千絵が俺の体を念入りに洗っている。昨日、家を飛び出したままなのでちょうど良かった。シャワーがとても心地良い。ヘルス嬢だけあって千絵は洗い方も手慣れていた。
「光ちゃん、気持ちいい?」
「ああ、さすがにプロだよな。」
「そういう言い方って、何か嫌だー。」
「ごめんごめん、悪かったよ。」
千絵は機嫌を悪くしたようだが、無理に作り笑いをしている。自分の身銭を出してまで俺に来て欲しかったのだから当然だろう。多少のフォローはしとかないと、さすがに哀れなので少し優しくしてやろう。
「少し疲れた顔してるぞ。ちゃんと休んでるのかよ?」
「うーん、光ちゃんが最近相手してくれないから疲労が溜まってるんだよ。」
「関係あるか、そんな事。」
「でも今、私の目の前にちゃんといるんだもんね。」
「相変わらず馬鹿な奴だ。」
シャワーを出てベッドに横になると、すぐに千絵は覆い被さってくる。俺は相手にするのが面倒なので腕枕をして誤魔化すと、それで満足したのか千絵は大人しくなった。
「光ちゃんの腕枕って最高―っ。」
俺は真っ白の天井を眺めながら、煙草に火を点けた。今、横で腕枕してる女が美千代だったら、俺はどんなに幸せだろう。つい最後の日の事を思い出す。
「光太郎兄ちゃん…、起きてよ。起きて…。」
目を開けると、美千代の顔が目の前にあった。夢でも見ているのだろうか。いや、美千代の柔らかい唇の感触が現実なのを教えてくれる。とても優しい目で美千代は俺を見ていた。窓から月の光が薄っすらと差し込み、美千代の美しさをより一層輝かせている。
「何でここにおまえが…。」
「抱いて…、光太郎兄ちゃん。」
「ば、馬鹿…。俺たちは兄妹だぞ…。」
「でも血が繋がってないんだよ。」
「美千代…。」
「光太郎兄ちゃん、私…、もう充分に大人だよ…。」
そんな事、言われなくても充分に分かっていた。俺にとって全ての美しさの源だった。それ以上、迫られたら俺は自分を抑えられなくなってしまう。
「私、もう長くないの…。自分で分かってるの。」
俺は黙って美千代を抱き締めた。もう止まらなかった。透き通るような美千代の白い肌を見て、思わず見とれてしまう。これだけ美しいと感じた事はない。宝物を扱うようにそっと優しく触れた瞬間、急に全身が震えだす。
「何でガタガタ震えてるの?」
「に、人間としてやっぱり間違ってるんじゃないかって考えてる。でもおまえはそんな事がどうでもいいと思うくらい魅力的だ。血が繋がっていないのなら、いっその事、別の形で美千代と出逢いたかった。何であいつは俺の親父なんかと結婚なんかしたんだ…。俺の親父にしたって…。」
俺の頬に美千代の柔らかい手が触れる。不思議と全身の震えが止まった。とても心地良い微かなぬくもり…。まるで雲の上に乗ってゆったりと柔らかい風に吹かれている気分だった。俺はずっとこれを求めてたのかもしれない。美千代と二人で一緒にいられたら、どんなに幸せな事だろう。その為なら俺はどんな事だってしてやる。
「例え、親同士の結婚で血の繋がらない兄妹として知り合えたかもしれないけど、私は幸せだよ…。光太郎兄ちゃんにどんな形であれ出逢えたんだもん。」
「そうだよな…。俺は…、おまえがすべてだよ…。」
「嬉しい…、ありがとう…。」
いい笑顔だ。嫌な事をすべて忘れさせてくれるようだった。流れに任せて俺たちは何度もキスをした。ずっと心の中で留まっていた想いが浮かび上がってくる。
「俺も本当はずっと美千代を抱きたかった…。」
ついに口に出してしまった。美千代との危険ないけない関係をずっと我慢して隠し通してきた俺にとってもう限界だった。着ている服をゆっくり慎重に優しく脱がし出した時、背後から凄い音を立てていきなりドアが開く。俺はビックリしてドアの方向を見ると、鬼の形相をした侵略者が立っていた。
「あんたたち何やってんの!」
