…。」
「へー…、偶然だな。俺を生んだ奴も雪乃って名前なんだ。」
「馬鹿野郎。何でまだ気付かないんだよ。馬鹿野郎…。」
光太郎は泣いていた。泣きながら俺に何かを訴えようとしている。俺には光太郎の涙の意味が分からない。俺は下をうつむいて考えをまとめようと心掛ける。
「その表情だよ。以前、その表情を見た時に感じた事があったんだ。」
「一体どうしたっていうんだ、光太郎。だいたいおまえの言ってる事は、支離滅裂で分かり辛いよ。」
「美千代とあんたの表情や仕草がそっくりなんだよ。」
「えっ?」
「まだ分からないのかよ。兄貴の所を出ていったお袋は、侵略者として俺の家にやって来たんだって事なんだよ。」
衝撃的な台詞だった。今、目の前の風景がグルグル凄い勢いで回転している。思考能力が徐々に失われていくような感じがした。
「俺と妹の美千代は血が繋がってないって話したよな?俺が五歳の時にあいつは当時一歳の美千代と一緒に俺の家にやって来た。兄貴の親父さんはお袋さんが出ていく時には亡くなっている。つまり美千代の親父はうちの親父でも兄貴の親父でも無いって事だ。兄貴を生んだ人間と、うちを侵略しにきたあいつとは、同一人物なんだよ。そう考えると色々な矛盾が溶けていくんだ。」
右側のこめかみの傷が疼きだす。吐き気すらもしてくる。俺たち三兄弟の母親としての機能をしなかった奴が、今度は他人の家に行って家庭を崩壊している。考えるだけで頭が痛くなってきそうだ。
「つまりあんたは新しい妹がいるかもしれないと言っていたが、もう一年以上前に亡くなって、もうこの世にはいないって事なんだよ。」
「…、う…、そだ…。」
「嘘じゃない。兄貴と美千代は同じ母親から生まれた兄弟だったんだよ。それは美千代が生まれた時点で紛れもない事実なんだよ。ずっと前から兄貴の顔を見てて美千代に似てるとこあるなーぐらいには思ってはいたんだ。」
自然とこぼれる涙。俺は誰の為に涙を流しているのだろうか。自分の為だろうか…。もし妹が本当にいるなら、会ってみたい。それがこんな結末だっとは…。
「しゃ、写真持ってるか、光太郎…。」
「当たり前だろ。いつも肌身離さずも持ち歩いてるって。見たいか…?」
「あ、ああ…、生きてる内に妹の美千代って存在がいる事すら知らなかったんだ。せ、せめて顔ぐらい見てみたい…。見せてくれるか?」
光太郎は静かに頷いて写真を手渡してくる。俺は写真の中の美千代に喋りかけた。
「はじめましてかな?俺がおまえの兄貴の隼人だ。でも俺がいなくても、兄貴と恋人代わりの光太郎がいたから全然寂しくなかったよな?」
顔のパーツが、どことなく俺や怜二と似ているような感じがした。それ以外にも誰かに似ているような気もする。どっちにしても俺にこんな可愛い妹がいたなんて…。俺、怜二、愛を生んで家を出て行き、他所で美千代を作った奴…。考えれば考えるほど怒りが込み上がってくる。でも光太郎は美千代に優しく接してくれた。
「光太郎…。」
「な、何だよ…。」
「妹のって言っても、今、知ったばかりだから違和感あるけどさ…。美千代に対して大事に接してくれて本当にありがとう。」
「ケッ、今更何言ってやがるんだ。」
「不思議と美千代の写真見てても、何故か初対面って感じがしないんだよな…。」
「そりゃそうだろ。片方のとはいえ、血が繋がってんだから…。」
急に頭の中で愛がブランコを漕ぐ姿が思い浮かんでくる。幼い姿のままの愛…。そこへ美千代が愛に近付いてくる。年齢的に愛の方がお姉さんのはずなのに、美千代の姿は写真で写っている時のままだった。美千代の顔を俺はこの写真のでしか知らないのだから、無理もない。二人は仲良さそうに遊んでいた。この二人に怜二と光太郎を加え、みんなで食事が出来たらどんなに幸せな事だろうか。タイムマシンさえあったら…。
