2025/01/07 tue
前回の章
あれ以来福田真奈美からの連絡は無くなった。
当たり前だ。
俺が関係を切ったのだから。
後ろ髪を引かれる思いが続くかと思ったが、思ったよりそうでもなかった。
日々のトレーニングで流す汗が、それらを忘れさせてくれたのか。
違う……。
ずっと心のどこかで、マイミクぎーたかの存在があった。
彼女の紹介文の中で、顔だけ市川由衣というものを見てから、ずっと気になる存在。
名前も顔も知らないが、絶対に可愛い事は間違いないし、俺はぎーたかのツンデレなあの性格が好きだった。
もう少しで三沢光晴さんの命日がやってくる。
俺はミクシィで『新宿リタルダンド』を初公開した。
もしかしたら、ぎーたかが見てくれるかも……。
彼女は俺の記事を見ているかどうか分からないが、自分が何か感じたら必ずコメントをしてくる子だった。
まあ、反応無くてもいい。
最近執筆でなくトレーニングモードになってしまった俺。
せめてできる事がこのくらいしかないのだ。
ぎーたか
二千十一年六月八日。
新宿リタルダンド読ませて頂きました。
軽く流し読みするつもりだったのですが、ラストまで一気に読んでしまいました。
平易な文章で重い話を書く辺りと、ナルシスト入ってる主人公が正に岩上さんワールドで面白かったです!
執筆活動、これからも頑張って下さい!
ロクス
著作:元警視庁刑事 北芝健
・警察裏物語
・「落とし」の技術
上にあげた本は、笑ってしまう程つまらなく、リアルさがない。
何が暴露本なのだ?
それに対し、岩上さんの作品はリアル、迫力満点でした。
読む人の心のツボをシッカリおさえており、とても素晴らしい作品でした。
生意気な言葉ですみません。
このような作品を世に出すのって、難しいんですかねぇ~?
同じ物書きのロクス君、本当にこの子の存在は嬉しい。
会った事はないが、仲間意識のようなものを感じる。
そしてツンデレのぎーたか。
やっぱりやっとコメントくれたか。
俺は君だけの為にこの作品を載せたのだ。
一回ぐらい会いたいよなあ……。
でもこの子は俺の小説だけにしか興味がないって、去ってしまったしほさんも言っていたしな。
俺はぎーたかへまたリングへ復帰する、小説を書くのはそれからだなんて宣言してしまったし……。
トレーニングと執筆活動。
時間というものは誰にでも平等であり、俺はトレーニングを選んだ。
復帰するという事は身体を作る事であり、ヘビー級の体重百キロは必要最低限。
なのに何で俺は、体重がどんどん落ちているんだよ?
コンディション上がってきたせいで、睡眠時間も少なくて良くなった。
そのせいで、先日怖い目に遭うし……。
中々うまくいかないな。
そうか、自分で理想のビジョンを立てないから駄目なのだ。
まず身体を作り上げ、リングへ戻る。
これはぎーたかへ宣言したからね。
そして体重百キロの身体を戻す。
そしたら小説の道へ。
いや、だから…、トレーニングはしているし、たくさん食べている。
それなのにどんどん体重が落ちているのが最大の問題なんじゃねえかよ。
まあいい。
ジムへ行こう。
鍛えてジャグジー入って、それから体重計へ乗ればいい。
「うっしゃっ!」
只今八十七キロまで増えた!
六月一日時点で八十三キロだったのが八十七キロまで増えたから、約一週間で四キロの増量。
この調子で増えてくれるといいんだけど……。
あと十三キロの増量が必要。
そしたらリングへ復帰して、小説書いて……。
あれ?
どの時点で、ぎーたかが会ってくれる要素があるのだ?
ジレンマだけが募る。
二千十一年六月十三日。
あの時から二年の月日が流れた。
三沢光晴さんが亡くなって、今日でちょうど丸二年……。
今日で三回忌。
四十六歳だったから、俺もあと六年ちょっとで同じ年になってしまうのか。
三沢さんと関わりがあったのは全日本プロレス時代。
本当に身体が大きくて、それだけじゃなく人間的にも気さくで器が大きいなあって当時感じた。
強いだけじゃなく、優しさと面白さを持ち合わせていた三沢さんは、俺にとって気づけば憧れに近い存在になっていた。
二年経った今でも信じられないし、未だ悔やむ感情がある。
早過ぎるよ…、三沢さん……。
俺、まだまだ頑張らないと!
