文鮮明先生御言葉選集 4 - 4. お父様、どうぞお越しください (1958年3月9日)
お父様、どうぞお越しください
1958年3月9日(日)、前本部教会
聖書拝読:エペソ人への手紙 1:15-23
<祈り>
愛するお父様、私たちを見守ってください。私たちの心はさまざまですが、私たちの生活の中にお父様の性質が現れ、お父様が動けば私たちも動き、お父様が静まれば私たちも静まる、義の実体となることを許してください。
弱い私たちが、お父様の前にひざまずき、天性を目指しているのをお父様はご存知です。たとえ私たちの身体が俗世に囚われ、永遠のお父様の恩恵を妨げているとしても、私たちの身体が俗世のすべてに打ち勝ち、お父様の姿が私たちの心と身体を通して現れることを許してください。そして、そのような摂理の意図と恩恵、愛が私たちに注がれていることを心で感じ、身体で感知できるように、お父様、導いてください。
私たちの心は今日も絶対的な善を目指していますが、身体は俗世のものを求めようと心に絶えず反撃を加えています。ですから、お父様、私たちの心と身体が、お父様の意志を中心にして一つになることを許してください。そして、お父様と私たちの感情の隔たりを取り除き、サタンが活動できる足場を私たちの身体と心から完全に取り除いてくださるよう、切に願い求めます。
天は今日まで私たちの心を中心に身体を抱きしめて愛したいと願ってきましたが、まだ忠誠を込めたお父様の性質と姿の前に完全な美の対象として現れていません。これが歴史的な悲しみであり、嘆きであることを私たちは知っています。お父様の前にひざまずくしかない身体と心、罪に染まった身体と心、お父様の満ちあふれる恩恵を望む足りない身体と心ですから、私たちに何も持たないことを許してください。そして、身体と心全体をお父様が握りしめてください。私たちに与えてくださったすべてのものは私たちのものではなくお父様のものでしたから、お父様が共にいてくださり、導いてください。
そうして、お父様の姿の前に喜びをお返しし、お父様の心に応える一つの姿として現れることを許してください。今、私たちはお父様が6千年の間望んでおられたその希望の基準を備え、お父様の御前にひざまずき、お父様に栄光をお返しすることができるように許し、お父様が安息できるように、お父様の姿を現すこの時間を許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
人間が持っているすべての主義・主張と人間が持っている権利、これらすべてがなくなるという事実を知っています。ですから、私たちの心と身体が永遠に存在できる根本的な立場に入り、新しく爆発してくる力と復活の目を私たちの心に持つことができるようにし、自分を中心とした生活を捨てて、天宙を中心とした生活に変えてくださるよう、愛するお父様、切に願い求めます。
愛するお父様、私たちを民を代表する個体とし、世界人類を代表し、全ての被造物を代表する者とさせてください。そして、お父様の前に頭を下げて崇拝し、6千年間にわたる恨みの心情を解放する姿になり、お父様がサタンの前で誇れる子供たちとなることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、この日、お父様の御前に集まった多くの祭壇を祝福し、困難な状況で嘆いているこの民族を憐れんでください。この民族がたとえお父様の意志を知らずに死の権威に囚われていても、命の祭壇に属している者も多いので、お父様、その人々に恩恵を与えてください。勝利の園を築き、お父様の意志を成し遂げることで、全宇宙が喜ぶ一日が早く訪れることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
私たちのすべてを捧げますので、お父様、喜びと共に受け取ってください。そして、お父様のものとして全てを御支配ください。この時間、伝えたい言葉を中心に再創造の恩恵を与えてください。伝える者の心と受け取る者の心が一つとなるようにしてください。私たちの身体を中心とした天倫の意志が急を要することを知っているので、私たちの心が自動的に動き、お父様の意志を効率的に成し遂げることができるように導いてください。
お父様の心を私の心に、お父様の情を私の情として感じることができるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。すべてをお任せしますので、御意志のままにしてください。主の名前によってお祈りします。アーメン。
<御言葉>
今日、皆さんの前でお話ししたい題目は「お父様、どうぞお越しください。」です。この題目でお話しします。
堕落のない園は、神が万物と自由に接触できる園であり、神が人間に自由に会いに行き、相談できる園であることを私たちは知っています。そしてこの園は、人間はもちろん、人間のために造られたすべての被造物も神を迎えることができる栄光の園であり、人間が神と共に相談できる喜びの園です。しかし、堕落という言葉が生まれたその日から、神に対面できない人間となり、神と共に楽しむことができない万物となったことも、私たちはよく知っています。
天地万物を創造された神は、永遠に共にいるために人間を万物の中心として創造されました。それで被造物は人間を通して神の栄光を現し、すべての被造物が人間を通して神に喜びを捧げることができるはずでした。しかし、そのような被造物の園とならなかったために、神がその日を歴史の終点として、一つの希望の基準として据え置き、摂理して来られたことを、今日私たちは新たに認識しなければなりません。
では、堕落の血統を受けた今日の多くの人類と、堕落の種族権から脱出できない私たちが求め、憧れ、敬慕するその理想の園はどのような園であるべきか?その園は、天地を創造された神を「私の父」と呼ぶことができる園であり、創造主を迎えてその創造主の喜びを私が共に感じることができる園です。さらにその喜びを私たち人間を通して万物にまで伝えることができる園です。そのような園とならなければ、神のすべての創造の理念が失敗に帰し、人間が歴史の過程を経て敬って来た摂理の意志も失敗に終わるのです。そうなると、人間を見守って来た万物までもが嘆きの領域に戻ることを、私たちは深く感じる一日を持たなければなりません。
私の心がこのような心情に動かされ、私の身体がこのような感情を感じなければなりません。そのような場所で天を仰ぎ、創造主の姿を懐かしみ、万物に対して元の美を備えた自らがなければ、お父様が動かせる復活した実体となることはできません。そのような立場で、創造主と全宇宙の被造物の前に自らをさらけ出して分析できる一時がなければなりません。そのような一時がなければ、神の心情が皆さんの身体に染み込むことはなく、万物の嘆きが皆さんを通して解放されることはないということを、皆さんは知らなければなりません。
本来神を迎えて生きるべき人間であり、神を迎えて喜ぶべき万物でした。しかし、今日私たち人間は、私たちを造られたお父様、私たちを支配すべき主人を失った状態にあります。
そのため、私たちは孤児のように哀れな存在となったのです。この事実を悟ったその瞬間から、私たちは新たな摂理の意志を求めることができるのです。しかし、いつ人間が昔のエデンで失った創造主を私たちの「お父様」と呼び、エデンで失った善の園が本来私たちが生きるべき生活環境であると感じたことがあったでしょうか。今日まで数千年の歴史が経過しましたが、そのような時がまだ人間世界に現れていないのです。
今日、私たちが持っているもので、絶対唯一の天の善を代替することはできず、私たちが父に対面することはできない堕落した罪の子孫であることを認識するならば、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちは自らを奮い立たせて何をすべきなのでしょうか。私たちは父の意志を見つけて捧げなければなりません。私が持っているすべてを失い、すべてを犠牲にすることがあっても、私たちの祖先が望んだ理想の主人である神を自分の父と呼ぶことができなければなりません。そして、その神を皆さんの生活圏内に現すことができなければ、皆さんは神の子として立つことはできません。しかし、その神を皆さんの生活圏内で現し、万物の前に現すその日が来なければ、祖先たちが歴史の道のりで歩んできた摂理の道は失敗に終わることを私たちは知っておかなければなりません。
それでは、皆さんは眠っている心を奮い立たせて何を解放すべきなのか、身体を奮い立たせて何に向かって走るべきなのか。唯一、エデンで神がアダムとエバに対して抱いた切なる心を解放しなければなりません。神が万物に対して創造の美を感じながら人間に対して喜びを感じようとしたその父の心情を、具体的な時間の中で皆さんが感じることができなければなりません。このような心がなければ、たとえ歴史の終末期にその理想の園が来ても、父がこの地に再び現れる日が来ても、皆さんとは何の関係もないということを知っておかなければなりません。
このような神と私の間の隔たりを誰が埋めるのでしょうか。このような恨みの溝を誰が清算してくれるのでしょうか。これが歴史的な嘆きであり恨みであったことを今日私たちは感じています。
それでは、この私と天との間の隔たりを誰が作ったのでしょうか。人類の祖先の堕落による罪の血統がこれを作ったのです。したがって、これを乗り越えて天の血統を受けることによって、身体と心から天と関係を結び、自分を中心とした家庭と社会、国家、世界、宇宙を天と関係づける使命が皆さんの前にあるのです。
今日、皆さんが自分の過去を反省する時、自らが天の法の前に罪の血統を受け継いだ姿であることを感じないわけにはいかないでしょう。これが天が今まで嘆いてきた理由であり、万物が嘆いてきた原因なのです。神は今までこのような人々を救うための労苦の歴史を経て来られたことを私たちは知っておかなければなりません。
今、皆さんは自分自身を奮い立たせて内的なすべての壁を乗り越え、エデンの園で神に対面できた、堕落していないアダムの姿を代わりにして「お父様、どうぞお越しください」と祈ることができなければなりません。
神は堕落した人間と復帰の縁を結び、失われた理想の園を探し求めています。神が堕落した人間を復帰し、かつて堕落していなかったアダムとエバに対面していたその喜びの園を建設し、天の喜びを基点として世界的な理想を創建するために摂理しておられる歴史が救済摂理の歴史であり、今日私たちが歩んで行かなければならない復帰の歴史なのです。
したがって、今日復帰の道を歩んでいる皆さんが、自分自身を天倫の道の前に冷静に立たせて批判しなければなりません。皆さん自身がどのような位置に置かれているのか、どのような立場で苦しんでいるのかを反省しなければなりません。その位置と方向を人間に教えようとする神の愛があったからこそ、今日人倫を代表する宗教が立てられたということを皆さんは知っておかなければなりません。
それで神は信仰という名詞を立て、歴史の過程で宗教を中心にして人間を探し求めておられます。今日この時まで、神は休む間もなく人間世界で人間と共に住むことを願って労苦して来られたということです。神は無形の神であるため、時間的な距離を超えた心情を持って今日まで人類を探し求めて来られたのです。
歴史の過程の神は、自らを裏切った人間たちを時間と空間を超えて探し求めて来られましたが、その神を迎えた人間は多くありませんでした。このことを考える時、私たちは堕落の子孫の立場から当然天の前で鞭を受けるべき存在です。しかしながら、神は6千年間摂理を引き受けて労苦して来られたことを皆さんは知っておかなければなりません。
それでは、今日の私は一個人であり、三千万の中の一人ですが、この一個人が神を迎えることができ、神をこの地に臨在させることができる子供になるならば、三千万以上の価値を持つ存在となり、二十四億の人類全体以上の価値を持つ存在となります。また、被造世界にある全ての被造物以上の価値的存在となるのです。まさにそのような姿の私たちに会いたくて労苦して来られた父であることを皆さんは知っておかなければなりません。
