岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

闇 152(進化するストーカー女09編)

2024年12月11日 17時15分20秒 | 闇シリーズ

2024/12/11 wed

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よく見ると、留守番電話も入っているようだ。

こっちから先に聞いてみよう。

えーと、留守番電話のやり方ってどうやるんだっけ?

説明書なんて今ないしなあ。

うちの従業員にでも聞くか。

いや、島根とかに聞いても分からないだろう。

あ、そうか。若い奴がいたじゃないか。

俺は一度ホールに出て、六卓でポーカーを熱く打っているむつきのところへ行く。

「おい、むつき。あっちの十卓のほうがいいと思うぞ」

「あ、龍ちん!」

「おまえさ…、一応俺はここの店長なんだから、龍ちんって言うのやめろよ……」

「う~ん、だって神威さんよりも、龍ちんのほうが何か可愛いでしょ?」

「いや、まったく可愛くない」

「今、休憩中?」

「ああ、そうだけど?」

「じゃあさ、ご飯奢ってよ」

「はあ?」

「今から行こうよ」

「何で俺がおまえに、いちいちご飯を奢らないといけないんだよ?」

「若くてピチピチだから!」

あまりにも元気で能天気なむつきと俺の会話を見て、周りの客はニヤニヤしている。

立場上、ここで話しているのはよくないな……。

「分かったよ…。今から行くぞ。もうあと三十分しか時間ない」

「やったぁ~」

「声がデカいって……」

留守番電話のやり方を聞こうと思っただけなのに、いつの間にか一緒にご飯に行くようになっている不思議。

いまいち釈然としないが、まあいいか。

少なくてもむつきの元気いっぱいの笑顔を見ていれば、文江の一件で立っていた鳥肌は、立たずに済む……。

二人で『ワールド』を出ようとすると、従業員の山羽が「ヒューヒュー、神威さん、何か熱いっすね」とからかってきたので、「後ろを向け」と命令する。

「な、何すか?」

「そこの九卓のソファーに両手をつけ」

「何でですか?」

「うるせーっ! 早くやれよ」

「は、はあ……」

山羽は言われた通り、両手をソファーの背に置く。

「もっとケツをつき出せ」

「こ、こうすか……」

「ああ、それでいい。それでだな……」

「はい」

「『ばっちこい』って言ってみろ。ケツに力をちゃんと入れてな」

「ば、ばっちこい」

「うりゃっ!」

俺はツンとつき出した山羽のケツ目掛け、蹴りをぶち込む。

もちろんかなり加減はしている。

「あー、いってぇーっ! あっ、ウ、ウンコ漏れそう……」

両手でケツを押さえながらピョンピョン飛び跳ねる山羽を見て、俺とむつきは大笑いしながら『ワールド』を出た。

 

