2010年4月29日~2010年4月30日
原稿用紙45枚分
息抜きで執筆した短編ホラー
2010年になってから『鬼畜道~天使の羽を持つ子~』以外の作品を書いたのは、これが初めて
まだ小学生だった頃、夏休みになると、近所のお寺で毎日ラジオ体操があった。
一つ年上の信ちゃんがズルを教えてくれていたので、僕はいつも朝寝坊したふりをして、週に二、三回しか行かなかった。何でかって? だって信ちゃんが言うには、毎日真面目にラジオ体操へ出なくても、何個かスタンプを押してもらえれば、マクドナルドのポテトのSがもらえるからだ。それにお寺へ行く途中の道にいつも朝、チワワがたくさんいて、僕を見るとキャンキャン吠えて追い駆けてくる。もし、噛み付かれたら嫌だし、朝眠いのも手伝い、行ったり行かなかったりした。
でも、あの頃ラジオ体操へ行くと、決まって口うるさいおばさんがいたよなあ……。
「昭雄君、何であなたは毎日ちゃんと出てこないの?」
「え? べ、別に…、特に理由は……」
「じゃあ、明日もちゃんと出なさいよ?」
「は、はい……」
そう言いながらも僕は翌日、ほとんどサボる。日にちを空けてから行くと、同じような文句をいつも言ってきた。どうせ、その繰り返しだ。
ちゃっかりマクドナルドのポテトのSをもらう僕。
毎日出た子。まったく出ない子。僕みたいにたまにしか出ない子。それでも同じ町内の子なら、みんな平等にもらえた。
真夜中に目を覚ます。懐かしい夢を見たな。コタツに入ったまま、寝てしまったようだ。
何であんな昔の夢を見たのだろう……。
無意識にテーブルの上へ手を伸ばそうとして、買い置きのタバコが切れている事に気付く。失敗したなあ。あの時買わなきゃって思っていたのに。いつも僕はこうなってから、初めて後悔をする。
今から近くの自動販売機まで買いに行くか。コタツから這い出て立ち上がる。だけど、どうも気が進まない。身も凍るような寒さのせいもあるが、問題はこの時間帯なのだ。
元々怖がりの僕は、草木も眠る丑三つ時ってやつがどうも嫌な感じがする。潜在意識の中にインプットされているように……。
それに夜中になると寝静まる暗い住宅街を歩くのも、できれば避けたい。
じゃあ、このまま寝て朝まで我慢? いや、こんな中途半端な時間に起きたせいか、まるで眠くない。うーん、タバコがない状態で起きているのも辛いしな。
仕方なくジャンパーを着込み、靴下を履く。こんな時ニコチン中毒気味の自分を恨めしく思う。
部屋を出る際、時計を確認する。
夜中の一時五十八分。
もうじき二時になるじゃないかよ。草木も眠る丑三つ時ってやつに……。
やめろって、変な事を思うのは。そうやって考えるから、余計に怖さを感じるのだ。病は気からと一緒で、そういうのもすべて気のせい。タバコが切れたから買いに行く。ただそれだけの事じゃないかよ。
ドアをそっと開ける。
「ん?」
聞き覚えのあるメロディ。
耳を済ませてようやく聞こえるぐらいの音量。
これってラジオ体操の音楽じゃ……。
誰かがラジオでもつけっ放しにしているのか? そんな事を思っていると、いつの間にかラジオ体操のメロディは聞こえなくなっていた。気のせいか? それにしても寒いなあ。
隣の部屋で寝ている両親を起こさないよう忍び足で階段をゆっくり降りる。
ミシッ……。
木でできた古い階段を踏みしめると嫌な音がした。手すりをつかむ手に力を入れ、できるだけ足元へ体重を掛けぬよう心掛ける。母ちゃんはともかく父ちゃんは本当にうるさいからな。
二十三歳の若さで突然のリストラ。まだ失業保険をもらえているから、生活するには困らない。だけど昔気質な性格の父ちゃんは、「おい、昭雄。そんなもん当てにするんじゃなく、早く就職口を探せ。昔はそんなもん、堂々ともらいながら何もしないなんて、恥ずかしいって後ろ指を指されるんだぞ」と、本当にやかましいのだ。
こんな夜中に外へ出ようとするところを見つかってみろ。また説教が始まる。
一歩一歩慎重に足を下ろし、足音を立てないよう注意を払う。
ようやく一階まで辿り着くと、そーっと下駄箱を開け、靴を取り出す。ドアの鍵を外し、ゆっくり開けた。隙間から冷たい風が入り込んでくる。寒いな。もう少し厚着にしてくれば良かった。また部屋まで戻る事を考えたら、このまま行ったほうがいいよな、面倒だし。
「……っ!」
頭を玄関から出した時、危なく声を出してしまうところだった。人間、本当に驚くと声が出ないって、あれ、嘘じゃなかったんだ……。
いつもの見慣れた景色。しかし、一点だけ日常と違う部分に視線が行く。
何だよ、あの女は?
