「おいおい、ちょっと酷くないか?」
「何が?」
「君はこの映画を根底に植え付けようというのか?」
「う~ん、まあそういう形になるかな」
「この子が白いと言っていた事は何となくだけど分かった。君が細工をしてワザと白く見えないようにしてはいるけどね」
「ははは、なかなか鋭いね」
「ふん、心にもない事を。しかし一体どういう風の吹き回しだい」
「風はおまえの専門分野だろうが」
「話の腰を折るな。私が聞きたいのはこの子をどうしようというのだって事だ」
「おかしな事を言うな? 前に俺の好きにすればいいさなんて言っていなかったか?」
「うるさい! 早く目的を言え」
「そう怒るなよ。簡単に言えば、この子は稀に見る白さなんだ。それは分かるだろう?」
「ああ、君が黒く隠しているつもりでも、まだ白い部分が時たま見え隠れするぐらいだからな」
「そうなんだよ。でもなかなか黒にはならねえ」
「この子を完全な黒にでもしたいというのか?」
「いやいや、白くしたいよ」
「じゃあ何故? 今だって充分過ぎるぐらい白いじゃないか」
「まだまだ…。真の白さを持たなきゃ意味がない」
「白さに真なんてあるのか?」
「ああ、どんな黒にも混ざらないぐらいまっさらな白だ」
「君らしい考えだが、もうちょっと計画的にやったらどうなんだい?」
「いいんだって。こういうのは行き当たりバッタリでやるからこそ面白いんだ」
「いい加減な…。その辺の感覚は私には理解致しかねる」
「まあその内どうなっていくか、それはおまえさんだって楽しみだろう」
「それは否定しない。君の決めた事だ。勝手にするがいいさ」
「もちろんそうするよ。じゃあ気晴らしに雷でも降らせてくるか。その前に大きな風を吹かせてくれよ」
大きな雷のする嵐の日だった。
漢字のテストがあり、その答案が帰ってくる。
いつも百点満点だった僕は答案を見て、思わずギョッとした。一問だけバツがついていて九十点だったのである。
ママに怒られる。僕は瞬間的にそう思った。
間違えた部分の問題は、「十回」をどう読むかという問いであった。テストの前に授業で「十回」は、「じっかい」と読むのだと教わった。しかし僕は「じっかい」と読み方を教わったものの、誰も「じっかい」という言い方をしてないので、普通に「じゅっかい」と書いたのだ。「十回」の正しい読み方は、「じゅっかい」でなく、「じっかい」…。それがどう考えても腑に落ちなかった。
満点じゃない僕は、担任の先生に抗議をしに行った。どうしても納得いかないと……。
すると先生は赤い口紅が塗ってある口を大きく開き、こう言った。
「いい、神威君。先生は授業で『じっかい』と、ちゃんと教えたでしょ?」
「はい」
「だから、ここはバツにしたの」
「でも、先生……」
「なあに?」
「誰も、『じっかい』なんて言ってません。みんな、『じゅっかい』って言ってます」
「いい? そんな事を今、先生は話しているんじゃないの。間違いは間違い…。ちゃんとね、先生は『じっかい』と答えた子には、丸をつけたわ」
それ以上、僕には何も言えなかった。
帰ったらどうなるだろう。
ママが怖かった。
この間つけられた左まぶたの傷。二センチも満たないぐらいだったが、誰一人気付いてくれない。僕が出来る限り隠していたというのもあるだろう。でも誰かに自然と気付いて欲しかった。
先生だってこんなに目の前で話しているのに、傷には気付いてくれやしない。僕は暗く沈んだ気持ちで家に帰った。
案の定ママは答案を見るなり、両肩を振るわせる。その様子を見ているだけで怖かった。答案が下にさがり、ママの目が見えた。
打たれる……。
直感的に感じた僕は、床に尻餅をついた。
「あんた、何やってんの?」
苛立った声をしながら話し掛けるママ。
しばらく様子を伺い、何もないのを確認すると、僕はゆっくり起き上がり近くのソファに腰掛けた。
ママは怖い顔をしながら手紙を一生懸命書いていた。ちょうど二枚目の便箋を書いていて、途中文字を間違ったのかその便箋をグシャグシャに丸めだす。その姿は鬼気迫るものがあった。
「龍一、あなたの先生にこの手紙を明日学校で渡してくれる」
枚数にして四枚の便箋。中身を見ていないが書いてある内容は、幼い僕でもおおよその見当がつく。
「うん……」
素直に手紙を受け取り、忘れないようランドセルに入れた。
今から明日、学校へ行くのが憂鬱になっている。
翌日、暗い気持ちで学校へ行く。一時間ごとの授業がとても長く感じる。手紙を渡すタイミングを放課後に決めた。ママからの手紙を先生へ渡す姿など、クラスメイトにだけは絶対に見られたくなかったのだ。
ようやく給食の時間になる。今日のメニューはソフト麺とうどんのつゆがメイン。おかずのテンプラ箱はちくわの磯辺揚げ。妙に油っぽく僕の嫌いなものだった。大食管に入ったうどんの汁は、クラス全員に配っても四分の一は残っていた。大半の男子生徒は、ソフト麺を半分だけ汁に入れ食べる。もう一度おかわりする為にみんな、そうしているのだ。もちろん僕も。
一人の同級生が食事中席を立ったと思うと、大食管に近づき自分の器の残った汁を入れてしまった。クラスの大半が、おかわりをできないとブツブツ言い出す。先生はその子を立たせたまま、説教しだした。