ジャンボ鶴田師匠がちょうど一か月前。
三沢さんはその一か月後。
五月十三日から六月十三日の一ヶ月の期間を俺は『神聖なる期間』と決める。
今日からちょうど三ヶ月後、俺は四十歳になるのだ。
本当ごめんなさい、こんな不甲斐ない男で……。
でもね、師匠。
俺は俺なりに頑張っているつもりなんですよ。
いつも空振りばかりだけど。
今日もこれから佐川急便だ。
腐らず日々を邁進する。
だって俺は、まだこうして生きているのだから……。
ジムへ行き鍛え、佐川急便へ行き働く。
とてもシンプルなルーティン。
「おらーっ! 仕事しろ、仕事を!」
今日もリーダーの岸本の怒声が飛ぶ。
みんな、的にならぬよう目を合わせないようにして、せこせこ働く。
「おら、西尾! テメー、弛んでんじゃねえぞ」
「小田中、サッサとやれよ、おらっ!」
いつ聞いても、気分がいいものではない。
DDTプロレスの高木三四郎似の岸本。
俺に直接文句が来る事はないが、ある程度人を見ながら威張っているのだろう。
住谷が荷物を間違えて運んだらしく、岸本の怒鳴り声が聞こえる。
福田真奈美の誕生日前から、彼を上尾へ送り届ける事はしなくなった。
小田中はそれ以来、俺と話さなくなる。
このような人間とは生涯関わりが無いのだろうな。
住谷はマイペースな男で、仕事中も変わりなく話し掛けてきた。
その彼が、止まったベルトコンベアーの上で岸本へ土下座をしているのが見える。
いくら何でもペコペコし過ぎだろ。
俺は作業の手を止め、状況を見守った。
「すいません! すいません!」
土下座をしながら何度も頭を床へつける住谷。
正直見ていられなかった。
「オメー、本当に分かってんのかよ、おい」
その頭を土足で踏みつける岸本。
人間扱いじゃない。
俺は気付けば、その辺の小さな荷物を手に取り、岸本へ向かって投げつけていた。
「痛っ!」
的が外れ、近くにいた西尾の顔面にぶつかる。
西尾は当たったショックでメガネが外れ、顔を押さえていた。
「おい…、いくら何でもやり過ぎだろうが?」
俺は大声を上げながら岸本へ近付く。
そんな暴力的なのが好きなら、俺が本当の暴力を教えてやるよ。
目をギラつかせながら進むと、岸本は大勢の見ている前で背を向け逃げだす。
何だ、コイツ…、あれだけ威張っておいて……。
岸本は工場長のいる部屋へ駆け込んだ。
俺は追い掛けて中へ入る。
「どうしたんだ?」
工場長が俺の前に立つ。
「工場長! 何であんな奴をリーダーなんかに添えているんですか?」
「え…、何が?」
「部下のちょっとした失敗を怒るのは分かりますよ。土下座までさせて、足で頭を踏んずけて…、それが人間のやる事ですか?」
「……」
部屋の奥を見ると、岸本は隅で身体を丸めガタガタ震えていた。
「あんな奴に、そんな事をしろって工場長は指図してんですか?」
何故俺は、こんなに怒っているのだろう?