俺とむつきは近くにあるラーメン屋に入る。

俺は味噌ラーメンと餃子とご飯の大盛り、彼女は醤油ラーメンを頼んだ。

「悪いな、こんなところで」

「ううん、全然問題ないよ」

妙にニコニコ顔のむつき。

十歳ぐらい年も離れているせいか、いまいちこいつの考えている事が分からない。

「そうそう、むつきさ。携帯電話の留守番電話の聞き方ってどうするか分かる?」

「そんなの簡単だよ。こうして、ここを押して…。ほら、これで聞けるよ」

「ありがとう」

「あれ、聞かないの?」

「いや、やり方だけ聞いておこうかなと思っただけなんだ」

「そうなんだ」

こんな場所で、文江の声など聞きたくなかった。

まだあのおびただしい数のメールもチェックしていない。

本当なら、むつきとのん気にラーメンなど食べている状況ではないのだ。

彼女の前で、自分の招いたつまらない話をしたくなかった。

「さっき十卓がいいよと言ったでしょ?」

「ああ」

「何で?」

「だって一応俺はずっと店の中にいるだろ? こっちのほうがいいかなぐらい、長年の勘である程度分かるからさ」

嘘だった。

勘とかでなく、俺があの店の台をすべて設定しているので、どの台がいいかなど分かって当然である。

ただ客であるむつきに内情を言う訳にもいかない。

「あら~、私に負けてほしくなかったの~?」

変な色目使いで俺を見るむつき。

「ギャンブルなんだから、勝ち負けは当然あるけどさ。まあ、こうやって一緒に飯を食うぐらいだから、心情的には負けてほしくはないよ」

「私、龍ちんに大事にされているんだねえ~」

「勘違いすんな。仲のいい知り合いが負けるのは嫌だって話なだけだ」

「何よ…、私に…、したくせに……」

蚊の鳴くよう声で細々話すむつき。

「……」

ゲームセンターへ強引に連れられ、ついプリントクラブの中でしてしまったソフトなキス。

あの時の事をむつきは言いたいのだろう。

気まずい雰囲気の中、ラーメンや餃子が運ばれてくる。

俺たちは終始無言で食べた。

確かに友香の一件があったから、若くて元気のいいむつきは、それだけで魅力的に見える。

流れに沿って抱こうと思えば抱けるだろう。

でも、性欲だけで動くとロクな目に遭わないのは、先日この身を持って実感したばかりだ。

そして簡単にむつきを抱けば、また俺は意味もなく傷つけてしまう……。

餃子のたれを作る際、酢を多めに入れる時、酢女を思い出す。

そう、彼女も俺は傷つけた。

「一個ちょうだい!」

「ああ、どうぞ」

ほんとこいつの感覚が分からない。

神妙になったかと思えば、こうして急に無邪気になる。

女って難しい生き物だ。

「もう一個ちょうだい!」

「ああ」

むつき餃子を一口で食べてしまう。

「もう一個」

「おい、何だよ? 全部で五個しかないんだぞ? だったらもう一枚頼むよ」

「嫌だ。これがいい」

「じゃあ何で最初から頼まないんだよ? 俺さ、まだ一つも食べてないんだぞ」

「分かったよ…。じゃあさ、こうする……」

そう言いながら三つ目の餃子を口に入れようとして、半分だけ食べた。

残りの半分を箸でつまんだまま、俺の目の前に持ってくる。

「もう……」

強引に近づけるので、仕方なく口を開き餃子を食べた。

「やった」

「何がやったなんだ?」

「龍ちんと間接キス」

「…たく、馬鹿じゃねえの」

「へへへーん」

そう言って笑うむつきの顔が妙に可愛く見えたのは、俺の気のせいだろうか……。

 

ラーメンを食べ終わり店を出る。

当然俺のほうが男だし、年上だから金は払ってやった。

会計時、むつきは「私が出すよ~」となかなか譲らなかった。

「馬鹿野郎。俺のほうが年上でしょ。だからこのぐらい俺が出すのは当たり前」

「野郎じゃないもん。私は女だからね」

「くっ、こいつ……」

「私からご飯に誘ったんだよ? だから私が出すのが筋でしょ? それにこの間だって龍ちんに出してもらっちゃったしさ」

「いいんだよ、男がこういうのは出すって相場が決まってんだ」

そう言うと、むつきは店内なのに気にせず俺の腕にしがみついてくる。

「やめろ。離せ! みんなに見られるだろうが」

「見られるようにしているんだもん」

俺たちの様子をラーメン屋の店員は苦笑いしながら見ていた。

慌てて会計を済ませ、こうして外へ出た訳である。

むつきと一緒にいるのは楽しいと思う。

でもそれだけじゃ、抱いちゃいけない。

性欲がなくなった訳ではない。

彼女がいないなら、金を払って風俗へ行けばいいのだ。

友香の一件で俺は、自分の事が嫌いになっていた。

ずっと大和プロレスの誇りを持っていたつもりが、気付けば図に乗っていただけという現実。

こんな不肖の弟子を天国から大地師匠は呆れ顔で見ているのかもしれない。

いや、もう相手にもしてくれないよな……。

「ねえ、龍ちん」

「その龍ちんって言うのやめろよ? 俺のイメージが崩れるだろ!」

「へへへん」

「何が『へへん』だよ……」

「じゃあさ、私が『ワールド』行く時は、休憩の時一緒にご飯に行ってくれる?」

「ああ、構わないよ。その代わりその呼び方はやめろよな」

「へへ、何かさ、龍ちんって変わったね」

「まだ呼んでいるじゃねえか! 俺の何が変わったんだよ?」

「よく分からないけどさ」

「じゃあ変わってないじゃん」

「いいでしょ? 私がそう感じただけなんだから」

一番街通りを歩きながら、むつきは再び俺の腕にしがみついてくる。

「おい、俺はこの辺じゃそこそこ顔が売れているんだ。やめろって」

通行人が俺たちのやり取りを見てニヤニヤしている。

非常に恥ずかしかった。

「何で? 私と一緒に歩くのが嫌なの?」

「別に嫌じゃないけどさ。でも、こういう風にくっつかれると困るよ」

「何で困るの?」

むつきは急に真面目な顔つきになる。

「いや、何となくさ……」

どうもこいつといると調子が狂う。

「私が…、風俗嬢だから?」

足がとまる。

いつも無邪気で元気に振舞っているむつきの心の中を見てしまったような感じだったから。

「そんな事なんて一回も思った事ないって!」

『モーニング抜きっ子』の裕美を思い出した。

風俗で働く女には、心の奥底に何かしらの闇がある。

むつきだってこんなに明るいのに、何故あんな場所で働いているのだ。

俺は男だから、まだ良かった。

幼少時代のお袋虐待。そして親父の女遊び。

グレたという印象は自分でなかったが、学生時代はとにかく喧嘩に明け暮れた。

意味もなく人を殴り、優越感に浸っていた。

それはおそらく幼い頃常にビクビクしていた自分を許せなかったからじゃないのだろうか?

男だからそうやって済ませる事ができた。

では、女性なら?

俺のような感じで子供の頃から育ち、女として産まれていたら、どうなっていたのか。

風俗に身を落としていたかもしれない……。

「だって……」

悲しそうな顔のむつき。

少しでも癒してあげたかった。

俺はむつきの手首をつかむと、『ワールド』とは違う方向へ歩いていく。

「ちょ、ちょっと龍ちん。どこに行くの? もう休憩時間終わるでしょ?」

「いいから黙ってついてこいよ……」

「う、うん……」

俺はゲームセンターに入り、プリントクラブまで連れて行く。

「この間、撮り損ねたろ?」

「うん!」

「ちゃんと一緒に撮ろうぜ。仕事中に一緒に飯食ったのは、おまえが初めてなんだ。今日はその記念日って事でさ」

「うん!」

何回もポーズを決めて撮影し、終わると俺はむつきを優しく抱き締め、今度はちゃんとしたキスをした。

 