今日、私たち人間は自分にある重要な部分の価値を忘れて生きていることが多すぎます。歴史の道のりを経て探し求めて来られた天が、常に私の周りで運行していることを考える時に、また私の生活環境に天が住むことを望んでいるという事実を知る時に、皆さんは歴史の道の前で、時代的な摂理の意志の前で頭を垂れなければなりません。
天倫の意志の前で頭を垂れるべき人間なのに、人間は歴史の過程を経て来た中で摂理の意志を忘れ、自分たちの威信と品位を忘れて進むべき方向を見失っています。このような人間を見ている神の辛い心情を皆さんは感じなければならず、またこのような神の摂理の意志を気にかけなければならない時が来ていることを知っておかなければなりません。
このような神、このような創造主を私たちの信仰の主体として迎えたいと願うとしながら、実際には自分を中心に信じているならば、それは天と何の関係もないのです。私たち一人ひとりを見れば、二十四億分の一に過ぎない人間ですが、天は全宇宙を代替する価値の存在として私たちを信じようとし、私たちを愛し、私たちと共に住むことを願っているのです。しかし、このような父の心を今日の人間は夢にも思っていないのです。
このような観点から私自身を考えると、私は天に信じてもらえない存在であり、神が対面できる生命体ではありません。さらに、神の前に立てる愛の心情を持っていないということです。
こうして堕落した親を持つ後代の人間は、本来の園、永遠の天国世界で神と永遠に楽しむことができなくなりました。神の永遠の命を持ち、神の永遠の愛の権内で神を迎えて楽しく生きるべき人間が、それをできなくなったのです。人間世界が罪の世界となり、人間は信じてはいけないものを信じ、持ってはいけない命を持ち、してはいけない愛の生活をするようになりました。そして、このように信じられない世界となったことで、信じられない道が残され、それが霊界の地獄であり、地上の地獄なのです。
このような二つの世界の矛盾した立場が、今日私を計りにかけていることを皆さんは知っておくべきです。一方では地獄の不信が私に訴えかけており、他方では神の愛が私に訴えかけています。つまり、一方では世の死の愛の権が私に訴えかけ、他方では私に永遠の信仰を持つように訴えかけ、永遠の愛を持つように訴えかけているのです。このような立場にいる自分を皆さんは感じることができるでしょう。
人間の堕落により、私たちのこの身体は神の嘆きの領域内にある万物を摂取しながら成長してきました。今日、神の嘆きの領域内、すなわち罪の領域内にある私の身体を分析すると、善の要素よりも悪の要素が多いのです。ですから、私の全体的な生の道のり、信仰の道のり、愛の道のりで、この悪がより強く動いているのです。創造主がこの被造世界を作った目的は、人間を中心として成し遂げられることでした。しかし、堕落により、人間の心の奥深くに感じられる何らかの傷、何らかの曲折が皆さんにぶつかっているのを感じているでしょう。
どんなに悪い殺人犯であっても、自分の悪い行動に対しては良心の呵責を感じます。これが人間の本性です。天倫の法則がそうであるため、人間は天倫の法則を破って堕落したとしても、その天倫の法則から逃れることはできません。したがって、人間は天倫の法則を破り悪事を働いたときには良心の呵責を感じずにはいられないのです。
今日の人間はこの地上の何物も信じることができず、地上のどんな生命も頼りにすることができず、地上のどんな愛も感じることができず、全宇宙に対して嘆き、恨みを持つ人が多いのです。しかし、自分の心の中で永遠に信じられるものを求め、永遠に楽しむことができる愛を求めて泣きながら嘆く人はいないのです。
しかし、天は善の意志のために心配する人を通して神の意志を成し遂げようとします。そのような立場で善と悪の数を比較すると、悪が善に比べて数えきれないほど多いことがわかります。これを見ている神は、今日も人類の悲しみに代わって善を見つけようとする切なる悲しみに満ちているのです。人類を信じようとする神が信じることができない立場にいるその悲しみを皆さんは知っておくべきです。
本来は信じてくれるべき人間であり、愛すべき人間であり、神の生命体となるべき人間でしたが、その人間を信じようとしても信じられず、生命を共有しようとしても共有できず、愛を共有しようとしても共有できないこの悲しみを皆さんは知っておくべきです。
皆さんは地上を見つめながら、「神の悲しみが残る地よ!神の悲しみの壁を築く人類よ!」と嘆き、その神に代わって胸を痛める一人の人が歴史の終末期に現れないかどうか注意すべきです。もしそのような一人が現れなければ、神の労苦の歴史も水泡に帰し、サタンの告発条件、つまり罪による嘆きの条件が残る世界で生きざるを得ない立場に置かれるということを忘れてはなりません。
そして今日、私たちは自分が罪人であることを忘れ、前途が閉ざされていることを感じず、その閉ざされた立場で希望を持とうとしています。それを見ている天の心情はさらに悲惨な立場に置かれているということです。
私たちは歴史の過程で神を裏切った祖先の血統を受け継いできました。ですから、今日の私がこのように罪の血の結晶体であるならば、この身体を何で爆発させてその罪を消すべきでしょうか。今、皆さんは新しい人にならなければなりません。新しい理念と新しい信仰、新しい生命と新しい愛を持って天の兄弟姉妹となるべきです。6千年間私を探し求めようとした神のその切なる心情を感じ、私たちもまた切なる心で「父よ、どうぞお越しください!」と叫ぶことができる自分になっているかを反省すべきです。
私たちの祖先はこれまで神の意志を代わり、ある時代の使命を果たそうとしてこの地に現れましたが、すべて挫折しました。そのような歴史の繰り返しがこれまでの復帰の歴史であることを皆さんは原理を通してよく知っているでしょう。
復帰の恨みに満ちた神は今まで苦しい心情を抱えて耐えて来られました。つまり、今まで神は拒絶される中でも耐え、裏切られる道のりでも耐えて来られたということです。しかし、皆さんは私たちを立てて今日まで望んでいる神の事情を心に深く感じたことがあるでしょうか。皆さんは真に今まで歴史を導いてこられた父が私の父であり、私のために労苦してこられた父であることを自分の身心で感じなければなりません。
私たち韓国の民が何も持たず、哀れであるとしても、私たちの中で天の希望に接し、神の心配を抱き、神の信仰の心を持ってこの地に現れる人がいるならば、またそのような集まり、そのような民族となるならば、天の全権的な偉業を継承できないと誰が断言できるでしょうか。哀れなこの民族、頼るべきところのないこの民族、希望を持つべきところのないこの民族が今持つべき希望は何でしょうか。罪に対する悔い改めの心を持ち、神に対する信仰を持ち、神に対する希望を持ち、神に対する愛を持つことです。
そうすることで、この民族は天国の子供となることができるのです。つまり、新しいエデンの園で住むことができ、創造理念の目的を代わりすることができる新しい民族となるのです。
神は捨てるべき堕落した人間を捨てずに再び探そうとしておられます。しかし、その神と人間はもともとどのような縁で結ばれていたのでしょうか。生命の縁で結ばれ、愛の縁で結ばれていました。では、今日の終末において世界の人類を動員して私たちが探すべきものは何でしょうか。神と結ばれた生命そのもの、愛そのものを探さなければならないのです。今日の人類はそれを探し求めてさまよっているのです。
また、神は永遠に信じることができ、永遠の家族を築き、永遠に相談できる一つの世界を作る人間になることを望んで、これまで歴史を進めてこられました。堕落した人間ですが、神はその人間を今まで探し求めてこられたのです。
イエス様はどのような方として来られたのでしょうか
エデンの園で永遠に信じられる人間にはなれませんでしたが、永遠に信じられるその心の基準は誰が持っているのでしょうか。神が持っています。永遠の生命の心の基準を持つ人間であるべきでしたが、人間が神を裏切ったため、その生命の心の基準を神が持っておられるのです。また、永遠の愛の心の基準を持つ人間であるべきでしたが、人間が神を裏切ったため、その愛の心の基準も神が持っておられます。
では、そのエデンの園の理念を建設する要素を人間の前に提示するために来られた方は誰だったのでしょうか。それがイエス様でした。神の信仰と生命と愛を代替する一つの基準をこの地上で見つけるために、神は長い歴史の過程を通じて労苦してこられましたが、見つけることができませんでした。ノアを通じて、アブラハム、ヤコブ、モーセを経て探そうとしましたが、そのような基準の人間を見つけることができず、4千年の間労苦してようやく見つけ立てた存在がイエスだったのです。
では、イエスはどのような方だったのでしょうか。彼は世の権力を持つ方ではありませんでした。世俗的な学識を持つ方でもありませんでした。彼は時代の反逆者として追われる存在でした。罪悪の世の中で公義を代わりにして追われた代表的な主人公でした。
そのようにイエスが追われたのは、彼の価値がなかったからではなく、何が欠けていたからでもなく、全世界が不信の地であったためです。生命のない世界だったためであり、愛のない世界だったために排斥されたのです。
では、イエス様はどのような代表者だったのでしょうか。アダムはエデンで堕落して信じられる親にはなれませんでした。そこで、そのアダムの代わりとしてイエス様は来られました。また、永遠に信じずにはいられない信仰の主人公として来られました。エデンで失われた神の生命を再び縁づけるために来られ、エデンで失われた神の愛を人間の心に再び縁づけるために神の愛を代表して来られたのです。
では、イエス様はどのような方だったのでしょうか。彼は信仰のメシアであり、生命のメシアであり、愛のメシアだったのです。すなわち、彼は信仰の救い主であり、生命の救い主であり、愛の救い主として来られました。神は4千年間人類歴史を主導しながら、自らの生命と愛が心の基準を成すことを望まれましたが、それがイエスによって実現されたのです。こうして初めて神の摂理の歴史がこの地上で再び始まり、復帰の新しい意志が成し遂げられることとなったのです。
このような歴史的な意志を持って来られたイエス様の前で、当時の人々は実体的な信仰を持たなければなりませんでした。イエス様の理念と一体となるべきでした。神が抱いていた無形の信仰の理念、無形の生命の理念、無形の愛の理念が表現された一つの化身体として現れた方がイエス様だったのです。
しかし、誰も「おお、あなたは神が4千年間労苦して探して来られた信仰の結晶体です。4千年間探して来られた神の希望と生命の実体です。おお、あなたは神の理念の園で楽しむことができる永遠の愛を持って来られた主人公です。」と証言しませんでした。歓迎されませんでした。誰も彼の心情を解き明かし、彼の秘密の言葉をこの地に明らかにすることができませんでした。これが二次的に人類に悲しみをもたらしたのです。
そのため、イエス様はこの地に来られましたが、心と身体を備えた一つの実体として神の信仰と神の生命、そして神の愛を証しできないまま去って行かれました。
そこで、イエスの霊と一体となった信仰、イエスの霊と一体となった生命、イエスの霊と一体となった愛が、今日の人間とは距離が遠くなってしまったのです。そして、イエス様が霊的な信仰、霊的な生命、霊的な愛の主人公となったという事実は、実際には喜ばしいことではありません。そこには天の悲しみが含まれていることを知っておかなければなりません。
すなわち、神は自らの理念を代わりにする実体を求めておられます。イエス様は神の実体としてこの地に神の信仰を持って来られ、神の生命と神の愛を持って来られましたが、その実体を人類が破壊したために、神は悲しみの神となられました。
