2024/12/11 wed
前回の章
まず事の始まりは出会い系サイト。
もちろん俺から軽い気持ちで声を掛けた。
たくさんの人間がいる中で、友香と文江は俺に返事をくれた。
始めは日常会話。
次第に自分をアピールして、向こうが俺の存在を気になるようになる。
一日一回程度のやり取りが、気付けばいつメールが来るのか待ち望んでいた。
そうなるともう日常の一部になってしまう。
相手の事を知りたくて、勝手に美化しながらやり取りは進む。
もっと知りたいから電話番号やメールアドレスも教え合い、出会い系サイトの枠から出てしまう。
住所も教え、写真のやり取り。
まずここで、文江が脱落した。
多分きっとブスなんだろう。
嫌われたくないからと本人は言っていたが、約束を破っている時点で嫌われる事に気付いたほうがいい。
そう、前みたいに一人だけ相手をしていたほうがスムーズに進むのだ。
ブランド女しかり、酢女しかり。
俺はそうやって女を抱いてきたのである。
文江を切り、友香へ。
しかし友香の異常なまでの粘着性で、俺はうんざりした。
いくら説得しても分からない友香に苛立った俺は、歌舞伎町の風俗店に行く。
そこで知り合った裕美。
外見だけは完璧な女だった。
強引に抱いた俺は、心まで彼女に惹かれていった。
しかし子供を取り戻す為にヘルスで働く決意をした裕美は、女性でなく母親だったのだ。
失意のどん底に落ちた俺は、『ワールド』へたまに来る客のむつきと食事をした。
彼女は俺に抱かれてもいいと思っていたはずだ。
抱けるけど彼女にと望むむつきに対し、俺は応えてやれなかった。
寂しい俺は、再び友香へ連絡を取ってしまう。
そもそもこれが間違いの始まりなのだ。
一度うんざりしたくせに、下半身で物事を考えるからそうなる……。
突発的に行ってしまった鹿児島の地。
確かにそんな行動をされたら、友香だって勘違いしてしまうだろう。
でも、実物と写真は大いに違った。
そこがこの件のすべてだった。
詐欺行為にしか見えなかった。
自我崩壊しないよう懸命に自分を抑える俺に対し、友香は強引に犯した。
俺は何も望んでいない。
あいつが勝手におっぱじめたのだ。
俺に痩せろとあのデブは言った。
自分の誇りを汚された俺は、怒り狂った。
思えばあの場で怒らず、ちゃんとおまえとはもう無理だと説得していれば、こんな結果になっていなかったのに……。
少なくてもそうしていれば、あとはゴキブリのようにしつこい文江だけだ。
あの女、洗濯機でグルグル回しても、ケロッとしてそうだ。
おばさんのユーちゃんは無視が一番と言った。
本来なら本当にそれが一番だ。
でも、俺はあの女に会ってしまっている。
そんな事までユーちゃんに話したら、絶対に「責任取ってやりな」なんて言い出しかねない。
もしおばあちゃんが生きていたら「美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れる」とか言いそうだよな。
ことわざみたいなものが大好きだったからなあ。
でもさ、おばあちゃん、俺がこの現代に生き、そのことわざを進化させてみるよ。
『美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れる。でも、デブは無理だ』
俺は仏壇の前に行き、おばあちゃんに線香をあげる。
そうでしょ、おばあちゃん?
少しは俺の身になってくれたかい。
想像してみた。
友香との生活を……。
目の前に見える肉の塊。
俺はあの日、肉に圧迫され、肉に思考回路を狂わされた。
あんな生活が日常で毎日のように起きるのか?
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……」
ふざけるな。
冗談じゃない。
友香の実物が、送ってきた写真通りだったら、まだいいよ。
でも現実は違う。
あれはまるで別人だ。
何故あの時俺は、彼女に「写真と全然違うじゃねえかよ」とハッキリ言えなかったのだろう。
ストレートしか俺は投げられないなんていつも気取りながら、小便カーブさえ投げられなかったのだ。
こうして振り返ってみると、何度か窮地を脱出できたチャンスはあった。
俺は垂らされた蜘蛛の糸に気付かず、ここまで来てしまった。
もう蜘蛛の糸はないのだろうか?
大和プロレスを駄目になった俺は、つらいけど生きると決めた。
だから生きるなら、幸せにいたい。
うん、これは間違っていないだろう。
なら、変な風に考えるな。
幸せをたぐり寄せる為にも俺は、蜘蛛の糸を見つけなきゃいけないんだ。
少しだけ元気が出てきた。
文江はとりあえず置いておいて、友香に連絡を取り、説得に掛かろう。
じゃないと俺の明るい未来など、どこにもない。
携帯電話を開き、届いているCメールをチェックする事にした。
受信メール百件。
絶対におかしいよ、これ。
何で二人でこんな送ってくるのだろうか?
百件以上のメールは、自然と過去のものからなくなっていくようだ。
面倒なので新しいメールを見てみる。
《友香、有休休暇取りました。川越プリンスホテルも予約しました。 友香》
「……」
しばらく携帯電話を持ったまま固まってしまう。
何だ、こりゃ?
友香有給休暇って早口言葉じゃねえんだぞ?
何だ、予約って?
川越プリンスホテル?
うちから徒歩五分だぞ?