「田中君、あなたねー。まだ、みんな食べているのよ? そんな自分だけ食べて残りを入れちゃったら、みんながおかわりできないでしょ?」
言っている事は確かに正論だが、クラスのみんなの前で立たされて説教を食らう田中君を僕は可哀相に感じた。
「誰がこれでおかわりできると思っているの?」
先生はクラス中を見渡す。みんなシーンと静まり返っている。田中君は今にも泣き出しそうだった。何故先生はこんな晒し者にするのだろう。
「はい、先生。僕、おかわりできます」
僕はつい立ち上がり手を上げていた。先生が近づいてくる。
「神威君、あなたは何を言っているの?」
「だって別に僕は普通に食べられますよ?」
クラスの何名かの生徒がクスクスと笑った。
「先生をからかってるんじゃないわよ」
そう言われてから僕の頬に痛みが走った。ピンタを食らったのだ。僕は懸命に涙を堪え、椅子に座る。
給食の時間が終わるまでクラスの雰囲気はずっと暗かった。放送のスピーカーから流れるクラシックの音楽だけが、静かに耳に残る。
この給食の一件で、さらに僕は先生へ手紙を渡しづらくなってしまう。
掃除の時間、ホームルームと過ぎ、帰りの挨拶をしてクラスメートが帰り始めた。
できれば僕もこのまま帰りたい。そんな事ばかり考えている内に、教室内は僕と先生の二人だけになっていた。
僕が一点を見ながら考えている様子が、気になったのだろう。先生のほうから声を掛けてきた。
「神威君どうしたの? みんな帰ったわよ。さっきの事、まだ気にしているの?」
「ち、違います……」
「じゃあ、早く帰りなさい」
このままだと渡しそびれる。僕は無言のまま教壇に近づいた。
「どうしたの?」
「こ、これうちのお母さんから……」
やっとの思いで担任の先生にママからの手紙を渡した。黙ったまま手紙を受け取ると、先生はすぐに封を開ける。
できる事なら僕のいない時に読んでほしかった。僕はこの先生があまり好きじゃない。
「……」
手紙を読む先生の手が小刻みに震えている。ママほど怖くはないが、見ていていい気分にはならない。二人の間に流れる沈黙した重い空気。それに押し潰されそうで嫌だった。
十分ほど時間を掛けて、先生は手紙を丹念に数回読み直す。
「神威君、ちょっとそのまま待っててくれる」
そう言うなり先生は手紙を書き始めた。ママへの手紙であろう。許されるならこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。先生は僕の事などまったく気にせずに黙々と手紙を書いている。
「龍ちゃん、一緒に帰ろうよ」
いつの間にいたのか分からないが、教室の入り口に人形屋の純治君の姿が見えた。いい助け舟だ。僕はいい言い訳ができたと思い、立ち上がろうとする。
「森野君…。神威君は、これから先生と大事な用があるから、先に帰ってちょうだい」
表情に出さないよう僕は(先生の馬鹿野郎)と心の中で叫んだ。純治君が用が終わるまで待っているとか言ってくれないだろうか。僕は密かに期待した。
「はーい……」
うな垂れたように入り口から消える純治君。淡い希望はすぐに掻き消された。結局先生が手紙を書き終わるまで、待たされるハメになった。
「じゃあ、これ…。帰ったらお母さんに渡しといてね」
「はい……」
僕はさよならも言わず、短く返事をして教室を出た。
家に帰り、ママに手紙を見せると、顔色が変化する。
苛立ちを隠そうともせず机に向かい、また手紙を書き出した。表情を見れば怒っているのは一目瞭然だ。
「じっかい」にまつわるやり取りだけで、こんな展開が三度も続いた。
先生とママの間に立ち、伝書鳩代わりのように命令される僕。本当にうんざりだった。二人とも直に会って話せばいいのに…。素直にそう思う。
一年生の三学期に入る頃、両親の仲は以前よりさらに酷くなっているのを感じた。
ここ最近じゃ、毎日のようにママ側のおばあちゃんが仲裁に来ている。
おばあちゃんが間に立つと、パパは決まって外へ出掛けてしまう。
この日も部屋の前の廊下で、ママとおばあちゃんは言い争いをしていた。恐ろしい表情で自分の母親を睨みつけるママ。声もヒステリックに聞こえる。ママがおばあちゃんの右手首をつかむのが見えた。
「……!」
異様な光景に僕は言葉を失った。手首を握り締められた場所から、赤い血が流れるのハッキリ見えたからだ。
おばあちゃんの手首をつかむママの指先から、赤い一筋の血が静かに流れ落ちていくのを僕は息を飲みながら凝視して、その場に立ちつくしていた。
多分、ママが爪を立てて、力一杯握ったからだろう。
それでもおばあちゃんは表情を変えず、真剣な眼差しで何かを訴えていた。
心配そうに見ている僕と龍也に気付くと、おばあちゃんはそんな状況の中でも優しく微笑んでくれる。何故かその笑顔を見ると、ホッとした。
「龍一、龍也…。部屋に戻ってなさい」
ママが僕たちに気付き、怒鳴るように声を掛けてくる。僕は足に力が入らず、その場で動けずにいた。
「ママの言う事が聞こえないの」
声のトーンが一オクターブ上がる。その声は僕と龍也の体の中を走り、恐怖感を増長させる。
「千秋、子供を怒鳴るのはやめなさい」