むつきと食事休憩を終えてから、俺はずっとボーっとしていた。

また一つの何かがあれで始まってしまったのだ。

少し休憩時間をオーバーした俺に対し、誰も従業員は文句を言ってこなかった。

無気力のまま仕事をこなす。

むつきは始めだけ調子良かったが、俺がそれで帰れという忠告も聞かずに熱くなり、五万円負けで帰ろうとする。

「だからあのビンゴ取った時、素直に帰ればいいのによ」

「へへへ、しょうがないよ、熱くなっちゃったんだしさ」

「あまり金を遣うなよ」

「ねえ、今度龍ちんの休み、いつ?」

「うーん、まだシフト今月の作ってないから、決まったら今度連絡するよ」

「分かった。じゃーねー」

負けたにも関わらず、むつきは妙に笑顔だった。

おそらく次の休み、彼女と会う事になれば、俺は抱いてしまうのだろう。

裕美や、一昔前の友香のように美人という訳ではない。

顔の作りは普通の子だ。

しかしいつも元気で明るい表情の裏側には、風俗で働いているという暗い後ろめたさも同居している。

俺はそんなところに惹かれたのかもしれない。

むつきと一緒にいると調子を狂わされるが、それでも楽しいと感じている自分がいる。

ああいう女が俺に一番合っているのかな……。

待て、肝心な事を忘れているぞ。

文江……。

あの女から届いた無数のメールすら、俺はまだチェックしていない。

そうだ、留守電だって聞かなきゃ。

俺は島根に声を掛け、一服をしに休憩室へ向かう。

さて、留守電から聞いてみるか。

俺はむつきに教わった通り、携帯電話を操作して耳に押し当てる。

「龍一~、何で電話にも出ないし、メールもくれないの! 大事な人って誰なの? ねえ、教えてよっ! 私、狂っちゃうよ? あのメールの意味って何な……、ブッ」

俺はいつの間にか留守電を切っていた……。

震えが全身に走る。

耳にまだ残る金切り声。

そう、友香は朝目覚めて、俺の携帯電話をチェックし、この留守電も聞いたはず。

それで川越プリンスホテルの部屋を出て行ったのだ。

もちろんこうなるように俺自身が仕向けた。

文江がこう行動するよう予測して。

分かっていたはずなのに、何故俺はここまで恐ろしく感じるのだろう……。

もう留守電はいい。

これ以上聞きたくない。

言いようのない不安。

そして恐怖。

むつきを抱くとか、そんなのん気な事を考えている場合じゃないぞ?

この女、友香以上にヤバい女だ……。

はなっから始まってもないが、どうやってこいつをうまく切れるか。

友香の時は、まだこの文江を利用できた。

じゃあ今はどうする?

自分で巻いてしまった種なのだ。

これは俺が自分で何とかするしかない。

気持ち悪いけど、メールもチェックしよう……。

この先の展開を想像すると、とんでもない事になるような気がした。

 

恐る恐る携帯電話を開く。

メールを確認しないと……。

見る前から鳥肌が立つ俺。

しかし誰も助けちゃくれないのだ。

最初から見てみるか。

相手の心理や性格をもっと把握しないと駄目だ。

 

《大事な人って誰? あの友香って人? ねえ、何であれから何も連絡くれないの? 私には龍一の感覚が分からない。だって今まで仕事で忙しかったんじゃないの? やっとメールくれたと思ったら、何回、いや、何十回電話しても出ない。私の留守電をちゃんと聞いているの? ひょっとして龍一、病気か何かで入院して電話が取れない場所にいるの? ねえ、教えて? もしそうなら病院名を教えてちょうだい。すぐ私が看病に行くから。今ね、また龍一の事を思いながらシーツを変えているの。何色のシーツだか分かる? 以前龍一は服装が黒が多いって言っていたでしょ? だから間逆の白を私は好むようにしたんだ。何でか分かる? 将来を誓い合った関係なら、同じタイプだとあまりよくない気がして、せめて色ぐらい逆の好みにしようと思ったの。これって変かな? あ、メール長くなっちゃっているね。ごめんなさい。でも、私はあなたの事が純粋に好きなの。ううん、ごめん。違った。本当に心の底から愛しているの。どれぐらいだか分かる? オホーツクの海よりも広く、そして深く。それでいて透き通るような透明さ。そんな感じの愛なんだ。ちょっとこれじゃポエムみたいだね。私ね、ひょっとしたらロマンチストかもしれないね。でもそれはそうでしょ? だって女の子なんだもの。龍一の声を聞いた瞬間、私はゾクゾク体がしちゃう。初めて写真見た時なんてね、もう失神しちゃいかもって目眩すらしたぐらいなんだよ。リングの上で戦っている龍一を実際に、この目で見たかったなあ。もう試合はしないの? ごめん、簡単に言っちゃって。コンディションとかそういうの作ったり、維持したりって本当に大変なんだよね? でも私に任せて。お料理はいまいち不得意かもしれないけど、今ね、一生懸命色々レシピを覚えているんだよ。食事する時は『あ~ん』って食べさせちゃおう。うん、もう熱々だよね。早く連絡ちょうだいね。 文江》

「……」

何だ、この無駄に長いメールは……。

こんな長文を携帯で打ったのか?