おいおいおい……。
メールを見といて本当に良かった。
知らずにこのままいたら、危ないところだった。
写真を以前交換し合うので住所はお互い知っている。
つまり今、俺がいるこの場所へ、あの肉の塊は突然やってくる可能性があるのだ。
こりゃ、ヤバいよ……。
どうしよう……。
すぐ連絡して、何とか分かってもらうしかないでしょ。
しかしどうやって説得するんだ?
俺は態度で充分に分かってもらえるような行動をしたつもりである。
一向に二匹の魔物たちは理解してくれなかったが……。
いや、言葉で分かり易く言わないと、駄目な生き物なんだろう。
別にあいつらに嫌われようが恨まれようが、ストレートに言葉をぶつけなきゃいけない。
これは俺の人生の正念場でもある。
魂の籠もった渾身の直球で、絶対に三振にしないといけないのだ。
メールを続けてみると、どうやら肉の塊は一週間後に関東の地へ上陸するらしい。
何故一人でこうまで勝手に盛り上がれるのだろうか?
人生最大のピンチが訪れようとした瞬間、俺は事前に気付く事ができた。
まだ運はある。
いきなり目の前に姿を現したら、拒絶反応を起こしていたかもしれない。
少し落ち着いて整理しよう……。
肉が来るのは一週間後。
本当に川越プリンスホテルなど予約しているのだろうか?
ホテルに電話をしたところで、顧客情報になるからそんなの教えてもらえないだろう。
あのメールの内容を信じるとして…、いや、それを念頭に置かないでどう対策を練るのだ。
あの女は来る、一週間後に。
それだけは決定事項なのだ。
焦るな。
落ち着け。
一回深呼吸しよう。
時間は一週間もあるのだ。
それまでに説得できればいい。
思い留まらせる決め手は何か?
いかに俺が嫌いかを伝えるべきだ。
あの女はこの鍛え抜いた肉体を侮辱した。
そこに焦点を置き、絶対にそれは譲れない部分であり、いかに俺にとって大切な事なのかを言おう。
だからおまえとは無理だと……。
うん、なかなかいいんじゃないか。
しっかりしろよ、俺。
ボールは投げられないんだからな。
ストレートだけだ。
俺は着信拒否した番号の中から、友香の携帯電話番号をメモに写す。
掛ける前に、もう一度ゆっくり深呼吸しておこう……。
コール音が鳴る。
一回、二回、三回、四回……。
「もしもし、龍一っ!」
出た……。
電話口の向こうには肉の塊がいる。
しっかりしろよ。
「何で着信拒否にしてるのよっ!」
ヤバい。
いきなり泣き出したぞ。
しばらく寝かせておいたから、熟成して凶暴になってやがる。
まずは冷静にさせないと……。
じゃないと意味がない。
「久しぶりだな」
「何が久しぶりだなよ?」
「落ち着けよ」
「じゃあ、早く着信拒否をやめてっ!」
「だから落ち着けって」
「その前にやめてって言ってんでしょっ!」
嫌だよ。
そんな事したら、また一日で二十回とか電話あるぞ。
馬鹿、違う。
心の中で呟くな。そういった事を口に出せ。
「い、嫌だっ!」
「何でよ?」
「あのさ…、もうちょっと人の気持ちを考えてくれよ、お願いだからさ」
「じゃあ、龍一も私の気持ちを考えてよっ!」
こいつ、詐欺行為で人を騙しておいて、そこまでまだ要求するか……。
「あのね、落ち着いて聞いてくれない?」
「だから早く着信拒否をやめてって言ってんでしょっ!」
ますます泣け叫びながら友香は、どんどんヒステリックになっていく。
とてもじゃないが、ここで写真と実物が違い過ぎるなんて言ったら、かなりヤバくなるだろうな……。
「落ち着けって…。いいか? まず今はこうして話しているんだから、携帯の設定なんていじれる訳がないだろ?」
「だからやめてよ。早く元に戻してよ」
「じゃあ一旦電話切るよ?」
「嫌だっ!」
「どっちなんだよ?」
「だから着信拒否をやめてよっ!」
頭が悪過ぎる。
これはとりあえず空返事しといたほうが賢明だな。
「分かった分かった。やめるから落ち着いて」
「フー、フー……」
肉の荒い息遣いが聞こえる。
生理的にこの女は嫌だなあ……。
「あのね、君が俺と帰り際、何て言ったか覚えている?」
「や、痩せてって……」
「そう…、そうやって君は、俺の誇りをズタズタに切り裂いた。俺の大切なものを踏みにじり、土足で入り込んだんだ。それは分かるよね?」
うん、いい感じの話し方だ。
自分で自分を褒めてやりたい。
「分からない」
くっ、こいつ……。
何故分からないのだ?
