走っている間、僕はずっと泣きながらママに、箱から出すようにと何度もお願いした。ママは聞き耳ををまるで持ってくれない。
途中でダンボールからみゃうの手が突き出した。中で必死に箱を何度も引っ掻いていたのだろう。みゃうの爪は、僕の指先をかまわず引っ掻いた。
ママは車を一旦停め、一回り大きなダンボールに、みゃうの入った箱を入れる。またガムテープでグルグルに巻いた。
三十分ほど走って車は停まった。辺りは雑草が茂り、右手に川が見えた。ママは先に車から降りると、僕にも降りろと命令した。
僕は無言で首を横に振った。
烈火の如くママは怒り、僕からみゃうの入ったダンボールを取り上げる。
「ママー、やめてー!」
大声で叫びながら車を降りる僕。ママがこれから何をするのか、何となく想像ができた。
「ママー!」
僕の声など全然聞こえないように、ママは川のほうへ向かっていく。
僕は懸命に走った。ダンボールをつかむと、力一杯しがみついた。
「お客さんの品物に小便したんだ。だから、もう家じゃ飼えないんだよ。離しな」
「嫌だよー。みゃうを許してあげて」
「うるさい!」
顔を叩かれ、僕は地面に転がった。痛みは不思議と感じなかった。すぐに起き上がり、みゃうの元へ駆け寄った。
「いい加減にしなよ!」
ママはダンボールを地面に置き、僕を何度も叩いた。そんな状況でも、みゃうの入ったダンボールだけが気になった。
「みゃ、みゃうー……」
ママはみゃうの閉じ込められているダンボールを川に放り込んだ。
「みゃうーっ!」
いくら叫んでもみゃうの入った箱は戻らなかった。
僕はその場に呆然と立ち尽くし、箱が川に流されていく様子を見ていた。
車の中での光景が蘇る。
ダンボールから突き出したみゃうの手。僕に助けを必死に求めていたんだ。僕はみゃうがつけた指先の引っ掻き傷を見て、また泣いた。
僕は結局何もできなかった。
無力な存在である。
みゃうの入った箱は、どんどん流されていき、やがて見えなくなった。
「いつまでそうしているんだい?」
引きずられるようにして車内へ戻る。車が発進しても、僕は窓からみゃうの流された方向をずっと眺めていた。無邪気なみゃうの顔を思い出す。僕は思い切り泣いた。
家に帰っても、悔しさやせつなさ、悲しみ、様々な感情が僕を渦巻いた。
あの時、もっとこうしていれば……。
もう遅い。後悔してもしきれないでいた。いくら考えても、もう遅いんだ。
みゃうは、二度と戻ってこないのだから……。
夜になってから、あどけない表情のみゃうを思い出す。
自分的には非常に可愛がっていたのだ。楽しいみゃうとの思い出。
今日、僕は初めてのペットを不条理にも失ったのだ。
寝る時、僕は声を出さず静かに泣いた。
「おい、ちょっとあんまりじゃないのか?」
「ん、別に俺は何もしてないぜ?」
「妙にあの子へ酷い事が降り掛かるようしているじゃないか」
「それは大きな勘違いだ。人間ってのはああ見えてなかなか不思議な生き物でな。放っておいたって勝手に動き回る。俺が与えたのは最初のちょっとしたきっかけだけだ」
「壊れるぞ?」
「んー、そうでもないぜ。捨てる神いれば、拾う神ありと言うじゃないか」
「都合のいい事を」
「いいんだって、それで。俺はこんな性格だからある程度適当なほうが面白い」
「私には理解できんな」
「それでいいんだよ。俺とおまえは間逆だと何度も言っているし、それはお互い分かっている事じゃないか」
「うむ。それにしてもあの子を今後どうしたいというのだ?」
「どうしたいとかそういうのじゃないんだよな。本来持つ白い部分。それがどう変わるのか。負ければ黒になるし、負けなければさらに輝きを持つ白になるはず」
「だったらもうちょっと色々と……」
「いいか? おまえと俺は違うんだ。そりゃあすべて計算づくでおまえみたいにやったほうがいい場合だってある。その点で見れば、俺はかなりいい加減過ぎるしな。でもよ、そのアンバランスさがいい結果を生むケースだってある」
「それじゃギャンブルと同じじゃないか」
「そう言われればそうだな。ギャンブルと同じか。うまい事を言いやがるなあ」
「別に感心させる為にそんな事を言った訳ではない」
「結局おまさんさんだって、あの子の事が気になって仕方ないんじゃないか」
「ぐっ……」
「だが悪いけど、あの子は俺が最初に目をつけたんだ。おまえさんは別のを見つけろよ」
