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スリー
2010年11月5日~
原稿用紙 枚
2010年11月06日04:21
■執筆途中気付けば俺はその場へ倒れ込むようにして眠っていた。
時計を確認すると夜中の三時過ぎ。丑三つ時という時間帯だ。
不思議とこの時間帯になると、最近執筆作業をしている自分がいる。
自由に思ったままを書く…。そこには事実をそのまま感情移入して書く必要性が無い為、とても気楽で楽しい空間があった。
仕事を終えて帰り、まず寝る。そんな生活習慣が日常化されているこの頃。
仕事と知人に誘われる以外、外へ出る事がない日々。
それでも特に不満を感じない。
そう、今の俺は一刻も早く作品を完成させなきゃならないのだ。
そして書いた文章を横文字にして載せ、行間隔を空けてみる作業をする。こうした行為が自然と自己の作品の推敲に繋がっていく事実。
縦から横へ。同じ文字を書くにしても常に二重のチェックをしていく。このスタイルが自然と俺のスタイルになりそうだ。
久しぶりだな、特定の誰かに読ませようと思いながら作品を書くのは。
特別な贅沢など欲さない。
無駄な欲も無くなった。
だから、神様ってものが本当に存在するのなら、この作品が完成した時、読み手を微笑ませる力を与えてほしい。
俺は全身全霊を懸けて、一生懸命文字を書き連ねるから。
少しばかりの贅沢を望むのなら、この手にどんな患者をも治せる力が欲しい。
ほんの一瞬の光景だった。
目の前で起こった出来事が信じられない。
馬鹿、そんな風に考えている場合なんかじゃないだろ?
早く何とかしないと……。
俺は車から飛び出し、横たわっている子供へ近づく。
「……」
外傷はないようだ。
心臓は…、うん、ちゃんと動いている。
しかしピクリとも動かない。
下手したら内出血しているんじゃ……。
病院へ連れて行くのがいいか。
そしたら俺は……。
あと一週間で披露宴を控えているんだぞ。
すべてが台無しだ。
じゃあ、どうしたらいい?
シーンと静まり返る薄暗い道。
この辺りでは民家もないので人通りはない。
何故この子は、こんな夜更けに一人で出歩いていたんだ?
違うって。
もっとやらなきゃいけない事があるだろ。
今、病院へ連れて行けば助かるんだ。
でも、そしたら俺の人生が……。
顔をジッと見てみる。
まだ六、七歳ぐらいだろうか。
どう見ても小学生。
これから色々な事を覚え体験し、希望輝く未来が待っているというのに……。
咄嗟に踏んだ急ブレーキ。
それでも子供を跳ね飛ばすには充分過ぎるスピードだった。
一回転するように跳ね、地面に叩きつけられる瞬間を俺はハッキリと見ていたのだ。
当て逃げ……。
周囲には誰も目撃者などいない……。
だが俺の判断一つで、この子の運命は変わってしまう。
なら、どうする?
一つ…、この子を病院へ連れて行き、治療を受けさせる。
まだこの子は生きているのだ。
医者じゃないからどの程度のダメージを負ってしまったのかは分からない。
でも、病院へ行けば何とか助けられるんじゃないか……。
いや…、助からないかもしれない……。
ではこのまま逃げる。
馬鹿、当て逃げだぞ?
犯罪だぞ?
しかも人を殺してしまうかもしれないんだぞ?
眞澄…、あいつがこの事を知ったら……。
それに寸前に迫った披露宴はどうするんだよ?
すべてが台無しになってしまう。
このまま黙ってやり過ごす……。
でも、一人の命を見捨ててまで、俺は幸せを噛み締められるほどタフじゃない。
あー、じゃあどうしたらいいんだよ?