おばあちゃんの声が鋭くなる。それから僕たちのほうを振り返り、穏やかな顔で口を開いた。
「龍一、龍也…。お願いだからおばあちゃんの言う事を聞いてくれるかい?」
右の手首から流れる赤い一筋の血が、僕の視界に映る。
「……」
「大丈夫だから、部屋に入ってな」
そんなに血が出ているのに大丈夫な訳がない。
「……」
僕は返事ができなかった。
「龍一、おばあちゃんは大丈夫だよ。お願いだから部屋に入ってて、ね?」
「うん……」
僕は龍也の手を引いて部屋に戻った。ドアを閉めると、何かが壁にぶつかった音が聞こえてくる。見えないながらもおばあちゃんがママに突き飛ばされたんだと、頭の中でリアルに想像できた。
「何が大丈夫だからだ! うちの子たちに何を吹き込んでいるんだ!」
ママのキンキン声がドアを挟んで聞こえてくる。龍也はその声にビックリして泣き出してしまう。
僕は頭を撫でてしきりになだめようとした。弟を可哀相に思ったのもあるが、その泣き声で、ママがこっちに来たら嫌だという気持ちが強かった。
おばあちゃんは今、一体、どんな目に遭っているのだろうか。止めに入れない自分が、非常に情けなかった。
週に一回ある恒例のピアノレッスンの日が来ると、僕の心はそわそわしだした。
数ある習い事の中で、ピアノに行く時だけが楽しみだった。
何故なら先生はとても優しく、いつも笑顔だったからだ。真面目にレッスンをしたのは最初の頃だけ。もともとピアノを覚えたいという意思のなかった僕は、遊びに行く感覚でいつも通うだけだった。
右手で鍵盤を音符の通り叩く作業。何度か試してみたものの、どうしても好きになれない。小一の僕はピアノを弾くという行為が女っぽく見えて仕方なかったのである。
音符は読めないので、先生にカタカナで振り仮名を記入してもらう。僕はそれを見ながら右手で音を奏でた。
カタカナを読みながら鍵盤を弾く機械的な作業。ピアノを弾く時いつもそう感じている。
「もっと感情を込めて」
いつも先生はそう言う。だけど感情なんて愛着のないピアノに込められる訳がなかった。
通いだして二ヶ月が経過した時から、先生も僕の気持ちを理解してくれたようだ。親のエゴで強引に通わせられる僕を見て、同情してくれたのだろう。
「龍一君は他にいくつ塾へ行ってるの?」
レッスン中に先生は尋ねてきた。
「うーんとねー、ピアノでしょ。絵の塾でしょ。それからプールと体操教室。習字に学習塾かな。あ、あとね。合気道」
「合気道?」
「うん、道場にパパと行ってね。いつも先生が胸をドンって押すの」
「胸を?」
「うん、精神何とかって言ってたよ。僕、いつも倒れないように頑張るんだ」
「へー、すごいわね」
僕は少しだけ得意になって話した。
「でもそれは全部、自分で行きたいって言ったの?」
「……」
「どうしたの?」
「マ、ママには絶対に言わない?」
「え?」
「絶対に誰にも言わないって約束してくれる?」
「ええ、もちろん約束するわ」
先生は真面目な表情で答えた。親にバレたらとんでもない事になるのだ。左まぶたの傷が疼く。
僕は先生の顔をずっと真剣に見つめた。
この人なら大丈夫……。
妙な確信があった。
「ほんとはね、一つも行きたいなんて言ってないんだ」
「えー?」
「小学校に入ったら急に決まったの」
「行きたくないなら嫌だって言えば良かったのに……」
「そんな事、言ったらママに怒られちゃうよ……」
「そう……」
「……」
「龍一君、ごめんね。先生、変な事を聞いちゃって」
「ううん……」
誰にも言えなかった自分の感情を少しだけでも初めて言えた。この事でずいぶんと心が軽くなったように思う。
この瞬間、僕は先生が好きになった。
「でもね、先生。僕、ピアノだけは続けたいんだ」
「そう。先生嬉しいわ」
「でもね、ピアノは嫌い」
「う~ん、ちょっとだけでもやろうよ、ね?」
話だけでまったくピアノを弾かない僕を先生はまったく怒らず、家まで送ってくれた。この日先生は「お腹減ってない?」と聞いてきた。「お腹は減ってないけど、楽しい場所を知っているよ」と言うと、「じゃあたまには寄り道しましょう」と、先生は優しく微笑んだ。
家で働くお手伝いさんのせっちゃんが連れていってくれた喫茶店に先生と入る。小学生の僕がこんな場所に出入りしている事実を知り、ピアノの先生は目を丸くしていた。その表情が面白く、僕は久しぶりに心から笑った。出入りといってもこれでまだ二回目なんだけどな。
それからピアノのレッスンに行くのが、楽しくてしょうがなかった。早めに形だけのレッスンを終えると、喫茶店に向かうのが日課になりつつある。先生はいつも自分のお金で、僕にインベーダーをやらせてくれ、クリームソーダを飲んた。
ある日学習塾から帰ると、ママはいつものようにいなかった。
龍也は「お腹が空いたよう」と僕に言い、寝起きの龍彦は泣いている。
前の恐怖が蘇ったが、弟たちをそのままにしておけず、僕は一階に連れて行った。おじいちゃんは幼い龍彦を抱きながら満面の笑みを浮かべた。おばあちゃんは食事の準備をしてくれる。僕は料理をするおばあちゃんの後ろ姿を眺めていた。
いつママは帰ってくるのだろう。その事だけは頭の片隅に入れておく事にする。