目の前に広がる道の右手に、黒い髪の長い女が立っていた。
櫛で整えていないのか、乱れたままの髪。こんな真冬なのに、薄水色のワンピースの上に、コートを羽織っているだけ。頭がおかしいんじゃないか。
まさか、幽霊って事はないよな……。
ゆっくり女の足元へ視線を動かす。うん、足だってちゃんとある。人間だ。
だけどあの人は何故こんな真夜中に、ひと気のない住宅街の中を一人ポツンと立っているんだ?
ドアの隙間から見える奇妙な光景。しばらく凝視した。
どうも隣の刈谷先輩の家を眺めているように見える。何かあったのだろうか? 薄気味悪い女は、こちらに気付く様子はない。当たり前か、こっちはドアをちょっとしか開けていないんだから。
どうしよう…。部屋に戻るか? でも、タバコがな……。
いちいち気にするなよ。ただタバコを買いに行くだけだろ? ちょっと頭がおかしい人なんて、この世の中腐るほどいる。それに僕は男だし、何かされる事はないだろう。
変にジロジロ見て目が合うのも嫌だし、普通に行けばいいさ。幸い自動販売機は左側にある。
そう必死に言い聞かせながら、ドアを静かに開けた。
道へ出る。女の存在に気付かぬよう無視して左へ歩く。これで視界の隅に映っていた女の姿は見えない。
薄暗い住宅街の道を進みながら、何で市役所の連中はどうでもいい無駄な道作りはするのか無性に腹が立ってきた。こういう閑散としたところへ、街灯の一本でも多く立てればいいのに…。事故が起きないようミラーをもっと設置するとか……。
苛立ちを覚えながら歩いていくと、十字路へ差し掛かる。ここは見通しが悪く、事故が多発する場所だ。この辺の住民の苦情が多く、一週間ほど前にようやくミラーが取り付けられたばかり。ふと、新品のミラーを見上げる。
「え……」
危なく悲鳴を上げそうになった。何故なら先ほど道端に立っていた女の姿が、ミラーに映っていたからである。
ひょっとして僕のあとをつけているのか? 違う…。ただの偶然だろ……。
でも、何でこんな夜中にあそこへいた? しかも一人で……。
様々な想像をしている内に、恐怖心はどんどん大きくなる。全身に広がる寒気。そして鳥肌が立っているのは、寒さだけのせいじゃない。
もう怖くてミラーを見られなかった。
こんな状況、どうしたらいい? 家に戻ろうにも今、真後ろにあの女がいるんだぞ?
いちいち気にするな。馬鹿、何かあったらどうするんだよ……。
女とすれ違うのだけは嫌だ。このまま気付かぬふりをしながら、真っ直ぐ進むしかない。ひと気のある場所へ行けば、きっとそこまではついて来ないだろう。
十字路を左へ曲がって百メートルほど進めば、タバコの自動販売機はある。でも、あの辺って暗いんだよな……。
真っ直ぐ行けば、二十四時間営業のファミリーレストランがある。僕は曲がらずにそのまま進む。あの女、どちらかへ曲がってくれないかな。
振り返る勇気などない僕は、ひたすら歩き続けた。
大人しく部屋にいれば良かった。でも、もう遅い。
深夜の静まり返った住宅街は、それだけで気持ち悪かった。父ちゃんの言う通り、早く就職してこんなところ出て行かなきゃ。もっと都会で人が夜だっていっぱいいるような場所で、一人暮らしをする。うん、想像しただけで何だか楽しくなってきたぞ。
もっと明るい事を考えよう。都会へ行けば、可愛い女の子だっていっぱいいるし、彼女の一人ぐらいすぐできるかもしれない。そしたら同棲なんかしちゃって……。
ようやく大通りの信号が見えてくる。少しホッとした。あそこまで行けば、すぐレストランだ。着いたら温かいコーヒーでも注文して、朝まで時間を潰せばいいや。
え、タバコを買いに来ただけなのに、何でレストランへ入る? あの女が…、違う。変な事を考えるなって。寒いから体を暖めたいだけだろ。そう思いながらも僕は自然と早歩きになっていた。
信号まで来てレストランの赤い屋根が見えると、ほとんど駆け足になっている僕。学生時やった運動会のよりも全力で走っていた。
「あれ?」
走りながらおかしな点に気付く。何であの店、明かりがついていないんだろう……。
近くまで行くと、営業していない事が分かった。おいおい、ちょっと勘弁してくれよ。何で二十四時間営業なのに、閉まっているんだよ?