現状に対し、結論を見出せない俺。
こうしている間にも時間だけは過ぎていく。
逃げるか、それとも助けるのか……。
この場で考えているって事が一番無駄だ。
すぐに決めなきゃ。
俺は立ち上がり車へ乗り込む。
辺りを振り返る。
うん、誰もいない。
今なら逃げたって大丈夫。
バレっこない……。
アクセルを静かに踏み、徐々に車を発進させた。
横目に倒れている子供をチラリと見る。
変わらずに倒れたままだ。
自分で決めたんだろ。
行け、早く行けって。
距離が進むにつれ重くなっていく罪悪感。
重圧に押し潰されそうだ。
懸命に眞澄の笑顔を思い出す。
どれだけ苦労してあいつの心をつかんだのだろう。
三年近い年月を掛け、誘いを断られてもめげずに頑張ってきたのだ。
気付けば彼女は当たり前のように、俺のそばにいた。
とんとん拍子に話は進み、ようやく結婚まで漕ぎつけた。
ほとんど彼女の要望を聞いてやり、無理して毎日残業だって休日出勤だってした。
それも眞澄の笑顔見たさに……。
子供を轢いたなんて知られてみろ。
これまで築いたものが、すべておじゃんになってしまう。
これでいい……。
これでいいのだ……。
後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、俺はアクセルをベタ踏みして車を飛ばした。
思えばロクでもない人生の連続だった。
両親の愛情を受けず、社会人になって金を自分で稼ぐのを心待ちに生きる。
そんなつまらない幼少時代を過ごしながら過ごしてきた。
こんな俺がグレずに済んだのは、割と近くに住んでいる従兄弟の清美おばさんが優しく接してくれたからだ。
常に絶えない両親の口喧嘩。
決まって家を飛び出してしまうお袋。
そんな時いつも腹ペコだったけど、親父には何も言えなかった。
「腹が減った」と当たり前の事を言うだけで殴られる日々。
そんな親父はいつだってお袋が飛び出すと、自分の胃袋を満たしに一人で勝手に食べに行ってしまう。
非常にひもじかった。
でも稼ぐ術のなかった俺は、ひたすら空腹感に耐えるしかなかったのだ。
「彦明、肉じゃが作ってきたけど食べるかい?」
タッパに入れた温かい料理を手に現れる清美おばさんは、神様に見えた。
おばさんはいつもうちの動向を気に掛けてくれ、身勝手な両親が喧嘩をするといつだって料理を持って家まで来てくれる。
さすがに目の前じゃ泣けないけど、本当は感謝で泣きたいぐらい嬉しかったんだ。
ちょっとした悩み事があると、いつも俺は清美おばさんに相談をしに行ったような感じがする。
本当の両親に甘えられなかった分、きっと親代わりに頼ってしまったんだろう。
人間は生まれながらにして寝る事と食べる事、その二つだけは勝手に身に付いている。
子供は自分じゃ稼ぐ事ができないから食べられない。
だから親が必死に働いて食べさせるのだ。
うちはそういった当たり前の事ができなかった家庭。
それを円滑に持っていってくれたのが清美おばさんだった。
もう何年会っていないだろう……。
俺が転勤でこっちに移動して以来だから、二年ほどか。
今度、久しぶりに顔でも出してみるようかな。
「ハハ……」
馬鹿だなあ、俺は。
あと一週間で披露宴なんだ。
すぐ会えるじゃないか。
嫁の眞澄を初めて親族に紹介したのも清美おばさんだった。
本当に喜んでくれたっけ。
当日会場で笑いながら拍手なんてされたら俺…、感慨極まってみんなの前で泣いちゃうかもな。
嫌な事があっても挫けずにこられたのは、清美おばさんの母親に近い愛情と、眞澄の存在があったからだ。
もうじき幸せだと大手を振って自分の集大成を見せる時が来る。
大手を振って?
どこが……。
俺は子供をひき逃げしておきながら、大手を振って披露宴に臨めるのか?
「彦明が本当に優しい子だって、おばさんはちゃんと分かっているからね」
いつだって清美おばさんはそう言ってくれた。
だからグレずにいられたんじゃないかよ。
ちゃんと俺を見て、認めてくれる人がいるって事を自覚していたから。
俺が優しい子……。
「……」
逃げるなんてやめよう。
期待を裏切っちゃいけない。
俺は車を一旦停め、すぐにユーターンを始める。
まだあの子は倒れているんだぞ。
自分でした事から逃げちゃいけない。
まだ間に合うって。
全力で車を発進させた。
「もうちょっとで、本当に幸せな空間を手に入れられたと言うのに……」
曇る視界。
運転しながら俺は目に涙を滲ませていた。
先ほどと変わらぬ位置で倒れたままの子供。
俺は再び駆け寄ると、まずは心臓が動いているか確認する。
眞澄…、すまない……。
心の中で謝った。
今からこの子を病院へ連れて行く。
良くて人身事故。
最悪の場合、人殺しになってしまう可能性だってあるのだ。
何でもっと注意しなかったのだろう。
普段ならもう少し慎重に運転しているはずなのに。披露宴が近づいていたせいか、浮かれていたのかもしれない。
もしもタイムマシーンがあるなら、ちょっと前に戻って……。
現実逃避している場合かって!