「だったらなおさら……」
「言うな。あの子の事はすべて俺が決める。おまえはおまえで面白いのを見つけろって」
僕の塾通いは変わらず続いていた。
それでも一つもやめたいとは思わなかった。あの恐ろしいママの顔を見る時間が、少し減るだけでもありがたかったのだ。
自分の感情を自由に表現する事さえ、ママは許してくれない。パパ以外の家族と仲良くしてもいけない。
毎日が嫌でたまらなかった。
僕はこのままだと、いつか殺されてしまうのかもしれない。
いつも何かに怯えている。
まぶたの傷が疼いた。
テストは常に百点をとらないといけない立場だった。だから勉強を必死にする。先生の授業など、分かりきった事しか言わないので、退屈な時間としかとらえられない。
僕が本来の僕でいられる時。それは一日の内で、ママのいない時だけなのだ。ママが怖くて仕方がない。
前に見た黒い涙。とてもママに似合っていた。
鬼という言葉は、ママの為にあるものなのだと思った。
きっと鬼の流す涙は黒いのだろう。
家に働きに来る従業員は僕を見かけると、みんな優しそうな笑顔で声を掛けてくれた。住み込みで働く大ちゃんやせっちゃんも親切に接してくれた。
「ぼっちゃん、お母さんは?」
「出掛けちゃって今はいないよ」
「そう……」
「うん」
「じゃあ、私とまたあの喫茶店でインベーダーでもしようか?」
「ほんと?」
「うん、今日お給料が入ったから、ぼっちゃんにまたピザトースト食べさせてあげる」
せっちゃんはそう言って、大きな口で微笑んだ。
「でも……」
前に怒られた事を思い出す。行きたいけど、また見つかったら……。
「お母さん、出掛けたのいつぐらいなの?」
「まだ一時間ぐらい前」
「じゃあ、ちょっとの時間だけなら大丈夫よ。ちょっと行って、すぐに帰ればさ」
「う~ん……」
「ピザトースト食べたくないの?」
「た、食べたい……」
ピザトースト…。あの味を思い出すと口に中によだれが溜まった。玄関まで来ると、弟の龍也が廊下に立ち、僕とせっちゃんを不思議そうに眺めていた。
「あら、次男ぼっちゃんがこっちを見ているわ。ひょっとして一緒に行きたいのかしら?」
次男ぼっちゃんという不思議な呼び方をしているのは、せっちゃんだけだった。普通に龍也って言えばいいのにと、聞くたびに僕は首を傾げてしまう。
「次男ぼっちゃんも一緒に行く?」
「うん」
龍也はせっちゃんにトコトコ近づいてくる。玄関を出ると、龍也はせっちゃんの背中に飛び乗った。まったく甘えん坊である。
「出発進行」
せっちゃんは陽気に元気良く号令を掛けた。
結局、この日だけは運よくママに見つからず済んだ。
こんな日がまたあったらいいなあ…。素直にそう感じる。
家の隣の食堂には、年上の兄妹がいた。
僕とは五歳離れた和史君と、二歳離れた良子ちゃんは、僕を非常に可愛がってくれた。いや、良子ちゃんはそうでもないか。学校が終わり塾に行く時間が空いている時は、いつも遊びに連れて行ってくれた。
近所のデパートへ遊びに行った時、僕はウンチをしたくて溜まらなくなった。トイレに飛び込むと大便用のドアにはすべて鍵が掛かっている。その場で足をバタバタさせながら足踏みしたが、十分経っても誰も出てこない。
「龍ちゃんまだー?」
和ちゃんがトイレに入ってきた。ウンチをしたと思われたくないし、僕は我慢して一緒にトイレを出る事にする。良子ちゃんは不機嫌そうに外で待っていた。
「龍ちゃん、遅いよー」
まったくいつもプリプリしやがって、こいつ……。
良子ちゃんは本当に変わった子だ。僕らがもっと小さい時の話だけど、うちのお風呂で一緒にお風呂に入っていたら、突然良子ちゃんは、僕と和ちゃんのチンチンを見て、「それ、なーに?」と不思議そうに聞いてくる。よく見ると、良子ちゃんにはチンチンがない。ビックリした僕は、「良子ちゃん、どこかにチンチン落としちゃったんじゃないの?」と言った。
「えっ! どうしよ? チンチン落としちゃった。チンチン落としちゃった……」
そう言いながら股間を両手で押さえ、風呂場を飛び出し家に帰ってしまった。あとで数ちゃんから聞いた話だけど、和ちゃんのママに良子ちゃんはずっと「チンチン落としちゃった」と連発で泣きながら言っていたそうだ。この件で女の子にはチンチンが全員ないと僕は知ったのだ。
「うるさいなぁ」
「二人ともやめなよ。あ、屋上のゲームセンター行こうよ」