赤崎は思った通り、美千代の実の兄貴だった。侵略者が俺の家にさえ来なければ、もっと違った展開になっていたのではないか。赤崎は可愛い妹と仲良く暮し、俺はその妹の美千代と自然な形で出逢う。そうすれば何の障害もなく、俺と美千代は自由に幸せに過ごせただろう。赤崎が帰ってからもずっと美千代との事を考えていた。
「中々人生ってうまくいかないもんだよな…。いつも空回りだ。」
俺と赤崎の関係をどうやって説明したらいいのだろうか。俺が愛し愛された美千代の兄貴…。でも一緒に住んでた訳じゃないし、赤崎も今日まで美千代の存在すら知らなかったのだ。いや存在は俺の話で知ってはいたが、自分の妹だと今日初めて気付いたといった方が正しいか。
携帯が鳴り出す。見ると美紀からだった。お袋は亡くなり、金もいらない。もう女どもを相手にする必要は無かった。ウザいので放っておくと、しばらくして携帯は鳴り止む。煙草に火を点けてベッドに寝転ぶと、再度携帯は鳴り出す。無視していたが、徐々にイライラしてきた。もう全てが面倒臭かった。俺は乱暴に携帯を手に取った。
「もしもし。」
「光太郎?どうしたの、何度も電話したのに…。」
「忙しかったんだよ。」
「何かあったの?」
「今も忙しいんだ。悪いけど当分連絡出来ない。」
「ちょっ、ちょっと…」
ブツッ…。俺は電話を切り、そのまま携帯の電源を落とした。少しだけスッキリした。これから俺はどうすればいいのだろうか。何も考えずにここでしばらくボーってしておこう。携帯の電源をオフにしたところで、少しだけ気に掛かる事があった。それは赤崎から連絡があるかもしれないという事だった。何故、男からの連絡からなんて俺は気にしてんだろう。一体、俺はどうしちまったんだ…。ムシャクシャしている感情をスッキリさせようと、ホテルの白い壁に向かって思い切り殴りつける。
「グッ…。」
右の拳からは血が滲み出てきた。人間の体なんて脆いもんだ。思わず声が出るくらいの痛みだったが、今はこの痛みが不思議と心地良かった。電源は切ったままにしておけ
ばいい。俺が赤崎にどうしても連絡取りたい時があったら自分からその時だけ、電話を掛ければいい。あいつも何か話したい事があれば、この部屋まで勝手に来るだろう。部屋の白い壁は俺の拳の血で少し汚れていた。
衝撃的な事実。俺が求めていたものは、すでにもう何も無かったのだ。そして光太郎との意外な繋がり…、不思議なものを感じる。新宿からの帰り電車の中、美千代の事だけを考えていた。少なくとも一年前に会えていたら、こんな寂しい思いをしなくても済んだはずだ。美千代は血を分けた兄弟がいると知っていたのだろうか。きっと知らないような気
がする。光太郎との奇妙な出会いから、俺の周りで何かのバランスが崩れてきている。泉との間も昨日の件でおかしくなっている。愛の事を常に引きずりながら生きてきた俺は、新しい妹がいたという事実にすがりつきたかった。言いようのない虚無感が俺を包み込む。
地元に着いた俺は小腹が減っているのに気付き、行きつけのアラチョンに寄る事にした。大好きなハンバーグでも食べれば、この淀んだ気分も少しは紛れるかもしれない。
「おう、隼人ちゃん。いらっしゃい。今日はいつもより来るの早いねー。」
「仕事終わるのは早いですけど、その代わり朝メチャクチャ早いんですよ。」
「へー、何時ぐらいに?」
「新宿に朝七時です。」