早く連れて行かないと、この子を。
とても壊れやすいガラス細工を扱うようにして、そっと両腕に抱き抱える。
未だピクリともしていない。
俺は泣きそうになりながらも、後部座席へ慎重に寝かせた。
早く近くの病院へ連れて行かないと。
いや、遠いけど設備の整った大学病院のほうがいいんじゃないか。
とりあえず眞澄に連絡を入れておいたほうが……。
駄目だって。
彼女を余計に心配させるだけだ。
幸いまだ仕事帰りだと思っているだろう。
それにもういつもなら寝ている時間だ。
今はこの子を何とかする為に出来る限り足掻こう。
「頼むから助かってくれよ……」
バックミラーで覗きながら神に祈る気持ちだった。
「ゴホッ……」
「……。え?」
慌てて車を停め、後ろを振り向く。
「あっ!」
子供の口から血が出ている。
すぐ飛び降りて後部座席へ向かう。
跳ねてから時間をおき過ぎたからか?
どうしよう……。
「君…、大丈夫か?」
まるで返答など返ってこなかった。
パニックを起こしそうなほど錯乱していたが、懸命に自分を保つよう頭を叩く。
「うぐ…、ゴホ……」
再び吐血する少年。
「君っ! おい、大丈夫なのか?」
目の前が真っ暗になりそうだった。
必死に体を揺さぶる。
「……っ!」
糸の切れた操り人形のように首が横へ倒れる子供。
「お、おいっ! 冗談だろ? ちょっと…。ねえ、君っ!」
泣きながら大声を出し、何度も体を揺すぶった。
悲鳴に近い俺の声だけが聞こえる。
「頼むから…、頼むから生きて…。生き返ってくれよ……」
両肩をつかみながら激しく揺さぶってみる。
しかし少年の体はまるで力無く、その振動で動くだけだった……。
ただ目の前で起こった光景を見つめる事しか俺にはできない。
どうすんだよ、これから……。
俺は…、たった今、一人の少年を殺してしまった。
その場へしゃがみ込み、頭を掻き毟る。
髪の毛を引き千切るぐらい強く掻き毟っても、他に術などない。
道路へ土下座するように手をつき、そのまま嘔吐物を吐く。
頭の中がどうかなりそうだった。
このまま錯乱してしまえば……。
吐血した少年の姿が目を閉じていても瞼にこびりついている。
そして彼を跳ねた瞬間が何度も脳裏で繰り返し映像化されていた。
全身が大きく震え出す。
自身に降りかかった現状の重さ。
先の展開を考えると気が狂いそうだった。
再び流れ出る嘔吐物。吐いたものがゆっくり地面を流れ、手につく。
それでも俺は体勢を変えられずにそのまま固まっているしかなかった。
眞澄に…、何て報告したらいいんだ?
この事実を知った清美おばさんは、どんな顔をして悲しむのか。
たった今、俺は殺人者になってしまったのだ……。
悲しみ、嘆き、困惑、恐怖……。
様々な複数の感情が、同時期に頭の中を駆け巡る。
そんな中、俺が自然とした行為は涙を流すというものだった。
これは何の為の涙なのか?
一つの感情によるものではなく、たくさんのものが入り混じった表現しようのない涙。
辺りに誰もいないせいもあり、俺は大きな雄叫びを上げながら号泣した。
泣いたところで何一つ始まらない。
そんな事は百も承知している。
だが、これからどうすればいいのか分からなかった。
当然の事ながら一週間後に控えた眞澄との披露宴はパー。
いや、披露宴どころか、今後の人生すべてが罪の償いで生きていくだけ。
幸せに生きていく権利など、どこにもない。
あのまま逃げておけば良かったんじゃないのか……。
押し寄せる後悔の連続。
取り返しのつかない現況。
いつまでこうして地面の上で突っ伏しているのだ。
客観的な事実。
俺は子供を撥ね、そして命を奪ってしまった。
人間として罪深い事は、自殺と人の命を奪う行為だと聞いた事がある。
たった今、人として一番してはならない事をしてしまったのだ。
何で残業などしてしまったのだろう。
何であんな時間、この道を運転してしまったのだろう。
何でもっと早くあの子の存在に気付けなかったのだろう。
いくら振り返ったところでもう遅い。
遅過ぎるのだ。
あの上司だって少しは俺に気遣ってくれていたら……。
俺は一週間後に披露宴を控えている身なんだぞ。
おい…、誰かのせいにしたところで、何も変わらないじゃないかよ。
間違いなく轢いたのは俺。
殺してしまったのも俺。
あの子の人生を奪ったのも俺。
全部俺……。
共に伴侶として歩もうとした眞澄の人生さえも狂わせてしまった。
「清美おばさん…、お……、俺の…、どこが優しいんだよ……」
夢であってほしい。
顔面を強く殴ってみる。
もの凄い痛み。
そう…、これは夢でも何でもない。
現実に実際降りかかったものなのだ。
こんな形で人の死に直面するなんて思わなかった。
もっと自分は平凡で無個性な生活を延々と送るものだって考えていた。
ゆっくり車のほうを振り返る。
「……っ!」
思わず自分の目を疑ってしまう。
目を強く擦り、再び開ける。
俺の見間違えじゃなかった。
そこには暗闇の中、フードを頭まで被った人が覗き込むようにして車内に横たわる少年を無言で眺めている。
人に見られた……。
小刻みに震える体。
もうこれで俺は、逃げられない。
頬に何かが当たった。
それが雨だと気付くまで数分掛かる。
静かに降り注ぐ雨で徐々に濡れていく体。
呆然としながら見知らぬ男の後姿を見つめる自分。
男は俺の存在など気付かないかのように少年を眺めている。
「ま、まだ…、生きていますか?」
自然と口が開く。
馬鹿な、俺は何を言っているんだ?