「あのさ、君にも大事なものがあるでしょ?」
「君って言うのやめてよっ! 私は友香って名前があるんだからっ! 友香って前みたいに呼んでよっ!」
見苦しい性格だな、このデブ。
「じゃ、じゃあ…、ゆ、友香さん……」
「何で『さん』なんてつけるのよっ!」
「いいかい? また同じ事を言うようだけど、俺はね、あれですっかり心が離れてしまったんだ」
本当は実物を見た時点で心など、とっくに離れていたが、今はこのほうがいい表現だろう。
あまり刺激するなよ、この女を……。
「何で離れる訳?」
「だってそれは俺がそういう風に感じたからでしょ? 自分の気持ちさえ自由に発言しちゃいけないの?」
「うん、いけない。絶対にいけないっ!」
「……」
本当にこいつ嫌だ。
何てわがままなんだろうか。
「絶対に駄目なんだから」
「じゃあ分かり易く言うよ? 別れよう。もう無理です」
よし、よくぞハッキリ言った。
ど真ん中直球ストレート。
「ふーん、そう……」
よし、バッター空振り。
三振スリーアウトチェンジ。
「あのひと言で、俺たちは終わったんだ」
「そうなんだ……」
妙に冷めた友香の声。
会心の一撃が決まった。
永かった……。
前にもこの漢字でそう思ったが、本当に永かった……。
ようやくあの一連の悪夢から、これで開放される。
「ああ、すまないな」
傷つけてしまった事は事実なんだから、せめて誠意を込めて謝ろうじゃないか。
「謝らないでいいよ。もう、私、死ぬからさ……」
「え?」
一瞬目の前が真っ暗になる。
今、こいつ、何て言ったんだ?
「遺書書くから電話切るね」
「おい、ちょっと待てよっ!」
「何? 何か用?」
「あのさ、ちょっとそういうのって酷くない?」
「何で?」
「だってさ、自分の胸に手を当てて考えてみ?」
「当てた」
「その状態でよく思い返してくれよ?」
「思い返した」
「だから、自殺するなんて言わないで、お願いだから冷静になってよ」
「じゃあ、川越に行っていい?」
「だから何でそうなるのよ?」
「じゃあいいよ。もう死ぬから」
「だからー……」
「龍一には関係ないでしょ?」
「……」
こいつ、本当に汚い。
汚過ぎる……。
「遺書に、ちゃんとあなたの名前は書くから安心して」
「……」
自分で言っている事を認識しているのか、こいつ……。
「何で何も言わないの?」
「あのさ…、死ぬとかそういうのって、ちょっと違うでしょ?」
「何で?」
「逆にさ、俺がそう言ったらどう思う?」
「今すぐ川越に駆けつける」
「はあ……」
「何で溜息なんてつくの?」
「そう言う事を言うからでしょ?」
「ごめん、嘘ついた。今すぐなんて行きたいけど、現実はできない。でも、一週間後、ちゃんと行くからさ」
「……」
こいつ、本当に死ぬ気なんてあるのか?
でも、下手に触発して本当にそうなったら嫌だしなあ……。
「川越プリンスホテルは、ちゃんと予約取ってあるから安心して」
「あのさ……」
「な~に?」
「来ても、俺は会わないよ?」
「何で?」
「もうっ!」
気付けば俺は、携帯電話を切っていた。
どうする?
どうしたらいい?
どうやったら、あいつをとめられる?
分からない……。
どうしたらいいのか、まったく分からない。
分かっているのは、一週間後、あの肉の塊が我が地元川越にやってくるという事実だけである。
『勝手に死ぬのはいい。でも遺書に俺の名前など絶対に書くな』
そう言えば良かったのか?
いや、逆にムキになって、もし死んだ時は俺の名前をこれでもかというぐらい書くだろう……。
一つ分かっているのは、もう誰にもあの肉の暴走をとめられないという事だ。
腹を括れ。
自殺されるのは、やっぱり後味が悪いから嫌だ。
それに自分の名前を遺書に書かれるのはもっと嫌だ。
なら、向こうの希望通り、川越に上陸させるほかないだろう。
どうすればあの女は諦めてくれる?
腐るほど女を抱いてきたんだ。
何かいい知恵を絞れ。
無い頭で必死に考えろ。
別れようと何度も言ったけど、駄目……。
俺の誇りを傷つけたから無理だと言ったけど、駄目……。
これで他にいい方法なんてあるのか?
頭を使え。
これは想像以上の修羅場なんだ。
あの女の妄想は留まる事を知らない。
自分をとても美化し、きっと少女漫画の主人公にでもなったつもりでいるのだろう。
あんなのキャラクターで例えるなら、羽のついた豚だけど。
今度漫画でも書いてみるか。
『恐ろしき肉の塊』なんてさ……。
馬鹿、俺が現実逃避してどうする。
しっかりしろよ。
俺の体が危ないんだぞ?
期間は一週間。
それまでに方法を考えないと、俺は再び肉の塊に包み込まれ、再び悪夢を見る毎日になるのだ。
いや、それどころか、そのまま関東に上陸しっ放しだったら俺の人生は終わりだ。
そうなる可能性は確率的に言うと、かなりあるだろう……。
夏なのに、全身鳥肌が立っていた。
こういう時は、異性に相談してみたら、どうだろう?