店の入り口まで行くと、ドアに一枚の貼り紙がしてある。
『リニューアルの為、一時お休みいたします。リニューアルオープンは三月下旬を予定しています。ご迷惑をお掛けしますが、ご了承下さいませ。これからも当店をよろしくお願いいたします。 店主』
ふざけんじゃねえって……。
断りもなく勝手にリニューアルなんてしてんじゃねえよ。絶対にオープンしたって行ってやらないからな。
それにしても何てついていないんだ。
こうなったらちょっと歩くけど、駅前の牛丼屋へ行こう。
心細い気持ちのまま駅方向へ向かった。車が向かいから走ってくるのが見える。ちょっとだけホッとした。自然と車の運転手を見ようする。
「はぁ?」
運転手の顔が見えないぞ、あの車……。
馬鹿な…。誰もいないのに勝手に車が走っているとでも言うのかよ? つい、通り過ぎた車を振り返る。
「あっ!」
全身に震えが走った。先ほど渡った信号のところに、あの女の姿が見えたからだ。
僕のあとをつけて来たのか?
そう思った瞬間、一目散に駅へ向かって走り出した。
ほとばしる汗。何で真冬なのに、こんな汗を掻かなきゃならない。肺が苦しいし、心臓がパンクしそうだ……。
もうタバコなんてやめちまおう。
ずいぶんと走ったよな?
息を切らせながら背後を振り向く。
「ふう……」
もう、あの奇妙な女の姿は見えなかった。その場で立ち止まり、膝に両手をついて息を整える。
思えば家から出る時あんな変な奴を見つけたんだから、部屋に大人しく戻れば良かったんだ。タバコを朝まで吸わないからって、死ぬ訳じゃないし……。
それにしても、あの女って一体何をしていたのだろう?
刈谷先輩の家を見ていたけど、あそこの誰かと知り合いなのか?
どっちにしたって普通じゃないよ、あの女。服装も変だけど、深夜あんな場所でたっている時点でおかしい。
何故僕のあとをつけてきたのだろう。いや、ひょっとしたら、あのレストランへ行こうとして、閉まっていたから帰っただけなのかもしれないな。きっとそうだよ。
少し不自然な事に気付く。あれから車が一台も通らない。さっきのあの車って、本当に運転手が乗っていなかったのか? 夜で暗いし、車内がよく見えなかっただけだって……。
まだ立ったままの鳥肌。もう変な事を考えるのはよそう。
良かった。牛丼屋は営業しているようだ。
駅前まで行くと、何人かの姿が見えたので、ようやく安心できた。僕はタバコを購入してから牛丼屋へ入る。
特に腹が減っている訳じゃないが、少しここで明るくなるまで時間を潰そう。店内には僕以外客はいなかった。先ほど注文を受けた茶髪のアルバイト男が、暇そうに鼻くそをほじっている。不衛生な野郎だな。料理を運ぶ前だったら、ひと言怒鳴っていただろう。
そういえばここって店内禁煙か……。
一度出ちゃうと再び中へ入るのは駄目だろうし、どうする? 外で一本吸ったら、コンビニで雑誌でも立ち読みしていればいいか。
ガラス張りの入り口を見ると、息が止まりそうになる。外にはさっきの女が立っていたから……。
「て、店員さん……」
「はい、ご注文でしょうか?」
「あ、あれ……」
外を指差しながら懸命に声を振り絞る。
「はあ? あれって……」
恐る恐る振り返ると、さっきまでいた女の姿はなかった。僕の気のせいだったのか? でも、ちゃんとこの目で見たはず。
「外に女がいたんです!」
「お客さん…、別に駅前なんだし、女性が歩いていてもおかしくないでしょ?」
「そうじゃなくて……」
ああ、もどかしい。家の近くにいたあの女の説明を一からしなきゃ分かってもらえない。仕方なく僕は、店員に事情を話した。
「うーん、申し訳ないんすけど、それって気のせいってやつじゃないすかね」
「でも…、僕はこの目でちゃんと……」
「確かに家のそばに女が一人立っていたっていうのは気持ち悪いすよね」
店員も、僕の話に興味を示してきたようだ。
「そこなんですよ。こんな夜中に女が一人で道端に立っているって、異常ですよ。家の隣の刈谷さんていう先輩の家の前にいたんですけど」
「え、刈谷さんと知り合いなんすか?」
驚いた表情になる店員。
「一つ年上だけど、隣同士だから幼馴染みたいなもんなんですよ。昔は伸ちゃんって呼んでいたのに、中学へ入ったら急に『刈谷先輩ってこれからは呼べよな』って怒られたんですけどね」
小学生までは優しかった信ちゃん。中学生になってから急につっぱりだして、高校も行かずにヤクザ者になったと風の噂を聞いた事があった。