俺の声に反応したのか、男はしばらくしてからこちらを振り向く。
奇妙な格好をした男だった。
薄汚れた鼠色のフードを頭から被り、マントのようなもので全身を覆いつくしている。
日本人離れした顔立ち…、いや、他のどの国の外国人とも違うような顔の作り。
言い方を変えれば、人間ぽくないのだ。
もちろんちゃんと両足で立ち、その姿は誰が見ても人間そのもの。
しかし彼を纏うオーラのような見えない異質なものを感じる。
どのぐらい時間が経ったのだろう。
男は一切表情を変えず、こちらを凝視していた。
不思議と俺も、そんな彼を黙ったまま見ているだけだった。
何も考えずスッと自然に出てしまった言葉。
何故まだ生きているのかなど、馬鹿げた事を俺は言ってしまったのだろう。
見知らぬ男にそんな台詞を言ったところで、どうにかなるものはないのに。
「私が見えるのか」
「え……」
見える?
確かに今、男は静かにそう言った。
「答えよ、人間」
人間?
人間って何?
ひょっとして俺の事?
他に誰がいるんだって。
俺しかいないだろうが。
「は…、はあ……」
喉に詰まった何かを押し上げるようにして、ようやくか細い声を出す。
見えるのかってこいつ、一体何が言いたいのだ?
「久しぶりなものだな」
雨の降る夜空を見上げながら呟くようにして男は言った。
「え、な…、何が……」
男は答える代わりに車内の少年をジッと眺めている。
地面を叩く雨音だけが聞こえてきた。
時たま目に入り込む雨を手で拭いながら、立ち尽くす俺。
あきらかに通常の人間とは違う何かしらの存在。
一体こいつは何者なんだろう。
先ほどまで怯えながら震え、泣く事しかできなかった自分が妙に落ち着いている。
何とも言い難い不思議な感覚だった。
「助けたいか」
「え?」
今、俺に言ったんだよな?
「二度は言わん。どうしたい?」
「……」
助ける?
この子を?
どうしたいって……。
「あっ!」
男の体が微妙に薄れていき、中心に明るいものが照らされている。
違う、体の中から明るいものが光っているのだ。
気付けば男の両手には大きな鎌が握られていた。
死神……。
その様子を見ながら、そんな連想を勝手にしていた。
生死を司る神。
そんな表現がピッタリだ。
もしかして…、先ほどの助けたいかって、あの子をこの男が助けてくれるとでも言うのか?
鈍い光を放つ鎌がゆっくりと真上に上がっていく。
まさか……。
「ちょ、ちょっと待ってっ! 助けたいっ! お願いします。助けて下さい。何でもしますからっ!」
気付けば俺は、両手を合わせながら大声を張り上げていた。
途中で鎌の動きが止まる。
スローモーションな映画を見ているような感じで、ゆっくりと男は俺を振り向いた。
「分かった。契約成立だ」
「え?」
「右手をこの子へかざしてみろ」
右手?
かざす?
自分の手をゆっくり開く。
いつもの見慣れた手の平。
これをあの子へ?
今は余計な事など考えるな。
言われたようにそっと右腕を上げ、少年に向けてみる。
「よろしい。これであと二回だ」
あと二回?
何だ、そりゃ……。
「あっ!」
それだけ言い残すと、男は暗闇の中で溶けるようにして消えていく。
おいおい…、本当に死神だったのかよ?
