2025/01/11 sta
前回の章
仕事帰り、伊達に声を掛け飲みに誘う。
四十歳になり、この遣る瀬無い気分のまま家に帰るのが嫌だったのだ。
快く伊達は了承し、セントラル通りと靖国通りがぶつかる交差点から少ししたところにある居酒屋『養老乃瀧』へ入る。
俺はウイスキー、伊達は生ビールで乾杯。
「ほんと今の店はストレスの溜まる店ですねー」
伊達がタバコに火をつけながら苦笑する。
「店の方針がおかしいですからね。つまり猪狩山本ラインの指令がおかしいから、こんな風になっちゃうんですよ」
「山本さんもあれ…、いつも何時になったら帰るんですかね? ずっと女とくっちゃべって」
「ずっといられるのも邪魔だけど、それで朝はよく遅刻するじゃないですか。それで猪狩は注意を全然しませんからね。すべて悪循環なんですよ」
俺たちはいきなりお互いの愚痴話から始まった。
「鐘ヶ江さんも、ホールの仕事全然覚えようとしないで、厨房で料理だけ作っていればいいって感じじゃないですか。本来インカジって賭博場ですよね」
「伊達さんが言いたい事は十二分に分かりますよ。ただ猪狩が変な事ばかり命令するから、こうすべてがおかしくなっていくんですよ」
「何だかヤバい店に入っちゃったなあと思いますよ」
煙を大きく吐き出しながら、伊達はビールを飲み干す。
伊達の言う通りだ。
俺はこんな事をする為に新宿歌舞伎町へまた戻ってきたのか。
絶対に違う。
「岩上さんて、今まで何をしてきたんですか?」
これまでを正直に伝えて変に取られるのも嫌で、あまり話して来なかったが、伊達なら言ってもいいか。
そう思った俺は要約しながら話をした。
全日本プロレスから始まり、浅草ビューホテルでバーテンダー。
そのあと歌舞伎町へ渡り、勘違いからゲーム屋、そして裏ビデオ屋。
一部上場企業SFCGから岩上整体の開業。
小説『新宿クレッシェンド』の賞を受賞し、全国出版。
そのあとの総合格闘技復帰。
KDDIを経て、また裏稼業へ。
かなり端折ったけど、嘘は言っていない。
ただ自分で自分の事を話しながら思ったが、漫画みたいで嘘臭いよな……。
伊達は俺のこれまでの話を聞き、目を丸くして驚いている。
「なんでauみたいな大企業にいて、またこんなインカジなんかに戻ってきたんですか?」
「サラリーマン社会は、俺に合わなかったんですよ。歌舞伎町のほうが性に合ってます。まあ賭博系はゲーム屋経験だけで、インカジ自体は初心者みたいなものですよ。まだ一、二ヶ月程度ですから。伊達さんのほうが全然経験ありますよ」
「でも店だと岩上さんが二番手で、ほとんどの仕事を岩上さんがやってるじゃないですか」
「それは『ボヤッキー』に入って一ヶ月くらいで今の店を立ち上げるから行ってほしいと根間さんに頼まれたからですよ」
「ほんと何で岩上さんが責任者じゃなくて、猪狩みたいなボンクラが責任者なんですかね?」
「猪狩は元々根間さんと知り合いらしいんですよ。それで店長にってなったみたいですよ」
「あんな飯ばっか作らされて、時間給千円で…。さすがにそれを考えると嫌になってきますよね」
番頭の根間からは口止めされていたが、基本的にみんなの日給は一万二千円、俺だけ一万三千円にしてもらっていた。
ほとんど店を俺が仕切ってやっているので、その評価で他よりも千円だけ給料が高い。
ただそんなものハナクソ程度の価値しかないので、正直に伊達だけには伝える。
「そんなの時間給千円と変わらないですよ。岩上さんの働き見ていると、全然安過ぎますって」
確かに安いとは自分でも思う。
それでも佐川急便で働くよりはマシだった。
お互いの愚痴を言い合うと、結局は猪狩の管理能力に行き着く。
「今度猪狩に腹割って話を俺からしてみますよ」
「確かに今の店、乞食ばかりで経費がみしてるだけですからね」
インターネットカジノ『牙狼GARO』の立て直し。