「そりゃーキツいな。こっちからじゃ朝五時半頃の電車に乗らないと余裕持って行けないもんな。大変だ。」
「マスター、腹減っちゃったんで…」
「ハンバーグだろ?」
「ええ。」
マスターは得意気な表情で奥のキッチンに消える。俺は水を口に含みながら最近を振り返る。仕事は始まったばかりで不安な要素が多い。社長の北方の実態がいまいち分からないせいだ。それから光太郎との出会い。妹の美千代という存在を知ったが、もうこの世にはいなかったという衝撃。そして泉との擦れ違い…。ここ数日で色々な事があり過ぎた。精神的に疲れている。うまくまとめて整理したいが、頭が混乱しそうだった。
「お待たせー。」
マスターの作ったハンバーグが目の前に置かれ、現実に戻る。俺は一気に平らげ食欲を満たす。ここのハンバーグは相変わらず最高だった。
「何かあったんだろ?」
「えっ?」
マスターは俺が喰い終るのを待って顔を覗き込んでくる。幼い頃に亡くなった父親の親友だったマスター。もうこの店とは昔からの付き合いになる。
「隼人ちゃんの表情見てれば何かあったかぐらい、俺にはすぐ分かるよ。良かったら話してみれば?少しは楽になるかもしれないだろ。」
時々俺の心を見透かされているような感覚に陥る。確かにハンバーグを食べにここに来たが、本当はマスターに俺の心情を気付いて欲しかったのかもしれない。
「俺のお袋ってマスターは覚えてますか?」
出来ればお袋という呼び方をしたくなかったが、今はそんな些細な事に構っていてもし
ょうがない。
「ああ…。奴の奥さんだったからな。雪乃ちゃんだろ?」
「ええ…。」
「隼人ちゃんが小学校の時に飛び出してから、何も音沙汰無いんだろ?」
「それが…。」
まずマスターに何から説明したらいいのだろうか。うまく話を言い出せなかった。珍しくマスターの表情が険しい。
「最初に一つ聞いといていいかい?」
「は?はぁ…。」
「隼人ちゃんはお母さんの事どう思っているんだい?」
「この世で一番嫌いで、もっとも憎むべき存在です。」
俺の台詞を聞いてマスターはとても悲しそうな顔になる。無理もないだろう。俺が幼い頃に受けた虐待の数々など知る由も無いのだから…。
「そうか…、でも、自分をこの世に生んでくれたんだぞ?」
返ってきたのは、ありふれた言葉だった。
「俺はそんな事、何も頼んでいないです。」
「いいかい、隼人ちゃんの親父さんと俺は昔からの親友だったのは、前に話したよな。だから当然あいつが雪乃ちゃんと付き合いだして結婚したのも全部知っているし、もちろん二人に関わってきた。あいつ…、隼人ちゃんの親父さんが事故で亡くなって、雪乃ちゃんが家を出て行くまではね…。雪乃ちゃんにもさ、色々と事情があったと思うし…」
「事情なんてそんなもん俺たち兄弟には関係ありません。散々俺たちを傷つけ、そして捨てて…、勝手に家を出て行った。その事実が残っているだけです。」
思わず口を挟んでしまう。お袋…、いや憎むべき存在の事で感情的になっている。右のこめかみの傷が疼いていた。
「隼人ちゃんの気持ちは痛いほど分かるよ…。でもね…」
「もうこの話は止めましょう。駄目なんですよ。」
「何が駄目なんだい?」
「あいつの事は思い出したくないだけです。」
「でもさっき何か言いかけたろ?」
そうだった…、美千代という妹がいた事。そしてすでにこの世にいないという事実を話そうとしたんだっけ…。お構いなしに自分の都合で生きてきた母親。憎しみはすべてそこに向いていた。
「あの馬鹿が実は俺たち三兄弟以外にも別に子供を生んでいたんです。」
「えっ、何だって?」
