岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

古の着物

2011年02月18日 22時13分00秒 | 2010年執筆小説

古の着物

 

 もはや俺には何もなくなった……。

 家族から忌み嫌われ、顔を見る度に罵倒を浴びせられ、人間としての尊厳を根底まで汚された。そんな気がする。決して目に見えぬ心。しかし目を静かに閉じればリアルに浮かんでくる。鋭利な刃物でザクザクに切り刻まれたような感覚。すでに乾ききったのか、傷ついた表面には一滴の血すら見えない。そこまで分かっていながらまだ、何故か俺の自我は崩壊していないのである。

 不思議だ。仁や義といったものが失われつつあるこの世知辛い世の中で、日々増殖していく鬱病。できれば俺もああなってみたい。そうすればこうまで辛い思いなどせずに済んだはずなのに。

 様々な体験や経験をし、他の者より少しだけ心がタフネスになってしまったからなのだろうか? 現実の自身を思うと、過去の経験が非常に歯痒く感じた。

 心が壊れないのなら、考えられる方法はあと一つしかない。この忌々しい現世での立ち位置。それを壊してしまう他ないだろう。自らの生命を失う事で……。

 常に根底に根付く自殺願望。俺の未来に明るい光などない。ならば自害あるのみ。そう思い、日々願っているのになかなか死ねない現実。

 死にたいならとっとと死ねばいいのだ。誰にも迷惑など掛けずに。俺は矛盾している。もしくは臆病なだけかもしれない。自身で命を絶つという行為に対し。

「……」

 ふと視界に映る携帯電話。無造作にテーブルの上へ放り出したままである。手に取り、画面を眺めてみた。

 当たり前だが誰からの連絡もない。ほぼ鳴らない電話。こんなものに月額数万も払っている人間の何と多い事だろう。高い金を払って自分を傷つける。俺は馬鹿だ。

 昔は違った。もっと電話機そのものに希少価値があり、金額が掛かるものであったが、今じゃ誰でも持っている。確かにあれば非常に便利だ。それが世の常識となった時、どこか社会に歪が生じた。少なくても俺はそう感じている。

 真の孤独。以前なら孤独を愛し、進んでそういった時間を作るようにしていた時期もあった。しかし今はどうだろうか。たまに昔からの腐れ縁の友達から連絡があるぐらいで、あとはほとんど何に等しい。唯一その友人ですら、最近できた彼女との付き合いが忙しく、前のようにつるまなくなった。

 こうして気づけば孤立していた俺。だがまだ一人でもパッと思いつける人間がいるだけ、救いがあるのかもしれないな。

 まずこの寂しさ、そして辛さから離れるよう考えないと。それには金を稼がなければいけないという現実。無一文の男では何の価値もない。

 色々難しく考え過ぎたのかもしれない。

 そこで行き詰るという事は、それが自身の限界でもあるのだろう。

 一つだけ分かっている事。それはもう必要以上に傷つきたくないだけ。ならばやる事は一つ。ただ無心に働こうじゃないか……。

 幸いな事に便利になった世の中では、目の前にあるパソコンから検索するだけで、仕事の求人情報など事欠かない。条件は簡単。どんな仕事でもいいから日払い、もしくは週払いのところを探せばいい。

 できる限り近場。すぐ働ける場所。そんな条件で求人先を絞っていく作業。昼間の仕事だとロクな条件のところがないな。うん、別に夜だっていいじゃないか。この際贅沢など言っていられる身分ではないのだ。

「ん?」

 一つの求人に目が止まる。

『古物商』と書かれた求人は、様々な古物や着物、そして貴金属、ブランド物などを幅広く扱う仕事らしい。これだけ物があふれた時代である。これは面白いかもしれない。

 これまで着物はもちろん貴金属すらまるで興味のなかった俺。当然ブランド物だって関心がない。しかしそういったそれらの知識を得て、様々なアンティークな物を勉強するのもいいかもな。

「ねえ、慶司。一度二階にある桐のタンスの中を見てくれないかな。私が大事にしていた着物が残っているはずなの」

 ふと十数年前に言われたお袋の台詞を思い出す。着物という言葉を見たからだろうか。自然と口元が歪む。馬鹿馬鹿しい。何が『大事』なのだろうか? そんな大切な物だったら、俺らを置いて家を出て行く時、一緒に持っていけば良かったじゃないか。

 いつから笑わなくなったのだろう。

 いつから虐げられるようになったのだろう。

 そういった元凶は、お袋が家を出て行ってから始まったような気がする。人のせいにするのはよくない。それは十分に分かっている。しかしそれでもあまりの身勝手さを感じ、ついお袋のせいにしてしまう。

 直に当たっているわけじゃないのだ。そのぐらい構わないだろう。どれだけ精神的に傷を負ってきたのか。一年間で何度死という文字を頭の中で連想し、考えたか分からないほどだ。

