いい感じでミサトの店をあとにする。
ゴッホは奢りだというのに、いまいち不服そうである。
「おまえや出川君はいいよな」
「何が?」
「ミサトちゃんは可愛いし、ミントも綺麗系だろ」
「ちょっと岡崎さん。自分のミントを呼びつけで呼ぶのやめて下さいよ」
また出川が恐ろしい台詞を平気で口に出す。
「何が自分のミントだよ。さっきは余計な事抜かしやがって」
ゴッホの怒りが再度爆発した。
「岡崎さんと一緒にしないで下さい。自分は給料入ったら、ちゃんと神威さんにお金を返しますから」
「おいおい、二人ともやめなって!」
さすがにこれ以上、二人で話をさせていると、殴り合いの喧嘩になりそうだ。私は仲裁に入る。
「あ、神威さん。今度給料入った時、今日の分は必ず返しますから」
「いいよ、別に」
「そういう訳にはいきませんよ」
この男、結構頑固な部分があるんだな。
「あのさー、ゴッホに奢るって言ってるのに、後輩の出川君には金返せなんて筋道が通らないでしょ? だから今回はいいよ」
「でも給料入ったら必ず……」
こいつは人の話に対して、何も聞く耳を持ってないのだろうか? これ以上出川を相手にしていると、気分良かったのが台無しだ。会話を途中で打ち切るようにして、ゴッホへ声を掛けた。
「なあ、ゴッホの席に着いた麻耶ちゃんだっけ?」
「ん…、ああ……」
「そんな好みじゃなかったら別の子指名すれば良かったじゃん」
「いや、さすがにおまえが金を出している訳だしさ。まあ、ミサトちゃんだったら、良かったんだけどな、へへへ」
「おいおい、ミサトは俺が妹代わりに可愛がっているんだぞ。変なちょっかい掛けんじゃねえからな」
「あの店に、たまたま客で行って、あの子が席に着く場合はしょうがないだろ?」
「おまえさ……」
人のご馳走で酒を飲んでおきながら、何て言い草だろうか。
「あのー、岡崎さん。自分的にはその場合……」
会話の途中で出川が口を挟んでくる。ウザさを感じた私はゴッホとの会話をやめた。どっちみち今日はキャバクラが終わったらミサトから連絡があり、食事をする約束をしていた。こいつらは放って帰る事にしよう。
「じゃあ、そろそろ俺は帰るよ。またね」
「あ、今日はすいませんでした、神威さん」
「何だよ、もう帰るのかよ?」
「明日は仕事早いんだ。悪いけど、もう寝ないと辛いから。結構飲んだしね」
「お疲れさまです。お金、今度給料入ったらお返ししますんで」
別れ際も出川は、さっきのキャバクラ代の件をしつこく言っていた。
出川との衝撃的な出会いから一週間が過ぎた。相当あのキャバ嬢に入れ込んだ様子だったが、今後の展開が楽しみである。
携帯が鳴り出す。知らない番号だった。
「もしもし……」
「先日はすみませんでした」
どこかで聞き覚えのある男の声。しかし誰だか分からなかった。
「え~と、どちらさま?」
「あ、すみません。出川です」
「何だ、出川君か。そういえば、何で俺の番号を知ってるの? あの時教えたっけ?」
「いえ、岡崎さんに電話して、神威さんの番号を聞いたんですよ」
「あ、そう。で、何か用だった?」
「いえ、特に用と言うわけではないですけど」
その時キャッチでミサトから電話が入った。
「あ、ごめん。キャッチ入ったから、またね」
出川とミサトの電話。どちらを取るとなると、そんなの一目瞭然である。何か出川が言い掛けていたが、迷わず彼からの電話を切った。
「おうミサト、どうした?」
「この間、龍一君がお店来てくれたじゃん」
「ああ、それで?」
「う~ん、ちょっと話すと長くなるから、これからお茶でもしようよ」
「今すぐ?」
「うん、駄目?」
「別にいいよ。じゃあ、車でおまえのところまで迎えに行くよ」