「うん」
最年長の和ちゃんはいつもまとめてくれ、どこに行くかもすぐに決めてくれた。屋上へ行くと、それぞれ好きなものを勝手に眺めた。
僕は楽しんで眺めるどろこではなかった。ウンチを我慢するのも限界が近づいている。恥ずかしさから、またトイレに行くとも言えない。
そろそろ帰ろうかと、エレベーターの前で三人は待った。
結局我慢できず、その場で漏らしてしまった。半ズボンの中がこんもりなっている。
エレベーターに乗ると、あっという間に臭いが籠もりだす。自分でもそのうんちの臭いは強烈に感じた。和ちゃんは臭いで顔をしかめ、良子ちゃんだけは普通に平然と澄ましていたが、鼻だけはヒクヒクと動いていた。僕らだけしかエレベーターに乗っていない状況である。
普通に考えてもこの三人しかいないのだ。誰かが犯人になるのは目に見えていた。僕は自分でウンチを漏らしておきながら、絶対に知られたくないと思った。
「くせっ…、誰かうんちかオナラしたろ?」
和ちゃんがデパートの外に出た時、急にそう言い出した。僕の顔は真っ青になる。
「ぼ、僕じゃないよ……」
咄嗟に僕は嘘をついた。そうなると、疑われるのは良子ちゃんしかいなくなる。
「わ、私じゃないよ」
良子ちゃんも慌てて否定した。僕は、このまま良子ちゃんのせいにしてしまえばいいと名案を思いついた。
「和ちゃん。ウンチ漏らしたの、絶対に良子ちゃんだよ。良子ちゃん、臭いよ」
「私じゃない。私じゃない」
懸命に否定する良子ちゃん。当たり前の話である。ウンチをしたのは僕なのだから。
「お兄ちゃん、私じゃないよ。臭いのは龍ちゃんだよ」
良子ちゃんは僕を指差した。
「そんな事ないって! 良子ちゃんはいつもオナラの常習犯じゃんか」
「オナラなんか私はしないっ!」
「いつも頬っぺたをプクプク膨らませながら、ブッブッブーってオナラしてるじゃん」
「してないっ!」
お互いに譲らない僕と良子ちゃんは、取っ組み合いの喧嘩になった。
「やめなって。良子も龍一も…。そっか分かった。いい方法を思いついたぞ」
一番年長の和ちゃんは僕らを止め、原因を突き止めようとした。そんな余計な事なんて、しないでいいよ、和ちゃん! 心の中で必死に叫んだ。僕は絶対に知られたくない。懸命に言い訳をした。
「いい方法なんてある訳ないよ。だって良子ちゃんが漏らしたんだもん」
「私は漏らしてない」
良子ちゃんは涙目になっていた。
「二人とも黙って。誰が漏らしたか分かるいい方法があるんだ」
「どうするの?」
不思議そうな顔で良子ちゃんは、和ちゃんに聞く。
和ちゃんはニヤリと不適な笑みを浮かべながら言った。
「それはね、俺が一人一人お尻の臭いを嗅げばいいんだよ」
そんな事されたら一発で僕だとバレてしまう。必死になって抵抗した。
「や、やだよ。そんな事されるんの嫌だよ」
「おいおい、ちょっと。うちの店の前でそんな会話しないでくれよ」
ホットドック屋のおじさんが、僕たちを見て怒っていた。確かに商売の邪魔になるという以外、言いようがない。
僕はバレるのが嫌で、家に向かって一目散に逃げた。
ある日の夕方、一番下の弟である龍彦が、いつまで経っても泣き止まなかった。
いつものようにママはいない。途方にくれた僕は、おばあちゃんのところへ龍彦を連れて行った。
おばあちゃんが子守唄をしながら龍彦をあやすと、あっという間に眠りにつく。
ホッとした僕は部屋に戻り、龍也と一緒にテレビを見ていた。
「あ、ママ…。おかえりなさい」
「ただいま」
マズい…。龍彦はおばあちゃんの部屋で寝たままだ。
「あれ、龍彦はどうしたの?」
いつもいるはずの龍彦がいなければ、ママだってすぐに気づく。
「……」
「龍一、龍彦は?」
「……」
小刻みに震える体。僕の肩に手をかける龍也の手も震えていた。
「龍彦は?」
「……」
「もう一回だけ聞くよ? 龍彦は?」
「お…、おばあちゃんの部屋……」
それを聞くと、ママは血相を変え、部屋から出て行った。
「お兄ちゃん……」
龍也が心配そうな表情で声を掛けてくる。
「シッ! 静かにしてろよ」
僕だって何もできやしない。今、できる事…。それは出来る限り、ママの逆鱗に触れない事である。
弟と二人しかいないはずの部屋で、僕らは何故か正座をして姿勢正しくしていた。
「龍也、テレビ消して」
「え、何で?」
「お願いだから!」