おじいちゃん、おばあちゃんとの食事は楽しかった。パパの妹であるおばさんのユーちゃんも下に降りてきて、僕たちを見ると、嬉しそうに笑った。
両親だけいない家族の食卓。みんな笑顔で楽しい。
いつもこうならいいのにと、素直に僕は思う。
いけない…。ママがいつ帰ってくるかと注意するのを忘れていた。
笑顔で会話を続けるおばあちゃん。途中から僕は、何を話しているのか内容も分からず、ただ笑顔を作っていた。
居間の扉が少しだけ開いているのに気付く。僕は扉の見える位置に座っている。おばあちゃんの作ってくれた料理はとてもおいしかった。龍也も満足そうにニコニコしている。龍彦はおじいちゃんに抱きかかえられ、スヤスヤと眠っていた。
「おばあちゃん、おかわり」
「はいはい」
お腹いっぱい食べられるのは、こんな状況の時だけだった。
ママとの食事はいつも酷い。
家の隣にある食堂へ行き、とんかつ定食を一人前だけ注文するママ。ご飯をもう一つだけもらい、四人でそれを分けて食べた記憶が蘇る。まともに食事の用意をしてくれないなと、僕はいつも感じていた。
何でもいいからお腹いっぱい食べたい。そんな思いが強かった。ママなんていなければいいのに……。
僕はこの頃からそう思っていた。
「……!」
一瞬、心臓が止まったかと感じる。僕は扉の少し開いた隙間を見て、ご飯の茶碗をテーブルに落としてしまった。
「ちゃんとしっかり持たないと駄目だよ、龍一」
おばあちゃんが注意をしても、僕の耳には届かなかった。
僕の全神経は、僅かに開いた扉の隙間に注がれていた。
隙間から見える暗闇。真っ暗な部分に白い目が、一つだけ見えたのだ。その目は怒りを表しているかのように釣り上がっている。
僕は、それがママだと直感的に分かった。
全身がガクガク震えだす。もっと早めに食べ終わり、すぐに二階の部屋に戻るべきだったのだ。あれほど、注意していたはずなのに……。
誰も扉の向こうにいる存在に気がつかない。僕だけがそれを知っているのだ。隙間から白い手が見え、ゆっくりと手招きしている。僕は操られるかのように立ち上がってしまう。
「どうした、龍一」
「も、もう…、お腹いっぱい……」
それだけ言うのが精一杯だった。
おじいちゃんたちに、扉の向こうにいる存在を知られたくなかった。
僕は黙って扉のほうへ、歩いていった。
誰か僕をとめて……。
お願いだから、誰か気付いて……。
いくら心の中で必死に叫んだって、誰にも聞こえやしない。
居間を出る際、一瞬だけ振り向く。龍也がおばさんと楽しそうにはしゃいでいるのが見える。羨ましかった。
その瞬間腕を強く引かれ、僕は廊下に引っ張り出される。
思った通りママが物凄い形相で立っていた。足元から震えだす僕など一切気にせずに、ママは強引に階段へ連れていかれた。
一歩一歩階段を上るたびに尻を叩かれる僕。
今、声を出すとおじいちゃんたちに心配させてしまう。そんな思いが頭をよぎり、僕は懸命に涙を堪えた。途中の踊り場まで到着すると、髪をつかまれた。
「何で帰ってくるまで待てなかったんだ?」
僕だけに聞こえるぐらいの声で、ママはそう言った。
「ご、ごめんなさい……」
「何回、同じ事を言わせるんだよ?」
すごい勢いで尻を叩かれた。髪の毛を握るママの手が無言で、上にあがれと言っていた。足が震えてうまく階段を上れない。するとまた尻に痛みが走った。
そんなに悪い事を僕はしたのだろうか。
いつも学校では成績優秀だった。
あの「じっかい」という間違い以外は、いつも百点ばかり。通信簿も大変良くできましただけなのに……。
でも、誰も僕を守ってくれない。
か弱い存在の自分が嫌いだった。勉強ができるよりも、もっと強くなりたかった。仮面ライダーみたいに僕がなれたら、どんなに素敵だろう。ウルトラマンみたいに大きくなれたら、何も怖いものなどないだろう。
でもそんなものは夢でしかない。現実の僕はガタガタ震える事しかできない。
部屋に到着すると、床に放り出される。
僕はそこで初めて泣いた。泣けば恐ろしいママの顔が、涙で滲んで見えなくなる。
「何度、言ったら分かるんだよ」
頬に痛みが走る。僕は両腕で顔を隠した。痛みは色々なところから感じた。
容赦なく無差別に攻撃を繰り出すママ。僕は泣くしか方法がない。
「これを持ってろ」
俺におもちゃ電話の受話器の部分を右手に持たせる。
電話機の本体を持ち、一歩一歩ゆっくりと後ろに下がっていくママ。
幼いながらも、これからどうなるのかが理解できた。分かっていながら怖くて離せなかった。
受話器を……。
手を離したら、そのあと何をされるかを想像してしまう。
まだ幼い俺には、その想像のほうが怖かった……。
どんどん伸びていくコード。
それでも僕は電話の本体を震えながら持っている。
恐ろしかったのだ。抵抗して、これ以上殴られるのが嫌だった。
おもちゃの電話機の本体と、俺の右手にある受話器を繋げているゴム製のコードが伸びきったと思った瞬間、ママの手元から離れていた。
「……!」
いきなり目の前が真っ暗になり、火花が散る。
思わずその場にうずくまってしまう。目の上が焼けるような痛みを発している。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