「俺と怜二と愛を置いて出て行った後に、女の子を産んでいたんですよ。」
「ば、馬鹿な…。」
マスターの顔色が真っ青になっていた。驚くのは分かるが、少し様子が変だ。
「雪乃の奴、あれほど言ったのに…。」
ボソッとマスターは下をうつむいて独り言を呟く。
「マ、マスター…。今、何て言ったんですか?」
「い、いや…。」
動揺するマスターを見て、少なくても俺より以前から、美千代の存在を知っていた事に気付いた。何故かショックだった。俺と目を合わせないようしているマスターの横顔を見ていて体に電撃が走る。美千代とマスターの横顔がどことなく似ている…。生前の写真を一度見ただけなのに…。出来れば信じたくないが、何故か自分の中で確信があった。
「マスター、正直に答えてくれますか?」
「…」
「言いたくなければ別にそれでも構わないです。」
「…」
力なく頭を垂れ、無言になったマスターに対し、俺は構わず話し続けた。
「あいつが生んだ女の子の名前は美千代…。俺は写真でしか見た事がないですけど、本当に可愛い子でした。」
「み、美千代という名前をつけたのか…。」
どういう事だろうか。美千代の存在をてっきり知っていると思って話していたのに…。
「何を今更言ってるんですか。あいつとマスターの間に出来た子供じゃないんですか?」
「す、すまなかった、隼人ちゃん…。」
「何で謝るんですか?」
マスターは俺の目を真っ直ぐ見てから、静かに口を開き出した。
「雪乃ちゃん…、いや、雪乃とあえて呼ぶよ。彼女が隼人ちゃんたちを置いて家を出てきた日の事だ。あの日は冬だったけど、特に寒い日だった…。俺が朝、店の仕込みをしようとしていたら、バッタリこの店の前で彼女と出くわしたんだ。昔からの付き合いだったから、当然俺は彼女の様子がおかしい事に気付いて声を掛けたんだ。」
「ええ。」
「それから色々彼女とは話をしたんだ。隼人ちゃんの家での内情や自分自身の苦しみ…。俺がウンウン頷きながら聞いている内に雪乃、泣き崩れてしまってね…。俺もつい…。」
そこから先は言い辛そうに口籠もるマスターを見ても、不思議と俺は冷静に話を受け入れていた。がんじがらめだった糸が、少しだけほどけたような感覚がした。
「もう大丈夫ですよ。俺に話してくれて嬉しいです。マスターを責めるつもりなんかこれっぽっちも無いですから。」
きっとお袋とは一度限りの…、自然な成り行きでの情事だったのだろう。俺が生まれる前から知り合いで両親とずっと関わってきたマスター。両親がいなくなっても俺にいつも親切に接してくれた。そんなマスターを誰が責める事など出来るのだろうか。
「すまなかった、隼人ちゃん…。本当にすまなかった…。」
複雑で混乱してたものが少しずつ分かりかけてきた。今後、俺はどうなっていくのだろうか。一つここで分かった事実は妹の美千代はお袋とマスターとの間に出来た子だという事。世の中、本当に狭く出来ているもんだ…。
「マスター…。」
すでに美千代はこの世にいない事を話すべきか。美千代を生んだ事すら知らなかったマスターは当然その事実を知らないであろう。お袋が家を出て行った日に起こった、たった一度の過ち…。
「美千代の事、気になりますか?」
「あ、ああ…。そりゃー今までその存在を知らなかったとはいえ、そんな話を聞いてしまったらやっぱり気になるよ。元気でやってるのかい?」
「俺も美千代とは実際に会った事は無いんです。でも俺が美千代の存在を知った時には、すでに亡くなっていたんです…。」
「何だって?」
「生まれつき心臓が弱かったらしく、入退院を繰り返しながら、十三年間頑張って生きたみたいですよ。美千代と一緒に住んで生活していた義理の兄貴から聞いた話です。」