まだ伊達がいるから良かった。
要は細かい乞食客だけでなく、金を持った太客を入れないと話にならないのである。
最後はアマツカソラや乞食ホストの太一はいらないよねと愚痴をこぼしながら帰った。
昨日は店の従業員伊達と歌舞伎町で酒を飲み、昼近くになって地元川越に向かう。
日頃の睡眠不足も手伝い、終点本川越駅に到着したら確実に起こしてくれる特急小江戸号に乗った。
電車賃とは別途に特急料金を払うだけあって、毎回掃除員の清掃が入る。
その為寝ていても、絶対に起こされてしまうのだ。
高田馬場を過ぎた辺りまでスペシャル改造を施してあるニンテンドーDSをしていたが、睡魔に負けてしまう。
寝ている間DSを盗まれるわけにいかないので、スーツの内ポケットへ入れた。
「お客さん、着きましたよ」
そんな声を掛けられると、慌ててバネ仕掛けのように跳ね起きる俺。
通路を歩いている際、両手でスーツのポケットを弄っていたが、いつもあるあのDSの感覚がない。
「……っ!」
ひょっとして寝ている間、盗まれてしまったのかも……。
ふざけるな、あのDSにはどれだけ時間をつぎ込んだと思ってんだ。
周囲を見渡すが、乗客はすべて降りていて誰もいない。
言いようのない虚無感…、そして怒りが全身を包む。
隣の車両から清掃員のおばさんがやってきた。
「あ、あの~、お客様…、もう電車のほうは終わりなんですが……」
「え、ええ…、でも実は盗まれてしまったかもしれないんです……」
「え? 盗まれた? 何をです?」
「ディ……!」
DSと言おうとして慌てて口を塞ぐ。
俺がDSを無くしたなんて言ったら、どんな顔をして吹き出されるのだろうか。
「な、何でもないです…、遅くまですみませんでした……」
表情や態度では冷静さを保つよう最善を尽くしていたが、はらわたの中はマグマのようにグツグツと煮えくり返っていた。
もしも犯人を見つけたら、どんな目に遭わせてくれようか……。
改札口が近づいてきたのでスーツの内ポケットへ手を入れる。
「ん?」
いつもの手触り……。
俺はより奥へ手を突っ込んだ。
「げっ……!」
俺の大事なDSは内ポケットの中に無事入っていた。
これまでの自身の行動を思い返すと、正に愚の骨頂……。
そうだ…、俺は寝ている間の盗難を恐れ、いつもと違う場所へ財布をしまったのである。
『教訓、三度探して人を疑え』
昔の人は本当に的を射たことわざを作ったものだ。
今日この部分に対しては紳士的に受け止め、今後同じ過ちは繰り返さぬよう頑張って教訓にしていきたいものだ。
今日も『牙狼GARO』は乞食客中心に忙しい。
業務中、ホールに出て接客をしていた俺に猪狩が声を掛けてくる。
「岩上さん、そろそろキャッシャーも覚えてもらえませんか」
「俺、インカジのキャッシャーは初めてですよ」
「簡単ですよ。うちはサイトがマイクロとブルーフラミンゴの二つしかないので、マイクロならこのサイト。ブルーフラミンゴはこっちに全部の客席のクレジットが表示されるんですね」
猪狩の言うように、パソコンのモニターには一卓から十三卓までの各クレジットが表示されている。
「それで今も客はポイントを賭けているじゃないですか」
「ええ」
「ここの更新ボタンを押すと…。こうやって現在のクレジットが更新されます。それでINならここを押して、ドルでなく円単位で数字を入力するんです」
「一万円なら百ドルでなく、一万を入力って事ですね?」
「そうです。それでOUTなら隣のところを押せばできます。ただマイクロの場合、OUTはオールOUTになるので、例えば十万あって五万だけOUTはできないんてす。ここまでは分かりましたか?」
「ええ、分かります」
現在客数は全部で五卓。
キャッシャーの練習にはちょうどいいくらいの人数。
「じゃあ少しキャッシャーやってみましょうか」
「いえ、この人数じゃ、練習にならないので、あとでまた声を掛けます」