自分でも不思議だった。
工場長は俺を困った表情で見るだけで、無言のまま。
「まあ、ここまで俺は跳ねたんで、今日限りでここを上がらせてもらいますよ。ただね…、もうちょっと働く人間の事を少しは見てやって下さいよ」
「わ、分かった……」
「一応今日は最後までちゃんと仕事はしていきますから」
「は、はい……」
部屋から出ると、ほとんどの人間が固唾を飲んだ状態で俺を見ていた。
少しして工場長が出てくる。
「はい、コンベアー回すぞ!」
その号令でみんながそれぞれの持ち場へ戻る。
俺も持ち場へ行くと、隣の山口が呆然とした表情で見ていた。
「山口さん、すみません…。つい、やっちゃいました」
俺が笑いながら言うと、山口も笑顔でお辞儀をする。
「こんな形で去る事になり、すみません。色々教えて頂きありがとうございました」
「いえいえ、私も岩上さんと一緒に仕事してて楽しかったですよ。ちょっと寂しくなりますけどね。でも、スカッとしました」
本当に良い人だ。
でもこれ以上話をしているところを岸本に見られたら、俺がいなくなったあとで山口へ火の粉が飛ぶだろう。
俺は残り時間黙々と作業に徹した。
業務終了時間が来る。
俺は着替えると駐車場へ向かう。
二千十一年六月十六日。
佐川急便の退職が急遽決定する。
「あっ! 岩上さん」
駐車場まで行くと、共に働いていた作業員たちが俺の姿を見ると駆け寄ってきた。
佐川急便さいたま営業所では、様々な派遣会社がいる。
「すみません、岩上さん……」
派遣会社の一つのリーダーが頭を下げてくる。
「え、何がです?」
「本当は岸本の行動に対して、自分らもちゃんと言わなきゃいけなかったんですよ。それを一人だけで、全員が思っていた事をやらせてしまって……」
「全然問題ないですって。そんな暗い顔しないで下さいよ」
「本当にすみませんでした。あと、ありがとうございました。本音言うと、スッキリしました」
「いえいえ、俺もつい身体が動いてしまっただけなので」
「これからお時間ありますか?」
「えーと?」
「もしよろしければ、車なんで酒という訳にはいきませんが、食事でもどうですか? もちろんご馳走させて下さい」
佐川急便で、俺は孤独だと思って働いてきた。
でも、見てくれる人は見てくれていたんだな……。
色々な派遣会社の作業員たちが来てくれ、俺の送別会のような形になった食事会には二十三名の人間が集まる。
多分もう会う事は無い人たちだろうけど、俺はいい感じで佐川急便を終える事ができた事に対し感謝した。
三沢光晴さんの命日から三日後に無職。
さて、これからどうしたらいいもんだか……。
勢いで動き、また職を失う。
馬鹿だなと自覚はしている。
だけどあの時、住谷が頭を踏まれているのを見過ごしたままだと、きっと後悔していただろう。
群馬の先生は、俺に表舞台を歩けと言った。
しかし現実はどうだ?
まだ百合子がいた頃、裏稼業を引退。
職安で仕事を探し、新宿のクソみたいな花園新社、そして国会に目をつけられたSFCG。
サラリーマンは無理だと悟り、岩上整体を開業。
大日本印刷を経て、KDDI。
あそこで今でもやり取りのある幸、そして水原の二人とは知り合えて良かった。
半年近くの休業補償生活を経て、ようやく動き出し、この辺からおかしくなった気がする。
あとは御徒町の出会い系サイトのサクラ。
あれは働いた内に入らないか。
そのあと川上キカイ。
あそこは良かったなあ。
小田柳を始め、人間関係が本当に良かった。
それから佐川急便…、間に変な古物商を挟んで出戻り。
そんな生活も終了した訳だ。
表舞台を歩いてきたつもりだが、一つ言えるのは金に困った事。
おかげで京子伯母さんに借りた金も返せず亡くなってしまい、俺は生涯の汚点を残した。
総合格闘技の試合へ復帰した時も、俺は南大塚の叔父さんから八万円を借りたままである。
まず俺は人として駄目だ。
このままだと、人間失格。
稼ぎが少ないとか言い訳にならない。
良かった事はあるのか?
やはり小説を世に出せた事だろう。
群馬の先生の言う通り、鹿島神宮へ行き、賞は取れた。
でもあれは元々俺が書いた作品だ。
お参りに行ったから賞を取れた訳ではない。
しかし三年半経って印税が払われていないのだ。
これからもきっと払われる事は無いだろう。
そういえば徹也の紹介で東大の講師だか教授をしている中西健ていたよな?