「ありがとう。じゃあ、着替えて待ってるね」
手早く準備を済ませ、家を出る。ミサトのマンションまで車で十分も掛からない。彼女を拾うと、近所のファミリーレストランへ入った。
「話ってどうしたんだ? 何かあったの?」
「うん……」
何か言い辛そうな感じのミサト。
「どうした? ハッキリ言いなよ」
「あのね、この間一緒に来た岡崎さんって人いるでしょ?」
「岡崎…、ああ、ゴッホの事?」
「うん、そう、その人! あの人が、あれから三回もうちの店来てさ」
「え、だってまだ一週間しか経ってないだろ?」
「うん、それで何故か知らないけど、私を指名するの」
「あの野郎……」
週に三回もキャバクラに行く金があるのなら、あの時奢ってやるんじゃなかった。いや、そういう問題じゃない。帰り道、ミサトの事を話しながらいやらしく笑っていたゴッホ。影でそんな事をしてやがったのか。
「でね、いつもジッと私の事を見ているんだけど。『ミサトちゃんって話をする時、唇が右に少し釣り上がる癖あるんだね』とか言われちゃって」
確かに言われてみればミサトは話す時、唇が右に少し釣り上がっている。
「自分でもそんな事分からなかったのに、何かあの人怖いなあと思ってさ」
万年女日照りのゴッホ。次のターゲットをミサトにするつもりなのか? そういえば過去、私が妹代わりに可愛がっていた畑山スミレを気に入っていた頃、『神威が妹代わりに可愛がっている女って、俺の好みなのかもしれないな』という物騒な台詞を言っていたっけ……。
私と十歳年の違うミサト。この子をゴッホの毒牙に掛ける訳にはいかない。ここは早めに芽を摘み取っておいたほうがいいだろう。
ミサトと別れると、私はゴッホに電話を入れ、彼の家まで向かった。
私がゴッホの家に到着すると、彼はすぐ玄関先から出てきた。
「おう神威。話って何だよ?」
「おまえさー……」
「何だよ?」
「ミサトにまで手を出すのやめろよ、ほんと……」
「何で知ってやがんだよ?」
「俺とミサトの仲だぜ。そんなのあいつから言ってくるに決まってんじゃん」
「いや、結構タイプだったからさ」
「そんなキャバクラ行く金あるなら、この間の金、回収するぞ?」
「いや、先週三回も行っちゃったから、金ないんだよ」
「はあ……」
こいつはいつまで経ってもこうだから、彼女ができないのだろう。
「ミサトちゃん、駄目っぽいか?」
「当たり前だろ! 俺らと十歳も年が違うんだぞ? 少しは考えて行動しろよ」
「ん…、ああ……」
「あと、出川に俺の番号教えたろ?」
「ああ、それが何か?」
「この間、言うに言えなかったけどさ。あんなデンジャラスな奴、何で連れてくるんだよ」
「いや~、正直、俺の手にも余っていたからね」
「だからって何で俺のところに連れてくるんだよ?」
「神威なら彼を救ってやれる事ができるんじゃねえかなと思ってさ」
「冗談じゃねえって…、ゲッ……」
噂をすれば何とやら…。私の携帯に出川から着信が入った。
「出てやれよ、へへ」
ゴッホは面白そうに笑っている。
「はい、もしもし」
「あ、出川ですけど……」
「どうしたの?」
「いえ、さっきキャッチ入ったって電話を切ったまま、連絡なかったので」
「あ、ああ…、それは悪かったね」
特に用件はないと言っていた奴に、何故折り返し電話などしなければいけないのだ。
「よし良かったら、神威さん、これからご飯でも食べに行きませんか?」
「え……」
「別に松屋や吉野家じゃなくてもいいですよ。ガストでもてんやでも構いませんよ」
「……」
「この間、ご馳走になっちゃったじゃないですか。なので、今日は私にご馳走させて下さい。松屋なら、一番高い牛焼肉定食を。吉野家なら特盛り牛丼におしんこと卵もつけちゃいますよ?」