 もういい。過去を振り返っても嫌な思い出が出てしまうだけ。

 普通に…、平凡に働けばいいじゃないか。自身の為だけに……。

 パソコンを見ながら俺は、自分の名前を入力しだした。

 ふとキーボードを打つ指が止まる。今は年末。こんな時期に応募してくるなんて、かなり焦っているんじゃないかと先方から勘ぐられてしまうのでは? 妙な考えが頭の中を渦巻き、チンケなプライドが湧き上がってきた。

 これから働こうという場所で、足元を見られるのは得策ではない。それに普通に就職したのでは、すぐ給料が入るわけでもないだろう。

 もっと現実的に考えなきゃ。こうまで追い詰められたようになったのは、自分自身のせいなのだから。今の俺はまともに就職すらできる状態でない。まずは日銭を稼ぐ。それが最優先である。

 さきほど少しだけ眺めた求人を見返す。ここなら日払いも可能だし、勤務時間は夜になるが、一日働けば一万円以上になる。

 携帯電話に書いてある番号を打ち込み、早速連絡してみる事にした。

 話を聞いてみたところ、アルバイトという形式ではなく一旦派遣会社へ登録し、そこから派遣という形で行くらしい。まずは派遣会社で登録して、働くのはそれから。面倒だがしょうがない。明日の午後に面接の予約をした。

 最低でも数種間働き少量の金を得て、それから先ほど興味を覚えた古物商の仕事の面接へ行ってみるとするか。出張や転勤もあるらしいので、一緒に住む忌々しい家族とも離れるチャンスだ。

 布団の上に横たわり、腕を頭の下へ回す。タバコのヤニですっかり黄ばんだ天井を見つめながら、過去を思い出していた。

 

 中西慶司、三十九歳。もう来年で四十代になってしまう。

 兄弟は弟が一人。幼い頃は本当に可愛がったつもりだった。

 祖父が一代で築き上げた家業。今じゃ十数名の従業員がいるほどになった。親父はそれに胡坐をかき、何一つ苦労などしてこなかったようだ。家の金を盗んでは外で遊び呆ける毎日。金回りも良く、愛想もいい。だから何も知らない他人は腐るほど寄ってくる。当然女もだ。

 はたから見れば華やかに見える親父。だがそんな男と結婚を夢見たら、地獄の始まりである。外見だけに捉われた女はそんな単純な事すら分からない。そんな事など毛頭も考えていなかった女が、俺を産んだお袋だった。

 結婚当初は近所から「まるで俳優と女優が一緒になったようだ」と持て囃され、笑顔が絶えなかったらしい。『始め良ければすべて良し』なんて言葉があるが、あれはデタラメだ。そんなもの『張子の虎』と同じ。表面だけ取り繕っても中身がなきゃ何の意味もない。

 それでも俺を生むぐらいまでは、まだ円滑に回っていたようだ。妻から母親になったお袋。子育てに追われる日々が始まる。苦労知らずの親父は、気づけば以前のように仕事もロクにせず、夜遊びばかりするようになった。

 大所帯の家だった為、住み込みの従業員の他、親父の妹であるおばさんまでが一緒に住んでいた環境。嫁に来たお袋の心境は非常に複雑だったに違いない。何せ十名以上の人間が一つ屋根の下にいるのだから。

 子が生まれても家庭など顧みず、金を使いまくる事と遊ぶ事しかしない親父。お袋はどんどんヒステリックになっていった。唯一味方にならなきゃいけないはずの親父がああだったのだから無理もないだろう。俺が物心ついた頃、よく記憶していたのはそんな両親の夫婦喧嘩だった。

 まるで変わらない親父。その怒りの矛先は長男である俺に、いつからか向いていた。

 左手の甲に刻印された醜い皮膚。まだ幼稚園に通っていた俺の腕を強引につかみ、タバコを押し付けられてできた火傷だった。焼けるような痛み、そして醜くただれた箇所。幼かった俺はそれが嫌でしょうがなく、一度包丁でその部分を切り大騒ぎになった事がある。その傷跡は薄くなったものの、未だ左手甲に残って消えない。

 まだ手ぐらいならマシだ。額と頬にくっきりついた二つの傷跡。鏡を見る度お袋の虐待を思い出し、憎悪だけが静かに募っていく。蓄積した憎悪は一度も出した事がなかった。感情の思うまま出してしまったら、自我崩壊してしまう。そんな懸念があったからだろうか……。

 憎悪で塗り固められた俺のクソみたいな人生。その二つの傷を見て、初対面で俺と接する人の目は、共通して誰もが敬遠している感じに見えた。

 第一印象…、分かり易く言えば外見。

 自惚れかもしれないが、顔立ちは端整なほうだと思っている。だが「兄ちゃん、勿体ないなあ。その傷のせいでいい男台無しだね」と何度年配の人から言われた事か。大方俺が喧嘩で作った傷だと勘違いしているのだろう。ひと言「自分の母親につけられたんだ」と説明すればそんな誤解など解けるかもしれない。しかしそのあとで大抵の人は何故と聞きたがるに違いあるまい。それを説明するにはひどく長い話になるだろうし、俺自身面倒な作業である。だから簡単な笑みを浮かべ、何も話さないようにしていた。

 顔の傷のせいか普通の会社は採用してくれない現実。

 

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