そんな事よりも子供は……。
変わらずに横たわっている少年。
一体手をかざしたところで何が…、ん?
今、一瞬瞼が動いたような……。
目の前には少年が両目を見開き、驚いたように車内をキョロキョロ見回している。
「ほ、ほんとに生き返った……」
少年と目が合う。
「あれ? おじさんだーれ~? あ、苦しい~」
俺は無我夢中で少年を抱き締めていた。
先ほどの一連の光景が、未だ夢のように感じる。
一体あれは何だったのだろうか?
死神…、そんな表現がしっくりくる。
俺がかざした右手。
あれで本当に子供が生き返ったのか?
自分の眼で見ておきながら、未だ夢の中にいるようだった。
あの状況のままでは絶望しかなかったはず。
いい方向に考えてみよう。
どちらにしても俺は助かったのである。
それでいいじゃないか。
少なくても殺人者としての烙印を押されずに済んだのだ。
「……」
ひょっとして今こうしている事態が夢?
頬をつねってみる。
痛い……。
うん、やっぱり夢なんかじゃなく現実の世界だ。
でも現実の世界に死神なんているものなのか?
そもそも死神なんて存在は架空のものとして、神話で語り継がれてきた。
ギリシャ神話ではタナトス…、それに冥界の王としてハデスなどが、死を司る神として有名だ。
オシリスやアヌビスは確かエジプト神話だったっけ?
北欧神話ではオーディンなど。
全部ゲームで得た知識だけど。
今度ちゃんと調べてみようかな。
先輩の話だと、神話ってもんは酷く退屈なものだが読んでいると、たまに面白い話にぶち当たるって聞いた事がある。
『トロイの木馬』や『パンドラの箱』などがそういった部類に入るらしい。
でも全然読書なんてしないからなあ、俺。
どうやって神話から死神を調べればいいんだ?
帰ったら眞澄に聞いてみるか。
あいつの事だ。
「急にどうしたの?」なんて聞かれるだろう。
今日起きた出来事を正直に伝えてみようかな……。
いや、子供は無事生き返ったのだ。
無理に心配させるような火種をこちらから言う必要性などない。
黙っておこう。
「よろしい。これであと二回だ」
最後にあの男が言った言葉。
あと二回とは、どんな意味が……。
右手を再び開き、ジッと見つめる。
あのように手をかざすだけで、俺はあと二回、人間の命を救えるという意味合いなのだろうか?
「分かった。契約成立だ」
契約…、そうあの男は確かに言った。
契約って何の契約だよ?
別段俺に変わったところなど何もない。
でも契約というものは、本来双方の意思表示の合致があって初めてそうなるもの。
助けたいかとあの時聞かれた。
俺はそれに対し、助けたいと思った。
するとあの男は右手をかざせと命じ、あの子は生き返ったのである。
おかげで最悪のシナリオを避ける事ができた。
俺にとっては有利な契約だ。
待てよ…、では向こうにとってのメリットは何だよ?
俺は得をした。
逆に向こうは何て表現していいか分からないけど、何かしらの能力を使ったはず。
つまり労力を使わせたという時点で、あの男にとってはマイナス…、デメリットしかない。
では、彼がメリットを得る為の条件とは?
もしもあの男が死神だと仮定すると、望むものは一つしか……。
「お…、俺の命……」
自分で声を出しておきながら、震えているのが分かる。
あと二回…、この右手の能力を使った時点で、俺は魂を抜き取られるのか。
馬鹿馬鹿しい。
何で三回もチャンスがある?