こいつ、頭が完全にいかれているぜ。

まだ打ったまではいい。

よくこんなものを俺に送ろうと思ったものだ。

俺はこの女の顔すら知らないんだぞ。

それに留守電を何件入れたと言うのだ?

もう文江の声など聞きたくない。

しばらく無視していても、文江のこういった行為はまるでやむ気配がなかった。

多分これからもずっとこうやって来るのだろう。

だとすれば、俺から手を打つしかない。

何かいい方法はないだろうか?

「……」

今は何も閃かない。

しょうがない。

次のメールを見てみるか。

 

《龍一、これだけメールを送っているのに、何で返事をくれないの? 文江》

 

今度はずいぶんとシンプルなメールだな。

まあいい。

次……。

 

《寂しい。龍一がメールをくれなきゃ、自殺するかもしれない……。 文江》

 

こいつもかよ。

本当にこういうのってうんざりする。

しかし友香の時はさすがに夢見が悪くなりそうでとめたけど、あんな長いメールを打つような女がそんな簡単に自殺するなんて考えられない。

もし、したらしたでしょうがない。

だって俺は顔すら知らないし、向こうがしつこいだけなんだから。

 

《今、料理を作っているの。龍一、何が食べたいかな? 文江》

 

おまえの作ったものなんて、どんな大好物だって食いたくないよ。

 

《包丁で指を切っちゃった。血がいっぱいドバドバ噴き出してる…。今、私の携帯は真っ赤になっちゃってる。怖いよう…。助けて、龍一。 文江》

 

こいつ、気持ち悪いなあ……。

本当か嘘かなんて俺には分からないけど、どうだっていいよ、そんな事。

 

《昨日から、寝られなくなった。原因は龍一から返事がないから……。 文江》

 

確かにこっちからメールをして、あえて眠れる獅子を起こすような真似をしてしまったのだ。

だからってこいつのメールの内容は何なんだ?

起きている間中、ずっと俺にメールや電話をしているのだろうか……。

「うっ……」

また新しいメールが届く。

今もあいつはこうやって俺に送っているのか?

届いたばかりのメールを見てみる。

 

《今日はご飯ご馳走さまね、龍ちん。ポーカーで五万負けちゃったのは痛いけど、あんな刺激的なキスをしてもらったんだから、私って幸せだよね。早く休みを作ってね。ゆっくり会いたいからさ。 むつき》

 

ホッと胸を撫で下ろす。

文江からじゃなかった……。

むつきには悪いが、今は正直それどころじゃない。

最後の最後で本当の危険がこの身に迫っているのだ。

返事はあとで返せばいいだろう。

執念深い女、文江。

天然の友香よりも、明らかに性質が悪い。

また文江のメールもチェックするようか……。

いや、今は仕事中だ。

これ以上時間を掛けて、こいつのメールなんて見ていられない。

仕事が終わってから、また確認しよう。

『ワールド』の仕事を済ませ、真っ直ぐ西武新宿駅へ向かう。

売店で雑誌を買おうとして思い留まる。

やるべき事があるだろうが……。

ガラガラの特急小江戸号に乗る。

朝の上りと、夜の下りだけは、ほとんど満席になるが、遅番という時間帯なのでいつもこんな感じだ。

この電車のいいところはタバコを吸いながら行ける点。

自分の座席に座ると、再び文江のメールを見てみた。

 

《さっきから涙が止まらないの。どうしてだろ? 文江》

 

知らないよ、そんな事は。

いちいち俺にメールするなよ。

本当にいい迷惑だ。

 

《今日ね、ペットのココちゃんいるでしょ? イライラしてたから、踏んづけちゃった…。龍一が返事をくれないからだよ。いつもはココちゃん、可愛い声で鳴くの。でも…、今はすごい醜い声を出しているわ。変なの~、きゃはっ! 文江》

 

自然とツバを飲み込んでいた。

おかしいと思ってはいたが、そうじゃない。

こいつは精神異常者だ……。

 

《苦手なビールだけど、辛いから二本飲んじゃいました。 文江」

 

こんな内容のメールだけなら無視をしていればいいが、この女はとてつもない事をしてきそうで怖い。

 

《また、ココちゃんを蹴っ飛ばしちゃった。ココちゃん、体がピクピクしてて、見ていると笑っちゃうよ。でも不思議なの、そうするとイライラが収まるの。 文江》

 

吐き気を催す。

本当にこんな事をしているのか?

車内は冷房がかなり効いているのに汗を掻いていた。

うちだって猫を飼っているんだぞ?

本当なら許せない。

幼少の頃、家で飼っていたみゃうを思い出していた。

まだお袋が家にいた時代だった。

クリーニングに出した客の品物におしっこをかけてしまった猫のみゃう。

お袋は小さかった俺に探してきてくれと言った。

連れてくると、お袋はヒステリックにみゃうを何度も叩き、ダンボール箱に無理やり入れだした。

あの時泣きながら懇願したが、お袋は嫌がる俺も一緒に車へ乗せた。

箱の中で懸命にもがくみゃうは運転中、ところ構わず爪で引っ掻いていたのかダンボール箱に穴が空き、手がつき出した。

それを見たお袋はまた大きなダンボール箱に入れ、ガムテープでグルグルに巻く。

そして川原まで着くと、そのまま箱ごとみゃうを川へ投げ捨てたのだ。

幼少時代力がなかった俺は、みゃうを守れなかった。

そしてその件は、こうして未だ心の傷として鮮明に残っている……。

 

《龍一、私のメール見てるの? 文江》

 

ああ、おまえがどれだけ異常かよく分かったよ。

 

《包丁で右の手首を切りました…。血がどくどくと吹き出してま~す。 文江》

 

「……」

何だ、この支離滅裂なメールは……。

自殺を図った?