「刈谷さんも二ヶ月ぐらい前まで、ここでバイトしてたんすよ」
「へえ、あの信ちゃんが?」
案外噂っていい加減なんだな。ヤクザと牛丼屋のアルバイトじゃ、違い過ぎる。でも、幼馴染が噂ほど悪くなっていなかった現実を知れて、どこかホッとしていた。
「結局あの人、短気で客と喧嘩になっちゃって、殴ってクビすよ」
「……」
「あ、自分、諸星三太っていうんすけど、刈谷さんには結構面倒見てもらったんすよ。だから元気でやってんのかなって心配はしてたんす」
三太と名乗るアルバイトは、フォロー気味に慌てて補足した。
「な、何で信ちゃんは、お客さんと喧嘩なんかになったんですか?」
「ほら、客って『つゆだく』とか『ネギだく』とか勝手な注文してくるじゃないすか?」
「『つゆだく』? 何ですか、それは?」
「牛丼につゆをたくさん入れてくれって意味っすよ。『ネギだく』はタマネギを多めにって意味す。それで刈谷さんがバイトしてた頃、ちょっと小生意気そうな客が来て、偉そうに『おい、兄ちゃん。つゆだくネギだく肉三切れな。ちょっとでも肉多かったら、あんた死刑だよん』と馬鹿にしたような注文したんすよ」
「それはちょっと酷い言い方ですね」
「そしたら刈谷さん、このカウンター飛び越えてその客をもうタコ殴りっすよ。締めは強引に口開けさせて、『小僧、たれ好きなんだろうが? ほれ、たんまり飲めや』って丼に牛丼のたれをいっぱい入れて、一気飲みさせたんすよ」
僕は三太の大袈裟なジェスチャーも加えた話を聞いていて、思わず吹き出してしまう。信ちゃんがそうやってこの場所で大暴れしたのか。
「刈谷さん…、今頃どうしてんすかね~……。お客さん、知りませんか?」
「家は隣だけど、信ちゃんとはもう数年も顔を合わせていないんですよ。家にも帰ってきていないみたいだし」
「そうすか…。あ、お客さんの名前聞いといてもいいすか?」
「はい、僕は井上昭雄って言います」
「井上さんすね。よろしくです。刈谷さんってここにいた頃、本当に怖い話をするのが大好きで、色々な話をしてくれたんすよ」
「信ちゃんは、昔っから人を驚かすのが好きですからね」
「ラジオ体操の話って聞いた事あるすか?」
「ラジオ体操?」
「ええ、ガキの頃、近所の広い場所に町内ごと集まって、ラジオ体操するじゃないすか」
さっきうたた寝した時も、そんな夢見ていたっけ……。
「ええ、しますね。それが何か?」
「結構昔の話らしいんですけど、刈谷さんが小さい頃苛めていた女の子がいたらしいんすよ。まあ殴るとかじゃなく、からかう程度っすよ? そしたらその子、ラジオ体操来なくなっちゃって、その親だけは毎日参加していたそうなんすよ」
「信ちゃんって、ガキ大将でしたからね」
あの当時を思い浮かべ、ついクスッと笑ってしまう。
「父親は会社へ、母親はラジオ体操へ行っている間、家に頭のおかしな男が入り、その子、殺されちゃったんす」
「え? いつの話ですか?」
「う~ん、刈谷さんが小一の頃らしいっすよ」
まだその時僕は幼稚園の年長。近所でそんな騒ぎなんてあったっけ?
「もし、それが本当にあった事なら、信ちゃんも複雑な心境だったんだろうな……」
「刈谷さんって結構イケメンじゃないすか。前に超霊能力のある彼女と付き合った時の話もありますよ」
「い、いや、もういいですよ……」
先ほどあれだけ恐ろしい目に遭ってここへ来たのに、それ以上怖い話なんて聞いてられない。
「これがまたすごいんすよ。ちょっとだけ聞いて下さいよ」
妙に興奮する三太。こいつ、深夜一人でするアルバイトが暇でしょうがないのだろう。まあどっちみち朝方になるまで帰るのは嫌だ。彼の話に付き合ってあげよう。
「わ、分かりましたよ。信ちゃんの彼女がどうしたんですか?」
「何でもその彼女、小さい頃から霊感があって、友達の家に行ってかくれんぼをしていた時だったらしいんすけどね」
「ええ」
「洋服ダンスの中に隠れていたら、いつの間にか隣に知らない子がいたらしいんすよ」
「え、だってそれっておかしくないですか?」
「おかしいっすよ。だってかくれんぼの最中、何でいきなり気付いたら知らない子がいるられます? 物理的にありえないんすよ」
タンスの観音開きのドアを開けない限り、普通中へ入れない。もしそこに始めから知らない子がいたなら、入る前に気付くはず。
「そ、そうですよね…、それで?」
「どうしたのって声を掛けると、『喉が渇いたよ~』って泣きそうな顔で言うから、その彼女はかくれんぼをやめて、友達に言ったらしいんす。突然そんな事を言われたら、友達は不思議がりますよね? でも、彼女は『お願いだから早くコップにお水を!』って強い口調で言ったらしんすよね」