ふてくされ気味の龍也。理不尽かもしれないけど、少しでもママの怒りそうな要因を減らしておきたかった。
シーンと静まり返った室内。映画館から流れてくる音楽と、道路を走る車の音だけが聞こえる。
「……!」
それ以外の音…、いや、声が聞こえたような気がした。慌てて僕は部屋を出て、ベランダのほうへ向かう。妙な胸騒ぎがしたのだ。
おばあちゃんたちの部屋は、段差違いの二階。何度も増築を重ねた僕の家は、他の家と少し変わった造りになっていた。四段ほどの鉄筋階段を渡ればベランダ。扉を開ければおばあちゃんたちの部屋になっている。
「あぁー……」
鬼のような形相のママ。まずはママが視界に映り、そのあとでゆっくりと右手を見た。
ママの右手には、まだ幼い龍彦の足首が握られていた。信じられない行為に、思わず口を開く。
「や、やめてっ!」
下がザラザラしたコンクリートの上をママは、龍彦の足首を持ち、引きずりながら歩いていたのだ。弟の龍彦は強引に引きずられ、ただ泣くしかない。
「どきなよ、龍一」
僕の抵抗など、ママの前では何の役にも立たない。この間のみゃうの件で、嫌ってほど分かっているつもり。それでも僕は、懸命に龍彦を助けようと向かう。
何度も殴られ、コンクリートの上に転ぶ。どうなっても構わなかった。この騒ぎを聞きつければ、おじいちゃんたちが助けに来てくれる。そんな確信があった。
「おいっ! 何やってんだ!」
悪鬼羅刹と化したママに向かって、おじいちゃんが血相を変えて駆けつける。家で働く従業員たちも大勢ベランダに駆けつけ、ただでさえ狭いベランダは、大人数でいっぱいになる。
僕は龍彦と龍也の手を引き、二階のキッチンの片隅でその状況を震えながら眺めていた。
この日を境に、龍彦だけはおばあちゃんたちの部屋で寝る事になった。もう龍彦があのような目に遭う事はないという安堵感。だけど逆に一人安全で楽しい場所へ行けた龍彦を恨めしくも感じた。
この当時、めんこが大ブームになった。
形状として丸いタイプのものと、四角いタイプのものがあった。僕らは丸いタイプのめんこをまるめんと呼び、公園のできるだけ平らな岩を見つけて遊んだ。
このまるめんと呼ばれためんこは、買う値段によって大きさが違った。主流となったのは五円めんと十円めんだった。手頃な値段で買え、大きさも直径五センチから十センチで持ちやすいのが特徴だ。
丸い厚紙の上に書かれたアニメや有名人のキャラクター。みんな、好きなものを十枚は持っていた。
各自、平らな岩の上にめんこを置き、めんこは始まる。勝負方法はいたって単純で、順番のきた人がめんこを叩きつけ、他のめんこが岩から落ちたり、ひっくり返ったり、めんこの下に自分をめんこを少しでも潜り込ませれば勝ちになった。
遊びとはいっても、負けたほうは自分の宝物同然のめんこを相手にとられるのである。大事なものの奪い合いは、子供たちを真剣にさせた。
早めに家を出て、塾に行く前に僕はよく参加した。
センスがあったのか、めんこの数はどんどん増えていった。日曜日の昼間などは、弟の龍也を連れ、公園に向かった。
その内、代えめん有りと呼ばれる変則ルールが流行りだした。
自分がめんこを置く時、とられてもいいやつに変えてもよいというルールだった。
逆にこれは、真剣勝負の醍醐味を半減させた。中にはろうめんと言われた直径二センチ程度の小さなめんこがあり、それをかえめんに使う者まで出没した。
ろうめんは十枚ほどの小さなめんこがロウで簡単に固められて売られており、二十円ぐらいで購入できた。
気付けば、めんこブームはあっという間に過ぎ去り、僕の家には紙袋いっぱいに入っためんこが埃をかぶっていた。
近くの駐車場でスーパーカーの展示会があった。
僕は隣の食堂の和ちゃんに連れられ、会場に行った。チンチンのない良子ちゃんは、車に興味がないのかプクッとむくれて「私は行かないから」と素っ気なかった。
以前消しゴムのスーパーカーのガチャガチャをやり、カウンタックやフェラーリ、ランボルギーニミウラなどを僕は何個か持っていた。
会場に着くと、僕は圧倒された。消しゴムでしか見た事がないスーパーカーが、目の前にたくさんあったのだから。赤いカウンタック。青のフェラーリ。黄色のランボルギーニミウラ。派手な外観の名前も分からない車。
