人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(20,21)

2024年07月27日 15時35分30秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 20. 愛する息子と娘になって印を受ける者になろう (1958年9月14日)
1958年9月14日(日)、元本部教会。
聖書拝読:ヨハネによる福音書 10:31-36




<祈 り>
 お父様! お父様を迎えて謙虚に崇拝したいという心のない者は、永遠の彼の国でお父様と縁を結ぶことができないことを知りました。
 今、私たちが心の扉を開けて訪ねるとき、その心の中心にお父様の心情を感じて、私の心の主体的な命令に私の体が従うことができる、その待ち望む日を探しています。今日、私たちの心から湧き出るあなたの声を聞いて、失われた自分の体を見つけることができ、お父様が私一人を見つけるために私の背後で苦難と努力の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることができる私たちを許してください。また、お父様に対する敬虔な心を自ら体と心で感じることができる私たちになれるようにお許しください。
 私たちを訪ねて来られるお父様はいつも「栄光のお父様」としてだけでなく、お父様は悲しみの主人公として、あるいは苦痛の主人公として訪ねて来られ、悲運の表情で訪ねて来られました。そのようなお父様であることを知らなかったために、私たちの悲しみをお父様に任せたがり、私たちの困難をお父様に任せたがり、私たちの悲運をお父様に任せたかったことをお許しください。
そのような歴史の道を歩んできて、悲しみを抑えて嘆きながら訪ねてくださったお父様をお父様と呼ぶことができない堕落の種族であることを私たちは悟り、千年のお父様の努力を軽減するために努めるならば、お父様の悲しみの道を知らない息子と娘がいないようにお許しください、私のお父様、切に願います。
 今日、私たちを招いてくださいましたが、集まった私たちにどんな面目があるでしょうか。願わくば、お父様の事情を解放できる者たちがこの場所に集まることを許してください。そして、そのような事がこの一聴衆の体と心から溢れるように許してください、お父様、切に願います。
   2
 この時間、お父様、私たちを抱きしめてくださり、失われた父の恩恵を再び回復し、私たちの罪を清算するこの時間になるように許してください、お父様! 切に願います。
 この時間を司り、お父様! あなたの言葉を伝えたいと願いますので、与える者の心と受け取る者の心が二つにならないように許してください、これを攻撃する者は私たちではなくサタンであることを知っています。私たちの俗っぽい心が悪しきサタンと交流することを望まず、ただお父様の意志だけを信じることができるようにしてください。伏してお父様の前に悔い改めさせてください、私たちが天命が示す道を、お父様とは違う心で進むことがないようにしてください。もしそのような心の隔たりが少しでもあるならば、それを克服するために全体が心を一つにしてこれを乗り越えることができる切なる心を持つことをお許しください、切に願います。
 この日は聖なる日であるので、意志を知らない可哀想な人々を祝福してください、可哀想な立場にいる三千万民族に福を授けてください、この民族のために多くの息子娘がひざまずいて礼拝する場所に祝福の手を差し伸べてください、切に願います。声を荒げて戦う民族を憐れんで見てください、お父様! 互いに許し合い、忍耐できる寛容な心を持つことをお許しください、切に願います。
 地を抱いて泣くべきこの時、あなたの事情を抱いて泣くべきこの時に、お父様の心情を持つ者がいるならば、この者たちを天の側に立て直すと信じます。私たちの姿をお父様、お許しください。天を追って行くと言いながら敵を追って行く可哀想な者たち、敵ではない者を敵と認識して打ちのめそうとしている愚かな者たちをお許しください。彼らの生命を誰が守るのでしょうか? 彼らの進むべき道を誰が明らかにするのでしょうか? 父の言葉を受け取って耐えられるように許してください、お父様、切に願います。
 お父様! 民族の運命を憂う父の意志があることを知っています。民族の進むべき道を憂うお父様!世界中で迫害を受けるこの民族を憐れんでください。この民族を代表して天を仰ぎ、誠心の祭壇を築いている多くの者たちを覚えてください、終末の審判の鞭がこの民族の前に下されないことを心から訴えることができる私たちを許してください!切に願います。

   3

 今、私たちはお父様の前にまず訴え、進むべき責任が私たちにあることを知りました、私たちがこの責任のために生き、この責任のために祈り、この責任を果たすために天に向かって訴え、お父様を中心として生きるならば、必ずや父の意志がこの地に実現すると信じています。この者たちをそのような立場に立たせてください、切に願います。
 この時間を親しく司ってくださることを願い、すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げました。アーメン。


<御言葉>
 この時間は『愛する息子娘になって印を受ける者になろう』という題でしばらくお話しします。
 どのような希望の世界を望む心があるとき、その希望と縁のある場所にいることができるなら、その希望の中心にとどまりたいと願うのは、今日の人々が持っている共通の心情でしょう。
 そして、神の希望があるとしたら、その希望の中に自分たちがとどまることを望むのもまた、皆さんの心でしょう。一つの家庭を見ても、その家庭にはその家庭を導く主人がいて、家族がその主人の心にとどまりたいと願うのも同じ心からでしょう。国家もそうであり、世界もそうであり、天地万物を探し求めて来られた父の摂理の意図もそうであることを、皆さんは覚えておくべきです。

   4

 したがって、皆さんは自分たちが仕える指導者の心に記憶されるべきであり、どのような宗教を信じるにしても、その宗教の教主の心に記憶されるべきであり、さらに神がいるとしたら、その神の心に記憶される皆さんであるべきです。
 そして、神の前に一時的に記憶される皆さんではなく、父の希望と事情をかけて、また父の心情をかけて、永遠に記憶されることのできるそのような息子娘がいるとしたら、天はその息子娘をつかまえてすべての事情を語るでしょう。それだけでなく、6千年の労苦の摂理として探し求めて来られた全体の祝福を無条件で渡そうとされるでしょう。これが父の心情であることを、皆さんは知らなければなりません。
 今日、親の血肉を受けて一つの存在として生まれた皆さんは、決して無関心な存在ではありません。歴史的な宗教を支配してきた天があり、天の運勢に従って動いてきた世界があり、世界の運勢に連なって希望を持って進んでいる国家があり、国家の法度に従って進んでいる家庭があり、人倫を従う私個人がいることを認めるならば、天は世界を、世界は国家を、国家は社会を経て家庭に、家庭は私に至るまで完全な縁が結ばれなければならないということです。このような関係が設定されていることを、皆さんは否定することはできません。
 このような立場に立つ私、否定しようとしても否定できない環境的な縁を持っている私たちは、今誰のために動いているのでしょうか?皆さんの家庭はどこを向かっているのでしょうか?この国とこの世界はどこを向かっているのでしょうか?これらは私たちが深く考えるべき重大な問題です。
 人間の祖の堕落以来、神は人間たちに対して悲しまれたと私たちは知っています。では、その悲しみはどこへ流れていくのでしょうか?すなわち、どこにとどまることを切望して流れているのでしょうか?また、神の苦痛はどのような歴史の道を経て、どのような民族を経て、どのような血族を経て、どのような人に伝わってきたのでしょうか?神の希望はまた、どのような歴史の道を経て、どのようなものと関係を結ぶために動いてきたのでしょうか?それは世界でもなく、国家でもなく、家庭でもなく、まさに私なのです。神の希望は私一人から決まるという事実を、皆さんは確実に知るべきです。

   5

 したがって、神が認めることのできる一つの足場を持っていなければ、天がどれほど良いとしても関係はなく、私が自分自身で決定できる一つの基準を立てていなければ、どれほど世界的な理論が現れてもその理論は私と全く関係がないのです。このように私一人を基点にして歴史的な悲しみが左右され、歴史的な苦痛と困難が左右されているということを、皆さん自身の心情で、体で、あるいは骨と肉で深く感じたことがありますか?ないとしたら、血の涙を含んで激闘を経て死の道を恐れなかった先祖たちが、皆さんを訴えるでしょう。
 私たちはこのような歴史的な信仰者たちが残した伝統と縁を持っています。ところが、もしその縁を忘れてしまう者がいるならば、彼らは全世界の天倫、人倫を総合した宇宙の前で恩知らずの者となるでしょう。今こそこれを悟るべき時が来たのです。それでは、皆さん個々が内面的な信仰を持つにあたって、天倫の前にまず感じるべきことは何でしょうか?まず探すべきことは何でしょうか?それは喜びではありません。幸福でもありません。決して栄光ではありません。
 人間が天に悲しみを感じさせたために、まず探し求めるべきことは、この地を支配してきた天の悲しみなのです。今日、道の道を歩んでいる人々は、どの時代どの世界を問わず、天の涙を拭うために苦しみの十字架を越える者であり、無念の嘆きの場所で天の前に訴えの祭壇を築いている者たちであることを、皆さんは知らなければなりません。
 では、天はなぜ愛する息子娘をこのような十字架の道に追いやるのでしょうか?それは天の縁がこの世界と国家を経て、民族を経て、社会を経て家庭を経て私に至るまで縁づけられ、世界の縁が私たちに直接的に通じるようにするためです。したがって、皆さんは天の事情を代弁する天の側の息子娘という威信を立てるために、6千年の歴史の悲しみを一瞬の生涯で感じるようにされた天の心情を理解することができなければなりません。
 神様はエデンの園を築かれ、そこで永遠に幸福を享受することを望まれましたが、そのエデンの祝福は人間の堕落によって消えてしまいました。ですから、この祝福を失った神様は幸福な神ではなく、悲しみを背負う神となり、国や民から孤独に打たれながらも民族を探し求め、全宇宙の祝福を探し求めて来られたのです。

   6

 このように、人間たちに対する悲劇的な事情で絡み合った歴史の道を歩んで来られたのが、天の嘆きの道であるとすれば、その嘆きと事情が皆さんと深く結びつかなければなりません。これが人間の責任であり、天の責任であるゆえに、人間が天を探し求める際には神様の悲しみを理解しなければなりません。 
 神様の苦痛と悲しみと無念さを抱いて、無数のサタンに対して戦い勝つことができなければなりません。そうでなければ、そのような歴史的な心情を体感しなければ、敵と戦おうにも戦うことができないということを皆さんは理解するべきです。
 この地には、多くの財産を持っていてそれを失うと嘆く人がいます。あるいは子供を持っていて、その子供を失うと嘆く人もいます。しかし、地上のどんな貴重なものを持っていても、それを失って悲しむ人は多いですが、自分自身を失い、天を失って悲しむ人はほとんどいないのです。全宇宙を与えても取り替えられない自分自身を失い、宇宙と比べられない栄光の実体である天を失って悲しむ人は非常に少ないのです。
 今日、道を歩む人にとっては、集めた財産を失うことが悲しみではなく、自分自身を失うことが悲しみであり、天を失うことが悲しみです。天を探し求める道は、悲しみを探し求める道です。だからイエス様も「あなたの背に十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃったのです。
 ですから、今、私たちが悲しむことで天の悲しみを代わりにし、私たちの苦痛と無念さが天の苦痛と無念さを代わりにすることができてこそ、父の前に立つことができるのです。神様が6千年の間歩んで来られた一歩一歩がそのようであるため、歴史的な摂理と縁を持っている皆さんが、歴史的摂理の主人公である父との縁を結ぶためには、そのような悲しみ、そのような苦痛、そのような無念さを担わなければならないのです。
 これが天倫の道であるため、歴史の道の各時代に悲しみが宿りましたが、計画された意図を成し遂げるために、すなわち、万物を探し、民を探し、子供を探し、そして神様自身を探さなければならないために、天はこのような道を歩んで来られたのです。

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 人間が堕落したために天地を失われた神様は、神としての役割を全うできずにいらっしゃるのです。力と威信と権限を失われたのです。これを回復するための復帰運動が、今日、善を目指して進む人倫の指導理念の基準であり、道を探し求める道の者たちの心的基準なのです。私たちは失われた宇宙を必ずや取り戻さなければならないのです。
 では、私はどうすればよいのでしょうか?天が認める私個人を見つけ、天が認める家庭、天が認める社会、天が認める国家、天が認める世界、天が認める宇宙を探し、神様の意図を解放し成し遂げなければなりません。そうして神様の権限を持って万物を統治し、神様を迎えることができなければなりません。これが生涯をかけて探し求めなければならない重大な問題なのです。もし皆さんがそのように神様に対することができないとしたら、どれほど神様がこの世界に現れても、国家に訪れても、どれほど神様が社会に現れても、家庭に訪れても、皆さん自身とは何の関係もないということです。
 これまでの歴史の過程を振り返ると、どの時代でもすべての主義や理念が天運に向かって動いていたのです。そうして多くの理念が集まってきて、今では一つの理念、世界的な理念の時代となったのです。どの主義であっても二つがぶつかり合えば、必ず一つは壊れるのが原則です。今、私たちは人間を中心とした平面的な戦いではなく、天を中心とした立体的な戦いの時期にあり、霊界が私たちを襲うために待っていることを知っておくべきです。
 ですから、現在の世界各地で終末の現象が現れています。すなわち、精神病者が多く現れ、神経系統の恐怖症現象が生じています。これにより、アダムが堕落直後に恐怖心を抱いたように、この世界は天倫を裏切った血のために言葉にできない恐怖を感じる人々で満ちている世界になりつつあるのです。
 次には、理念を失った世界がやってきます。このような時には、私のどんな固執も通用しません。ここに追い込まれ、あちらに流され、まさにすべてが混沌として中心を持てない宇宙の終末時代に直面している皆さんは、この歴史的な転換点を前にしてどうすればよいのでしょうか!崩れゆくこの世界とこの民族を見つめて、皆さんはどうすればよいのでしょうか。天が私を立てて民族の前に誇ることができ、私を立ててこの宇宙の前に誇ることができるようになるためには、神様と親子の関係を結ばなければならず、神様が万物を支配することができる理念を立てたからこそ、万物を支配することができる私にならなければなりません。

   8

 しかし、今日私たちは前を見ても塞がれており、後ろを振り返っても分からず、横を見ても敵がいます。左右どちらも中心も、すべてが私を破壊しようとするサタンたちで満ちています。このような時に、私たちは自分自身を守り、天を守り、天倫を守り、そして左右のサタンたちを防がなければなりません。全宇宙と天地万物の主人公が天であるなら、その天には何らかの理念があるでしょう。そして一人を立ててその理念を成し遂げようとするでしょう。
 天を求める人には、その過程には幸福がありません。満足もありません。過程で満足する人がいるとしたら、その人は真に天を求める人ではありません。まず悲しみが訪れるのが原則であり、苦痛を受けるのが原則です。すなわち、縦にも横にも、そして左右に悲しみと苦痛と無念さを経験した後にこそ、喜びが訪れるのです。このような理由から、キリスト教では6千年の歴史をすべて一掃する日を審判の日と呼ぶのです。
 では、天が悲しみと苦痛を持ち、無念さを持って私たちにそれを信じさせようとするのは何を意味するのでしょうか?それは決して皆さんを滅ぼすためではありません。皆さんを天の息子娘とするためなのです。息子娘であれば血と肉が通います。そして思想が通じなければならず、理念が通じなければなりません。そのような相対的な基準を構成して動かなければならないのです。
 しかし、神と私たちの父子関係を誰が破壊したのでしょうか?この関係は神の力だけでは回復できず、私たちの力だけでも回復できない、悲しい状況にあります。皆さんにとってこれ以上に悔しいことはないでしょう。それゆえに、私たちは子を愛する父を失った悲しみ、永遠に共に生きるべき親を迎えることもできず、会うこともできず、従うこともできないという、絡み合ったその悲しみ、その苦しみ、その無念さを感じることのできる息子娘にならなければなりません。
 神様は悲運の道を歩みながら、父と子の関係を結び、私の息子娘だと喜べる子供を探してこられましたが、私たちは全く神の悲しみを知らなかったのです。子供を子供と呼べず、息子を息子と呼べない堕落した血統を引き継ぎ、サタンの支配権内にあるため、理念的には切り離すことのできない血肉の関係を持っている息子でありながら、実生活では無数の敵の条件を持っているのです。

   9

 したがって、神は二つの悲しみを持つことになったのです。息子を失ったことが一つの悲しみであり、再び関係を結ぶことができないことがもう一つの悲しみなのです。神にこのような悲しみをもたらした私たちは、罪人中の罪人であり、負債者中の負債者であることを感じなければなりません。天に対して6千年の歴史的な労苦をもたらし、悔い改めて労苦しなければならない負債者中の負債者であるということです。
 神が愛する子供である私たちを子供と呼べず、誰が拒否してもその心から消え去ることができない、心情で結ばれた父子の関係、永遠の愛を中心とした縁は神自身も拒否できない深い心情で流れているのに、そのような心情を持ちながらも息子娘と心から呼べず、接することができないのが悲劇なのです。
 今日の私たちの悲しみは、神の悲しみに比べれば悲しみではありません。お金がたくさんあるからといって喜ばないでください。自分が望んだすべての幸福な外的条件を備えているからといって、その心が喜ぶわけではありません。物質を持つほど、それに比例して償還の条件が私をさらに沈滞させることを知らなければなりません。今日の地上の堕落世界において「すべてを清算して出てきたので天の息子娘になれる」と自信を持って言える人がどこにいるでしょうか?
 私たちは天を見つめ、天が流した涙の跡の前に伏して叫ぶ人類の悲しみと神の涙に満ちた心情と嘆きに染み込み、叫ぶ万物の悲しみを感じることができなければなりません。
 私たちはまた、父の悲しみを感じなければなりません。父の苦痛を感じなければなりません。父の無念さを知るべきです。そして天の理念を持って神に代わり地を主観できてこそ、父の意志を成し遂げることができることを知らなければなりません。

   10

 今日、この地が堕落世界であるために、皆さんが神と出会うことができず、神も天的創造の原則と宇宙的天法の基準があるため、その原則を超えて人間を直接探しに来ることができないのです。
 ですから、旧約時代には犠牲を捧げてそれを条件として人間と万物が結ばれました。新約時代にはイエス様が犠牲となりました。イエス様を通じて人間と万物、イエス様と人類が縁を結ぶことができたのです。神の子であるイエスが極めて悲しい場所に昇ることによって、天の祝福の基準が成り立ち、イエス様と人類が縁を結ぶことができたのです。
 今、結ばれるべきは父と子の縁です。その縁を結ぶためには、子のために父が打たれなければなりません。そして万民から民へ、民から子へ、子から神へと縁を結ばなければなりません。これが幸福と理念、そして栄光を求めて復帰する神の法則です。
 では、その縁はどこで結ばれなければならないのでしょうか?霊界ではなく地上で結ばれなければなりません。だからこそ、天は新郎であり、地は新婦だと強調されたのです。これは破ることのできない縁です。そして人間がそれを感じる心情は変わりません。千年前の人も万年後の人も、その心情を超えることはできないので、一つしかない絶対的な基準を立て、新郎は新婦の名前を立て、それを条件として息子娘まで縁を結んでいくのです。そして地を探し、民を探し、子の実体を探し、親を探すのです。これが復帰です。
 ですから、万物と人間との関係を結ぶためには万物を犠牲として捧げ、民と子との関係を結ぶためには子を殺して犠牲として捧げ、子と父との関係を結ぶためには父が十字架を背負わなければなりません。このような歴史的な理念の過程を見ると、今日私たちには歴史的な理念の過程を一挙に償還復帰しなければならない使命があるため、今は父を立てて私を探さなければならない終わりの日だということです。

   11

 旧約時代には民の代わりに祭司を立てて犠牲を捧げ、祖先を崇拝し律法を行えば、それなりに救いを得ることができました。新約時代にはイエスを信じれば救いを得ましたが、今後は神を信じなければなりません。血と肉が絡み合い、手が絡み合って永遠に拒むことのできない基準で縁を結んだ私たちの父なる神を信じなければなりません。
 6千年の摂理の歴史が繰り返される悲しい道のりで、心だけでなく体まで「これが私の息子だ」と天が認めることのできる一つの息子娘が生まれなければなりません。そのような息子娘が生まれることによって、神が地のために流した涙について理解し、無知な人々を目覚めさせることができるでしょう。また、歴史以来多くの人々が知らなかった涙を流す神の事情を知ることができるのです。
 では、この地の民と子のために涙を流す神の事情を知らない全人類、全天地を代表してその心情を知ることができる人は誰でしょうか?親が子を愛する心が時間を超越して永遠であるように、千里の距離を超え、限界のないその天的心情を理解し、今日歴史的な父を抱いて「父の悲しい心が私の心であり、父の切ない心情が私の心情です。私に十字架の重荷を背負わせてください」と言える人でしょう。
 皆さんは苦痛の十字架を再び背負わなければならない天の事情を知っていますか?今日私たちは、この民族に対する神の心情と神の意志に従って苦しんだ先祖たちの土地に対するすべての歴史的心情、民に対する心情、子に対する心情、さらには神に対する心情を感じ取らなければなりません。
 苦痛の中にあったパウロは嘆いて「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」(ローマ8:35)と言いました。これは、パウロがキリストの中にある神の愛を知っていたことを意味します。イエスも神の前では花嫁の立場にあるのです。私たちの新郎であるイエスにとっても、必要なのは神の愛なのです。

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 新郎新婦の地位は外面的なものです。完全な復帰は、万物の復帰から始まり、子供の復帰までを完成しなければなりません。ですから、新郎新婦の関係を経て聖霊と出会い、イエスと出会わなければなりません。そしてそこにとどまることなく、「父よ!エデンの園で失った息子娘の代わりに祝福してください」と言えるようにならなければなりません。堕落の恨みを感じることなく、真の父母の息子娘として、神の祝福を受けることのできる息子娘になるべきなのです。
 神の恨みとは何でしょうか? 神は民を抱きしめて泣き、地を対して泣かれましたが、神が望まれる勝利した息子を抱きしめて喜びの涙を流すことができなかったことが、天の恨みです。つまり、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の恨みであり、悲しみなのです。さらに、失われた息子娘を探し求めるために彷徨う神を抱きしめて泣いた人が一人もいなかったのです。
 子供を持つ親がたとえ一国の首相であったとしても、失われた子供を見つける場面では、一国の首相としての体面や面目は問題ではありません。体面を無視し、威信を無視して、その子供が乞食であろうと何であろうと、手を握りしめ、体を抱きしめて号泣するでしょう。神と人間の間でそのような場面が天地創造以来地上で一度も起こらなかったことが、神の悲しみであり、万物の悲しみであり、人間の悲しみであることを皆さんは知るべきです。
 犠牲の時代には犠牲を捧げて上がり、民族を立てるときには指導者の言葉を信じてその指導者に従って上がりました。その時には指導者の言葉に従うことがすなわち犠牲でした。その後、独り子イエスを信じて上がりました。今後は真の父母を信じなければなりません。真の父の息子娘にならなければなりません。皆さんはその道を探し求めようと努力する人になるべきです。
 6千年の歴史の理念があったとしても、今後はその理念の理論的な結実がこの地に現れなければなりません。地を抱きしめて泣くことができる一人の責任者、民を抱きしめて泣くことができる一人の責任者、イエスの事情を抱きしめて泣くことができる一人の責任者が、いつこの地に現れるのでしょうか?