彼氏や、旦那がいるような人。
誰か身近にいないだろうか……。
「あ、いたっ!」
俺の一番頭が上がらない先輩である最上さん。
その奥さんの有子さんなら……。
早速電話をしてみた。
「あれ、龍君。どうしたの? 悟はまだ会社だよ」
「いえ、今日は有子さんに用があって」
「どうかした?」
「ええ、かなり…。あ、その前に一つ質問あるんですけど、正直に答えてもらえますか? 突然で本当に申し訳ないんですけど……」
「え、別に構わないけど。今日の龍君どうしたの? 変だよ?」
「ええ、変なのは充分に自覚しています。なので質問に答えて下さい」
「その質問って?」
「えっと…、例えばですよ? 最上さんと別れるとしたら、どういう時になりますか?」
「え、何それ?」
「ですから本当にただの一例です」
「え、ひょっとして悟、浮気しているの?」
「ち、違いますよっ!」
「だって何でこんなタイミングで電話してきて……」
ヤバい。
幸せな夫婦を、いや家族を俺の訳分からない話で壊しちゃいけない。
最上さんは、俺が大和プロレスを駄目になった時、会社を一週間も休んでそばにいてくれ、そして優しく温かい言葉「おまえは死んでは駄目だ。辛くても生きろ」と言ってくれた恩人だぞ。
しかも二十九歳の時の総合格闘技だって、セコンドにああしてついてくれたじゃないか。
あの時は有子さんと息子の麗一君しか、俺のそばにはいなかった。
いわば一家全員で、俺の事を応援してくれたのだ。
恩を仇で返してどうする。
早く訂正しろ。
「落ち着いて下さい。すみませんでした。俺の言い方が悪かったんです。長くなりますkど、聞いてもらえますか?」
「うん、言ってみて」
俺は最上さんの奥さんである有子さんに、出会い系サイトを始めた事から、九州へ行ってしまった事。
最後に肉が、とうとう関東に上陸するという事まで赤裸々に伝えた。
有子さんは何度も電話口の向こうで吹き出していた。
きっと腹を抱えているのだろう。
しょうがない。
これは俺の懺悔なのだ。
恥よりも命の尊さを取れ……。
「いきなり電話してきて、そんな事言うから、しばらく笑いがとまらなかったよ」
「有子さん、俺は真剣に言ってんすよ」
「うん、分かるけどさ…、ギャハハハッハハ……」
「……」
いいさ。
悪いのは俺なんだ。
しばらく有子さんには心の底から笑ってもらおう。
「ごめんごめん…、本当におかしかったからさ。でも、龍君の現状を考えると笑ってはいられないよね」
「ええ、本当に笑ってられないんですよ」
「でも、何でさっきの質問になる訳?」
「うーん、話すと長くなったので、異性である有子さんの意見を聞いておきたいなあと」
「もし、私が万が一…、まずないけどさ。悟と別れるとしたら……」
「ええっ! ぜひ聞かせて下さいっ!」
「悟が浮気した時かな。まあ、あれじゃ生涯ないけどね」
おしどり夫婦の最上さんと有子さん。
それが崩壊するとしたら、『浮気』が起因。
頭の中で何かが閃きそうだ。
頑張れ…、脳みその皺を増やせ。
「なるほどっ!」
俺は腹の底からデカい声を出していた。
「ちょっと、どうしたの?」
「いや~、ありがとうございますっ!」
「何が?」
「いいアイデアを思いついたんですよっ!」
「え?」
「まあ、今度ゆっくり話します。ちょっとこれから対策を練りますんで」
「う、うん…。頑張って」
「本当にありがとうございました」
俺は興奮して電話を切っていた。
肉の暴走はとめられない。
それは分かった。
実感した。
ならば、『肉を切らせて骨を絶つ』しかない。
昔の人は、本当にいいことわざを教えてくれるものだ……。
いや、俺の場合は『肉を上陸させて、元から絶つ』。
これだな。
鏡を見る。
俺の唇は悪魔のような笑みを浮かべながら、右側に少し釣り上がっていた。
友香へ早速電話を掛ける。
すぐに出る肉の塊。
メチャクチャ泣きじゃくっていた。
ここまでは想定通りだ。
「ごめんよ。おまえがさ、無茶言うから冷たい事を言ってしまってさ」
「だってー…、だって、龍一がー……」
気安く人の名前を呼ぶんじゃないよと言ってやりたかったが、俺は優しい声を出すように努める。
「もういいから、落ち着いて。一週間後こっちに来るんだろ?」
「うん……」
「ならさ、そんなに泣く必要なんてないじゃん」
「うん……」
「ね、そろそろ泣くのはやめてさ」
「龍一……」
「何だい?」
「あ、愛じてるって言って……」
何が『愛じてる』だ……。
濁って発音してんじゃねえよ、ボケ。
「あのね、この間会った時さ、一つ言い忘れていた事があるんだ」
「な~に……」
「それは簡単な言葉じゃないし、直接言うものだと俺は思っている。口で何度も言葉だけを囁いても、そこに魂なんてない。そうだろう?」
「で、でも言っでほじい……」
だからいちいち言葉を濁らせるなよ、いくら泣いているからってさ……。
「友香の気持ちは分かるよ。もちろんね。でもさ、電話で言うような言葉じゃないだろ?」
「わ、わだじはそれでも言っでほじい……」
厄介な女だな、こいつ。
そんな言質なんて取られたくないしなあ。
どうしよ……。
「じゃあ、言うよ。言うけど、一つ条件がある」
うん、俺って結構頭が冴えてるじゃん。
「な~に~?」
「おまえの望む言葉は今言える」
「うん、言っで」
だから濁らせるなっちゅうの……。
「その代わり、一週間後は会えない」
「何で?」
「だって言葉の重みを理解してくれないんでしょ?」
「してるっ!」
「じゃあさ、会った時まで楽しみにできないかな?」
「……」
「できない?」
「……。分かっだ……」
だから濁らせ…、もう別にいいか。
気にするな。
「じゃあ一週間後、楽しみにしているからさ」
「うん……」
「羽田に着く時間が分かったら、メールくれ。迎えに行くからさ」
「ありがどう……」
セクションワン、無事に終了……。
悪魔的発想を閃いてから一週間が過ぎた。
俺は従業員の山羽に無理を言って休みを代わってもらう。
何故ならば、今日これからあの肉の塊の友香が関東の地へ上陸するからである。
彼女の潜伏期間は二日間。
たったそれだけの為に上陸したのだ。
もうちょっとで夏休みだってあったろうに……。
まあ俺にとっては期間など短いほうがいい。
一週間ぐらいのスパンで来られたら、大変なところだった。
そんな事を考えてながら電車に乗って、羽田空港へ向かう俺。
あれ以来、友香のメールアドレスと電話番号の拒否は解除していた。
《只今無事到着しました。待合室で待ってるね。 友香》
とうとう来たか……。
まだ俺はモノレールに乗っているぞ。
肉を切らせるかどうかは、すべて俺の手腕に掛かっている。
《まだモノレールだから、もうちょいそっちに着くまで掛かる。 神威龍一》
落ち着いて行けよ。
ここからが本当の正念場なのだ。
メールを友香へ送ると、俺は携帯電話の設定をいじる。
顔も分からぬのっぺらぼうの文江。
彼女は未だ着信拒否をしているのに、変わらず毎日のようにCメールを送ってくる。
はなっからステージにさえ上がっていないのに、自称売れないアイドルが脱いで注目を浴びるようなものだ。
ちょっと違うか。
ならば思う存分メールでも何でもさせてやるよ。
だから役に立てよ?