神が人間を探し求めるときは、霊を通して実体を探し求めて来られます。そしてその実体を通して万物まで探し求めて来られます。しかし、人間が実体を通じる信仰の資格者、実体を代わりにする生命の資格者、実体を代わりにする愛の資格者となれず、このことが霊的にのみ成し遂げられたのです。だから今日、私たちはそれを霊的にのみ感じています。すなわち、今日の人類は霊的救いの理念を求めており、霊的生命を求めており、霊的愛を求めてさまよっているのです。
このようにして神は4千年もの間労苦して、人間がその実体的な栄光の存在をこの地上に迎え、その者を永遠に信じることができる環境、彼と共に永遠の命を享受できる環境、永遠に愛することができる環境を霊的に成し遂げてきたのが楽園の救いの摂理であり、新約聖書を中心とした救いの摂理であることを私たちは知っています。
しかし、その霊界にいる霊たちが信じている信仰、望んでいる命、願っている愛が実体として現れる時がこの地上に訪れなければならないのです。
エデンの理念は、神を中心に人間の心と体が一体となってその神を迎えるだけでなく、万物と一体となって神を迎えることでした。これが原則であるため、神は今まで労苦の歴史を経て皆さんと一体となろうとしてきたのです。このような切なさがあったことを皆さんは知っておくべきです。
イエス様が来られ、実体の聖殿を成し、神の理念を代わりにすることができる実体的な家族を築き、神を迎える出発が成し遂げられていたならば、今日の私たちには千年王国の理念は必要ありません。再臨の理念も必要ないのです。
主イエスを中心に実体的な信仰を通過できる人となり、実体的な命を通過できる人となり、実体的な愛を通過できる人となるならば、実体の夫婦として実体の子供を持つことができるのです。そうなれば、神の実体的な信仰の人間となり、実体的な命を持ち、実体的な愛の存在となることができるのです。しかし、そのような基盤がまだ地上に現れていないことが神の悲しみなのです。
そのためイエスは「天国はあなたの心にある」と言われました。天国はまず心から見つかります。その後に「天国はあなたの体にある」と言えるようにならなければなりません。つまり、天国は私の実体にあると主張できる日が人類の前に訪れなければ、初めて私の体が霊と一つになって神を父と呼ぶことができるのです。
ここにイエスの悲しみがあります。心の天国を代わりにする霊的な天国は成し遂げられましたが、体の天国の理念を代わりにするそのような天国は成し遂げられなかったため、再び来なければならない立場に置かれ、歴史の過程を経て神の右手に座し、人間のために祈らなければならない運命に置かれているのです。したがって、終末にある今日の人類は実体的な信仰を持たなければなりません。
これまで歩んできた自分の信仰の道を振り返ってみると、神の意志を不信していた心と体でした。したがって、皆さんは永遠の神の命の縁と永遠の神の愛の縁を探して実体化したと言える人となるべきです。また、そのためには「父よ、あなたの実体となることができる私たちにしてください」と常に祈らなければなりません。そのような人間にならなければ、人間はこれまで負ってきた歴史を脱することができず、失われた天国の理念を復帰することができないのです。
そのため神はこれまで人類を心配してこられました。特に終末にある私たちに対してはより大きな心配をしながら探しておられます。したがって、今日私たちは2千年前に来られたイエス・キリストの実体を代わりにする一つの希望の存在となるべきです。
信仰に対する希望、命に対する希望、愛に対する希望の姿で生きているかを常に父の前で告白できるようにしなければなりません。そして「はい、父よ!私は父を信じます。父が私を信じなくても、私は父を信じます。父が私を見捨てても、私は父を見捨てることはできません」と言える心構えで生活しなければなりません。
天倫が変わろうとも、天上のどんな存在物が私を裏切ろうとも、私は父を裏切ることができないという心を持つ主人公、天上天下の誰もが信じられない状況でも信じることができる心を持つ一人の主人公はいるでしょうか。神はまさにそのような人間を探すことができる希望の一日を望んでこれまで摂理してこられたのです。しかし、このような悲しい父の事情を理解してくれる人はいるのでしょうか。教会はあるのでしょうか。人間はこれを知らずにいる哀れな存在です。
天の意志を抱いて世に現れる人は拒絶されます。イエス様の時代にも、すべての人がイエス様の敵でした。拒絶されない人、敵でない人はむしろ偽物でした。イエス様はこの地に来られて家族の中で足場を失いました。神が選んで準備した洗礼者ヨハネの一派からも拒絶されました。4千年間労苦して準備された教団からも拒絶されました。選ばれたイスラエル、アブラハムの血族からも迫害されました。全人類に迫害されました。また霊界からも拒絶されました。さらに神からも拒絶されました。
そこでイエス様は「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(これは、わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか、という意味です)」(マタイ27:46)と記された聖書の言葉のように、悲惨な立場で命を終えられました。そのような悲痛を感じた方が私たちの救い主であり、人類の救い主であり、私たちの指導者であったことを皆さんは忘れてはならず、そのイエス様の心情を理解できるようにならなければなりません。
エリヤもイスラエル民族の前で拒絶され追われたときに、「父よ、私だけが残りました」と訴えました。皆さんはそのような心情を理解できる時を持ったことがありますか?3千万人の民族が皆拒絶しても、世界の24億の人類が皆拒絶し、天上に行ったすべての霊が拒絶しても、「私だけはあなたを捨てません」と言える皆さんでなければなりません。
そのような心情を持った人は地獄に行こうとしても行けず、この地で滅びようとしても滅びることができないのです。そして、どんな手段で壊そうとしても壊すことはできないのです。
イエスがこのような心を持って「父よ、できることならばこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願い通りではなく、父の御心のままになさってください」(マタイ26:39)と訴えたその心が、死の権力を踏み越える一つの中心的なポイントとなったことを知っておかなければなりません。イエス様はこの地に来て民族から拒絶され、教会から拒絶され、種族から拒絶され、さらに見えない霊界のサタンからも拒絶されました。つまり、誰一人として友人のいないイエスでした。そのようなイエス様が今日の人類の救い主として現れるとは、当時の人々は夢にも思わなかったでしょう。
このように見ると、新しい歴史創造の基準はイエス様によって成し遂げられたのです。イエス様は永遠不変の心情を持ち、父が自分の命の主人であり、生活の主人であり、愛の主人であるという心を持って生きた方です。イエス様の信仰と命、そして愛は誰も断ち切ることができなかったので、イエスによって成されたキリスト教は、どの民族国家に入っても打ちのめされることなく発展してきました。
今日、統一教会に集まっている皆さん、皆さんが人類のために役立とうとするならば、イエス様が信じた信仰の内容を持たなければなりません。イエス様が死の道を覚悟して命を捧げることができた信仰の基準、つまり自分の体まで犠牲にすることができた信仰の基準を終末の皆さんも持たなければならないのです。天はそのような信仰の基準が終末の聖徒に現れることを待ち望んでいます。
救われるべき私たちが、永遠の命を見つけるべき私たちが、父の愛の中に抱かれるためには、あらゆる苦難と厳しい傷を乗り越えなければなりません。今や私たちは家庭や社会、国家、世界が反対してもそれを乗り越えて、ただ神の意志だけを掴んで進み出たイエスの立場に立ち、歴史的な死の種族に向かって突進する天の精兵となるべきです。
天は私たちをどのようにして探し求めてきたのでしょうか。天の御座にいる霊なる神は、天地創造から4千年を待ち、イエスを立てて人間を探し求めようとされました。また、イエスの後、私たちの心を代わりにする霊的な世界でさらに2千年を労苦し、今日まで6千年の労苦の足跡を通して私たちを探し求めてこられたのです。ところで皆さんは「父よ、申し訳ありません。父よ、面目ありません。父よ、どうすればよいのでしょうか」と言いながら、自分を探し求めて労苦してこられた父の悲しみを晴らしてあげようとする子供の孝心を持っていますか?これが天が望んでいることであることを皆さんは知っておかなければなりません。
そのような心を持つ子供たちになれば、イエス様が33年間、憐れみの心を持ち、愛の心を持ち、父の心を掴んで苦難の中で復活の歴史を起こされたように、皆さんもそのような心を持ち、死の権力を踏み越えて復活の歴史を起こさなければなりません。そのような皆さんになれなければ、皆さんは死の権力を踏み越えて復活した栄光の姿で生きることはできません。
皆さんは今や神を心と体で確実に知るべきです。皆さんが神を頭で知る時は過ぎました。神を頭で知るのではなく心で知るべきです。今は心で知るだけではなく、体でも知るべき時なのです。したがって、観念的な信仰の時代は過ぎ去りました。心で信じながら体でも感じ取る時が来たのです。
なぜなら、終末は永遠不変の信仰の実体を探し求める時であり、永遠の愛の化身を立てようとする時だからです。そのような実体が現れるならば、私の体から不信という言葉はなくなるのです。
したがって、今や皆さんは父の心情を心配することができる子供の姿となり、父を迎えるべきです。そうでなければ、皆さんは哀れな人となるでしょう。神が存在することを知らないならばともかく、知っているならば、私たちを探し求めて労苦してこられた神は、私たちが心の主人公としてだけ迎える方ではないことを知るべきです。
神は私と永遠に一体となり、食べるときも共に食べ、生きるときも共に生きる、すなわち永遠に共に苦楽を共にする実体的な主人公です。永遠に変わることのない愛の本体であり、永遠の希望の化身です。このような神の前でイエス様はどんな言い訳もせず、自分自身を忘れて父を代わりにする意志ならばどんな行動も取ることができる方でした。皆さんはこのようなイエス様の足跡を引き継ぐ子供たちとならなければなりません。
イエスは30年以上の生涯を経て福音の言葉を私たちに与えてくださいました。弟子たちを連れて行き、飢えた人々に出会ったときには、その場で五つのパンと二匹の魚で5千人余りの群衆を養う奇跡も行いました。与えるべきものをすべて与えました。信仰も紹介し、命も紹介し、愛も紹介し、人間が求めるすべてを紹介してくれました。
皆さんはイエスの言葉をイエスの実体のように受け入れたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の神の信仰の実体であることを感じたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の命の実体であることを感じたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の愛の実体であることを感じたことがありますか?皆さんがイエスの言葉を聞いてもこのようなことを感じられないならば、イエスは悲しむことでしょう。
イエス様が30年以上の生涯を歩んだとき、村から村へと追われて、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とおっしゃいました。このような孤独な心情を抱き、苦しんでおられたイエス様の言葉が4千年の天倫の結実を代表する言葉であったことを、その時の人々は知りませんでした。
再創造の命の実体であり、永遠の神が望まれた命の実体として、4千年間人類が望んでいたその意志を成し遂げるイエス様であることを、イスラエル民族は知りませんでした。イエス様が神の信仰と愛と命を持って来られたことを知らなかったのです。
