2024/12/11 wed
前回の章
本当にウンチをしている訳ではないので、一度立って大きく深呼吸をする。
落ち着きながら文江からのメールをチェックしないと、あとで一大事になるんだ。
取りこぼしなど、一切許されぬ。
ミスなんて一つもあっちゃ駄目なんだからな?
俺は用心深くメールを見ていく。
削除か残すか……。
この決断は、遊びでも何でもないのだ。
そう…、今の感覚を例えるなら、麻雀をしているところ、みんな、トイレに行ってしまった。
だからその間、ズルをして伏せてある麻雀牌をソーッと見てしまう。
でも数が多いから、どのぐらい麻雀牌を覚えられるか分からなくて…、おい、違うよ。
今はそんな例えなんて考える必要性などないだろ?
それに全然例えすら違う気がする。
もっと真剣になれよ。
自分の一生がこれに掛かってんだぞ?
本当に俺は馬鹿だなあ……。
一語一句見誤るなよ。
視力二・〇なんだろ?
こういう時、真価を発揮しなきゃ……。
馬鹿、全然ズレているよ。冷静に…、もっと落ち着く事。
時間を掛けてメールの選別をしていく。
今頃友香は、壁一枚向こうの部屋の中で悶々としているだろう。
いいんだ。
放っておけ。
文句を言ってきたら、持ち前の口のうまさでかわせ。
そしてバーテーダーの技術を駆使して話題を逸らせ。
そのあとしこたま飲ませろ。
今日、俺は悪魔に魂を売った。
いや、正確にはセクションワンを思いつき、それを実行しようとした時に売ったのだろう。
もう一週間も前だ。
罪悪感は不思議とない。
心の中は妙に澄んでいる。
何故ならこれは、正当防衛だから……。
例えば夜道、か細い女性が歩いている。
そこへ力の強い男が襲い掛かり、強姦しようと押し倒された。
剥ぎ取られるパンツ。
どんなに抵抗しても男の力には及ばない。
ポケットの中には偶然ハサミがあった。
女はそのハサミを使って強姦男に突き刺しても、正当防衛になるだろう。
それと同じようなもんだ。
今の俺のこの動きを非難するような連中とは、生涯友達になれないだろうね。
いや、そういう問題じゃないよ。
だってこのままあれと、付き合わせられちゃうような感じになったら、友達誰も会わなくなるよ。
以前俺は「今をときめく神威だ」とか図に乗っていた時期があった。
そんな偉そうな事を抜かして、横に肉がいてみろ。
俺だってもし友達だとしても、そんな奴いたら他人になるだろう。
だからこのセクションフォーは、とても重要なポジションになるのだ。
セクションファイブは、俺のカクテル作り。
奴が寝れば無事成功である。
違う。
今はフォーでしょ?
次の事はこの段階がうまくいってから始めてだろ。
じゃないと足元をすくわれてしまうぞ。
まさかあの肉め。
俺がこんなセクションを頭の中で考えているだなんて想像もつくまい。
この計画は、肉がすべて勝手に勘違いし、自我崩壊させる事に向かって進んでいる。
一つ一つの点が、それぞれ順を追って線になっていく。
だからこそ俺はセクションフォーで、文江からのメールを選別しなきゃいけないのだ。
巨人の安打製造機と呼ばれた『篠塚』の巧妙な打率よりも、俺は上をいかなきゃいけない。
そう文江のメールがピッチャーの投げた球だとすると、俺は差し詰めバッター。
しかも一度でもストライクを取られたら、そこで試合は終了するような瀬戸際の中を慎重にこうして歩いているのだ。
本当ならこんな事したくはない。
正々堂々と剛速球を投げ、三球三振に討ち取りたい。
でも、俺の投げた渾身のストレートは、彼女の大いなる肉にぶつかり、ストライクを取れなかったのだ。
九回表でぶつけてしまったデッドボール。
でもまだ九回裏まではあるのさ。
さあ、文江の球をよく見分けろよ。
ストライクかボールか。
一球でもストライクを取られたら、俺はおしまいなんだから……。
友香は目がトローンとしている。
あともう一息。
俺は彼女が気分良く酒を飲んでくれるなら、心を込めてシェイクしよう。
浅草ビューホテル時代を思い出す。
嫌な上司もいたけれど、北野さんとも出会えたし、こうしてカクテルの技術も未だ備わっている。
俺の脳裏には、ホテル時代の様々な記憶が映し出されていた。
部下に手で合図をして、冷たいおしぼりを持ってこさせるサインを送る。
客のほうを向いた状態で左手だけを後ろに回し、受け取れるように手のひらを開く。
十秒もしない内に、冷たいおしぼりが手の上に乗せられる。
「お客さま、よろしかったら、お使いになられますか?」
いきなり目の前に出されたおしぼりを客は、ビックリしたような表情で見つめている。
「相変わらず気が利くねえ。それにしても、いつの間におしぼりを用意したんだい?」
「お客さまが、おしぼりを使いたいなと望んだ時からですよ。どうぞ」
「おっ、冷たい。うーん、気持ちいいなあ」
温かいおしぼりだと思っていたのをいい意味で裏切られた客は、顔に押し当てて気持ちよさそうに拭いた。
温かいものより、冷たいのをそろそろ欲しがっているのではないかと感じていた。
まさにベストタイミングである。
毎度の事ながらも喜ぶ客の表情を見て、少し幸せを感じた。