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 分断された歴史を今日一つの実体が現れてつなぎ、宇宙全体の歴史の理念を代わりにする実体が現れて、父と新郎新婦の心を揺さぶり、万民と縁を結ぶ心情を持つ責任者が現れて、地を抱きしめて泣く心を起こし、その心を維持させることができるようになることを、人々は望んでいるのです。
 その一つの存在を私たちは天を代わりに迎え、イエスを代わりに迎え、万民を代わりに迎え、地を代わりに迎えなければなりません。そしてそのように地を抱きしめて泣き、地を愛し、民を抱きしめて泣き、民を愛し、次に神を抱きしめて泣き、神を愛することができるようにならなければなりません。そうして神の悲しい心情が喜びの心情に変わらなければなりません。
 そのような皆さんを見て、父はもちろんのこと、三位一体の神や千万の聖徒やサタンの世界の人々までも「その通りだ」と言えるようになり、6千年の間に嘆きながら希望していた真の父母の子供として、歴史的な心情を代わりにして天の深い悲しみを解消するために誰よりも代表として戦い、サタンを復讐した息子として立てられ、神の永遠の愛の子供であると証しされることで、印を押されるのです。
 今日、キリスト教徒が言う14万4千の群れ...、言葉は素晴らしいです。天の印を受けた息子娘...、言葉は素晴らしいです。解怨復帰の条件を整え、天倫の摂理を代行する天の息子娘が、彼らの言う通りでしょうか?実際には、天が印を押せる息子娘は、天を代わりに地に対して泣く心情を持たなければならないのです。
 民を抱きしめて泣くことができ、苦痛を受け、無念さを受けるときにも天倫を代わりにし、天を代わりにして耐えることができる人でなければなりません。歴史的に深く刻まれた神の悲しみ、人間が犯したすべての過ちを回復し、すべての試練を克服することができる息子娘でなければ、印を押されることはできません。

   14

 では、今日私たちはどこで印を受けるべきでしょうか?必ず神と共にでなければなりません。神の心情から印を受け、神の事情から印を受け、今日の自分の家庭から、社会から印を受けなければなりません。父を抱きしめて泣くことができる歴史的な心情の帰一の地点を見つけるときにのみ、天の印を受けることができるということを私たちは明確に理解するべきです。

<祈祷>

 お父様! 歩んでいる道がどんなに険しいものであろうとも、私たちの心はお父様のその心情の痛みには比べることができず、私たちの無念さも、幾重にも立ちはだかるサタンの領域を歩まれたお父様のその足跡には比べることができないことを、どうか理解させてください。
 険しい道を歩みながらも天の意志を担う使命感が私たちの心に湧き上がるようにしてください。そして悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となり、あなたの道に共に歩むことができる息子娘となることを許してください。歴史的な苦痛を共に感じ、苦しむ心情の友となることを許してください。無念の心情に共に立ち、友となることを許してください。お父様の内なる悲しみの友となると同時に、外なる悲しみの友となり、永遠のお父様の喜びの対象となることを許してください。
 今日、すべてが問題となる前に、祝福を求めてさまよう私自身が問題であることに気づきました。しかし、私たちの心の中にある悲しみを理解しない人間には、幸福の道を見つける手立てがないことも理解しました。苦痛の道を歩まなければならない人間がその道を避けようとするならば、決してその苦痛の道を避けることはできないことも知りました。無念さや無念を乗り越える忍耐を失った多くの人々に、その忍耐がなければいかなる苦痛も避けることができないことを悟らせてください。
 悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、無念の心情の峠を越えてこそ、その日の祝福が決定される天倫の原則を私たちは理解しました。今、お父様の心情を抱きしめ、地を抱きしめ、万物を抱きしめ涙を流し、「お父様の悲しみは私の悲しみ、お父様の苦痛は私の苦痛、お父様の困難は私の困難です。そのすべての苦痛を私に任せ、お父様は幸福な場所に立ってください」と言える私たちになることを許してください。

   15

 切っても切れない苦痛と情と他のすべてが共鳴する父子の関係の縁があることを知っていますので、お父様の認めを受ける時へと導いてください。
 多様な人々の中で、勝利した息子たちを立てて全宇宙を復帰させたいというお父様の心情を理解しました。その心情を私の身に持ち、現すことができるように導いてください。いかなる犠牲をもいかなる死の道も感謝しながら、お父様の道を守り続ける息子娘となることを許してください。お父様との縁を断ち、裏切る者とならず、必ずやお父様の意志を成し遂げる私たちとなるように導いてください。
このすべての御言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。







文鮮明先生御言葉選集 4 - 20. 愛する息子娘となり印を受ける者になろう (1958年9月14日)
1958年9月14日(日)、元本部教会
ヨハネによる福音書 10:31-36


<祈り>
 お父様!  お父様を迎えて謙虚に崇拝したいという心のない人は、永遠の彼の国でお父様と縁を結ぶことができないことを知りました。
 今、私たちが心の扉を開けて訪ねるとき、その心の中心にお父様の心情を感じて、私の心の主体的な命令に私の体が従うことができる、その待ち望む日を探しています。今日、私たちの心から湧き出るあなたの声を聞いて、失われた自分の体を見つけることができ、お父様が私一人を見つけるために私の背後で苦難と努力の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることができる私たちを許してください。また、お父様に対する敬虔な心を自ら体と心で感じることができる私たちになれるように許してください。

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 私たちを訪ねて来られるお父様はいつも栄光のお父様としてだけでなく、お父様は悲しみの主人公として、あるいは苦痛の主人公として訪ねて来られ、悲運の表情で訪ねて来られました。そのようなお父様であることを知らなかったために、私たちの悲しみをお父様に任せたがり、私たちの困難をお父様に任せたがり、私たちの悲運をお父様に任せたかったことを許してください。
 そのような歴史の道を歩んできて、悲しみを抑えて嘆きながら訪ねてくださったお父様をお父様と呼ぶことができない堕落の種族であることを私たちは悟り、千年のお父様の努力を軽減するために努めるならば、お父様の悲しみの道を知らない息子娘がいないように許してください、私のお父様、切に願います。
 今日、私たちを招いてくださいましたが、集まった私たちにどんな面目があるでしょうか。願わくば、お父様の事情を解放できる者たちがこの場所に集まることを許してください。そして、そのような事がこの一聴衆の体と心から溢れるように許してください、お父様、切に願います。
 この時間、お父様、私たちを抱きしめてくださり、失われたお父様の恩恵を再び回復し、私たちの罪を清算するこの時間になるように許してください、お父様!切に願います。

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 この時間を主管して下さい、お父様!あなたの言葉を伝えたいと願いますので、与える者の心と受け取る者の心が二つにならないように許してください。
 これを攻撃する者は私たちではなくサタンであることを知っています。私たちの俗っぽい心が悪しきサタンと交流することを望まず、ただお父様の意志だけを信じることができるようにしてください。伏してお父様の前に悔い改めさせてください、私たちが天命が示す道を、お父様とは違う心で進むことがないようにしてください。もしそのような心の隔たりが少しでもあるならば、それを克服するために全体が心を一つにしてこれを乗り越えることができる切なる心を持つことを許してください、切に願います。
 この日は聖なる日であるので、意志を知らない可哀想な人々を祝福してください、可哀想な立場にいる三千万民族に福を授けてください、この民族のために多くの息子娘がひざまずいて礼拝する場所に祝福の手を差し伸べてください、切に願います。声を荒げて戦う民族を憐れんで見てください、お父様!互いに許し合い、忍耐できる寛容な心を持つことを許してください、切に願います。
 地を抱いて泣くべきこの時、あなたの事情を抱いて泣くべきこの時に、お父様の心情を持つ者がいるならば、この者たちを天の側に立て直すと信じます。私たちの姿をお父様、許してください。天を追って行くと言いながら敵を追って行く可哀想な者たち、敵ではない者を敵と認識して打ちのめそうとしている愚かな者たちを許してください。彼らの生命を誰が守るのでしょうか?彼らの進むべき道を誰が明らかにするのでしょうか?お父様の言葉を受け取って耐えられるように許してください、お父様、切に願います。
 お父様! 民族の運命を憂うお父様の意志があることを知っています。民族の進むべき道を憂うお父様!世界中で迫害を受けるこの民族を憐れんでください。この民族を代表して天を仰ぎ、誠心の祭壇を築いている多くの者たちを覚えてください、終末の審判の鞭がこの民族の前に下されないことを心から訴えることができる私たちを許してください!切に願います。
 今、私たちはお父様の前にまず訴え、進むべき責任が私たちにあることを知りました、私たちがこの責任のために生き、この責任のために祈り、この責任を果たすために天に向かって訴え、お父様を中心として生きるならば、必ずやお父様の意志がこの地に実現すると信じています。この者たちをそのような立場に立たせてください、切に願います。
 この時間を親しく司ってくださることを願い、すべての言葉を主の名によって申し上げます。アーメン。

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<御言葉>

 この時間は「愛する息子娘となり印を受ける者になろう」という題名でしばらくお話しします。
 何か希望の世界を望む心があるとき、その希望と縁のある場所にいることができるなら、その希望の中心にとどまりたいと願うのは、今日の人々が持っている共通の心情でしょう。
 そして、神の希望があるとしたら、その希望の中に皆さん自身がとどまることを望むのもまた、皆さんの心でしょう。一つの家庭を見ても、その家庭にはその家庭を導く主人がいて、家族がその主人の心にとどまりたいと願うのも同じ心からでしょう。国家もそうであり、世界もそうであり、天地万物を探し求めて来られた父の摂理の意図もそうであることを、皆さんは覚えておくべきです。
 したがって、皆さんは自分たちが仕える指導者の心に記憶されるべきであり、どのような宗教を信じるにしても、その宗教の教主の心に記憶されるべきであり、さらに神がいるとしたら、その神の心に記憶される皆さんであるべきです。
 そして、神の前に一時的に記憶される皆さんではなく、父の希望と事情をかけて、また父の心情をかけて、永遠に記憶されることのできるそのような息子娘がいるとしたら、天はその息子娘をつかまえてすべての事情を語るでしょう。それだけでなく、6千年の労苦の摂理として探し求めて来られた全体の祝福を無条件で渡そうとされるでしょう。これが父の心情であることを、皆さんは知らなければなりません。

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 今日、親の血肉を受けて一つの存在として生まれた皆さんは、決して無関心な存在ではありません。歴史的な宗教を支配してきた天があり、天の運勢に従って動いてきた世界があり、世界の運勢に連なって希望を持って進んでいる国家があり、国家の法度に従って進んでいる家庭があり、人倫を従う私個人がいることを認めるならば、天は世界を、世界は国家を、国家は社会を経て家庭に、家庭は私に至るまで完全な縁が結ばれなければならないということです。このような関係が設定されていることを、皆さんは否定することはできません。
 このような立場に立つ私、否定しようとしても否定できない環境的な縁を持っている私たちは、今誰のために動いているのでしょうか?皆さんの家庭はどこを向かっているのでしょうか?この国とこの世界はどこを向かっているのでしょうか?これらは私たちが深く考えるべき重大な問題です。
 人間の祖の堕落以来、神は人間たちに対して悲しまれたと私たちは知っています。では、その悲しみはどこへ流れていくのでしょうか?すなわち、どこにとどまることを切望して流れているのでしょうか?また、神の苦痛はどのような歴史の道を経て、どのような民族を経て、どのような血族を経て、どのような人に伝わってきたのでしょうか?神の希望はまた、どのような歴史の道を経て、どのようなものと関係を結ぶために動いてきたのでしょうか?それは世界でもなく、国家でもなく、家庭でもなく、まさに私なのです。神の希望は私一人から決まるという事実を、皆さんは確実に知るべきです。
 したがって、神が認めることのできる一つの足場を持っていなければ、天がどれほど良いとしても関係はなく、私が自分自身で決定できる一つの基準を立てていなければ、どれほど世界的な理論が現れてもその理論は私と全く関係がないのです。このように私一人を基点にして歴史的な悲しみが左右され、歴史的な苦痛と困難が左右されているということを、皆さん自身の心情で、体で、あるいは骨と肉で深く感じたことがありますか?ないとしたら、血の涙を含んで激闘を経て死の道を恐れなかった先祖たちが、皆さんを訴えるでしょう。
 私たちはこのような歴史的な信仰者たちが残した伝統と縁を持っています。ところが、もしその縁を忘れてしまう者がいるならば、彼らは全世界の天倫、人倫を総合した宇宙の前で恩知らずの者となるでしょう。今こそこれを悟るべき時が来たのです。それでは、皆さん個々が内面的な信仰を持つにあたって、天倫の前にまず感じるべきことは何でしょうか?まず探すべきことは何でしょうか?それは喜びではありません。幸福でもありません。決して栄光ではありません。

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 人間が天に悲しみを感じさせたために、まず探し求めるべきことは、この地を支配してきた天の悲しみなのです。今日、道の道を歩んでいる人々は、どの時代どの世界を問わず、天の涙を拭うために苦しみの十字架を越える者であり、無念の嘆きの場所で天の前に訴えの祭壇を築いている者たちであることを、皆さんは知らなければなりません。
 では、天はなぜ愛する息子娘をこのような十字架の道に追いやるのでしょうか?それは天の縁がこの世界と国家を経て、民族を経て、社会を経て家庭を経て私に至るまで縁づけられ、世界の縁が私たちに直接的に通じるようにするためです。したがって、皆さんは天の事情を代弁する天の側の息子娘という威信を立てるために、6千年の歴史の悲しみを一瞬の生涯で感じるようにされた天の心情を理解することができなければなりません。
 神様はエデンの園を築かれ、そこで永遠に幸福を享受することを望まれましたが、そのエデンの祝福は人間の堕落によって消えてしまいました。ですから、この祝福を失った神様は幸福な神ではなく、悲しみを背負う神となり、国や民から孤独に打たれながらも民族を探し求め、全宇宙の祝福を探し求めて来られたのです。
 このように、人間たちに対する悲劇的な事情で絡み合った歴史の道を歩んで来られたのが、天の嘆きの道であるとすれば、その嘆きと事情が皆さんと深く結びつかなければなりません。これが人間の責任であり、天の責任であるゆえに、人間が天を探し求める際には神様の悲しみを理解しなければなりません。神様の苦痛と悲しみと無念さを抱いて、無数のサタンに対して戦い勝つことができなければなりません。そうでなければ、そのような歴史的な心情を体感しなければ、敵と戦おうにも戦うことができないということを皆さんは理解するべきです。
 この地には、多くの財産を持っていてそれを失うと嘆く人がいます。あるいは子供を持っていて、その子供を失うと嘆く人もいます。しかし、地上のどんな貴重なものを持っていても、それを失って悲しむ人は多いですが、自分自身を失い、天を失って悲しむ人はほとんどいないのです。全宇宙を与えても取り替えられない自分自身を失い、宇宙と比べられない栄光の実体である天を失って悲しむ人は非常に少ないのです。

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 今日、道を歩む人にとっては、集めた財産を失うことが悲しみではなく、自分自身を失うことが悲しみであり、天を失うことが悲しみです。天を探し求める道は、悲しみを探し求める道です。だからイエス様も「あなたの背に十字架を背負って私に従いなさい」とおっしゃったのです。
 ですから、今、私たちが悲しむことで天の悲しみを代わりにし、私たちの苦痛と無念さが天の苦痛と無念さを代わりにすることができてこそ、父の前に立つことができるのです。神様が6千年の間歩んで来られた一歩一歩がそのようであるため、歴史的な摂理と縁を持っている皆さんが、歴史的摂理の主人公である父との縁を結ぶためには、そのような悲しみ、そのような苦痛、そのような無念さを担わなければならないのです。
 これが天倫の道であるため、歴史の道の各時代に悲しみが宿りましたが、計画された意図を成し遂げるために、すなわち、万物を探し、民を探し、子供を探し、そして神様自身を探さなければならないために、天はこのような道を歩んで来られたのです。
 人間が堕落したために天地を失われた神様は、神としての役割を全うできずにいらっしゃるのです。力と威信と権限を失われたのです。これを回復するための復帰運動が、今日、善を目指して進む人倫の指導理念の基準であり、道を探し求める道の者たちの心的基準なのです。私たちは失われた宇宙を必ずや取り戻さなければならないのです。
 では、私はどうすべきでしょうか?天が認める私個人を見つけ、天が認める家庭、天が認める社会、天が認める国家、天が認める世界、天が認める宇宙を見つけ、神の意志を実現させなければなりません。そうして、神の権威を持って万物を統治し、神をお迎えできるようにしなければなりません。これが生涯をかけて探さなければならない重大な問題です。もし皆さんがそのように神に接することができなければ、たとえ神がこの世界に現れても、国家に来ても、たとえ神が社会に現れても、家庭に来ても、皆さん自身とは何の関係もないのです。

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 これまでの歴史過程を見てみると、どの時代においてもすべての主義や理念が天運に向かって動いていたのです。そして多くの理念が統合され、今や一つの理念、世界的な理念の時代になったのです。どの主義であっても、二つが衝突して戦うと必ず一つは崩れるのが原則です。私たちは今、人間を中心とした平面的な戦いではなく、天を中心とした立体的な戦いの時期にあり、霊界が私たちを襲撃しようと待っていることを知らなければなりません。
 だからこそ、現在世界各地で終末の現象が現れています。すなわち、多くの精神病患者が現れ、神経系の恐怖症の現象が生じているのです。このようにして、アダムが堕落直後に恐怖心を抱いたように、この世界は天倫を裏切った血によって言葉では言い表せない恐怖を感じる人々で満ちた世界になっているのです。
 その次には、理念を失った世界になります。このような時には、どんなに私が固執しても通用しません。あちらこちらに追い込まれ、まさにすべてが混沌として中心を持たない宇宙の終末時代にいる皆さんは、このような歴史的な転換点を前にしてどうすべきかを考えなければなりません。倒れゆくこの世界とこの民族を見て、皆さんはどうすべきか。天が私を立てて民族の前に誇れるようにし、私を立ててこの宇宙の前に誇れるようにするためには、神との父子の関係を結ばなければならず、神が万物を主管できる理念を立てているため、万物を主管できる私にならなければなりません。
 しかし、今日私たちが前を見ても行き詰まり、後ろを振り返っても分からず、横を見ても敵がいます。左右も中央も私一人を破壊しようとするサタンたちでいっぱいです。このような時に私たちは自分自身を守り、天を守り、天倫を守り、そして左右のサタンたちを防ぐことができる自分たちにならなければなりません。この宇宙と天地万物の主人公が天であるとすれば、その天には何らかの理念があるでしょう。そして一人を立ててその理念を実現させようとするでしょう。
 天を探し求める人には、その過程で幸福はありません。満足もありません。過程で満足する人がいるとしたら、その人は本当に天を探し求める人ではないのです。まず悲しみが訪れるのが原則であり、苦痛を受けるのが原則です。すなわち、縦にも横にもそして左右にも悲しみと苦痛と無念さを受けた後にのみ、喜びが訪れるのです。だからこそ、キリスト教では6千年の歴史をすべて一掃するその日を審判の日と呼ぶのです。

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 では、天が悲しみと苦痛を持ち、無念さを持って来られて、私たちにそれを信じさせようとするのは何を意味するのでしょうか?それは決して皆さんを滅ぼすためではありません。皆さんを天の息子娘とするためなのです。息子娘であれば血と肉が通います。そして思想が通じなければならず、理念が通じなければなりません。そのような相対的な基準を構成して動かなければならないのです。
 しかし、天と私たちとの父子関係を誰が破壊したのでしょうか?この関係は神の力だけでも私たちの力だけでも回復できない、悲しい状況にあります。皆さんにとってこれ以上に悔しいことはないでしょう。だからこそ、私たちは子を愛する父を失った悲しみ、永遠に共に生きるべき親を迎えることもできず、会うこともできず、従うこともできないという、絡み合ったその悲しみ、その苦しみ、その無念さを感じることのできる息子娘にならなければなりません。
 神様は悲運の道を歩みながら、父と子の関係を結び、「私の息子娘だ」と喜ぶことができる子供を探して来られましたが、私たちは全く神の悲しみを知りませんでした。子供を子供と呼べず、息子を息子と呼べない堕落した血統を引き継ぎ、サタンの支配権内にあるため、理念的には切り離すことのできない血肉の関係を持っている息子でありながら、実生活では無数の敵の条件を持っているのです。
 したがって、神は二つの悲しみを持つことになったのです。息子を失ったことが一つの悲しみであり、再び関係を結ぶことができないことがもう一つの悲しみなのです。神にこのような悲しみをもたらした私たちは、罪人中の罪人であり、負債者中の負債者であることを感じなければなりません。天に対して6千年の歴史的な労苦をもたらし、悔い改めて労苦しなければならない負債者中の負債者であるということです。
 神が愛する子供である私たちを子供と呼べず、誰が拒否してもその心から消え去ることができない、心情で結ばれた父子の関係、永遠の愛を中心とした縁は神自身も拒否できない深い心情で流れているのに、そのような心情を持ちながらも息子娘と心から呼べず、接することができないのが悲劇なのです。

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 今日の私たちの悲しみは、神の悲しみに比べれば悲しみではありません。お金がたくさんあるからといって喜ばないでください。自分が望んだすべての幸福な外的条件を備えているからといって、その心が喜ぶわけではありません。物質を持つほど、それに比例して償還の条件が私をさらに沈滞させることを知らなければなりません。今日の地上の堕落世界において「すべてを清算して出てきたので天の息子娘になれる」と自信を持って言える人がどこにいるでしょうか?
 私たちは天を見つめ、天が流した涙の跡の前に伏して叫ぶ人類の悲しみと神の涙に満ちた心情と嘆きに染み込み、叫ぶ万物の悲しみを感じることができなければなりません。
 私たちはまた、お父様の悲しみを感じなければなりません。お父様の苦痛を感じなければなりません。お父様の無念さを知るべきです。そして天の理念を持って神に代わり地を主観できてこそ、父の意志を成し遂げることができることを知らなければなりません。
 今日、この地が堕落世界であるために、皆さんは神に会うことができず、神も天的な創造の原則があり、宇宙的な天法の基準があるため、その原則を越えて人間を直接探しに来ることができないのです。
 したがって、旧約時代には供え物を捧げることによって人間と万物が結びつき、新約時代にはイエス様が供え物となりました。こうしてイエス様を通じて人間と万物、イエス様と人類が結ばれるようになったのです。神の子であるイエスが非常に悲しい場所に上がることによって、天の祝福の基準が成り立ち、イエス様と人類が結びつけられるようになったのです。

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 今、結ばれるべきは父と子の縁です。その縁を結ぶためには、父が子のために打たれなければなりません。そうして民から民に、民から子に、子から神に至るまで縁を結ばなければなりません。これが幸福と理念、そして栄光を求めて復帰する神の法則です。
 では、その縁はどこで結ばれるべきでしょうか? 霊界ではなく、地上で結ばれるべきです。だからこそ天は新郎であり、地は新婦であると強調されました。これは破ることのできない縁です。そして人間がそれを感じる心情は変わりません。千年前の人でも、万年後の人でも、その心情を超えることはできないため、唯一の絶対的な基準を立てて、新郎は新婦の名前を立て、それを条件として息子娘まで縁を結んでいくのです。そして地を探し、民を探し、子供の実体を立て、親を探すのです。これが復帰です。
 したがって、万物と人間との関係を結ぶためには万物を供え物として捧げ、民と子との関係を結ぶためには子を殺して供え物として捧げ、子と父の関係を結ぶためには父が十字架を背負わなければなりません。このような歴史的な理念の過程を考えると、今日、私たちには歴史的な理念の過程を一度に償還復帰しなければならない使命があるため、今や父を立てて私を見つけなければならない終末の時代なのです。
 旧約時代には民の代表として祭司を立てて供え物を捧げ、祖先を崇拝し律法を守れば、それなりに救いを得ることができました。新約時代にはイエスを信じれば救いを得ましたが、今後は神を信じなければなりません。血と肉が絡み合い、手が絡み合い、永遠に拒否することができない基準で結ばれた私たちの父なる神を信じなければなりません。
 6千年の摂理の歴史が繰り返される悲しい道程で、心だけでなく体までも「これが私の息子だ」と天が認めることができる一人の息子娘が生まれなければ、神が地のために流された涙に気づき、無知蒙昧な人々を目覚めさせることができません。また、歴史を通じて多くの人々が知らなかった、涙を流す神の事情を知ることができるのです。