今、思えば、三十台も停められない普通の駐車場に、そのような展示会があったのだ。非常に豊かな時代だったといえよう。その記憶は今でも薄っすらと脳裏に焼きついている。幼き頃の良き思い出の一つであった。
僕は興奮して鼻をふくらませながら、会場を走り回る。名前の知らない車も多数あった。車のドアが上向きに開く、ガルウイング型のカウンタックが一番のお気に入りだった。他の車と違い、平らにつぶれているように見える低い車高。フェラーリにしても、外観は非常に特徴的だった。誰もがひと目で見て分かる外観を持つのが、スーパーカーなのだと思った。
一人ではしゃいでいた僕は、連れてきた和ちゃんの存在を思い出し、辺りを見回した。会場の中は多くの人で賑わい、子供だけでなく大人もたくさんいる。僕は人を押しのけながら必死に探した。
遠くのほうで、見た事のないような車の前に和ちゃんはいた。僕が近づいても、和ちゃんはその車をジッと眺めている。
「これって何の車なの?」
「ランボルギーニイオタって車だよ」
「へー、イオタ」
「そう、イオタ」
「ミウラの仲間かな」
「よく分からないけど、多分そうだよ」
「カウンタックは?」
「あれは違うんじゃないの」
「ふーん」
スーパーカーに対する知識など、ほとんど持っていない僕たちは適当な事を言っていた。でも、見ているだけで楽しかった。どの車も格好良かった。
その展示会を見てから、僕はインベーダーを我慢して、ガチャガチャに小遣いを使った。十円玉を二枚重ねて、投入口に入れる。レバーを右方向に一回転ひねると、うずらの卵をちょっと大きくしたぐらいのカプセルが出てくる。中にはスーパーカーの消しゴムが一つ入っていた。
僕は和ちゃんがお気に入りのランボルギーニイオタが当たるまで、インベーダーを我慢してやり続けた。
「ああやっていると、ごく普通の子供だね」
「そりゃそうさ。人間だもん」
「今のところ、君の思惑通りって感じかい?」
「う~ん、俺には分からねえ。ただ人間にはそれぞれ転換期ってもんがある」
「例えば?」
「普通に何事もなく生活しているところに、違う事が起きる事かな。あくまそれはでも一つの言い方に過ぎないが」
「あの子で言うと?」
「分かり易い言い方で言えば、虐待だな。他に言えば、親しい人間との死別とか」
「おい、ひょっとして君は……」
「勘違いするなって。俺らは人間の命まで干渉などしないだろうが。そんな罰当たりな事を平気でするのは死神連中ぐらいだろ」
「それはそうだな」
「まあ適度に試練というものは与えるつもりさ」
「どんな?」
「それはその時の気分で決めるさ」
「いい加減だな」
「そんなの昔っから分かってるだろうが」
「それはそうだが」
「まあ一つ言える事は、どんな形になっても生き抜くという事かな」
「生きてさえいればいいと?」
「ああ、それでいい。ああ見えて、人間ってもんは色々考える生き物だ。自分に降り掛かってくる現実を恨み、誰かのせいにしたっていい」
「それで本当にいいのか?」
「俺は少なくてもそれでいいと思う」
「それでは世の中おかしくなるぞ?」
「現におかしくなってきているじゃねえかよ」
「それに君が加担してどうする?」
「加担するつもりなど毛頭ないさ。生きていれば人間は学ぶ」
「うむ……」
「おまえさんみたいに、完璧主義のものを作り上げるのもいいと思うよ」
「別に完璧って訳じゃ……」
「では言い方を代えよう。俺は文系、おまえさんは理系って感じかな」
「何だ、それは?」
「数字は理詰めだろ? 数式ってもんがあって、それに向かって原因を追究し解明する」
「そんな感じかな」
「逆に言葉ってもんは様々な形に変化する。たった一つの事が大きく広がりもするし、多くのものが逆に狭まる事だってある」
「キッチリしたほうが気持ちいいだろう」
「それはおまえさんが理系人間だからだよ」
「よく分からんな」
「分からないからこそ、面白いんだよ」
小学校二年生の二月になった。
寒さを振り切るように、僕は学校の帰り道を走っていた。横には人形屋の純治も一緒に走っている。基本的にこの二人で行動を共にする事が多く、帰りはほとんど一緒に帰っていた。
「うー、寒い」
「ブー」
「龍ちゃんは、今日も帰ったら塾なの?」
「うん」
「たまには一緒に遊びたいなあ」
「無理だよ。塾に行かないとママに怒られちゃうもん」
「え、龍ちゃんのお母さんって優しそうじゃん。たまに怒ったりするの?」