いや、もしそうならこんなメールなど打てやしないだろう。

目眩がする。

頭が痛くなってきた。

俺をからかっているつもりなのか。

それとも本当に……。

 

《…なーんて、嘘ぴょん。心配してくれた? きゃはっ! 文江》

 

「ふざけんなっ!」

思わず携帯電話を座席の上に投げつける。

小馬鹿にしやがって……。

もうこれ以上見る必要性なんてないだろ?

いや、何をしてくるか分からない以上、まだまだ見続ける義務がある。

一度深呼吸をしてから、携帯電話を拾った。

 

《龍一、何で返事くれないの? 文江》

 

一度電話をしてハッキリ言うか。

でも、友香の時はまるで効き目がなかった。

こいつの場合、さらに増長してしまうんじゃないか……。

 

《電話していい? 龍一の声が聞きたい。 文江》

 

やはりやめておこう。

危険信号が、頭のどこかから聞こえてくる。

じゃあどうする?

 

《龍一。また、ココちゃん、蹴っ飛ばしちゃったじゃない。もうこれ以上蹴っちゃうと、動けなくなっちゃうよ? ココちゃんが可哀相だよ。 文江》

 

動物に八つ当たりするのはやめろよ。

嫌な性格だな。

違う。

そんな生易しいものじゃないだろう、こいつは……。

 

《あのね、謝りたい事があるの。怒らない? じゃあ、話すね。さっき、包丁で指を切ったって言ったでしょ? あ、手首って書いちゃったっけ? 実はあれね、嘘なの。ごめんね。だから連絡ちょうだい。 文江》

 

人を驚かしといて、実は嘘。

それがこの女のやり方か?

神経が苛立ってくる。

絶対に連絡なんかしねえよ。

 

《私、龍一が世界中で一番大好き。ずっと一緒にいたい。お願いだから私だけを見て。一生私はあなたを見続けるから。 文江》

 

自分の言っている事を理解しているのか?

どうやったらおまえみたいな末恐ろしい女を好きになれるというのだ。

 

《ねえ、何故、返事をくれないの? 何で急に冷たくなったの? 教えてよ。 文江》

 

冷たくなったのは、おまえが約束を破り、写真を送らなかった時からだ。

文江からの手紙なんて一度もない。

連絡方法はメールか電話のみ。

それでいて私を好きになれ?

無理に決まってんじゃねえか。

 

《私の事、嫌いになっちゃった? 文江》

 

そうか!

ハッキリとメールで『嫌いだ』と送ってしまえばいいんだ。

何を今まで難しく考えていたのだろう。

嫌なものは嫌だ。

素直に相手へ伝えるだけで分かるはず。

とりあえず次のメールも見てみた。

 

《ココちゃんが私にウインクしてるわ。でも、ずっとウインクしているから、変だなって思ったの。よく見てみると、片目が潰れていました。あはっ……。 文江》

 

今までのやり方からして、これはきっと嘘だ。嘘だと思いたい……。

頭の中で警戒音がさらに強く鳴り響く。もうこれ以上、読むのを止めろ……。

意識とは反対に、俺は次のメールを見ていた。

 

《猫ってみんな、馬鹿だって言うじゃない? 私は違うと思うんだ。だって、ココちゃんの目、片目だけしか開かないんじゃ、バランスよくしないとって思ったの。そしたらココちゃんね、私が笑顔で近付いているのに、猛ダッシュで逃げていったの。 文江》

 

頼むからペットを虐待したのは嘘だって言ってくれよ?

川に捨てられたみゃうの凄まじい泣き声。

俺の耳にずっとこびりついている。

嘘だという事が書かれたメールを求め、俺は次を見た。

 

《寂しいよ~。淋しいよ~。寂しいよ~。さびしいよ~。寂しいよ~。サビシイヨ~。寂しいよ~。さびしいよ~。寂しいよ~。淋しいよ~。寂しいよ~。寂しいよ~。さびしいよ~。寂しいよ~。サビシイヨ~。寂しいよ~。さびしいよ~。淋しいよ~。寂しいよ~。サビシイヨ~。淋しいよ~。寂しいよ~。淋しいよ~。サビシイヨ~。寂しいよ~。さびしいよ~。寂しいよ~。淋しいよ~。寂しいよ~。さびしいよ~。寂しいよ~。サビシイヨ~。 文江》

 

「な、何だよ、これ……」

息がつまりそうになる。

寂しいという文字の羅列が、こんな気味悪いものだと思わなかった。

しかも何だ、この漢字や文字を訳もなく変換した羅列は……。

 

《酷いよ、龍一…。こんなの辛過ぎる…。今ね、私の足元でさー…、ココちゃんが動かなくなっちゃったよ…。何でだろね…。可哀相…。でも、もっと私は可哀相……。 文江》

 

このクソ野郎……。

本当に猫を殺したのか?

怒りで体が震える。

おい、嘘なんだろ?