瞬間的に俺は美千代を守るように抱きかかえた。侵略者が鬼気迫るオーラを出しながら近付いてくる。俺は美千代を抱えた状態で侵略者を思い切り突き飛ばし、家の玄関まで全力で向かった。途中で美千代は咳き込みながら、苦しそうにうずくまってしまう。俺は強引に美千代を背負い、靴も履かずに家を飛び出した。
外に出ると一滴の水が右肩に落ちてくる。空を見上げると雨が降ってきた。どんどん雨の勢いは激しさを増してくる。俺は必死に美千代を背負ったままの状態で走り出した。
「どこ行くんだ。馬鹿な真似はやめな。」
背後から侵略者の金切り声が聞こえてくる。早くこの場から逃げる事だけに専念しろ。雨でぬかった地面に足を取られて走りにくいが、とにかく先に進むしかなかった。
「はぁ…、はぁ…。」
美千代の呼吸が荒くなるのが聞こえてくる。心臓の弱い美千代を背負ってまで、一体俺はどこに行こうというんだ…。
「おいっ、美千代。大丈夫か?」
「はぁ…、うん…。ヘ、平気だよ…。」
「どこが平気なんだよ。呼吸がどんどん荒くなってるじゃねーかよ。」
「はぁ、はぁ…、わ、私は大丈夫…。はぁ…、はぁ…。」
美千代の顔色が徐々に青ざめて行く。見てられなくて俺は足を止めた。俺の完全な独りよがりだ。まず始めにこいつの体を考えて行動すべきだった。視界の片隅に侵略者の姿が映りだす。もう俺には美千代を背負って逃げる気力は無くなっていた。
「この馬鹿が…。おまえらは兄妹なのに何してやがんだ。」
侵略者は具合の悪い美千代の髪の毛をつかみ、勢いよく引っ張り上げる。よく自分で腹を痛めて産んだ子にそこまで出来るもんだ。
「何してんだ、クソが。」
「黙れっ。この子は私が産んだんだ。私の勝手だろ。」
「こう、光太郎兄ちゃん…。はぁ、はぁ…。」
俺は無我夢中で侵略者を突き飛ばして、美千代を抱き寄せる。
「どうしたんだ?」
「はぁ…、はぁ…、どこか…、二人きりになれる場所に…、行きたい…。」
「ああ、分かった。俺がすぐに連れてってやるからな。」
美千代はとても辛いはずなのに、無理に笑顔を作る。美しくとても悲しい笑顔だった。それからすぐに変化が起きた。急に体をガクガク震わせる美千代…。この無常に降りつける雨や今までの事で無理が祟り、体が衰弱しきっていたのだろう。
「おいっ、美千代―。おい…、おいっ。」
「だから言っただろう。馬鹿な真似はやめろって…、アハハ…。」
こんな状況下で笑い出した侵略者を睨みつけるが、涙でハッキリと顔が見えなかった。
「おまえ、美千代の母親だろ。何、笑ってんだよ。さっさと医者呼べよ。」
「おやおや、随分と勝手な言い草だねー。自分たちで勝手な事しておいて、都合が悪くなると何とかしろだって?ふざけんじゃないよ。アハハハ…。自分たちで勝手にすればいいじゃないか。」
侵略者は奇妙な笑い声で笑いながら、俺たちに背を向けて歩き出していた。もう完全に母親としての感覚はそこに無かった。美千代は意識がもう無いのか、グッタリとしている。俺は侵略者の背中を睨みつける。
「おまえ、それでも母親かよっ!ちくしょう。」
俺は大雨の中、美千代を抱えて近くにある病院まで全力で走った。もし神様ってもんが本当にあるなら、たった一度だけでいい…。美千代をなんとかしてくれ。頼む…。
「こ…、光太…、郎に…、兄ちゃ…。」
病院の前まで来た時に、かすれるような小さい声で美千代が何かを言っているのが聞こえる。俺は耳を近付けて聞く。
「どうしたんだ?ちゃんと聞こえているぞ。」
「…たい…。」
「…」
俺は美千代の手をギュッと握り締め、ハッキリと顔を見据える。
「私…、もっと生きて、一緒にいたいよ…。もっと生きたい…。」
「…」
俺にとってそれが美千代の最後の言葉だった。病院の前だったので、俺たちに気付いた看護婦が慌てて駆けつけて大騒ぎになっていた。美千代はすぐに病院に運び込まれ、俺はさっきまで美千代を抱いていたこの腕にぬくもりを感じながら、その場に一人で立ち尽くしていた。背後から誰かが俺に声を掛けてくる。