キャッシャーは初心者なんだから、このぐらいが良かったのに……。
ホールに出て再び接客を行う。
ヤクザ女三人衆が来店。
猪狩の話では、飯島志穂を始めとするヤクザの女だという三人の女性客。
暴力団、組関係者はお断りをしているが、初回来店時、男性客の紹介は受けないという約束の元受けた特殊な客層。
続いてキャッチが新規客二名のカップルを連れて来る。
利用規約にサインしてもらい、一、二卓へカップルを案内。
「じゃあマイクロで」と男性客は一万円札を手渡してくる。
「一卓様、マイクロ百ドルお願いします」
コールを飛ばし、一万円札をキャッシャーの猪狩へ渡す。
初回のINで一万円札なんて珍しいなあと感じるこの店は、明らかに異常だ。
「店員さん、すみません」
「はい」
「コンビニとかで使う袋あります? 二つくらい」
「少々お待ち下さい」
俺は厨房へ行き、余っているビニール袋を持ってくる。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ、ありがとう」
カップルの男はテーブルに置いてある飴の入った箱を手に取り、ビニール袋へザーッと全部入れた。
俺がその様子を呆気に取られて眺めていると「もっと飴ないんですか?」と図々しく聞いてくる。
「いや、あのですね…、あくまでもゲームされるお客様がプレイ中舐める用に置いてあるものなので、持ち帰りとかの為じゃないんですね」
「フリードリンク、フリーフードって書いてあるじゃないの」
「ですからお食事やドリンクはどうぞ食べられるだけ注文下さい」
「飴は?」
「大変申し訳ないですが、テーブルに置いてある分だけになります」
たかだか一万円INの客のくせに、盗人猛々しい。
馬鹿馬鹿しいので、相手にするのをやめる。
「岩上さん、どうしたんですか?」
猪狩が一卓の客とのやり取りを不思議そうに聞いてきた。
俺は一部始終を話すと、また「うちはフリーフードなんですから」とトンチンカンな事を言い出す。
「猪狩さん! あんな一万IN程度でお菓子を好きなだけ持ち帰りなんてさせていたら、キリがないですよ」
「ですからうちはフリーフード……」
「じゃあ食事を持ち帰りって言われたら、無制限に応えるんですか?」
「いえ…、それは店で食べていくものなので」
「だからそれで何故お菓子なら、持ち帰り大丈夫なんですか?」
「んー、そうですね。持ち帰りは禁止にしましょうか」
やっぱり猪狩はヤバい奴だ。
常にどこか抜けている。
乞食ホストの大塚太一が、友達を連れて来店。
元々五席に、飯島志穂ら三名、セコセコカップルに、乞食ホストコンビで全十三席すべて満席。
「岩上さん、ちょっといいですか?」
猪狩が俺を呼ぶ。
「何ですか?」
「ちょうど満席になったので、キャッシャーやって下さい」
「え? 俺、やった事ないんですよ?」
「いい練習になります。さあ、座って下さい」
コイツ、正気か?
だからさっきの五卓くらいでやらせてくれればいいものを……。
「八卓様、マイクロOUTお願いします」
伊達のコールが聞こえてくる。
「さあ、岩上さん、やって下さい」
「え、猪狩さん、OUTって、どうやるんでしたってけ?」
「それは自分で考えて下さい。さっき自分は説明しました」
コイツ、馬鹿なのか?
俺は強引にキャッシャーへ座らせられる。
「ちょっと猪狩さん! 八卓のOUTって、ここでいいんですよね?」
「……」
何も答えない猪狩。
もういいや。
俺はOUT処理をした。
少しして七卓に座っている飯島志穂が、驚いてキャッシャー方向を向く。
「岩上さん! 何をやってんですか! 八じゃなくて間違えて七卓のOUTをしちゃったんですよ」
だから何度も確認したじゃねえか、この馬鹿。
初めてする事なのに、何でコイツはアドバイスもせずに失敗してから文句を言ってんだ?