逃げようと立ち上がり、後退した。
その時おもちゃのブロックを踏んでしまい、足の裏に痛みが走る。
胸を押され、床に倒れ込む。
合気道に行った時の風景が思い出される。稽古を始める前に正座して一礼。そのあと正座をして目を閉じているところを不意に先生が胸を押してくる。そこで倒れてはいけない。精神を集中させるのが、本来の目的らしかった。でもそんな事は、当時の僕には分からない。
「何、勝手に転んでんだ。立て!」
僕は言われるまま立ち上がる。足元にはおもちゃのブロックが散乱していた。ママはいくつかのブロックを拾っている。
「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」
「はい……」
これから何をされるのか。体を震わせながら、目を少しだけうっすら開けた。ママがブロックを投げつける途中だった。青色のブロックが僕の頭に命中する。僕は再び倒れた。
「何、大袈裟に倒れてんだ!」
起き上がれば、また同じ目に遭う。分かっていながら立ち上がった。そうするしかないのだ。何度もママは、僕にブロックを投げつけた。僕はこのまま殺されるのかな。素直にそう感じた。
その時、部屋のドアが勢いよく開いた。
「おまえは何をやってんだ!」
おじいちゃんだった。今まで見た事のないような厳しい目でママを見ていた。二階の騒ぎが聞ききつけ、助けに来てくれたんだ。
真っ暗闇な中、一筋の光明が見えたような気がした。必死にその光ある方向へと向かう。
「おじいちゃん……」
自然とその方向に駆け寄ろうとした時、背中に激しい痛みを感じた。床に倒れ込む際、スローモーションのように映し出される。
そして、目の前に割れた白いブロックの破片が見えた。
「わぁっ……」
僕は目を押さえながら、床に転がった。たくさんの血が出ていた。それからあとは記憶にない。
鏡を見ると、左まぶたのところに小さな傷が一つ増えていた。視力には何の影響もないみたいだ。目の前で覗き込むようにしないと、傷は分からない程度だったが、僕は学校と塾を一週間ほど休んだ。
これでまた左まぶたの上に消えない二つ目の傷ができた。
今まで当たり前だった習慣が少しだけ変わった。そしてその間、おじいちゃんとおばあちゃんの部屋で寝る事になった。
それが原因かどうかは分からないが、ママは前より優しくなったような気がする。ご飯もお腹いっぱい食べられ、幸せを感じるようになった。
家の人たちはいつも笑顔で僕に接してくれる。塾を休んでいる間、従業員の大ちゃんは二回ほどデパートのホットドック屋に連れて行ってくれた。そして僕にハンバーグドッグを食べさせてくれた。
せっちゃんもあの喫茶店へ再び連れて行ってくれた。その時初めてピザトーストというものを食べた。おばあちゃんの作る和食とは、タイプの違う食べ物に僕はビックリした。それからピザトーストは大好物になった。
映画館のおじさんも僕を見かけると、中に入れてくれる。いつものようにアンパンとコーラの入ったビンをくれて、僕は内容も分からずスクリーンをただ眺めていた。でも、楽しくて仕方がなかった。
そんな一週間の間、一日だけママのおばあちゃんの家に泊まりに行った。おばあちゃんの家とうちは距離にして三百メートルも離れていない。だから歩いていける。
おばあちゃんの家は小さな本屋をやっていて、遊びに行くと必ず好きな漫画本を一冊プレゼントしてくれた。僕はドラえもんのコミックをいつも好んで選んだ。
小学校二年生になって新学期を迎える。クラス替えもなく、担任の先生も変わらなかった。
新学期になって最初の日曜日。
ママは僕を連れて、近所のデパートへ行った。
物心ついてから、ここまでゆっくりとデパートを見て回ったのは初めてだった。中でもおもちゃ売り場と、屋上のゲームセンターに目を惹かれた。
エスカレータを上り終わった五階にあるガラス張りのレストラン。そこのショーウィンドーに飾られたお子様ランチが僕の食欲をそそる。まだ一度もお子様ランチを食べた事がない僕は羨ましそうに眺めた。
洋服売り場をママと一緒に歩いていると、従兄弟の愛子ちゃんのおばさんが、向かい側から歩いてきた。僕の姿に気付くと、「龍ちゃん」といいながら笑顔で手を振ってくれる。僕は少し照れ臭そうに、はにかみながら手を振り替えす。
僕の手を握るママの手に力が入る。
しまった……。
僕は笑顔を封印して、すました顔に変えた。
でも遅かった。
家に帰ると、すごい形相でママは言った。
「あんた、何をあんな奴に愛想を振りまいているんだ」
また痛い目に遭わされる…。僕は歯を食い縛った。
予想とは別に、軽く頭を叩かれただけだった。
この間、酷い傷を負わしたばかりなので、ママも少しは手加減してくれたのだろう。
だけど次に同じ事をしたら……。
想像すると、体が震えた。
ママの前でむやみに笑ってはいけないのだ。いや、ママが好きな人の前じゃないと笑顔を見せてはいけない。僕はそう思った。
その日から僕はあまり笑わなくなった。笑えなくなった。
僕はママと二人だけで出掛けるのが怖かった。週に一度の日曜日を憂鬱な気分で迎えるようになる。毎日、学校があればいいのに……。
