今、私たちは、歌舞伎町一番街にあるとんかつ屋で食事中である。
私がヒレカツ定食を、勝男はメンチカツ定食を食べているところだ。どうせこやつの奢りなので、高いヒレカツにしてやった。
カツに掛けるものといったら、通常はソースである。中には大根おろしを乗せ、ポン酢を掛ける和風のメニューまであるが、私はあえて否定しない。別にカツの上に、醤油を掛けたければ、勝手に掛ければいいのである。好みは人それぞれだ。
必然的に、前の女を思い出す。
あやつはいつだって身勝手だった。人の食べるものまでソースがいいと言うのに、醤油をぶっ掛けようとする。ちょっとこちらが下手に出れば、図に乗りおってからに…。
別に私は醤油が嫌いという訳ではない。刺身の時は醤油を使うし、焼き魚の時だって、冷奴の時だって醤油を使う。食べ物によって調味料は使い分けているのである。
「なあ、勝男。おまえ、目玉焼き食う時さ、何を掛ける?」
「しょ、醤油かな」
「俺はソースを掛けるんだ。それっておかしいか?」
「う、ううん、ぜ、全然おかしくないよ」
「だろ?おかしくないんだよな」
やはり前の女がおかしいのである。あんな奴はイトーヨーカドウで、私に膝蹴りをお見舞いされて当然なのだ。
ん、いい句を思いついたぞ!
『別れ際 膝蹴り一発 職場かな』
うん、我ながら惚れ惚れするような俳句である。何、季語が入っていないって?
そんなものはどうだっていいのだよ。どうだってね。問題は季語なんかより、魂がそこに宿っているかなのだ。
「よ、よっ君、さ、さっきから一人で何をブツブツ言っているの?」
勝男が不思議そうな顔をしていた。
「いやね、いい句を思いついたなあとね」
「へ、へえ、ど、どんな句?く、句って俳句の事でしょ?」
「ああ、五七五ってやつだよ」
「ど、どんなの?」
「うむ、ではせっかくだから聞かせて進ぜよう…。『別れ際 膝蹴り一発 職場かな』……」
「ん…、ちょ、ちょっとさ、お、おかしくないかい?」
「何で?」
「だ、だってさ、わ、別れ際で五、ひ、膝蹴り一発で八?しょ、職場かなで六?」
まったく無粋な男である。人が気持ちの良い余韻に浸っているというのに……。
「あのな、そういうのを字余りって言うんだよ」
「そ、それに季語も入っていないし……」
「おまえな、そういうのを有季派って言うんだよ。季語絶対派ってやつね。俺が唄うのは、旧来のものを打破する無季派と言うのだよ。中には絶対俳句には季語を入れなきゃ駄目だって言う人間もいるけどさ、元々は詩的機能を引き出す為に使うのが季語であり、あえて句の自由を奪うものではないのだよ。分かるかね、ワトソン君……」
「べ、別に僕はワトソンじゃないよ」
「だったら無粋な事を抜かすものではないのだよ」
「あ、あまりにも、よ、よっ君が詳しいから、ぼ、僕、ビ、ビックリしちゃったよ」
「ふふん、こう見えて、俺は昔、神童と呼ばれた男だからな」
「え、ちゅ、中学時代のよっ君に、そ、そんな仇名なんてあったっけ?」
「いいんだよ、昔の事は。そんな事よりさ、仕事の件で話があったんだよ」
「し、仕事って?」
そう、私は履歴書を持って、職を探しに新宿へやってきたのだ。本来の目的を忘れてはいかん。まず、勝男が今、どんな仕事をしているのか……。
いや、それよりも、月にいくらぐらい稼いでいるのかを聞き出さなくては……。
私は残っていたヒレカツを口に放り、水を流し込みながらグチャグチャと音を立てた。
残金九千円……。
これが私の持つ全財産である。
三十二歳にもなって、何故、九千円しか持っていないのか?
そりゃあ、あんた、ほとんど真面目に働いてこなかったからに、決まっているではないか。
何、みっともない?