飯島志穂はスロットを回していて、突然クレジットがゼロになったので驚いていたようだ。
猪狩がフォローに行っているが、間違えたのは俺でもまったく罪悪感を覚えなかった。
初めは失敗したものの、やり方さえ覚えれば、キャッシャーはそう難しくない。
これまで猪狩一人だけだったので、俺もできるようになると、次は伊達、それから鐘ヶ江とキャッシャーをやるようになる。
またこの頃、谷田川という新人が遅番に入ってきた。
北海道出身の彼。
風貌は中肉中背丸坊主頭で目がギョロッとしている三十六歳。
寡黙で何を考えているのか分からないところがある。
最近『餓狼GARO』に来始めた中年女性で『パンチ』という仇名の客がいた。
この『パンチ』という名前は谷田川がつけた。
理由を聞くと「その辺のスーパーで買い物をしているパンチパーマ掛けたおばさんみたいじゃないですか」とボソッと言う。
『パンチ』は五十代くらいの年齢の割に食欲旺盛で、いつも千円を握り締めてやってきては「炒飯と焼きそば下さい」と二品食べる。
決まってその二品なので俺が注文を受けた際、厨房へ「パンチセット一丁」と言うと、谷田川は思い切り吹き出した。
また乞食客の注文が殺到し、厨房が忙しくなると俺がヘルプで入る。
すると谷田川は「あいつらに岩上さんの料理は勿体ないですよ。自分が作りますから」と変な気の使い方をする男だった。
猪狩がメニューにグラタンとドリアを入れたいと、また何も考えていない無茶な要求をしてくる。
俺は食材でできるだけ共通するようなメニューを苦労して考えているのに、この男は何も考えずに思い付きだけで物事を言う。
俺が反対しても、業務用のホワイトソースの缶を従業員に買って来させ「これに白ワインと胡椒をいれればグラタンになりますから」と意味不明な事を言って、伊達に食べさせた。
こんな作り方で美味いはずがない。
俺は伊達に「食べられますか?」と感想を聞くと、彼は道が分からなくなった迷子の子犬のような表情で「何なんですか、これ……」とよく分からない返答をした。
仕方ないので俺が小麦粉とバター、そして牛乳を加えてから調味料で味付けし、まともなホワイトソースを作る。
「グラタンやドリアを出したいなら、俺がホワイトソースの仕込みだけはして、個別に冷凍で作っておきますよ」
俺が作る過程を眺めていた猪狩は「ホワイトソースに牛乳二本も使うんですか? それじゃ原価が掛かり過ぎる」と馬鹿な事を言ってきたので、さすがにイラッとして言い返す。
「猪狩さん…、あんたが頼んだ業務用のホワイトソースの缶、あれ二千円以上してますよね? それに白ワインとかも買ってきて…。牛乳二本も使うのかって、どっちが経費掛かってますか?」
「ん-…、分かりました。ではホワイトソース作りは岩上さんに任せます」
それだけ言うと猪狩はキャッシャーへ戻る。
自分で無茶言い出しといて、何が俺に任せるだ……。
おまえの尻拭いを俺がしているだけだろうが。
猪狩へ対する不信感のような変な気持ちがどんどん大きくなる。
最悪俺が仕事を休んだ時の事を想定し、ホワイトソースのレシピも作って厨房へ貼っておく。
最初は自分の作る料理を求められ絶賛される事に、喜びを感じてはいた。
しかし何でもかんでも俺に、猪狩は求めてくる。
メニューの一品一品、みんなが見れば作れるようになるレシピ化をして、写真と文章で作る過程までのものを俺がすべて準備する。
それでいてホールで客の接客や従業員の教育、キャッシャーもやらねばならない。
確かに他の従業員より日給は千円だけ高いかもしれないが、本当こんなんじゃやっていられないという気持ちが日々強くなる。
「岩上さん、いついつと決まった日時ではないんですが、この店の社長をしている青柳が、何回か現場に働きに来ますから」
この店の社長をしている青柳が、週に数回現場に出る事を猪狩が伝えてくる。
社長?
『ボヤッキー』と『牙狼GARO』を持つオーナーが、現場に出る?