僕はちゃんと答えていいか、困ってしまった。純治君はママの本来の顔を知らずにいるのだ。わざわざ言う必要もないだろうと判断した。
「い、いつも優しくても、塾をサボったら怒られるよ」
「そりゃそうだね」
家の近くの十字路まで来て、お互いはそれぞれの方向に行く。純治君の後姿を見ながら、今日は何の塾だったか思い出す。今日は勉強塾だけだ。今、帰っても行くまでに二時間はある。そう思った僕は大声で叫んだ。
「純治くーん」
声に反応して立ち止まる純治君。
「やっぱり今日、ちょっとだけなら遊べるようー」
そう言いながら、僕は走り出した。
「ほんとー。じゃあ、うちにおいでよ。お母さんもきっと喜ぶよ」
「うん」
久しぶりに人形屋を営む純治君の家へお邪魔した。純治君のお母さんは、笑顔で僕を出迎えてくれた。
「あらー、龍ちゃん。ほんとに久しぶりねー。成績がいいんでしょ? うちの純治から、いつも聞いてるわよ」
「い、いえ」
照れ臭そうに笑うしか、対応のしようがなかった。もちろん誉められて悪い気はせず、僕は嬉しかった。お邪魔したのは一時間ぐらいだったが、ジュースとお茶菓子を出してもらい、丁重に扱ってもらえた。
学校での些細な事をお互いに話してたくさん笑った。友達と遊ぶのは楽しい。そんな当たり前の事に、僕は感動を覚えた。
純治君と別れを済ませ、家に戻る。
ママに遊んだの、バレないかな…。ドキドキしながら玄関のドアを開けた。
「チクショー!」
物凄い高音のママの声が響いてくる。僕はランドセルを背負ったまま、玄関先で立ち尽くした。
一体、何が起こっているのだろう。不安が心に覆いかぶさる。
「落ち着きなさい」
「うるせえ、チクショー!」
声は居間の方向から聞こえてくる。声以外にも壁へ誰かのぶつかる音もした。家の中の暖房が少し暑く感じ、ランドセルとジャンバーを床に置く。
「落ち着けって」
従業員のおじさんの声が聞こえてくる。
「離しやがれ!」
ママが怒り狂っている。僕は直感的に理解し、体が震えた。
二階の部屋に行くべきか。でも部屋にママが来たらどうしよう。
色々考えを巡らせたが、玄関先でそのまま固まっていた。
「いい加減にしろ」
「うるせえ!」
居間の扉が勢いよく開き、廊下にママの姿が半分だけ見えた。見た瞬間、僕の震えはさらに大きくなる。
従業員のおじさんがママの両肩を抑えていた。周りにはおじいちゃんを始め、せっちゃんや大ちゃんも心配そうに眺めている。
「いいから落ち着きなさい」
「うるせえ、離しやがれ!」
「ほら、子供だって見ているだろ」
その言葉にママは僕の方向へ振り返った。顔を見て、僕はギョッとなる。以前見た、鬼の表情になっていた。川に投げ捨てられた猫のみゃうの時を思い出す。まぶたの傷が痛み、小刻みに痙攣していた。
「……」
僕は声も出せず、ただ立ちすくんでいた。ママは僕と目が合うと近づいてきた。ママの目は黒い涙が流れていた。鬼が黒い涙を流している。
「龍一、私はね……」
そう言いながらママは僕の両肩をつかむ。爪が肩に食い込む。鋭い痛みが走った。ママのおばあちゃんが手首をつかまれ、血を流した時の事を思い出す。
「い、痛いよ……」
「私はね、こういう風にされたんだよ。分かるかい? こんな風に…。こんな風に両肩を強くつかまれたんだよ!」
怖さと痛みで僕は泣き出した。
「ママ、痛い……」
「私はね、こんな風にされたんだよ。分かるかい?」
「ママ、痛い…。痛いよー!」
爪はどんどん肩に食い込んでいくような感じがする。僕は必死になって痛みを訴えた。
「何やってんだ。離しなさい。子供相手にやめなさい」
「馬鹿野郎、何をしてんだ!」
「奥さん、お願いだから落ち着いて……」
「いい加減にしろよ!」
色々な人の声が聞こえた。涙で曇った僕の視界には、どのような状況になっているのか分からないでいる。
「関係ねえだろ。離せ、離しやがれ!」
肩をつかんでいた両手が離れる。それでも痛みは残ったままだった。涙が止まらずにあふれ出た。誰かに抱きかかえられる感覚を覚え、僕の体は宙に浮いた。
「大丈夫だったか。可哀相に…、可哀相に……」
おじいちゃんの声だった。僕は手で涙をぬぐう。ぼんやりとおじいちゃんの顔が見える。そして僕の両肩からは、血が流れていた。
「龍一、大丈夫かい?」
おじいちゃんは泣きながら、僕に微笑みかけていた。
「うん……」