「へえ、優しい子なんですね」
「それで時間が経ってから友達が見ると、コップの水は空っぽになっていたらしいっすよ」
ゾッとしてまた全身に鳥肌が立つ。ああ、こんな話聞かなきゃ良かった……。
入り口のチャイムが鳴り、自動ドアが開く。僕は慌てて振り向いた。男の姿だったので、ホッと胸を撫で下ろす。先ほどのあの女かと思ったのだ。
三太のほうへ向きを戻すと、彼は入ってきた客の顔を凝視している。
「か、刈谷さん!」
「え?」
僕も釣られてまた振り向く。
「おう、三太。元気でやってっか…。ん…、お、おまえ…、昭雄か?」
「信ちゃん!」
何年ぶりの再会だろうか。中学を彼が卒業して以来だから、えっと…。そんな年数なんてどうだっていい。幼馴染との偶然的な再会を果たしているんだぞ。
「この野郎、俺の事は刈谷先輩って呼べって、昔あれほど言ったろうが」
そう笑いながら信ちゃんは言った。うん、昔と同じ屈託のない笑顔。変わってないなあ。
「へへ、信ちゃん、最近家に帰っていないの? 全然姿見なかったけど」
「あ、ああ…、久しく帰っていないな」
信ちゃんの表情が少しこわばった気がした。
「刈谷さん、お久しぶりっす」
尻尾を振る犬のように三太は信ちゃんへ近づく。
「おう、三太。元気でやってっか?」
「ブリブリ元気っす」
「ははは、おまえも相変わらずだな」
「今日はどうしたんすか?」
「ん、いやあ久しぶりに実家へ帰ろうと思ったんだけどさ、その前にちょっとここへ顔でも出しておくかと思ってな」
彼の言い方に不自然なものを感じた。だって今の時間は夜中の三時過ぎ。信ちゃんは、こんな時間なのにどうやってここへ来たんだ? 電車だって、とっくに終電などない。
「俺、嬉しいっすよ!」
単純な三太は、信ちゃんがここへ顔を出したという事で嬉しそうにしているが、そのおかしな点にはまったく気付いていない。
「ねえ、信ちゃん……」
「ん、どうした、昭雄」
「車かバイクで来たの?」
「いや、歩きだけど? 何で?」
「ううん、もしバイクだったら外寒いでしょ? 大変だったんじゃないかなって」
とっさに誤魔化したが、やはり彼はここまで徒歩で来た。実家に戻ろうとするなら、こんな時間に帰ろうなんてする人は、まずいないはずだ。
「さっきまで軽く酒を飲んでいたんだ。まだ顔が少し赤いだろ? 車なんか運転していたら、飲酒運転で一発でおしまいだ」
この辺には、こんな時間まで営業しているような飲み屋はなかったはずじゃ……。
「今さっき、ちょうど刈谷さんの話をしてたんすよ」
ジッとしているのができないような性格の三太は、また会話へ割り込んできた。
「何だ、こいつ、俺の悪口でも昭雄に吹き込んでいたのかよ」
「ち、違うっす。ほら、刈谷さんモテモテだったじゃないすか? それで前に聞いた話を幼馴染だという井上さんに言ってただけっすよ」
中学時代と違うのは髪型だ。僕らの中学は男子生徒すべて坊主頭だった。今の信ちゃんは、ジェルかポマードを使っているのかリーゼントヘアーにしている。少し危険そうな香りが漂うけど、こういうタイプって確かに異性からモテるんだろうな。
「前に聞いた話って?」
「怖い話、好きだったじゃないすか」
そこで少しだけ会話が途切れる。
「ああ、怖い話ね……」
ゆっくりと口を開き、先ほどのように一瞬だけ顔をこわばらす信ちゃん。
「それで以前付き合っていたという霊感の強い子いたじゃないすか? その子の話をしていたんすよ」
「三太…、おまえさ…、もういい加減幽霊とかそういう類の話はやめとけよ。幼稚に思われんぞ?」
「酷いっすよ。前は怖がりの自分をあれだけ嫌だって言うのに、散々話していたじゃないすか。おかげでずいぶん慣れましたけど」
「もうあの女とはとっくに別れたんだ」
「何で別れちゃったんすか?」
信ちゃんはビクッとしながら外を振り返る。何となくだけど、僕には何故信ちゃんがこんな時間にここへ来たのか分かった。
「別れたというか、フラれたって感じだな、俺が」
「刈谷さんを振ったんですか?」
「一緒にホテルで寝てて、夜中に目をふと覚ましたら、あの女、起き上がったままジッと俺を見つめていたんだ。で、薄気味悪かったからどうしたと聞くと、『ごめん、私…、帰る』っていきなり言い出してさ。変だろ? さっきまでホテルでセックスしてたんだぜ?」