それにしては猪狩は呼び捨てで青柳と口にしている。
あとになって分かったのがオーナーでなく、ただのパクられ要員の名義人。
それをこの系列では名義社長と呼んでいるようだ。
要は警察にパクられた時、全責任を負う人間。
この店の契約も名義人自身が結ぶ為、真のオーナーは表に姿が出ない形になっている。
猪狩の話によると、月に名義料三十万だけじゃ生活が苦しいらしく現場に出て日銭を稼ぎたいようだ。
そんな事まで従業員クラスに話さなくていいのにとは思う。
あくまでもこの店のトップは自分だと誇示したい猪狩らしい思惑である。
青柳は元ホスト上がりの三十二歳。
ホストをしていただけあり、中性的な甘いマスクをしている。
性格的に悪い人間ではないのですぐ現場にも馴染み、仕事帰り共に酒を飲みに行く程度の仲にはなった。
新人の谷田川は、青柳へ妙に懐き「青柳派を作りましょう」と意味不明な事を言っている。
ある日、青柳が俺に金を貸して欲しいと言ってきた。
「え、いくらですか?」
「逆にいくらまで貸せますか?」
何に使うのか聞くと、青柳は結婚をしておりまだ小学校低学年の娘用のプレゼントを買うつもりが、うっかり家に財布を忘れてしまったようだ。
そういう事情ならと財布の中に五万あったので、五万ごと貸してあげる。
「岩上さん、申し訳ないんですが、返すのは現場に出た時に五千円ずつでいいですか?」
「はあ? 家に財布を忘れたってだけじゃないの?」
「いえ、実は女房の金銭的締め付けが厳しくて……」
「青柳さんは現場に出た日払いとは別に名義料として月に三十万を別途にもらえるでしょ? それて一気に五万くらい返して下さいよ。それができないなら、今貸した五万、話が違うからやっぱ返して下さい」
「分かりました分かりました。次の名義料で返しますから、ちゃんと」
だいたい俺たち従業員より給料もらっているくせに、金を借りるなんて、実はどうしょうもない奴かもしれない。
名ばかり社長の名義人青柳。
次からは金を貸すのは絶対にやめようと思った。
キャッシャー画面を見た瞬間、俺は己の目を疑う。
今さっき十万のINをしたばかりなのに、何故ゼロなんだ?
初めてうちの店にふらっと来た普通の一般人の客……。
カバンの中から十万円のズクを出した時、『へえ、結構太い客が来たなあ』というぐらいしか思わなかった。
問題は賭け方である。
目の前の八卓に座ったその男は、入れた十万円分のクレジットをライブバカラでプレイヤーに一点賭けしてしまったのだ。
俺の目がおかしくなったわけでなく、入れたクレジットをすべて賭けたからキャッシャーでの表示はゼロになっている。
自然と視線は八卓に座る男へ向く。
キャッシャーに書いてある紙を見て、名前を確認する。
梨田……。
他にも客はたくさんいるのに、正直どうでも良かった。
フィリピン系の女ディーラーが、パソコンのモニタ画面の中でトランプをいじっている。
バカラの結果は無情にもバンカー。
当たれば倍の二十万だったが、八卓の梨田はほんの数秒で十万もの金をすってしまったわけだ。
男の手が再びカバンの中に入る。
(すぐさま反応しろよ)という意味合いを込め、近くにいた従業員の尻を軽く叩いた。
思った通り男はカバンから十万のズクを二つ取り出し、静かな声で「お願いします」とだけ言った。
「八卓様…、マイクロ二千ポイントお願いします」
鐘ヶ江のコールよりも早く、俺は指を動かし二十万円分のINを入れる。
マイクロはパソコンですぐポイントを入れても、実際に客の席へクレジットが反映するまでちょっとしたタイムラグがあった。
なのでこのように太い客相手の場合、できる限り迅速な対応が求められる。
梨田はライブバカラの画面を二つ開いて準備していた。
チラッとキャッシャー画面を見る。
やはり……。
案の定、男は最高ベット額である十万円分のクレジットを惜しみなく賭けだす。
二画面分なので、純粋に掛かる金額は倍の二十万。
時間にしてほんの数分…、たったそんな時間であっという間に三十万は溶けた。
皮膚がヒリヒリするような緊張感が全身を覆う。
今はまだ店側が勝っているからいい。
だがうまく流れに乗られたら、簡単に取り戻される金額でもある。
梨田は、また二十万円分のINをして熱い勝負を始め出した。
すでに五十万円分のクレジットが目の前の機械に吸い込まれている。
プレイヤーかバンカーか…、たったそれだけを予想するシンプルなゲーム『バカラ』。