   26

 では、この地の民と子のために涙を流す神の事情を知らないすべての人々、すべての天地の代わりにその心情を知ることができる人は誰でしょうか?親が子を愛する心が時間を超えて永遠であるように、無限の距離を超えた、限界のないそのような天の心情を知り、今日の歴史的な父を抱きしめて「父の悲しい心が私の心であり、父の痛ましい心情が私の心情です。どうか私に十字架の重荷を背負わせてください」と言える人です。
 皆さんは、再び苦痛の十字架を背負わなければならない天の事情を知っていますか?今日、私たちはこの民族に対する神の心情と神の意志に従って苦しんだ先祖たちの地に対するすべての歴史的な心情、民に対する心情、子に対する心情、さらには神に対する心情までも感じることができなければなりません。
苦しみの中にあったパウロは嘆いて「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか」(ローマ8:35)と言いました。これは、パウロがキリストの中にある神の愛を知っていたことを意味します。イエスも神の前では花嫁の立場にあるのです。私たちの新郎であるイエスにとっても、必要なのは神の愛なのです。
 新郎新婦の地位は外面的なものです。完全な復帰は、万物の復帰から始まり、子供の復帰までを完成しなければなりません。ですから、新郎新婦の関係を経て聖霊と出会い、イエスと出会わなければなりません。そしてそこにとどまることなく、「父よ!エデンの園で失った息子娘の代わりに祝福してください」と言えるようにならなければなりません。堕落の恨みを感じることなく、真の父母の息子娘として、神の祝福を受けることのできる息子娘になるべきなのです。
 神の恨みとは何でしょうか?神は民を抱きしめて泣き、地を対して泣かれましたが、神が望まれる勝利した息子を抱きしめて喜びの涙を流すことができなかったことが、天の恨みです。つまり、天から「あなたは勝利した息子だ」と認められる人がいないことが、天の恨みであり、悲しみなのです。さらに、失われた息子娘を探し求めるために彷徨う神を抱きしめて泣いた人が一人もいなかったのです。

   27

 子供を持つ親がたとえ一国の首相であったとしても、失った子供を見つけたその場では、一国の首相としての面目や体面は問題ではありません。面目を無視し、威信を無視し、その子が乞食であろうが何であろうが、手を取り、体を抱いて慟哭するでしょう。神と人間との間でそのような場面が天地創造以来地上で一度も起こらなかったことが、神の悲しみであり、万物の悲しみであり、人間の悲しみであることを皆さんは知るべきです。
 供え物の時代には供え物を捧げることによって上がり、民族を立てる時には指導者の言葉を信じ、その指導者に従って上がりました。その時には指導者の言葉に従うことが供え物でした。その後は、独り子イエスを信じて上がりました。これからは真の父母様を信じなければなりません。真の父の息子娘にならなければなりません。今や皆さんはその道を探し求める人にならなければなりません。
 6千年の歴史の理念があったとすれば、今後はその理念の理論的な結実がこの地上に現れなければなりません。地を抱いて泣くことができる一人の責任者、民を抱いて泣くことができる一人の責任者、イエスの事情を抱いて泣くことができる一人の責任者は、いつこの地上に現れるのでしょうか?
 分かれた歴史を今日一つの実体が現れてつなぎ合わせ、宇宙の総合的な歴史の理念を代弁する実体が現れて、父と新郎新婦の心を震わせ、全ての民と縁を結ぶ心情を持つ責任者が現れ、地を抱いて泣く心を持ち、それを維持することができるようになることを人間は望んでいます。
 その一存在を私たちは天に代わって迎え、イエスに代わって迎え、全民に代わって迎え、地に代わって迎えなければなりません。そしてそのように地を抱いて泣き、地を愛し、民を抱いて泣き、民を愛し、その後に神を抱いて泣き、神を愛することができなければなりません。そうして神の悲しい心情を喜びの心情にしなければなりません。

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 そのような皆さんを見て、父はもちろん、三位一体の神や千千萬萬の聖徒やサタン世界の人々まで「そうだ」と言えるようになり、6千年間嘆きながら希望していた真の父母の子として、歴史的な心情を代弁して天の深い悲しみを解消するために誰よりも代表的に立ち上がって戦い、サタンに復讐した息子として立てられ、神の永遠の愛の子として証しされなければ印を受けることはできません。
 今日のキリスト教徒が言う14万4千人の群れ...、言葉は良いです。天の印を受けた息子娘...、言葉は良いです。解怨復帰の条件を作り、天倫の摂理を代行する天の息子娘が彼らの言う通りなのでしょうか?分かってみれば、天が印を押すことのできる息子娘は、天に代わって地に対して泣くことのできる心情を持たなければなりません。
 民を抱いて泣くことができ、苦しみを受け、無念さを受けたときにも天倫に代わり、天に代わり耐えることのできる人でなければ、歴史的に深く染み込んだ神の悲しみ、人間が犯したすべての過ちを回復し、すべての試練を乗り越えることのできる息子娘でなければ、印を受けることはできないのです。
 では、今日の私たちはどこから印を受けるべきでしょうか?必ず神と共にあるべきです。神の心情から印を受け、神の事情から印を受け、今日の私たちの家庭から、社会から印を受けるべきです。父を抱いて泣くことができる歴史的な心情の帰一地点を見つけたときにのみ、天の印を受けることができることを、私たちは明確に知るべきです。

   29


<祈祷>

 お父様! 歩む道が険しいとしても、私たちの心はお父様のその心情の痛みに比べることはできず、私たちの無念さを重ねたサタンの領域を歩んだお父様のその足跡に比べることはできないことを理解できるようにしてください。
 険しい道を歩みながらも天の意志を担う使命感が私たちの心に湧き上がるようにしてください。そして悲しみながらも、お父様の悲しい歴史の友となり、あなたの道に共に歩むことができる息子娘となることを許してください。歴史的な苦痛を共に感じ、苦しむ心情の友となることを許してください。無念の心情に共に立ち、友となることを許してください。お父様の内なる悲しみの友となると同時に、外なる悲しみの友となり、永遠のお父様の喜びの対象となることを許してください。
 今日、すべてが問題となる前に、祝福を求めてさまよう私自身が問題であることに気づきました。しかし、私たちの心の中にある悲しみを理解しない人間には、幸福の道を見つける手立てがないことも理解しました。苦痛の道を歩まなければならない人間がその道を避けようとするならば、決してその苦痛の道を避けることはできないことも知りました。無念さや無念を乗り越える忍耐を失った多くの人々に、その忍耐がなければいかなる苦痛も避けることができないことを悟らせてください。
 悲しみの峠を越え、苦痛の峠を越え、無念の心情の峠を越えてこそ、その日の祝福が決定される天倫の原則を私たちは理解しました。今、お父様の心情を抱きしめ、地を抱きしめ、万物を抱きしめ涙を流し、「お父様の悲しみは私の悲しみ、お父様の苦痛は私の苦痛、お父様の困難は私の困難です。そのすべての苦痛を私に任せ、お父様は幸福な場所に立ってください」と言える私たちになることを許してください。
 切っても切れない苦痛と情と他のすべてが共鳴する父子の関係の縁があることを知っていますので、お父様の認めを受ける時へと導いてください。
 多様な人々の中で、勝利した息子たちを立てて全宇宙を復帰させたいというお父様の心情を理解しました。その心情を私の身に持ち、現すことができるように導いてください。いかなる犠牲をもいかなる死の道も感謝しながら、お父様の道を守り続ける息子娘となることを許してください。お父様との縁を断ち、裏切る者とならず、必ずやお父様の意志を成し遂げる私たちとなるように導いてください。
 このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

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御言葉選集4(17,18,19)

2024年07月20日 17時13分29秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 17. 見捨てられたイエス (1958年6月22日)
1958年6月22日(日)、前本部教会
聖書拝読:ベドロ前書2:1-10




<御言葉>
 この聖書の言葉には、イエス様を石に例えています。また、捨てられた石が家の隅の重要な石になったと言いました。イエスのこの状況は、家庭と教団とイスラエルの民、さらには愛する三人の弟子までが理解していなかったことがわかります。
神様は選ばれたイスラエルの民を救うために敵から引き離して育て出し、この民を通じて神の大きな意図を達成しようとされました。しかし、イスラエルの民はこの神の意図を理念的にも歴史的な立場からも見ていましたが、その意図を生活の面では実現できませんでした。
そして神様は希望の存在を見つけるために、各自に神の意図を体現させるための苦労の道を歩んできました。つまり、4000年間の苦労を通じて生活の領域にまで至りましたが、それを知る者は一人もおらず、心ではメシアを待ち望んでいましたが、実際に現れたメシアを歓迎する者は一人もいなかったのです。
アンナは一生を通じて聖殿を離れず断食しながらメシアを待ち望んでいましたが、実際に現れたメシアを証しし迎えることができなかったため、これもまた天の意図から遠ざかってしまいました。これが天の悲しみでした。
イエス様は神が摂理された4000年の結晶として来られました。当時のイエス様の両親や親戚がイエス様を自分の民を救うメシアだと知っていたなら、そのイエスを馬小屋で誕生させることはなかったでしょうし、ユダヤの民がメシアだと知っていたなら、大工の息子として30年間の私生活期間と3年間の公生活の道において、この町やあの町へと追いやられることはなかったでしょう。これを見た神も悲しみ、イエス自身も悲しみました。


    1


さらにイエスを反逆者とされたため、神の意図とユダヤの民が待ち望んだ希望とは何の関係も持てませんでした。また、神とも関係を持つことができませんでした。こうして天とイエスとの隔たりが埋まらず、イエスは再びこの民の過去の歴史とその時代の現実と未来の永遠の時間を前にして、心配せざるを得なかったのです。
イエスを知らず、つまり彼をこの国の救世主でメシアとして受け入れなかったため、被造世界の万物やこの地上の人間たちは誰一人として神と直接的な関係を持つことができませんでした。
イエス様は大工の息子として木を削るとき、民の罪と過ちを削り取ると考えながら仕事をされ、言動や行動においても善を中心とした天的な理念を立てるための準備の生活をしていました。しかし、イエス様のこの状況と心中を知る者は当時一人もいませんでした。
そのためイエス様は言いたくても誰にも打ち明けられない状況に置かれていました。家庭でも彼の意図を理解してくれず反対され、最終的には家を離れることになりました。イエス様が教団を訪ねたときも、神の心と意図を理解していない教会からも見捨てられ、最後には民の反逆者として扱われました。しかしそれ以上にゴルゴタの道が残っていることを知っていたイエスは、ここで天と離れられない存在になることを固く決意されました。
ですから、神と宇宙と関わりを持つ者だけが、宇宙的な価値と世界的な価値を与えられることができるでしょう。イエスは家庭、教会、民族、地上世界、天上世界の霊人と地獄にいる霊人たちまで、自分と関わりがあることを感じていたため、家庭と教会から見捨てられても、それによって挫折することはありませんでした。ユダヤの人々はイエスが民の反逆者として十字架にかかることで全てが終わると思っていましたが、12人の弟子をはじめとする残った者たちの火花があったため、イエス様は彼らを通じて歴史を動かすことができました。それで今日のようにキリスト教が世界的に広がることができたのです。


    2


終わりの日の私たちは何よりも神の心を知る者にならなければなりません。人間には知(ち)、情(じょう)、意(い)の3要素があり、知と意を足場にして情的な天情を成し遂げる部分が残っています。神の情的な流れがあり、我が民族に対して天的な摂理があるため、我が民族は誰よりも天に対する切なる心と忠孝の心が強く動いているのです。
私たちが神様の心情と真理を知るには、特定の指導者は必要ありません。イエス様が十字架にかかるときに「なぜ私をお見捨てになったのですか?」と言われたこの事実、この一言によって歴史の新しい転換点が芽生えたことを知るべきです。
イエス様が亡くなった後、命を持つ女性たちの集まりを契機にして全宇宙を動かし出したというこの一事実を知るべきです。だからこそ、この民族は何も持っていないとしても、神様の心の奥深くの核心を持たなければなりません。この民族は全てを奪われても、神様の心情だけは奪われない民族であるべきです。そうして、この民族が天と地のために血を流す祭壇となり、天と地の全ての人々と万物を見て泣くことができれば、そこには生きる道があるでしょう。
神様は怒りの鞭を振るいながらも涙を流される方です。ところが、これを見て喜ぶ人は裁きの条件にかかるでしょう。したがって、皆さんは過去に見捨てたイエス様を再び見つけ、そのイエス様の前に友人となってこそ、再臨のイエス様の前に花嫁として立つことができるでしょう。












文鮮明先生御言葉選集 4 - 18. 残された群れに参加しよう (1958年6月29日)
1958年6月29日(日)、前本部教会
聖書拝読:ローマ書9:25-29


 神様はご自身が永遠であるように、被造物も永遠の理念を持って創造されました。しかし、個人や民族、人類、そして万物が永遠の被造物として残らなかったため、神様はそれらを今日まで悲しみながら探し求めてこられました。つまり、人間の堕落により創造の理想の園を失った神様は、それでも被造世界への希望を諦めずに偉大な創造の理念を実現するために長い歴史の道を歩み、サタンとの激しい戦いを続けてこられ、今日まで耐え忍んでこられました。


    3


神様にはこのような大きな希望がありますが、一方で非常に小さなものから探さなければならない悲しみもあります。この大きな希望は個人から始まるべきものでしたが、個人が堕落したため全体の希望が実現しませんでした。したがって、全人類と万物の希望が実現する前に、まず個人から神様の希望が実現しなければなりません。これが神様の知られざる事情です。
神様は個人を中心に希望を実現しようと、カインとアベルを立てられましたが、これが崩れたため、1600年の歳月を経てやっとノアの家庭を見つけて立てられました。しかし、この時もノアの家庭がハムの過ちによって崩れ、アブラハム、モーセを経てイエス様にまで延長されました。
イエス様が来られる前に多くの預言者たちが神様の理念を個人から実現しようとしましたが、それができず、独り子イエス様にまでこの希望が受け継がれることになりました。イエス様は個人として来られましたが、普通の個人ではありませんでした。イエス様は4000年間耐え忍んできた神様の忍耐と希望の理念、そして心情を理解していた方です。そして、4000年の歴史の中で来られた預言者たちが成し遂げられなかった全ての希望を一身に背負い、4000年の善の結晶体として個人を超え、民族、国家、世界、宇宙的な次元で天倫の悲しみを解消するという理念を持って来られました。
そのため、当時の地上の人々は神様の大きな理念を持って来られたイエス様を、一人のイエス様の理念にとどめるのではなく、イスラエル民族や人類の一人一人の心情にまでとどめるべきでした。しかし、人々がそれを知らず、受け入れなかったため、その大きな神様の理念はイエス様一人の理念で終わり、またイエス様が亡くなったことで、その大きな理念は地上の理念としてとどまらず、霊界の理念としてとどまることになりました。
これにより、地上にいる人々は永遠に地上に残るべき理念を探し待つ身となり、イエス様はこの理念を地上に残すために再び来なければならない立場に置かれることになりました。


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では、地上の人々が待ち望む理念、地上に永遠に残る理念を持つ個人、家庭、民族、人類はいつ、どこに現れるのでしょうか?私たちはこれを知るべきです。イエス様は去るときにその言葉と希望を残して行かれましたが、その理念は残せませんでした。その理念が現れなければなりません。
では、終わりの日にその理念を持つことができる人はどんな人でしょうか?その人はまずイエス様の希望と意志を持たなければなりません。そして、その希望と意志を持つその上に理念を持つことのできる心と歴史の悲しみを持たなければなりません。そうして神様の創造の理念を通じることのできる人でなければなりません。イエス様は地上に来て福音の言葉を伝えるときに切に望まれたことは、「誰よりも私を愛しなさい。」(マタイ10:37)ということでした。
では、「誰よりも私を愛しなさい。」と言われたイエス様の言葉の真意を深く理解してこれを実践した人がいたでしょうか?いなかったのです。3年間共に生活しながら従った弟子たちの中にも、その言葉をそのまま実践した人はいませんでした。
また、イエス様は兄弟を愛しなさいと言われました。そして、復活後に弟子ペテロに現れ、「あなたはこれらの人々よりも私を愛するか?」(ヨハネ21:15)と三度繰り返し問われました。ペテロが答えると「私の子羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)と言われました。さらに、イエス様は弟子たちに「私は再び来るので、準備して待ちなさい」と言われました。イエス様が地上におられたときにされた重要な言葉を要約すると、この二つの内容に集約できます。
では、イエス様が残された切なる言葉は誰が成し遂げるのでしょうか?この残された言葉を成し遂げる人は、終わりの日の審判を免れ、イエス様に会うことができるでしょう。


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皆さんは一生の中でイエス様を愛したことがありますか?そして、その愛の程度が親や妻子や世の中の誰よりも大きかったと自信を持って言えますか?これをもう一度考えてみるべきです。天にいるイエス様がこの地に対して切に望まれるのは、誰よりも自分を愛することのできる人が現れることです。もしこの地にそのような人がいるなら、その人は神様の創造の理念を知っている人であり、神様の6000年の苦労とイエス様の苦しい心情を知り、同情する人でしょう。
イエス様は神様の創造原理的な価値を代表した方であり、矛盾や対立のない天の創造の法度の中にいる方です。イエス様はこのような立場にあるため、その肉体と心が一つとなり、たとえアダムから4000年の距離を置いていても、時間性と空間性を超越しておられました。そのため、イエス様は4000年前のアダムに神様の創造理念が宿っていたことを直感で感じることができました。
そのようなイエス様にはどのような使命があったのでしょうか?永遠の神様の愛と結ばれるべき人間が神様の愛と結ばれていなかったため、この神様の愛を人間に結びつける使命がイエス様にはありました。また、人間と万物の間に愛を結びつける使命もあったのです。この使命を果たすためにイエス様は来られたので、神様に代わって来られた自分を世の中の誰よりも愛するようにと言われたのです。しかし、当時、世の中の誰よりもイエス様を愛した人は一人もいませんでした。
その観点から私たちの心を整え、歴史の道を振り返るとき、私たちは罪悪の血統を受け継いだ個体であり、創造の理念を持っていない自分であり、新郎として来られたイエス様を新婦の立場で迎えられなかった個体であることがわかります。イエス様を愛することのできる環境にありながら、イエス様を愛せなかったため、地上の人間には終わりの日に世界的にイエス様を誰よりも愛さなければならない条件が残されることになりました。
ここにいる皆さんは、歴史上なかった愛を持って忠臣の立場で万王の王であるイエス様、新郎であるイエス様の前に立ったことがありますか?もしそうでなければ、誰よりも天を愛する人だとは言えないでしょう。


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神様は6000年の間、全てを捨てて愚かな罪人たちを探してこられましたが、もし私たちがこのような神様を愛で迎えられないなら、私たちを探し求めて来られる神様の理念は私たちによって中断されることを知っておかなければなりません。
従って、このような時期に皆さんが家庭のために祈るときには、誰よりも神様とイエス様を愛する子供たちが現れるように祈らなければなりません。国のために祈るときには、どの民族よりも神様とイエス様を愛する人々が多く出てくるように祈らなければなりません。また、人類のために祈るときには、世界のキリスト教徒がどの宗教徒よりも神様とイエス様を愛するように祈らなければなりません。皆さんが神様とイエス様を誰よりも愛することができないなら、せめてこのような祈りをしなければなりません。
今日、被造物のすべてが人間に望むものは何でしょうか?それはイエス様のこの切なるお願い、つまり「誰よりも私を愛しなさい」というお願いを成し遂げる存在が現れることです。このような存在が現れることを万物が望んでいるのに、そのような存在が現れないため、万物が嘆き、天が嘆いているのです。これを知っておかなければなりません。
では、その嘆きとは何でしょうか?エデンの園で神様の愛と理念と結ばれるべきアダムとエバが堕落によって正しい関係を結べなかったため、それを再び回復し、神様の理念と愛と結ばれることを待ち望む嘆きです。したがって、この嘆きを解消できない人は終わりの日の審判にかかるのです。
では、この審判から残される人はどのような人でしょうか?それは神様とイエス様の心情を誰よりもよく知り、またそれを誰よりも愛することのできる人です。このような神様の心情を知って初めてその心情を通じて神様の理念に通じることができ、そうすることで敵をこの天地間から追い出す力が生まれるのです。イエス様が十字架上でも敵のために祝福を祈ることができたのは、神様の心情が彼の胸の中でいつも強く湧き上がっていたからです。そのため、イエス様は死を目前にしても堂々とした態度を見せることができたのです。


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イエス様は「新郎と新婦」という言葉を残して去られました。それでは、新郎と新婦とは何でしょうか?イエス様が去られた後、2000年が経過した今日まで、誰よりも神様とイエス様を愛した新婦がいたでしょうか?いませんでした。多くの人がイエス様について語り、イエス様による歴史を語りましたが、神様の創造の理念を人類の前に示すことができなかったイエス様の心情を知る者はいませんでした。イエス様について語り、その歴史を語ることも重要ですが、その心情を体得することの方が重要なのです。したがって、イエス様の心情と私の心情が一つになって初めて、神様の理念を代わることができる人となり、終わりの日に残されることができる人となるのです。
イエス様は弟子たちを自分以上に愛しました。天の悲しみがあるとすれば、その悲しみとは何でしょうか?イエス様は神様の創造理念を地上に残すために、自分の身体以上に弟子たちを愛しましたが、弟子たちは自分たちを愛してくれるイエス様の事情と心情を気にせず、他の考えを持ってイエス様について行きました。その愛をイエス様が生きている間に正しく受け取ることができず、地上にその愛の実が結ばれなかったことが天の悲しみです。そのイエス様の愛の心情を弟子たちはイエス様が亡くなった後に初めて感じ、その時からイエス様が言っていた言葉の意図を理解するようになったのです。
イエス様が希望し探し求めていた人はどんな人だったのでしょうか?それは、自分を誰よりも憎み捨てる人々でした。イエス様はそのような人々を誰よりも愛する心を持って探し求めました。したがって、終わりの日にイエス様に会うことができる人は、誰よりも自分を憎み捨ててでも愛の心を持って天を探し求める人ということです。
世の人々はイエス様が来られることを望んでいます。しかし、イエス様が来られることをただ望むのではなく、主を探し求める人になるべきです。そのためには、自らが歴史の道で天が経験した悲しみの峠を越え、イエス様が十字架を背負った困難の峠を越えなければなりません。そうして摂理歴史の期間を短縮し、時空を超えて2000年前のイエス様が抱いた苦しい心情を体得できるようにしなければなりません。
それでは、亡くなったイエス様の墓を訪ねた人は誰だったのでしょうか?その人は、たとえ人々から見れば微弱な存在だったマグダラのマリアでした。この町から追われ、あの町で非難され、行く先々で嘲笑を受けながらも誰よりもイエス様を愛する心を持って従ったマリアでした。このような切なるマリアの前に、イエス様は復活の姿で現れました。これは、終わりの日に全世界のキリスト教徒に彼らの進むべき道を示した象徴です。