浅草ビューホテルの二十八階にあるトップラウンジは、カウンター席が八席だけ。
あとは両サイドに分かれた夜景を見られる席と、中央にあるショーステージの周りに何箇所かテーブルがある。
ステージは一日四回に分けて外人歌手が唄う。
客のほとんどはカップルで、綺麗で壮大な夜景を見にまったりしに来るのだ。
広さ的にはホテルと呼ばれる造りだけあって、豪華なものだ。
それだけゆったりとしたスペースを持ちながら、ショーステージには一台のグランドピアノが置いてある。
毎週日曜日だけは滞在する外人歌手が休みなので、そこでピアニストが生演奏をするステージタイムがあった。
週に一度しか来ないから、あまりピアニストの人と話す機会はなかったが、名前は中野さんという女性で俺よりちょっと年上だったっけ。
ある日、喉が渇いたんじゃないかと休憩中の彼女に俺は、オレンジを絞った生のフレッシュオレンジジュースを差し入れた。
「神威さんって、昔何かしていたの?」
不思議そうに中野さんが声を掛けてきたので、何故そう思ったのかを聞いてみる。
「体も大きいし、目つき…、あ、あの別に目つきが悪いとか言っている訳じゃないのよ? 何かホテルにいる人たちとあなたの目は、何か違うなあっていつも思っていたの」
俺は大和プロレス時代の話をすると、中野さんは「へえ、なるほどねえ」と感心したように頷いてくれた。
これをきっかけに俺と彼女は仲良くなった。
一週間後、ピアニストの中野さんから電話が掛かってきた。
話を聞くと、当時のラウンジのマネージャーは山塚という『ドラゴンボール』に出てくる悪役キャラクターの『ピッコロ大魔王』みたいな顔をした男だった。
顔もすごいが性格もかなり酷い男で、ホテルの従業員たちからは陰で『ピー』と呼ばれている。
『ピッコロ大魔王』の頭を取って『ピー』なんだと誰かが俺に教えてくれた。
この男、セクハラ大魔王でもあり、仕事が終わってホテルマンたちがカウンターへ座り、小さなお疲れ会をする時必ず女性の横にさりげなく座り、酔ったふりをして握った手を離さないのだ。
それでいて俺ら男には酷い態度だったので、『ピー』とか呼ばれるんだろう。
一度ラウンジが満席の時だった。
新宿側の風景が見える席に座る外人客がワインのボトルを頼んでいて、「グラス、ワンモアプリーズ」と俺に言ってきた。
カウンターの中は『ピー』がすごい顔をしながらカクテルを作っている。
俺は声を掛けた。
「マネージャー、ワイングラス一つお願いします」
それしか言っていないのに、『ピー』はもの凄い表情で俺を睨み、「どっちだ!」とかなりでかい声で言う。
特に赤ワイングラスか、白ワイングラスの指定を受けていなかった俺は、チラリと外人客のテーブルを見てボトルを確認し、「ルージュでお願いします」と答えた。
ホテルでオーダーを取る際は、すべてアルファベットで伝票を書かなければいけなかった。
なので、白のグラスワインだと『バンブラン』。
赤だと『バンルージュ』といった感じで書かなきゃいけない。
どこに怒るような原因があるか分からないが、イライラしながら『ピー』は赤ワイングラスを取り、カウンターの上に思い切り叩きつけるように置いた。
繊細なガラスでできたグラスは、柄の部分にヒビが入り、そのまま割れた。
カウンターには客だっているのにと思った俺は、一気に怒りが上昇し、おそらくあの時顔色が変わっていたのだろう。
周りの従業員がさりげなく俺の背中を押しながら奥に連れていき、事情を聞いてくれた。
「しょうがないよ、あのマネジャーは…。だって『ピー』だよ? 忙しいといつもそれだけでイライラしているんだ。神威、おまえも気にするな」となだめてくれた。
そんな『ピー』から、ピアニストの中野さんはラブレターをもらったようだ。
俺は素直に助言する事にした。
「中野さんはとても綺麗で、ピアノの腕も抜群で、性格だって人を見る目だってある素敵な女性です。だからハッキリ言いますね」
「う、うん……」
「あんな『ピッコロ大魔王』みたいな男、絶対にやめたほうがいいですよ。見ましたか? あの男の額の皺。あそこが一番似ているじゃないですか、ピッコロに」
「え、ええ…。私もね、実はこんな手紙もらって本当にどう断ればいいのか困っているの」
「じゃあ、今度断りの返事書いたら、俺に渡して下さいよ。俺が『ピー』に引導を渡してやりますから」
「神威君…、本当にありがとう……」
中野さんが書いた手紙を受け取った俺は、仕事が終わった夜のお疲れ会の時、女性従業員にセクハラしている真っ最中の『ピー』に、「あ、マネージャー。これ、ピアニストの中野さんからもらったんですけど」と渡した。
焦った表情の『ピー』は手紙を奪うようにして、ラウンジの奥に消えた。
それ以来、『ピー』は俺に口を利く事がまるでなくなったが、携帯電話を初めて購入したようだ。
そして同じ階の隣にある『メンバーズバー セントクリスティーナ』のマネージャーである大川さんに、「最近若い女ができちゃってねえ」と自慢したそうだ。