客はポイントを金で買い、それをどちらかに張るだけの単純なギャンブル。
『おいちょかぶ』に似たトランプであり、九に近い数字のほうが勝ちというルール。
シンプルが故に実際金を賭けているからこそ、熱くなるのだろう。
その辺はゲーム屋の『ポーカーゲーム』と変わらない。
みるみる内に溜まっていく店の回銭。
通常なら百万円の金を回銭として置いてあるが、このような極端に太い客が来ると一抹の不安を覚える。
客側が負けているなら問題ない。
店の利益が増えていくだけなのだから。
だが、この客が一気に勝ちだしたら……。
俺は受話器を手に取り、リストから離れ、番頭の根間へ電話を掛けた。
百万程度の回銭では足りないケースもあるからだ。
「一応、すぐ金を持ってこれる準備だけはしておいて下さい」
手短に用件のみを伝えると、電話を切り再びリストへ戻る。
下の金庫に五十…、リストにある財布に五十。
今はそれにプラス五十万以上の金が加わっている。
「……っ!」
八卓に座っていた梨田が席を立つ。
男は従業員の誰に当たるわけでもなく、涼しい顔をしながら真っ直ぐ出口へ向かう。
「すみません、お疲れ様でした!」
気持ちを込めながら一礼をするのが精一杯だった。
梨田が店から出ると、店内の空気が和らいだような気がする。
正に『鉄火場』と呼ぶに相応しい空気。
その空気はたった一人の客だけでも簡単に作られる。
たった数分で五十万の金を溶かす男がいる街、新宿歌舞伎町……。
うん、だからこそ俺はまたこの街へ戻ってきたのかもしれない。
また近い内、ここに勝負しに来るだろう……。
俺は八卓の男、梨田を頭の中に強くインプットした。
無駄に忙しい時間を過ごしながら、新宿で仕事をする俺。
上の意向だから仕方ないが、通称『乞食』と呼ぶセコい客相手にも接客をしなければならない。
皮肉な事に、俺がデザインして作成メニュー表は、乞食客たちにとても受けた。
「え~と、オムライスとカルボナーラとフランクフルト」
「あ、俺はグラタンと親子丼とホットサンド」
「バナナジュース」
「あ、こっちもバナナ。あとリアルゴールド」
「サンドイッチ」
飲み物も食べ物もすべてフリーとなっているので、千円札一枚だけ持って何品も食べ物を注文する乞食客は当然ながら多い。
別に千円をもらうわけではない。
そのポイントに変えた千円で勝負をするわけだから、それがさらに増える場合だってある。
何品も食べられ、何度もドリンクを飲まれ、金まで持っていかれる事だってあった。
このような輩を俺ら従業員たちは裏で『乞食』または『テンベッター』と呼んでいた。
インターネットカジノでは千円で十ドルとなる為、最低額しか使わない客、または細かく千円のINしかしない客をテンベッターと言いながら陰で笑っている。
乞食客の代表格の大塚太一が連れてきた男も酷かった。
太一は家出少女以外に、仲間の乞食ホストもよく連れてくるのだ。
乞食は乞食しか生まない。
それを物語るような男で、千円のINで「ナポリタン、カレーライス、ピザトースト」といきなり三品注文。
それを平らげると「たこ焼き、フランクフルト、オムライス」とさらに三品。
六品食うなんてどれだけ乞食なんだと思っていると「おにぎりセットにカルボナーラ」と全部で八品頼んだのである。
イラッとしたのが、その乞食男は自分で頼んだおにぎりを一口だけ、カルボナーラも一口だけ食べて、あとは残した事。
いくら無料だからって、礼儀が無さ過ぎる。
しかも千円分のクレジットは八千円に増えて勝たれる始末。
いらないだろ、こんな乞食客は……。
俺はさすがに猪狩へ忠告した。
「細かい客に関しては、一人一品までとかにしないとキリがないですよ」
「岩上さん…、うちはフリードリンク、フリーフードですから」
本当にこんな馬鹿がこの店の店長だなんて終わっている。
「警察に捕まるような裏の仕事をしているのに、乞食に餌を振る舞って売上作れないでどうするんだよ?」と横っ面を思い切り殴ってやりたい。
一昔前のゲーム屋時代だったら考えられないような細い客が、ふてぶてしい態度で店内にいる現実。
非常にフラストネーションが溜まる。
早番の責任者山本と異様に仲のいい鈴木康弘ことヤスという客。
毎日のように出入りするようになった。
ヤスはあまりのセコさに陰で『ガジリ屋』と呼ばれるほどの男。
ガジリとは何か?