ふん、大きなお世話である。泣きたい時に泣き、怒りたい時に怒る。笑いたい時に笑い、喜びたい時は喜ぶ。ムカついたら膝蹴り一閃。これでほとんど解決しちゃうのよ。
いかんいかん、どうも私は考えていると、ついつい脱線してしまうなぁ……。
「そういえば勝男、おまえ今、月でいくらぐらい稼いでいるの?」
「う、う~ん、つ、月ね~…。ま、毎日のように日払いで給料もらえているからな~」
「悪かった、質問の仕方が違った。日払いで、いくらもらってるの?」
こういう馬鹿には、単純な聞き方のほうがいい時だってある。シンプルイズベストだ。
「い、一万六千円かな…。あ、ま、毎日それ以外に食事代で千円。あ、あとは月末に手当てでプラス三万だね」
「休みは?」
「しゅ、週に一回はもらっているよ」
勝男の給料を計算してみる。月に二十五日働いたとしてみて、一万六千円×二十五で、四十万円。飯代だけで二万五千円。さらに何の手当てだけ知らんが、プラスで三万円までもらっているのか……。
月にして約四十五万円も稼いでいるのか、こやつは……。
「勝男、一体、何の仕事をしているんだ?」
「ゲ、ゲーム屋っていってね、い、一応裏稼業の賭博だよね」
怪しげな香りがプンプンしてくる。こんな男でさえ月に四十五万をもらっているのだ。もし私が働いたら、いくらもらえるというのか。きっとそんなもんじゃ済まないはずだ。
「なあ、俺もそこで働けないか?」
「え、ど、どうしたの、きゅ、急に……」
「今、仕事してないからさ、何かないかなと思っていたところなんだよ」
「う、う~ん…。う、うちは人数一杯だからなぁ~」
「何かないかね?」
こんな大物を放っておくだなんて、日本はかなり損をしているのだぞ。この際、誰か従業員を削ってでも、私を入れればいいのだ。
「い、今はね~……」
「誰かクビにしちゃえばいいじゃないのさ」
「そ、そんな訳にはいかないよ」
「じゃあ私は一体、どうなるんだい?」
「ど、どうなるんだいなんて言われてもさ……」
「同級生じゃないのか?何とかしてくれよ」
「で、でも……」
「今さ、かなり金がないんだよ」
「で、でもさっき、お、女の子指名してカーテンの奥へ行くお金があった訳でしょ?」
「あれは男なら仕方のない事じゃないか。結局、私は何もしないで三千円もむしり取られたんだぜ?」
「わ、分かったよ…。う、上の人にちょっと聞いてみるよ」
「そう来なくっちゃ、マイフレンド」
金をここで一気に稼ぎ、前の彼女の前へ颯爽と現れる。「まあ何も言わず取っておきな」と格好いい台詞なんか言っちゃったりしてね……。
あやつとは、あのまま中途半端な状態で別れてはいけない。キチンとお互いが納得した上なら問題ないのだけれどね。ここは一つ、本腰を入れて仕事を頑張ってみっか。
勝男は何人かへ電話をしていたが、いきなり言われても、すぐ仕事はないようである。
「だ、駄目だなぁ。きゅ、急過ぎて仕事の空きがないよ」
「おいおい、それはないだろうが、勝男ちゃんよぉ~」
「だ、だって今日会うの、べ、別に仕事の話だなんて言ってなかったじゃないか」
「いや、俺は電話で言ったはずだぞ」
「き、聞いてないよ」
「まあ、言った言わないで揉めてもしょうがない。問題は、いつぐらいに俺の仕事が見つかるのかってところだ」
「ゆ、夕刊紙とか見れば、い、色々な仕事の求人載ってるはずだよ」
ぬ、こやつめ。自分自身で探しやがれとでも言っているのだろうか。
「そりゃないだろうが、勝男」
「だ、だって、も、もしうちの系列店当たっても空きがなければ、ち、力になれないしさ。あ、ある程度は自分でも探しておいたほうがいいよ。も、もちろん僕からも知り合いの店に当たってはみるけどさ……」
「あ、ああ……」
仕方ない。今日のところは黙って引き返す事にしておくか。
「じゃ、じゃあ、な、何かあったら今日の夜にでも電話入れるよ」
ひょっとしてこやつ、うまく言い訳をしながら逃げるつもりかもしれないな。一つここは、釘を刺しておいたほうがいいかもな。
「いや、何かなくても、とりあえずは電話くれよ」
「わ、分かったよ。じゃ、じゃあ、ぼ、僕はそろそろ行くからさ……」
あ、こやつめ。私と一緒にいるのが嫌なのか?