何故そんな事を知っているかと言うと、『ピー』が休みの時のお疲れ会で、大川さんがやってきて、従業員の前で「あの馬鹿、若い女ができたとか俺に嘘をついてきやがった。大方、キャバ嬢に入れ込んでいるだけだろう」とバラしたからである。
結局俺が浅草ビューホテルに入って一年ぐらいで、『ピー』はそのキャバ嬢に貢いでいたのか知らないが、ホテルの会計を誤魔化し金を抜いていたのがバレてしまい、クビになって消えた。
俺はそんな事を思い出しながら、ウォッカベースのカクテル『バラライカ』を作り終え、友香の目の前に差し出す。
「わあー、素敵っ!」
「ショートカクテルは一気に飲むものなんだよ? それがマナーだ」
「ほんと~、じゃあ頑張って飲んじゃおうっと」
一気飲みをする友香。君は本当に素晴らしいよ。
漆黒色のカウンターには、今現在二名の客が座っている。
俺は手で、客に見えぬよう温かいおしぼりをもう一人の客へ渡しに行くように合図した。
視線は目の前の客から常に外さず、視界にその様子が映るのを頼りに部下の行動を見守る。
客は気が利くねといった表情で、部下に笑いかけていた。
俺の教えを忠実に守ってくれているな。
心の中で静かに喜んだ。
おっと、目の前の客のグラスが空いた。
タバコを吸いだしたので、しばらく様子を伺う。
俺は客が二回煙を吐き出し灰皿の上にタバコを置いたのを確認してから、ゆっくりと話し掛けた。
「お客さま、グラスが空になりましたが、何かお作りいたしますか?」
「そうだなあ、うまいマティーニをお願いするよ」
「かしこまりました。ドライなほうが、お好みですか?」
「そうだね。マスターに任せるよ」
「了解しました」
軽く微笑んでからミキシンググラスを取り出し、アイスを中に入れた。
冷凍庫でキンキンに冷やしてあるドライジンと、ドライベルモットを取り出し、レモンピールも用意する。
バースプーンを薬指と中指の間に挟み、ミネラルウォーターを少し入れ、簡単に手早くステアした。
こうすると氷が液体に馴染むのか、溶けにくくなるのである。
客にうまいカクテルを作る為なら、俺は手間暇を惜しまない。
ストレーナーをミキシンググラスに当て、中の水を出し、氷だけの状態にしてから、ドライジンを四、ドライベルモットを一の割合で注ぐ。
再びバースプーンを中指と薬指の間に挟む。
指を上下するよう器用に動かし、高速ステアを始める。
中指を自分の体に向かって戻し、薬指は外へ押し出すように。
バースプーンの背をミキシンググラスの端につけたままクルクルと回す。
目の前の客の視線は、俺の指に集中していた。
再度ストレーナを当て、マティーニ用の逆三角形のカクテルグラスに注いだ。
指先から感じる温度差。
注ぐ際、出来る限り指で押さえる面積を少なくするように心掛ける。
最後にレモンピールをつまみ、グラスの上で軽く絞り、香りを加える。
「お待たせしました」
「毎度の事ながら鮮やかな手つきだねえ。いただくよ」
客は宝物を扱うようにしてグラスを持ち、口をつける。
「こりゃあ、うまいマティーニだ!」
「ありがとうございます」
一気に飲み干す客。
満足そうな顔で、グラスをカウンターに置いた。
俺はその様子を見るのが、大好きでこの仕事をしている。
そんな事を思い出しながら、俺はジンベースの『ホワイトレディー』を作り終える。
本当ならドライベルモットも買っておけば良かったなあ。
そうすれば『超ハードドライマティーニ』を作ってやれたのに……。
「これもさっぱりしておいしい~」
「さっき友香が飲んだ『バラライカ』あるだろ?」
「うん、あれもおいしかった」
「あの『バラライカ』とこの『ホワイトレディー』は兄弟みたいなものなんだよ」
「何で~」
「それぞれのベースとなるのがウォッカとジン。あとの材料はすべて同じで、コアントローとレモンジュースなんだ。ベースをラムに代えれば『XYZ』に変身するんだ」
「へえ~、龍一って本当に物知りだよね~」
「バーテンダーやっていてこのぐらい知らないと、そいつはただのエセバーテンダーだ。誰でもこのぐらい知っている」
ゲーム屋のくせにこうしてバーテンダーと偽っている俺は、もっとエセエセバーテンダーか……。
部下の村井が、灰皿を交換しに行く。
まだ彼は、入って一週間の新人である。
新人育成は、俺の役目でもあった。
「気を使い過ぎるのはいい、ただ、客がこちらに気を使うような真似はさせるな」
いつも口を酸っぱくさせながら言う台詞だ。
緊張しているのか、手元が震えている。
あの馬鹿……。
ゴト……。
バーカウンターの中まで灰皿がテーブルにぶつかった音は聞こえてきた。
ボックス席にいる客はさほど気にとめていないが、村井は俺のほうを見てビクビクしている。
俺はカウンターの客に笑顔で応じながら、視界に映る部分で村井の動きをチェックしていた。
あいつ……。
灰皿の向きが逆じゃねえか……。
村井が戻ると、俺は奥の休憩室へ行くよう指示する。
他の部下にカウンターを任せ、俺は休憩室へと向かう。
「おい、村井……」
「す、すいません……」
「謝るなら、きちんと日本語は使え。すいませんじゃなく、すみません…。言葉尻、一つ間違えただけで、客から文句がくるケースだってあるんだぞ」
「す、すみませんでした……」