一万円のINを入れたとして、一万千円とか少しでも浮いたら即OUT。
つまりこういったセコい打ち方をガジると言われる。
無職のくせに山手線上野から池袋までの一年間定期券を持っており、様々な店に行ってはガジリ行為で生活を食い繋いでいる。
一度何故働いていないのに、定期券など持っているのかを聞いてみた。
「いやー、新宿だけで七店舗のインカジ。池袋は三軒、渋谷で二軒、上野は三軒すべて毎日のように行って勝負するんですよ。だから一年間の定期券を買ったほうが、長い目で見て安上がりなんですよね」
ゲーム屋時代で言うところの『超ドケンチャン』。
うちの系列は店で従業員が料理を作る歌舞伎町でも特殊なスタイルだが、ヤスはこのような店では絶対に食事をしない。
他の店では代金を基本店持ちで出前を頼むので、ヤスはそういった店があるとどんなに腹がいっぱいでも絶対に頼んで食べた。
まるで餓鬼のように毎日食い尽くす生活を送るヤスの腹は、ポッテリと膨らみ非常に醜い体型をしている。
サラリーマンでも何でもないのに、常にワイシャツを着てだらしないズボンを履いていた。
定期券を見せてもらった際、たまたま財布の中が見えてしまったが、どこどこのチェーン店の百円割引券などがたくさん入ってパンパンだ。
恥という概念が無いというのは、ある意味強い。
そんなどうしょうもないヤスであるが、たまに『牙狼GARO』に来るキャッチ集団の銀次と揉めた事があるらしい。
ヤスの特徴として、サイトをブルーフラミンゴのポーカーをプレイし、最低ベットの五十円でする。
別にいくらで賭けようが客の自由ではあるが、何故かヤスはパソコンの音量ボリュームを最大にしてから始めた。
当時『ボヤッキー』でハマり数十万の金を溶かした銀次は、帰り際ヤスへ向かって「さっきから音量うるせえんだよ、この乞食野郎が」と吐き捨てるように言った。
するとヤスは「私は確かに乞食かもしれないが、それであなた方に迷惑を掛けた事は毛頭も無い」と言い返す。
そして外を出た辺りでキャッチ行為をしている銀次らをガラケー携帯のカメラで撮影。
「キャッチ行為は違法です。これは証拠として交番へ提出します」
そう言ったヤスは、銀次らに捕まり携帯電話を真っ二つに折られたようだ。
何故か俺はそんなヤスに懐かれたが、何度聞かれても携帯電話の番号を教える事は絶対にしなかった。
自分自身、運がいいほうだとは露ほど思っていない。
なのでこれ以上こんな奴に懐かれて、自身の運気をより落とすなんて洒落にならないと感じたのである。
自らの千円を餌で釣って女を店に連れてくるアマツカソラ。
事前に「今から二名連れて行きます」と連絡はあるものの、憂鬱になるだけだった。
千円しか使わない女を連れてきては、紹介料で三千円渡す悪循環。
何度猪狩へ忠告しても、まるで聞き入れない。
そんな状況下で営業をこなしていると、馬鹿馬鹿しいと辞めていく従業員は多数出る。
早番でも大量に欠員が出たので、遅番にいた鐘ヶ江を送る事になった。
「すみません、鐘ヶ江さん。店の都合で早い時間に行かせる事になってしまって」
俺が猪狩の無茶な方針を代わりに謝る。
「いえいえ、自分は元々建築業界が長いですからね。早い時間帯のほうが慣れていますから。岩上さん、そんな気にしないで下さいよ」
鐘ヶ江が早番へ行くと、遅番は猪狩、俺に伊達、谷田川の四名になってしまうので、新たな新人を入れる。
早番に川上、そして猪狩自身が入れたという江尻。
遅番では二十代半ばと若い渡辺が入ってくる。
彼は本チャンのカジノでディーラーをやっていた経歴を持つ。
インターネットカジノ『餓狼GARO』の仕組みを俺が渡辺に色々と教える。
仕事終わりになると俺は渡辺や伊達を連れて、よく食事や飲みへ行った。
最近の店で気になる事。
猪狩は秋葉原で小さなコンサートをしている『AKB48』とか変なアイドルのポスターをキャッシャーの裏側の壁にベタベタと貼りまくっているのだ。
「猪狩さん…、客の目につかないとはいえ、あまりこういうのって……」