「そ、そんな…。」
俺はテーブルに突っ伏して泣き崩れるマスターの肩をポンと軽く叩き、喰った代金を静かに置いてアラチョンを出た。マスターが泣き崩れるのも無理もない。自分の娘の存在を今日初めて知り、それと同時にこの世にいないという事まで知ってしまったのだから…。さすがにショックは隠せないだろう。マスターが悪い訳ではない。お袋…、あのクソ野郎がすべての原因なのだ。
時計の針を見ると夕方の八時を過ぎていた。やばい…。光太郎と一緒にいる時、泉からの電話の内容を思い出す。あの時は美千代の件で頭がいっぱいいっぱいだったが、冷静に振り返ると泉に対して、酷い対応をしてしまった。今頃、鬼のように殺気立って怒っているだろう。帰ってフォローしないと…。
そろそろ泉が帰ってきてもおかしくない時間だ。俺は泉との仲を大事に生きていければそれで幸せだ。もっと自分たちの幸せを考えながら頑張って生きていこう。そう考えると少しは気持ちも明るくなってくる。俺と泉の住むマンションの前まで来て、部屋を見上げると明かりが点いていた。もう泉が仕事から帰ってきている。俺は心を弾ませながら階段をダッシュで駆け上がった。まずは謝ろう。
携帯電話がこの世に普及されて、便利な世の中になったと同時に、面倒臭いものにもなった。色々な女から電話が掛かってくる携帯が今は本当に邪魔だった。ただその邪魔に感じる携帯が、俺と赤崎を繋げる唯一の連絡方法でもあった。
美千代と赤崎の関係。母親の血が繋がった兄妹。俺の家に住んでる侵略者は、赤崎の実の母親。赤崎が幼い頃、家を飛び出して俺の親父以外の誰かの男との間で子供を身籠り、美千代を生んだ。その間、俺の親父と知り合った。それから一年ぐらいして俺のお袋を追い出し、一歳の美千代を連れて俺の家に侵入してきた。お袋を追い出して…。
「あのクソ野郎がすべての元凶じゃねぇか…、ちくしょう。」
侵略者の面を思い出し、憎しみが更に募る。でもいくら侵略者を憎んだところで美千代もお袋も、もう絶対に帰っては来ない。
俺と赤崎の関係は特に無いが、不思議と変な縁だけは繋がっている。お互い妹という存在を亡くしている事。お互い侵略者を憎んでいる事。俺と赤崎の間を繋いでいるのが、美千代と侵略者だった。
「兄貴か…。」
ポツリと独り言を言い、ベッドに寝転がる。確か仕事が終わるのいつも五時頃って言ってたよな。明日、俺の方から連絡掛ければいいか…。ベッドの横に置いてある一千万円の入ったバックをふと見てみる。この金を貯めるのに何人の女を騙してきたのだろう。目的がお袋の入院費だとしても、もう亡くなってしまった。高校も自然と行かなくなり、何もしてない俺。美千代もお袋もいない今、俺にはもうこの金しか残されていなかった。数々の女を騙して金をせしめる事しかしてこなかった俺にとって、今後どう生きてばいいのだろうか。そう考えると頭が痛くなってくる。一筋の光明があるとしたら兄貴のような赤崎の存在だけが俺の救いだった。あいつなら俺をいい方向に導いてくれる。そんな気がする。赤崎がいなければ俺は一千万を持った、ただの十九歳のガキに過ぎない。
階段を急いで駆け上がる。昨日、泉との間が変にギクシャクしてしまったが、笑顔で俺を出迎えてくれるだろうか。いや、それはないだろう。さっきの電話の対応が自分でしときながら悔まれる。俺が落ち込んでいる時に傍にいてくれ、癒してくれた泉…。俺にとってあいつは宝物だった。お互いにとって大事なのはよく話し合い、理解しあう事だ。もう愛も美千代もいないのだ。いつまでも過去を振り返るのではなく、現に一緒にいる泉の事を最優先に考えるべきだったんじゃないのか。俺は泉に対して失礼な態度を今までとっていた。謝ろう…、もっとおまえの事を考えるべきだったよって謝ろう。