「忘れるなよ」
「はい」
「いいか? ラウンジ内は、俺には一切気を使うな」
「何故ですか?」
「上司部下の関係を気にするなら、その分客に気を使え」
「は、はい」
「まず、灰皿の音を立てた事…。うちは高い金をもらって、客にサービスを提供している。しかも、酒を飲んでいる客にだ。そんな些細な事でも、言い掛かりをつけてくる客はいるんだ。だから、灰皿を置く時は、音を立てるな」
「はい」
「それと、うちの店の名前が入った灰皿をおまえは逆に置いたろ?」
「え?」
「だから言ったんだ。俺に神経を向ける暇があったら、その分サービスに集中しろって」
「自分…、サービス業、向いてないんですかね……」
そう言って、村井は視線を下に向けた。
ここ一週間、連日で怒られている。
しかし、素質はあるのだ。
「そんな事はない」
「でも……」
「俺は口うるさいかもしれない。でも、おまえがちゃんと吸収してくれているから、どんどん要求してるんだ。一流のサービスマンになってほしい」
「自分なんかが、一流のサービスマンって……」
「村井、おまえがこの店にいるから、あの客はここに来るって感じに、一日でも早くなってほしいんだ」
「どうすれば、そうなれますか?」
「簡単だ。おまえが客の立場になって、店からこうされたら嬉しいなと感じる事をそのまま客にしてやればいい」
「そんな…、俺、想像もつきません」
「それはまだ経験不足と、うちみたいなラウンジを客として行ってないからだ」
「はあ……」
「そうすれば自然と分かってくる。自分がこうされたら嬉しい、これはうざい。人のふり見て、我がふり直せだな」
「はい」
「今日、終わったら、時間あるか?」
「ええ」
「じゃあ、どこかホテルのラウンジに勉強も兼ねて飲みに行こう。奢ってやる」
「ありがとうございます」
村井は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
そんな事を思い出しながら俺は、『バレンシア』を作った。
オレンジビターを買っていなかったが、まあこの際いいだろう。
この女にはどうせそんな事分からないし……。
「いい匂い~」
友香の笑みは、村井とはまるで違った笑みだが君はそれでいい。
俺と村井は、ホテルの最上階スカイラウンジにいた。
男二人だったが、窓際の席が空いていたので案内してもらえた。
あまり酒の強くない村井は、ビールを頼む。
外の夜景が綺麗だった。
外側に面した壁は、すべてガラス張りになっている。
東京の町並みが豆粒のように小さく見え、遠くでサンシャインシティホテルが鈍い光を放っていた。
うちのホテルから見える夜景とそう変わらないな。
彼は初めてこのような場所に来たみたいで、そわそわと落ち着きがない。
「すごいっすね……」
「高所恐怖症か?」
「いえ、あまりというか…、全然、来た事がないので舞い上がってます」
「うちのビューホテルのほうが高さで言えば上だぞ?」
こいつのいいところは、素直なところだった。
自分に合わないプライドを持つ奴は、サービス業では伸びない。
「今日は、俺が奢るけど、さっき言ったような事は、自分の身銭を切って得られるものだぞ。余裕があったらでいい。こういう場所に来て、サービスを学ぶのは大切な事だ」
「はい」
「いくら景色が綺麗だからって、外ばかり見るな。ホテルの従業員の接客を見ろ。いいところは自分で盗むんだ」
「すいません」
「すみませんだろ」
次のシフトが同じ日になった時も、村井と飯を食いに行った。
ここ最近の接客ぶりはいい感じだった。
前にホテルのラウンジへ連れて行った甲斐があったものだ。
安い定食屋で、ハンバーグ定食を頼む。
村井は納豆定食を頼んだ。
「おい、村井」
「はい、何ですか?」
「頼むから、もうちょっと納豆を遠くにやってくれ」
「え、何でです?」
「嫌いだからだよ。匂いも、香りも、味も、見た目も、すべてが嫌なんだよ」
村井は嫌な笑顔をしながら、納豆をかき回した。
あらかじめ言っておくが、食わず嫌いで言っているのではない。
どうしても食べる事ができなかった。
「神威さんって、好き嫌い多いですよね?」
「まあな…。でも、好き嫌いしていても、ちゃんと立派に成長できた」
「確かに……」
俺は身長が百八十センチあった。
特別高いという訳ではないが、このぐらいの高さがちょうどいい。
自分に身長には満足していた。
「そうそう、神威さんに聞こうと思っていたんですよ」
「何を?」
「一番高い酒って、どれですかね?」
「俺の知識の中では、コニャックブランデーのペルフェクションだろうな」
「ペルフェクション?」
「ああ、クリスタルバカラ社が作った特殊なボトルに入った酒だ。今じゃ、そうそう手に入らないけど、鑑定書付きのすごいブランデーだな」
「いくらぐらいですか?」
「うちのラウンジに置いてないから実際ホテルだといくらで出すかは分からない。でも、ペルフェクションは確か原価が三百万だったと思うよ。スタンダードボトルもあって、そっちは六十万だったって、記憶してたけどな。多分……」
「えっ?」