それでは、イエス様を知らなかったために乗り越えられなかったこの山を誰が晴らして越えるのでしょうか。今日、皆さんがたとえ追い詰められ、頼るところのない哀れな群れであっても、イエス様の意志を継ぐ引き継ぎ手となることを望みます。今、イエス様が歩んだ歴史の道を私が再び歩むという心で、嘆く心情を持って民族の前に現れる時が来ました。世界の前に現れる時が来ました。
そのような心情を持って民族と世界の前に現れることで、イスラエルが裏切った歴史を食い止めることができ、ユダヤ教が裏切った歴史を食い止めることができ、イエスの血統的な種族が阻んだすべてのものを食い止めることができ、使徒や弟子たちが裏切ったことを食い止めることができるのです。つまり、そのすべてを私の実体で解決できる一つの姿とならなければならないのです。
2千年前、イエス様がベツサイダ近くの野原で多くの群衆にパンを分け与えました。しかし、パンを食べた群衆はなぜ皆滅びたのでしょうか。言葉を聞いたその民族がなぜイエスを裏切ったのでしょうか。3年間苦労を共にしながら従った弟子たちがなぜイエスを裏切ったのでしょうか。それは、言葉がその日その日のための言葉だと思い、与えられたパンがその日の一時の空腹を満たすためだけのものだと思ったからです。イエス様が与えた言葉が自分を通して世界の終わりまで伝えるべき言葉であることを知りませんでした。イエスが分け与えるパンが自分を通して世界人類の前に分け与えるべきパンであることを知らなかったのです。
イエス様が与えた言葉とパンは、自分の実体であり、自分の心、体、隣人、民族、国家、世界の全人類にまで伝えなければならないものでした。しかし、この意志を知らなかったために皆滅びました。しかし、今や皆さんが主の前に立つとき、「おお、私の愛する子よ!この言葉を与えるから、この言葉を大切にして神の愛する子となりなさい」とお願いされるのを感じる人もいるでしょう。また、「おお、愛する息子娘たちよ!お前が生きている間に父が臨在できる実体的な聖殿となってくれ」とお願いされるのを感じる人もいるでしょう。したがって、皆さんは父だけが私の命の本体であり、父だけが私の愛の本体であると感じなければなりません。
私には友人も家族も誰も共にする人がいないと落胆しないでください。しかし、父の言葉が共にあり、父の命の実体として父の愛の心情に染まり、天倫の意志に従って生きる人となったならば、落胆しないでください。今日、私たちは追い詰められ、多くの苦難に遭遇しても耐えなければならないのです。私たちが苦しみに耐えるのは、民族のためであり、世界のためになるからです。
今、天と地の嘆きを感じ、骨に染みる苦難を乗り越えて祈る人がいるならば、その人はイエスの友となり、民族の友となり、世界の友となるでしょう。こうして結局、その人は世界の主人公となるのです。
今や私たちは自分が神の中にいるか外にいるかが問題です。神は私たちの心情を通してあなたの願いを果たそうとしています。したがって、私たちが生きること、私たちがとどまること、私たちが理不尽な目に遭うこと、すべてが父のためになるべきです。私たちに愛が絶たれ、物質がなくても、友人がいなくても、父のための縁があるならば何の心配もないでしょう。地上の愛よりも、地上の命よりも、地上の人よりも、父の信仰が、父の命が、父の愛が、父の願いが私に共にあるならば、何の悩みもありません。父のすべてが私と共にあるとき、私はこの地上の多くの生命を代わることができる実体の子供となるのです。
神との一体感を感じなければならない
皆さんは誰よりも民族のために涙を流しています。皆さんは後ろを振り返りながら涙を流さなければならない生涯を歩んでいます。しかし、今や皆さんは父の希望と信仰の実体、永遠の父の愛の実体として立つべき父の意志を知ったので、その使命を果たさなければなりません。
この民族は信頼できる友を持っていません。また、自分の命が安住できる真実の家族も持っていません。では、皆さんはこの民族の前に何を残さなければならないのでしょうか。信頼できない民族の前に信仰を残し、命が安住できる家族のない民族の前に命の家族を残し、頼るところのない哀れなこの民族の前に愛を残さなければなりません。
皆さんがそのような心情を持つとき、ゲッセマネの園のイエス様の立場が今日の私の立場であることを感じるでしょう。つまり、彼の立場が今日の私たちの立場であり、天倫の意志のために歴史を経てきた私たちの祖先たちの立場であることを感じなければなりません。だからこそ、皆さんは今や歴史的な拒絶を受けてもそれを克服する人となるべきです。皆さんはどんなサタンと戦っても百パーセント勝利する人となるべきです。
どんな死の権力でも乗り越え、その死の世界を越えてカナンの福地へ向かい、父と共に6千年間苦労されたその悲しみを共に分かち合えるようにしなければなりません。アダムとエバの過ちを清算し、天の心を持った姿で父に代わって栄光を受けることができる皆さんでなければなりません。天は険しい茨の道も厭わず、悲しみの道を歩んできました。皆さんが追い詰められるとき、心配される父を見つめながら耐えなければならず、父の元に戻ることができる一日を与えられたことに感謝しなければなりません。
私たちが頭で信じる時代は過ぎ去りました。今や皆さんは心と体で信じることのできる信仰の化身となるべきです。命であるイエス様を頭で知る時代は過ぎ去りました。心で知り、体で知る時が来たのです。イエス様の実体が神の信仰と命と愛を代わりにしていたことを、皆さんは心と体で知るべきです。
したがって、皆さんが「左」と言えば、天倫の歴史を代わりにする神の摂理の歴史が「左」となり、皆さんが「右」と言えば、神の命が「右」となり、皆さんが「まっすぐ」と言えば、神が「まっすぐ」となる人間でなければなりません。まさにこのような人を失い、家庭を失ったことが、エデンの園で人間を創造した神の嘆きでした。
皆さんは自分の悲しみを抱えて涙を流さないでください。いつかその涙を父が拭ってくださることを感じるでしょう。自分が不当に扱われたと不平を言わないでください。その不当な扱いも父はご存じでしょう。
私が父を離れたと思っていたのに、実際には父の前に立っていることを知り、父の愛を知らないと思っていたのに、私の体が既に父の愛に包まれていることを知るとき、父は私の父であることを感じるのです。私が知ろうとしている父は観念にとらわれた信仰の神ではなく、実際に体感できる、つまり私の生活圏内で体感できる親しい父なのです。
イエス様が「父よ、できることならば、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望みどおりではなく、父の御心のままになさってください」(マタイ26:39)と祈られたように、深刻な立場で父と私が一つになった一体感を皆さんは感じなければなりません。
そうなると、希望の信仰、希望の命、希望の愛が私に宿るのです。
そして私が動けば万物が動き、私が動けば、すべての人が私の後に続くのです。皆さんがその境地に達するとき、すべての万物が皆さんを前にして喜ぶのを感じるでしょう。また、その境地に達すると、他の人が聞くことのできないことを聞き、他の人が見ることのできないことを見、他の人が知ることのできないことを知り、他の人が体感できないことを体で体感することができるのです。
このような人間が本来のエデンで父を迎えて生きるべき人間の姿でした。しかし、私たちはそのようなことを感じることのできない堕落した人間であることを皆さんは知るべきです。そこで、6千年の歴史を代わりにして24億の人類を代わりにし、天の世代を代わりにして、父の前に自分を立たせ、6千年間悲しみ続けてこられた切ない心情を抱きしめて、「父の切ないすべての心情を私たちが引き受けます。父の心配と悲しみと苦しみを私に任せてください。6千年間労苦してこられた父を慰めることができる子として孝行を尽くし、忠臣となります」と誓わなければなりません。しかし、皆さんにこのように切なく父を呼び、切実に訴えたことがありますか?ないならば皆さんは悔い改めるべきです。
今日の私たちの信仰生活をもう一度振り返ってみると、神は私一人を探し求められましたが、私一人として私を探されたわけではありません。これを皆さんは感じるべきです。神が私を愛するのは私一人を愛するためではなく、天と地全体を愛するためです。私を呼び出すのも私一人を良くするためではなく、天と地のためなのです。私を信じようとするのも私一人のためではありません。私を愛し、私を命の実体として立てようとするのも、私一人のためではなく、全宇宙のためなのです。したがって、皆さんの体と心は永遠に皆さんのものでないことを知るべきです。
皆さんが天の恩恵を受け、意志の前に感謝したことがありますか?皆さんは喜ぶ前にまず涙を流すことを知るべきです。私が喜ぶときに、この地のすべての人々はどうなのか?私は高まっているが、天の栄光は現れていないので、この天の栄光をすべての人々の前にどう示すのか?これを考えるべきです。自分だけが楽しんで喜ぶのではなく、自分を媒介とする神の宇宙的な摂理が残っていることを皆さんは知るべきです。
神は私たちに接する際、宇宙を創造されたご自身の威信を忘れます。神は創造主であり、天と地の主人公として摂理を導いておられます。天は今日、サタンの支配下にある皆さんを天と地の信仰と命と愛を持って接しておられます。これを皆さんは忘れてはなりません。
神の願いを知り、神の信仰を成し遂げ、神の命と愛の意志を成し遂げる人となるべきです。そして、永遠の愛と永遠の命の炎が皆さんによって燃え上がるようにしなければなりません。これを生活の中で時間ごとに感じることができる皆さんとなり、父を迎えて苦難の道を切り開く使命が堕落した後代の人間の前にあることを悟る皆さんであるべきです。
したがって、皆さんはすべての戦いを戦い抜き、敵を打ち倒し、打ち倒した後に父に勝利の礼拝を捧げるべきであり、皆さんの体が父の安息の住みかとなり、皆さんの心が父の安息の住みかとならなければなりません。
こうして創造当初の父に悲しみを与えたことを振り返り、「私を通して堕落しなかったアダムの永遠の姿を見て楽しんでください。父よ!アダムの堕落によって失われた意志を私を通して見つけてください」と言える心を持つべきです。そのような皆さんになってこそ、「おお、父よ!どうぞお越しください」と言える父の子供となることができるのです。
<祈祷>
愛するお父様、あなたは義の先知先烈たちを送り、私たちを探し求めてくださいました。また、イエスを送り、私たちの心の基盤を整えてくださいました。今や私たちの体であなたの意志を実体的に成し遂げる意志が残されていることを知っています。私一人の存在は家庭を通してあなたの意志を成し遂げ、さらに万物をもあなたの前に立てなければなりません。お父様、共にいてください。
私たちに留まる天国だけを建設するのがお父様の意志ではなく、万物の領域にまであなたが臨在できる実体的な天国を建設する責任が私たちに残されていることを知りました。このような宇宙的な責任を果たすべき私たちが堕落した世界に残っていることをお父様がご覧になるとき、私たちの行路を心配し、嘆かれることでしょう。不足で弱い私たちを再び支えてくださり、永遠の命を持つことができるよう導いてください。
お父様が導いてくださるならば、私たちは失望しません。私たちはためらいません。だからこそ、お父様の命と栄光を所有するために敵サタンを打ち破り、お父様が動かされることができる個体となり、お父様が動かされることができる教会と国、世界と天国を建設できる天の勇士たちとなるよう導いてください。愛するお父様、切に願います。
今や私たちの心でお父様の心情を感じ、私たちの体でお父様の命を感じて、万物の領域にまでお父様の前に立てる子供たちとなるよう導いてください。今日の多くの人類の前にも、あなたの喜びの知らせが届くようにしてください。