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そのマグダラのマリアはどのような生活をしていたのでしょうか?イエス様を愛するために、着る物や食べる物を全て忘れ、一心不乱にイエス様だけのために生きました。生死を超越し、体面を考えずに従った彼女の歩みは、終わりの日の聖徒たちが歩むべき道でした。もし今もこの地にマグダラのマリアのような心情を持つ人がいるなら、その人の目には神様の6000年の摂理に込められた涙が浮かぶでしょう。そして、天の前に無限に借りがある自分であることを知るでしょう。
また、自分の体を燃やしてでも受けた愛に対して報いる道がないことを知り、死の道を歩むべき自分であることを知るでしょう。皆さんはこのような心情を一度でも抱いたことがありますか?このような人であれば、創造時代から過去・現在・未来を通じて全てを捨てて探し求める天の心情を知るでしょう。そして、その人は天の前に顔を上げることができないでしょう。なぜなら、天の前に無限に借りがある自分であることを知っているからです。このような心情を感じ、自分の全てを捨てて天だけを従う人でなければ、終わりの日に残されることはないのです。
従って、イエス様を信じて安楽を求める人はイエス様の使いにはなれますが、彼の友にはなれません。また、イエス様を信じてもその心情を知らない人は彼の友にはなれますが、新婦にはなれません。したがって、天が望み、イエス様が望むのは使いでもなく友でもなく、新婦なのです。
イエス様が歴史上の誰よりも神様と人類を愛し、創造の理念を通じた実体としての資格を備えて神様を呼び求めるとき、神様が創造主としての威厳と体面をすべて忘れてイエス様を支えられた一瞬の場面があったことを知る人はいません。さらに、神様がイエス様を創造主であるご自身よりも高い位置にまで立ててくださったことを知る人もいません。
イエス様は選ばれた民の前で拒絶され、追われる環境にありましたが、4000年間神様が耐え忍んできた心情を知っていたため、耐えざるを得ませんでした。さらに、神様が4000年間すべてを犠牲にしてでも一人の息子を見つけようと努力されたことを知っていたイエス様は、地上で新婦を見つけるためにはどんな犠牲と拒絶があっても耐えなければならないと考えました。だからこそ、敵のように扱う民族を呪わなかったのです。


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しかし、イエス様のその心情を少しでも理解していたマグダラのマリアでしたが、復活したイエス様に手を触れようとしたとき、触れないでと言われました。これは、イエス様を地上で完全に受け入れて奉仕する新婦の資格を持つ人が現れない限り、聖霊の心情とイエス様の心情、そして神様の悲しみの心情が解消されることはないことを示しています。
従って、終わりの日には、神様を代わる実体として現れる一人を見つけ、その人を誰よりも愛する心を持ち、その人を代わることができるべきです。そして、そのような人々が集まる教会が必要であり、民族が必要です。このような教会、このような民族、このような人類は天情を中心に成し遂げられるべきです。しかし、今日の人間がこの天情を感じることができない限り、終わりの日に残される人にはなれません。
今や皆さんは自分が歴史的な罪人であることを知り、他人を非難し批判する前に自分をまず知り、祈ることを学ばなければなりません。そして、民族と人類を考えて祈る人になるべきです。そうして、神様の創造理念の世界を成し遂げるべき人類に対して、人類は無限に歓迎するでしょう。万物に対して、自分たちのために犠牲し、拒絶されたことを知り、慰め、歓迎するでしょう。また、このような人々が天の前に現れるとき、天は彼らの涙を拭い、彼らの苦労を慰めてくださいます。こうして、終わりの日に残される人となります。このような人を天とイエス様と万物は待ち望んでいることを、皆さんは知っておかなければなりません。












文鮮明先生御言葉選集 4 - 19. 回復の縁を持って来られたイエス (1958年8月3日)
1958年8月3日(日)、前本部教会
聖書拝読:使徒行伝3:13-24


私たちが日曜日に教会に来ることを、習慣的に、あるいは当たり前のこととして、「今日は日曜日だから、神様の前に出て礼拝を捧げよう」と考える人が多いかもしれません。しかし、皆さんが座っているこの場所がそのような次元で考えられ、また成し遂げられる場所ではないことを知らなければなりません。つまり、皆さんがこうして集まることができたのは、皆さんが知らない何らかの背後の縁によって成し遂げられたのです。その縁は、私たちの個体を中心に見たとき、前後左右、上下と関係がある縁であることを深く銘記しなければなりません。
歴史の道程においてイエス様が現れた事実は、ただ偶然に成し遂げられた事実ではなく、定められた天倫の意図があってのことです。つまり、歴史的な縁、時代的な縁、そして未来的な縁を成し遂げるために、イエス様は現れたのです。この事実を当時に知っていた人がいたならば、イエス様は十字架にかけられなかったでしょう。


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イエス様は一人の個人に過ぎませんでしたが、イエス様が結んでいる縁を全体に繋げて引き出そうとすると、人類の歴史的な縁が引き寄せられ、その時代の縁や未来的な縁までも引き寄せられることになっていたのです。しかし、そのことを知る者は当時誰もいませんでした。そして、イエス様が地上と天上にいる無数の聖徒たちや神様さえも、イエス様との縁を中心に動かすべき中心的な使命を持って来られたという事実を知る者もいませんでした。
さらに、この事実を知らなかった無知なユダヤの民は、それまで天が約束した一つの意図を探し求め、その意図の中に立っていると自負していましたが、イエス様を反対することでその意図から外れてしまいました。歴史的な教団を築いてきましたが、その教団が天の側のものではなくなってしまいました。また、選ばれた民の権利を誇るイスラエル民族には、終わりの日の約束の祝福を成就してくださるという民族的な希望や教団的な希望がありましたが、天主的な理念の主体であるイエス様を認識できなかったため、無惨に崩れてしまったのです。このように人類の歴史の道程の中で対立劇が繰り広げられる場所で、イエス様は悲しみの涙と犠牲の血でこれに対応しましたが、その事実を当時の人々は知らなかったのです。
しかし、イエス様が叫ばれた言葉は、その切なる心情から湧き上がって叫ばれた真理でした。また、イエス様が歩まれた30余年の生涯は、自己の欲望を満たすための生涯ではありませんでした。さらに、イエス様の希望は自己のための希望ではありませんでした。
しかし、この事実を知るべきユダヤの民は知らず、自己を忘れて天の意図を成し遂げようとしたイエス様だけが知っておられたのです。この悲しみが今日の私たちの悲しみの根源となりました。これを私たちは知らなければなりません。また、皆さんは信仰者の立場から一歩進んで、イエス様が歩まれた道が私たちが歩むべき道であり、イエス様が望まれる理念の園が私たちが成し遂げるべき理念の園であることを理解しなければなりません。
イエス様は神様の祝福の中で過ごすことのできる新郎新婦の理念を憧れ、望まれました。そして、神様の祝福を成し遂げるために小羊の宴を中心に14万4千の群れを抱き、これらと共に歓喜の歌と栄光を神様の前に捧げることを望まれました。これがイエス様の切なる願いでした。しかし、イエス様は結局ユダヤ民族の不信によってその本来の希望を成し遂げることができず、むしろカルバリの山で十字架にかけられました。イエス様がゲッセマネの園で血と汗を流して祈られたのは、神様の切なる悲しみの心情を代弁した切なる祈りでした。その切なる祈りは自己の解決策を求めるためのものではありませんでした。無知で眠っている民とサタンと愛する三人の弟子のためのものでした。


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このように神様の希望を胸に抱き、無知な民を導く責任を持つイエス様、天倫を妨げるユダヤ民族は審判を受けるべき罪の民族でしたが、再び天に向かって許しの手を求める祈りをされなければならなかったイエス・キリストの心情はどのようなものであったでしょうか?さらに、十字架の苦難の道を歩まれ、敵のような群れに向かって「彼らの罪を彼らに問わないでください」という切なる訴えをされたキリストの祈りは、人間の前に、摂理の道程の前に、あるいは天性の心情の前に、どのような縁を結ぶためであったのでしょうか?
今日の私たちは、再び遡ってイエス様の心情を解き明かし、その心情に対して頭を垂れることができなければなりません。主が歩まれた道を私が歩み、主が辿られた足跡を私が追い、主が命を捧げた祭壇に私が忠誠を尽くし、神様の悲しみを代わりに抱える一つの姿とならなければなりません。そして、私たちは天情の縁を握り、全人類と歴史的な縁を代わりにしたイエス様の心情を握ることができるかを反省しなければなりません。つまり、イエス様の歴史的な縁、時代的な縁、未来的な縁を代わりにすることができるイエス様の友となることができるかを自問しなければならないのです。
自分一人でできることはこの世にありません。私がどのような存在であるかを確かに解明するにあたって、私が結んでいる相対的な関係を除いては到底解明することができないのと同じように、神様の復帰摂理も同様です。一つがあれば二つがあり、一つの集まりがあれば前後・左右・上下に連なっているのです。そして、その一つの存在が歴史性、時代性、未来性を通過することができる一つの主体性を備えるとき、そこから新しい歴史が始まるのです。神様は堕落した人間がますます落ちていくときに引き上げ、時と場所を超えて摂理を展開しておられることを知っておかなければなりません。
今日、皆さんは他の人から「どれくらいイエス様を信じていますか?」と質問されたとき、即座に「10年信じています」「20年信じています」または「何年信じています」と答えるのは簡単です。しかし、縁の歴史を振り返るとき、皆さんは6000年の歴史が加算されている立場にいることを知っておかなければなりません。つまり、自分の信仰の位置を見つけることができるようにならなければならないのです。
さらに、人間は縁の歴史から逃れることができないため、今日の皆さんは時代的な縁の中にあっても必要不可欠な信仰の中心を持っていると自信を持てる人でなければなりません。そして、今から皆さんが築く信仰の基盤を、未来の子孫が見習うことができるようにしなければなりません。そのような未来的な縁の基盤を現実の信仰の中でどのように整えていくかが問題です。


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従って、今日この立場に立っている皆さんは6000年の歴史を代わりにして神様の前に自信を持って現れ、「6000年間苦労された私の父よ!」と呼ぶことのできる信仰を持たなければなりません。また、今日27億の人類を抱きかかえようとして苦労の道を気にせず耐えてこられた父を私の父と呼ぶことができる人でなければなりません。そして、今日私が叫ぶ信仰の訴えで億千万代の子孫までも涙を流させる信念と覚悟を持って天の前に立たなければなりません。そうすることで、永遠の摂理の運行法則に従って動いておられる神様を父と呼ぶことができるのです。
従って、今や未来を引き寄せ、現実と過去を統合して神様の前に証することができる自分になったのか、またはそのような自分を対して証することができる他の一人がいるのかが問題です。
4000年の歴史が経過した後、イエス様はそのような使命を背負い、現実の道を切り開くためにこの地上に来られました。したがって、今日の皆さんは観念的な信仰をしてはなりません。歴史的な認識を通じて知られた知識的な観念から抜け出せない信仰をしてもいけません。しかし、もし皆さんがそのような立場にあって進む道が塞がれてしまったとしたら、歴史の道程を再び振り返り再分析する時が来たのだということを知っておかなければなりません。今日まで信仰の道を歩んできた多くの教会や、自分の理念を誇ってきた多くの宗教が、終わりの日に至り進む道が塞がれてしまったという事実は、歴史的な縁や時代的な縁、または未来的な希望の縁を結ぶことができない立場にあることを証明しているのです。
それでは、今日私たちはどのような信仰者を探しているのでしょうか?それは、歴史的な縁、時代的な縁、未来的な縁を代わって私と関係を結ぶことのできる信仰者を探しているのです。しかし、今日皆さんは自分の胸から、身体から、また生活から染み込んでくる何かを感じています。つまり、私たちは五感を通じて何かを感じているのです。そして、その五感の感覚を通じて心の世界を奮い立たせる何らかの真理があるのかという問題が生じます。
そのような真理は、今日の私たちの生活環境とは全く関係のない新しい分野から出発した真理のように見えるかもしれませんが、そうではありません。今日の私たちの生活と完全に一致する縁を持つ真理なのです。今日、希望として望んでいた理念を忘れ、朦朧とした中に置かれたとき、つまり、暗闇の障壁が立ちはだかり、自分の心の中心を立てようとしても立てられない状況に置かれたときに必要な真理なのです。


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したがって、今日皆さんはこれまでの歴史の道程に現れなかった、未来を見通し過去を繋ぐことのできる真理を必ず見つけなければなりません。したがって、今日皆さんは自分のどんな努力や犠牲、苦難を厭わずにそのような真理を探し、この地に根付かせなければならない世界的な使命を負っていることを忘れないでください。
そのため、このような縁を結んで来られた一人の存在がいるということは、人類の歴史の道程においてまさに福音中の福音です。これを考えると、今日皆さんはイエス様が主張された真理を追求しなければなりません。そして、皆さん自身が歴史的な縁、または時代的な祝福された信仰の縁を持たなければならないのです。
イエス様の心情を通じて流れ出る歴史的な縁に一つとなった自分になれましたか?なれなかったのであれば、皆さんはイエス様が歴史の道程を継承して今日まで縁を結んできたその縁を犯した罪人であることを知り、無条件に頭を垂れるべき人であることを自覚しなければなりません。また、時代的な縁を代わって福音の言葉を伝え、時代的な責任を果たすために実践の道を歩まれたイエス様の30年余りの生涯の道程を踏みにじった自分であることを悟らなければなりません。
そのような縁を通じて紹介された福音の言葉を理解せず、その縁を知らない人は、大きな借りを負った人です。神様の縁を通じたイエス・キリストであり、イエス・キリストを通じたキリスト教の真理なのです。その真理の前に今日私たちは借りのある人であることを知らなければなりません。天の前にイエス様が立つまでに4000年という神様の努力があり、神様の心情と歴史の過程で多くの先祖の血が染み込んでいたことを、皆さんはもう一度感じなければなりません。
では、皆さんが理念の縁を求め、その縁に基づく自分の位置を見つけたいと願うならば、前後左右と両肩に背負った大きな借りの重さを感じたことがありますか?天倫を動かす縁と法度は、今日この分野で私たちを促していますが、私たちは一人の個人の縁にとどまっています。もし皆さんがそのような縁にとどまって生活し、その縁から抜け出せないならば、皆さんの前には天情を通じた審判が待っているでしょう。あるいは、歴史の道程で殉教した多くの先烈の血が訴えるでしょう。そのような権内においても、天に向かって父と呼ぶことができたイエス様の心情を皆さんは知らなければなりません。


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イエス様の心と神様の心が通じることができ、歴史の過程で苦労された父の全体の心情がイエス様によって慰められることができました。また、イエス様お一人で未来に対する神様の全体の希望を代わることができました。イエス様はこのように歴史の道程において誰とも比較できない唯一無二の偉大な存在であったことを、当時の人々は誰も知りませんでした。
そのため、知らなかった歴史的な悲しみを解消し、栄光と喜びの姿で進むべきだったのが神様の意図でしたが、その意図が逆に悲しみの姿で、十字架の祭壇として現れてしまったのです。それでは、それを見守られた父の心情を今日皆さんは何で解消して差し上げるのでしょうか?これが最も大きな問題です。ですから、イエス様が去られた後の霊的復帰の歴史は、私たちの心霊復帰の道程において逆転していることを知っておかなければなりません。
今日、天主的な縁の使命を果たさなければならない使命的な分野において、上下の関係はもちろん、心霊も統一されなければならないということです。私たちの生命体の一つの細胞も統一された心情によって動いているのと同じように、そのような事実が歴史の過程を経て私たちの心に通じることができなければなりません。
そのため、皆さんが歴史的な責任を負って泣かれたイエス様、神様の意図を考えられたイエス様、夜通し祈られたイエス様、十字架にかかられたそのイエス様とどのような部分の縁を持っているかが重要な問題です。したがって、皆さんが「父よ、私は微力ですが、イエス様の一部分の重荷でも担います」と言えるようにならなければなりません。ご自身の悲痛な心情を誰とも相談できず泣かれたその切ない心情を感じて共に泣くことのできる悲壮な心情を持たなければならず、そのような心でイエス様の困難な事情の一部分でも担わなければなりません。
それでは、今日私たちの信仰生活において、イエス様をつかんで夜を明かしながら祈る人が教会に少なくとも三人はいるべきです。そうすれば、その教会は滅びることはありません。そのような教会、そのような教団は倒れることはありません。イエス様が伝えた福音は、この地球上に広まり、多くの教団を作り出しましたが、イエス様の意図を外れたキリスト教を見つめると、今日の私たちは再び反省し、3年の公生活で苦しんでいたイエス様の足跡を追う人々にならなければなりません。


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イエス様は神様の心情と歴史的な心情を通じて、当時のユダヤ教徒たちを見つめ、彼らの前に現れるときは堂々として自信に満ち溢れていましたが、裏では誰にも知られず涙を流し泣いていた方でした。形式と儀式にとらわれ、神様の心情の縁からだけでなく、道からも外れる人々を見たときには、鞭を振るって打ちたい心情であったのです。
今、私たちは自分たちの心情と生活の縁を通じることのできるイエス様の心を見つけなければなりません。また、そのような人々がどこにいるのかを探さなければなりません。そして、そのような心を持っていないならば、それを誰に受け継がせるのかを考えなければなりません。
このような立場に置かれている私たちならば、過去に犯した歴史的なすべての過ちを自分が代わりに背負わなければなりません。さらに、過去の悲しみだけを知っていてもいけません。それを超えて、未来に希望する心情まで知り、「これらすべてを私が責任を持ちますので、休んでください」と言えるようにならなければなりません。しかし、もし皆さんがそのような心に燃えて成し遂げた生涯の一片や生活の一片もないならば、悔い改めなければなりません。
今日、この世界はどのような時代に向かって動いているのでしょうか?現在は物質を中心に争っている時代ですが、これからは思想を中心とした闘争の時期が訪れます。つまり、人間の体に代わることのできる物質主義の時代を超え、心に代わることのできる思想主義の時代が現れるのです。
人間には体と心があり、心の上に霊があり、霊の上には神様がいます。したがって、人間は神様と完全に一つになって初めて完全な人となるのです。人はたとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史を代わる存在であり、未来のすべての縁を代わる存在であるため、天主的な価値を持つ存在なのです。では、人類の歴史は何を成し遂げるために今まで流れてきたのでしょうか?多くの私たちの先祖たち、私たちの預言者たちは何を望んできたのでしょうか?堕落した人間だったため、遠くから縁を持って中心へと探し求めてきたのです。つまり、氏族主義の時代から部族、民族を経て国家時代と国際時代、世界的な連盟時代を経てきたのですが、ここで天は一人の代表的な人を探しているのです。つまり、歴史的な縁、時代的な縁、未来的な縁を兼ね備えたその基盤の上に、神様の心情を結びつけることのできる一人の人を探しているのです。これを忘れないでください。


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従って、第一次世界大戦当時は物質を中心とした闘争の時期でした。つまり、この地のすべての人々が自分の心をかけて物質を求めようとしたのです。このように、世界が物質万能主義を叫んでいた時代があったのです。
しかし、これがどの時代にも通用するのかと言えば、そうではありません。人は自分の生涯の縁を求めていく上で、自分の心を前に掲げて進まなければならないのです。これが天倫の鉄則です。心の命令に従わない者は天が打ちます。今まで天は歴史の道程で人間に自分の心を中心に立ち、良心に従って生きるように、どのような物質的な悪の条件にも引っかからずに生きるようにと命じてきました。
では、人間の良心の基準は天倫の心情を100パーセントそのまま受け入れることができるようになっているのでしょうか?そうではなく、多くの障壁が立ちはだかっているのです。皆さんが望む希望の峰、つまり天国の門の前には多くの障壁が立ちはだかっています。これをキリスト教的に言えば、審判の門です。今日の世界は恐怖と不安と混乱の時期にあります。つまり、中心をつかもうとしてもつかめない時代なのです。
今日、私たちは物質をたくさん持っていてもいけません。なぜなら、神様は人を作るとき、物質である体をまず作り、その後に霊を吹き込んで作られたので、霊と肉体で成り立っており、霊が中心だからです。この世界が物質的な権限を中心に一つに動くとき、どのような闘争の時期が現れるでしょうか?思想闘争の時期が現れるでしょう。実際、そのような現象が第二次世界大戦以降に濃厚に現れています。そして、心を中心とした思想の時代が現れるでしょう。
では、思想はどのような思想であるべきでしょうか?物質を貫き、心を貫き、霊を中心とした思想であるべきです。霊を中心とした思想の時代を探し求めることが復帰の道です。人間はこれを失った状態にまだとどまっており、霊と良心と体の調和を失った状態にまだとどまっているのです。そのような状況がこの世界に象徴的に現れているのです。つまり、今日の世界は民主と共産の二大陣営に分かれて戦っているのです。この戦いは神様とサタンも対決する戦いであり、人間同士が宗教を中心にしても闘争する戦いです。


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従って、将来、世界を動かそうとする民族があったとしても、自分たちの手段と方法を持っては世界を支配することはできません。今日の思想の状況は現状では二つに見えますが、原則としては二つではなく四つでなければなりません。そこで今日、第三世界の国々がサタン側の宗教形態を持ちながら左翼陣営と手を組んでいるように、民主陣営でも新しい宗教形態を持って世界の人々と手を組む何かが出てこなければなりません。将来、キリスト教を中心とした世界的な宗教運動が現れるでしょう。
つまり、世界のキリスト教は民主陣営の中で良心的な権限に該当する分野にあるため、相対的な進撃戦があるでしょう。私たちの心に二つの心があり争っているように、二つの世界の衝突があると見ています。人間が望むのは一つの起点です。二つが一つに合わさる起点、その起点は縁の出発であり、縁の総合であり、縁の結果です。
従って、主体的な縁を通じることのできる内面的な基準を立て、それを生活の中心として生きなければなりません。そのような一つの生活の舞台を地上に築き、その価値が全人類の心情を通じる共同的な価値として現れる立場が整い、すべての問題が解決されるならば、世界は審判の時を迎えるでしょう。したがって、このような緊迫した歴史の過程に置かれている今日の青年男女は、自分の決意を整え、天に向かって新たに進んでいかなければなりません。
私たちが世界の近代史を振り返ると、文芸復興(ルネサンス)以降、フランスの政治革命と第一次世界大戦以後、物質文明が極度に発展しました。しかし、産業革命が起こり得たのは何故かというと、蒸気とガソリンの力を利用することができたからです。蒸気と石油を足場にして産業革命が成し遂げられたのです。
その後、この段階を超えて20世紀の前半に入ると、電気文明へと転換されました。水と石油は物質ですが、今や目に見えない電気の力を利用した電気文明の時代が来ました。物質を動かして光を発する段階を超えると、その次には熱の文明時代、つまり原子力時代が来るのです。これが最後の時代です。このように歴史は3段階の産業革命の過程を経てきたのです。


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しかし、これまでの歴史の道程において、経済体制や他の何かに大きな影響を与える刺激的な契機を作ることのできる民族と国民がいるならば、その民族と国民は世界を支配することになるでしょう。今日、イギリスがそのような使命を担ってきましたが、それを彼ら自身は知らなかったのです。
それでは、今日の物質文明が発展していく中で、その時代時代を打ち破ることができる小さな火花の使命を担う一人の動きが世界を動かすことができると誰が知っていたでしょうか?誰も知りませんでした。今日の物質文明の最終段階において、原子力が現れて一つの火花を発しています。しかし、その火花を誰が引き継ぐのかが重要な問題です。
では、物質段階が終わった後にはどのような段階に入るのでしょうか?それは思想です。したがって、心を探していかなければならない摂理があるため、文芸復興以降の潮流を中心に17、18世紀を契機にして今まで急激な変化の時代を経験してきました。思想の交錯が何度も繰り返された後、現在に至って形成されたのが左右の二大主義です。
しかし、終わりの日であるこの時代において、この二つの主義に求められるものは何でしょうか?それは、まるで物質文明を誇るここに原子力が現れて一つの火花を投げたのと同じように、今日の民主主義と共産主義が互いに優越性を誇るこの時代において、一つの火花となり得る新しい主義です。もしそのような一つの火花となり得る新しい主義を求める切実な心で燃える青年男女がいるならば、眠れずにその問題を解決しようとするでしょう。
どうせ戦いが始まったのですから、判決を下さなければならない立場に置かれています。優れた主義が出てくるとき、物質を支配し、心が完全であればその体を支配するのと同じように、今日、思想的な主義が現れて世界的な経済力を席巻する時が来ています。したがって、アメリカも第二次世界大戦までは経済的に繁栄し続けましたが、今は主義を求める時代になったため、物質的に打撃を受けています。これは一面ではありがたいことと感じます。しかし、捨てる時は堂々と捨てるべきです。援助などせずに、捨てるべきときには思い切って捨てる国家らしく大胆に捨てるべきです。これが将来の時代において私たちが提起しなければならない問題です。