俺は文江の電話番号とメールアドレスの拒否を元に戻した。
そしておまけに、いや、これが本当の悪魔的思想な訳であるが、文江にもメールを打った。
《文江、長い間すまなかったな。とりあえずまた連絡取れるようにしておいた。仕事で忙しいから返信とかはすぐにできないけど、その辺は了承して下さい。 神威龍一》
これは羽田空港へ到着してから送信する事にしよう。
もし、このメールが届けば文江は興奮して、すぐにでも電話を掛けてくるだろう。
だからバーブレーション設定にして、絶対に着信音は出さないようにしておく必要がある。
友香とはどうせ今日で最後なのだ。
これで終わりにできるなら、川越プリンスホテルでも何でも一緒に行ってやるよ。
俺が寝た時に、鳴る携帯電話……。
嫉妬深い友香の事だ。
絶対に電話を確認するに違いない。
頼むから巻いた餌に引っ掛かってくれよ?
俺がこうした頭脳プレイに走るなんて、よほどの事なんだぜ。
文江から届く無数のメール。
そして着信履歴。
考えただけでも、もの凄い数が来るはずだ。
それを見た友香はどうなるか。
おそらくそこで初めて、俺に愛想を尽かす事だろう。
かなり酷い事をしようとしているのは、百も承知だ。
でも、やっぱり自分が一番可愛い。
自分が助かるには、これしか方法がないような気がした。
名づけてセクションツー、『肉も切らせず、骨を切る』作戦。
次の駅で羽田空港か……。
セクションツー…、もうちょっとで始動開始。
今年の夏は、妙に寒く感じる。
ゆっくりとモノレールのドアが開く。
俺は通路を歩きながら、文江に対して打ったメールをよく確認してから送信ボタンを押した。
これまでのメールや、着信履歴はすべて削除する。
まあどうせ、すぐに満タンになるだろうけど。
何はともあれ、セクションツー、無事に終了……。
友香にはもの凄い心の傷をつける事になるだろう。
罪悪感?
ふん、そんなものを感じて自分の身が守れるか!
もう一度自分に言い聞かせた。
俺は自分が一番可愛い……。
指定された登場口へゆっくり大地を踏みしめながら歩く。
怯えるな。
堂々と歩けばいい。
俺は悪くない。
いつまでも諦めてくれない友香がいけないのだ。
こんな俺を非難する連中など、山ほどいるだろう。
でも自分が一番大切だ。
あまりうるさく言ってくる奴には、「じゃあ、おまえは肉の塊とセックスできるのか?」と問い詰めたい。
小一時間ぐらい問い詰めてやりたい。
いや、こんな事、誰にだって言える訳がない。
俺はかなりの鬼畜だ。
ん、早速携帯電話が震えているな?
確認しなくても文江からだというのが分かる。
その調子で、ジャンジャンバリバリとお願いしますよ……。
できれば留守電なんか入れてくれたら最高だな。
泣き叫ぶようなものを。
待合室が見える。
たくさんの座席があり、大きなモニターが置いてあった。
「うっ……」
いた……。
デカいから、すぐに見つけられた。
おいおい、何だか前よりも大きくなってんじゃないか?
思わず逃げ出したい衝動に駆られる。
駄目だ、ここで逃げちゃいけない。
まあいい……。
今日でどうせすべて終わるのだから……。
友香は大きなモニターの画面をボーっと眺めている。
俺に気付く様子はない。
ちょっと一服してくるか……。
ここまで来るだけで、相当な精神力を消費していた。
本番はこれからなのだ。
タバコに火をつけて、ゆっくりと煙を吐きながら、常に視線だけは友香の姿を確認できるようにしておく。
少なくても俺は今日一日ほど、あれと一緒にいなくてはいけないのだ。
待てよ……。
ホテルで俺が寝ている時なんて思っていたけど、それってかなり危険な行為じゃないのか?