「ねぇ、大丈夫?」
地下へ行く階段を降りると、右手にビデオ屋があり左手に北方の事務所がある。ビデオ屋の従業員はテレビをボーっと眺めているだけで、俺の方を向こうともしない。パッと見でいい加減な奴なんだなと感じる。まあ、どっちにしても俺には関係ない事だ。反対側にある事務所のドアをノックする。
「すいません、赤崎です。」
「おう、入れ。」
「失礼します。」
北方は脚を組んで椅子に座ってはいたが、妙にでかく感じる。もともと身長の高い北方だ。多分、見た感じ百八十五センチぐらいはあるだろう。しかしその身長を考えても椅子に座ってる姿はでかかった。身長は高いが、特に上半身が異様に長いのであろう。いわゆる胴長短足という奴だった。髪型はちゃんと整えてないのか、パーマをかけてそのまま放置している感じで、だらしなさが見える。四角い黒ぶちのメガネを掛け、あごは醜くたるんでいる。
「とりあえず自分はどうしたらいいですか?」
「横にビデオ屋があったろう?」
「ええ。」
「まずビデオ屋の仕事も覚えてもらう。」
俺も新宿に半年はいるからビデオ屋の存在自体は知っていたが、客として中に入った事は一度もなかった。
「分かりました。でも自分、全然仕事内容は分からないですよ。」
「なーに、簡単だよ。誰でも出来る仕事だ。」
「はあ…。」
「横で浦安って従業員がいるから、そこで五時まで二時間仕事教わってくれ。」
「はい。」
一礼して事務所を後にする。隣りのビデオ屋は入り口のドアが開きっ放しなので声を掛けて中に入るが、そこで働く従業員浦安からの反応は何も無かった。
「すいません、あのー…。」
更に声を掛けても、まったく反応が無い。心配になり様子をうかがうと、浦安は仕事中なのにも構わず熟睡して寝ていた。
「あのー…、浦安さん。すいませーん…。起きて下さいよー。」
それでも微動だにしない浦安はある意味大物に感じた。背後に人の気配を感じる。
「おい、おまえは…。」
背後に感じた気配は北方だった。俺に構わずツカツカと浦安に近付き、いきなり頭を引っ叩きだした。
「仕事中、何してるだよ。」
「イテテテ…、お、お疲れ様です。」
「お疲れ様じゃないだよ。おまえは仕事中、何度寝るなって注意すれば分かるだよ。」
「すいません、すいません…。」
「すいませんは一度でいいだよ。」
「痛っ、痛いですよ。勘弁して下さいよー…。」
「うるさいだよ。口答えすんな。この馬鹿が…。売り上げはどのぐらい言ってんだ。」
「え、えーとですね…。二万円です。」
「この馬鹿が…。いつも居眠りばっかりしてるからだ。」
再度、頭を叩かれる浦安を見て少し可愛そうに思う。見た感じ年齢は四十代半ばぐらいだろうか。俺も二十年ほど年をとれば、浦安ぐらいの年齢になる。その時が来たらこうは絶対になりたくないもんだ。浦安が怒られてる間、俺は店の中をグルリと見渡した。壁の至る所に写真やエロ雑誌の切り抜きなどが貼られてる。俺は泉と一緒に暮しているせいか、日頃の生活にこういうエロスはない。もし俺がこのようなエロビデオを持ってるのが泉に見つかったらきっと大変な騒ぎになるだろう。
「おい、赤崎。」
「は、はい。何でしょうか?」
「こいつが浦安だ。こいつに仕事を色々教えてもらえ。」
「はい。あっ、はじめまして、赤崎と言います。よろしくお願いします。」
「じゃー、俺は戻るからな。五時になったら一度顔を出せよ。」
「はい、分かりました。」
北方がこの場を去り、俺と浦安の二人になった。浦安はまだ眠そうで目をトローンとさせている。仕事に対する意欲というものがまったく無いと言っていい程、この男にはそれが欠けている。完全にこの歌舞伎町でも負け組と呼ばれる人種だろう。
「あのー、だいたい仕事内容ってどのような事をやるんですか?」