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さらに、ここで民主主義において問題となるのは何でしょうか?思想の火花を引き起こす力はどこから出てくるのか、またその力が私たちの心から生まれるとするならば、その火花はどこから燃え上がるのかということです。これらの問題は皆さんの心では解決できません。これらを解決できるのは霊です。したがって、霊的な火花を起こす革命を起こす人であれば、その人は過去に天の意図のために苦労したどの道士よりも、あるいは今日の主義の主張者、またはどの世界的な理念よりも貴いのです。
従って、霊を中心とした経済体制の火花を投げかけて世界の経済を吸収しようというのです。また、霊的な思想と主義の形態の火花を投げかけて世界を動かそうというのです。しかし、世界は二つの道に分かれています。つまり、共産主義は捨てるべき物質を捨てずに探し求めて自滅していますが、一方で民主主義はありがたいことに神様を探し求めています。このように、二つの世界が分岐点に立っていることを皆さんは知っておかなければなりません。
人間は復帰の道程に立っているため、体は心に服従し、心は霊に服従し、霊は神様に服従するようになっています。これが天倫が定めた絶対的な縁の法則であるため、これを破って存在する人は誰もいないのです。
皆さんは良心からの訴えを「お前!」と言って服従させる勇気を持っていますか?今は心に服従しなくても、死ぬときには服従します。人間はこのようにできているのです。
それでは、皆さんは物質に打ち勝つことのできる人間になっているかどうか、反省してみなければなりません。今日までの時代は主義の時代であったため、良心に従って生きればよいとされてきました。しかし、今日の宗教生活をする人がかえって堕落しています。また「宗教も何もかも関係なく、ただ良心的に生きればよい、天国など全く無意味だ」という人もいます。しかし、人間の原則的な道程はそうなっていません。主義の思想を経て、心が心としての権威を持って体を打つとき、そのとき心の権威はどこに現れるのでしょうか?心の主観、権威が崩れる日には、どんな世俗的な主義を持ってしても心の権威を再び現すことはできません。


    20


今日の信仰者たちはほとんどが固執を持っています。彼らの心がただ霊にのみ服従するという理念的な条件を持っているため、誰が何を言っても聞きません。それでは、そのような人をつかんで私の心がその人を主観する権威を持っているかといえば、持っていないのです。
それでは、その持っていない心を革命することができる火花はどこから現れるのでしょうか?皆さんは視野を広げ、民族を超え、世界を超え、宗教や教権を超えて抗議する度胸がありますか?耳に入ってくる千万回の説教よりも、心を揺さぶる一言に頭を垂れることができる人が真の宗教人です。今日、救いが天国にあると思われていますが、そうではありません。心を照らすことができて初めて真の救いの歴史を起こすことができます。しかし、今日の主義が定着地を見つけられないように、私たちの心も定着地を見つけられずに漂っていますが、それではいけません。もしこのような心を持ちながら安らかに眠る人は末端に置かれるでしょう。
今日、皆さん自身の命と先祖たちの命を救わなければならない覚醒時代です。これを考えるとき、自分自身はこんなに自由に動いて生きる存在ではありません。宇宙的な縁の中で私の実存価値を立てることを、このすべての存在世界は待ち望んでいることを実感しなければなりません。心で感じ、頭で感じるだけでなく、さらに感情的に感じることができる位置まで進むべきです。
さらに今日、人々を見て「とても可哀そうです、父よ!しかし、父が良心を持つ人間の前に物質を与えなければならない責任と、真の心を持つ者の体を支配しなければならない意図を知っており、真の霊が父の支配を受けなければならないことを私たちは知っています」と言い、自分に山のような黄金や宝物を持ってきたとしても、それが心の望むものでないならば、それを果敢に捨てることができるべきです。問題は、このように大きな物質的な苦痛を軽々と乗り越えることができるかどうかです。したがって、私の体の価値は宇宙よりも大きいので、この宇宙よりも大きな体を私の心が服従させるとき、私の心は宇宙的な価値を超えるのです。


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今日、宗教的なすべての問題はここから始まります。このような立場から仏教を見ると、仏教もまた心を探すことに専念する宗教です。「心一つ明らかにすれば万法に通じる(明一心通万法)」これが仏教の教理の総結論です。
今日、繋がってくる物質は歴史的な罪悪の壁を築いてきたものです。したがって、皆さんはその物質の前に頭を垂れてはなりません。心が望まないときには無慈悲に断ち切ることができるそのような人々を天は求めていることを知らなければなりません。
この民族は哀れな状態にありますが、この原則から考えると一つの希望を持つことができます。私たちは物質的に乏しい民です。ここに生きる道があるならば、今こそ心を一つにしなければなりません。心を抱きしめ、心の飢えを訴えながら苦しむ人々が出てくることを天は望んでいます。飢えと苦しみに満ちたこの心と一体となり、霊的な火花を起こすべき時が来ています。この国、この民族は経済的にも心的にも貧困に直面しています。
それでは、今日私たちが心配すべきことは何でしょうか?それは神様を探し霊的な火花を起こすことができるかどうかです。すべての問題はそこに帰結するでしょう。過去の混乱の時代において、血が飛び肉が裂けるゴルゴタの死の丘を笑顔で越えた初代キリスト教信者たちが新たな火花を投げかけて世界的な革命を起こしたように、今日の皆さんもそのような霊的な最終の火花を投げかけて新たな歴史を起こさなければなりません。
皆さんには今まで信じてきた主義と信仰の内容すべてを押しのけて心の革命を起こす、すなわち新たな火花を起こす使命が最終的に残されています。ここに叫ぶ最終の声があるならば、それは「この乾いた心と体の園に天が投げかけることのできる永遠の火花をください」という声でしょう。その火花がこの民族を救う日には、世界全体がその火花を起こした人に頭を垂れる日が来ることを知らなければなりません。


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そのような縁が現れると、これまでの歴史時代では見られなかった矛盾した現象が起こります。そのときには未知の謎のような事件が起こるでしょう。その解明は私の心ではできません。誰かが私の命を奪いに来ても「違う」と言える新たな衝撃を引き起こすものでなければなりません。それは平面的な作用ではなく、立体的な作用でなければならないのです。
それでは、神様はこの歴史の過程を内面的にどのように通って来られたのでしょうか?神様はイエス様が来られる前には、まず物質を通して代償する時代を経て来られました。体を失った人間が父の前に出るためには、まず物質を父の前に捧げる時代を経なければなりません。つまり、犠牲の時代を経なければならないのです。
そのため、犠牲の時代の果実としてイエス様が結ばれました。そして、イエス様を中心にして霊的な火花を起こしたため、その後、イエス様を中心とした霊的な主義の形態で歴史が成り立って来ています。また、それが今日では多くの形態で現れ、再び二つの道に結集され、これからは世界がキリスト教を中心に統合運動を展開するでしょう。
従って、今まで想像もできなかった天情を感じさせ、良心と体が調和することができる新しい何かを提示しなければならない摂理が今日のキリスト教に残されているのです。最初は上がったり下がったりする小さな規模の興亡が繰り返され、最後には次第に大きく広がります。そうして大きく上がったものと大きく下がったもの、つまりこの二極の流れを合流させるために歴史的な転換点が現れるのです。
従って、背後の起点と未来の起点を中央に統合させる時が「理念復帰完成時代」であり、「歴史復帰完成時代」であり、「復帰摂理の終結時代」であることを知らなければなりません。また、個人においても外的な世界観と内的な摂理観を自己に結びつけなければならない時です。人間は原則的な縁の世界から逸脱した存在であるため、必ず一度は清算しなければなりません。


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人間には霊があり、心があり、体があります。また、周囲には生活環境があり、万物があり、土地があります。まず土地ができ、その後万物ができ、その万物を私たち人間が食べて生きています。そうして体が成長し、心が成長し、霊を成長させます。その次には神様に出会うことが定められているのです。これが原則的な法則です。どんな革命を起こした人でもこの法則から逸脱して生きた人はいません。私たちは逸脱していない直線上の縁的な条件を立てて見つめています。
従って、皆さんは今や世界を探さなければなりません。しかし、そのような欲望がありますか?皆さんは皆そのような欲望を持っているでしょう。この地を自分の土地にしようとすること、すべての万物を自分の万物にしようとすること、それは欲ではありません。原則です。なぜなら、神様の真の息子娘になれば神様のものが自分のものになるからです。例えば、皆さんの父親が裕福であれば、そのものが自動的に自分のものになるのと同じ原則です。
また、存在界全体を分析すると、物質の背後には人がいて、人の背後には神様がいます。したがって、私たちがその基準に入れば、世界的な理念と世界的な物質を見つけることができるのですが、まず世界的な人を見つけなければなりません。したがって、イエス様も世界的な人を見つけるための運動を展開されました。そして、世界的な縁を見つけた後、天主的な縁を結ぼうとされたのです。つまり、一段ずつ上がっていくのが天の摂理です。したがって、このような復帰の運命から逃れることができない人間であることを知らなければなりません。
それでは、今日の状況がこのようになっている中で、皆さんはどうすればいいのでしょうか?共産主義は物質主義であるため、いずれ必ず崩れます。民主主義陣営は天を求めて上がっていかなければなりませんが、誰を中心に上がるのか?これが私たちが解決しなければならない使命です。したがって、皆さんは今までの主義思想で期待していた以上の真の愛とその価値を示さなければならないのです。
従って、私たちは物質を超え、霊を超え、神様の前にまで進まなければなりません。世界的に見れば、今は心を超えて霊的時代に入る時であるため、今日の道端には狂人が多くいます。良心が敏感で良心に従って生きようとする人に霊界が襲いかかり、そのような現象が現れています。私の良心の上には悪い霊が支配しています。私の体がサタンの支配下にあるのと同じように、私の良心が一段上がるとその上には悪霊が支配しています。したがって、私の体を支配する悪霊を打ち破り、その代わりに善霊を現さなければならないのが最終的な霊的な問題です。


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従って、良心的な人々の中から精神異常者が多く出てきます。恐怖症のようなものが多く生じています。そして、世界的な恐怖症が生じています。ここで問題となるのは、自分の良心を中心にその恐怖症と戦っていく熱情があるかどうかです。そのような中心が確立された人は、どんな世界的な革命もその人を支配することはできません。天と地を動かすことができる天の革命でなければ、その人を動かすことはできないのです。
従って、そのような人々が持つ決意は永遠の決意です。どんな原子爆弾やどんなものであっても、回っているその軌道と法則を変えることはできません。したがって、変わらない良心を中心に一つの原則を立てて天理の原則の理念と通じることができなければなりません。そうして、その価値を自分の心と体の理念の中に置き、天と一直線の関係を結ばなければなりません。そうして、皆さんがそのすべてを生活の舞台で100パーセント実践できる価値を万物世界と人間世界の前に示すことができる何かがあるならば、皆さんはまさにそれを見つけた人であり、すべてを所有した人となるでしょう。このような理念の目的を経て進む使命が私たちにあります。
それでは、ここで問題となるのは何でしょうか?世界に向かって叫ぶどんな主義があっても、自分と縁がなければ関係がなく、世界に向かって繰り広げられるどんな心的革命の火花も、自分と縁がなければ何の関係もありません。したがって、皆さんはそのような関係を結ばなければなりません。そして、皆さんは自分の価値を宇宙的な価値として知り、この世に比べ物にならない何千万倍の価値として知るとき、この地球のすべての怨念を解放することができます。さらに、皆さんはまた、万民を抱き、彼らのすべての心的基準を合わせることができて初めて、神様を「父」と呼ぶことができるのです。
イエス様は「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか」(マタイ16:26)とおっしゃいました。今日、宇宙時代に入っていると言っても、心の世界にはどんなものも及ばないのです。このような偉大な理念を地上の理念として歌いながら生きるのが人間であることを、皆さんは知っておかなければなりません。
今、皆さんがそのような心的な縁の摂理を経て現れるとき、皆さん一人一人は神様もどうすることもできず、サタンはなおさらどうすることもできません。どれほど悪がどうであろうと、石ではなく鉄でさえも消化できるようになるのです。どんな主義、どんな思想も皆さんを飲み込むことはできません。したがって、皆さんはこのような大きな縁的な個人の善の価値を知らなければならず、その大きな縁的な価値に帰結できる橋を架けなければなりません。そうして、自分との橋を架け、過去に残された単位の中で少数の部分を通して全体の価値を立てなければなりません。これが決定的な基準となるのです。
従って、皆さんは個人の縁を超えて、大宇宙的な縁を結ばなければなりません。それを現実に合わせて落とし込む、つまりゼロにしなければなりません。そうすることで初めて自分が神的な存在として立ち、宇宙の神様も一つの存在として立つことができるのです。大きな神様と小さな神様が互いに天的な価値を歌うことのできるその世界が、私たちが望む縁の完成の世界であり、地上天国の世界であることを、皆さんは忘れてはならないのです。

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中国のろくでもない法曹人を教育する日本の大学

2024年07月18日 18時44分47秒 | 日記
【悪意は無いのだろうけど】
 日本国内で中国の法曹人を教育している大学がある。
板橋区にある「大東文化大学だ」。

大東文化大学は10年以上前から、法学部に中国人留学生を受け入れて教育をして来た大学だ。
年間で600人ほどが留学生として受け入れられて来たと思われる。
今は解らないが。

だがこれらの留学生達はルールも守らない、ろくな人間では無い。

アルバイトは許可されていない筈だが勝手に知り合いの店でアルバイトをするは、混雑する電車で足は組んで周りの人間い迷惑をかけても知らんぷり、たばこは吸うは、ロクに協調性も無い人間で、およそ法曹界とは無縁の様なロクデナシばかりの様だ。

出身省は福建省が主な所らしい。
如何言う経緯でそうなったかは解らないが、酷いもんだ。

これは見直されるべき対応では無いだろうか。

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御言葉選集4(16)

2024年07月14日 17時39分01秒 | 学習


文鮮明先生御言葉選集 4 - 16. 耐え忍ぶ者になろう (1958年5月18日)
耐え忍ぶ者になろう
1958年5月18日(日)、前本部教会


マタイの福音書24:1-14


<祈り>


 今、この時は2千年前のイスラエル民族が混乱していたその時と同じ時であり、メシアが来なければならない時です。私たちはそのような時に直面しており、真実が何であるか、偽りが何であるかを見分けるのが難しい時代にいます。今までの歴史の過程では、多くの苦労した教師がいましたし、また多くの指導者をお迎えしていましたが、今日私たちは心の中心を失っています。


 今日の人々が混乱した生活環境にあることを、お父様、あなたはご存知であると思います。お父様、私たちの生活を整理し、心を整理し、私たちの理念を整理して、天性の前に依存して生きることができる幸せな時間を与えてください。その一日を探す人は多いのですが、「見つけた」と言う人はまだいません。


 その一日を証する人は多いのですが、本当にお父様を喜ばせる人は極めて少ないのです。今日のように混乱した世の中に生きる私たち、私たちの心と体が進むべき理念を私たちの生活で体現し、心から感謝できるようにしてください。そして、お父様の望まれる息子娘と称賛され、復帰の使命を果たした息子娘として祝福を受けることができるようにしてくださいと、切に願い求めます。


 お父様、私たちの心を知ってください。私たちの心は誰よりも私たちの行くべき道をよく知っています。私たちの心は本来の真の道を歩むことを望んでいます。お父様、私たちの心の願いを叶えてくれる真理と宗教を許してくださり、救いの摂理の意志を成し遂げるよう導いてください。


 愛するお父様、哀れなこの民族を憐れんでください。道を失い迷うあなたの息子娘たちを憐れんでください。勝利の日に向かって前進する私たちを憐れんでください。お父様の意志を私たちが成し遂げられるよう共にいてください。


    1


 今や逆境に遭うとしても、お父様の意志を成し遂げなければならない時が私たちの前に来ました。その逆境を乗り越え、お父様の栄光を望む心と体を持つことができるようにしてください。たとえ一人でも逆境を乗り越えてお父様の心情を心配しながら、誰にも知られない隠れた祭壇を築き、お父様の心を似るために、お父様の心情を体感するためにすべてを捧げることのできるあなたの息子娘が多く現れるよう導いてください。お父様、切に願い求めます。


 ここにはどんな教団も、どんな集まりも、どんな教派も問題ではないことを知っています。お父様が知ってくださる内なる心情、お父様の心を体感できる切なる心情を持って進むことが真理の核心であり、真理のすべてであることを私たちが知ることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


 数多くの教派に分かれて全教界が混乱しています。お父様、憐れんでください。ここで孤立しているお父様の息子娘がいますか? 彼らをお父様が励ましてくださると信じます。私たちは彼らの心情を体感し、お父様の意志を証することができるように許してください。そして、孤独な者たちが集まり、お父様の真の息子娘として立つことのできる喜びの日が早くこの地に訪れるように許してください。切に願い求めます。


 お父様、今集まったあなたの愛する息子娘を憐れんでください。ここに集まるようにされたのもあなたでした。お父様、彼らを責任持ってください。変わらない私たちの心を収め、真心を尽くして本来のお父様の心情を通して感じられる衝動を、今、この時間、各自が心と体で感じられるように許してください。そして、自分の行くべき道を見つけることができるように、お父様の直接的な導きを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。


 2千年前に来られたイエス様の姿を私たちが感じ、そのイエス様の悲しみを心から同情する息子娘になることを許してください。そして、子供のような心を持ち、お父様の心に悲しみがあればその悲しみを私たちの心で感じ、喜びがあればその喜びを私たちの心で感じて、お父様の真の息子娘の姿になることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


    2


 今、私たちが持っているすべての主義や主張、そして慣習的な条件をすべてお父様の前に差し出し、子供のような心情でお父様の愛を求めるこの時間となることを許してください。切に願い求めます。


 話す人の心も、受け取る人の心も、一つであるようにしてください。サタンは常に話す人と受け取る人の心の隔たりを狙っていることを私たちは知っています。願わくば、私たちが子羊の姿を持ち、お父様の言葉によって再創造されることができるこの時間となるようにしてください。初めから終わりまで、ただお父様だけが主管してください。切に願い求めます。すべての言葉を主の名前によって申し上げました。アーメン。






<御言葉>


 今日、皆さんにお伝えする言葉のタイトルは「耐え忍ぶ者になろう」です。


 今日朗読した聖書の言葉には、終末の兆候についての言葉がありました。終末には、信仰を中心に生きていくことが難しいことがここに記されています。したがって、この困難な混乱期を克服して勝利者になるためには、最後まで耐え忍ぶ者にならなければならないことを、皆さん自身が理解し、まず心で感じて恩恵を受けるこの時間となることを願います。


 私たちは誰もが神を考える時、栄光の主として存在していると考えがちです。また、神は多くの力を持っており、万人の行動を把握していると簡単に考えるかもしれません。しかし、6千年という長い歳月を経て、神はまだ栄光の一日を見つけていません。私たち人間を統治する権能の行使も、まだ経験したことがありません。これを考える時、神には誰も知ることができない深い心配と深い苦難、そして深い痛みがあることを私たちは考えなければなりません。


    3


 天地万物は私たちが簡単に考えるように、神の栄光のために創造され、権能の行使のために創造されました。しかし、神の栄光を示し、権能の相対者となるべき人間がその位置に立たなかったため、神は栄光を得られず、権能の行使もできないまま、今までその希望の一日を成し遂げるために摂理を進めてきたことを皆さんはよく知っています。


 アダムを創造し、喜んでいた神が堕落したアダムを見る時、皆さんが想像することのできない悲しみが神の心に訪れました。神がアダムを中心に創造の理念を立てた意図が大きければ大きいほど、アダムの過ちによる悲しみはさらに大きかったのです。そして、誰にも言うことができず、誰にも伝えることができない神の内的な悲しみを知る者はいません。


 この悲しみに加えて、苦しみと逆境を経験しなければならなかった神、言い表せない苦しみと逆境を経験しなければならなかった神がいました。このように悲しい立場にあっても、人間に対して救いの摂理を行わなければならなかった神は、人間が想像できない二重の苦しみの心情を感じなければならなかったのです。


 堕落したアダムをエデンの園から追い出した神ですが、その追い出した人間を放っておくことができず、再び愛の手を差し伸べたのは、神が愛の心情を持っているからだということを、私たちは今日考えるべきです。しかし、天倫の創造理念を破壊したアダムとエバの家庭を中心に、再び第二の希望を持ってきた神の心情はどのようなものであったでしょうか。神のこの心情を皆さんが知る必要があります。捨てられた子供を再び未練を持って対処しなければならない神の事情を知る者がいるなら、その人は神の切ない心情を知ることができるでしょう。そして、その人は神がどのような立場にあるかを知ることができるでしょう。


 神はアダムとエバを通して復帰の摂理を始めなければなりませんでした。そしてカインとアベルを選び、ノアを選び、他の多くの家庭を選び建てて、復帰の摂理を進めてきました。このような摂理の歴史を導いてきた神の心情は、言い表せないほど切ない心情でした。しかし、そのような心情を抑えながら、今日まで耐え忍び続けてきたのです。


    4


 それでは、神が今まで耐え忍び続けてきたその切ない心情を感じ、神にしがみついて涙を流す人が今日のこの地上に何人いるでしょうか?もしこの地上にそのような神の心情を知り涙する人がいるならば、その人は神が天地万物を創造された時の喜びと共に、人間の堕落によって全天地万物を覆った神の悲しみを知ることができるでしょう。


 この地上において、今まで耐え忍び続けてきた神の心情を代わりに担う人、また神の悲しみと共に泣いてくれる人がいるならば、神も創造主としての面目を忘れ、創造主の栄光や権威などすべてを忘れて、その人と共にただ涙を流されることでしょう。このような事情に満ちた神の心情を皆さんは理解しなければなりません。


 神はそのような切ない心情を抱えながら、裏切ったアダムやノア、アブラハムを立てて再び摂理を行わなければなりませんでした。また、苦難と逆境の中で呻きながらも、イスラエル民族を見捨てることなく、モーセを立てて祝福のカナンの地へ導いた神の心情を皆さんは理解しなければなりません。


 神は数多くの預言者や先祖を選び、彼らに悲しみの道を歩ませながら摂理の歴史を展開してきました。そして4千年の歴史が経過した時、すなわち今から2千年前に、新たな歴史を展開し、4千年の悲しみと憤りを晴らすために、この地上にイエス・キリストを送りました。しかし、そのイエス様を十字架につけてしまったイスラエル民族を見捨てることなく、摂理を続けなければならなかった神の悲しみを知る者がどこにいたでしょうか。そのような教会や民族がどこにあったでしょうか。神はそのような個人、教会、民族が現れることを望んでいます。


 天の道が良いと知って進んだとしても、神の心情を掘り下げれば掘り下げるほど、それは涙の峠です。神の心が栄光の中にあると思っていたのに、実際には悲しみの要素を持つ神であることを知るでしょう。皆さんはこのような神を理解しなければなりません。

    5

 今日、私たちは神の悲しみに代わって悲しむ天の息子娘となるべきです。皆さんは、周囲からの圧力や排斥を受けるどのような困難があっても、神の悲しい心情を慰めることができなければなりません。今こそ私たちは自分の切なさを忘れ、神が今まで耐え忍んできた意志を見習い、神の悲しみと苦しみを代わりに背負って進むべきです。