塾通いだらけで忙しい平日でも、ママと二人っきりでいるよりはマシだった。
習字の塾のあと、家への帰り道に映画館『ホームラン』の前を通ると、おじさんの姿が見えた。おじさんはこっちを見て笑いながら手招きしている。いつものように映画館の中に入れてくれるのだろう。このあとの塾はもうないので、僕は駆け足でおじさんに近づく。
「塾の帰りかい?」
「うん!」
「龍ちゃんも、どんどん大きくなっているなあ。もう二年生になったんだっけ?」
「うん、二年生」
「そうか、そうか」
生まれた時からの僕の成長をずっと見てきているせいか、おじさんは目を細めながら、満足そうに微笑んだ。
「今日はね、中に入れば龍ちゃんが好きそうなやつ、上映してるんだよ」
「僕が好きそうなの?」
「うん、チビっ子にはこの映画、すごい人気があるんだ。絶対に龍ちゃんも、気に入ると思うよ。さあ、もうじき上映時間だ。入りなよ。あ、あれ……?」
おじさんが僕に視線をずらし、遠くを見つめだした。僕もその視線に釣られるかのように振り向くと、弟の龍也がいた。道路を挟んで家の前でボーっと突っ立っている。僕はその姿にゴマシオを何故か連想させた。
「おーい、こっちおいでよ」
おじさんは龍也にも声を掛ける。信号が赤に変わり、横断歩道をテクテクと、早歩きで歩いてくる龍也。僕の顔を見ると、嬉しそうに笑った。
「龍也ちゃんも、お兄ちゃんと一緒に映画見るかい?」
弟は返事をする代わりにニコニコ笑っていた。そして僕の手にしがみついてきた。
「よし、じゃあ、早く行こう。もう始まっちゃうぞ」
いつものように料金も払わず、二階席へ通される。この近所でも僕ら三兄弟だけに許された特典だろう。
映画を見る時はいつも二階席の一番前だった。僕にアンパンとコーラ。龍也にはアンパンとオレンジジュースを手渡して、おじさんは映写室へ消えていった。
僕と弟は真剣にスクリーンを見つめる。おじさんが言っていた面白い映画。期待に胸を膨らませていた。やがてスクリーンに映像が映りだす。
上半身裸の筋肉質の男が、一人で画面上を所狭しと激しく動き回っている。少しおどけたユーモラスな感じの表情で、カンフーの演舞をやっていた。
当時、カンフーなど知らない僕たちは、仮面ライダーを見ているような熱心さでスクリーンを真剣に見つめた。アクションの連発やユーモラスを誘う場面に、僕たちは一気にのめり込んだ。
やがて白髪頭のおじいさんが、その主人公を鍛え始め、苦しそうな表情が映し出される。新しいヒーローが、トレーニングを必死にして強くなっていく姿は好感が持てた。次々と襲い掛かってくる敵をバタバタと倒しながらいく主人公。痛快でたまらない。
ひょうたんに入ったお酒を飲みながら、強くなる主人公。やがて一番悪い奴との対決シーンになり、苦戦しながらもやっつけて映画は終わった。
館内が明るくなり、スクリーンに幕が掛かると、見ていた観客は歓声をあげた。僕たち兄弟も、もちろん歓声をあげていた。興奮が全身を包み、体が熱くなっていた。他の客と一緒に外へ出ると、おじさんが笑顔で出迎えてくれた。
「どうだい龍ちゃん。面白かったろう?」
「うん、すごい面白かった」
「うん」
龍也も隣で興奮気味に返事をしていた。出てくる客の大半が満足そうにしていた。意味もなく様々な映画を見てきた中で、今日の映画は抜群に楽しかった。
「何て映画なの?」
今まで映画のタイトルなど気にもした事がない僕は、初めておじさんに尋ねた。
「酔拳って映画で、主演はジャッキーチェンって言うんだよ」
「ジャッキーチェン……」
「ジャチーチン」
弟も僕の真似をしようとするが、うまく言えないらしい。
家に帰ると、兄弟でカンフーの真似事をして遊んだ。ジャッキーチェン…。ウルトラマンや仮面ライダーの他に、新しいヒーローとして、僕たちの脳裏にインプットされた。
僕の好きなものを考えてみた。
メロンソーダ、インベーダー、ガチャガチャ、ジャッキーチェン。それにピザトースト。不思議と飲み物のメロンソーダは好きでも、フルーツのメロンは食べられなかった。
そうだ、あとピアノの先生も大好き。先生は僕の現状を理解してくれて、自分の味方をしてくれている。僕は少しだけ幸せな気分になった。ママに怒られると、いつもかばってくれるおじいちゃんとおばあちゃんも大好きだった。
いつもニコニコいたいのに……。
ママと一緒にいる時は、常に緊張していた。
普段は笑顔のママも、突然ヒステリックになると、恐怖しか感じられなかった。いつ、僕は怒られるのだろう。そうやって常にビクビクしていた。
何故、怒られたのか。幼いながらも僕はずっと考えている。だから同じ失敗は繰り返したくなかった。
日曜日になり、ママは再び僕だけを連れ、デパートに向かった。
手を繋いで仲良く買い物に来ている親子。多分、他人の目にはそう映っているのだろう。誰にも知り合いに会いたくない。僕は内心、そう思いながら一緒に歩く。
五階のレストランのところを通過する。ショーウィンドーの中で飾られたミートソースが目に映った。パスタを巻いた状態で宙に浮かんだままのフォーク。見ていてよだれが出てきた。僕は後ろ髪を引かれる思いで、もう一度だけ恨めしそうに見た。