「ここに座ってて、来た客に売るだけだよ。」
「いや、それは分かりますけど自分は初心者なんです。まずどうすればいいのかぐらい教えて下さい。」
またうるさいのが来たなといった感じで浦安は煙たそうに俺を見ている。初対面で判断するのは間違ってるかもしれないが、それでもこいつはクズだと言いたい。
「その辺、適当にどっか掃除でもしててよ。」
「本当にそれでいいんですね?お言葉ですが、あとで北方さんに仕事の事でどうだと聞かれたら困るのは浦安さんだと思いますけど…。」
北方の名前を出したのが効いたのか、浦安は表情が切り替わる。その程度で自分の意思が変わるなら、最初からちゃんとやればいいのに…、このクズめ。心の中で呟いてみた。
「うちはね、ビデオが八本で一万。DVDが四枚で一万。」
「それはそこの壁に書いてあるから見れば分かりますよ。一つ聞いていいですか?」
「なーに…?」
「ここにあるビデオ屋DVDって、全部モザイク掛かってないやつですか?」
「そんなの当たり前でしょ。」
「自分、全然こういうの見ないからよく分からないんですよね。」
「だからー、あとは来た客にそれを売るだけだって。」
「そうですか。了解です。」
これ以上、話しても無駄だという事に気付いた。教える気が無いなら無理に聞く事もないだろう。どうせあとで北方にガミガミ言われるのは、浦安本人なのだから…。階段を降りてくる足音が聞こえてくる。入り口を見ていると、現れたのは中年の冴えないサラリーマンだった。ヨレヨレのスーツを着て、くたびれた顔をしている。
「いらっしゃいませー。」
俺が挨拶しても中年サラリーマンは無視して、店内に貼ってある写真をジッと眺めている。横目で浦安を見るとアホ面で鼻クソをほじっていた。こんな場所で俺は約二時間も過ごさなきゃいけないのか…。まるで人生の掃き溜め場だ。写真を食い入るように見ている中年サラリーマンは、壁に顔をくっつけそうな勢いだ。よく若い女がキモイという言葉を使っているのを聞いて酷いと思うが、確かにこのオヤジはその言葉が本当によく当てはまる。あちこち色々店内を見て歩いていたが、やがて俺たちのいるカウンターに近寄ってきた。表情を見て感じたのは明らかに普通とは違う目つきをしてる事だった。
「ねぇ、ちょっと…。」
「は、はい。何でしょうか?」
「ロリータは置いてある?」
いきなりこいつは何を言ってるのだろうか…。漫画やドラマの世界でしか見た事の無い人種を初めて目の辺りにした。全身に鳥肌が立つ。
「浦安さん。浦安さん…、ちょっとっ!」
あれだけ北方に怒られているにもかかわらず、浦安はうたた寝していた。
「うーん…、何だよー。」
「お客さんですよ。お客さん。」
「あー、いらっしゃい。何か?」
「ロリータは…?」
「はいはい、ちょっと待ってて下さい。」
浦安は店の奥にある棚に行き、青いファイルを手に持ってくる。中年オヤジの生唾を飲む音が聞こえる。
「どうぞ。ただし、こちらの作品は少し高いですよ、お客さん。」
そう言ってニヤける浦安の顔を見て、再び俺は鳥肌が立ってしまった。
誰かが俺を呼んでいる…。
「ねぇ、大丈夫なの?光ちゃん。」
顔を上げると千絵が心配そうに覗き込んでいる。そういえば俺は今、千絵の店に来ているんだった。腕枕して目をつぶっている内に寝てしまったらしい。
「何が大丈夫なんだ?」
「だって…、急に寝ちゃって突然涙流しながら、美千代ーって…。何度も何度も…。」
千絵は複雑な表情を浮かべながら言い辛そうに話し出した。さすがに自分の目の前で、他の女の名前を呼ばれながら泣いてたら誰でも面白くはないだろう。それでも我慢してるのは惚れた弱みなだけだ。
「悪かったな…。美千代って、一年前に亡くなった妹の名前なんだ。」
「そう…。」