 神は私たちのために、教会のために、そして裏切ったイスラエルのために耐え忍び、また裏切った世界のために耐え忍んできました。このような神の心情を今日、終わりの時代に残された信徒たちは涙をもって見習い、このような神の心を慰めるべきです。このような真の息子娘にならなければなりません。

 天が4千年間耐え忍び続けてきたのは、イエス・キリストを送り出す時にイスラエル民族が信じてくれることを望んだからです。しかし、その民族がイエスを十字架にかけた時、地に対する神の希望は水泡に帰しました。イスラエル民族は神が望んだ意志を成し遂げるべき立場、すなわち天倫の一時期を約束するべき立場にありましたが、イスラエル民族は神の最愛の独り子を殺してしまいました。

 それでは、今私たちが「父」と呼ぶその父は、6千年間悲しみと苦しみの道を耐え忍んできた父であることを皆さんは知っておくべきです。私の父は6千年間耐え忍んできたのです。また、このように6千年間耐え忍んできた父は、単なる名目上の父ではありません。


 神は6千年間耐え忍んできましたが、神が支配できる地はまだ復帰されていません。したがって、皆さんは今、地全体を蕩減復帰しなければなりません。皆さんは新しい歴史を創造し、新しい理念を探し求めなければなりません。したがって、このような立場にある皆さんは何よりもまず耐え忍ぶ者にならなければなりません。


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 そして、皆さんは真の宗教を探し求めなければなりません。真の天の息子娘を探し求めなければなりません。耐え忍ぶ信仰者を探して支えなければなりません。耐え忍ぶ教団を探して求めなければなりません。耐え忍ぶ民族、国家を探し求める使命が今日の天を目指して進む信仰者にあることを皆さんは知っておくべきです。


 今日まで、すべての宗教は耐え忍ぶ者が創立してきました。これからも耐え忍ぶ宗教が世界を導くことでしょう。人類の歴史を振り返ってみても、やはり耐え忍ぶ者が勝利してきたのです。天においても地においてもそうでした。それゆえに、現在もこの地は、神を心配し節操を立ててくれる人物を迎えるために嘆息していることを皆さんは知っておくべきです。


 宗教について見ると、今日のキリスト教が世界的な宗教になったのも、キリスト教がより耐え忍んだからです。イエス様は、4千年間耐え忍んできた神の心情を感じ、また万民が歴史的に耐え忍んできたことを考えた時、ゴルゴダの山で自分の体が十字架にかけられても耐えなければならなかったのです。それで両手両足に釘が打たれながらも、イエス様は彼らのために「父よ、彼らをお赦しください。」と祈ることができたのです。


 このように神が耐え忍んできたその心情を万民とサタンの前に示したため、耐え忍ばざるを得ないサタンはその心情の前に屈服せざるを得なかったのです。これがイエス・キリストが私たちに示してくれた模範的な耐え忍ぶ道でした。またこの地上の人間はもちろん、あらゆる物も今まで6千年間耐え忍んできました。


 そして、人間が堕落したことで霊界にもその影響が及び、天使世界にもその影響が及びました。ですから皆さんには、万物はもちろん霊界にまで染み渡っている嘆きと、6千年間耐え忍んできた神の事情を責任をもって担わなければならない使命が残されています。


    7


 したがって、今皆さんはそのような外的な心配と宇宙的な責任を代わりに心に抱き、耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。もしそのような覚悟と決意がなければ、今日の皆さんは天の道に同行できないでしょう。


 ですから、今日の皆さんはまず天の祝福と天の栄光を望む前に、天の血を流すような心情、悲しい心情を晴らしてあげなければなりません。神の耐え忍ぶ心は全宇宙を包み込むほど大きいのに、今日私たちは罪深い環境の中で罪深い自分を持って生きています。このような立場では宇宙を抱えて耐え忍んできた神をお迎えすることはできません。つまり、6千年の歴史を摂理してこられた神を迎え入れることはできないのです。


 したがって、今皆さんは今日まで歴史を支配してきた神の心情と意志を理解し、神を迎え入れることができるようにならなければなりません。6千年間摂理してきた中で耐え忍んできたその心情を持たなければならないのです。つまり、今日の終末に置かれた皆さんには、神を心に迎え入れ、その方を万民に証しする使命があるのです。


 それでは、今、6千年間耐え忍んできた神の心情を持ち、神を迎え入れて慰めることのできる真の息子娘は誰なのでしょうか。神はそのような息子娘が現れるのを待っておられます。天を裏切り、天使長サタンの誘惑に陥って堕落した人間を見捨てることなく、再び救うために6千年間耐え忍んできた神がいらっしゃいます。今日、皆さんはその神の心を理解しなければなりません。


 さらに今日、皆さんはこの民族を救おうとする心がありますか? 今日ここに集まった人々、真に天の懐かしさを感じる心がありますか? 皆さんは民族の苦しみを代わりに背負う姿でなければなりません。どのような苦しみと逆境の中でも耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。耐え忍ぶ者にならなければ、民族を責任をもって担うことはできないと理解してください。

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 また、皆さんが世界を救おうとする心があるなら、まず世界の悲しみと世界の困難を自分の身に背負い、耐え忍ぶ覚悟と決意を持たなければなりません。しかし、もしそのような覚悟と決意がなければ、世界のどの部分にも天の理念を残すことはできないでしょう。

 神はサタン世界と地獄世界さえも包み込み、そこでも耐え忍ぶ心があるため、地獄にいるサタンたちさえもその前には頭を垂れます。ですから、皆さんが最後の勝利者、最後の父の息子娘になりたいと願うなら、皆さんは神の耐え忍ぶ心を自分の耐え忍ぶ心で、神の耐え忍ぶ姿勢を自分の耐え忍ぶ姿勢で心と体で感じることのできる人にならなければなりません。今日のキリスト教も耐え忍ぶ道理を教えたからこそ、世界的な宗教となり世界を支配しているのです。

 今日のユダヤ民族は地上に生きています。しかし、その民族は神の意志を裏切った民族でありながら、なぜ神は彼らを見捨てることができないのでしょうか。もちろん、ユダヤ民族は道を誤りましたが、神の選んだ選民として神をために変わらない心を持ち続けているからです。天に反対する立場にありながら、いつか神を見つけ出す時には、どの民族よりも神の耐え忍ぶ仕事、耐え忍ぶ仕事を担うことのできる民族であるため、摂理の道を裏切りましたが、見捨てることができないのです。

 歴史の過程でどんな逆境に直面しようとも、天のために摂理の歴史を守り続ける民族があるならば、その民族は世界を支配するでしょう。たとえ一時的に神の意志に背き、サタンの手先として働いたとしても、もし彼らの決意と覚悟が天のための心に基づいているならば、最終的にサタンは屈服せざるを得なくなります。

 サタンは耐え忍ぶことができず、耐えることもできません。もしサタンが耐え忍ぶことができたなら、神を裏切り6千年の歴史を逆らってくることはなかったでしょう。

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 神を中心とする民族がどんな逆境に直面しても、自分たちの民族が天の選民であると主張し続けるなら、その民族は世界から消えることはありません。今日のユダヤ民族が世界の経済権を握り、その他の多くの分野で主導権を握っているのも、それには理由があるのです。

 歴史の過程もまた同じです。過去のどの時代でも、逆境に直面して混乱と混沌の中にあった時、耐え忍ぶ心を永遠の理念に結びつけて進んできた人々が新しい歴史を展開してきたことを私たちはよく知っています。民族も、歴史も、宗教もそうでした。

 それでは、終末にはこれらがどのようになるでしょうか?終末には、民族の中から中心民族が、宗教の中から中心宗教が、歴史の中から中心歴史が現れるということを皆さんは知っておくべきです。

 神は「私はアルファでありオメガであり、最初であり最後であり、始めであり終わりである。」(黙示録22:13)とおっしゃいました。しかし、終末には、宗教の中でもより耐え忍ぶ宗教、キリスト教の中でもより耐え忍ぶ教派が勝利するでしょう。また、民族の中でもより耐え忍ぶ民族が勝利するでしょう。天はこのようにしてより耐え忍ぶ者たちを探し出し、新しい時代を切り開いてきたのです。このような原則があることを皆さんは知っておくべきです。

 神は4千年間イスラエル民族を選び、精一杯の努力と誠実をもって導き、摂理の意志を成し遂げるためにこの地にイエス様を送りました。しかし、そのイエス様はキリスト教徒たちが歴史を経て信じ、敬ってきたような素晴らしい立場、尊敬される立場には立てませんでした。裏切り者であり、異端者であり、民族の反逆者という烙印を押されて亡くなったのです。

    10

 それでは、神はなぜ新しい摂理の理念を立てる際に、耐え忍ばなければならない環境にイエスを置かざるを得なかったのでしょうか。それは、人類の歴史が堕落から始まったからです。イエス様は堕落の歴史を終わらせなければならなかったのです。聖書や歴史的記録に残っているイエスと、その当時のイエスには大きな違いがあります。当時のユダヤ教団が今日のキリスト教信徒が信じるほどにイエスを信じていたならば、イエスは十字架にかかることはなかったでしょう。

 殺してから探し求め、後悔する民族が堕落した民族です。当時、天倫の一時期を待ちながら耐え忍んでいるイエス様に反対したイスラエル民族は地獄に落ちました。ユダヤ教徒たちは自分たちが真理を代表していると自負していましたが、歴史の過程を経てみると、非真理のように見えたイエスが真理を代表しており、むしろユダヤ教が非真理の立場にあったのです。このように、天の動きは歴史の過程で矛盾しているように見えることがあります。当時のユダヤ教徒たちは、イエスを中心に理念的な事実は知っていましたが、実証的な事実とはかけ離れていました。

 しかし今日、一国家の運命においてどんな悲運が訪れたとしても、それに対して悲しまずに天倫の摂理を知り、その中で団結し耐え忍ぶ民族となるならば、その民族は滅びることなく生き続けるでしょう。神が4千年間イスラエル民族を通して築いたユダヤ教は、天の内的使命を果たすための犠牲になるべきでしたが、ユダヤ教団は腐敗し、形式主義的な観念に陥っていました。しかし、当時これを嘆き悲しむ者は多かったものの、イエスに従う者はいなかったのです。

 神は私たちに終末が来ると予告されました。全ての人々が大審判の日を免れないと予告されました。それでは、このような神の摂理の歴史を分析してみると、何を根拠にしてそのような歴史的摂理の過程を経なければならなかったのでしょうか。神が耐え忍び続ける立場にあるため、サタンと対立する立場に置かれ、サタン世界が天の側に転換される時には、必ず耐え忍ぶ過程を経て新しい歴史が創造されるのです。ですから、忠臣の子は滅びることはなく、貞婦や孝子、孝女の息子娘も滅びることはないのです。

 したがって、この民族は歴史に名を残さなければなりません。しかし、この民族は4千年という長い歴史を持ちながらも、固有の民族性がありません。それでは、この民族に対する摂理を考えるとき、この民族はどうすべきでしょうか?この民族にも一時期があるということは何を意味するのでしょうか?この民族は同じ民族に対しても、世界に対しても苦難を受ける立場にありますが、これはむしろこの民族にとって幸せの基盤になるかもしれません。このような立場にこの民族は置かれているのです。

    11

 したがって、皆さんは心を広く持たなければなりません。大韓民国のために他国の人々がこの地に来て犠牲を払いました。そしてこの国は今も他国の援助を受けています。したがって、皆さんはその人々の頭上に手をかざして祝福する心を持たなければなりません。また、この民族に対する神の内的なすべての事情が人々に伝わらないからといって落胆せず、未来に向けて、どのような方向を通じても祝福する心を持たなければなりません。

 もし皆さんがそのような心を持てば、新しい理念を中心にこの民族を通して新しい摂理の歴史が展開されるでしょう。民族もそうですが、キリスト教社会もまた同様です。したがって、この民族は世界の前に、あるいは宇宙の前に押し寄せられる民族でなければなりません。実際に、この民族は24億の人類の前に押し寄せられることになるでしょう。

 イエス様が十字架につけられるとき、右側の強盗は天を信じようとしましたが、左側の強盗は天を信じない立場を取りました。このように、今日の世界は二つの世界に分かれています。つまり、右側の強盗のような立場で形成された右翼の世界と、左側の強盗のような立場で形成された左翼の世界に分かれています。左翼の世界は、神を知らない世界となっています。

 では、そのような世界で証しなければならないのは何でしょうか? それは真の愛です。したがって、これまでイエス様の名を頼りに証してきたように、今後は天を探し求める宗教的な形態を持つ国家が現れて真の愛を証しなければなりません。これまでイエスの理念は現れませんでしたが、これからはイエスの理念が現れなければなりません。したがって、終末には必ず何か新しいものが現れなければなりません。

 それでは、終末に全人類が求めるものは何でしょうか?それは、イエス様が主張した真理ではなく、主張できなかった真理の背後の心情を超える何かです。ですから、終末には必ずそれが現れなければなりません。そしてその時がまさに世界的な理念時代です。そのような時が必ず来るでしょう。聖書に固執し、それだけを守る人々、あるいは自分たちの固有の思想だけを主張する民族は適応できません。

    12

 したがって、今日の皆さんは「お父様、私たちを世界の民族の前に押し寄せられる者としてください。お父様を頼りに死ぬ者となり、お父様を捨てる者とならないようにしてください。」と祈る人々となるべきです。

 私たち教会の家族は、押し寄せられる者となったからといって他人を非難しないようにしましょう。他人の欠点を取り上げて中傷し、自分の利益を追求しようとした民族は滅びました。ですから、今日の皆さんは自分の心と体に真理がないからといって嘆いてはいけません。自分に知識がなく、持ち物がないからといって嘆かず、権力や勢力がないからといって嘆かず、「父よ、私のすべてを奪われてもイエスの道を守ることができる天の精兵としてください。私たちを最後の勝利の手段としてください。」と祈ることができるようにすべきです。

 イエス様は両親も失いました。親戚も失いました。自分の教派も、自分が指導すべき民族もすべて失いました。しかし、彼はそのすべてを失ったにもかかわらず嘆きませんでした。より大きな天の心情を抱きしめ、神の忍耐を見習って死の場でも耐え忍びました。これまで殉教者たちの魂はあの世に行きましたが、自分だけが救われるために死んだ人は良い場所に行けませんでした。しかし、自分のような罪人は何万回死んでも当然だと思う人は天国の高い場所にいるということです。

 したがって、今や世界が祝福を受けるとき、世界だけのために働いた人は世界を超えて宇宙世界では落ちてしまいます。したがって、今日私たちには新たな心を持ち、新たな出発を展開し、この小さな三千里の国土を中心に世界を揺るがす責任があるのです。これは決して空論でも妄想でもありません。

 イエス様がサタンに対する憤り、民族に対する憤りを抱くこともできたが、神が愛する民族であることを知っていたので憤りを抱かなかったのです。皆さんもそのような事情に直面するとき、すなわち憤りの心が起こるとき、それを超えてむしろ祈る者となるべきです。そうして倒れた先祖たちが立ち上げようとした教団を再び立ち上げ、この民族を動かし、さらに世界的なキリスト教を革新しなければなりません。このような使命が私たちにあるのです。

    13

 それでは、今日の特に若い男女の皆さん、あなた方はどこで死ぬつもりであり、どの分野で天の前に条件を立てて死ぬつもりですか。また、あなた方はこれまで誰のために生きてきましたか?その理念において、その良心において、その生活において誰を頼りに生きてきましたか?もしこれまで自分だけのために生きてきたのなら、自己反省し、自分を戒めなければなりません。

 永遠の理念を中心に動くことができる者たちは、その理念的な主体が消えない限り滅びることはありません。ヤコブも神の意志ひとつを握りしめて、21年間ラバンの冷遇と軽蔑を受けました。父の意志ひとつを胸に抱き、父の祝福の意志を忘れずに21年を一日ごとに生活しました。アブラハムも同様でした。モーセも選ばれた民を心配しながら、ファラオの宮殿で40年、ミディアンの荒野で40年を耐え忍びました。そして、イエス様も同様であったことを皆さんは知るべきです。

 それでは、終末に置かれた今日の私たちが、サタンの世界に抱かれていた人類、神の悲しみの条件を持つ哀れな人類を救うために戦いを展開するならばどうなるでしょうか?この戦いで人類を救うために犠牲になる人がいるならば、その人の墓は神が建ててくださり、その人の死後の足跡は神が明らかにしてくださるでしょう。行き詰まった道に立っている皆さんは、「自分の命を守ろうとする者はそれを失い、失う者はそれを得るであろう」(ルカ17:33)という聖書の言葉を覚えておくべきです。サタンの条件を掲げてイエスを裏切った者たちはすべて滅びました。

 私たちの民族も日本の統治下にあった時、自分の不利な立場を逃れるために神社参拝をし、教団を売り渡した人々は皆滅びました。涙のない教団、民族、そして世界はすべて滅びるのです。ですから、皆さんはこの民族に対して、神の摂理の前に他のどの民族よりも早く移されるための神の隠れた摂理の意志があることを知るべきです。

 したがって、皆さんがイエスの事情を理解し、神の立場を代わりに担うことができれば、神の理念の時代が来た時、この地上で第二のキリストの福音を受け継ぐ天が許した生命の息子娘となることができるのです。これを心に刻んでおかなければなりません。

 また、皆さんには民族に対する責任があり、多くの教団に対する責任があるのです。ところで、皆さんは食事をしたり、服を着たり、眠ったりする時に、この民族のために、あるいは天地に対して無限の心配をしたことがありますか?もしこの世界に対して、天地に対して心配する息子娘がいるならば、その人は新しい時代の主人公となることを皆さんは確信すべきです。

 摂理的な歴史の過程を思い起こすと、涙を抑えることはできません。しかし、そこに留まらず、それを鏡として今日耐えなければならない環境、耐え忍ばなければならない環境において敗北者とならず、天が喜ぶことのできる天の息子娘として立つことのできる者となるべきです。



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御言葉選集4(13,14,15)

2024年07月13日 17時20分16秒 | 学習

文鮮明先生御言葉選集 4 - 13. 中心を探し求める私たち (1958年5月4日)
1958年5月4日(日)、前本部教会。

聖書拝読:ペテロの手紙第一 1:18-25


<祈祷>

 お父様、私たちが命を持っていると言うならば、その命の原動力が私一人に限定されないように許してください。また、御言葉の力を持っていると言うならば、その御言葉が私たち一個人に留まらないようにお許しください。

     20

 さらに、その御言葉と命の力が民族を超え、世界を席巻し、天地を動かす力となることを許してくださいますように、お父様、切に願い求めます。

 これまで私たちは安らぎの中でイエス様を迎えようとし、安らぎの中でイエス様を探そうとしましたが、十字架で血を流す姿として現れるイエス様を見ないわけにはいかないことを私たちは知っています。


 今やお父様を求めて出発した私たち、お父様はただ私たちが考えるように栄光のお父様だけではなく、十字架の難所も超えておられるお父様であることを私たちは知りませんでした。今日、栄光の主を待ち望む者は多いが、苦難の主に従って行く真意を持つ者はおりません、お父様、この哀れな人間たちをお許しください。

 もし今日、私たちが栄光の主に出会ったならば、十字架にかかった主を思い、その苦しみを受けた主の体を私たちが担うことができるよう導いてください。

 そうしてゴルゴタの道で民族の前に拒絶され追われた十字架を背負って進んでいたイエス様の守護を受けることができるよう許してください、お父様、切に願い求めます。

     21


 復活の主に出会って喜ぶことを願っていたが、その復活の主とは関係のない立場に立っていた愚かな使徒たちのような姿にならないよう導いてください。復活の主を迎え、お父様を慰めることができる息子娘とならせてください。またそのような使命を全うしても余りある息子娘とならせてください、お父様、切に願い求めます。


 お父様、今日ここに集まった取るに足らない者たちに、お父様が共にいてください。いま、犠牲の峠を越えなければならない私たちですが、お父様が私たちを見つけるために先に言葉に尽くせない苦労をして来られたことを知る時、私たちはこの道を進まざるを得ないと感じます。


 歴史的なすべての負債を償わなければならない全体的な使命が今日の私たちにあることをお父様が知っているので、私たちに不足があると言うならば、それを取り除き、課された使命を全うできるように許してください。


 この民族のために、あるいは世界のために、あるいは天地のために、まずこの民族をお父様の前に立たせることができるよう許してください、そしてその後でも余りある息子娘とならせてください、お父様、切に願い求めます。


 6千年の歴史過程で残された罪の叫び声を聞いている私たち、今後はアダムとエバの立場を経て新たな善の祖先として進まなければならない立場に立っていることを知っているので、現実のすべてを踏み越え新しい世界を創造する天の勇者として立ててください、愛の父よ、切に願い求めます。


     22


 これまで私たちを慰めてくれたお父様を見つけました。慰めを求めて見つけましたが、今や慰めてくれるそのお父様に代わる主をむしろお迎えできる私たちとならせてください。また、この使命を全うするために努力した私たちのすべての力と能力が私たちの心にその希望が実現するまで残るように、お父様、導いてください、切に願い求めます。

 今日ここに集まった兄弟たち、皆、お父様の懐に抱かれ父の悲痛な心情を体感できるように許してください。そしてすべてを体感した人の心情を持ちそのお父様を慰めることができる息子娘とならせてください、切にお願い申し上げます。すべての御言葉を愛する主の名によってお祈りいたします。アーメン。


<御言葉>
 今日、皆さんと一緒に考えたい御言葉のタイトルは「そのどこかを探し求める私たち」です。


 今日、皆さんは個人を基盤として社会や世界とつながりを持って生活しています。しかし、自己を振り返ってみると、心があり、体があることがわかります。さらに、心があり体があると同時に、私たちが生きている地面があることもわかります。


 では、これだけで私たちが行くべき道と私たちが探すべき環境が整っているかというと、そうではありません。心はより高い理念を目指して探し求めています。そのような分野が他にもあるのです。そして、体を中心に見ると、心と対立しながらも体もまた何らかの理念を目指して動いていることを皆さんはよく体験していることでしょう。また、自己を超えて見てみると、この地球もまた何か大きな理念を目指して動いていることを皆さんは既によく知っています。

     23

 では、これですべてが終わりかというと、そうではありません。天があり、地があり、人がいるとすれば、天と地と人は三つのように見えても、一つの理念の範囲内で一つの目標に向かって動いています。この宇宙万象を創造した神様が確かに存在するならば、それらはすべて神様のものです。しかし現在、神様は私とは無関係な位置にあり、自己もまた一体的な理念に対して関連性のある位置にありません。さらには、この地もまた神様の全体的な理念を成し遂げる地にはなっていません。この事実は、今日の社会の現状や世界の動向を見るとよくわかります。

 これらすべては元々一つの目的に向かって一つの統一された行動と方向を取って動かなければならない創造主の理念でした。しかし、そのような目的が成し遂げられなかったために、これが今日の人間が解決すべき問題となっていることを多くの人は考えていません。そのため、今日私たちが日々を生きる中で、自分自身を探す中で、心と体はそれぞれ何かを探し求めていることを感じるでしょう。


 また、今日自分の命を中心に世界を見つめると、この世界もまた何かを探して苦しんでいることを皆さんは自分の生活圏内でよく体験している事実です。では、目に見えるこの地上の人間だけで、すべてが解決できるかというと、そうではありません。人間を創造した神様が存在し、万物を創造した主がいる以上、その主は人間に対しても、あるいは被造物に対しても、何らかの大きな理念を持って動いていることを皆さんは既に知っています。


 では、今日皆さん自身を見るとき、皆さんの前にはどのような条件が残されているでしょうか。神様が探し求めるべき理念の世界、すなわち皆さんの心と体を中心とした理念の世界です。その世界に向かって進まなければならないことを皆さんは認めざるを得ないでしょう。