そうだよな?

落ち着けって……。

まだメールは腐るほど残っているんだ。

きっと嘘だって書いてあるはずだ。

 

《今、新幹線の中にいます…。龍一のいる新宿へ向かっています……。 文江》

 

「……」

自然と手から携帯が落ちた……。

さっきよりもの凄い音で警告音が鳴り響いている。

心臓の鼓動まで早くなっていた。

「な、何だよ、これは……」

つい声に出していた。

文江が九州から、新幹線でこっちに現在向かっている?

嘘だろ?

何て事だ。

俺は以前この女とメールでやり取りしていた時、ゲーム屋の事は隠していたが、新宿でバーテンダーをしていると嘘をついていた。

つまり文江は、俺が新宿で働いている事を知っているのだ……。

落ち着け。

慌てるな。

これは本当にヤバいぞ。

冷静に考えろ。

まず、日付けを確認しよう。

メールは昨日の昼に届いたものだ。

…という事は……。

そのまますぐ行動に移したと想定すると、もうこっちへ来ているかもしれない。

違うよ。

今、新幹線の中ってメールしてきているんだぞ?

とっくに来ているんだよ!

「ん……」

背中からジーっと見られているような気配を感じる。

慌てて振り返った。

四号車の中は、俺一人だけしか乗っていない。

いない……。

気のせいか……。

当たり前だ。

幽霊じゃあるまいし……。

出来る限り自分を落ち着かせようとしたが、何か大事な事を忘れているような気がした。

何を忘れているんだろう?

え~と……。

「馬鹿っ……」

思わず大声を張り上げる。

俺はあの女に手紙を送っているんだぞ?

家の住所を知られているって事じゃねえか!

ヤバい……。

新宿で働いている事や、家の住所まで知られている……。

もう一度、携帯を手に取り、文江のメールを確認した。

 

《今、新幹線の中にいます…。龍一のいる新宿へ向かっています……。 文江》

 

何度見ても薄気味悪いメールだ……。

本川越駅に到着すると、俺は周りをキョロキョロと見回しながら歩く。

昨日の昼に届いたメールなので、もうこっちにいてもおかしくない。

ひょっとして、あの柱の陰からそっと俺の事を監視しているんじゃないか?

自分で想像してゾッとする。

友香の時は、まだ一週間の猶予があった。

文江の場合、まるで条件が違う。

何故なら俺は、あの女の顔すら知らないし、何の仕事をしているかさえ聞いていないのだ……。

ブルブルと大きく体が震えた。

店を出た時、すでにもう俺を監視していたのか?

いや、『ワールド』の事までは伝えていない。

いくら狭い歌舞伎町とは言え、土地勘のない人間がいきなりやってきて、すぐに俺を見つけられるなんて考えられない。

だとすれば、住所の分かる川越に……。

その場で立ち止まり、念入りに辺りを見回す。

駅構内にたくさんいる女性。

誰か俺を見ている女はいるか?

いない……。

でも俺は、あいつの年すら分かっていなかったんだぞ?

どこかでキョロキョロしている俺を見ているかもしれないんだ……。

住所が分かれば、俺の家の位置などすぐに分かってしまう。

しかも商売をしているから、家の看板には大きく『神威ドライクリーニング』と書いてあるのだ。

近所の人に「神威さんのお宅は?」なんて聞かれたら、一発で分かってしまうだろう。

駅から五分で着く近い距離の家を皮肉に感じた。

パニックを起こしそうだ。

錯乱しそうだった。

「待てよ……」

そういえば、『ワールド』を出てから川越に着くまでの約一時間。

普通なら頻繁にあるはずの文江からのメールはない……。

考えられるのは、もう本当に来ているという事なんだ……。

参ったな。

さすがに一人でいるのが嫌だった。

どうしたらいい?

駅から出ても、俺は周りをしばらく見渡した。

昼という時間帯のせいで、駅前は人がたくさん歩いている。

誰が誰だかまったく分からない……。

俺はあの女を完全に弄んだ。

別にセックスをした訳ではない。

友香に勘違いさせる為、甘い言葉を打ったメールを送っただけ。

それでも充分な効果があったぐらい、文江は動いた。

利用するだけ利用し、急に冷たくした俺を恨んでいるかもしれないのだ。

いきなり背後から刺される可能性もあるかも……。

俺は本川越駅ビルのペペの壁にできるだけ沿って歩くようにした。

少し歩いては後ろを振り返り、ゆっくりしか動けない。

文江はどこにいる?

こうして怯えている俺を今も監視しているのか?

見つけられるヒントは一つだけ。

一人でいる女という事だけ……。

電話が突然鳴る。

「うわっ!」

驚いて大声を出す俺。

周りの通行人は、不思議そうな顔をしながらこっちを見ていた。

常に警戒を怠らず、やっとの思いで家に帰る。

何度背中を振り返った事だろうか。

精神的な疲労が酷かった。

部屋に着くと、そのまま布団の上に倒れ込む。

まだ安心するのは早いぞ?