一言だけそう言って、千絵は遠くを見ていた。何度も美千代の事で夢を見る。ただ毎回違う展開になっているのが不思議だった。俺はあの時、本当に美千代を抱いたのだろうか、それともちゃんと拒絶したのだろうか…。病院に行く途中で亡くなったのか、車に撥ねられて亡くなったのか…。何故か色々なパターンを見ていて、自分でどれが真実かすら分からなくなっていた。明らかに俺はおかしい。妹がどうやって亡くなったのか、この目で見ていて、何故分からないのだろう。過去の記憶がぼやけている。
「何歳だったの、妹さん…。」
「十三歳…。中学に上がったばっかりだった…。」
「病気で?」
「多分…。」
「多分って何?」
驚いたように千絵は聞いてくる。当たり前だ、俺の答え方が間違っているのだ。
「うーん…、分からないんだ…。どうやって美千代が亡くなったのかですら…。こんなのっておかしいよな。」
「おかしくなんかないよ。光ちゃんは物凄くショックだったんでしょ?」
「あ、ああ…。たった一人の妹だったからな…。」
初めて自分の真実を少しだけ人に話せたような気がする。
「私、少しは光ちゃんの役に立ってるのかな…?これでも光ちゃんの辛さは分かってるつもりなんだよ。全部とは言えないけど…。」
ゆっくりと千絵の瞳を見つめる。おまえに何が分かるんだ。簡単に抜かすんじゃねえ。心とは裏腹に精一杯の作り笑顔を見せてやる。
「もちろん。おまえがいるから、まだ頑張って生きようと思えるんだ。」
咄嗟に出た、ただのでまかせだった。まだこいつからは金をうまくとれる…。それしか存在価値がない女だ。
「嬉しい。私、ちょっとは役に立ってんだね。」
「ああ。」
その時、部屋のインターホンが鳴った。そろそろ時間になったのだろう。
「もう時間来ちゃったの?信じられないなー。ねぇ、私がお金出すからまだ延長してよ。いいでしょ?」
「勿体無いって…。何の為にここで働いているのか分からないじゃん。」
「だってそうでもしないと、中々ゆっくり逢えないんだもん。」
そう言って千絵はまた俺に三万渡してくる。これで手持ちの金がまた増えた。さっき俺は五十分コースで入ったから一万三千円使い、千絵からもらった金は残り三万七千円ある。そこにこの三万だ。確か延長料金は十分三千円だったよな。千絵は三十分も延長すれば満足するだろうから、今日だけで差し引き五万八千円の金をこの女から引っ張れた計算になる。
「ね、いいでしょ?」
「三十分だけだよ。俺、まだやらないといけない事あるし。」
「嬉しい。ちょっと待ってて…。あ、すいませーんー…。三十分延長で。」
信じられない光景だった。いい年こいた中年のサラリーマンが右手に紙袋を持って鼻息を荒くしながら店を出て行く。あの紙袋にはさっきのロリータビデオが二十本入っている。あんな物に六万円も払うだなんて…。
「どうだ。まとめて買ってくれたとはいえ、一気に六万だぜ、六万。」
「浦安さんて、すごいっすね。」
「いやー…、そうでもないけど、まあこれで北方のオヤジにも文句は言わせねえよ。」
浦安は得意気な顔で語っていた。ロリータのビデオを変態相手に沢山売ったからって何自慢してやがんだ、このうじ虫野郎が…。表面上は仕方なく合わせて笑っていたが、苛立っていて、内心はこいつをぶん殴りたくてウズウズしていた。
「まず売り方のコツだけどな…。」
仕事する場所を少し軽はずみに決め過ぎてしまったか。そんな考えが頭の中を行き来する。泉にこんな仕事内容を話したら絶対に反対するだろう。昨日思い描いた海外での新しい生活など、いつの間にかどこかへ吹き飛んでしまったようだ。
「おい、俺の話、ちゃんと聞いてるのかよ。」
ボーっとしている俺に浦安が怒鳴りつけてくる。別にもう北方の所は辞めてもいいか…。そんな投げやりな気持ちにもなっているので、俺は浦安を睨みつけてやった。
「な、何だよ…、怒ったのか?別に俺、そんな強い言い方してないだろ?」