部屋の前に着いて、ドアノブを引くと鍵がかかっていた。俺は鍵を開けてドアを開けようとしたが、チェーンがかかっていて開かなかった。泉一人の時は用心して鍵をかけてくれと以前に話した事はあっても、そろそろ俺が帰ってくるのだからチェーンまでしなくてもいいのに…。俺はドアの隙間から泉に声を掛ける事にした。
「ただいまー、泉―。チェーン外してくれよ。」
しばらくその状態で待っていたが、返事は返ってこない。
「おーい…。泉?」
風呂かな…、耳を澄ますと奥の方で物音がする。奥にいてチャイムに気付いていないのだろうか。いや、そんなはずはないだろう。
「泉―。ただいまー。チェーンかかってるぞー。おーい。」
昨日、意味不明の涙を流した泉。俺に対して何か怒っているのだろうか。それなら昨日の時点で何か文句を言ってきても良さそうなものだが…。
「おい、泉!何かあったのか?泉!」
「ごめんねー、今、行くから。」
ようやく返事が返ってきた。声もそんなには怒ってないみたいだ。少しホッとする。最悪、強盗が侵入してという事も考えていたからだ。泉が無事で何よりだ。ちょっと待っていると、泉がチェーンを外してドアを開けてくれる。
「おかえり、隼人。」
「チェーンなんかしてどうかしたの?」
「近所で泥棒があったって聞いてね。もし、家に泥棒が来て居直り強盗になったりしたら怖いじゃない。想像したら怖くて…。だから用心に用心を重ねてチェーンまでしといたの。隼人、ごめんね。」
ここ最近、俺は仕事が終わっても決まった時間に帰ってこないでいた。いつ帰ってくるか分からない俺を泉は一人で心細く待ち続けていたのだ。不安だったり寂しかったり、そして怖かったのだろう。俺は泉をずっと大事にすると決めたんじゃなかったのか…。自分自身とても情けなく感じた。俺は泉に対してもっと優しく思いやりを持って接してやらないといけない。
「ごめんな…。」
しっかりと泉を両腕で抱き寄せた。泉のいい匂いが俺を優しく包み込む。
「きゅ、急にどうしたのよ、隼人?」
「しばらくこうさせてくれ…。」
マンションの玄関先で俺たちは黙って抱き締め合った。長い、とても長い抱擁だった。俺は最近の行動を反省して、泉にしっかりと謝った。そんな俺に対して泉は笑顔で応対してくれる。俺はゆっくり時間を掛けて、仕事の件以外にも幸太郎の事や美千代の事も全部話した。
「そっかー…。色々と隼人は大変だったんだね。」
「でも泉に対する気遣いが足りなかったよ。」
「ううん、もう気にしてないよ。今、こうしてハッキリ言ってくれたから私はそれで充分だよ。でも今度から一人で全部溜め込もうとしないで。」
「ん…、あ、ああ…。」
「一緒に私と仲良くやって行くんでしょ?」
「もちろん。」
「だったら、何でも話して欲しい。私もそうするし…。」
俺は精一杯の笑顔で泉に答えた。
「ありがとう。」
ホテルの部屋でベッドに横になりながら、ボーっとテレビを眺める。家を出たはいいが、実際何もする事がない。先程、千葉から来た理恵子を酔わせ、金を奪っても何も面白くなかった。女を騙して金をもらってきた以外、何の特技もない俺は今後、この一千万で何をすればいいのかすらまったく思いつかない。
そうだ、赤崎に電話してみよう。あいつなら俺をどうかしてくれんじゃないか。
切れていた携帯の電源を入れ、赤崎に電話を掛けてみる事にする。