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
ちょうどいい秘策を思いついた。
「え、な、何か?」
「ちょっとでいいからさ、金を貸してくれないかね?」
「えー…。で、でもさ、しょ、正直よっ君とは会うの、し、しばらくぶりでしょ。わ、悪いけどさ……」
「頼むよ。今、俺さ、九千円しか持っていないんだよ」
ここで無理やりでも借りておけば、勝男だって真剣に私の仕事先を探さなくてはいけなくなるはずだ。
「で、でも……」
「頼むよ!同級生じゃないか。それとも俺が信用できないとか言うんじゃないだろうね?」
「そ、それは信用してるけどさ……」
「じゃあ貸してくれよ、二万」
「え~、に、二万も?」
「月に五十近く稼いでいる人間が、けち臭い事抜かすなよ。働き出したら、すぐに返すからさ。いいじゃんいいじゃんよ~。な、勝男?」
「ほ、本当だね?」
「昔からの友達を騙す訳ねえじゃんよ。疑り深い奴だな~」
「じゃ、じゃあ、こ、これ二万円ね…」
私は二枚の諭吉をひったくるようにして財布に納めた。
「毎度あり~」
「え、ちょ、ちょっと毎度あり~なんて、べ、別にあげた訳じゃないからね」
「そんなもん分かってるってばよ。あんま人を疑りなさんなって」
しばらく放っておけば、こやつも忘れてしまうだろう。
「じゃ、じゃあ、きょ、今日仕事に行って聞いてみるから、あ、空いた時間みて電話するよ。そ、それでいいかな?」
「あいよ。ではそろそろ俺は帰るよ、またな」
金さえ借りちゃえば、あとは仕事の件ぐらいだ。こやつの利用価値など…。
これで数日後には私も、月収四十五万男になれるのである、うしし……。
あれ以来、勝男から連絡はない。
あやつと会ってから一週間は経つ。それでも電話一本もないのである。
おかしい……。
おかし過ぎる……。
電話代がもったいないが、私から掛けてみるか。このままでは埒が明かない。
「お客さまからの通話は、通話ができなくなっております」
無機質な音声ガイダンスが、無情にも私の耳に聞こえてくる。一体、どういう事だ?
私が勝男の電話番号を掛け間違えたのかもしれない。もう一度トライだ。
「お客さまからの通話は、通話ができなくなっております」
「グッ……」
あやつめ、この私をひょっとして着信拒否でもしているのか。あれほど仕事を斡旋すると男と男の約束をしていたのに、何という野郎だ。
ここ一週間、ロクなものを食べていない。毎日カップラーメン二つだけの質素な食事。こんなひもじい思いをしながらも何とか堪えてこられたのは、月収四十五万男になれる仕事がすぐ見つかると思ったからだ。
それをあの男め……。
許しがたい行為をしてくれおってからに……。
今すぐ歌舞伎町へ行き、あやつへこの黄金の膝をぶち込みたい衝動に駆られる。しかし、財布の中身はかなり寂しいものがあった。行き帰りの電車賃ぐらいしかないのである。
え、何故、勝男の奴から二万円借りたのに、それしか金がないのかって?