お父様、どうぞお越しください
1958年3月9日(日)、前本部教会
聖書拝読:エペソ人への手紙 1:15-23
<祈り>
愛するお父様、私たちを見守ってください。私たちの心はさまざまですが、私たちの生活の中にお父様の性質が現れ、お父様が動けば私たちも動き、お父様が静まれば私たちも静まる、義の実体となることを許してください。
弱い私たちが、お父様の前にひざまずき、天性を目指しているのをお父様はご存知です。たとえ私たちの身体が俗世に囚われ、永遠のお父様の恩恵を妨げているとしても、私たちの身体が俗世のすべてに打ち勝ち、お父様の姿が私たちの心と身体を通して現れることを許してください。そして、そのような摂理の意図と恩恵、愛が私たちに注がれていることを心で感じ、身体で感知できるように、お父様、導いてください。
私たちの心は今日も絶対的な善を目指していますが、身体は俗世のものを求めようと心に絶えず反撃を加えています。ですから、お父様、私たちの心と身体が、お父様の意志を中心にして一つになることを許してください。そして、お父様と私たちの感情の隔たりを取り除き、サタンが活動できる足場を私たちの身体と心から完全に取り除いてくださるよう、切に願い求めます。
天は今日まで私たちの心を中心に身体を抱きしめて愛したいと願ってきましたが、まだ忠誠を込めたお父様の性質と姿の前に完全な美の対象として現れていません。これが歴史的な悲しみであり、嘆きであることを私たちは知っています。お父様の前にひざまずくしかない身体と心、罪に染まった身体と心、お父様の満ちあふれる恩恵を望む足りない身体と心ですから、私たちに何も持たないことを許してください。そして、身体と心全体をお父様が握りしめてください。私たちに与えてくださったすべてのものは私たちのものではなくお父様のものでしたから、お父様が共にいてくださり、導いてください。
そうして、お父様の姿の前に喜びをお返しし、お父様の心に応える一つの姿として現れることを許してください。今、私たちはお父様が6千年の間望んでおられたその希望の基準を備え、お父様の御前にひざまずき、お父様に栄光をお返しすることができるように許し、お父様が安息できるように、お父様の姿を現すこの時間を許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
人間が持っているすべての主義・主張と人間が持っている権利、これらすべてがなくなるという事実を知っています。ですから、私たちの心と身体が永遠に存在できる根本的な立場に入り、新しく爆発してくる力と復活の目を私たちの心に持つことができるようにし、自分を中心とした生活を捨てて、天宙を中心とした生活に変えてくださるよう、愛するお父様、切に願い求めます。
愛するお父様、私たちを民を代表する個体とし、世界人類を代表し、全ての被造物を代表する者とさせてください。そして、お父様の前に頭を下げて崇拝し、6千年間にわたる恨みの心情を解放する姿になり、お父様がサタンの前で誇れる子供たちとなることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、この日、お父様の御前に集まった多くの祭壇を祝福し、困難な状況で嘆いているこの民族を憐れんでください。この民族がたとえお父様の意志を知らずに死の権威に囚われていても、命の祭壇に属している者も多いので、お父様、その人々に恩恵を与えてください。勝利の園を築き、お父様の意志を成し遂げることで、全宇宙が喜ぶ一日が早く訪れることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
私たちのすべてを捧げますので、お父様、喜びと共に受け取ってください。そして、お父様のものとして全てを御支配ください。この時間、伝えたい言葉を中心に再創造の恩恵を与えてください。伝える者の心と受け取る者の心が一つとなるようにしてください。私たちの身体を中心とした天倫の意志が急を要することを知っているので、私たちの心が自動的に動き、お父様の意志を効率的に成し遂げることができるように導いてください。
お父様の心を私の心に、お父様の情を私の情として感じることができるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。すべてをお任せしますので、御意志のままにしてください。主の名前によってお祈りします。アーメン。
<御言葉>
今日、皆さんの前でお話ししたい題目は「お父様、どうぞお越しください。」です。この題目でお話しします。
堕落のない園は、神が万物と自由に接触できる園であり、神が人間に自由に会いに行き、相談できる園であることを私たちは知っています。そしてこの園は、人間はもちろん、人間のために造られたすべての被造物も神を迎えることができる栄光の園であり、人間が神と共に相談できる喜びの園です。しかし、堕落という言葉が生まれたその日から、神に対面できない人間となり、神と共に楽しむことができない万物となったことも、私たちはよく知っています。
天地万物を創造された神は、永遠に共にいるために人間を万物の中心として創造されました。それで被造物は人間を通して神の栄光を現し、すべての被造物が人間を通して神に喜びを捧げることができるはずでした。しかし、そのような被造物の園とならなかったために、神がその日を歴史の終点として、一つの希望の基準として据え置き、摂理して来られたことを、今日私たちは新たに認識しなければなりません。
では、堕落の血統を受けた今日の多くの人類と、堕落の種族権から脱出できない私たちが求め、憧れ、敬慕するその理想の園はどのような園であるべきか?その園は、天地を創造された神を「私の父」と呼ぶことができる園であり、創造主を迎えてその創造主の喜びを私が共に感じることができる園です。さらにその喜びを私たち人間を通して万物にまで伝えることができる園です。そのような園とならなければ、神のすべての創造の理念が失敗に帰し、人間が歴史の過程を経て敬って来た摂理の意志も失敗に終わるのです。そうなると、人間を見守って来た万物までもが嘆きの領域に戻ることを、私たちは深く感じる一日を持たなければなりません。
私の心がこのような心情に動かされ、私の身体がこのような感情を感じなければなりません。そのような場所で天を仰ぎ、創造主の姿を懐かしみ、万物に対して元の美を備えた自らがなければ、お父様が動かせる復活した実体となることはできません。そのような立場で、創造主と全宇宙の被造物の前に自らをさらけ出して分析できる一時がなければなりません。そのような一時がなければ、神の心情が皆さんの身体に染み込むことはなく、万物の嘆きが皆さんを通して解放されることはないということを、皆さんは知らなければなりません。
本来神を迎えて生きるべき人間であり、神を迎えて喜ぶべき万物でした。しかし、今日私たち人間は、私たちを造られたお父様、私たちを支配すべき主人を失った状態にあります。
そのため、私たちは孤児のように哀れな存在となったのです。この事実を悟ったその瞬間から、私たちは新たな摂理の意志を求めることができるのです。しかし、いつ人間が昔のエデンで失った創造主を私たちの「お父様」と呼び、エデンで失った善の園が本来私たちが生きるべき生活環境であると感じたことがあったでしょうか。今日まで数千年の歴史が経過しましたが、そのような時がまだ人間世界に現れていないのです。
今日、私たちが持っているもので、絶対唯一の天の善を代替することはできず、私たちが父に対面することはできない堕落した罪の子孫であることを認識するならば、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちは自らを奮い立たせて何をすべきなのでしょうか。私たちは父の意志を見つけて捧げなければなりません。私が持っているすべてを失い、すべてを犠牲にすることがあっても、私たちの祖先が望んだ理想の主人である神を自分の父と呼ぶことができなければなりません。そして、その神を皆さんの生活圏内に現すことができなければ、皆さんは神の子として立つことはできません。しかし、その神を皆さんの生活圏内で現し、万物の前に現すその日が来なければ、祖先たちが歴史の道のりで歩んできた摂理の道は失敗に終わることを私たちは知っておかなければなりません。
それでは、皆さんは眠っている心を奮い立たせて何を解放すべきなのか、身体を奮い立たせて何に向かって走るべきなのか。唯一、エデンで神がアダムとエバに対して抱いた切なる心を解放しなければなりません。神が万物に対して創造の美を感じながら人間に対して喜びを感じようとしたその父の心情を、具体的な時間の中で皆さんが感じることができなければなりません。このような心がなければ、たとえ歴史の終末期にその理想の園が来ても、父がこの地に再び現れる日が来ても、皆さんとは何の関係もないということを知っておかなければなりません。
このような神と私の間の隔たりを誰が埋めるのでしょうか。このような恨みの溝を誰が清算してくれるのでしょうか。これが歴史的な嘆きであり恨みであったことを今日私たちは感じています。
それでは、この私と天との間の隔たりを誰が作ったのでしょうか。人類の祖先の堕落による罪の血統がこれを作ったのです。したがって、これを乗り越えて天の血統を受けることによって、身体と心から天と関係を結び、自分を中心とした家庭と社会、国家、世界、宇宙を天と関係づける使命が皆さんの前にあるのです。
今日、皆さんが自分の過去を反省する時、自らが天の法の前に罪の血統を受け継いだ姿であることを感じないわけにはいかないでしょう。これが天が今まで嘆いてきた理由であり、万物が嘆いてきた原因なのです。神は今までこのような人々を救うための労苦の歴史を経て来られたことを私たちは知っておかなければなりません。
今、皆さんは自分自身を奮い立たせて内的なすべての壁を乗り越え、エデンの園で神に対面できた、堕落していないアダムの姿を代わりにして「お父様、どうぞお越しください」と祈ることができなければなりません。
神は堕落した人間と復帰の縁を結び、失われた理想の園を探し求めています。神が堕落した人間を復帰し、かつて堕落していなかったアダムとエバに対面していたその喜びの園を建設し、天の喜びを基点として世界的な理想を創建するために摂理しておられる歴史が救済摂理の歴史であり、今日私たちが歩んで行かなければならない復帰の歴史なのです。
したがって、今日復帰の道を歩んでいる皆さんが、自分自身を天倫の道の前に冷静に立たせて批判しなければなりません。皆さん自身がどのような位置に置かれているのか、どのような立場で苦しんでいるのかを反省しなければなりません。その位置と方向を人間に教えようとする神の愛があったからこそ、今日人倫を代表する宗教が立てられたということを皆さんは知っておかなければなりません。
それで神は信仰という名詞を立て、歴史の過程で宗教を中心にして人間を探し求めておられます。今日この時まで、神は休む間もなく人間世界で人間と共に住むことを願って労苦して来られたということです。神は無形の神であるため、時間的な距離を超えた心情を持って今日まで人類を探し求めて来られたのです。
歴史の過程の神は、自らを裏切った人間たちを時間と空間を超えて探し求めて来られましたが、その神を迎えた人間は多くありませんでした。このことを考える時、私たちは堕落の子孫の立場から当然天の前で鞭を受けるべき存在です。しかしながら、神は6千年間摂理を引き受けて労苦して来られたことを皆さんは知っておかなければなりません。
それでは、今日の私は一個人であり、三千万の中の一人ですが、この一個人が神を迎えることができ、神をこの地に臨在させることができる子供になるならば、三千万以上の価値を持つ存在となり、二十四億の人類全体以上の価値を持つ存在となります。また、被造世界にある全ての被造物以上の価値的存在となるのです。まさにそのような姿の私たちに会いたくて労苦して来られた父であることを皆さんは知っておかなければなりません。
