1959年6月30日午前10時40分頃、一機の米軍F100爆撃機が沖縄県石川市宮森小学校と周辺民家に墜落した。
この事故による被害は、死者17名(うち児童11名)、負傷者210名(うち児童156名)というものだった。
今回、その詳細を記すために記事にしようと思ったのではなく、ジェット機墜落事故で頭蓋骨損傷となり生死をさまよった当時幼稚園児だった新里(佐藤)節子さんが60年後も後遺症に苦しみながらも慰霊祭に足を運んだことが『琉球新報』に掲載されていたからだった。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1542341.html
新里さんは、事故後2か月間米軍病院のベッドで意識を失っていたという。
彼女は、5年ほど前にくも膜下出血により失語症となる。
事故の後遺症から慰霊祭にはじめて参加できた彼女は、何度も目をぬぐいながら「ずっとここに来たかった」と言ったという。
沖縄戦の証言が高齢となって聞けなくなっていると言うが、戦後も沖縄は米軍占領下で多くの事故の被害にあっている。その証言は、かつての沖縄戦のひめゆりたちのように重いのだと思った。
当時米軍は、「この事故はエンジン故障による事故」だと報告し、「石川の悲劇は何も目新しい要素があるわけではない」、「不慮の事故は普通に起きている出来事」とした。
一生涯、今なお後遺症で苦しみを与え続ける少女だった新里さんの人生は米軍という得体のしれない化け物に翻弄され、押しつぶされている。
それを「悲劇」を悲劇として受け止めず、「普通」の「出来事」にされるのは誰なのか改めて考えさせられた。
1959年6月と言えば、もう一つ「普通」の「出来事」があった。6月19日、那覇空軍基地(現在の那覇空港)に配備されていたミサイルナイキが核弾頭を搭載したまま誤って発射され、米兵1人の胴体を引きちぎって海に落下した。海に落下した核弾頭は、幸いにも爆発しなかったが、爆発していたら那覇市一帯が壊滅的だったときく。
この事故も50年後に米公文書によって公開され、心ある人間が日本語に翻訳されなかったら米軍にとってみれば「普通」の「出来事」だったかもしれない。
宮森小学校に墜落したF100が水爆も搭載可能だったというが、「もしかしたら」と考えると背筋が寒くなる思いだ。それを「普通」の「出来事」と片付けていいのだろうか。
沖縄県によると、日本復帰後、墜落や部品落下、不時着など米軍機による事故は実に826件(2020年12月現在『琉球新報』6月30日)である。
最近でも海に墜落した米軍ヘリをはじめ次々と「普通」の「出来事」として処理されかねない事故が当たり前のように沖縄県民と隣り合わせの危険がある。
1950年代後半から沖縄には約1300発の核が置かれていた。日本は非核三原則があり、持ち込めないが沖縄は日本から切り離された米軍統治下であったことで可能だった。
そして今、沖縄は、再度日本本土から切り離されようとしている。中国への軍事的脅威を理由に「南西諸島」への自衛隊が大規模な予算と共に配備されている。
中国政府は言う。「NATOが武力と威勢を示し、インド太平洋に欧州(ウクライナや東欧諸国)の集団対抗の構図を持ち込もうとしている」NATOが中国の利益を損なえば「断固として反撃」するとしている。
日本が防衛費を相当額増強し世界第8位から世界第3位に躍り出ようとしているいま軍事同盟の強化と中国に写りかねないとなれば、その戦略的拠点である沖縄本島をはじめとする「南西諸島」に銃口が向けられる可能性は増している。
改めて宮森小学校のかつての少女だった新里さんの苦しみを生みださないために何ができるのか思いを馳せたい。