さすがゴッホの遺伝子を持った後輩である。言う事すべてが恐ろしい。
「いや、今さ…。ゴッホと一緒にいるんだよね」
「え、そうなんですか。別に岡崎さんが来てもいいですけど、自分は神威さんの分しかご馳走しませんよ?」
何故かゴッホに妙なライバル意識を持つ出川。何が彼をこう掻き立てるのだろうか。
「まあそんな尖らないでさ。俺がみんなの分持つから、もうちょっといい場所で食事しようよ、ね?」
断るつもりでいたのに知らず知らずの内、食事の約束をしてしまった自分が怖い。
「じゃあ、岡崎さん家まで近所なので、これから歩いて向かいますよ」
こうして私の人生に、ゴッホの後輩出川までが絡みつつあった。こんな事なら、ミサトと一緒にお茶をおとなしく飲んでいれば良かった……。
ゴッホの後輩である出川の相手をするのが面倒だったので、私は自然と距離を開けるようになり、半年が経とうとしていた。
彼からたまに食事の誘いがあったが、何だかんだ理由をつけて私は断っている。ゴッホとは普通に会っていたが、会話が尽きてよく出川の話になると、決まってからかわれた。
「たまには出川の相手してやれよ」
「嫌だよ。仕事も忙しくて疲れてるのによ」
「冷てーなー」
「もともとはおまえの後輩だろ」
「奴は神威になついてんだよ。可愛そうじゃねーか」
「会っても愚痴がすごいじゃん。逆にこっちが愚痴りたいぐらいだよ」
「奴は神威に愚痴を聞いてもらいたいんだよ。そのぐらい聞いてやれよ」
「ふざけんな」
ゴッホはニヤニヤしながら楽しんでいる。私が困っているのが面白くて仕方がないのだろう。
「半年前に三人でキャバクラ行ったじゃん」
「ああ、それがどうしたんだ?」
「あの時、俺は神威に甘えちゃったけど、出川はしつこく金返すって何度も繰り返してたじゃん。あの金は返ってきたの?」
「いや、まだだけど」
「あれだけ自分で言ってんだから、ちゃんと返してもらったほうがいいよ」
「まーね……」
よくよく考えてみたら、彼と半年間は会ってないので金が自分に戻ってくる訳がない。別にキャバクラの延長代の金額ぐらいどうって事ないのだが、私があれだけいいと言っていたのにしつこく返すと自分で言ってきたのだ。しかしあれから電話は掛かってきても、その件に彼が触れる様子はまったくなかった。
それに出川の事をそこまで言うゴッホも、とんでもない奴だ。自分だって私に奢られた身分で同じなのだ。
この時、私とゴッホはレストランで食事をしている最中だったが、そこへゴッホの携帯に、出川から連絡が入った。非常に嫌なタイミングである。
「あ、もしもし、どうしたの? うん、あ、そうだよ。うん、別に構わないけど」
手短に電話を終えたゴッホに「何だって?」と聞いてみる。
「これから出川、ここに来るよ」
「何でだよ?」
「あ、ほら、入口見てみ。キョロキョロして俺たちを探してるよ」
ゴッホの指差す方向を見ると、出川の姿が入口付近に見えた。
「何であの電話から、こんな短時間でここにいるんだよ?」
「俺の車がこの店の駐車場にあるの見て、いるかなと思って電話したんだって。『神威さんと一緒ですか?』って聞くからそうだよって答えると、『自分も行っていいですか?』って言うから、別に構わないよって言っただけだよ」
半年ぶりに会う出川。懐かしさなど微塵も感じなかった。
「おう、出川君、こっちこっち」
ゴッホが彼を招き入れる。
「お久しぶりです。神威さんに岡崎さん」
ゴッホの奴、余計な事しやがって……。
平和だった空間に、魔のトライアングルが出来つつあった。
「前に三人でキャバクラに行ったじゃないですか?」
出川がキャバクラの話題を出してくる。ひょっとして、あの時のお金を返すつもりなのだろうか?