まったく野暮な事を聞く御仁だのう……。
まあ、今回ぐらいは一週間前を振り返ってみるか。
あれから家に帰る途中、パチンコ屋の元気のいい軍艦マーチの曲が聞こえてきたのだ。滅多にギャンブルなどやらない私だが、その時は、「ここで勝っちゃえば、勝男にすぐ金を返せるじゃないか」と考えたのである。
借りた軍資金二万円を手に勝負したが、あっけなく負けてしまったのだ。ついでに財布の中にあった九千円の内、七千円まで使い込んでしまったのだ。
あやつが素直に金を貸したりするから、こういう風な事になるのである。イライラしていた私は、勝男に電話をした。
「悪いけど、パチンコで負けちゃったから、もう三万貸してくれ」と正直にお願いしたのだ。それをあのクソ野郎……。
「も、もう駄目だよ。お、お金は貸せないよ」と、冷たく電話を切りやがった。あんな白状者だとは微塵にも感じなかったわ。四十五万も稼いでいるんだから、その内の三万なんていったら、十五分の一じゃないか。そんな金すら貸せないなんて、あやつ、絶対に風俗嬢かキャバ嬢に貢いでやがるんだな。
せめて早く私に仕事を斡旋しろと思ったが、着信拒否にまでされていたとは……。
もう二万円など返してやるものかってんだ。
だいたい勝男の奴が、あの街のどの店で働いているのかすら私は知らない。あやつを知る手掛かりとして、あの裸でエプロンの店しかないのだ。あそこはさすがにもう行けない。いくら店の女が悪いとはいえ、こちらから手を出してしまったので、法律的には私が悪くなってしまう。
またあの街へ行く事があって、勝男にバッタリ出くわしたら膝をお見舞いしてやろう。
何故、この世の中、こんなにも膝蹴りを浴びせたい連中が多いのだろうか。
とにかく今は、この惨めな現状を打破しなければならない。
特にする事のない私は、自然とイトーヨーカドウへ向かって歩いていた。
そういえば前の彼女は、本日ここで働いているのだろうか?
いや、待てよ……。
何故、私は『前の彼女』という言い方をしているのだ?
ちゃんと別れた訳でもあるまい。あの時は、たまたま喧嘩になっただけの話なのである。残りの金も少ない事だし、あやつと話をしたい事もあるのだ。私は意気揚々とイトーヨーカドウの入口を通った。
そういえば、前にあやつが言っていた約束の一週間が経つ。食事を私に作ると約束をしたのが、ちょうど一週間前の今日なのだ。
中は、相変わらずたくさんの人がいる。私は各売場を歩き回りながら、彼女を探した。
野菜コーナー、いない……。
魚類コーナー、いない……。
肉コーナー、いない……。
カップラーメンコーナー、いない……。
缶詰コーナー、いない……。
惣菜コーナー、いない……。
ひょっとしたら、仕事を休んでいるのかもしれないな。この間は怒って膝蹴りをぶちかましてしまったが、いくら何でもあやつの尻の痛みは引いているだろう。少しは反省しただろうか?
「おっ!いたいた……」
冷凍食品売場に差し掛かると、彼女の姿が見えた。あやつめ、私がまた職場に来るだなんて夢にも思うまい、うしし……。
こっそり忍び足でゆっくり近づく。いつもなら荒い鼻息さえも自粛しながら歩く。
今日は冷凍食品四割引なのか。妙に主婦連中がこのコーナーでワサワサしてやがる。皮付きポテトの段ボールを手に持ちながら、あやつは汗だくになり作業をしていた。
真後ろに忍び寄り、耳元へ『フッ』と甘い息を吹き掛けてやるか……。
「ちょっと邪魔よ!」
豆タンクみたいなおばさんが、私をいきなり突き飛ばし、そば飯の袋を漁りだす。このババァめ。
「ふぅぅぅぅぅ~……」
慌ててゆっくり深呼吸をして自分を落ち着かせる。いつもなら即膝蹴りといきたいところだが、今ここで騒ぎを起こす訳にもいかない。今日は彼女を説得し、腹一杯飯を食べたいところである。
作業に没頭している彼女は、私が真後ろに立っているのも気付かない。そっと耳元に顔を寄せ、生暖かい息を掛けようとした時だった。
「あんた、何をしてんの?」
近くにいた買い物中の知らないおばさんが、右手にミックスベジタブルの袋を持ちながら大声で叫んでいた。
ミックスベジタブル……。
レストランへ行くと、よくつけ合わせに使われる王道冷凍食品だ。このおばさん、なかなか人としてのツボを心得ているな。
「いやいや、あなたこそ、大したものですよ」
私は笑顔で返すと、おばさんは気味悪そうな表情になった。
「な、何なのよ、あんたは?」
「いや~、あなたのそのミックスベジタブルへの選球眼を褒めているんですよ」
「ひっ、ち、近寄らないで!」
何をそんなに恐れているのだ、このおばさんは……?