そんな力を持っているなら、あの時点で俺の命など簡単に奪えたはずだ。
もう一度出てきてくれないかな。
そうすればもっと詳しく色々質問できるのに。
そんな事を考えている内に、俺はマンションへ到着した。
体を揺さぶられる感覚。
瞼を開けようにも重く開かない。
「ねえ、起きてってばぁ~」
眞澄の声が聞こえる。
重い瞼を懸命に開けた。
「あ、やっと起きた。何かすっごくうなされていたよ?」
「え、俺が?」
「うん、いつも静かに寝るのに変だなあって思ってさ」
「そっか…、よく覚えていないけど、怖い夢でも見たんだろうな。ところで今、何時?」
「九時十分前」
「ゲッ! 完全に遅刻じゃんか」
ガバッと布団を剥ぎ起き上がった。
横でクスクスと眞澄が笑っている。
「今日はお休みでしょ、もう」
「そ、そっか…、ははは……」
昨夜の帰り道だけで色々あり過ぎたせいかよく眠ったはずなのに、いまいち疲れが取れていない。
できればもう一度寝たい気分だった。
「朝食できてるよん。今、スープ温め直しておくね」
「ああ……」
陽気に鼻歌を唄いながら眞澄はキッチンへ向かう。
こいつとこれからの人生をずっと生きていく俺。
当たり前のような日常が怖く感じた。
あの笑顔を見られなくなってしまう時が来るかもしれないのだ。
ゆっくり右手の平を開き、見つめる。
あと二回…、かざしただけで俺は……。
そんなの嫌だ。
俺はまだまだ眞澄と共に生き、ずっと時間を共有したい。
もっともっとこの生活を楽しみたいんだ。
やっとつかんだ幸せだぞ。
そう簡単に手放せるかよ。
「彦明~、どうしたの~」
「あ、今行くよ」
もっと前向きに考えろ。
あと二回で、俺がどうなるかなんて分からない。
なら使わなきゃいいだけ。
右手をかざしたりしなければ、現状を維持できるはず。
不安になる要素なんてないじゃないか。
よりネガティブな方向に頭を使え。
例えばだ…、俺は最低でもあと一回は、人間を生き返らせる能力を持っているんだぞ?
それってすごい事だろう。
世界中のどんな医者よりも、いや、歴代のどんなに優れた名医よりも俺はすごいのだ。
この右手をかざすだけで。
でも…、本当にそれで人間を生き返らせる事などできるのだろうか?
あの時の子供は確かに息を吹き返した。
だけどあの男もそばにいたから、右手をかざすのがたまたま合図になっただけの話かもしれない。
もちろん俺一人でそんな事できるはずないのだから。
もう一度あの男に会って、ちゃんと説明をしてもらいたいものだな。
現状だとヒントが少な過ぎる。
「ねえ、スープ冷めちゃうよ~」
「ごめんごめん、すぐ行きます」
重い腰を上げ、俺はキッチンへ向かった。
眞澄の作った朝食。
野菜たっぷりのミネストローネスープ。
俺が一番好きなスープである。
具がたくさん挟んであるサンドイッチ。
三枚のパンを一つに揃えて形良く切ってあるので見た目も非常に豪華だ。
オリジナルの塩ドレッシングが掛かった大根とレタスのサラダ。
酢の苦手な彼女は、何度も挑戦してこのドレッシングを開発したらしい。
塩が効いていて抜群にうまい。
そういえば眞澄の前に付き合っていた女って、本当に酢の好きな女だったっけ。
餃子は醤油もラー油も入れず酢だけで食べるし、ラーメンなんて酢の入ったビンのふたを外してドバドバ中へ入れていたしなあ……。
あれを見て、俺は別れを決意したほどだった。
ステーキハウスへ行った時、レアに焼いた肉の上に「酸味、もうちょっと効いているほうがおいしいよね」なんて言いながら、俺の目の前で持参した酢を掛けやがって。
おかげで食欲がみるみる内になくなっていった。
別に酢が嫌いって訳じゃない。
ただ、あの女の酢の使い方が常軌を逸していたのだ。
「ねえ、どうしたの? ジッと料理を見つめてさ」
「ん…、いや。眞澄の作った料理って、本当に見た目も綺麗だし、味も最高だなあって見とれていただけ」
「もう嫌だな~。おだてたって何も出ないぞ」
料理を褒めると眞澄はそれだけで機嫌が良くなる女だった。
彼女の夢は、自分でハンバーガーのバンズを作り、究極のハンバーガーを完成させたいようだ。
眞澄の作るハンバーグはとても絶品である。
掛けるソースだけで二日間も時間を掛けるぐらい。
凝り性の彼女はパンですら自分で作りたいらしい。
物臭な俺には理解できないが、うまいものがこうして食えるのだから恵まれた環境にいる。
味覚の一致って本当に大事だ。
好みの味付けがお互いある程度似ていないと、食事の際大きなトラブルになる恐れがある。
俺は眞澄の作った料理が好き。
これからもずっと彼女の手料理を食べ続けながら人生を歩むのだ。
酢女と別れておいて正解だった。
湯気を立てているミネストローネの入ったカップを手に取り、口へ持っていく。
「……」
あれ?
どうしたんだ、今日のスープ……。
まるで味を感じないが……。
もう一口飲んでみる。
「……」
赤オレンジ色のスープがただ喉を通って胃袋へ流れ込む。
そんな風にしか感じない。
何か彼女の身に起こっているのか?
そっと眞澄を見ると、フォークでレタスを刺しているところだった。
特に変わった様子はない。
サンドイッチを手に取り、食べてみる。
「……っ!」
おいおい…、何でこれも味がしないんだ?