出版社とやり取りしてみると言った以来。
帰りに徹也のところでも寄って聞いてみるか。
それにしても先生が言っていた事で、ズバリ当たっているのは、愛に苦しむ事と、試練が多いという点。
こんな貧困な生活しながら何が試練だよ……。
流れを大事にしてきて、このザマだ。
百合子と別れてから、数名の女は抱いた。
望とも深く繋がったとは思う。
しかし品川春美は結婚。
古木と三角関係の影原美優には、妙なフラれ方をした。
あれは俺の覚悟が足りていなかったのだろう。
つい先日も、福田真奈美と終わったばかり。
俺など生きている価値があるのか?
そんな事を考えている内に、車は家に到着した。
部屋へ戻る前に、徹也の経営する車のコレクトへ向かう。
「徹也、あの東大の中西健だったっけ? 俺の小説の件てどうなったか聞いてる?」
「あ、兄貴さ、健ちゃんが兄貴と話したがっていたんだよ。連絡先教えるから電話してみたら?」
俺は中西健の電話番号を聞く。
「家に帰ったら電話してみるよ」
「あ、兄貴さ……」
帰ろうとした俺を徹也は呼び止める。
「何だよ?」
「この間さ、お袋から連絡あってさ……」
突然徹也の口から母親の名前が出たので振り返る。
「はあ? 何でお袋が徹也に? 今さら何の用なんだよ?」
「この会社を立ち上げる時さ、お袋にも金を出してもらったんだよ」
「はあ?」
コイツ、昔はあれだけお袋を毛嫌いしていたくせに、何を言っているんだ?
「一緒にいた二階堂さんて人が亡くなったみたいでね。それで今生活が苦しいから、あの時の金を返してくれなんて言いやがってさ」
「……」
「あれ? どうしたの、兄貴?」
「悪いけどおまえとは、話したくないわ」
「何だよ、突然! おい、兄貴」
俺は無視して会社を出る。
唯一の兄弟だった徹也。
やはり信用できない。
お袋と密かに連絡を取り合い、会社の出資金をだしてもらった?
あいつには人間としての矜持が無いのか?
以前貴彦と伯母さんのピーちゃんが、内緒で養子縁組した件で怒っていたところ、徹也が仲裁に入った。
あの時も徹也は、そんな事くらいで怒るなと諭してきた。
俺が怒るのがおかしいのか?
絶対に違う。
おかしいのはピーちゃんと貴彦であり、怒るなと言う徹也だ。
戸籍上、すでに兄弟で無くなった事を内緒にしていたんだぞ?
そう考えるとあの養子縁組の一件は、徹也もグルだった事が分かる。
本当に気持ち悪い。
吐き気すら催す。
部屋へ戻り、徹也が言っていた台詞を思い出す。
あの二階堂さんが亡くなっていたのか……。
お袋を離婚させた十八歳の時、何度か会って話をした。
とてもいい人だった。
本当にお袋と一緒じゃなかったら、当時俺に向けてくれた愛情を素直に受けたかったほどだ。
本当の親父よりも、父親らしかった二階堂さん。
関わった期間はほんの僅か。
亡くなっちゃったのか……。
涙は出ない。
でも何だかとても悲しく思う自分がいる。
その場で黙祷を捧げた。
ごめんね、二階堂さん……。
俺はこんな事くらいしかできなくて。
あの時からもう二十年以上も経ったんだな……。
どこの墓に眠っているか何一つ知らない。
知って墓参りをするには、お袋へ連絡をする必要がある。
さすがに無理だった。
今さら親子関係を構築するには、因縁があり過ぎる。
俺は神じゃない。
すべてを許すなど、難しい。
以前しほさんに言われたとある小説の台詞を思い出した。
「すべてを許す」
散々酷い目に遭った主人公が、最後に言った言葉。
口先だけなら何とでも言える。
そうでなく心からその言葉を絞り出せたからこそ、感動があったのではないか。
しほさんが言ったその本を読んだ事もない俺。
おかしな事を考えるものだ。
二階堂さんを失ったお袋。
自分の息子に金を返してくれと言うくらいだ。
きっと苦しい生活をしているだろう。
『新宿クレッシェンド』で主人公の赤崎には俺が幼少期やられた虐待の記憶をプレゼントした。
そんな処女作が賞を取り、世に出た。
市場に出回った忌々しい小説をお袋はきっと読んでいるだろう。
俺の決別の心をお袋は本を読んで知ったはず。
どんな気持ちで、あの本を読んだのか?