「思いっきり変すね。刈谷さん、変態チックなプレーでも強要したんすか? いたっ!」
ひと言余計な三太は、頭を叩かれていた。
「俺はノーマルだ。何も変な事なんてしていねえ! いつも通り甘い時間を過ごしていたはずなんだよ。それが突然だったから訳分からなくて…。さすがに何で帰るのかを聞いたんだ。すると、『私じゃ、もう力になれない』って呟いて、泣きそうな顔をして部屋から出て行ってしまったんだ。それ以来、連絡しても一回も出やしねえ」
「その子、頭大丈夫なんすかね」
「よく分からねえけど、変なものでも見えたような顔をしていたのは今でも覚えている」
「変なもの? 心当たりは?」
「あるわきゃねえだろ! だから薄気味悪かったんだ……」
口調は荒いが、話しながら何度か背後を振り返る信ちゃん。
「ねえ、ひょっとしてさっき、家に帰ろうとしたんじゃないの?」
僕が尋ねると、彼は驚いたように顔を向ける。
「昭雄、ひょっとして……」
「僕、タバコを買いに行こうとして四十分ぐらい前かな、家から出たんだ」
「じゃあ、おまえ……」
「だからここまでこんな夜中なのに、僕は来たんだ……」
「……」
間違いない。信ちゃんもあの妙な女を見たのだ。
「ねえ、見たんでしょ、あれ……」
「あ、ああ……」
「いつ、見たの?」
「今さっきだ……」
そう言うと信ちゃんは頭を両手で掻き毟り、テーブルへ両肘をつく。
「何すか、刈谷さん。どうしちゃったんすか? それに何すか、あれって?」
三太が興味津々に会話へ入ってくるが、僕はそれを手で静止して信ちゃんの肩へ手を置く。
「何であの人、信ちゃん家の前で立っていたの?」
「分からない……」
そう言うと彼はガタガタ震え出した。
「何でこんな夜中に帰ろうと思ったの?」
「ほ…、本当はもっと早い時間…、夜の十時ぐらいに帰ろうとした…。そしたらあの妙な女が家の前に立っているのを遠くで見掛けたんだ……」
「あの女の人って一体誰なの?」
「分からねえ……」
「遠くで家の前にいたのを見掛けたって事は、前にも見た事はあるの?」
「ああ……」
「何で逃げるの?」
信ちゃんは顔を上げ、ポケットからタバコを取り出した。そして店内禁煙にも関わらず、普通に火をつける。
「か、刈谷さん! ここ、禁煙だからマズいっすよ」
「うるせーっ! おめえは黙ってろ」
「す、すんません……」
シーンとなる店内。アルバイトの三太には気の毒だが、僕は信ちゃんの話を聞きたかったので気にしないようにした。
「昭雄…、俺が中学の時、結構無茶していたのは知っているよな?」
「うん」
「小学の時は悪戯っ子だった。前にさ、ラジオ体操とか一緒に朝行ったろ?」
「うん、たまにだけどね」
「おまえがまだ入学する前、俺が一年生の頃、ラジオ体操に来ていた同級生の女をからかって遊んでいたら、その子は来なくなっちまったんだ。まあよくある話だよな? でもよ、その子が家に、その母親はラジオ体操へ出掛け、父親は会社へ出勤した時だった。強盗が入り、同級生の子は殺されちまったらしい……」
「うん、風の噂で聞いた事はあるよ」
三太から聞いた話とは言わなかった。また彼が叩かれるのも可哀相に感じたから。多分そのあとに何かが遭ったのだろう。
「美和…、あ、さっき話に出た霊感の強い彼女の名前な。あいつが俺から離れたのが、もう二年ぐらい前。そのあとから、妙なあの女に出くわすようになったんだ……」
「……」
「最初は道端でバッタリ…。気持ち悪いババーだなと思ったよ。当然無視して歩こうとしたら、いきなり俺の肩をつかんでくるんだ。何だよって怒鳴りつけたらさ、ブツブツ俺をすごい目つきで睨みやがってさ、正直俺、ビビっちまった。俺が喧嘩で負けた事ないのは噂で聞いた事あるだろ?」
「うん」
「そんな俺が、一人の薄気味悪いババーにビビっちまったんだ。それで相手のブツブツ小声で話しているのをよく聞くと、『おまえが篤子を…、おまえが篤子を……』ってずっと言っていたんだ…。篤子って、その殺されちゃった同級生の子な。すぐピンと来たよ。ああ、このおばさんは篤子の母親なんだって」
「別れた美和さんが言っていた『私じゃ、力になれない』って……」
「ああ、おそらく篤子のおばさんの事を言っているような確信があった。まあ、それまでこんな地元に嫌気を差していた俺は、都内へ出て生活をしていた。たまたま実家へ帰ろうとした時、篤子の母親と偶然会ってしまったんだ」
「その時はどうしたの、信ちゃん」