文江はこの家だって知っているんだ……。

でも休まないと……。

今日だって仕事なんだ。

携帯電話が鳴る。

俺は慌てて飛び起きた。

「むつきか……」

しかし今は出る気にならなかった。

むつきの元気な声を聞いたところで、逆に疲れるような気がする。

人のせいにするなよ。

今は誰とも話したくないだけだろうが。

八回コール音が鳴ってやむ。

むつきには悪いと思ったが、心の余裕がないのだ。

 

《今、新幹線の中にいます…。龍一のいる新宿へ向かっています……。 文江》

 

昨日の昼に届いたメール。

あれから先をまだ俺は確認していない。

早く確認しよう。

文江が今、どの辺にいるかのヒントぐらい、あるかもしれない。

このまま部屋でジッとしているのが嫌だった。

いや違う。

ここにいては駄目なんだ。

あんな異常なメールを大量に送ってくる女だ。

何をされるか分からない。

逃げなきゃ駄目だ。

文江が分からない場所へ逃げたかった。

しかし、どこへ……。

気つけば家を飛び出し、近所の漫画喫茶に向かった。

灯台下暗しと言うじゃないか。

しばらくここで、ゆっくりと漫画でも見ていればいい。

現実逃避かもしれないが、あの文江と直に接触するよりはマシである。

そう思っている時、突然携帯が鳴った。

ウグイスの鳴き声の着メロ。

文江からの着信音だった。

俺は心臓から振るえが出て、全身に広がったような感覚がした。

恐ろしいが現状を把握しなくてはならない。

生命の危機を本能的に感じた。

その為にメールを見なきゃいけないのだ。

 

《今、新宿にいます。龍一と同じ空気を吸っています。新宿ってこんな匂いがしたんだ。龍一のいい匂いも交じっているのかな? 文江》

 

「ううぅ……」

あいつがとうとう新宿へ到着した……。

こんな言い方をするなんて、俺の近くにいたのか?

だから違うって……。

これはいつに届いたメールだよ?

日時を確認しろよ。

昨日の夜か。

俺がむつきと一緒にご飯を食べていた頃、すでに文江は歌舞伎町にいた……。

じゃれついてくるむつきとのやり取りをどこかで見ていたのか?

まだまだあいつからのメールはたくさん残っている。

トイレに行き、ゲーゲー吐いた。

俺は顔も知らない女に恐怖を感じている。

だが家は分かっても、俺が漫画喫茶にいる事までは知らないはずだ。

落ち着け……。

落ち着くんだ……。

俺は今、猛烈に疲れている。

ゆっくりここで休めばいい。

俺は狭い個室でリクライニングシートを限界まで倒し、目を閉じた。

目を閉じると、真っ暗な暗闇になる。

奥のほうで何かがモゾモゾと、動いているような気配を感じた。

異様な気配は、徐々に近づいてくるような気がする。

気にするな……。

何が起きても、それはこれから見る俺の夢なのだ。

そう必死に自分へ言い聞かせた。

ウグイスの鳴き声が、何度も聞こえたような気がする。

気にするな……。

目を開けるな……。

駄目だ、落ち着いていられない。

俺は目を開けて起き上がった。

この居場所さえも簡単に突き止められそうな気がした。

とりあえず漫画喫茶から出よう。

プラス思考でいかないといけない。

よく冷静に考えろ。

何をそんなにビビッている。

俺は川越の街の中をとにかくグルグルと歩き回った。

確かに文江は異常だが、俺の住所が分かったぐらいで、何ができるんだ?

土地勘もない人間に、何をそこまで怯える必要がある?

俺は何もしていない。

堂々としていればいい。

また家に戻る。

自分で部屋に行くと、携帯電話を開く。

残りの文江のメールを見ないと駄目だ。

 

《さすが新宿だよね。たくさんの人が本当にいっぱいいる。 文江》

 

《さくら通りって書いてある看板の下で、殴り合いの喧嘩をしている人がいるよ。私、すごく怖い。龍一、私を守ってね。 文江》

 

《『博多天神』っていうラーメン屋さんあったから、思わず飛び込んじゃった。だって私、九州女でしょ? やっぱりとんこつ好きなんだよね。 文江》

 

《今ね、『ルノアール』ってお店でひと息ついて、コーヒー飲んでます。こっちのほうの喫茶店って、こんなに高いの? 文江》

 

《コマ劇場ってこんなに大きいんだね。 文江》

 

《あんまりお金遣えないし、ホテルの部屋で飲むようにお酒を買ってます。今ね、すごい品揃えのお酒があるお店にいるの。えっと『信濃屋』とか書いてあったかな? 缶ビールを何本か買おうと思っていたけど、これだけ種類があると本当に目移りしちゃうよね。でもね、本当は龍一の作ったカクテルを飲みたいな。 文江》

 

《今、ホテルの部屋でお酒を飲んでます。 文江》

 

《さて、私はどこのホテルにいるでしょう? ヒントはね、歌舞伎町が見渡せるところのホテルでーす。 文江》

 

新宿プリンスホテルしかねえじゃねえか……。

歌舞伎町にいないと分からないような内容のメールばかりだ。

本当にあいつは新幹線を使い、新宿まで来ているのだ。

 

《酔ってきちゃったみたい。ねえ、龍一。ここに来て私を腕枕してよ。 文江》

 

《せっかくここまで来たのに、何で一回も連絡くれないの? 文江》

 

《寂しいよ~。龍一、寂しいってば~。 文江》

 

《龍一…、私だけの龍一……。 文江》

 

《今日はもう寝るね。おやすみなさい。 文江》

 

そうだ、俺も本当に寝ないと……。

少なくてもあいつは、新宿にいる事だけは分かった。

ここは川越なんだ。

ゆっくり寝よう。

まだ見ていないメールはあるが、あとで見ればいい。

 

見慣れない天井が見える。

どこだ、ここは?