今日、私たち人間は自分にある重要な部分の価値を忘れて生きていることが多すぎます。歴史の道のりを経て探し求めて来られた天が、常に私の周りで運行していることを考える時に、また私の生活環境に天が住むことを望んでいるという事実を知る時に、皆さんは歴史の道の前で、時代的な摂理の意志の前で頭を垂れなければなりません。
天倫の意志の前で頭を垂れるべき人間なのに、人間は歴史の過程を経て来た中で摂理の意志を忘れ、自分たちの威信と品位を忘れて進むべき方向を見失っています。このような人間を見ている神の辛い心情を皆さんは感じなければならず、またこのような神の摂理の意志を気にかけなければならない時が来ていることを知っておかなければなりません。
このような神、このような創造主を私たちの信仰の主体として迎えたいと願うとしながら、実際には自分を中心に信じているならば、それは天と何の関係もないのです。私たち一人ひとりを見れば、二十四億分の一に過ぎない人間ですが、天は全宇宙を代替する価値の存在として私たちを信じようとし、私たちを愛し、私たちと共に住むことを願っているのです。しかし、このような父の心を今日の人間は夢にも思っていないのです。
このような観点から私自身を考えると、私は天に信じてもらえない存在であり、神が対面できる生命体ではありません。さらに、神の前に立てる愛の心情を持っていないということです。
こうして堕落した親を持つ後代の人間は、本来の園、永遠の天国世界で神と永遠に楽しむことができなくなりました。神の永遠の命を持ち、神の永遠の愛の権内で神を迎えて楽しく生きるべき人間が、それをできなくなったのです。人間世界が罪の世界となり、人間は信じてはいけないものを信じ、持ってはいけない命を持ち、してはいけない愛の生活をするようになりました。そして、このように信じられない世界となったことで、信じられない道が残され、それが霊界の地獄であり、地上の地獄なのです。
このような二つの世界の矛盾した立場が、今日私を計りにかけていることを皆さんは知っておくべきです。一方では地獄の不信が私に訴えかけており、他方では神の愛が私に訴えかけています。つまり、一方では世の死の愛の権が私に訴えかけ、他方では私に永遠の信仰を持つように訴えかけ、永遠の愛を持つように訴えかけているのです。このような立場にいる自分を皆さんは感じることができるでしょう。
人間の堕落により、私たちのこの身体は神の嘆きの領域内にある万物を摂取しながら成長してきました。今日、神の嘆きの領域内、すなわち罪の領域内にある私の身体を分析すると、善の要素よりも悪の要素が多いのです。ですから、私の全体的な生の道のり、信仰の道のり、愛の道のりで、この悪がより強く動いているのです。創造主がこの被造世界を作った目的は、人間を中心として成し遂げられることでした。しかし、堕落により、人間の心の奥深くに感じられる何らかの傷、何らかの曲折が皆さんにぶつかっているのを感じているでしょう。
どんなに悪い殺人犯であっても、自分の悪い行動に対しては良心の呵責を感じます。これが人間の本性です。天倫の法則がそうであるため、人間は天倫の法則を破って堕落したとしても、その天倫の法則から逃れることはできません。したがって、人間は天倫の法則を破り悪事を働いたときには良心の呵責を感じずにはいられないのです。
今日の人間はこの地上の何物も信じることができず、地上のどんな生命も頼りにすることができず、地上のどんな愛も感じることができず、全宇宙に対して嘆き、恨みを持つ人が多いのです。しかし、自分の心の中で永遠に信じられるものを求め、永遠に楽しむことができる愛を求めて泣きながら嘆く人はいないのです。
しかし、天は善の意志のために心配する人を通して神の意志を成し遂げようとします。そのような立場で善と悪の数を比較すると、悪が善に比べて数えきれないほど多いことがわかります。これを見ている神は、今日も人類の悲しみに代わって善を見つけようとする切なる悲しみに満ちているのです。人類を信じようとする神が信じることができない立場にいるその悲しみを皆さんは知っておくべきです。
本来は信じてくれるべき人間であり、愛すべき人間であり、神の生命体となるべき人間でしたが、その人間を信じようとしても信じられず、生命を共有しようとしても共有できず、愛を共有しようとしても共有できないこの悲しみを皆さんは知っておくべきです。
皆さんは地上を見つめながら、「神の悲しみが残る地よ!神の悲しみの壁を築く人類よ!」と嘆き、その神に代わって胸を痛める一人の人が歴史の終末期に現れないかどうか注意すべきです。もしそのような一人が現れなければ、神の労苦の歴史も水泡に帰し、サタンの告発条件、つまり罪による嘆きの条件が残る世界で生きざるを得ない立場に置かれるということを忘れてはなりません。
そして今日、私たちは自分が罪人であることを忘れ、前途が閉ざされていることを感じず、その閉ざされた立場で希望を持とうとしています。それを見ている天の心情はさらに悲惨な立場に置かれているということです。
私たちは歴史の過程で神を裏切った祖先の血統を受け継いできました。ですから、今日の私がこのように罪の血の結晶体であるならば、この身体を何で爆発させてその罪を消すべきでしょうか。今、皆さんは新しい人にならなければなりません。新しい理念と新しい信仰、新しい生命と新しい愛を持って天の兄弟姉妹となるべきです。6千年間私を探し求めようとした神のその切なる心情を感じ、私たちもまた切なる心で「父よ、どうぞお越しください!」と叫ぶことができる自分になっているかを反省すべきです。
私たちの祖先はこれまで神の意志を代わり、ある時代の使命を果たそうとしてこの地に現れましたが、すべて挫折しました。そのような歴史の繰り返しがこれまでの復帰の歴史であることを皆さんは原理を通してよく知っているでしょう。
復帰の恨みに満ちた神は今まで苦しい心情を抱えて耐えて来られました。つまり、今まで神は拒絶される中でも耐え、裏切られる道のりでも耐えて来られたということです。しかし、皆さんは私たちを立てて今日まで望んでいる神の事情を心に深く感じたことがあるでしょうか。皆さんは真に今まで歴史を導いてこられた父が私の父であり、私のために労苦してこられた父であることを自分の身心で感じなければなりません。
私たち韓国の民が何も持たず、哀れであるとしても、私たちの中で天の希望に接し、神の心配を抱き、神の信仰の心を持ってこの地に現れる人がいるならば、またそのような集まり、そのような民族となるならば、天の全権的な偉業を継承できないと誰が断言できるでしょうか。哀れなこの民族、頼るべきところのないこの民族、希望を持つべきところのないこの民族が今持つべき希望は何でしょうか。罪に対する悔い改めの心を持ち、神に対する信仰を持ち、神に対する希望を持ち、神に対する愛を持つことです。
そうすることで、この民族は天国の子供となることができるのです。つまり、新しいエデンの園で住むことができ、創造理念の目的を代わりすることができる新しい民族となるのです。
神は捨てるべき堕落した人間を捨てずに再び探そうとしておられます。しかし、その神と人間はもともとどのような縁で結ばれていたのでしょうか。生命の縁で結ばれ、愛の縁で結ばれていました。では、今日の終末において世界の人類を動員して私たちが探すべきものは何でしょうか。神と結ばれた生命そのもの、愛そのものを探さなければならないのです。今日の人類はそれを探し求めてさまよっているのです。
また、神は永遠に信じることができ、永遠の家族を築き、永遠に相談できる一つの世界を作る人間になることを望んで、これまで歴史を進めてこられました。堕落した人間ですが、神はその人間を今まで探し求めてこられたのです。
イエス様はどのような方として来られたのでしょうか
エデンの園で永遠に信じられる人間にはなれませんでしたが、永遠に信じられるその心の基準は誰が持っているのでしょうか。神が持っています。永遠の生命の心の基準を持つ人間であるべきでしたが、人間が神を裏切ったため、その生命の心の基準を神が持っておられるのです。また、永遠の愛の心の基準を持つ人間であるべきでしたが、人間が神を裏切ったため、その愛の心の基準も神が持っておられます。
では、そのエデンの園の理念を建設する要素を人間の前に提示するために来られた方は誰だったのでしょうか。それがイエス様でした。神の信仰と生命と愛を代替する一つの基準をこの地上で見つけるために、神は長い歴史の過程を通じて労苦してこられましたが、見つけることができませんでした。ノアを通じて、アブラハム、ヤコブ、モーセを経て探そうとしましたが、そのような基準の人間を見つけることができず、4千年の間労苦してようやく見つけ立てた存在がイエスだったのです。
では、イエスはどのような方だったのでしょうか。彼は世の権力を持つ方ではありませんでした。世俗的な学識を持つ方でもありませんでした。彼は時代の反逆者として追われる存在でした。罪悪の世の中で公義を代わりにして追われた代表的な主人公でした。
そのようにイエスが追われたのは、彼の価値がなかったからではなく、何が欠けていたからでもなく、全世界が不信の地であったためです。生命のない世界だったためであり、愛のない世界だったために排斥されたのです。
では、イエス様はどのような代表者だったのでしょうか。アダムはエデンで堕落して信じられる親にはなれませんでした。そこで、そのアダムの代わりとしてイエス様は来られました。また、永遠に信じずにはいられない信仰の主人公として来られました。エデンで失われた神の生命を再び縁づけるために来られ、エデンで失われた神の愛を人間の心に再び縁づけるために神の愛を代表して来られたのです。
では、イエス様はどのような方だったのでしょうか。彼は信仰のメシアであり、生命のメシアであり、愛のメシアだったのです。すなわち、彼は信仰の救い主であり、生命の救い主であり、愛の救い主として来られました。神は4千年間人類歴史を主導しながら、自らの生命と愛が心の基準を成すことを望まれましたが、それがイエスによって実現されたのです。こうして初めて神の摂理の歴史がこの地上で再び始まり、復帰の新しい意志が成し遂げられることとなったのです。
このような歴史的な意志を持って来られたイエス様の前で、当時の人々は実体的な信仰を持たなければなりませんでした。イエス様の理念と一体となるべきでした。神が抱いていた無形の信仰の理念、無形の生命の理念、無形の愛の理念が表現された一つの化身体として現れた方がイエス様だったのです。
しかし、誰も「おお、あなたは神が4千年間労苦して探して来られた信仰の結晶体です。4千年間探して来られた神の希望と生命の実体です。おお、あなたは神の理念の園で楽しむことができる永遠の愛を持って来られた主人公です。」と証言しませんでした。歓迎されませんでした。誰も彼の心情を解き明かし、彼の秘密の言葉をこの地に明らかにすることができませんでした。これが二次的に人類に悲しみをもたらしたのです。
そのため、イエス様はこの地に来られましたが、心と身体を備えた一つの実体として神の信仰と神の生命、そして神の愛を証しできないまま去って行かれました。
そこで、イエスの霊と一体となった信仰、イエスの霊と一体となった生命、イエスの霊と一体となった愛が、今日の人間とは距離が遠くなってしまったのです。そして、イエス様が霊的な信仰、霊的な生命、霊的な愛の主人公となったという事実は、実際には喜ばしいことではありません。そこには天の悲しみが含まれていることを知っておかなければなりません。
すなわち、神は自らの理念を代わりにする実体を求めておられます。イエス様は神の実体としてこの地に神の信仰を持って来られ、神の生命と神の愛を持って来られましたが、その実体を人類が破壊したために、神は悲しみの神となられました。