情けない典型的な小判鮫野郎だ。外見を見ただけで小心者だと感じたが、ちょこっと睨みつけただけでここまでビビるとは…。
「別に俺は怒ってないですって。たまたま上目遣いにしたのがそう見えただけですよ。」
「なんだー。驚かせんなよ。せっかく同じ職場なんだし、もっとフレンドリーにいこうよ。分からない事あったら何でも聞いてくれればいいしね。」
調子のいい奴だ。でも向こうが仲良くしようと言ってるのをわざわざ俺から突っぱねてもしょうがない。ここは話題を変える為にも仕事の件で素朴に感じた事を聞いてみよう。
「ええ、よろしくお願いします。壁とかに色々と写真貼ってありますけど、これって全部裏なんですか?モザイクの入っていない。」
「裏もあるけど薄消しもあるよ。」
「裏とか薄消しとかって、初めてなんでよく分からないんですよ。客としてもこういうビデオ屋って一度も来た事がないので。」
「簡単に言うと、裏はモザイク無しで、薄消しは少しモザイクが残ってるって感じだね。ハッキリとは見えるけど。」
「それだとみんな裏のやつしか買わないですよね?」
「みんなそれぞれ好きなAV女優っているだろ?その女優が出てるDVDを探して、もし見つかったとしても、薄消しの作品はあるけど裏は無いって言ったら、やっぱ客はそれを求めるし買うだろ。」
「うーん、そうですね。」
「だから品揃えを出来る限り多くして、あとは客が来るのを待つだけの商売なんだよ。」
「そういうもんなんですか。」
俺も男だから、エロビデオに興味がまったく無いという訳ではない。やっぱり自分好みの女優が出てる物があったら見てみたいというのが男として自然な感覚だ。レンタルビデオに行けば、沢山あるし借りられるけど、いちいち返すのが面倒。それにモザイクなんて無い方がいいというのが人間の心理だと思う。人間の欲望が見える商売。そう考えるとゲーム屋より、面白い商売かもしれない。
「例えばさー、表のAVで有名な立川奈央美の裏があるなんて言ったら、みんな男だったら絶対見てみたいだろ?」
「うーん…、その名前を聞いた事はありますけど、自分ほんとに見ないんで実際のとこ、そういうのよく知らないんですよね。」
「えっ、立川奈央美を知らないの?」
「そんな俺が悪者みたいな言い方をしなくても…。」
「だって去年の人気AV女優ナンバーワンだよ。知らないって方がおかしいじゃん。」
何故、彼がこんなに熱く語るのか俺には分からないが、余程のお気に入りのAV女優なのだろう。
外に出ると一気に蒸し暑さが襲ってくる。それでもようやく千絵から開放されて、精神的には楽になった。昨日家を飛び出してから中途半端に寝たせいか、まだ眠気を感じる。この気温のせいでダルイというのもあるだろう。家に戻る気分でもなかったので、近くのビジネスホテルに泊まる事にした。受付でチェックを済ませ、部屋に着くなりベッドへ寝転がる。一人が一番落ち着く…。目を閉じていると、すぐにでも寝てしまいそうだった。ウトウトしていると、携帯が鳴り出す。着歴を見ると美紀からだった。
「おう、どうした?」
「エヘヘ…。急に光太郎の声が聞きたかったの。」
「まだおまえと別れてから一日しか経ってないじゃないかよ。」
「それぐらい、いーじゃんー。」
疲れているので美紀の声を聞いてるだけでイライラしている。でも俺はまだこいつから金を回収してない。イライラを抑えて、出来る限り明るい声を出すように心掛けた。
「甘ったれな奴だ。」
「私って可愛いでしょ?」
「あー、可愛いねー。」
「何か嫌な言い方…。そんな投げやりに言わなくてもいいんじゃないの?」
「別に投げやりになってる訳じゃない。忙しくてあまり寝てないからこれから寝ようと したところだ。」
「今、家?」
「いや、新宿のビジネスホテル。」
「私もそこにこれから行ってもいい?」
「駄目だ、眠いって言ったろ。起きたら連絡するよ。」