 今日の自己を振り返ると、私は天を前にし、地を前にしています。しかし、今日皆さんは天の理念によってこの地を対する全体的な摂理に照らして、自分の心が堂々と天に対することができ、統一的な一つの理念に対することができるかどうかを反省しなければなりません。そのような自分だと皆さんは自信を持って答えられないでしょう。


     24


 神様が存在するならば、神様が望む全体的な理念の統一世界がなければならず、また神様がこれまで摂理してこられたとすれば、この地上に統一的な理念を成し遂げる時がなければならないでしょう。これは必然的な事実です。


 そうだとすれば、天の理念と地の理念が一つになるその目標に対して、皆さん自身はどのような位置にいるのか、皆さん自身はどのような環境に置かれているのか、皆さんが今日対面している命はどこに位置しているのかというのが重要な問題でしょう。しかし、人間の心は自分でも知らないうちに天を頼ろうとし、体は自分でも知らないうちに地を頼ろうとします。そのため、私は一つのように見えても二つの道で苦しんでおり、これは人間の堕落によるものです。


 したがって、今皆さんは心を通して天の望む理念と一つにならなければならず、体を通しては世界が目指す一つの統一の理念と一つになれる資格を持たなければなりません。そこで歴史の過程でそのような事実を紹介してくれる何らかの理念が現れているのです。従って、今の世界の状況を見ると、何かしら統一的な形態に向かって動いており、そのような傾向に従って私の心もまた何かしら世界的な志を抱いて一人の個人として、一人の兄弟として、一人の家族として共に暮らそうとする大きな理念が私の心を通して常に感じられていることを私たちはよく体験しています。


 では、これは現代の私たちが成し遂げられない妄想からくる何らかの観念的な認識に過ぎないのでしょうか? そうではありません。今日の心の傾向は、必ずしも私一人の力では生じ得ないものです。しかし、その何かがわからないうちに、天倫の大きな摂理の意図が私の心と縁を結ぶために動いているのです。それが現代のこの地上の人々の前に及んでいるため、人々は誰しも天倫に引かれて進まざるを得ないのです。


 しかし、人間の良心には個人差があり、その感じる感情も異なります。また、体が望む世界があり、心が望む世界が別にあります。ではこれをどのようにして天の前に近づけることができるのでしょうか?また、何を中心に主従の関係を結ぶべきでしょうか?これが現代の人間として解決すべき重大な問題です。個々の人間がこの問題を解決しない限り、世界にどのような理念が成し遂げられても、どれほどこの地上に天倫の意図が成し遂げられても、その人とは何の関係もありません。


     25


 この隔たりの戦いは、体が心を中心に、つまり体が心に従う立場で順応しなければ解決できません。また、心と体が一つになることもできません。しかし、一つになったその状態が心だけを中心にするのではなく、心と体が一つになった後には体も中心とすることができるようでなければなりません。このような価値ある心と体を自分の生活圏内に築かなければなりません。もしそうでなければ、今日この地上に摂理の意図と理念が成し遂げられても、皆さんはその摂理の意図と理念とは何の関係もありません。


 今、私たちの前には審判の時が迫っています。この審判の時代を越えるために私たちはどうすべきでしょうか?この理念的な権内において神がいて、この地上に最高の理念があるならば、その神とこの地上の最高の理念と統一された一つの形を私の体と心が体験しなければなりません。そして、私自身が天と地に対して恥ずかしくないように立てる一つの中心を持たなければなりません。もしそうでなければ、皆さんは審判の日を逃れることができません。


 神は今日まで多くの人類の良心を動かしてこられました。しかし、神が目指す方向と良心が目指す方向には明確な違いがありました。神が100の力で動いても、良心がその100の相対的な立場に立つかというとそうではありませんでした。これは人間が生きている時代や習慣、歴史観、あるいは文化的なすべての条件によって、人間の良心が左右され、影響を受けていたことを示しています。


 そのため、程度によって多くの差があります。したがって、私たちが持つ良心も天倫が目指すその理念的な世界と必ずしも一致するわけではありません。良心が目指すその理念的な世界が天倫と同じ方向を取っているように見えても、ここには明確な違いがあります。したがって、皆さんが道の道を求めるときには、自分の良心までも打ち砕いて神の意図の前に屈服させる戦いをしなければならない立場に置かれていることを知るべきです。


 では、神も理念に向かって動いており、今日私たち人間の良心もその理念を求めて進もうとしているのに、この二つが一致して進めない理由があるということです。神が来なさいと言われる通りに私の良心が行きたいと思いながらも行けないのは、人間が越えなければならない恐れの一つの峠が残っているからだということを皆さんは知るべきです。したがって、皆さんがこの恐れの峠を突破し越えることができなければ、皆さんは永遠の理念の天国と縁を結ぶことはできないでしょう。


     26


 したがって、神と私の心の関係が神の意図の中に立つためには、私の心と体がそのような関係を結ばなければならず、さらに私の心と体が意図の中に立たなければならず、私の心と体を中心にこれからの意図の理念とそのような関係を結ばなければなりません。


 そうして天と皆さんの良心が一つになり、良心と体が一つになり、体と環境が一つになってすべてを一つに統合し、さらにその中心を代表して立たなければなりません。そして天の世界においても、良心の世界においても、体の立場においても、どの面に立っても皆さんが自信を持って立つことができるようにしなければなりません。そうできる皆さんを探さなければならない運命が残っているのです。


 したがって、今日の人間はどこかはわからないが行かなければならない運命に置かれており、何かはわからないがそれを探さなければならない運命に置かれているのです。だから人間の心は天倫に向かって進もうとし、体は自分を中心にして地に向かって進もうとしています。したがって、天は長い歴史過程を経て、多くの人間を犠牲にして地を目指すこの体の志向性を変えて天倫を志向させ、全世界の人類の体を一つの統一世界に導いています。さらに、良心もさまざまな方向に進もうとするのを押し戻して一つの方向、一つの理念世界に向かわせたのです。しかし、これを今日の地上の人々は知りません。


 そこで心を中心にして神の意図とその方向を正しく立てるための戦いが繰り広げられます。それは見えない世界で良心を中心とした一つの理念を探すためのサタンと神との戦いであり、見える実体世界ではカイン派とアベル派の争いです。このような内外の戦いを経て歴史は進んできました。


 では、神が知・情・意を持つ人格的な方であり、またすべての感覚を持つ方であることは間違いありません。神は必ず統一された何らかの創造理念を持っていることでしょう。そしてその理念は天のためであり、今日の地上のすべての人類と万物のためでもあるのです。


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 これは必然的な事実となることができないならば、神の創造理念は私たちとは無関係だということです。神はこの全体的な理念に対して、神ご自身が喜ぶことができると同時に、すべての被造物も喜ばざるを得ないように創られたのです。


 しかし、堕落した人間となったために、今日の人類にはそのような理念の世界がまだ確立されておらず、体が志向するその根本的な理念の世界もまだ確立されていません。だからこそ神は、今日の人類を内的には良心に近い道へ、外的には別の主義を見つけて立て、世界的な終末時代へと追い込んでいます。つまり、今日の皆さんは自分の心が志向する何か、すなわち心を通じて追い出されているそれが、どこかに向かっていると考えるとき、私を通じてこの世界の人類がある理念的な世界に進まざるを得ないようになっているのです。


 では、今日そのような立場にある皆さん自身は、非常に小さな存在であるように見えますが、決して小さな存在ではありません。新しい宇宙史を創造するのに欠かせない貴重な存在であるということです。まずは私の心がそうであり、私の体がそうであり、私が住んでいる周囲の環境がそうであるということです。


 だからこそ神は、人間の内的な良心を通じて神の意図を実現するために、今まで孤独な道を切り開いてこられました。つまり、人間の良心のある一つの基点を通じて摂理の意図を成し遂げようとしてきたのです。しかし、人間はその良心の基点を失ってしまいました。


 しかし、神には良心の基点を失った人間のために道を定め、その基点を取り戻すための意図があったため、今まで多くの先知先烈を通じて自身が苦痛を感じながらも、人間をその良心の基点に結びつけようと努力してこられました。その努力は見えない無限の世界で行われているため、人間の本性の心情は無意識のうちにそれに向かって動いています。


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 終わりの日が近づくにつれて、心の基準を完全に確立していない人は、どんなに良い条件を多く備えていても心が安らかではありません。方向を変えなければならない立場に置かれている今日の現実世界であることを皆さんは知るべきです。だからこそ神は、自分を中心としたすべての権限と志向する理念を断ち切るように言われました。


 では、なぜ神はこのような矛盾した条件を人間に提示されたのでしょうか?その原因は、まず一つの基準を見つけて確立しなければならないのが人間の心だったため、心と体が一度に位置を確立することができなかったからです。だからこそ神は、これまでそのような方向を取ってきたことを皆さんは知るべきです。そして、これを通じて歴史を経て心を頼りにした理念の世界が現れなければならないのですが、その心を頼りにした理念は、全世界全人類が動かなければならない理念です。したがって、その理念の中心が確立されるまでには捨てるという歴史過程を経ることになりますが、これがある過程を経ると捨ててきたその歴史を再び取り戻す歴史として変わっていくのです。


 だからこそ、キリスト教は初めに苦難の道を歩み始めました。すべてから嘲笑され追い詰められるところから始まりましたが、あるものをすべて捨てて出ていくうちに民族を形成し、それが今日の国家を形成し、さらには世界的な形態を持つ時が来ました。つまり、今日神はある一つの中心を通じてその意図を立てることができる時が来たということです。したがって、今日私たちは世界に散らばった物質を再び取り戻す基準を確立しなければならないでしょう。だからこそ、今日すべての国家は世界的な理念を通じた同盟国の時代を経て、連合国の形態を経た後、これが3つのブロックを経て一つの統一的な理念の世界に入らなければならないということです。


 しかし、神は終わりの日において自分の心は頼るが、世のすべての外的条件は捨てるように言われました。なぜ捨てるように言われたのかというと、それを完全に私たちのもの、私たちの所有にするためでした。いつまでも捨てるのではありません。過去に私たちの先祖が捨てたものを、終わりの日にあるこの地の人間たちが復帰しなければならないからです。先祖たちが捨てたこの地とこの地の万物までも見つけて立てなければならない摂理の意図がまだ残っているため、神は今まで苦労してこられたことを皆さんは知るべきです。


 だからこそ、今この時は一つの主義を中心に民主主義国家の形態を構成しており、さらにこの主義が世界的な潮流として現れる時が来ています。したがって、この主義を中心に世界的規模の物質文明と制度が結びつき、一つの統一的な形態を持ち始めています。このように外的なすべての条件が統一的な形態を持ち始めているのと同じように、この世界を探し求めなければならない私たち自身もこの摂理の流れに合わせて心と体の統一を自分自身の中で成し遂げていく必要があるのです。


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 そのような時が必ず来るため、皆さんの心と体の中で戦いが起こるのです。心は天に向かって進みたいと思っているのに、体は世の中に向かって逸脱した方向に進んでいるのです。心は理念を楽しみながら進もうとしているのに、体はそれから逃れようとしています。


 この戦いにおいて、皆さんは永遠を基準にして勝利していかなければなりません。そうなって初めて失われた神が皆さんの神となり、失われた皆さんの心と体を勝利の一身として、または神が望む心と体として見つけることができるのです。それだけでなく、皆さん自身の立場から一つの創造の世界を建設できることを理解しなければなりません。


 では、天が望む理念と、私たちの良心と体が望む理念と、霊界が望む理念がそれぞれの方向を取らず、一つの目標と一つの方向、一つの結果に向かって進む時がいつ来るのか?これが私たちが探し求める最終目標なのです。


 今日、この目標に向かうために私たち自身を再び考えてみると、私はどこから来て、どこから出発し、どこに向かい、どこまで行かなければならないのか?これが私たちが必ず解決しなければならない問題です。


 神の理念はどこから出発し、どこに向かい、どこまで行くのか?また、今日の私の心もどこからどこまで行くのか?私の体も同様で、この地も同様です。では、このように原因と結果がわからない立場で、その歴史的な問題を何をもって原因であり結果とするのか?原因と結果は一つなのです。私の体と心が帰結する一つの基準を確立するその一日を持たなければ、私の体と心を通じて世界に通じる時が来なければなりません。天は人間を通じてこの世界とすべての天地運勢が和動し、回転するその一日が来ることを望んでいます。

     30

 では、今日そのような意図に皆さん自身を立ててみると、皆さんの心と体は神の意図と世界の理念の前に批判されざるを得ない立場にあります。しかし、天はその理念から結果に連なるすべての歴史的条件を解決しなければならない責任があり、人間はその意図を成し遂げなければならない責任があるので、宗教を立ててきたのです。


 したがって今日の皆さんは、自分が生活するすべての形態が真理から外れることがない状態でなければ、世界の理念と自分の理念が一つになれないことを理解しなければなりません。では、天が私が存在する前から存在し、地も私が存在する前から存在していたことをどうやって知ることができるのか?また、私が存在する前の歴史的なすべての事実をどうやって知るのか?今日の人間はこれを知らないことにしてしまっています。


 では、これを知らない立場でどうやって私たちは完全に天と地を代替し、神の本質的な理念の前に立つことができるのか? 立つことはできません。今日の私の位置を明らかにするためには、宇宙的な原因と歴史的な原因を知らなければならないのです。これは必然的な事実です。これを考えるとき、それを探して自我回復運動を提唱する世界的な運動の時が来なければならないのです。つまり、何らかの主義や理念を中心に始まるのではなく、自分の位置を提案し、自我回復運動を引き起こすことができる一つの主義が現れなければなりません。しかし、その原因を知らない立場に立つと、その原因の結果が成し遂げられても、皆さんはそれを扱うことができないでしょう。


 では、今日そのような生涯を歩まなければならない私たちは何をすべきでしょうか?私たちは自分を回復する運動に参加できる自分であるか?今日の私の命は偶然の存在として、突発的な存在として生まれたのではありません。私の一個体は宇宙的な必然性、あるいは世界的な必然性、未来的な必然性を紹介するために生まれたことを理解しなければなりません。


 一つの国の民もその国の歴史を代替できる伝統の前に立たなければならず、その時代の前に一つの法的条件に従わなければなりません。今や世界的な未来の全体理念の前に新しい何かを残さなければなりません。これが私たちが生きている現実です。そうであるならば、今日宇宙的な世界理念を探していくことも同じです。したがって、私たちは自分を回復するための非常に小さなことから取り組む必要があります。


     31


 それだけでなく、今日私たちの前には、先に述べた世界的な問題が置かれているので、まず自分の問題を解決することが重要です。また、自分を解決すると同時に、今や結果的な世界が目の前にあるので、それと自分自身が関係を結ばなければなりません。したがって、どのようにしても解決できる一つの基点、つまり天と地と人間の心と通じる理念を見つけて確立しなければなりません。そして、それが一つの目的を指し示す刺激的な衝撃として残るとき、人間は過去の歴史的な悲しみと時代的な悲しみを忘れ、環境的な恐怖を乗り越えて、手を上げて天と地とすべての万象の前で誇ることができる人になるということを理解しなければなりません。


 宇宙を創造した神の理念の根本を解決するために努力している人々を導こうとした世界が、道の世界でした。しかし、これまで多くの道人がその原因を追及しましたが、まだ解明された中心をこの地上の人間の前に示すことができずに歴史は流れてきました。


 このように、これまでその根本問題を解決できずに流れてきた歴史、人類の先祖たちが持っていたその歴史が、今日皆さんが受け継いだ歴史です。したがって、今日この問題を解決しないと、これまでの人間の怨念の歴史が後代まで悲しみの歴史として残ることになります。それだけでなく、今後神がこの問題を解決することもできないのです。


 では、今日の私という存在は何なのでしょうか?私一個人は、世界理念と神が望む理念の世界を阻む存在なのです。だからこそ、私たちは未来に向かう歩みを進める前に、過去に戻り、過去のどのような条件が天倫の前に衝突を引き起こし、天の理念と矛盾したどのような歴史過程を経てきたのかを考えなければなりません。


 過去の歴史過程の悲しい条件を前にして、天の前に償いの条件を立てるために苦しみながら戦っている信者は、この地上に何人いるでしょうか? 自分の過去を忘れて未来の理念を求める人は多くいます。積み重なったすべての悪の根源を探し、それを解決するために今まで真の道を求めてさまよう人が多いのです。しかし、真理の頂点に立ち、それ以上の原因的条件を追求する歴史的な人物はまだ出てきていません。


     32


 未来の世界を紹介する理念が変わらない限り、未来の世界に対する人々の考えも変わることはありません。今流れている世界の終末に対する恐怖を逃れることはできず、混乱した世界の潮流を避けることはできないことを皆さんは知っておかなければなりません。


 未来の新しい理念にのみ耽る人々は、完全な理想主義者にはなれません。なぜなら、この世界の終末の一段階を越えなければ理想世界は成し遂げられないからです。審判の日とは、すべてが停止する日です。しかし、これまで人間は自分が持ってきた主義や思想や理念をもってすべてを通過させてきました。


 では、その通過の条件を解決するための最良の方法は何でしょうか?人間と神と天倫がこの地上の被造物とその原因的な衝突を解消する条件がなければ、倒れるしかありません。どんな主義、どんな思想もすべて消え去り、未来を語る潮流も一時的に消え去ってしまうのです。だから、それらがすべて消え去らないようにするためには、原因と結果を統一できる条件を見つけて確立しなければなりません。そうして、私一個体からその根本原因と結果を統一できなければなりません。そのときに初めて、私自身が6000年の歴史を代表する証拠としての実体的な供え物となるのです。


 では、今日私たちはどうすべきでしょうか?今日の現実世界を一掃できるように、つまりすべてを否定できるようにならなければなりません。言い換えれば、これまで欲しかったすべての欲望までもすべて一掃できる自分、すべてを統合して行動できる自分自身になっているかどうかが問題です。したがって、私たちの起源は未来にあるのではありません。未来には審判の門を通過しなければなりません。私たちが自分自身を復帰させることができるのは、神と人間、被造物に絡むすべての曲折の原因を解決することにあります。


 だからこそ、皆さんは心の声を聞くことができる耳を持つ人間にならなければなりません。皆さんが祈るときに「神様、この地上に慈悲の意を成し遂げてください。神様、世界の人々が平和を享受できるようにしてください」と祈っても、皆さんに平和な心がなければ、どんなに祈ってもその祈りは成就しません。


     33


 さらに、皆さんは聖書を深く掘り下げ、アダムとエバの堕落の原因を解明するだけでなく、万物を創造した神の内的な心情まで解明できる境地に達しなければなりません。2千年前のイエス様、6千年前の神の心情と同伴できる立体的な関係を持つことができるとき、皆さん自身は今日の現実にいながら、2千年前のイエスの心情と6千年前の神の心情を体感できるのです。


 歴史は6千年を経てきましたが、今日の皆さんはそのような心情を持たなければなりません。そのとき、神とアダムとエバの曲折の心情を探り、その心情を知った後に神を「父」と呼べるその権内に入ることができるでしょう。そのとき、その6千年の歴史は今日の私の歴史になるのです。そのような境地は、自分が引き込まれたのか6千年の歴史が引き下ろされたのか分からないほどの一体感のある場所です。この境地から今日の現実的な問題を解決する手がかりを見つけることができるのです。これがまさに霊的な体験を通じて知ることができる世界なのです。


 霊的な世界を体験するということは、4次元の世界を通るということです。また、そのような時に、何千年も前に来て去った先知先烈たちとも今日の私と縁を結び、対話もでき、相談もできるということです。つまり、今日の実際の生活の時間範囲内で私が経験でき、また肌で感じることができるのです。


 今日の世界の人々は仏教や儒教、あるいはキリスト教などの各宗教を信じています。しかし、信じている各宗教に満足してはなりません。宗教を信じさせた動機の主人公、またはその動機の主人公として現れた真理の言葉だけを信じてはならないのです。その言葉を踏み台にしてその内的な心情を知るべきです。つまり、現象の中に隠されている内的な心情が何であるかを解剖しなければならないのです。聖書の言葉をただ絶対的な救いの基準として立ててはいけません。今日これが問題です。それだけでは神の根本的な問題が解決されないのです。したがって、神はこれを突き破って進むことができる勇士を探しているのです。


 したがって、今日私たちはどんな保守的な思想に支配されるべきでもなく、どんな道主に支配されるべきでもありません。それを突き破り、どのような道主を立てた神と直接的に対話をしなければなりません。そうして自身の矛盾した問題を解決し、神の内的な心情の基準を確立しなければなりません。そのような基準を確立して進むことができる群れはないかと、神は今も探しているのです。もしそのような群れがあるならば、神は彼らを無視することはないでしょう。


     34


 世界のすべてをすべてさらけ出し再評価する時が来ました。どんな神学書、仏教経典、どんな経典もすべて列挙し再分析し、そこに実際の体験を通じて解決できる一つの基準、つまりイエス様の内的な心情や神の内的な心情が何であるかを見つけなければなりません。摂理がこうなった曲折の原因を解明できる信仰の勇者が出てくることを神は望んでいたことを皆さんは知っておかなければなりません。


 そしてこれが解決されて初めて、この原理を中心にして全体的な原理の解決点を見つけることができるのであり、終わりの日にこれが再び第二の原理として立てられ、第二の理念として認められるのです。これを実証するために、今皆さんはどうしても行かねばならない死線を越えなければなりません。この道を進むためには、世の中のどんなに親しい友人もどんなに親しい親もすべて後ろに置いて進まなければなりません。したがって、皆さんは誰とも一緒に進むことができない孤独な場所に立ち、無限の恐怖が迫る場所に向かって絶えず走らなければならない過程にいることを知っておかなければなりません。


 皆さんが無限に走るこの歴史の過程において、一つの中心を掴むことができなければ、ある時期にこの宇宙の見えない世界に追放されてしまうでしょう。そのような時期が必ず来るのです。それを指して宗教で使われる用語を借りて言うならば「地獄に行く」と言うのです。では、2千年前に来られたイエス様が、あれほど自信に満ちて勇ましかったイエス様がなぜ未来と現実を誇ることができなかったのでしょうか? 完全な原理的な解決点、歴史的な解決点を見つけられなかったため、現実と未来を誇ることができませんでした。


 しかし、今や私たちキリスト教徒は、悲痛な心情を持って現実を誇ることができるイエス様を現さなければなりません。そして未来を誇ることができるイエス様を現さなければなりません。しかし、未来を誇ることができるイエス様を迎える時が来るべきですが、なぜ来ないのでしょうか?歴史的な曲折の条件がイエス様をそのようにしたのです。イエス様が戦った目標は、歴史の過程を清算するための戦いであり、この現実だけを解決するための戦いではありませんでした。そして現在のキリスト教の戦いは、未来だけのための戦いではなく、歴史的な条件を解決するための戦いの中に留まっています。これが今日の現実のキリスト教の立場です。


 イエス様は30余年の生涯の苦労の道を通して、先知先烈たちが壊したすべての歴史的な条件を別の道として開拓しなければならない方向を取りました。しかし、その別の道を取ろうとしたときに誤解が生じました。その別の道をこの地上に作り出すことができなかったため、霊界で再びその別の道を探し、現実的な形の世界に繋げようとしているのです。


     35


 したがって、イエス様は霊界に行かれ、現実と未来の理念を探し、今日の地のための曲折の内容を再び第二次の道を通じて摂理してきた歴史が2千年続いてきました。イエス様はこの地上では拒絶されましたが、霊界では歓迎されました。しかし、イエス様がそのように霊界で歓迎される、つまりただ歴史的なイエス様として歓迎されるだけのイエス様ではなりません。