「もしもしー。ああ、俺。光太郎だけど…。」
「どうした?」
「い、いや別に…。」
「何だよ、電話しといて。」
「いやー、彼女とは仲直りしたのか?」
「当たり前だろ。泉は俺の事、一番理解してくれてんだ。」
赤碕の台詞を聞いて、少し寂しさを感じた。
「ん、どうしたんだ?急に静かになって…。何かあったのか?」
「どうもしねぇよ。」
自分でも気付かない内に、俺の中で赤碕という存在はとても大きくなっていた。いつも一緒に暮らしている赤崎の彼女に対して、嫉妬を覚えるぐらいに…。
「変な奴だな…。」
「うるせぇー。」
美千代が亡くなり、お袋までも俺の前からいなくなってしまった。今、俺のとって頼れる相手は赤崎しかいなかった。こういう兄貴がずっと欲しかったのかもしれない。いや、こんな兄貴が欲しかったんだ。
「俺さー…」
「何だよ?」
素直に甘えたかった。今現在のやるせない自分の感情をふつけたかった。
「ほ、ほんとはすげー寂しがり屋なんだぜ。」
何を口走ってるんだ俺は…。思わず口に出してしまった。恥ずかしい。絶対に今の俺はどうかしている。
「そんなの分かってるよ。」
「は?」
「当たり前だろ。俺も愛を幼い頃に亡くして、ずっとそれを今でも引きずっている。ずっとやるせない気持ちだったし、うーん…。なんて言ったらいいんだろうな…。うまく表現出来ないけど、おまえの気持ちは完全とまで言えないけど、分かってるつもりだよ。まー、おまえの場合、性格も尖がってるから敵も多いだろうしな。ま、不思議と光太郎とはウマが合ってるって言うのかな。俺はこれでもおまえの事、本当の弟みたいに思ってるんだぜ。」
赤崎の言葉が心に突き刺さる。素直に嬉しかった。美千代が亡くなってから、ずっと俺は孤独だったのだ。自分一人で生きていけるつもりでいたが、ただ単に突っ張っていただけなのだ。目頭が熱くなるのを感じる。電話機の上にこぼれた俺の涙…。嬉し涙なのだろうか。ここ何年もこんな感情になった事はなかった。やっぱりずっと一人で寂しかったのだと初めて自覚した涙なのだろうか。
「おい、どうした光太郎?」
「何でもねぇよ。それより今から新宿に出てこないか?」
「うーん、今日は無理だよ。明日も仕事あるし、泉の機嫌も悪くなりそうだし…。」
何だよ、ちきしょうと言おうとして、踏み止まる。赤崎は赤崎で向こうの都合というものがあるのだ。それに対してジェラシーを感じても仕方ない。
「そっか、分かったよ。また暇あったら飯喰いに行こうぜ。また連絡する。兄貴、じゃーな。」
「悪いな。俺からも連絡するよ。」
電話を切ると、携帯をベッドの上に放り投げる。寂しい…。今、一人でいるのが無性に寂しかった。ここでいても虚しくなるばかりなので、とりあえず財布をつかんで歌舞伎町の街をぶらつく事にした。
光太郎との電話を終わり、ポケットに携帯を戻そうとすると、また着信が鳴り出す。なんだ光太郎の奴、言い忘れた事でもあったのか。
「はい。」
「もしもし、赤崎?最上だけど。」
電話の相手は最上聡史からだった。俺が神威龍一にぶっ飛ばされてゲーム屋のアリーナを辞めた次の日に心配で電話を掛けてきてくれた以来だった。それでもまだ二、三日しか経ってない。その間に嫌な事が立て続けに起こり過ぎた。
「どうしたよ、ボー。新しい仕事はもう始めたんでしょ?」
「ああ、でも思ってたよりも結構大変そうだよ。」
「職を変えて新しいところ行けば、最初はみんなそうだって。」
「そうか?」
「そりゃそうだよ。仕事だけじゃなくて、人間関係まで全部、前とは違うんだから。」
「そうだな。ボーの方は仕事どーよ。」