「ほんとー?絶対だよ。私、待ってるからね。」
「はいはい、またな。」
電話を切ったと同時に睡魔が襲ってきた。ゆっくり寝る事にしよう。
今、俺がいるビデオ屋は思ったより暇な店だった。もう五時になろうとしているのに、あれから客が二人しか降りてこなかった。
「そろそろ時間でしょ?明日もマロンに来るの?」
「マロンって何ですか?」
「何って、ここの店の名前だよ。」
変な名前だ。もし俺がここで電話をとったら、御電話ありがとうございます。マロンですとか言わなければいけないのだろうか…。
「何だか面白い名前ですね。」
「もう今年でこれでも十年目を迎えるんだよ。俺はまだここ十ヶ月ぐらいしか働いてないけどね。」
マロンは歌舞伎町でも辺ぴな場所にあるのに、十年もやってるのか。少し驚きだった。浦安は時間潰しの話相手ぐらいにはなりそうだ。時計の針が五時を過ぎると北方がマロンに入ってきた。
「おう、赤崎。今日はもう上がっていいだよ。」
「あ、お疲れ様です。」
「北方さん、俺、さっき一人の客にロリータ六万円分売りましたよ。」
両手を擦り合わせて媚びる浦安。傍から見ていてまるで犬が飼い主の機嫌をとるように見えた。俺が年をとってもこうはなりたくないもんだ。
「何、六万?俺ならもっと売っただよ。」
厳しい北方の発言に浦安はしょんぼりとなっている。
「それより財布よこせ。」
浦安はテーブルの一番上の棚を引き出し、売り上げが入っている財布を渡す。北方は中の金を念入りに数え、一万円札を一枚一枚これでもかと言うぐらいチェックしている。
「赤崎。」
「はい?」
「おらっ。」
北方は一万円札を一枚、俺に手渡してくる。今日の日払いの金だろうか。そういえば俺はまだ給料をいくらもらえるのか、何も聞いていなかった。財布に金をしまう時に浦安がジッと見ているのが気になった。こんなクズの視線をいちいち気にしてもしょうがない。北方に疑問に思った事を聞いてみる事にした。
「えーと、すいません。このお金は何のお金ですか?」
「何って今日の給料だよ。残りの端数は月末な。」
「あのー…、自分の給料って一体日払いだといくらになるんですか?」
「日払いじゃないだよ。時間給で千二百円だ。朝七時から働いてるんだろ?だから通常十時間働くから一日一万二千円。今、一万は渡したから残りの二千は月末にまとめてって事だ。何も問題ないだろ。」
「ええ、分かりました。」
内心、結構ショックだった。時間給千二百円っていったら、歌舞伎町にある松屋の深夜アルバイトの時給よりも低いからだ。俺はゲーム屋や今いるビデオ屋もすべて裏稼業だと思っている。何故なら警察に捕まる可能性があるからだ。その裏稼業が表のファーストフードみたいな所より時給が安いのはおかしいような気がした。
「じゃー今日はもう帰っていいぞ。」
「はい、お疲れ様です。それでは失礼致します。」
「あのー、北方さん…。」
「なんだ?」
「自分も出来たらあとちょっと…、少しでもお金を回してもらえたら…。」
「バカヤロー。おまえは俺にまだ借金が残ってるだろが?そんなの我慢しなきゃーしょうがないだよ。」
「は、はい…。すいません…。」
今のちょっとした会話で浦安は北方に借金があるのが分かる。聞いてて非常に嫌な会話だった。俺は暗い気分のまま、マロンをあとにした。地下の階段から表に出て一階のグランドの入り口を見る。看板も何も無いので、誰もそこにゲーム屋があるとは思わないだろう。早番の責任者の山田の台詞が浮かび上がってくる。
「北方さんは金に関しては悪魔ですから気を付けて下さい。」
この台詞といい、ビデオ屋マロンの浦安の借金といい、仕事初日なのに何だか少し不安になってきた。でも何が起こっても仕方ない、俺はやとわれの立場なのだから…。
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