妙に頭が痛い。

近くでシャワーの音が聞こえる。

その音で、俺は初めて辺りを見回した。

ラブホテルの部屋だろうか?

俺は何でこんなところにいるんだ?

ベッドから起き上がり、シャワーの音がする方向へ近づく。

お湯の跳ねる音と共に、女の鼻歌が聴こえてきた。

「か~むぅ~ぃ~…。か~むぅ~ぃ~……」

何の歌を唄っているんだ?

俺は耳を澄ませる。

「か~むぅ~ぃ~…。か~むぅ~ぃ~…。りゅぅ~ういち~を……」

「……!」

鳥肌が全身に広がる。

ただの歌だと思っていたら、俺の名前を唄っているのだ。

落ち着け。

冷静になれって。

何故、俺はこんな場所にいるんだ?

部屋で寝ていたはずだが……。

「りゅぅ~ういち~を…、わぁ~たぁ~しぃ~のぉ~もぉ~のぉ~……」

目の前のガラスの扉一枚の向こうで、奇妙な歌を唄っているのはあの女しかいない。

文江……。

五感が俺に訴えてくる。

逃げろ。

ここから逃げろと。

玄関まで急いで走り、靴を履く。

靴を履きながら思った。

俺、こんなところへ来た記憶なんてまったくないぞ?

いや、とりあえず余計な事は考えるな。

逃げろ。

それだけを今は考えろ。

ドアを開けてから、初めて気付く。

上半身は裸、下はパンツ一丁だった……。

幸いまだ、あいつはシャワー室にいる。

さすがにこんな格好じゃ外へ出られない。

そっと忍び足で静かに部屋へ戻り、ベッドへ向かう。

まだシャワーの音は聞こえていた。

俺がまだ寝ていると思って、呑気にしてやがるんだ。

俺はソファーにかけてあった洋服を身に着け、再び外へ向かった。

ここにこれ以上いると、俺は絶対に頭がおかしくなる。

再び靴を履き、玄関のドアノブに手をかけた瞬間、シャワーの音が止んだ。

マズい、気付かれたか……。

心臓が激しく鳴っている。

気にするな。

逃げろ。

俺は構わずドアを開けた。

「あら、どこへ行くの?」

「うわぁっ!」

何故か部屋の外には、文江が立っていた。

以前電話で聞いた文江の声で、本人だと分かる。

初めて見るこいつの顔。

目が開いているのか分からないぐらい細い垂れ目。

だんごっ鼻の下には大きな口。

オカメのように膨れた頬。

身長は百五十センチもないぐらい小さく、ずんぐりむっくりした体型。

こんな外見だったから、俺に写真を送ってこれなかったのか。

文江は薄気味悪い顔で俺を見て微笑んでいる。

玄関先で情けなく腰を抜かし、呆然としている俺。

「どこに行こうとしたのよ。やっと、二人きりになれたのに……」

文江の右手にキラリと光る何か……。

刃物…、ナイフか……。

いや、包丁だ……。

背中に冷たいものが走る。

怖い……。

嫌だ……。

目がひっくり返って、白目だけになりそうだった。

俺が一体何をしたっていうんだ……。

「何をそんなに震えているのよ?」

文江の細い目が大きく見開き、俺にだんだん迫ってくる。

俺は悲鳴をあげながら、徐々に意識が遠のいていくのが分かった。

 

静かな暗闇の中……。

俺は生きているのか?

それとも死んでいるのか?

分からない……。

気を失っている間、何かされたのだろうか?

いや、体はどこも異常ないようだ。

何もされていない。

だけど、目を開けるのが怖かった。

ウグイスの鳴き声……。

文江からのメール着信音が聞こえた。

慌てて起き上がり、携帯電話の音をとめる。

「ここは……」

いつの間にか俺は、自分の部屋にいた。

すると、さっきのリアルなものは夢だったのか?

そうに決まっている。

でないと俺の頭が狂ったとしか思えない。

時刻は夕方の六時。

今までずっとこの部屋で寝ていただけなのだ。

俺はそう自分へ言い聞かせる。

昨日はヘビーな事が起こり過ぎた。

寝たのにまったく疲れがとれていない。

昨日吐いた状態のまま寝てしまったので、口の中が気持ち悪かった。

洗面所へ口をゆすぎに行く。

ついでに風呂へ入る事にした。

家の風呂は、湯船を二十四時間温かい温度に保つ事ができる。

湯船にバスクリーンを入れ、緑色のお湯にした。足元からゆっくり入ると、お湯の熱さでジンジンしてくる。

「すぅ~……」

目を閉じながら大きく息を吸い込むと、風呂場にある湯気まで、口の中へ同時に入ってきた。

あれだけ気だるかった体が、次第に癒されてくる。

疲れていた。

さすがにこんな精神状態で仕事へ行く気になれない。

普通の会社なら仮病を使えば許されるだろう。

しかし俺が働いている場所は、裏稼業なのだ。

そんな甘い理由では休めない。

ちょっと早く出て、酒でも飲んでから行こう。

俺は風呂から出ると着替え、駅の途中にあるキャバクラへ寄ろうと思った。

 

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