「つまり、クリスタルバカラ社の特殊なビン代で、二百四十万ぐらい違いがあったと思う。ぺルフェクションはね。自信ないけど…。昔、洋酒辞典を見て、知った知識だし……」
「ビン代だけでそんなにするんですか。そういえばテレビでホスト特集みたいな番組で、そんな名前が出たような気が……」
「村井、いいか? あんな馬鹿な番組は見るな。ちゃんとした接客を身につけたいならな。俺らのやっている仕事と、ホストの水商売は、同じ酒を扱うにしても、全然、別物だ」
価値も分からず見栄だけで、酒を粗末に扱う連中は大嫌いだった。
一生懸命作っている人たちに、申し訳ないと思わないのだろうか。
「はい……」
「酒の知識もロクに知らんくせに、さらに値段ふっかけて女の心を弄ぶ商売は、どうもムカつくんだよ。こっちが真剣にやっている分だけな」
「そうですね」
怒っているせいか、ハンバーグ定食の味がいまいちに感じた。
「俺はワインかなって思いましたよ。高い酒って……」
「うーん、俺、ワインの知識はそうでもないからな。あくまでもバーテンダーであって、ソムリエじゃないしね。まあ、それじゃいけないんだけど、それ辺はどうだろうね」
「そもそも神威さんにとって、バーテンダーとは何ですか?」
「酒をうまく調合できる人間じゃないかな。客の好みに応じてうまい酒を作れるね」
「奥が深いですね」
「それはそうさ。よくスタンダードカクテルっていうだろ?」
「はい」
「そのカクテルだけで、何種類あるって……」
「想像つかないですね」
「スタンダードなものからオリジナルまであげたら、キリがない。でも、客に言われたらそのカクテルを作らないと駄目だからな」
「そうっすね……」
「よくバーテンダーの免許も持ってないのに、カウンターの中に入って、俺は二百種類のカクテルを作れると客の前で豪語して、シェーカーを振っているだけの格好つけた馬鹿がいるだろ?」
「でも、二百種類作れるなんてすごいじゃないですか?」
まだサービス業を始めてから間もない村井は、変なところで感心していた。
こちらの教育の仕方一つで、悪いほうに転んでしまう。
だから、本来の心構えはキチンと教えなければいけない。
「いいか、勘違いするな。バーテンダーなら、カクテルの二百から三百のレシピを覚えていて当然なんだよ。だってそれが仕事なんだから……」
「あ、そうですよね」
「大事なのは、客が注文したカクテルをいかに、その客の好みに作れるかってとこなんだ。分かりやすく言うと、俺の作るカクテルが飲みたいから、うちの店に来てくれるって事だよ。もちろん、接客態度も含めてね」
「なるほど……」
「それで、褒められたからって天狗になっちゃ駄目だぞ。大事なのはそれの積み重ねだ」
俺は自分に言い聞かせるように、ゆっくり言った。
当時を思い出しながら俺は、自分で開発したオリジナルカクテルの『ブルードック』を作った。
簡単に言えば俺の究極カクテル『ミューテーション』の手抜きバージョンである。
使う材料はブルーキュラソーとウオッカとグレープフルーツジュースと塩。
二つの皿に塩とブルーキュラソーを垂らす。
柄の部分を持ちながらクルリと回転させるようグラスの淵にブルーキュラソーをつける。
そのあと塩をつけた。
こうするとスノースタイルだが、青い塩で綺麗に見える。
気をつけるのはキュラソーをつけ過ぎない事だ。
シェイカーの中には、ウォッカとブルーキュラソーを少し、そしてグレープフルーツジュースを入れる。
手早くシェイクして注げば完成。
「わあ~、び、微妙に青い、にゅ、乳白色の、き、綺麗な、カ、カクテルだね~」
おっ、かなり呂律が回らなくなってきたな……。
ある日、カウンターで飲むのが好きな常連客が俺に尋ねてきた。
「ねえ、マスター」
別にホテルで働いているだけだから、マスターじゃないんだけどな。
まあ細かい事を気にしてもしょうがない。
「はい、何でしょうか?」
客は、自分の飲んでいるラーセンの入ったグラスを見つめている。
「例えばだよ。今、俺が飲んでいるのって、ブランデーじゃん」
「ええ、そうですね」
「えっと正式なボトルの名前って、何だっけ?」
「ラーセン・ゴールド・リモージュ・シップです。とてもセンスがいいと思いますよ」
「よせやい、照れるじゃねえかよ。ところで、それってコニャック?」
「ええ、そうですよ」
帆船をかたどった黄金色に輝く綺麗なボトル。
中身はラーセンのナポレオン級のブランデーが入っている。
コニャックの大手であるラーセン社が送る自慢の酒だろう。
さすがシンボルマークに帆船を使っているだけはある。
かなり特殊なボトルではあるが、比較的安い値段で手に入る。
今だと一万五千円もあれば、簡単に買えると思う。
この色だけでなく様々な色があるのも特徴だ。
「よくコニャックだのアルマニャックだのいうけどさ、それってどういう事なの?」
「フランスのコニャック地方で産出されたブランデーだから、コニャックと言われています。アルマニャックは、アルマニャック地方でといった感じで……」
「ふーん、じゃあさ、酒の正しい飲み方は?」
自分が考える上で、一番難しいテーマでもあった。
自分なりの意見をまとめてみる。