「ちょっと、何であんたがまたここに来る訳?」
聞き覚えのある声が背後から聞こえる。振り向くと、彼女だった。せっかく驚かそうと思ったのに、このミックスベジタブルおばさんのせいで、ばれてしまったのだ。
「い、いや~、約束の日だろ?今日」
「あのね~、あんた、私に何をしたか覚えてないの?」
「覚えてないって、膝蹴りの事?そんな事よりも、おまえの言った料理を作る約束の日が今日だろ?」
「いい加減にしないと、人を呼ぶわよ?」
「何だって、この野郎……」
「私は女よ。野郎じゃないわ。せめて女郎ぐらいにしてほしいもんだわ」
相変わらず負けん気のお強い事で……。
「まあここで揉めるつもりはない。とりあえずちょっと話をしようではないか」
「冗談じゃないわよ!あんた、この間ここで私に膝蹴りをしておいて、挙句の果てにお客さままで…。しかも焦って逃げ出したっきり。私はあんたの個人情報すべてを知っているのよ?この一週間、警察来なかったでしょ?あえて私が言わなかったからよ。それを悪びれもせず、よくもぬけぬけシャーシャーと来れたもんよね!」
女の剣幕のすごさに買い物客連中は、野次馬の列を作り出している。
「待てよ。みんな見てるじゃねえかよ」
「私は烈火の如く怒っているのよ!」
火の如く…。ん、どこかで聞いた事があるような……。
「おいおい、それはちょっと待ちなさいよ」
「何よ?」
「風林火山…。侵略する事、火の如し……。こりゃ私の専売特許じゃないか」
「ふん、何が侵略する事よ…。笑わせないで」
鼻で笑いやがったな、このクソアマ……。
「別に笑わせてるつもりじゃねえよ」
「この間は『火事になる』とか訳分からない事を抜かしてたくせにさ」
「うっせぇや!」
「ほら、ちょっと調子悪くなると、すぐ怒鳴る。私はあんたのそういうところが大っ嫌いなのよ」
いつの間にか冷凍食品コーナーの周りは、野次馬でいっぱいになっていた。
ここで黄金の膝を使うと、私の立場が非常にまずいのでは……。
「お願いだから、私の職場まで来るのはやめてちょうだい!」
周囲がざわめく。これじゃまるで、私がストーカーみたいじゃないか。このアマ。
「おまえが一方的に、約束を破っただけじゃないか」
「冗談じゃないわよ」
他人の不幸は蜜の味というが、ここの野次馬連中はまさにそうだ。私と彼女の会話を聞いてニヤニヤしている。趣味の悪い奴らだ。
「おまえらニヤニヤしてないで、あっち行けっ!」
入口の方向を指差しながら言うと、「お客さんに向かって何を言ってるのよ」と、彼女がさらに怒り出した。
「俺たちの会話をこいつら楽しんでいるんだぞ?」
「あんたが私の職場に来て、無茶苦茶をしてるんでしょうが!」
「おまえが約束を守らないからだ」
「分かったわよ。せめて仕事が終わるまで待っててよ」
「何時に終わるんだ?」
「まだまだよ」
「そんなんじゃ答えになってない。俺は、何時に終わるんだって聞いてんだ」
「もうちょっと空気を読んでよ…。本当に頼むから……」