続けて塩ドレッシングの掛かったサラダを口へ運ぶ。
まただ…、味がしない……。
待てよ、これって眞澄の作った料理が変なんじゃなく、俺の舌がおかしくなったんじゃないのか……。
確か舌ってどの部分で甘味や苦味などを感じるって、ちゃんと分けられているんだよな。
歯に近い先端の部分は甘さを感じ取り、その左右の部分が塩味、奥で苦味をって前に何かで見た記憶あるんだけど。
でもそれって結局間違いだって今じゃ言われているんだっけ?
本当は五つの味を感知するとか……。
いや、そんな事どうだっていい。
問題なのは俺が何を食べても、何の味も感じていないという事だ。
料理を舌の先端や奥で食べるよう意識してみるが、変わりはない。
これって味覚がおかしいなんてもんじゃねえぞ……。
「あー、もう…、どうしたの~」
慌てて眞澄が布きんを取ってテーブルを拭く。
いつの間にか俺はスープカップをテーブルの上に落としていたようだ。
もう永久的に味を楽しめる事がないのだろうか?
ただ食べ物を胃袋へ収めるだけの作業。
今後の食事の度にそうなっていくのかよ?
「ねえ、眞澄…、コーヒーをもらえないか?」
「はーい」
甘味、塩味、酸味、苦味…、何でもいい。
お願いだから何かしらの味を感じたかった。
クリームも砂糖も入れず、煎れてもらったコーヒーをブラックで飲む。
「……」
同じだ……。
食べ物を食べた時とまったく同じ……。
苦味も感じなければ、熱さすら分からない……。
液体が喉を通って胃袋へ。
そんな感覚しかない。
「ねえ、彦明~、どうしたの? 何か悩み事でもあるの?」
心配そうに覗き込んでくる眞澄。
その綺麗な瞳を見つめながら、もう彼女の料理を堪能し、舌鼓を打つ事すらないのかと、絶望に近い感情が全身を渦巻く。
「いや、何でもないよ」
無理に笑顔を作って取り繕う。
味わう事ができない。
それを何て説明していいか分からなかった。
そして彼女へ変な心配をさせたくなかったから。
何故いきなりこんな風になった?
もしかして味覚生涯ってやつか?
それにしては突然過ぎる。
でもそういうのって、突然なったりするもんじゃないのか?
落ち着け……。
動揺を顔に出すな。
「さっきさ、彦明がうなされていたって言ったでしょ?」
「え?」
「さっき寝ている時」
「あ、ああ……」
会話が急に飛んだので、うまく対応できない自分がいる。
「気味悪く思わないでね…。私の目の錯覚だと思うんだけど…。夜中トイレで目を覚まして戻ってきた時ね、フードを被った男の人が彦明を覗き込んでいたの」
「何だって?」
思わず大きな声を上げていた。
フードを被った男……。
あの男が寝ている間、俺を覗き込んでいただと?
「だから私、目を何度も擦ってまた見たら、彦明がうなされながら寝ていただけだったの。多分見間違いと言うか錯覚? 昨日一人でホラー映画見たせいかもしれないけど」
「……」
いや、それは錯覚でも何でもない。
間違いなくあの男だろう。
一体どういうつもりだ?