地下の食料品売り場に行くと、またおばさんの姿が見えた。
こっちに気付かないでほしい……。
懸命に願った。僕は品物を色々見ているふりをして、おばさんのユーちゃんに視界へ映らないように努める。
「何、やってんの。ほら、こっちに行くよ」
強引に手を引かれ、僕の努力は水の泡になる。正面におばさんが立っていて、僕の姿に気付いてしまう。笑顔で近づいてくるユーちゃん。僕は知らんぷりをして横を向いた。
「あら、龍ちゃん。また会ったねー」
ユーちゃんが声を掛けてきた。僕は笑顔で対応したかったけど、この間の事が思い出された。だから一瞬だけおばさんを見て、ろくに挨拶もせず横を向いた。
自分のした行動が嫌でたまらなかった。でも恐怖のほうが罪悪感を遥かに凌駕している。
その日は家に帰っても、ママに怒られる事はなかった。
これでいいんだ…。必死に自分を納得させるようにした。だけどモヤモヤとした感じは、いつまで経っても消えない。
寂しい四人だけの食卓。
この時間、パパはいつも家にいない。
幼い龍彦は別として、いつも僕と龍也はママの顔色を伺っていた。ママが冷凍食品のコロッケを二枚だけ揚げ、白いお皿に盛って目の前に置く。おかずはコロッケが二枚だけの食卓。
「ちょっと待ってな」
ママはそう言うと、黄色いボールを持って階段を下りていった。
「おにいちゃん、味噌汁も飲みたいよう」
龍也が僕を見てつぶやく。
「我慢しろって。またそんな事を言うと、ママに怒られるぞ」
四人だけの食事は質素なものだった。
下でご飯を作っているのに、食べに行くと怒られる。お腹が減っても、あの時の痛みを思い出すと、現状を受け入れるしかなかった。
「何でおばあちゃんたちと一緒に食べないの?」
当たり前の事を龍也は言ってくる。僕はどう説明したらいいか、困ってしまった。本当は僕だって、一階の居間で家族そろって食べたいのだ。
「ねえ、何でだろ?」
その時、下からおばあちゃんの怒鳴り声が聞こえ、階段を足早に上る足音が聞こえた。
「シッ…。静かにしろって」
慌てて僕は弟を黙らせた。余計な事を聞かれ、これ以上怒られたくない。
廊下から足音が聞こえ、ママが少し不機嫌そうな表情で現れた。ママの持っている黄色いボールの中には、白い湯気の出たご飯が入っている。茶碗にご飯を盛り付けるママ。乱暴に各自の前へ、茶碗を置いてくる。
「ほら、早く食べちゃいな」
「はい」
刺激してはいけない。僕は出来る限り平静を装った。
「ママー、味噌汁はー?」
龍也がママに尋ねる。僕はギョッとした。その瞬間、ママは龍也の頭を叩いていた。
「うるさい、早く食べろって言ってんだろ」
何故、叩かれたかすら分からない龍也は大声で泣き出した。
「うるさい」
再度、頭を叩くママ。龍也は口からご飯をこぼしながら泣いている。僕は可哀相に思うだけで、ママを止める事はできなかった。怖かったのだ。
ジャッキーチェンの姿が頭の中で浮かんでくる。あのぐらい僕が強かったらなあ…。自分の非力さを恨めしく思う。
「ちょっと、あんた。何を子供相手にやってんだい」
後ろで怒鳴り声が聞こえ、振り向くとおばあちゃんが立っていた。おばあちゃんの顔は珍しく怒っていた。
「ご飯を下から勝手に持ってくるぐらいなら、みんなで一緒に食べればいいじゃないか。それに何で龍也を叩いているんだ」
おばあちゃんが救世主に見えた。見ていて非常に頼もしく感じる。龍也は泣きながら、おばあちゃんに抱きついた。
ママは黙っている。僕は恐る恐るママの顔を伺う。その瞬間、思わず箸を落としてしまった。綺麗な顔立ちが、鬼のような顔つきに変貌していたからだ。
「うるさい、関係ないだろ」
立ち上がり、おばあちゃんを乱暴に押し出すママ。おばあちゃんはよろけ、浴室のドアにぶつかる。見ていて気が気じゃなかった。
「やめなさいよ」
いつの間にか、パパの妹であるおばさんのユーちゃんまで廊下にいた。大人はみんな、怖い表情をしていた。目の前で繰り広げられる修羅場。僕たち兄弟はその光景を見て、震えているしか術はなかった。パパは何でいつもこの時間いないのだろう。素朴な疑問が頭をよぎる。
やがて騒ぎを聞きつけたおじいちゃんまで二階に来て、ママを怒鳴っていた。
目から涙を流すママ。その涙は化粧が溶けたのか黒い涙だった。体を震わせ、三人を睨みつけている。
やがてママは、おばさんを突き飛ばし階段を駆け降りていった。
「チクショー、チクショー!」
捨て台詞のように言葉を連発して、玄関の扉が開く音がした。僕は泣いている龍也の涙を優しくぬぐい、笑いかけた。僕たちは助かったのだ。
その日、夜中になってもママは家に帰ってこなかった。
ただ意味もなく泣いている末っ子の龍彦。いくらあやしても泣き止んでくれない。龍也はベッドで熟睡している。
「龍彦、泣かないでよー」
僕が反対に泣きたいぐらいだった。でも、小さい龍彦を責める事もできない。その時、部屋のドアが開き、パパが帰ってきた。僕たちを見ると、機嫌良さそう笑っている。
「何ら、まだおまえたち起きていたろか。もうひょんな時間らぞ」
「うん」
「ママはどうひた?」
「分かんない」
「何れ、龍彦は泣いているんら?」
「……」