「空気が何だってんだ?俺は、何時に仕事が終わるんだって聞いてるだけだろうが」
「八時!これでいいでしょ」
「ああ、分かった。終わったら電話しろよな。どけ、おまえら」
私は野次馬連中をどかしながら、イトーヨーカドウをあとにした。
八時まで時間はかなりある。暇を持て余した私は、一旦家へ帰る事にした。
金がないという現実は、非常に厳しく寂しいものである。腹は減るし、やりたい事もできない。
そういえば、ここ最近女を抱いていない。生きていれば性欲は自然と溜まる。またあの新宿にある裸でエプロンの店へ行きたいものだ。帰り際、『アヤ』という女のおっぱいを触った事を思い出すと、股間が膨らんできた。
「テッシュ、テッシュ……」
ズボンを脱いでパンツ一丁になり、テッシュを探す。暇で金がない時はオナニーが一番である。
「ん、待てよ……」
今日の八時になれば、彼女が手料理を作ってくれるのだ。食後のデザート代わりに、あやつをいただく事になるから、ここで発射させるには勿体ない。
私は懸命に押し寄せる性欲を堪える事にした。
こういう時は寝るのが一番である。「果報は寝て待て」と言うではないか。横になると、目がトロンとしてくる。いつの間にか私は寝てしまう。
夢を見た。
「ね、ねえ、よ、よっ君さ」
勝男が話し掛けてくる。
「おまえ、この野郎!よくも着信拒否なんてしてくれたな」
「な、何を言ってんだよ?そ、そんな事よりさ、お、女の子にモテル条件っていうの知ってる?」
「女にモテル条件?」
「う、うん」
「そんなの女によりけりだろ。色々な好みあるだろうし」
「で、でもさ、ヤ、ヤクザって、つ、連れて歩く女、み、みんな綺麗な人ばかりじゃない?」
「……」
確かに言われてみると、その通りだ。なかなか勝男は冴えている。
「つ、つまりだよ。す、少しぐらい危険な香りを漂わせているほうが、い、いい女が寄ってくるって事なんじゃないかな?」
「それだ!それだよ、勝男」
男としての確信をついた勝男の意見に、私は体中電気が走る。
「何を言ってんの、馬鹿じゃない」
気がつくと、横に彼女が冷たい視線で見ていた。こやつ、いつの間に……。
「あれ、勝男は?」
私と彼女だけしかいない薄暗い空間。一体全体どうなっちゃってんだ?
「誤魔化さないで!これは醤油派とソース派の戦争なのよ」
「はぁ?」
「もう嫌なのよ、目玉焼きにソースをぶっ掛けて食べるあなたが……」
「何だよ、まだそんな事を言ってんのか?」
「時間には平気で遅刻するしさ」
「いつ、俺が遅刻したよ?」
「今日の八時って、自分から聞いといてさ」
「え、今何時だ?」
慌てて振り返る。
「あれ……?」
目の前の風景は自分の部屋だった。あ、そうか。私は今まで夢を見ていたんだっけ。すっかり外も暗くなっている。部屋の明かりをつけ、時間を確認した。
「ゲッ」
時計の針は、九時を過ぎていた。彼女との約束の時間が……。
電話をしようとして携帯を見ると、着信履歴は一件もない。あやつめ、ひょっとして私との約束をしらばっくれたのか?