「しばらくジッと俺も見ていたんだけど、あの女、ポケットからビンを出してきてさ、フタを開けるとガソリンの匂いがした。もう片方の手にはライター。ヤバい。こいつ、俺にガソリンを掛けて燃やす気か? そう思った途端、懸命に駅へ向かって逃げたんだ。おっかねえだろ? あのババー、絶対に正気じゃなかった。だから余計に地元へ寄り付かなくなったんだ」
あの女、そんなに危ない人だったのか…。あの時僕はとっさに逃げて、ここまで来たが、それで正解だったのだ。また鳥肌が全身に立つ。
「一年ぐらいして、都内で働いていた店が潰れちゃって、金もなくなったから実家に戻ったんだ。まあそのぐらい時間経っているから、もうあのババーもいないだろうって。それからは、この三太と一緒にこの店でアルバイトを始めた」
「刈谷さんがいた頃は、すげー楽しかったっすよ」
「ちょっと三太さん! 悪いけど、黙ってて」
僕は空気の読めない彼の侵入を止めた。
「す、すんません……」
「いや、いいんだ。急にここを辞めちゃって、三太にも負担掛けちゃったしな。まあ、実際にクビになった訳だが、普通なら客に殴り掛かるなんてしない。俺も喧嘩っ早いけど、いくら何でも客には笑顔で応対するぐらい常識なのは自覚している。まあ、三太との仕事も楽しく感じたし、しばらくこんな生活を続けるのも悪くないかなって思っていた矢先…。あの女が駅前をフラフラと歩いているのを見掛けたんだ。そしてここで働く俺を外から見つけ、気持ち悪い笑顔でニターって笑いやがった。身の危険を感じたよ、あの時は…。それが二ヶ月前…。三太の手前、ビビッている事を理由に辞める訳に行かなかった俺はトラブルを起こし、すぐここを辞めようと思っていたんだ」
「それであの時タイミング良く来た馬鹿な若い客を殴ったと?」
「ああ…、ああすれば、間違いなくここをクビになるだろうし、おまえの前でも格好つくなと思った…。それだけ怖かったんだ、あの女が……」
「刈谷さん……」
「それから俺は、多少の金を持ってまた都内へ出た。だけど仕事もうまくいかない。色々やってみたけど駄目でな…。それで実家へ今日戻ろうと二ヶ月ぶりに帰ろうとしたら、あの女、俺の家の前にいやがったんだ……。もちろん俺は前の事があるから、当然警戒していた。だから遠めにあの女の姿を見掛けた時点で、すぐ逃げた」
「それで酒を?」
「ああ…、飲まないと気が狂いそうだった…。でもこの辺って十二時ぐらいですべての飲み屋が閉まっちまう。まだ二時間ぐらいしか経っていないし、どうしようと考えている内に終電を逃し、寒かったけど、駅の近くにある公園で途方にくれていた。そろそろあいつもいないだろう。そう思って戻ろうとしたら、まだ家の前にいやがったんだ……」
僕が家を出たのが夜中の二時頃。駅前まで三十分以上は掛かる。あの女は、間違いなく僕のあとをついてきた。だとすれば、信ちゃんが家に戻ろうとしたのはそれより前の時間になる。この一時間、彼はどこへいたと言うのだ?
「ねえ、それって二時より前でしょ?」
「いや、今さっきの話だ」
「嘘だ! 僕が家を出た時間が二時ぐらいなんだ。そしたらあの女が信ちゃんの家の前に立っていて、僕のあとをつけてきたんだ…。信ちゃん、何で嘘をつくの?」
「逃げろ……。おまえらは逃げろ……。俺は…、伝えに…、来た…、ん…、だ……」
声のトーンが徐々に落ちていく信ちゃん。
「何を言ってんだよ? ねえ? どうしちゃったの?」
「刈谷さん、しっかりして下さいよっ! あっ……」
僕と三太が大声を出すと、目の前にいた信ちゃんの姿は、薄っすらと背後の景色に滲むように消えていった。
「信ちゃん…。信ちゃんっ! どこへ行ったんだよっ! あれ?」
「で、電気がっ!」
急に店内が真っ暗になる。しかしガラス張りの外からの明かりがあるから、完全な真っ暗ではない。
「さ、三太君……」
「は、はい……」
「ブレーカーでも落ちたんじゃないの? 早く電気を」
「ちょ、ちょっと奥行って見てきますっ!」
一体信ちゃんは、どこへ行ったのだ? 外の明かりで薄っすらとしか見えない店内。僕はガタガタ震えながら、ポケットからライターを出す。急いで火を灯し、それからタバコを口にくわえようとした。
「ウギャァーッ!」
いつの間にか僕の隣の席には、あの薄気味悪い女が無言のまま座っていた。ライターを放り投げ、一目散に牛丼屋から飛び出す。
外へ出て、無我夢中で走り出した。
頭の中がどうにかなりそうだった。
苦しい。
肺が苦しい。
でも、止まったら、あの女に殺される……。
何であの女、いきなり僕の隣に座っていたんだ?