だから賞を取った瞬間、嬉しいではなく、やり過ぎちゃったなという思いが先に来たのだ。
徹也のコレクトが始まったのは、俺の岩上整体より少し前。
つまり二千六年の時に、徹也はお袋と繋がっていた事になる。
金をせびる為に……。
仲町の実家だった本屋は、俺が浅草ビューホテル時代におばあちゃんが亡くなり、今では更地になっている。
お袋三姉妹の長女の娘だった宇津木裕子。
中学まで同級生で同じ学校だったが、川越女子高校、そして青山学院大学まで行ったのは、風の噂で聞いた。
今はどこにいるかさえ知らない。
「あそこの家はね、お母さんをよってたかってお母さんを追い出したんだよ」
優等生だった裕子は、クラス中の女子生徒へ事実とは反する噂を流す。
挙句の果てには担任の先生にまで、それを湾曲して伝える。
何もしていないのに何故か女生徒たちから嫌われる現象。
これは裕子が陰で情報操作しているせいだった。
裕子のおかげで、小、中学と暗黒時代を過ごした。
生涯関わりたくない従兄弟。
俺の宇津木裕子に対する感情は、そんなものだ。
数年前に次女のせっちゃんの旦那のひろしさんが亡くなったのも聞いた。
寡黙だったひろしさん。
ビストロ岡田で久しぶりの再会をした際、黙って俺の分まで会計をしていくような叔父さんだった。
せっちゃんが異常なのだ。
俺が小説で最終選考まで来た時、口先だけと意味不明な罵倒をしてきた。
たから可哀想とは思ったが、ひろしさんへ線香をあげに行かなかった。
それでせっちゃんとまた繋がるようなきっかけを避けたかったのだ。
俺がまだ二十代半ばだった頃、安田家の祖父である安田金之助が亡くなったと聞いた。
道端でせっちゃんと会い、それを聞かされて俺は知った。
「智ちゃん家のおばあさんが亡くなった時、うちはちゃんと香典を送った。でもうちの安田金之助が亡くなった時、岩上家は線香一本あげに来なかった」
十数年ぶりに会い、それをお袋の姉であるせっちゃんから言われたのだ。
「俺が線香をあげに行きます。線香をあげさせて下さい」
「いや、岩上家にそんなつもりで、言ったんじゃなくてね……」
「岩上家ではありません。俺が幼少期可愛がってもらった安田金之助さんに、岩上智一郎としてあげに行きたいのです」
そう言って俺は安田家に行った。
正直話は聞いていたが、記憶などこれっぽっちも無い。
川越の市議会議員だったという事くらいしか知らない。
安田家に行ったのは、小学生になる前の幼少期。
だから記憶などまるで無い。
湯遊ランドの前の大きなマンションを所有しているほどだ。
安田家の血筋でヤクザがいるのは聞いていた。
俺が高校生の頃勢いがあった住吉会系の伊達組組長の伊達。
ひろしさん系の家系だと、昔二階堂さんから聞いた事がある。
俺には関係の無い事だと、ずっと思っていた。
安田家へ行くと、安田金之助の妻…、安田のおばあちゃんは大きくなった俺を見て目を細め「大きくなったねえ」と喜んでくれた。
この人も俺には記憶が無い。
でも「お久しぶりです。幼少の頃は色々お世話になりました。おかげで健康に大きく育つ事ができました」と、そう畏まりながら香典を渡し、線香をあげた。
昔を懐かしむおばあちゃん。
俺は笑顔で話を聞いた。
その時せっちゃんが話し掛けてくる。
今後に話を聞いている時だった。
「智ちゃんは今、私と話してんだから向こうへ行けよっ!」
物凄い形相でおばあちゃんへ怒鳴るせっちゃん。
嫁姑で、姑であるせっちゃんの方が家の中では力関係が強いのを知る。
それでもおばあちゃんは、俺へ話し掛けてきた。
その度耳に響くせっちゃんの怒声。
俺は居た堪れなくなり、その場をあとにした。
この時が俺と安田家の最後。
二階堂さんが亡くなった事を聞き、思い返す過去。
ぎーたかに以前言われた事を思い出す。
信念を貫く。
そんな格好いい生き方なんてしてきていない。
損な性格だと周りから言われる。
俺は一体何に従って生きてきたのだろう?