僕が返事をすると、おじいちゃんは顔をくちゃくちゃにして泣いた。
「こ…、こっちにおいで……」
抱いたまま、僕は居間に通された。おばあちゃんやおばさんが泣きながら僕を見つめていた。お手伝いのせっちゃんの顔も泣いていた。
「チキショー!」
玄関でママの声が聞こえる。おじいちゃんは僕を降ろして、居間を出た。ドアを何度も叩きつける音がした。僕のまぶたの傷が疼きだした。
「何してんだ。やめなさい!」
「チキショー、チキショー、チキショー!」
声と同時にドアを叩きつける音がする。僕は恐る恐る覗き込んだ。
「チキショー、チキショー、チキショー!」
ママは玄関のドアを何度も開けて叩きつけていた。叩きつける度、ドアの横の頑丈な曇りガラスに、ヒビが入るのが見えた。それでも構わずママは同じように叩きつけている。
「やめろ!」
みんな、言うだけで、その剣幕に圧倒されていた。誰もママには近寄れない。
異様で恐ろしい光景だった。
外に出て、ドアを何度も叩きつけるママ。ドアの隙間から見えるママの表情は、もはや人間に見えなかった。僕はいつの間にか廊下に出て、母親の姿をジッと眺めていた。まぶたはピクピクと細かく痙攣している。
「チキショー!」
その言葉以外の日本語を忘れたかのように、ママは錯乱していた。瞬間的に視線が合った気がした。その時、他の人の体が視界を遮り、僕の目には横のガラスだけが映った。
ドアを叩きつける度に、ガラスにヒビが入っていく。
その様子を僕は、ずっと息をひそめて見つめていた。
ヒステリック…。または、ヒステリー…。こういう人間をそう呼ぶのだろうな。
この日は塾を休み、弟たちと一緒に部屋にいた。
ママはあれから外に飛び出したっきり、家に帰ってきていない。まだ肩がズキズキと痛みを発していた。
塾にも行かず、弟らと呑気にテレビを見るなど、本当に久しぶりだった。弟は仮面ライダーを見て、興奮して体を動かしている。
「お兄ちゃん、ジャッチーチュンと仮面ライダーどっちが強いのかな?」
先ほどの光景を知らない龍也は無邪気に質問をしてくる。弟の言い方がおかしくて、笑いそうになった。おかげで少し気分も紛れたようだ。
「ジャッチーチュンじゃなくて、ジャッキーチェンだよ。うーん、どっちかな」
「どっちだろうね」
「分かんないな」
「龍彦はどっち?」
よちよち歩きの龍彦にも龍也は聞いていた。何を言っているのか意味も分からず、龍彦はニコニコしている。
さっきのが僕じゃなくて弟たちだったら…。想像すると体が震えた。
夕方になってパパが部屋に帰ってくる。おじいちゃんから様子を聞いたのか、僕の肩を真っ先に見た。真剣な眼差しで僕の両肩を見るパパの目は鋭い。僕の顔を見ると、笑顔で頭を撫でてくれた。
久しぶりに家族全員、一階の居間で食事をした。珍しくパパまで食卓にいた。当たり前だけど、その場にママだけがいなかった。
おばあちゃんは頑張って、豪華な料理を色々と作ってくれた。胃袋が満足するまで腹に詰め込んだ。
誰も先ほどの話題には触れなかった。みんな無理に明るく振舞おうとしているのが、僕でも理解できた。
強くなりたい…。勉強だけできても、何の役にも立たないんだ。
頭の中で、ジャッキーチェンと自分を重ね合わせようとしたが、どう頑張っても無理だった。
二段ベッドの上で寝ていると、自然と目が覚めた。
電気を消して真っ暗なはずの部屋が薄明るくなっている。左を向くと、パパは布団でいびきを掻いて寝ていた。
ふと右側に人の気配を感じる。
ゆっくり振り向くと、ママがベッドに向かって立っていた。ベッドの横の柵の間から見えるママの表情は、穏やかでとても優しそうに微笑んでいた。こんな表情のママを見たのは久しぶりだ。
僕と目が合うと、ニコリと微笑んでくれる。僕も見ていて自然と笑顔になった。不思議と恐怖は感じない。
額に手がそっと置かれる。ママの手だった。気のせいか、小刻みに震えているように思えた。徐々に手は額から目を覆っていく。僕は視界を塞がれた状態になった。何だか昔の優しいママに戻ったみたいだ。
目を閉じると、再び睡魔が襲い掛かり、僕はそのまま寝てしまった。
「あー…。あー……」
泣き声で、僕は再び目覚めた。上半身を起こし、辺りを伺う。龍彦の鳴き声が聞こえてくるだけだった。僕はベッドの二階から降りる。
まだ寝ている龍也の横で、龍彦は大泣きしていた。パパは相変わらず、いびきを掻いて寝ている。僕は龍彦を抱っこして、懸命にあやした。