それに信ちゃんは、何故消えるように?
まさか幽霊……。
「馬鹿な……」
思わず声に出していた。じゃあ、僕や三太と話をした信ちゃんは、一体何だったのだ? とにかく逃げなきゃ……。
人も車も誰もいない道をひたすら走り続けた。
駄目だ、もう限界だ……。
徐々に走るペースは落ち、ほとんど歩く速度になってしまう。
膝に手をついて、息を整える。
「ぅぅ……」
「ん?」
右側から人の声が聞こえたような……。
誰かが近くにいる。男の声だったよな? 誰でもいい。一人でいたくなかった。声が聞こえた方向へ、ゆっくり歩いていく。
目の前には公園の入り口が見える。
「ぅぁ……」
また聞こえた。ここから聞こえた声だろうか? 誰かいるなら入ってみよう……。
慎重に門を通り、公園内を見渡す。
「ん、何だ、あれ?」
二人乗りのブランコの近くで、赤い光のようなものに包まれた人間が、陽気にダンスを踊っているように見えた。
良かった。人が近くにいる。
僕はホッとしながら、ダンスを踊っている人へ近づく。とても激しい動きで踊る人。それを見ながら、とても綺麗で美しいなあって思った。あれが人間の動きなのだろうか? そう感じるぐらい早い動き……。
「……っ!」
近くにいって初めて気付く。
あれは踊っているのではなく、人間が燃えているのだと……。
「ぅぁぅぅぁぅぁう……」
全身、炎に包まれた人は苦しみもがきながら、尋常じゃないスピードで手足を動かしている。
「綺麗でしょ?」
「えっ!」
背後から女の声が聞こえた。冷たい氷水を頭から掛けられたような寒さを感じ、思わず振り返る。
「人が燃えるって本当に綺麗なのよ……」
「……」
信ちゃんの家の前に立っていた薄気味悪い女が、僕のすぐ後ろに立っていた。あまりの恐ろしさで、僕の視界は真っ白になり、そのまま意識が薄れていく……。
ラジオ体操の音楽が聞こえる。
ゆっくり僕は目を開いた。
「……」
あれ、僕の部屋の天井が見える。
上半身を起こし、ゆっくり辺りを見回した。うん、ここは僕の部屋だ。こたつに入ったまま寝てしまったようだ。
夜中の出来事…、あれは何だったのだろう?
夢?
だとしたら、恐ろしい夢を見たもんだ……。
時刻は朝の六時過ぎ。ラジオ体操の音楽が鳴るラジオの電源を消す。
こたつのテーブルの上にあるタバコを手に取り、一本取り出す。そういえば昨日の夜ってタバコが切れていたんじゃなかったっけ? いや、それさえもきっと夢だったんだろう。
その時部屋のドアが勢いよく開く。
「おい、昭雄!」
「何だよ、父ちゃん…。ノックもしないで、こんな朝っぱらに」
「大変だ!」
「何が?」
ズカズカ部屋の中へ入ってくる父ちゃん。
「ちょっと来い」
そう言いながら僕の手首を乱暴につかむ。
「ちょ、ちょっと痛いよ、父ちゃん!」
「いいから来いって!」
強引に部屋から出て、階段を降りる。
一階の玄関先では母ちゃんが、ドアを少しだけ開いて覗き込むように外を眺めていた。
「何をしてんの、母ちゃん?」
「と、隣の刈谷さん家の息子さんが、亡くなったんだって……」
母ちゃんは小刻みに震えながら、蚊の鳴くような声で言った。
「えっ?」
「昨日の夜中、駅の近くにある公園で、頭からガソリンをかぶって焼身自殺したみたい。今、隣の刈谷さん家は、警察の人が何人か来て、玄関先で話をしているわ」
「そ…、そんな馬鹿な……」
だって…、昨日…、昨日? 一体どこからどこまでが夢なんだ?
僕は母ちゃんをどかし、外へ出た。
「うわーっ!」
外へ出て、すぐ視界に入ったのは、あの薄気味悪い女の姿だった。
女は僕を見て、ニヤリと唇の右端を釣り上げるように笑う。
その瞬間、僕の意識は遮断され、目の前の風景がボヤけていった……。
―了―
題名『ラジオ体操』 作者 岩上智一郎
2010年4月29日~2010年4月30日 原稿用紙45枚分
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