自身の中の正義に従って、これまで生きてきたのだ。
完璧な正義ではない。
しかし違った方向へ行こうとした時、常に誰かしらの導きが俺にはあった。
全日本プロレスの時は、まず先輩の坊主さん。
あの人が慰めてくれたから、生きようとまた頑張れた。
そして全日本プロレスへ行ってからはジャンボ鶴田師匠。
二回目の時は三沢光晴さん。
偉大なる背中をこんな俺に見せてくれたのだ。
それでもたくさん間違えて生きてきた。
それでもめげないで生きる。
何故なら俺は、まだ自分の事を嫌いになっていないから……。
表舞台に拘っても、あまり意味の無い事のように思えた。
小説を世に出せただけ。
総合格闘技は過去の俺の貯金なだけ。
俺は、何も生み出せていない。
世間一般の社会で出世?
そんな事、考えた事すらなかった……。
じゃあ何故?
分からない……。
ずっと分からなかった。
でも…、一つ自覚した。
世知辛くなったこの世で、もう一人腐っていくのは懲り懲りだ。
普通の場所で、生きようとしていた自分が間違いだった。
俺には俺の…、居場所がある。
確かに散々利用され、うまく使われた。
それでも俺は、あの街でたくさんの事を学んだ。
たくさんの金を稼いだ。
だからリングの上にも戻れた。
ピアノ発表会もできた。
絵も描けた。
小説も生まれた……。
もう惨めに生きるのは嫌だった。
俺は表舞台でも裏でも変わらない。
確固たる何かがある。
勝手に全日本プロレス時代のプライドを背負っている。
もう、迷うなよ……。
だから今一度、戻ってみようじゃないか。
また新宿歌舞伎町へ……。
川越駅西口にあるグリルTOGO。
初めて新宿へ行った時、俺はこの店のスポーツ新聞の三行広告を見て歌舞伎町を知った。
最初は勘違いから。
喫茶店を普通の深夜喫茶と思って行くと、裏稼業ゲーム屋だった。
それでも俺にとって歌舞伎町の水は、とても泳ぎやすかった。
またここから始めよう。
俺はグリルTOGOへ入る。
「おう、岩上ちゃん。久しぶりだねー、元気?」
笑顔で出迎えるマスター。
「元気じゃないから、マスターの料理食べに来たんですよ」
「嬉しい事を言ってくれるねー。何にするの?」
「味噌焼きチキン、あとハンバーグトーゴー風です」
「相変わらず食うなあ、岩上ちゃんは」
「ここのご飯食べて、大きく育ちましたからね」
マスターが厨房へ消える。
俺は東京スポーツを手に取った。
適当にページをめくり、三行広告を探す。
もうゲーム屋なんて絶滅しているだろうな……。
最後の新宿が長谷川昭夫のところだから、二千六年の一月初旬。
今が二千十一年七月十四日だから、約五年半ぶり。
『カフェ 日給一二 新宿』
あったあった……。
俺は紙に電話番号を書き留める。
多分島村が岩上整体時代逃げ込んできた時聞いた、四千万の穴を空けたというインターネットカジノの事だろう。
ここの味噌焼きチキンは格別の旨さだ。
何度食べたか覚えていないほど。
この店を知ったのは、十九歳の怪しい教材売りをしていた頃になる。
そういえばあの時一緒だった同級生の篠崎一茂こと篠ヤンは、元気でやっているだろうか?