襲われる可能性は大だ。
前回で身を持って知ったはずじゃないのか……。
どうしよう……。
本当にどうしよう……。
想像しただけで、泣きそうだった。
考えよう。
何かいい方法はないか?
あの女が正気でいられないようにする方法は……。
「よしっ!」
閃いたぞ。
今日の俺は妙に頭が回る。
酒だ。
酒をしこたま飲ませてしまえばいい。
この際、同じベッドに寝るぐらいはしょうがないだろう。
犯されるよりはいい。
では、あいつをどうやって飲ませるようにするか?
簡単だ。
これまでの人生が味方してくれている。
浅草ビューホテル時代に培ったバーテンダーとしての腕。
川越プリンスホテルへ向かう途中で、いくらだって材料を買える機会はあるはず。
いや、はずとかじゃなくて、そうしないと駄目だ。
絶対に買わないといけないもの……。
まずはシェイカー。
そしてカクテルグラス。
これは最低三つぐらいは必要だ。
急ピッチでガンガン飲ませる為にも、そのぐらいないと話にならないだろう。
あとは見掛けを美しく見えるようスノースタイルのカクテルも作るようだから、平らなお皿も三枚。
それとグラニュー糖、そして塩。
砂糖や塩の粒を細かくするのは、シェイカーのフタの背を使って皿の上で、すり潰せばいいや。
あとはグレナデンシロップとブルーキュラソー。
あとはベースの酒としてジンにウォッカ。
混成酒は…、そうだな。
アプリコットブランデーとコアントロー、シャルトリューズイエローも必要だな。
これは浅草ビューホテルのオリジナルカクテルである『浅草寺』を作るのに不可欠だ。
あとはレモンを買っておけばある程度のものは作れる。
あ、あと百円ショップで果物ナイフとまな板も必要だ。
最後に俺用の酒としてグレンリベット十二年とショットグラス。
氷はホテルのエレベーター横に、製氷機が設置してあったよな。
これはブランド女と川越プリンスに泊まり、浮気がバレる前に、酒を飲む為取りに行った事があるのだ。
結構痛い出費だが、肉に包まれるよりはマシだ。
金には代えられないものがある。
俺が目の前でカクテルを作れば、友香は喜んでガンガン飲むだろう。
飲み口がとても良く、その代わり度数は鬼のように強いものを抜粋して作ればイチコロさ……。
『浅草寺』のレシピ。
正式名称は『夕暮れの浅草寺』と呼ばれるぐらい黄金色の綺麗なオリジナルカクテルで、客にも人気があった。
ウォッカを三分の二。
そしてアプリコットブランデーを三分の一。
シェイクしてグラスに注いだあと、シャルトリューズイエローをツーダッシュ入れて完成だ。
そうか、ビターボトルも買わないといけないな。
そんなもの家に帰ればあるのに、まさか家の近所の周りをあの友香となんて絶対に歩けない。
もし、知り合いにでも見られてみろ。
いや、本川越駅から歩いて五分の間に、絶対に知り合いに会ってしまうだろう。
どんな噂を立てられるか分からない。
ええい、ここに来て金などケチるな。
残った酒やグラスなどは、家でまた使えばいいじゃん。
いや、友香が使ったグラスだけは、川越プリンスホテルの部屋に捨てていこう……。
まあ俺もしっかりとカクテルを勉強した分、身についた知識だ。
こういう時にこそ真価を発揮しないでいつする。
バーテンダー時代を思い出し、エレガントに振舞おうではないか。
すべては酔わせる為だけに……。
周囲の視線がすべて俺に振り注ぐような感覚。
俺の被害妄想か?
いや、違うよ。
だって横にビックマウンテンがいるんだもの。
みんな、それは自然と目で追ってしまうだろう。
できるだけ周りを見ず、黙々とひたすら前に進む。
東京って本当に人が多いなあ。
嫌なところだ……。
「ちょっとー、龍一……」
足をとめて振り返る。
「何だよ?」
「歩くの早過ぎ~」
「悪いな。いつもこのペースなんだ」
「もうちょっと私のペースに合わせてよ~。これからの人生だって長いんだしさ」
ぶっ殺すぞ、このアマッ!
おい、怒るな。
いちいち気にするな。
必死に言い聞かせ、自分の感情を押し殺した。
周囲の人々が俺たちの会話に聞き耳を立てて、クスクスと笑っているような気さえしてくる。
気のせいだって。
とりあえず落ち着こうよ?
ここには知り合いなんていない。
『聞くは一瞬の恥。聞かぬは一生の恥』という言葉だってあるじゃん。
今の状況を例えるならさ、『今は一瞬の恥。怒れば生涯の恥』になるだけなんだからさ……。
「東京って本当にすごい人混みだよね~」
「ああ、そうだね……」
「本当に都会って感じ~」
いちいち語尾を延ばして可愛い子ぶるなよ、こいつ……。
あー、周りの人たちはどんな目で俺たちを見ているのだろう?
だから気にするなって。
極度のストレスが体中に回っているような気がした。
本当に永かったこの道のりも今日でフィニッシュ。
その為にあえて煮え湯を飲もうよ。
おじいちゃん、おばあちゃん、そしておばさんのユーちゃん……。
ここまで俺を育ててくれて、本当にありがとう。
明日から俺は、本当に幸せに生きるよう最善を尽くします。
ちょっとはさ、汚れちゃったかもしれない。
でもさ、家がクリーニング屋だから何とか大丈夫だよね?