「うん、それがどうかしたの?」
「あの時に知り合った、自分の横に座ったミントって子、覚えてます?」
「はいはい、出川君の横に座っていた子でしょ?」
「ええ、実は彼女と結構いい仲なんです」
正直、驚いてしまった。彼女の顔を思い出してみる。ミントという子は私のタイプではなが、誰が見ても綺麗だと思うぐらいの美貌は持っていた。そんな子が出川といい仲になっている…。これも平成の生んだ歪みの一つなのだろうか。
「へーじゃあ、そのミントちゃんだっけ? 彼女、抱くとどんな感じだった?」
いやらしそうな笑みを浮かべながら、ゴッホは嫌な質問をしてくる。
「おいおい、ゴッホ。あんまり失礼な事聞くなよ。そういうのは二人の問題であって、うちらは関係ないんだからさー」
「何だよ、つまんねー事言うなよ。男なら興味があって当然だろ?」
「男なら興味がじゃなくて、おまえがだろ。勝手に周りを巻き込んだような言い方すんなよ。出川君がそっち系の話、自分から言い出したのならまだ分かるけど」
「…で、出川。彼女のは正直どうだったの?」
こいつの頭の中は本当にそれしか考えてないのか。一度、ゴッホの頭を割って中身を見てみたいものだ。
「おい、ゴッホ」
「あ、あのー……」
私が声を出したのと同時に、出川も何か言い掛けた。
「な、何か二人ともちょっと勘違いしてませんか?」
「は?」
「確かに自分、ミントとはいい仲とは言いましたけど、彼女を抱いただなんてひと言も自分は言ってませんよ」
出川の話している意味が何を言いたいのか、まったく私には分からなかった。
「じゃあ、いい仲ってどういう事?」
「あれから今まで彼女とはメールのやり取りをしてるんですよ。心と心の繋がりを大事にしたいなって感じで…。だからまだプラトニックなんですよ。結構、彼女ってマメで一日一回は必ず自分にメールくれるんですよね」
自慢げに話す出川の横顔を見ている内に、何故か無性にイライラしている自分がいた。ゴッホも多分、私と同じ心境だろう。
「抱いてないって言ってたけど、彼女とはどの辺までいってるの?」
「うーん、たまに寂しいから店にも顔出してって言うから、週一ぐらいであの店に行ってるって感じですね。自分が顔を見せると、ミントもすごい喜んでくれるし」
イライラが少し収まってきた。ひょっとして私は何か出川の事を勘違いしていたんじゃないだろうか。ゴッホはまくし立てるように質問を出川に浴びせていた。
「別に店に行った事はいいよ。そんな事を聞いている訳じゃないしね。俺が聞きたいのは、その子とプライベートの時間、どのくらいのペースで会ってるのかって事だよ」
「それが彼女、夢というか目標があるみたいで、なかなかプライベートの時間を作れないんですよね。いつも忙しそうで…。でもちゃんと毎日メールくれるし、向こうが自分の顔を見たいと甘えてくる時は、出来る限り店に顔出すようにしてますし……」
「それって完全に都合いいように利用されてるだけじゃないの」と、口を挟みそうになる。ようするにミントという子にとって、出川は麻雀でいう安全牌なのだ。そんな事にすら気づかない哀れな出川……。
「出川君さ…。悪い事言わないから、彼女を相手にするのはもうやめたほうがいいよ」
「何でそんな事言うんですか? 自分が彼女とうまくいってるのが、そんなに面白くないんですか?」
ムキになる出川を見て「駄目だ、こりゃ…」と、ドリターズのチョーさんを思い出した。
しばらくして新宿歌舞伎町で、四十四名を超える大火事があった。当時は歌舞伎町全域がバリケードで封鎖され、異様な状況が続く。昼間から大人数の警官が職務質問を無差別に行うようになり、この街へ金を持って遊びに来ていた太い客が次第に来なくなっている。同じ一番街通りで商売をしていた私は、その煽りをまともに受け、店を閉めざるおえなかった。
裏稼業に身を落とした私は、一からスタートするつもりで懸命に毎日を生きた。その頑張りをオーナーが認めてくれ、そこそこいい地位を与えてくれる。気付けば、組織の経営する店を統括する立場になっていた。仕事に没頭する毎日。私は、いつの間にか三十三歳を迎えていた。
別に組織の歯車となって動かしている自分が嫌だという訳ではない。しかし、異常な日常を過ごす中、どこかでホッとしたい自分もいる。
妹代わりに可愛がっていたミサトは、結婚をして沖縄へ行ってしまった。今ではたまにメールのやり取りをするぐらいである。
中学時代からの友人ゴッホは、印刷会社を転々と渡り歩き、現在もその方面で頑張っていた。もちろん他社からの引き抜きで行った訳ではないので給料や働く条件など、会社を渡り歩く度に悪くなっているようだ。食事に行くと、最近はストレスが溜まっているのか非常に愚痴をこぼす事が多くなり、出川化している部分もある。