神が人間を探し求めるときは、霊を通して実体を探し求めて来られます。そしてその実体を通して万物まで探し求めて来られます。しかし、人間が実体を通じる信仰の資格者、実体を代わりにする生命の資格者、実体を代わりにする愛の資格者となれず、このことが霊的にのみ成し遂げられたのです。だから今日、私たちはそれを霊的にのみ感じています。すなわち、今日の人類は霊的救いの理念を求めており、霊的生命を求めており、霊的愛を求めてさまよっているのです。
このようにして神は4千年もの間労苦して、人間がその実体的な栄光の存在をこの地上に迎え、その者を永遠に信じることができる環境、彼と共に永遠の命を享受できる環境、永遠に愛することができる環境を霊的に成し遂げてきたのが楽園の救いの摂理であり、新約聖書を中心とした救いの摂理であることを私たちは知っています。
しかし、その霊界にいる霊たちが信じている信仰、望んでいる命、願っている愛が実体として現れる時がこの地上に訪れなければならないのです。
エデンの理念は、神を中心に人間の心と体が一体となってその神を迎えるだけでなく、万物と一体となって神を迎えることでした。これが原則であるため、神は今まで労苦の歴史を経て皆さんと一体となろうとしてきたのです。このような切なさがあったことを皆さんは知っておくべきです。
イエス様が来られ、実体の聖殿を成し、神の理念を代わりにすることができる実体的な家族を築き、神を迎える出発が成し遂げられていたならば、今日の私たちには千年王国の理念は必要ありません。再臨の理念も必要ないのです。
主イエスを中心に実体的な信仰を通過できる人となり、実体的な命を通過できる人となり、実体的な愛を通過できる人となるならば、実体の夫婦として実体の子供を持つことができるのです。そうなれば、神の実体的な信仰の人間となり、実体的な命を持ち、実体的な愛の存在となることができるのです。しかし、そのような基盤がまだ地上に現れていないことが神の悲しみなのです。
そのためイエスは「天国はあなたの心にある」と言われました。天国はまず心から見つかります。その後に「天国はあなたの体にある」と言えるようにならなければなりません。つまり、天国は私の実体にあると主張できる日が人類の前に訪れなければ、初めて私の体が霊と一つになって神を父と呼ぶことができるのです。
ここにイエスの悲しみがあります。心の天国を代わりにする霊的な天国は成し遂げられましたが、体の天国の理念を代わりにするそのような天国は成し遂げられなかったため、再び来なければならない立場に置かれ、歴史の過程を経て神の右手に座し、人間のために祈らなければならない運命に置かれているのです。したがって、終末にある今日の人類は実体的な信仰を持たなければなりません。
これまで歩んできた自分の信仰の道を振り返ってみると、神の意志を不信していた心と体でした。したがって、皆さんは永遠の神の命の縁と永遠の神の愛の縁を探して実体化したと言える人となるべきです。また、そのためには「父よ、あなたの実体となることができる私たちにしてください」と常に祈らなければなりません。そのような人間にならなければ、人間はこれまで負ってきた歴史を脱することができず、失われた天国の理念を復帰することができないのです。
そのため神はこれまで人類を心配してこられました。特に終末にある私たちに対してはより大きな心配をしながら探しておられます。したがって、今日私たちは2千年前に来られたイエス・キリストの実体を代わりにする一つの希望の存在となるべきです。
信仰に対する希望、命に対する希望、愛に対する希望の姿で生きているかを常に父の前で告白できるようにしなければなりません。そして「はい、父よ!私は父を信じます。父が私を信じなくても、私は父を信じます。父が私を見捨てても、私は父を見捨てることはできません」と言える心構えで生活しなければなりません。
天倫が変わろうとも、天上のどんな存在物が私を裏切ろうとも、私は父を裏切ることができないという心を持つ主人公、天上天下の誰もが信じられない状況でも信じることができる心を持つ一人の主人公はいるでしょうか。神はまさにそのような人間を探すことができる希望の一日を望んでこれまで摂理してこられたのです。しかし、このような悲しい父の事情を理解してくれる人はいるのでしょうか。教会はあるのでしょうか。人間はこれを知らずにいる哀れな存在です。
天の意志を抱いて世に現れる人は拒絶されます。イエス様の時代にも、すべての人がイエス様の敵でした。拒絶されない人、敵でない人はむしろ偽物でした。イエス様はこの地に来られて家族の中で足場を失いました。神が選んで準備した洗礼者ヨハネの一派からも拒絶されました。4千年間労苦して準備された教団からも拒絶されました。選ばれたイスラエル、アブラハムの血族からも迫害されました。全人類に迫害されました。また霊界からも拒絶されました。さらに神からも拒絶されました。
そこでイエス様は「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(これは、わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか、という意味です)」(マタイ27:46)と記された聖書の言葉のように、悲惨な立場で命を終えられました。そのような悲痛を感じた方が私たちの救い主であり、人類の救い主であり、私たちの指導者であったことを皆さんは忘れてはならず、そのイエス様の心情を理解できるようにならなければなりません。
エリヤもイスラエル民族の前で拒絶され追われたときに、「父よ、私だけが残りました」と訴えました。皆さんはそのような心情を理解できる時を持ったことがありますか?3千万人の民族が皆拒絶しても、世界の24億の人類が皆拒絶し、天上に行ったすべての霊が拒絶しても、「私だけはあなたを捨てません」と言える皆さんでなければなりません。
そのような心情を持った人は地獄に行こうとしても行けず、この地で滅びようとしても滅びることができないのです。そして、どんな手段で壊そうとしても壊すことはできないのです。
イエスがこのような心を持って「父よ、できることならばこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願い通りではなく、父の御心のままになさってください」(マタイ26:39)と訴えたその心が、死の権力を踏み越える一つの中心的なポイントとなったことを知っておかなければなりません。イエス様はこの地に来て民族から拒絶され、教会から拒絶され、種族から拒絶され、さらに見えない霊界のサタンからも拒絶されました。つまり、誰一人として友人のいないイエスでした。そのようなイエス様が今日の人類の救い主として現れるとは、当時の人々は夢にも思わなかったでしょう。
このように見ると、新しい歴史創造の基準はイエス様によって成し遂げられたのです。イエス様は永遠不変の心情を持ち、父が自分の命の主人であり、生活の主人であり、愛の主人であるという心を持って生きた方です。イエス様の信仰と命、そして愛は誰も断ち切ることができなかったので、イエスによって成されたキリスト教は、どの民族国家に入っても打ちのめされることなく発展してきました。
今日、統一教会に集まっている皆さん、皆さんが人類のために役立とうとするならば、イエス様が信じた信仰の内容を持たなければなりません。イエス様が死の道を覚悟して命を捧げることができた信仰の基準、つまり自分の体まで犠牲にすることができた信仰の基準を終末の皆さんも持たなければならないのです。天はそのような信仰の基準が終末の聖徒に現れることを待ち望んでいます。
救われるべき私たちが、永遠の命を見つけるべき私たちが、父の愛の中に抱かれるためには、あらゆる苦難と厳しい傷を乗り越えなければなりません。今や私たちは家庭や社会、国家、世界が反対してもそれを乗り越えて、ただ神の意志だけを掴んで進み出たイエスの立場に立ち、歴史的な死の種族に向かって突進する天の精兵となるべきです。
天は私たちをどのようにして探し求めてきたのでしょうか。天の御座にいる霊なる神は、天地創造から4千年を待ち、イエスを立てて人間を探し求めようとされました。また、イエスの後、私たちの心を代わりにする霊的な世界でさらに2千年を労苦し、今日まで6千年の労苦の足跡を通して私たちを探し求めてこられたのです。ところで皆さんは「父よ、申し訳ありません。父よ、面目ありません。父よ、どうすればよいのでしょうか」と言いながら、自分を探し求めて労苦してこられた父の悲しみを晴らしてあげようとする子供の孝心を持っていますか?これが天が望んでいることであることを皆さんは知っておかなければなりません。
そのような心を持つ子供たちになれば、イエス様が33年間、憐れみの心を持ち、愛の心を持ち、父の心を掴んで苦難の中で復活の歴史を起こされたように、皆さんもそのような心を持ち、死の権力を踏み越えて復活の歴史を起こさなければなりません。そのような皆さんになれなければ、皆さんは死の権力を踏み越えて復活した栄光の姿で生きることはできません。
皆さんは今や神を心と体で確実に知るべきです。皆さんが神を頭で知る時は過ぎました。神を頭で知るのではなく心で知るべきです。今は心で知るだけではなく、体でも知るべき時なのです。したがって、観念的な信仰の時代は過ぎ去りました。心で信じながら体でも感じ取る時が来たのです。
なぜなら、終末は永遠不変の信仰の実体を探し求める時であり、永遠の愛の化身を立てようとする時だからです。そのような実体が現れるならば、私の体から不信という言葉はなくなるのです。
したがって、今や皆さんは父の心情を心配することができる子供の姿となり、父を迎えるべきです。そうでなければ、皆さんは哀れな人となるでしょう。神が存在することを知らないならばともかく、知っているならば、私たちを探し求めて労苦してこられた神は、私たちが心の主人公としてだけ迎える方ではないことを知るべきです。
神は私と永遠に一体となり、食べるときも共に食べ、生きるときも共に生きる、すなわち永遠に共に苦楽を共にする実体的な主人公です。永遠に変わることのない愛の本体であり、永遠の希望の化身です。このような神の前でイエス様はどんな言い訳もせず、自分自身を忘れて父を代わりにする意志ならばどんな行動も取ることができる方でした。皆さんはこのようなイエス様の足跡を引き継ぐ子供たちとならなければなりません。
イエスは30年以上の生涯を経て福音の言葉を私たちに与えてくださいました。弟子たちを連れて行き、飢えた人々に出会ったときには、その場で五つのパンと二匹の魚で5千人余りの群衆を養う奇跡も行いました。与えるべきものをすべて与えました。信仰も紹介し、命も紹介し、愛も紹介し、人間が求めるすべてを紹介してくれました。
皆さんはイエスの言葉をイエスの実体のように受け入れたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の神の信仰の実体であることを感じたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の命の実体であることを感じたことがありますか?イエスの言葉を通して、彼が永遠の愛の実体であることを感じたことがありますか?皆さんがイエスの言葉を聞いてもこのようなことを感じられないならば、イエスは悲しむことでしょう。
イエス様が30年以上の生涯を歩んだとき、村から村へと追われて、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とおっしゃいました。このような孤独な心情を抱き、苦しんでおられたイエス様の言葉が4千年の天倫の結実を代表する言葉であったことを、その時の人々は知りませんでした。
再創造の命の実体であり、永遠の神が望まれた命の実体として、4千年間人類が望んでいたその意志を成し遂げるイエス様であることを、イスラエル民族は知りませんでした。イエス様が神の信仰と愛と命を持って来られたことを知らなかったのです。