何か用が…、言いたい事があるのなら、ちゃんと俺が起きている時に来ればいいものを。
「ごめんね、変な事を言っちゃって……」
「全然…。夜中にそんな錯覚みたいなものを見たら、ビックリするよな。でも、ホラー映画を見るのは程々にしときなよ。眞澄に何かあったら俺が困る」
そう言って笑顔を作る俺。
「ありがとう…。昔の話なんだけどね…、聞いてくれる?」
「ああ」
「う~ん…、私が何歳の頃だったっけなあ。中学生の時だったんだけど、私っておばあちゃん子でさ。本当に優しいおばあちゃんだったんだ」
「へえ、いい事だ」
「季節は秋だったんだ。学校から帰って勉強している内に、自然と眠くなって寝てしまったの。そしたら寝ているはずなんだけど、夢とは違うような感覚って言ったらいいのかな…。おばあちゃんがいつものように掃除をしている映像が脳裏に鮮明に浮かんできたの」
「ふーん、それで?」
「掃除が本当に好きな人でね。私が学校行くのを見送ると、すぐ雑巾を持って掃除をするぐらい。その時は同じように掃除機を隅々まで掛けて、木の廊下を丁寧に拭いていたのね」
「ずいぶんと地味な夢だね」
「うん、そうだよね。ただ一つ違ったのが、いつの間にかおばあちゃんの近くに一人の男が立っていたの」
「家族の人?」
「ううん…、見た事もない知らない人」
「そうなんだ。…で、それって一体誰だったの?」
「今でも分からない…。不思議だったのが、本当にすぐそばに立っているはずなのに、おばあちゃんはその人の存在にまったく気付いていないの。ごく普通に掃除をしているだけ」
「まるで気付いていないんだ?」
「少しして男の人がおばあちゃんに近づいて、そっと肩の辺りに手を置いたのね」
「うん」
「そしたらおばあちゃんが急に二人になって、一人はそのまま廊下を拭き続けるおばあちゃん…、もう一人のおばあちゃんは男の人の手を取って、子供が喜ぶような屈託のない笑顔をして立ち上がったの」
「分裂したって事?」
「う~ん、分裂…、うまく表現できないけど、そんな風な感じかな」
「一人は変わらず男の存在に気付かず、もう一人は男の存在を分かったって感じ?」
「そうね…、そんな風に見えた。何故かその男の人が話す声が聞こえたのね、私にも。『さあ、私と一緒に行こう』って…。そのまま手を引かれ、おばあちゃんは男の人と玄関から出ていったの」
「もう一人のおばあちゃんは?」
「変わらずに掃除をしていたんだけど、玄関の戸が閉まると同時に廊下へ突っ伏すようにして倒れたの」
「……」
「それから二度と起き上がる事はなかった……」
「辛い夢を見たんだね……」
「夢じゃない……」
眞澄の声が震えていた。
「え?」
「あれは夢なんかじゃなかった…。だっておばあちゃん…、心不全だったんだけど……。私が見た光景と同じようにして亡くなっていたんだって……」
「……」
「多分、私はおばあちゃんの最後の瞬間を見てしまったんだと思うの……」
「そっか……」
そんな台詞しか思いつかない俺って情けない。
辛い過去を思い出したのか、眞澄はテーブルへ突っ伏して泣いていた。
そっと彼女の肩へ手を置く。
小刻みに震える体の振動が、腕を通して伝わってくる。
「そ…、その男の人ね……」
「眞澄…、辛かったら、もう無理に話す事なんてないんだよ」
ちょっと触っただけで壊れてしまいそうな宝物を大切に扱うような気持ちを込めて、優しく話す。
「それがね…、昨夜私が見間違えたって言ったでしょ? コートを頭から被った人が見えたって」
「ああ、それが?」
「おばあちゃんの時と…、同じ人だったの……」
「……」
死神……。
自然とその言葉が頭の中で浮かび上がる。
死を司る神……。
生死を操る存在……。
死という暗い概念からか、不吉なものとして扱われる事が多いが、果たして本当にそうなのだろうか?
人間の真の始まりと終わりは、生の誕生と死になる。
つまり一番大事で逃れられない場を任されている存在そのもの。
様々な説を聞く。
魂を抜かれるという恐怖の対象として。
また魂を導く為の案内人として。
先ほどの眞澄の話だと、その両方の表現が合う。
おばあさんの魂を抜き、それを導いた。
彼女が中学時代に見た二人のおばあさんとは、一つがこの現世で存在する体の部分であり、もう一つが魂が具現化した部分なんじゃないだろうか?
すっかりと冷めてしまったコーヒーを飲んでみる。
いや、湯気が立っていないからそう思っただけで、もう俺には熱い冷たいの区別すら分からない。
「分かった。契約成立だ」
あの男はそう言った。
何となく分かってきたような感じがする。
不注意で轢き、殺してしまった子供の命を助ける代わりに、きっと俺は味覚という部分を奴に奪われたのだ。
だからこそ、契約という言葉を使ったんじゃないか?
そしてあと二回と彼は言った。
次にこの右手の能力を使えば、また何かしらの障害が自身の体に反映されるだろう。
味覚を失った。
残るは何だ?
視覚……。
聴覚……。
嗅覚……。
触覚……。
目が見えなくなる。
耳が聴こえなくなる。
匂いが分からなくなる。
手で触った感覚すら分からなくなる。
どれが無くなっても嫌だ!
おそらく次に誰かの命を救ったら、その内のどれかを失ってしまう。
二度目を使った瞬間、俺は間違いなく魂を奪われるんじゃないか?
「私の見間違いだよね? そうだよね?」
「ああ、当たり前だろ。おまえの見間違いだ」
俺は眞澄の体をギュッと抱きしめながら、天井を睨みつけていた。