しばらく会ってないな。
一旦外へ出て、店に電話を掛ける。
「はい」
「あの…、求人を見て連絡をしましたが、岩上と申します」
「何歳になりますか?」
「三十九歳になります」
「分かりました…。では履歴書をお持ちになってですね…。えーと…、面接する日時ですが……」
「そちらの都合に合わせられます」
「分かりました。では、明日お昼の二時に新宿に着きましたら、もう一度お電話頂いても構わないですか?」
「了承致しました」
電話を切る。
確か以前電話した時は二十五歳。
十四年後に同じ事をするとはな。
年齢的に引っ掛からなかったのは、運がいい証拠だろう。
どちらにせよ、明日から新しい生活が始まる。
徹也から聞いた中西健にも、電話を掛けてみた。
「あ、智一郎さん、お久しぶりです」
「久しぶり健ちゃん。ごめんね、中々連絡取れなくて。徹也から電話番号聞きました」
彼には『新宿クレッシェンド』を出した出版社『サイマリンガル』との交渉事を任せてあった。
東大で人にものを教える立場の人間。
密かな期待はあった。
ひょっとしたら、彼ならきっと印税問題も何かしらの結果を出せるかもしれない。
「智一郎さん、サイマリンガルの件なんですか」
「うん」
「印税は難しいですね。出版契約書には小さな文字ですが、第二版から出すような形になっていますね」
「まあはなっから俺の銀行口座も聞いてこないし、払う気なんて無かったという訳でしょ?」
「まあそう取られてもしょうがないですね、あの会社は」
「三年以上経ったしね。今さら印税が入ってくるなんて、思ってもいないよ。ありがとうね、色々手を尽くしてくれて」
「お力になれず、すみませんでした。あれから智一郎さんのポテンシャルを色々考えてみたんですね」
「ポテンシャル?」
「初めて書いた小説で、賞を取る。それがどれだけ凄い確率か、分かりますか?」
「まあそんなの運が良かっただけでしょ」
「いえいえ、何を言っているんですか! 何の勉強もしないで、ただ書いてみようと思った作品がですよ?」
彼と話していると、妙な心地良さを覚える。
物事の肯定と否定。
それをうまく織り交ぜながら話し、気付けば相手は納得している。
そんな感じの話し方だった。
気付けば二時間ほど電話で話している。
不思議な感覚だった。
ただ明日の為に俺は履歴書を書かなきゃいけない。
あれっていつ卒業して、いついつどこで働いていたかなど、西暦で書かなきゃいけないから、逆算するのが面倒なんだよな……。
パソコンのエクセルを使い、一度履歴書を作成してみるか。
そうすれば苦労するのは始めだけで済むし。
「あ、ごめんね、健ちゃん。俺、明日は面接でさ、履歴書書かなきゃいけないから」
「智一郎さん、何を言っているんですか? 自分は大企業の会長や社長たちと呼ばれて話をするのですが、自分が話をするとお金をもらえるんですよ? 何故自分が智一郎さんとこうして無料で話をしているのか…、その真意を汲み取って下さい」
「……」
何か面倒な奴だな……。
話して金をもらえると言うくらいなら、こんな俺などに構わず、金をくれる相手と話をしていればいいだろうに。
何となく中西健のしたい事が理解できた。
彼は自分が頭脳として、俺を意のままに操縦したいのだ。
話の節々にそれが垣間見える。
頭がいいのは、現在の立場からでも容易に分かった。
しかし人間は自ら考え、それで動く生き物だ。
例えばギャンブルでこうすれば絶対勝てますと言われても、自分の金を自分で好きなように賭けるからこそ、面白いのである。
それが必ず勝てると謳うなら、自分でそう賭ければいい。
実際の競馬でも俺は多額の金を溶かした馬鹿だ。
人生のギャンブル…、選択肢に於いても、駄目な方ばかり選択している。
だからこの現状なのだ。
しかし自身のケツは自分で拭いてきた。
食い下がる中西健の話を途中で遮り、電話を切る。
もう俺は自らの判断で、歌舞伎町という目のサイコロを振ってしまったのだから。