「本来のとか、正式な飲み方とかってよく言われるじゃないですか? それって私は、どうかなと疑問に思うのです」
「何でまた?」
「今の状況を指しますと、お客さまはブランデーを水で割ってお飲みになられています」
「うんうん、それで?」
「よく、ストレートでブランデーグラスに、注いだブランデーを手で暖めながら飲むのが正しいと言い張る方もいます。その方の飲み方はそれでいいと思います。ただ、それを偉そうに他人にもこうしろと押しつけるのは、感心できないですね」
俺はそう話しながら、客のグラスに手をかざした。
「そのお酒のオーナーは、お客さまです。ですから例えば、お客さまがロックで飲もうが、水割りで飲もうが、それは個人の自由だと思います」
「でもさ、よく知り合い連中から馬鹿にされんだよ。水なんかで割りやがってってさ」
「お酒の味わい方はそれぞれ個人差があります。ストレートがうまいという人もいれば、強いから水で割ったほうがうまいという人だっています。ですから、お客さまも、自分の飲み方に自信を持って下さい。人の飲み方なんて十人十色です」
「そっか、なんだか少し癒されたなあ」
「ええ、それが私の仕事ですから……」
そう言って、俺は優しく笑い、目を細めた。
うん、あの頃は本当に酒について、俺は妙にこだわっていたっけなあ……。
バーテンダーとしての誇りを持っていた時代を振り返り、『カウボーイ』を作る。
これはウイスキーベースのカクテルで、あとは牛乳を適量入れて、軽くバースプーンでステアすれば完成の簡単なカクテルだ。
カクテルグラスでなく、普通のタンブラーを使用する。
川越プリンスホテルの部屋に常備設置されている普通のグラスがあったので、これを使わせてもらった。
俺の飲む用の酒、グレンリベット十二年を買っておいて本当に良かった。
「おい、友香。『カウボーイ』ってカクテルだ…。あれ、友香?」
肉の塊は醜く顔を歪ませながら、スースーと寝息を立てていた。
「よっしゃっ!」
心の中で大きくガッツポーズを取る。
セクションファイブ、これにて無事終了。
さて、次は最終ミッションであるセクションシックス。
一回だけ、文江にメールを打たなきゃな……。
ぐっすりと酒に酔って眠っている友香だが、急に目覚める可能性だってある。
あれだけの体だ。
アルコールがすべてに回ったようには見えない。
用心に用心を重ねて、俺はトイレに向かう。
行く時も足音を立てないよう忍び足でゆっくりと歩いた。
俺は携帯電話を開き、これまでのメールをチェックする。
新しく届いているものもあったからだ。
先輩である最上さんの奥さん、有子さんに相談したら、すごい勢いで笑っていた……。
我が店『ワールド』で島根に相談した時だって、あの野郎……。
人事だと思ってゲラゲラ笑いやがって……。
そう、俺のこの人生最大の窮地に対し、自分以外はしょせん他人事なのだ。
だから簡単に笑う。
こっちがどれだけ悩んだか分かるのか?
分からないから、そうやって笑うんだ。
他人から見れば、喜劇にしか映らないのだろうな、ケッ……。
はなっから人に相談したのが大間違いなんだ。
いや、そうでもない。
有子さんに相談したからこそ、セクションが生まれた。
感謝を忘れてはいけないな。
まあいい。
ここまではセクション通りスムーズに進行している。
九州に行って風水が変わったのか、おみくじで『大凶』を引いた感じだった。
でも、ここは俺の地元。
風水も変わっているだろうし、時流の流れもこちらにすべて向いている。
鹿児島は友香のステージであるが、逆に川越は俺のステージなのだ。
『肉を切らせて、骨を絶つ』つもりの覚悟でいたが、俺は肉さえも切らせなかった。
あの忌々しい過去。
あの時俺は本当に懲りたのだ。
自分の馬鹿さ加減に。
さて、始めるか。
セクションシックスを……。
頭の中で文章をまとめる。
どう書くのがベストか?
これですべてが決まるようなものなのだ。
実際にメールとして打ちながら考えろ。
頭で考え、指でボタンを押し、この目でそれを確認する。
絶対にこっちのほうが素敵な文章が書けるはずだ。
俺は携帯電話のメールを起動し、指先を動かした。
《文江…、悪いんだけど、今、連絡するのはやめてくれないかな? 俺さ、大事な人と会っている最中だからさ。ごめんね。 神威龍一》
うん、まさにこれぞ完璧な文章だ。
これ以上のものがこの世にあるのだろうか?
このメールを読んだ瞬間、文江はきっと錯乱状態になるだろう。
別に俺は女と会っているなんてひと言も書いていない。
大事な人をどうとらえるかは、個々の自由だろう。
俺にとって大事な人……。
女だけじゃない。
先輩の最上さん夫婦や、月吉さん。
それに高校時代の亀田先生の家族一同。
家の隣にある『よしむ』の長谷部さん。
整体の先生。年上ばかりだな。
同級生だと、ゴッホ……。
いや、ちょっとこいつは違うような気がする。
そういえばあいつ、俺が電話で相談したら、簡単に「責任取らにゃあかん」なんて抜かしやがった。
あのクソ野郎が……。
本当に思い出すとムカつくなあ……。
いいから今は放っておけよ。
そんな事問題じゃないだろ?