「何を言ってんですか、岩上さん! 彼女たちは必死に頑張って……」
「だから…、そういう事じゃなくて、店に何の関係もないアイドル崩れのパスターなんか貼って、従業員に示しがつかないでしょ?」
「アイドル崩れなんて彼女たちを言ってたら、岩上さんみんなに笑われますよ? 今どんどん人気出てきているんですから」
そう言って猪狩は携帯電話に保存してある画像を自慢げに見せてくる。
画像には猪狩がピースして、横に女が写っていた。
「何ですか、これ?」
「板野友美ですよ! ともちんですよ、ともちん!」
「はあ? 俺も智一郎だから昔の彼女とかから、智ちんて呼ばれてましたけど?」
「何を言ってんですか、岩上さん! 板野友美ですよ、知らないんですか?」
「すみません。俺、芸能人とかそっち系は本当に疎くて」
筋金入りのアイドルオタク猪狩。
こんな奴がこの店のトップ。
本当にヤバいだろ、この店……。
乞食客たちが一旦引き、珍しくノーゲストになった。
一日の入客数が百五十人を超える『餓狼GARO』ではとても珍しい事だ。
新人の渡辺が俺にこそっと話し掛けてくる。
「ん、どうした?」
「店長の猪狩さんって、ホンマモンなんですか?」
「あー、変なアイドルとツーショットの画像見せられたの?」
「ええ…、これは誰々でとか十数枚見せられました……」
アマツカソラから電話が入る。
「はい、これからアマツカさんから紹介一名来ます」
みんな目を合わせ、げんなりした顔をした。
入口のインターホンが鳴り、ドアを開ける。
大きなサングラスをした女が両腕を前に伸ばしたままヨロヨロした足取りで入ってきた。
「……」
何だ、この女?
しばらく様子を見ていると、数歩進んで前のめりに倒れた。
俺が近付き声を掛ける。
すると女は両手で口を押さえながら「う…、うぷっ」とか言っている。
俺は彼女を抱きかかえ、すぐトイレへ連れて行く。
ただの酔っ払い女を連れてきただけじゃねえか、アマツカの奴……。
間一髪間に合い、女は便器へ顔を突っ込んでゲーゲー吐き出す。
こんなのをホールで吐かれていたら、大惨事になっているところだった。
アマツカソラは連れてきた酔っ払い女を店に放置したまま三千円を猪狩から受け取ると「それではよろしくお願いします」と逃げるように店を出て行く。
とりあえず俺はトイレでサングラス女の開放をし、吐かせるだけ吐かせると胃薬を飲ませ、椅子をくっつけて横に寝かせた。
「猪狩さん…、これでアマツカに金渡すのって、さすがに違うんじゃないですか?」
こんな酔っ払い女を連れてきただけで、三千円渡した猪狩を責める。
猪狩は無言のまま、携帯電話を眺めながらトイレへ行く。
俺はこんな馬鹿を放っておき、厨房のほうへ行った。
伊達や渡辺、谷田川が呆れた様子で女を見つめている。
「この店、末期ですね……」
伊達が俺を見て呟く。
俺は何も言わず、タバコに火をつけた。
猪狩がトイレから出てくると、ホールを歩きながらグッタリしている女のスカートの中を覗くような感じで身体を左斜めに傾けた。
谷田川はそれを見て「岩上さん、今の見ました? 猪狩さん、チラッとスカートの中を覗いていましたよ」
俺は何も言わず、煙を大きく吐き出した。
仕事終了後、猪狩を除く従業員で酒を飲みに行く。
当然猪狩と店への愚痴のオンパレード。
俺は猪狩の仇名を『ガリン』と名付けた。
それ以来、遅番の従業員同士の隠語になる。
「岩上さん、今日もガリンが新しい『AKB48』のポスターを貼っていました」
「岩上さんが休みの日の隙をついて、またガリンが新しい食事メニューを二品増やしました」
こんな調子でみんなが猪狩をガリンと呼ぶようになった。
店の今後の方針について、本当に考えないといけない。
このままでは沈没するだけ。
俺は自分なりに決意して、この歌舞伎町へ戻ってきたのだ。
こんな現状で店を潰す訳にはいかない。
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