パパの息は酒臭かった。呂律が回っていないような話し方をしている。僕と龍彦の頭を交互に撫でると、布団に横になりそのまま寝てしまった。
僕はその寝顔をじっくり眺めた。もし、ママが部屋に戻ってきても、パパがいるから暴力を振るわれる事はない。僕はホッとした。パパのいびきが聞こえてくる。
龍彦をパパの横に寝かせると、いつの間にか泣き止んでいた。それを確認すると、僕はベッドの二階に上って横になった。
白い毛のような模様が入った天井を眺める。ジャッキーチェンのように強くなりたい。映画の中のトレーニングシーンを思い浮かべる。全身汗まみれで特殊なトレーニングをするジャッキーチェン。すごい苦しそうな表情をするが、見ていて爽快で格好良かった。
明日から空いた時間があったら、僕も真似をしてトレーニングしてみよう。自分自身でそう誓った。
ただ、泣いているだけなのは、もう嫌だった。
強くなりたかった。
家では猫を放し飼いで一匹だけ飼っていた。
三毛猫でまだ生まれて一年ほどの可愛い猫だった。
名前はみゃう。
僕はみゃうの姿を見つけると、体のあちこちを触った。喉元をゆっくり撫でると、みゃうは気持ち良さそうに目をつぶりゴロゴロと喉を鳴らす。
ある日廊下を歩いていると、嫌な臭いが鼻をついた。猫の小便の臭いだった。どこで臭っているのだろう。僕は臭いのする方向へ向かった。
店の受付のところで、ママが洋服を手にとって臭いを嗅いでいる。僕は近づいてママに尋ねた。
「どうしたの、ママ?」
僕のほうをしかめ面で見るママ。それほど猫の小便の臭いはキツかった。
「龍一、猫は?」
「分かんない」
「ちょっと探してきて」
「はーい」
僕はみゃうを探しに家の中を探索した。みゃうは気まぐれなので、いつも家の中にいる訳じゃない。僕は二階に上り、トイレ、風呂場、キッチンと見回った。
「みゃうー」
名前を呼びながら三階に上る。三階には十畳ほどの部屋が三室と、トイレがあった。一番奥にはおばさんのユーちゃんが住んでいる。あとの二つは空き部屋になっていた。各部屋を調べても、みゃうは見つからない。
僕の家は造りが多少変わっていて、三階の廊下の大きな窓を開けると、鉄筋の錆びた階段があった。そこを上ると屋上へ出られる。四方に薄緑色の柵が落下防止用に設置されているので、僕は怖くなかった。屋上は貯水用のタンクが一つあるだけで、あとは何もない。僕はタンクのほうへ歩いていった。
「みゃう」
「ミィー……」
猫の鳴き声が聞こえる。僕はタンクの奥に回ると、みゃうがうずくまっていた。
「みゃう」
僕のほうを気だるそうに見つめるみゃう。そんな表情も可愛い。
ゆっくり近づき頭を撫でてやる。みゃうはアクビをすると、身持ち良さそうに目を閉じた。ずっとこうして撫でていたいが、ママが探している。
僕はみゃうを抱きかかえ、屋上をあとにした。
階段を下りる間、みゃうは多少の抵抗をした。その度に僕は立ち止まり、頭を撫でてやる。一階に到着すると、ママが大きめのダンボールを持って立っていた。
「龍一、猫をこっちに持ってきて」
猫を物扱いするママの言い方に気分が悪くなってくる。でも何も言い返せない僕はママに猫を手渡した。
「上に行ってなさい」
「はい」
階段を上りかけた時、声が聞こえた。
「ミャー、ミャー」
激しく泣き出すみゃうの声。尋常な泣き方ではないみゃうの声を聞き、僕は廊下に戻る。
目の前で見た光景が信じられなかった。
ダンボールに嫌がるみゃうを押し込むママの姿が見える。箱の中に入れるも、みゃうは必死に抵抗していた。みゃうの爪がママの手を引っ掻くと、赤い線が見えた。その瞬間、ママの顔は鬼のようになっていた。みゃうを乱暴に引っぱたき、ダンボールに押し込めると、ガムテープでメチャクチャに箱を封印している。
「やめてー!」
僕は夢中で駆け寄った。泣きながらも必死にママを止めようとした。それだけ目の前で起きた残虐な行為が、許せなかったのかもしれない。
しかし僕の抵抗など些細なものだったのを痛感する。僕まで強引に手を引かれ、外に連れ出された。
「やめて。お願いだから、やめてあげて!」
必死な僕の願いなどママには、まるで聞こえていない。届かない。ママは車に乗り込むと、僕を睨みつけて荒々しく言った。
「ほら、早く乗んなさいよ」
「やめて……」
「早く乗れ!」
みゃうを放ってもおけず、同時に恐怖を感じた僕は無言で車に乗った。ママの右手の甲に、赤い血が流れていた。みゃうに、さっき引っ掻かれた傷だ。
「これを持って」
みゃうの閉じ込められたダンボールを膝の上に置かれる。箱からはみゃうの嫌がる声が聞こえ、中で暴れている振動を感じた。
おばさんのユーちゃんが、泣きながら玄関から飛び出してきた。目は真っ赤で、僕たちの乗る車に近づいてくる。
「何やってんのよ? 開けなさい!」
「ママ……」
僕はドアを開けようとした。
「何してんだ、龍一!」
その怒声で僕の体は硬直する。
「やめて! お願いだから、やめて!」
ユーちゃんの声を無視して、ママは車を発進させた。
必死に車を追いかけてくるユーちゃん。でも車の速度には敵わない。
「いつまであんな奴を見ているんだ?」
「ご、ごめんなさい……」
徐々にユーちゃんの姿は遠くなり、やがて見えなくなった。