そのゴッホの後輩である出川は、相変わらず深夜の郵便局であるバイトを続けていた。愚痴りがすごいので会うとしても、月に一度会えばいいぐらいだった。そんな出川ももうじき三十二歳を迎えようとしていた。
ある日の事だった。出川が自分に重大な報告があるというので、一緒に食事へ行った。また改めて報告だなんて、一体何があったのだろう。食事を終えてから私は聞いてみた。
「出川君、何かあったの?」
「いえ、郵便局を辞めようと思いましてね」
「え、辞めちゃうの?」
十年以上深夜のアルバイトを続けたのだから、確かにいい辞め時かもしれない。それなのに何故、私は出川の発言に対し驚いてしまうのだろう。多分それは彼が深夜の郵便局というものに馴染み過ぎていたからだろう。
「一体、何があったの?」
「別に何もないですよ。ただ、いつまでもこうしていられないじゃないですか?」
「まあ確かに…。それで辞めたら何をするの?」
出川から郵便局をとったら、何が残るのだろうか。
「個人事業です」
「え?」
私は自分の耳を疑った。
「個人事業をしようと思ってるんです」
「こ…、こ、個人事業?」
彼は一体どうなってしまったのだ…。深夜の郵便局から、いきなり個人事業をするという出川。何がどうなってるのかまったく分からない。ひと言で個人事業と言っても様々な仕事がある。彼は何をやらかそうというのだろうか……。
「そんなに驚かないで下さいよ、神威さん」
「だっていきなり過ぎるじゃん。第一、個人事業なんて一体何をするつもりなの?」
「運送業です」
「免許は…、あ、持ってるか」
「ええ、だから問題ないですよ」
「全然あるって。そんな事言ったら免許持ってる奴、みんな運送業をできるって事じゃん。それは違うだろ?」
「いえ、やる気さえあればできますよ」
「ま、まあ確かにそうかもしれないけど……」
とうとう出川の頭の中は狂ってしまったのか…。話をしていてこっちがおかしくなりそうだった。
「宅急便の青帽って知ってますか?」
「うーんと…、あー、あの青帽でしょ?よく軽のバンで宅配してるじゃん」
そこまで言って初めて気づく。まさか個人事業と言っていたのは……。
「それをやろうと思ったんですよ。どうです?」
青帽のシステムを考えると確かに個人事業だ。それにしても、よく恥ずかしげもなく『個人事業』と抜け抜けと言えたものである。普通に「青帽をやります」と言えば済む話なのに……。
「ま、まあ…、俺はよく知らないけど、いいんじゃないか」
「実はもう車も買ってしまったんですよ」
「えー、いくらしたの?」
そういえば最初に出川は相談があるとは言ってない。報告があると言っていたのだ。それでも私は驚きを隠せなかった。
「ざっと百九十万ですかね」
「百九十万?」
「ちょっと高いなとは思ったけど、これで自分も一国一城の主ですからね」
本当に彼の将来が心配になってきた。でも仕方がない。彼が自ら選んだ道なのだ。
「そうか、これから頑張らないとね」
「ええ、踏ん張りどころですよ」
三十を過ぎた一人の男の決断。出川が一歩足を踏み出そうとしているのだ。ここは笑顔で祝福してあげよう。
こうして出川の青帽生活が始まる事になった。私も一応先輩なので、祝ってやらないといけないだろう。
「せっかくの船出だ。どこか飲みに行こうよ。奢るからさー」
「そんなー、悪いですよ」
「出川君の行きつけのキャバクラでもいいよ」
「じゃあお言葉に甘えて、前に岡崎さんと三人で行ったあの店へ行きましょう」
私はミサトがいなくなってから、まったくあの店には行かなくなっていた。
「あ、まだあの店に行っていたんだ。誰か指名してるのいる?」
「いますよ。神威さんも知ってる子ですよ」
「え、誰?」
「ミントですよ。ミント」
「えー、だって三年前の事だよ?」
「だから彼女とはあれからも続いてるんですよ」
ビックリした。驚いた。たまげた……。
まだ続いてるとは微塵も思わなかった。あの時はうまく利用されているだけだと思ったが、一途に三年も通われたら、あの子も少しはグッときたのかもしれない。その辺を彼は分かって行動していたのか。だとしたら恐るべしである。もう自分の女だと言えるぐらいになったのであろうか。
「へー、たいしたもんだね。じゃあ、そこのキャバクラ行くかい?」
「はい、そうしましょう」
出川の指名するミントの働くキャバクラへ着くと、この日彼女は休みだった。私はこの時、三年間指名しているのに、今日休みなのを知らない出川を哀れに思った。