オナニーまで我慢して、こっちはひたすら待っていたのに……。
こうなったら、いきなりあやつのマンションへ押し掛けてやろう。電話だと、言いたい事も伝わらない。私は身支度を済ませ、彼女のマンションへ向かった。
「おら、開けろや!」
彼女の部屋まで到着すると、私はドアをガンガン叩きながら怒鳴りつけた。予想と反して、彼女はドアを開ける。
「何を大声出してんのよ。近所迷惑でしょ。さっさと入りなさいよ」
気勢を削がれた形で私は中へ入る。
「何で電話も何もないんだよ?」
「だってあなた、仕事が終わる時間聞いただけで、どこで待ち合わせるかとか、何も言わないで行っちゃったじゃないの。私、三十分ほど待ってたのよ」
「どこで?」
「イトーヨーカドウに決まってるじゃないの。それと一つ言いたい事があるんだけど」
「何だよ?」
「いい加減、私の職場に押し掛けてくるのやめてよ。立場がなくなるじゃない」
「じゃあ、とりあえず飯を作れよ。腹ペコなんだ。約束してただろ、作るって」
「分かったわよ。座って待ってて」
彼女はエプロンを掛けると、キッチンへ向かった。どんな料理が出てくるのだろうか?考えただけでワクワクしてくる。今日はご馳走を食べたら、あやつには裸でエプロン姿になってもらおう。そんでもって体のあちこちを……。
「できたわよ、こっち来て」
ん、ずいぶん早いな。まだ一分ぐらいしか経っていないのに……。
キッチンまで行くと、彼女はフライパンから目玉焼きを皿に移しているところだった。食卓の上には、ご飯しかない。
「何だよ。目玉焼きだけかよ?」
「ご飯もあるでしょ。贅沢言わないで早く座ってよ」
「ああ……」
目の前に出される目玉焼き。よく見ると、半熟状態である。彼女はいきなりその上に醤油をダバダバと掛けだした。
「何をしやがるんだ?」
「約束だったでしょ?目玉焼きに醤油を掛けて食べるって」
「ふざけんな。こんなもん、食えるかよ」
「あら、約束を破る訳ね?男のくせにさ」
「約束なんかしてねえって!それに男とか、そんな事に何の関係もないだろうが」
彼女は黙ったまま、テープレコーダーを食卓に置き、再生ボタンを押した。雑音と共に、こやつの声が聞こえてくる。
『こだわらなきゃいけないところってある出しょ?誰だってさ』
『そりゃあ歩けど……』
『じゃあ、今、私が目玉焼き作るから、醤油をたくさんぶっ掛けて食べてみて』
『えー!』
『それすら出来なきゃ、私はもう無理よ』
『いや、ちょっと待って。今さっき食べたばかりだろ。お腹いっぱいだよ』
『じゃあ、私が夕食を作ってあげるから、その時、醤油を掛ける?』
『あ、あのね、今日はこれから用事あるからさ、今度の時にそれは約束するからさ……』
『今度っていつなの?私、これでも相当我慢してきてるのよ?』
『分かった分かった…。おまえが明日以降、食事を作ってくれる時ならいいだろ?』
『じゃあ、一週間後。それまでお互い連絡取り合うの、やめておきましょう』
そこで彼女は停止ボタンを押した。こやつ、前の会話を隠し盗りしていたのか……。
「ひ、卑怯だぞ……」
それだけ言うのが精一杯だった。
「どっちが卑怯なのよ?ね、ちゃんと約束してたでしょ?早く食べなさいよ。醤油を掛けた目玉焼きを」
勝ち誇った彼女の顔。見ているだけで、イライラが増す。
「いや、醤油を掛けて食べるとは言ったけど、半熟状態のを食べるとは言っていない」
「また言い訳?じゃあ、分かったわ。今日は帰ってちょうだい」
「腹が減ってるって言っただろうが!」
「そんなの知らないわよ。目の前にあるものを食べればいいでしょうが」
「冗談じゃねえ!」
私は目玉焼きの皿をぶん投げて、彼女のマンションを飛び出した。
まったく何なんだ、あの女は……。
ムシャクシャしていても、腹が減るのはどうにもならない。せめてご飯だけでも食べておくべきだったか。
そういえばあやつ、膝蹴りした事をまるで責めてこなかったが、何を考えているのだろうか。私があの目玉焼きを食べられまいという計算しての行動なのか?
空きっ腹の時に考え事はよくない。残りの手持ちは千円のみ。いかにしてこれを有効に使うかが、今後の私の課題である。
カップラーメンを買えるだけ買う……。
いや、それでは発展的解決にならない。まずは金を稼がないと駄目だ。
では、どうするか?
この金で新宿まで行き、勝男の奴を探す。見つけたらまず金を借りる。それから仕事を紹介させる。
うん、これが理想だ。思い立ったが吉日。早速私は新宿へ向かった。
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