こうしてパッと考えるだけで、すぐたくさんの人が出てくるんだ。
勝手に思い違いをした文江は、どんな行動に出るか?
暴走モード突入になり、すごい勢いで電話を何回も掛けてくるかもしれない。
そうか。すぐ留守電になるよう設定しとかなきゃ。
俺は躊躇いもなく送信ボタンを押し、打ったメールを文江に送信した。
セクションシックス。これにて終了。
果報は寝て待てだ。あとはゆっくり眠るとするか……。
朝自然と起きると、部屋の空気の違いに気がついた。
ゆっくり辺りを見回す。
白がベースの清潔感あふれる部屋の中。
キャビネットには俺が昨日『信濃屋』で購入したたくさん酒のボトルと、カクテルグラス。
そしてシェイカーやお皿などが置いてある。
物音一つない静かな空間。
俺は左を見る。
ベッドのそばに置いた丸い小さなテーブル。
その上にはグレンリベット十二年が入ったショットグラスと、タンブラーに入れたチェイサー。
そして、携帯電話が置いてある。
「ん……」
携帯電話の下に、一枚のメモ用紙が置いてあるのに気付く。
まず俺はタバコを取り、一本取り出してゆっくりと口にくわえた。
窓の外を眺める。
今日はいい天気だ。
それから火をつけた。
煙を体の中に入れ、ニコチンを味わってから口を開く。
大きく煙を静かに吐き出した。
携帯電話をどかし、下にあるメモ用紙を手に取る。
【他に女がいたんですね。正直ショックで立ち直れそうもありません。目を覚ましたら、何度も龍一の携帯が震えていました。悪いと思ったけど、私は中を見てしまいました。それであなたが九州に、鹿児島に来たあと、急に冷たくなった理由が分かりました。今日どうせ帰る予定でしたが、先に帰ります。今までありがとう。 友香】
「……」
少しやり過ぎたかな……。
ちょっとした罪悪感を覚える。
仕方がない。
これはしょうがない事なんだ。
そう自分に言い聞かせる。
だって俺は、友香のそばにはいられない。
可哀相だけど、無理なんだ。
こんな策略じみた事までしたのは申し訳ない気分でいっぱいだった。
でも、俺は電話で何度も伝えたはずだ。
それを彼女は何一つ分かってくれなかった。
今回のこの騒動は、どちらが悪いのだろう。
お互いさま?
いや、俺が悪い。
そう思ってこれからは生きよう。
計画通り本当にうまく事は進行した。
でも、何故か非常に後味が悪い。
贅沢言うなよ。
じゃあ、今から友香に電話して真実を伝えるのか?
それとも「やり直さないか」とでも言えるのか?
それができないからこそ、こんな悪魔じみた行為をしたんだ。
下手に情けなんか掛けるな。
これは今回の事で学んだ事実である。
少し幼稚だった彼女に、相当深い傷をつけてしまったんだな……。
これで今日、一つの結果が出た。
そう捉えなきゃ……。
携帯電話がテーブルの上で震える。
メールか?
《今まで本当にありがとう。今、池袋に着きました。同じルートを辿って鹿児島へ帰ります。本当にありがとうございました。 友香》
「……」
何とも言えないやるせなさ。
本当に酷い事をしてしまった。
最後ぐらい優しい言葉を掛けてやろう……。
《帰り道はちゃんと分かるのか? 神威龍一》
打ったメールを送信する。
「あっ!」
待てよ…、もう遅いか……。
向こうに届いてしまった。
俺は鎮火し掛けたものに、また今のでガソリンを注いでしまったんじゃないのか……。
すぐにメールが届く。
《大丈夫。口があるから、聞いて帰れます。 友香》
文面を見て、ホッとしている自分がいた。
彼女は純粋に俺を好きだったのだろう。
だから何年前か分からないけど、痩せていて綺麗だった頃の写真を送ったのだ。
好きな相手に対し、自分を良く見せようとする。
人間なら当然の事かもしれない。
ただ、彼女は自分を偽り過ぎただけで、俺を愛していたのは事実だったんだろう。
自分にいつだって後ろめたさを感じていたのかもしれない。
だから酔って不安になり、あの日何度も電話をしてきたのかもしれない。
だからこそ、俺が会いに行くとメールや電話で伝えた時、友香は拒んだのだ。
そう考えると、俺が勝手に暴走してしまったから、今回の騒動になった。
いや、違う。
鹿児島の城山観光ホテルで初めて会った時、素直に言えば良かったのだ。
そうすれば必要以上に彼女を傷つける事なんてなかっただろう……。
これで俺は、一つの深い業を背負ったようなものだ。
乱暴に吸っていたタバコを揉み消す。
右の拳を思い切り握り締める。
そしてそのまま自分の顔面を思い切り殴った。
火花が散り、気が遠くなる。
また俺は自分を殴りつけた。
ベッドから起きて立ち上がろうとすると、足に来たのかそのまま倒れてしまう。
この川越プリンスホテルって二回しか泊まった事ないけど、俺にとって本当に鬼門かもしれないな。
二回とも浮気がバレるなんて……。
しばらく部屋の床に寝転がり、天井を見つめた。
鏡で自分の顔を見る。
誰が見ても分かるぐらい、腫れていた。
この日、重い気分のまま、新宿歌舞伎町へ向かう。
俺の顔の腫れを見た従業員たちは、誰にそんな事をやられたのかとビックリしていた。
「神威さん、どうしちゃったんすか? まさか喧嘩でも売られたんですか?」
「うるせーっ! 何だっていいじゃねえか」
「……」
まさか自分で殴っただなんて、とてもみんなには言えないので、怒鳴りつけるしかなかった。
腫れ物でも触るかのように、みんなは妙な気を使っている。
こんな時、『ワールド』はとても忙しかった。
おかげで気分を紛らす事ができる。
もう今頃友香は無事、九州へ帰れただろうか?