すぐに龍彦は泣き止んでくれる。
僕の顔を見てニコニコしている。まったく無邪気なものだ。
時計を見ると、朝の七時だった。
何故かいつもと部屋の中の空気が違うように感じる。
特にどこも変わった事はない。
でも、何かしらの違和感がある肌で分かった。
昨日の夜中の事は僕の夢だったのだろうか。
思い出すと、不思議な光景だった。
そういえばママがいない。
これまでもママのいない朝は何度かあった。
でも、僕には何となく肌で感じた。
もうここへ、ママは二度と戻ってこないのだと……。
七時半になると人形屋の純治君のお母さんが、何故か部屋にやってきた。僕や龍也の顔を見ると下をうつむき、静かに泣き出した。
「龍ちゃん…。可哀相にね…。可哀相にね……」
何で純治君のお母さんが泣くのか、僕にはまるで理解できなかった。何が可哀相なのだろうか。
「おはようございます」
「おはよう…。おばさんが今、ご飯作ってあげるからね……」
そう言うと、純治君のお母さんはバターロールをオーブントースターに入れて、キッチンに立った。
僕は黙ってその光景を見つめるだけ。横で幼稚園の龍也も、不思議そうに眺めていた。
ジュージューとフライパンの音を立てながら、純治君のお母さんは時折涙を拭う。綺麗なお母さんなのに、顔がグシュグシュになっている。おいしそうなハムエッグに野菜を盛り付けて、そのお皿はテーブルの上に置かれた。
「バター塗って上げようか?」
「うん」
純治君のお母さんはとても親切に接してくれる。とても優しかった。丁寧にバターロールへバターをぬり、龍也や僕に手渡す。食べている僕を純治君のお母さんは笑顔で見つめていた。
当たり前だがこの日からママが、家に戻ってくる事は二度となかった。
でも、寂しさを感じた事はない。
ママのいない生活を僕は自然と受け止めている。
どこかでホッと胸を撫で下ろしている自分がいた。
もう殺される事はないのだから……。
ママが家を出て行ってから、僕の生活はかなり変化した。
最大の変化は習い事を七つもしていたのに、ピアノ以外の塾はすべて行かなくてもいいようになった。ピアノは僕が先生に会えなくなるのが嫌で、自分から続けたいとお願いした。
次に変わった事といえば僕たち三兄弟は誰にも気にせず、笑えるようになったという事だろう。好きな時自由に笑ってもいいのだ。それで誰かに怒られる事はない。笑えるという行為に、僕は自由を感じた。
ご飯もみんなで食べられるようになった。僕はいつも必死にあせって食べた。
「ほら、龍ちゃん。ゆっくり噛んで食べなさい」
おばあちゃんにそう言われても、好きなだけ食べられるという環境がすぐには信じられなかった。目を閉じた瞬間に、目の前のご馳走がなくなるかもしれない。そんな変な想像ばかりしていた。
こんなに自由でいいのだろうか。僕は急に訪れた自由に一抹の不安を感じる。
目の前で次々と実現する光景が、どこか夢の世界のように感じた。
学校が終っても、友達と好きに遊んでいい。
がま口の財布を持たされ、初めて一人で買い物にも行かされるようにもなった。
家の床を毎日掃除するようになった。
やる事、すべてが新鮮に映る。
ある日、パパがどこからか猫をもらってきた。みゃうと同じ三毛猫だった。まだその猫は生まれたてで、とても小さかった。
僕はその猫に『ちゃけ』と名づけた。ちゃけはあどけない表情でいつもボーっとしていた。
みゃうが生きていたら、もし、ここにいたら…。そう思うと悲しくなった。僕はちゃけに、みゃうの姿を重ね合わせている。
不思議と、誰もママがいなくなった事には触れなかった。
学校でもそうだった。
自然と友達も増えたような気がする。
学校の先生も、ママの事を何も言ってこなかった。
一つだけ気に掛かる事があった。
ママのお姉さんの子供。洋子ちゃんの事だった。
彼女とはクラスは違っても、同じ小学校に通っていた。たまたま廊下で会うといつも笑顔で話をしていたのに、ママが出て行ってからは僕と会うと睨みつけるようになった。
そんな事から会話もしなくなった。そのせいか近所に住むママのおばあちゃん家も、陽子ちゃんと顔を合わせたくない為に自然と行かなくなったような気がする。
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