ドライクリーニングすれば、綺麗になれるよね?
落ち着けって!
これ以上、精神を暴走させるなよ……。
横目でチラッと友香を見る。
相変わらず、あんた、すげえ肉体だよ……。
「あ、私の顔が見たくなったの?」
「……」
歩きながら大きく息を吸い込んで、大きくゆっくりと吐き出す。
大きな肉の山が、何かほざいただけの話だろ?
山びこだよ、きっと。
うん、そうやってゆとりを持とうよ。
それにしても羽田空港からモノレールに乗るまでって、こんなに長く歩くようだったっけ?
うん、長く歩くようだったじゃないか。
まだ先は長いよ?
だってモノレールで浜松町の駅まで行ったら、もっとすごい人混みの中を掻い潜り、新宿駅に向かうんだから。
そこで歌舞伎町にある『リカーショップ信濃屋』へ寄って酒類をひと通り買い、絶対に西武新宿線は使えないから、また山手線で池袋駅へ。
いや、荷物もあるし、この際タクシーに乗って池袋まで行こう。
そのほうが知り合いに会う機会もぐんと減るだろうしね。
池袋からは東武東上線に乗って、できれば急行に乗りたいな。
それで川越駅からタクシーで川越プリンスホテルまで行けばベストだ。
外に食事へ行きたいなんて言われたら困っちゃうし、途中で食料もしこたま買っておいたほうがいいよな。
本川越駅のすぐそばに、『松屋』があるから、あそこで牛丼の特盛りを三つか四つ与えれば満足するかな?
いや、牛焼肉定食でも、ハンバーグ定食でも、とにかく好きなものを電車に乗ったら聞いておくか……。
いや、地元ではホテルについたら、即、中に入ろう。
下手に知り合いにでも見られたら、どうするつもりだ。
「おいおい、龍一の奴、すっごいのと歩いていたぜ」
そんな噂を流されたら、俺は一生、川越に住めない。
地元愛はこれでも人一倍強いつもりだ。
二日間で百万人以上が集まる川越祭りは、毎年休みを取って必ず参加するし、食べ歩いて見つけた素敵なお店も大切にしている。
太麺のおいしい焼きそばの店だって知っているし、ミートソースの素敵な『ジミードーナッツ』だってある。
確かお袋に連れられ幼稚園の時に行ったのが最初だ。
富士見中学の近くにある『ラーメン屋 栄昌軒』の唐揚げ定食も捨てがたいし、『トーゴー』の味噌焼きチキンもまだまだ食べたい。
『餃子のいづみ食堂』の餃子だってあるし、『フレンチ料理 ビストロオカダ』のロールキャベツだってある。
同じ並びの『とんかつ 早川』は後輩の店だし、あそこの味噌トンカツは絶品だ。
まだまだあるぞ。『ラーメン 十八番』の特製醤油ラーメンは関東で一番うまいラーメンだ。
『呑龍』のしょうが焼き定食もあるし、幼少の頃初めてクリームソーダを飲んだ『喫茶店 ポケットマネー』のビビンバチャーハンもそうだ。
酢豚が絶妙の『レストラン シブヤ』。
本川越駅前にある『中華 王賛』の茄子の味噌炒め定食も絶品だ。
『シマノコーヒー大正館』のサイフォン仕立てのコーヒーも飲みたい。
第一小学校の前にある『駄菓子のみどり屋』の太麺焼きそばもある。
昔の遊び場だった連繋寺のだんご屋『名代焼き まつやま』さんの醤油だんごは病みつきになるうまさ。
もうやめよう……。
食い物の話になると、俺はいくらだってあるんだ。
何故あそこまで体を鍛え上げ、強さを目指したのか?
今日のこの為じゃない事だけは確かだが、これだけ重いものを持っても、まるでへっちゃらな力は本当に役に立っている。
数本の酒のボトルやグラスなどが入ったビニール袋を両手にぶら下げながら、タクシーへと向かう。
「龍一…、私もちょっとは持とうか?」
「いや、全然大丈夫。ほら、すぐタクシーそこだしさ」
歌舞伎町の知り合いにも見られたくなかったので、JR新宿駅に到着すると、俺たちはすぐタクシーに乗り、『リカーショップ 信濃屋』へ。
運転手には池袋まで行くからと伝え、外で待っていてもらったのだ。
出費がすごいが、これが手切れ金になるのなら安いものだ。
タクシーに乗っている間、友香が横でうるさく話し掛けてくる。
「ごめん…、日頃の仕事で疲れているんだ。少し着くまで寝かせてくれ」と嘘眠りをした。
池袋駅に到着すると、俺は運転手にチップを上げておく。
協力してくれたせめてものお礼のつもりだった。
東武東上線に乗るのは本当に久しぶり。
高校時代は毎日通学に使っていたが、歌舞伎町時代に入ってからは一本で行ける西武新宿線しか乗らなかった。
そんな毎日通勤に使う線を友香に教える訳にはいかない。
東上線を使うのは、当たり前の行為だったのだ。
電車に乗って三十分ちょいで川越駅に到着する。
時刻は夜七時。
うん、ちょうどいいぐらいの時間だ。
薄暗くなった外。
これなら俺だと気付く人間の数も、必然的に少なくなるだろう。
自分では文系人間だと思っていたが、結構理系も得意なのかもしれないな。
そんな馬鹿な事を考えながら、タクシーへ即座に乗り込む。
「ちょっと龍一~、早いよ~」
肉の塊が車内にもそもそと入ってくる。
高校時代、学校で内緒でアルバイトしたガソリンスタンドでは、このタクシー会社も燃料を入れてきていた。
この運転手、俺の顔を知っているなんてないよな?