それでは、イエス様を知らなかったために乗り越えられなかったこの山を誰が晴らして越えるのでしょうか。今日、皆さんがたとえ追い詰められ、頼るところのない哀れな群れであっても、イエス様の意志を継ぐ引き継ぎ手となることを望みます。今、イエス様が歩んだ歴史の道を私が再び歩むという心で、嘆く心情を持って民族の前に現れる時が来ました。世界の前に現れる時が来ました。
そのような心情を持って民族と世界の前に現れることで、イスラエルが裏切った歴史を食い止めることができ、ユダヤ教が裏切った歴史を食い止めることができ、イエスの血統的な種族が阻んだすべてのものを食い止めることができ、使徒や弟子たちが裏切ったことを食い止めることができるのです。つまり、そのすべてを私の実体で解決できる一つの姿とならなければならないのです。
2千年前、イエス様がベツサイダ近くの野原で多くの群衆にパンを分け与えました。しかし、パンを食べた群衆はなぜ皆滅びたのでしょうか。言葉を聞いたその民族がなぜイエスを裏切ったのでしょうか。3年間苦労を共にしながら従った弟子たちがなぜイエスを裏切ったのでしょうか。それは、言葉がその日その日のための言葉だと思い、与えられたパンがその日の一時の空腹を満たすためだけのものだと思ったからです。イエス様が与えた言葉が自分を通して世界の終わりまで伝えるべき言葉であることを知りませんでした。イエスが分け与えるパンが自分を通して世界人類の前に分け与えるべきパンであることを知らなかったのです。
イエス様が与えた言葉とパンは、自分の実体であり、自分の心、体、隣人、民族、国家、世界の全人類にまで伝えなければならないものでした。しかし、この意志を知らなかったために皆滅びました。しかし、今や皆さんが主の前に立つとき、「おお、私の愛する子よ!この言葉を与えるから、この言葉を大切にして神の愛する子となりなさい」とお願いされるのを感じる人もいるでしょう。また、「おお、愛する息子娘たちよ!お前が生きている間に父が臨在できる実体的な聖殿となってくれ」とお願いされるのを感じる人もいるでしょう。したがって、皆さんは父だけが私の命の本体であり、父だけが私の愛の本体であると感じなければなりません。
私には友人も家族も誰も共にする人がいないと落胆しないでください。しかし、父の言葉が共にあり、父の命の実体として父の愛の心情に染まり、天倫の意志に従って生きる人となったならば、落胆しないでください。今日、私たちは追い詰められ、多くの苦難に遭遇しても耐えなければならないのです。私たちが苦しみに耐えるのは、民族のためであり、世界のためになるからです。
今、天と地の嘆きを感じ、骨に染みる苦難を乗り越えて祈る人がいるならば、その人はイエスの友となり、民族の友となり、世界の友となるでしょう。こうして結局、その人は世界の主人公となるのです。
今や私たちは自分が神の中にいるか外にいるかが問題です。神は私たちの心情を通してあなたの願いを果たそうとしています。したがって、私たちが生きること、私たちがとどまること、私たちが理不尽な目に遭うこと、すべてが父のためになるべきです。私たちに愛が絶たれ、物質がなくても、友人がいなくても、父のための縁があるならば何の心配もないでしょう。地上の愛よりも、地上の命よりも、地上の人よりも、父の信仰が、父の命が、父の愛が、父の願いが私に共にあるならば、何の悩みもありません。父のすべてが私と共にあるとき、私はこの地上の多くの生命を代わることができる実体の子供となるのです。
神との一体感を感じなければならない
皆さんは誰よりも民族のために涙を流しています。皆さんは後ろを振り返りながら涙を流さなければならない生涯を歩んでいます。しかし、今や皆さんは父の希望と信仰の実体、永遠の父の愛の実体として立つべき父の意志を知ったので、その使命を果たさなければなりません。
この民族は信頼できる友を持っていません。また、自分の命が安住できる真実の家族も持っていません。では、皆さんはこの民族の前に何を残さなければならないのでしょうか。信頼できない民族の前に信仰を残し、命が安住できる家族のない民族の前に命の家族を残し、頼るところのない哀れなこの民族の前に愛を残さなければなりません。
皆さんがそのような心情を持つとき、ゲッセマネの園のイエス様の立場が今日の私の立場であることを感じるでしょう。つまり、彼の立場が今日の私たちの立場であり、天倫の意志のために歴史を経てきた私たちの祖先たちの立場であることを感じなければなりません。だからこそ、皆さんは今や歴史的な拒絶を受けてもそれを克服する人となるべきです。皆さんはどんなサタンと戦っても百パーセント勝利する人となるべきです。
どんな死の権力でも乗り越え、その死の世界を越えてカナンの福地へ向かい、父と共に6千年間苦労されたその悲しみを共に分かち合えるようにしなければなりません。アダムとエバの過ちを清算し、天の心を持った姿で父に代わって栄光を受けることができる皆さんでなければなりません。天は険しい茨の道も厭わず、悲しみの道を歩んできました。皆さんが追い詰められるとき、心配される父を見つめながら耐えなければならず、父の元に戻ることができる一日を与えられたことに感謝しなければなりません。
私たちが頭で信じる時代は過ぎ去りました。今や皆さんは心と体で信じることのできる信仰の化身となるべきです。命であるイエス様を頭で知る時代は過ぎ去りました。心で知り、体で知る時が来たのです。イエス様の実体が神の信仰と命と愛を代わりにしていたことを、皆さんは心と体で知るべきです。
したがって、皆さんが「左」と言えば、天倫の歴史を代わりにする神の摂理の歴史が「左」となり、皆さんが「右」と言えば、神の命が「右」となり、皆さんが「まっすぐ」と言えば、神が「まっすぐ」となる人間でなければなりません。まさにこのような人を失い、家庭を失ったことが、エデンの園で人間を創造した神の嘆きでした。
皆さんは自分の悲しみを抱えて涙を流さないでください。いつかその涙を父が拭ってくださることを感じるでしょう。自分が不当に扱われたと不平を言わないでください。その不当な扱いも父はご存じでしょう。
私が父を離れたと思っていたのに、実際には父の前に立っていることを知り、父の愛を知らないと思っていたのに、私の体が既に父の愛に包まれていることを知るとき、父は私の父であることを感じるのです。私が知ろうとしている父は観念にとらわれた信仰の神ではなく、実際に体感できる、つまり私の生活圏内で体感できる親しい父なのです。
イエス様が「父よ、できることならば、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望みどおりではなく、父の御心のままになさってください」(マタイ26:39)と祈られたように、深刻な立場で父と私が一つになった一体感を皆さんは感じなければなりません。
そうなると、希望の信仰、希望の命、希望の愛が私に宿るのです。
そして私が動けば万物が動き、私が動けば、すべての人が私の後に続くのです。皆さんがその境地に達するとき、すべての万物が皆さんを前にして喜ぶのを感じるでしょう。また、その境地に達すると、他の人が聞くことのできないことを聞き、他の人が見ることのできないことを見、他の人が知ることのできないことを知り、他の人が体感できないことを体で体感することができるのです。
このような人間が本来のエデンで父を迎えて生きるべき人間の姿でした。しかし、私たちはそのようなことを感じることのできない堕落した人間であることを皆さんは知るべきです。そこで、6千年の歴史を代わりにして24億の人類を代わりにし、天の世代を代わりにして、父の前に自分を立たせ、6千年間悲しみ続けてこられた切ない心情を抱きしめて、「父の切ないすべての心情を私たちが引き受けます。父の心配と悲しみと苦しみを私に任せてください。6千年間労苦してこられた父を慰めることができる子として孝行を尽くし、忠臣となります」と誓わなければなりません。しかし、皆さんにこのように切なく父を呼び、切実に訴えたことがありますか?ないならば皆さんは悔い改めるべきです。
今日の私たちの信仰生活をもう一度振り返ってみると、神は私一人を探し求められましたが、私一人として私を探されたわけではありません。これを皆さんは感じるべきです。神が私を愛するのは私一人を愛するためではなく、天と地全体を愛するためです。私を呼び出すのも私一人を良くするためではなく、天と地のためなのです。私を信じようとするのも私一人のためではありません。私を愛し、私を命の実体として立てようとするのも、私一人のためではなく、全宇宙のためなのです。したがって、皆さんの体と心は永遠に皆さんのものでないことを知るべきです。
皆さんが天の恩恵を受け、意志の前に感謝したことがありますか?皆さんは喜ぶ前にまず涙を流すことを知るべきです。私が喜ぶときに、この地のすべての人々はどうなのか?私は高まっているが、天の栄光は現れていないので、この天の栄光をすべての人々の前にどう示すのか?これを考えるべきです。自分だけが楽しんで喜ぶのではなく、自分を媒介とする神の宇宙的な摂理が残っていることを皆さんは知るべきです。
神は私たちに接する際、宇宙を創造されたご自身の威信を忘れます。神は創造主であり、天と地の主人公として摂理を導いておられます。天は今日、サタンの支配下にある皆さんを天と地の信仰と命と愛を持って接しておられます。これを皆さんは忘れてはなりません。
神の願いを知り、神の信仰を成し遂げ、神の命と愛の意志を成し遂げる人となるべきです。そして、永遠の愛と永遠の命の炎が皆さんによって燃え上がるようにしなければなりません。これを生活の中で時間ごとに感じることができる皆さんとなり、父を迎えて苦難の道を切り開く使命が堕落した後代の人間の前にあることを悟る皆さんであるべきです。
したがって、皆さんはすべての戦いを戦い抜き、敵を打ち倒し、打ち倒した後に父に勝利の礼拝を捧げるべきであり、皆さんの体が父の安息の住みかとなり、皆さんの心が父の安息の住みかとならなければなりません。
こうして創造当初の父に悲しみを与えたことを振り返り、「私を通して堕落しなかったアダムの永遠の姿を見て楽しんでください。父よ!アダムの堕落によって失われた意志を私を通して見つけてください」と言える心を持つべきです。そのような皆さんになってこそ、「おお、父よ!どうぞお越しください」と言える父の子供となることができるのです。
<祈祷>
愛するお父様、あなたは義の先知先烈たちを送り、私たちを探し求めてくださいました。また、イエスを送り、私たちの心の基盤を整えてくださいました。今や私たちの体であなたの意志を実体的に成し遂げる意志が残されていることを知っています。私一人の存在は家庭を通してあなたの意志を成し遂げ、さらに万物をもあなたの前に立てなければなりません。お父様、共にいてください。
私たちに留まる天国だけを建設するのがお父様の意志ではなく、万物の領域にまであなたが臨在できる実体的な天国を建設する責任が私たちに残されていることを知りました。このような宇宙的な責任を果たすべき私たちが堕落した世界に残っていることをお父様がご覧になるとき、私たちの行路を心配し、嘆かれることでしょう。不足で弱い私たちを再び支えてくださり、永遠の命を持つことができるよう導いてください。
お父様が導いてくださるならば、私たちは失望しません。私たちはためらいません。だからこそ、お父様の命と栄光を所有するために敵サタンを打ち破り、お父様が動かされることができる個体となり、お父様が動かされることができる教会と国、世界と天国を建設できる天の勇士たちとなるよう導いてください。愛するお父様、切に願います。
今や私たちの心でお父様の心情を感じ、私たちの体でお父様の命を感じて、万物の領域にまでお父様の前に立てる子供たちとなるよう導いてください。今日の多くの人類の前にも、あなたの喜びの知らせが届くようにしてください。
すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。