「じゃあ、エリちゃんいる?」
「ええ、出勤してます」
「その子、指名で……」
妙に気取りながら店内を歩く出川。近くにいるのが正直嫌だった。
「ひょっとして他の子にも唾つけているの?」
「いえ、エリって、ミントの友達なんですよ。この店で一番仲のいい」
席まで歩きながら余裕の笑みで出川は答えた。
「……」
それが指名するのと何の関係があるのだ? そうつっこみを入れたがったが、今日は出川の祝いでここに来たのだ。野暮な事を言うのはよそう。それにしても彼女の友達を指名しただけで、妙に気取った出川は思い切り変だ。
席に出川指名したエリが来ると、彼はとても饒舌になった。こいつ、こんなに女にだらしなかったのかと思うぐらい、出川は鼻の下を伸ばしている。キャバクラは恐ろしいところだ。あの出川をこうまで変えてしまう。
ミサトのいない店は面白みを感じなかった。時間が来たので、私は出川に声を掛けた。
「出川君、今日はもう帰らないか?」
「え、まだワンタイムしかいないじゃないですか? 延長しましょうよ」
「だって今日はいつも指名してるミントって子、休みなんでしょ? だったら今度また来ればいいじゃん」
「今日は自分のお祝いだったんじゃないんですか?」
そこを言われると弱い。確かに自分から言い出した事なのだ。
「え、今日何のお祝いなの?」
「ん、青ぼ……」
「ぼ、僕が個人事業を始めるから、それのお祝いだよ」
私が言い掛けると、出川が横から大きな声で割り込んできた。
「え、個人事業? へー、出川さんって何かすごいんだねー」
「そうでもないよ、へへ」
そんなに自分のしようとする職業が堂々と言えないなら、個人事業だなんてハナッから言わなければいいものを……。
店内が混み出し、出川の指名しているエリと、私についていたフリーの女二人が呼ばれる。男二人で残された状態の私たちは、静かに酒を飲んでいた。
キャバクラのワンタイムは一時間。最初の十分のみ女がつき、途中でいなくなり、ラスト五分前になって二人とも戻ってきた。要は四分の一の時間しか女がつかず、あとは放置状態である。女が戻ると、すぐに従業員が来て「お客さま、延長はどうしますか?」と聞いてくる。
「女が全然つかないで、何が延長だよ」と嫌味を言うと、従業員はひたすら謝るばかりだった。帰ろうとした私に、出川が「もっと延長しましょう」と懇願してくる。まあ今日は彼が主役だ。仕方なく延長料金を二人分払い、席に戻る。
延長した途端、店側はまた女二人を呼び、他のテーブルへつけた。待機席で座って暇をしている女が向こうにいるのに、誰一人こちらへつけようともしない。延長して三十分ほど経ち、私は従業員を呼んだ。
「はい、何でしょう?」
「何でしょうじゃねえよ、おい。おまえら、俺に喧嘩売ってんだな?」
「いえ、そんなつもりは……」
「じゃあ、どういうつもりなんだよ? 最初に数分女をつけ、延長したら引っぺがし、ヘルプの女もつけないで、また時間が来たら最後にちょっとだけつけるその繰り返し…。最近ここには来てねえけどよ。ここでおまえ、いくら使ったと思ってんだよ? 喧嘩売ってるとしか思えねえんだけどな」
この店の対応を見ていると、苛立ちを隠せなかった。
「い、いえ……」
従業員は怯え、小さくなりながらひたすら謝るばかりだ。
「おまえじゃ、話にならねえ。責任者呼んで来いよ」
「は、はい……」
すぐ割腹のいい店長がやってくる。
「おまえがこの店の頭かよ?」
「はい、店長です」
「さっきも言ったけどよ。おまえら俺らを舐めてんだろ?」
「い、いえ、そんなつもりはありません」
「じゃあ、どういうつもりだよ?」
「あ、あのですね。お客さまだから、うちの状況を言いますが、最近新規のお客が減ってしまいまして、先ほどエリさんたちをつけたお客も新規なんです。少しでもいい子をつけないとと思いまして……」
「オメーは馬鹿か? そっちの店の事情なんて知らねえよ。しっかり金だけは取ってるじゃねえか。おまえ、客の立場で飲みに行ってよ。同じ事されても一切文句ないんだな?」
「い、いえ……」
「あんま舐めた真似してっと、本当にこの店苛めに来るからな?」
「す、すみません……」
店長が引っ込み、すぐエリたちが戻ってくる。
出川は、キラキラした目で私を見ていた。
「神威さん、素晴らしいです。すごい格好良かったですよ」
こんな男に褒められても、何一つ嬉しくない自分がいた。
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