運転手の写真をコソッと盗み見る。
うん、俺よりちょっと年上ぐらいの若僧だから問題ないだろう。
ここは俺の地元だ。
最善の注意を払い過ぎるぐらいがちょうどいい。
タクシーは静かに発信する。
途中信号につかまり停車していると、中学時代の友人であるゴッホが近くを歩いていた。
咄嗟に下をうつむき、手を添えて顔を隠す。
絶対にこの姿を見られる訳にはいかない……。
指の隙間からこっそりゴッホの動向を眺める。
杞憂だったのか、ゴッホはまるでこちらには気付かず、ポケットに手をつっ込んだままどこかへと消えていく。
あの馬鹿、嫌なタイミングでこの辺を歩いていやがるな……。
今度会った時は、いきなり怒鳴りつけてやるか。
駅から数分で、川越プリンスホテルにようやく到着した。
俺は辺りをさりげなく警戒してから、すぐホテルの中へ入った。
俺はチェックインをする際、金は後払いになるので金額だけを確かめておく。
せめてもの餞別代わりに、部屋に着いたら友香にホテル代を払っておこうと思ったのだ。
羽田空港からここに着くまで、ポケットに入れた携帯電話が何度震えただろう。
文江の奴、本当にいい仕事をしやがるぜ。
ちょっとどうなっているか、確認しておくか……。
「友香、ちょっとウンチ……」
「嫌だ~、龍一ったら~」
部屋に着くなり俺はすぐトイレに駆け込んで、携帯電話をチェックした。
《何よ、急に? どういう風の吹き回し? あの女とはもう会ったの? 私に間違えて俺だけの友香なんてメールを送ってきた女の事だよ? 文江》
この馬鹿、ちゃんと仕事しろよ……。
こんな内容じゃ、見られた時不審がられるだろ。
俺はこのメールを削除した。
はい、次……。
《ごめん…、私、ちょっぴり意地を張っていたかもしれない。だってね、さっき龍一にすぐ電話しても出てくれないんだもん。 文江》
グッジョブ!
いいよ、いいね~。
こういうの待っていたんだよ。
次、いってみよう。
《でも気になるから教えてほしい。あの人とはもう会ったの? 怖いけど、私は龍一が好きだからこそ、知っておきたいの……。 文江》
なかなかこの仕事に君も慣れてきたじゃないか。
素晴らしい。
なかなか素敵だよ。
この調子で次も頼むよ。
《本当にこの期間、とても辛かった。好きな人に着信拒否されるなんて、何度も自殺しようと思ったもん。確かに写真すらまだ送っていない私がいけないんだよね。 文江》
チッ…、こいつ……。
最後の写真の事だけ余計だよ。
これは削除だな。
《愛してるよ、龍一。私がどれだけ好きか分かる? 文江》
うん、こういうオーソドックスなやつもいいね~。
でも、君の事は愛せないよ。
悪いけどね……。
《ねえ、何回電話しても出ないってどういう事? 龍一は仕事で忙しいとか言っているけど、本当はあの人と会っていたりとかって…。ごめん、考え過ぎだよね。 文江》
女の勘は鋭いと言うが、本当にその通りだな……。
ちょっとゾゾッてしたよ。
でもさ、いい仕事ぶりだ。
ちょっとだけ君を見直したよ。
《今ね、龍一と暮らす夢を想像しながら、白いシーツを変えているの。 文江》
おっ、これは素晴らしい出来だね~。
一緒には絶対に暮らせないけど、こんな大事なメールをありがとうね。
その時ドアをノックする音が聞こえる。
「ねえ~、龍一、トイレ長い~。早くお酒作ってよ~」
こいつ、クソぐらいゆっくりさせろよ。
まあ、こっちはズボンすら脱いでいないから、まだまだ時間掛かるけどね……。
「まだ入ったばかりだろ? 焦らせるなよ」
「もう~、プンプン」
この野郎、ぶっ飛ばすぞ、いい加減に……。
ケツの穴に指つっ込んだ手で、カクテルを作ってやろうか、オラッ。
「いいから向こう行けよ。俺のクソの臭いでも嗅ぎたいのかよ?」
「うん、嗅ぎたい。鍵開けてよ~」
「うるせーっ!」
馬鹿、ここで怒ってどうする。
セクション…、あれ、えーといくつになるんだっけ?
一回目が電話でしょ?
二回目が文江を巻き込むだったから、三回目はカクテルのアイデアだったよな。
じゃあ、今しているこの行為自体は、セクションフォーな訳だ。
「ちょっと~、そんな言い方ってないでしょ?」
「分かったよ、ごめんな。もう少しゆっくりさせてくれよ」
「早くしてよね」
ふざけるなっ!
誰が無用心に出て行けるかっていうんだ。
群馬サファリパークに行って、車の外へ出る馬鹿はいねえだろうが……。
放っておけ。
今はセクションフォーのミッション中だろう。
集中しろ。
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