SHISHIRA

「憂きことの 尚この上に積もれかし 限りある身の力試さん」

釧路の悲しい歴史。

2020年07月23日 | 日記
かつて水揚げ高全国一位だった釧路港。


1969年(昭和44年)から1977年(昭和52年)までの9年間、北洋漁業でとても景気がよかったそうです。
漁師たちは腹巻に札束をいれて飲み歩き、まさに「宵越しの銭を持たない」気質が釧路の街を潤わせていました。
その後、200カイリの影響で、昭和53年に全国2位になったものの、イワシの水揚げが好調で翌年から13年間水揚げ高全国一位となりました。しかし、平成4年にイワシが不漁になってからというもの、釧路の基幹産業の漁業は低迷を続けています。
参考資料「水産業の歴史」(釧路市)

景気のいい昭和44年に、釧路の西側にある新富士海岸を「西港区」として開発が着手されます。砂浜は埋め立てされていきました。


昭和52年に公開された「幸福の黄色いハンカチ」では、失恋した欽ちゃんが、真っ赤なファミリアで郵船フェリーを下船して西港を走る様子を見ることができます。

「郵船フェリー まりも」1972年(昭和47年)~1999年(平成11年)



大学生の頃は、料金が安いのでよく利用していました。

西港建設中の様子も映っています。


新富士海岸は釣りや遠足などで賑やな海岸だったでしょうね。
新富士海岸は、現在の西港臨海公園あたりのようです。


西港臨海公園の横を通る道路から写真の左側方面が西港です。


西港臨海公園の中に「共栄小学校炊事遠足事故慰霊碑」があります。




昭和40年(1965年)10月5日午前、恒例行事の炊事遠足で新富士海岸へ行った釧路市立共栄小学校の児童359名が、旧日本軍所有の爆雷が破裂して児童4名が死亡、33名が重軽傷を負う悲惨な事故が起きました。


当時の新聞記事


終戦直後、釧路に進駐してきたアメリカ占領軍の命令で弾薬や爆雷など8,000トンを沖合28kmの海中に投棄され、それがこの悲劇に繋がり、国の補償も受けられなかったそうです。

慰霊之碑の裏には、碑文が書かれています。


慰霊之碑にはきれいな花が供えられていました。

こんな悲しい歴史があることを釧路市民は心に留めておくことが必要ですね。