「相変わらず忙しい。今日も帰れそうにないから、三日間会社に泊まりっ放しだね。さすがに体が臭くなってきたよ。うちの有子もプリプリ怒っているよ。浮気してる訳じゃないのに、また泊まりなのーってさ。嫌になっちゃうよな。」
「ボーも色々と大変なんだなー。俺の方も仕事が落ち着いたら連絡するよ。」
「そうだね、赤崎も頑張ってくれよ。」
「ああ、ありがとう。じゃーな。」
「そうそう、同棲してる彼女とはうまくいってんのかい?」
「なんとかね。」
「おまえもそろそろ落ち着いたらどうだ?」
「え、結婚って事か?」
結婚…、泉との結婚の事を思い浮かべてみた。仕事から家に帰ると、泉が料理を作って笑顔で待っててくれる。ん、まてよ…。今の同棲生活と何か変わりはあるのか。違うのは泉が俺の苗字、赤崎の姓になるぐらい。あとは一体何の変化があるのだろう。
「おーい、どうした?」
「あ、い、いや…。」
「今の子と一緒に住んでて、嫌だなーとかって感情あるか?」
「そんな事、思わないに決まってんだろ。」
「だったら今の子と一緒になってもいいと俺は思うぜ。一緒に住んでても特に気にならない。どうでもいい事のように思えても、結構重大な事だと思う。」
チラッと横目で泉の方を見てみる。泉は俺とボーの電話の内容が気になってるみたいで、こっちを見ている。多分、俺が結婚という言葉を口にしたからであろう。したくないという感情はないが、うかつな言葉を使うとあとが怖そうだ。
「そ、そうだよな…。」
「俺もどっちかというと、そういうパターンで結婚して現在まできてるからな。」
「困った事があったらその時は相談に乗ってもらうよ。」
「ま、パソコン関係が本来の仕事だから、そっち系の話の方がいいけどね。どっちにしても力になるから、困ったら何か言ってきな。」
「ああ、ありがとう。でも、俺はパソコンなんて扱った事すらないから、そっちについては何も無いと思うけどね。」
電話を切ると、泉は何かを言いたそうな顔で俺を見ている。
「ねえ、何の話をしてたの、隼人?」
「ん、いやー…。新しい仕事の事とか、相手の相談事とかだよ。」
「ふーん、そうなんだ。他には?」
「と、特にないよ。」
俺の台詞を聞いて、泉の表情が険しくなる。
「ちょっと隼人。」
「は、はい…。」
「ほんとに何にもないの?」
「いや、そのー…、えーと…。」
「男らしくハッキリと言ったらどうなの?」
やばい、泉が怒りモードに突入しようとしている。ここはうまく収めないと…。
「そ、そうですね…。じ、実はさっきの奴から電話で、泉とそろそろ落ち着いてみたらどうなんだと…。」
「それで隼人はどう思ってるの?」
「もちろん、ちゃんと考えてるさ…。」
「ほんとに?」
「ただね…、新しい職場になったばかりだし、まだ今の俺自身があやふやだろ?そんなんで果たしていいのだろうかとも考えてる。」
「だから?」
泉の表情からは何を考えているのかがまったく読めない。しかし次の俺の発する台詞ひとつで、天使にも悪魔にもガラリと豹変するだろう。
「結婚はちゃんと…、先々の事まで考えてるに決まってんだろ。ただ今の状態じゃ、泉にうまいもん喰わせたりとか、洋服買ってやったりとかさ、ちょっとした事を格好つけたいのに、それもままならないのが現状なんだ。」
「うん。」
「俺、おまえを幸せにしたいんだ。だから…、ちゃんと考えてるからそんなに焦らせないでくれよ、な?」
泉の目は潤んでいた。そして何も言わずに俺の胸に飛び込んできた。
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