こんな俺が、彼女を心配などする資格などないか……。
せめて無事帰れた事を祈ろう。
こんなに店が忙しいのに、俺は友香の事を気にしている。
彼女に未練?
いや、それは違う。
同情に近いような感情、または罪悪感だろう。
本当に出会い系サイトなんて懲り懲りだ。
やっぱり人間同士の付き合いは、自然と引き合うものであり、強引に自分からたぐり寄せるものではない。
そんなやり方で女を抱こうとするから、今回のような結末になるのだ。
誰かにこの今の心境を伝えたい。
特にそういったものにハマっている人間に教えてやりたい。
でも、いくら言ったところで人間は馬鹿な生き物だ。
自分で本当に痛い目を見ない限り、未来永劫続くのだろう……。
自分の人生なのだから、そんな事をいくらいけないと唱えたところで空振りに終わるだけ。
他の動物よりも頭がいい分、人間は自分で自分を傷つける。
夜の十二時になり、この日の遅番メンバーが勢ぞろいすると、俺は従業員を食事休憩に回す。
この妙な感覚は、時間が経たないとなくならないのだろうな……。
もっと客よ、来い。
忙しさのあまり、時間がいつの間にか過ぎるように。
愚かな俺。
愚かな友香。
馬鹿な二人が会うから、こういう風になってしまうのだ。
あれ以来、友香からの連絡は一度もなくなった。
彼女の中で、きっと結論を出したのだろう。
あれだけ忌み嫌った友香。
もちろん今だって好きか嫌いかと聞かれれば、大嫌いと答える。
でも、俺はやり過ぎた。
入口のチャイムが鳴り、また客が入ってくる。
「やっほ~、龍ち~ん」
「あ、むつき……」
「久しぶりだね、龍ちん。あれ? 顔腫れているけどどうしたの?」
「ふん、女に平手打ちをたくさん食らったんだ。それより何が龍ちんだ、この野郎……」
憎まれ口を叩きながらも、やっぱり生で知り合った女って、本当にいいなあと実感する。
それにしてもこいつ、目にあんな涙溜めながら行っちゃったくせに、もう気にしていないのかな?
まあ若いからかな。
「何よ? 『ワールド』に客として来ちゃいけないの?」
「いけなくはないけどさ」
「へへん、私の顔を見れないから、寂しくしているかなと思って来たんじゃん」
「はいはい、すごい寂しかったですよ……」
「ふん、嫌な言い方」
むつきは風船のように頬を膨らませると、台のほうへ歩いていってしまう。
そばでやり取りを見ていた島根が声を掛けてくる。
「神威さん、みんな飯休憩終わりましたよ」
「ん、ああ……」
休憩室へ向かう。むつきの顔を久しぶりに見て、ちょっとは元気になった。
でも、こんな気分だから食欲もない。
いつものようにコーヒーを淹れ、タバコに火をつけた。
携帯電話を手に取ってみる。
あれからはもうメールなんてないだろうな……。
「うっ……」
画面に表示されたメール件数、五十四件という数字を見て、俺はしばらくその場で固まった。
何だ、この尋常な数字は……。
まず件名だけを確認してみる。
「……」
全身に鳥肌が立っていた。
すべて文江からのメール。
そう、まだ肝心な奴が残っていたのだ……。
セクションワンとかツーとか、あの時は真面目に考えていたけど、俺はあの恐ろしい文江をうまく利用していた。
何故あの時すぐにそれを気付かなかったのだろう。
いや、友香事件の時は、心にそんな余裕などなかったから無理もない。
降り掛かってきた火の子が、最初は友香だったというだけに過ぎないのである。
友香はまだ天然でボケていたから、作戦通りにうまく切れた。
しかし、よくよく考えてみると、文江のほうがひょっとしたらやっかいな性格かもしれない……。
よく思い返してみろ。
写真をお互い同時に送り合う約束を平気で保護にし、俺に好きになれと言ってくるような女だ。
そしてもっと怖いのが、一度友香に送るつもりのメールを間違って、文江に送信してしまった時の事だ。
あいつは友香という存在を知っているのにも関わらず、未だこうして俺に連絡をしてきているのだ……。
しかも昨日、俺からあいつの性格を利用しようと、メールを二回も送ってしまった。
火の国の女、友香という炎をやっと鎮火したと思ったら、今度は文江という炎がメラメラと移り火していた。
ヤバいなあ~……。
とりあえず、文江からの五十四件のメールをチェックしとかなきゃ。
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