 では、時代的で未来的なイエス様はいつこの地上に来るのでしょうか?その方が今日私たちが探している再臨主であることを皆さんは知らなければなりません。未来のイエス様を探すためには必ず歴史的な過程をまず探さなければなりません。また、歴史的な原因を通してイエス様が霊界で歓迎された第二の環境時代を通じて現実的な過程まで体感しなければなりません。そうして今日イエス様が望んだ希望の一日を迎えて、その時に誇りたい現実と誇りたい未来の心情を代わりにすることができる自分にならなければならず、そうするためには今日自分の位置を見つけることができる自分にならなければなりません。








文鮮明先生御言葉選集 4 - 14. 野外礼拝で (1958年5月11日)
1958年5月11日(日)昼、三清公園。
マタイの福音書17:1-18


 イエス様はこの地上に来られ、人々には分からない天の心情を抱きしめ、イスラエル民族と霊界の霊人たちを代表して悲しみに満ちていました。当時、メシアを迎える準備をした人は多かったものの、来られたメシアを受け入れる人はいませんでした。

 また、その時のユダヤ教団とユダヤ民族が望んでいた希望は大きかったものの、その希望を成就するために来られたイエス様とは遠く離れており、神とも遠く離れていたため、イエス様はこれを解消するために非常に悲しい生活を送らざるを得ませんでした。それだけでなく、自分の心を開いて相談できる同志や弟子たちを一人も見つけることができませんでした。

    36

 そのため、誰にも知られずにゲッセマネの園やオリーブ山や変貌山のようなひと気のない場所を探し回られたのです。これを考えると、私たちは悲しまずにはいられません。また、イエス様がそのような山に登り、イスラエルの国とイスラエル民族を見つめて感じた悲しみと心配を共感する人にならなければなりません。

 イエス様が弟子たちと共に変貌山に登られたのは栄光を見るためではなく、十字架を前にして最後の話し合いをするためでした。そこで近々十字架にかかることについてモーセとエリヤと相談されたのです。この時、愛する弟子たちは、選ばれたイスラエル民族がイエスの心情を理解していないのを見て、神が限りなく悲しい場にいらっしゃることを知るべきでした。

 皆さんは、煌びやかな栄光に浸るよりも、切ないイエス様の心情を感じ取ることができる人にならなければなりません。今日、私たちが享受しているこの環境も、天がこの環境を作るために数千年の間、苦労してきたからです。この事実を忘れてはいけません。

 今日、この時代的な環境の中で喜び、満足する人は、天と遠く離れた人です。皆さんは、与えられた良い環境を楽しむよりも、その喜ばしい環境が現れるまでには神の心配と苦労の心情が計り知れないほど大きかったことをまず知らなければなりません。使徒として真に注目すべきことは、変貌山で起こった事実そのものではなく、宇宙的な決定の岐路に立たざるを得なかったイエス様の切ない心情です。私たちは外的な環境で喜んでいた弟子たちのようにならず、イエス様の心情と神の心情を慰めることができる真の息子娘にならなければなりません。

 私たちは民族的な範囲で天の先鋒としてサタンと戦わなければならない天の精鋭です。したがって、イエス様がゲッセマネの園で持っていたその決意と覚悟を私たちも持たなければなりません。

    37

 イエス様の内的心情を三人の弟子は知らなかったが、エリヤとモーセは知っていました。イエス様が十字架にかかることを決意された時、天から「これは私の息子。」(ルカ9:35)という声が聞こえ、天がイエス様に十字架の道を示した時、イエス様は恐れ多い心情で頭を下げられました。

 変貌山で三人の弟子がイエスの心情と天の内的心情を感じていたならば、ゴルゴダの道を一人で行かせることはなかったでしょう。私たちは変貌山のペテロやヨハネ、ヤコブのような後継者になってはいけません。私たちはイエス様の心情と事情と生活を継承する後継者にならなければなりません。今日、私たちは変貌山でイエス様が持っていた決意を再び持つべき時が来ました。

 私たちは生活の中で喜びや困難に直面する時に自分を表しやすいですが、イエス様は喜びや悲しみを自分中心に表しませんでした。イエス様は困難がある時、その困難を天に転じることなく、自分で責任を持って生きられ、歴代の先祖たちもまた同様でした。また、イエスは天の前で恥じ入る心を感じ、自分は神の息子でありながら自分自身が死の道を行くことよりも天をより心配されました。このようなイエス様とは正反対に、自分中心に栄光を求める人は困難に直面する時、天と分離されることを知っておかなければなりません。

 変貌山でのイエスは喜んでいませんでした。この変貌山での出来事と場面は、神や人間の誰もが知ることのない厳粛な場面でした。今日、皆さんはこの事実を自分を中心にして考えてはいけません。

 変貌山での三人の弟子たちは、輝くイエスの姿を見て「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。私たちは仮小屋を三つ建てましょう。一つは主のために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」(ルカ9:33)と言って、そこで永遠に留まろうとしました。このように三人の弟子たちは目に見える環境を楽しもうとしましたが、イエスの心情はそうではありませんでした。

    38

 その時に現れた変貌山の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエスの心情は歴史的な内なる悲しみと未来の悲しみに満ちた心情でした。しかし、三人の弟子たちはイエスがこのような悲しみの心情に浸っていたことに気づきませんでした。

 皆さんは過去の歴史的な悲しみに浸る背後関係を越え、最終的にはイエスを橋渡しとして神をつかみ、決着をつける位置まで進まなければなりません。また、悲しむこの民族の背後には、民族を代表して隠れた祭壇を築き、誠を尽くしている者たちがいることを知るべきです。

 教団を代表して涙を流す人は、祭司のような職分を持っているのです。ヤコブが21年間、誰にも知られず祈ったのも、神の摂理がアブラハムから三代にわたってつながっていることを知っていたからでした。彼はそのために民族のための蕩減の道を黙々と歩みました。モーセもまた、民族のためにファラオの宮殿での40年の生活とミディアンの荒野での40年間の祈りの生活を送りました。

 今日、民族のために悲しみの祈りを捧げる教団と涙を流す人がいるならば、彼らにはすでに祭司の職分が与えられているのです。しかし、天が皆さんに切迫した心情で天の前に決着をつける祈りをしたことがあるかと問う時、皆さんはどのような答えをすることができるでしょうか。今からでもそのような決意を持ち、終わりの時代を責任持って果たす力強い人材となるべきです。

 皆さんがいる場所がそのような環境でないとしても、その環境の中で実践しなければなりません。地域地域を責任持った変貌山のイエスのような聖徒たちが多く出てくる時、キリストの恨みが晴らされるでしょう。今日、私たちは昔の三人の弟子たちよりも多くのことを知り、イエスの心情と神の悲しい心情を晴らして差し上げることができる真の子供となるべきです。

    39

 その時代と今は時代的には遠く離れていますが、イエスの心情と直接的なつながりを持ち、慰めて差し上げることのできる後継者となることで、悲しみのイエスの心情を晴らして差し上げることができます。そのような人がいれば、変貌山の栄光をその人に引き継がれるでしょう。

 サタンに対する天の精鋭として立ち、民族と教団と種族を代表するペテロとヤコブとヨハネのような人々で構成された民族国家となる時、神の一つの意志が実現されるのです。

 今日、私たちのこの集まりは偶然の集まりではありません。イエス様と預言者たちが歴史の過程で努力してきた功労の祭壇の上に現れた私たちであることを知り、心を持つならば、イエス様以上の心と三人の弟子たち以上の心を持つべきです。そのような人々を天は求めています。

 私たちは追い詰められ追われることがあっても、自分個人の救いよりも民族と世界を目指す戦士となるべきです。今日、私たちが集まったこの場所を三人の弟子たちと霊界の霊人たちが見ているかもしれません。神を中心として歴史的で宇宙的な決意を持つ人がいるならば、その人に天と地の意志が引き継がれ、その人を通してその意志が実現されるでしょう。イエス様は天の前に変わることのない中心基準を立てたので、天もイエスを見捨てることができませんでした。

 今日、私たちは計り知れないほど貴重な存在です。そのため、私たち一人一人が誤ると、後世に永遠に恨みの痕跡が残ることになります。だからこそ、歴史と未来の永遠の時間にわたって変わらない中心基準を持つ資格者でなければなりません。イエス様が抱いた志を受け継ぎ、歴史、時代、そして未来の証人となるべきです。

    40

 また、イエス様が勝利の縁を結び出たことを、どの時代、どの環境でも証明する皆さんでなければなりません。

 皆さんの手と体と足は、民族と世界を代表して動いたことがありますか? 荒野をさまようイスラエル民族のような世界のキリスト教徒を見つめながら、私たちは2千年前のイエス様の心情を再び感じなければなりません。そして、天が内外の両面を見ているため、より悲しんでいることを理解すべきです。悲しみや逆境が問題ではなく、現実と未来を結びつけることのできる人間でなければなりません。生死の決断を下さなければならない時に逃げてしまうような弟子になってはいけません。もし皆さんに変貌山での勧告があるなら、それを命の導火線として無限の世界の意志を生活の中で実現しなければなりません。今日、私たちは命を責任を負う歴史的な先駆者でなければならないのです。

 変貌山でのイエス様の心情がここに現れたなら、革命の炎が起こっていたでしょう。つまり、天の心情を生活の中で確立したかどうかが問題なのです。今、私たちは具体的な内容を持って祈るべきです。天の無限の心情、悲しみ、無限の苦しみ、そしてその希望を感じる時、皆さんは歴史、時代、未来の計画と縁を結ぶことができるでしょう。

 イエス様が十字架を勇敢に越えることができたのは、神の悲しみと痛みの心を理解していたからであり、それゆえに民族と全人類、さらにはサタンのためにも祝福を祈ることができたのです。数千年もの間、無数の人々が神の心情を求めてさまよいましたが、それを理解したのはイエス様一人だけでした。神は歴史、時代、未来の理念を放棄することができないのです。それゆえに、私たちは今日、歴史的なすべての罪を蕩減しなければなりません。

 今日、私たちがこのような神の隠された内的心情を知るならば、一ヶ月、あるいは一年中泣き続けても涙は止まらないでしょう。私たちはそのように天の心情を体感しなければなりません。

    41

 私たちが民族の前で決戦をしなければならない時が来ました。実際にそうする人は民族を代表して祝福を受けるでしょう。皆さんはこのように使命が大きいことを理解すべきです。

 皆さんが無限の世界と縁を結ぶ時、イエス様と神様は皆さんに働いてくださるでしょう。この被造物も私たちの手を経なければならないのです。ですから、万物を創造し喜ばれた神がアダムとエバに与えた祝福を皆さんが実現しなければなりません。このような心を持ち、変貌山で苦悩されたイエスの友、ゴルゴタで苦難を受けられたイエスの友となるべきです。








文鮮明先生御言葉選集 4 - 15. 変貌山のイエスと三人の弟子たち (1958年5月11日)
変貌山のイエスと三人の弟子たち
1958年5月11日(日)三清公園


マタイの福音書17:1-18


 イエス様はこの地上に来られ、人々には分からない天の心情を抱きしめ、イスラエル民族と霊界の霊人たちを代表して悲しみに満ちていました。当時、メシアを迎える準備をした人は多かったものの、来られたメシアを受け入れる人はいませんでした。

 また、その時のユダヤ教団とユダヤ民族が望んでいた希望は大きかったものの、その希望を成就するために来られたイエス様とは遠く離れており、神とも遠く離れていたため、イエス様はこれを解消するために非常に悲しい生活を送らざるを得ませんでした。それだけでなく、自分の心を開いて相談できる同志や弟子たちを一人も見つけることができませんでした。

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 そのため、誰にも知られずにゲッセマネの園やオリーブ山や変貌山のようなひと気のない場所を探し回られたのです。これを考えると、私たちは悲しまずにはいられません。また、イエス様がそのような山に登り、イスラエルの国とイスラエル民族を見つめて感じた悲しみと心配を共感する人にならなければなりません。


 イエス様が弟子たちと共に変貌山に登られたのは、栄光を見るためではなく、十字架を前にして最後の話し合いをするためでした。そこで近々十字架にかかることについてモーセとエリヤと相談されたのです。この時、愛する弟子たちは、選ばれたイスラエル民族がイエスの心情を理解していないことを見て、神が限りなく悲しい場にいらっしゃることを知るべきでした。


 皆さんは、煌びやかな栄光に浸るよりも、切ないイエス様の心情を感じ取ることができる人にならなければなりません。今日、私たちが享受しているこの環境も、天がこの環境を作るために数千年の間、苦労してきたからです。この事実を忘れてはいけません。


 今日、この時代的な環境の中で喜び、満足する人は、天と遠く離れた人です。皆さんは、与えられた良い環境を楽しむよりも、その喜ばしい環境が現れるまでには神の心配と苦労の心情が計り知れないほど大きかったことをまず知らなければなりません。使徒として真に注目すべきことは、変貌山で起こった事実そのものではなく、宇宙的な決定の岐路に立たざるを得なかったイエス様の切ない心情です。私たちは外的な環境で喜んでいた弟子たちのようにならず、イエス様の心情と神の心情を慰めることができる真の息子娘にならなければなりません。

 私たちは民族的な範囲で天の先鋒としてサタンと戦わなければならない天の精鋭です。したがって、イエス様がゲッセマネの園で持っていたその決意と覚悟を私たちも持たなければなりません。

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 イエス様の内的心情を三人の弟子は知らなかったが、エリヤとモーセは知っていました。イエス様が十字架にかかることを決意された時、天から「これは私の息子。」(ルカ9:35)という声が聞こえ、天がイエス様に十字架の道を示した時、イエス様は恐れ多い心情で頭を下げられました。

 変貌山で三人の弟子がイエスの心情と天の内的心情を感じていたならば、ゴルゴタの道を一人で行かせることはなかったでしょう。私たちは変貌山のペテロやヨハネ、ヤコブのような後継者になってはいけません。私たちはイエス様の心情と事情と生活を継承する後継者にならなければなりません。今日、私たちは変貌山でイエス様が持っていた決意を再び持つべき時が来ました。

 私たちは生活の中で喜びや困難に直面する時に自分を表しやすいですが、イエス様は喜びや悲しみを自分中心に表しませんでした。イエス様は困難がある時、その困難を天に転じることなく、自分で責任を持って生きられ、歴代の先祖たちもまた同様でした。また、イエス様は天の前で恥じ入る心を感じ、自分は神の息子でありながら自分自身が死の道を行くことよりも天をより心配されました。このようなイエス様とは正反対に、自分中心に栄光を求める人は困難に直面する時、天と分離されることを知っておかなければなりません。

 イエス様は変貌山で喜んでいませんでした。この変貌山での出来事と場面は、神または人間の誰もが知らない厳粛な場面でした。今日、皆さんはこの事実を自分を中心にして考えてはいけません。

 変貌山の三人の弟子たちは、輝くイエス様の姿を見て、「主よ、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。私たちは仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」(ルカ9:33)と言って、そこに永遠に留まろうとしました。このように三人の弟子たちは、見える環境を楽しもうとしましたが、イエス様の心情はそうではありませんでした。

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 その時の変貌山の環境は良い環境でしたが、その環境に対するイエス様の心情は、歴史的な内なる悲しみと未来の悲しみに満ちた心情でした。しかし、三人の弟子たちはイエス様がこのような悲しみの心情に浸っていたことに気づきませんでした。

 皆さんは、過去の歴史的な悲しみに浸る背後関係を越えて、最終的にはイエス様を橋渡しとして神をつかみ、決着をつける位置まで進まなければなりません。また、悲しむこの民族の背後には、民族を代表して隠れた祭壇を築き、誠を尽くしている者たちがいることを知るべきです。

 教団を代表して涙を流す人は、祭司のような職分を持っているのです。ヤコブが21年間、誰にも知られず祈ったのも、神の摂理がアブラハムから三代にわたってつながっていることを知っていたからでした。彼はそのために民族のための蕩減の道を黙々と歩みました。モーセもまた、民族のためにファラオの宮殿での40年の生活とミディアンの荒野での40年間の祈りの生活を送りました。

 今日、民族のために悲しみの祈りを捧げる教団と涙を流す人がいるならば、彼らにはすでに祭司の職分が与えられているのです。しかし、天が皆さんに切迫した心情で天の前に決着をつける祈りをしたことがあるかと問う時、皆さんはどのような答えをすることができるでしょうか。今からでもそのような決意を持ち、終わりの時代を責任を持って果たす力強い人材となるべきです。

 皆さんがいる場所がそのような環境でないとしても、その環境の中で実践しなければなりません。地域地域を責任持った変貌山のイエス様のような聖徒たちが多く出てくる時、キリストの恨みが晴らされるでしょう。今日、私たちは昔の三人の弟子たちよりも多くのことを知り、イエス様の心情と神の悲しい心情を晴らして差し上げることができる真の子供となるべきです。

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 その時代と今は時代的には遠く離れていますが、イエス様の心情と直接的なつながりを持ち、慰めて差し上げることができる皆さんが、悲しみのイエス様の心情を晴らして差し上げることができます。そのような人がいれば、変貌山の栄光をその人に引き継がれるでしょう。

 サタンに対する天の精鋭として立ち、民族と教団と種族を代表するペテロとヤコブとヨハネのような人々で構成された民族国家となる時、神の一つの意志が実現されるのです。

 今日、私たちのこの集まりは偶然の集まりではありません。イエス様と預言者たちが歴史の過程で努力してきた功労の祭壇の上に現れた私たちであることを知り、心を持つならば、イエス様以上の心と三人の弟子たち以上の心を持つべきです。そのような人々を天は求めています。

 私たちは追い詰められ追われることがあっても、自分個人の救いよりも民族と世界を目指す戦士となるべきです。今日、私たちが集まったこの場所を三人の弟子たちと霊界の霊人たちが見ているかもしれません。神を中心として歴史的で宇宙的な決意を持つ人がいるならば、その人に天と地の意志が引き継がれ、その人を通してその意志が実現されるでしょう。イエス様は天の前に変わることのない中心基準を立てたので、天もイエス様を見捨てることができませんでした。


 今日、私たち一人一人は計り知れないほど貴重な存在です。そのため、私たち一人が誤ると、後世に永遠に恨みの痕跡が残ることになります。だからこそ、歴史と未来の永遠の時間にわたって変わらない中心基準を持つ資格者でなければなりません。イエス様が抱いた志を受け継ぎ、歴史、時代、そして未来の証人となるべきです。また、イエス様が勝利の縁を結んで出てきたことを、どの時代、どの環境でも証明する皆さんでなければなりません。

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 皆さんの手と体と足は、民族と世界を代表して動いたことがありますか?荒野をさまようイスラエル民族のような世界のキリスト教徒を見つめながら、私たちは2千年前のイエス様の心情を再び感じなければなりません。そして、天は内外の両面を見ているため、より悲しんでいることを理解すべきです。悲しみや逆境が問題ではなく、現実と未来を結びつけることのできる人間でなければなりません。生死の決断を下さなければならない時に逃げてしまうような弟子になってはいけません。もし皆さんに変貌山での勧告があるなら、それを命の導火線として無限の世界の意志を生活の中で実現しなければなりません。今日、私たちは命を責任を負う歴史的な先駆者でなければならないのです。

 変貌山でのイエス様の心情がここに現れたなら、革命の炎が起こっていたでしょう。つまり、天の心情を生活の中で確立したかどうかが問題なのです。今、私たちは具体的な内容を持って祈るべきです。天の無限の心情、悲しみ、無限の苦しみ、そしてその希望を感じる時、皆さんは歴史、時代、未来の計画と縁を結ぶことができるでしょう。

 イエス様が十字架を勇敢に越えることができたのは、神の悲しみと痛みの心を理解していたからであり、それゆえに民族と全人類、さらにはサタンのためにも祝福を祈ることができたのです。数千年もの間、無数の人々が神の心情を求めてさまよいましたが、それを理解したのはイエス様一人だけでした。神は歴史、時代、未来の理念を放棄することができないのです。それゆえに、私たちは今日、歴史的なすべての罪を蕩減しなければなりません。

 今日、私たちがこのような神の隠された内的心情を知るならば、一ヶ月、あるいは一年中泣き続けても涙は止まらないでしょう。私たちはそのように天の心情を体感しなければなりません。

 私たちが民族の前で決戦をしなければならない時が来ました。実際にそうする人は民族を代表して祝福を受けるでしょう。皆さんはこのように使命が大きいことを理解すべきです。

 皆さんが無限の世界と縁を結ぶ時、イエス様と神は皆さんに働いてくださるでしょう。この被造物も私たちの手を経なければなりません。ですから、万物を創造し喜ばれた神がアダムとエバに与えた祝福を皆さんが実現しなければなりません。このような心を持ち、変貌山で苦悩されたイエス様の友、ゴルゴタで苦難を受けられたイエス様の友となるべきです。


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御言葉選集4(11,12)

2024年07月13日 17時15分50秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 4 - 11. 神様が望む真の息子になろう (1958年4月20日)
神様が望む真の息子になろう
1958年4月20日(日)、前本部教会


聖書拝読:ローマ書 5:12-21


     1


 今日、この時間に『神様が望む真の息子になろう』という題で、皆さんに少しお話ししたいと思います。


 皆さんが真を求めようとする時には、真を求める心が必要であることを感じなければならず、天と地が喜ぶことのできる真理を求めたいならば、皆さんの体が自ら真の体になるための真の相対基準を備えなければならないことを理解しなければなりません。


 このようなことを考えると、真なる神様、真なる真理、真なる人間はそれぞれ存在方式が異なりますが、内的基準においては同じ方向に動いているのです。つまり、神様と真理は同じ方向に永遠に存在するということです。


 今日、私たちが生きているこの地を見て、誰もがこの世界が真の世界ではないことを嘆いています。また、自分自身を振り返り、真の自分ではないことを嘆き、信仰の道を歩みながらも真の神様を求めても見つけられないことを嘆いています。これが信仰者の苦痛であることを皆さんはよく知っているでしょう。


 では、神様はどのようなお方であり、真の真理はどのようなものであり、真の人間になるためにはどうすればよいのか、それを示す思想、皆さんが求める思想はいつ現れるのでしょうか?それを確実に知ることができないまま、迷宮に陥っている皆さんは何を求めるべきでしょうか?皆さんはまず、自分を中心に何を主張する前に、それが自分の真の個体を代替できるかどうかを見極めるべきです。そして、自分自身が真の立場に立っているかどうかを確認しなければなりません。さらに、天地万物を創造された神様の前で真の姿で立てるかどうかを見極めなければならないのです。


     2


 このようなことを考えると、今日、私たちは真の世界に住みたいと願っても真の世界に入ることができず、真の人間になりたいと願っても真の人間になれず、真の神様を求めたいと願っても真の神様を見つけることができないという状態にあります。これが今日の人間の悲しみであり、何よりも大きな人間の悲哀であることを皆さんは感じなければなりません。もしこのような重要な事実を感じることができないならば、皆さんは真の人間、真の真理、真の神様と結びつくことができません。


 今日、この世が堕落した世界であることは誰もがよく知っています。俗な世界であり、罪悪の世界であることをよく知っています。だからこそ、人間はこの罪悪の世界を切り裂き、永遠に楽しめる善の世界、永遠に和合できる一つの真の人間、永遠に信じることができる一つの主人公を求めて今日まで苦しんでいます。この世の終わりが近づくほど、新しい世界を探しに行かなければならない時が近づいていることを忘れてはなりません。


 では、このような立場にある自分自身を考えると、一方では悪が支配しようとし、他方では善が支配しようとしていることを感じます。しかし、私たちはまだ悪の支配権から抜け出せていないと感じる一方で、善が私たちを導こうとしていることを、良心が清くなるほど鋭敏に感じるようになります。


 そのため、悪の支配下にある自分を蹴り出し、善の理念で自分を支配しようとする世界を求める時には、誰もがこの苦難の過程を通過しなければならないのです。聖書の本文を見ても、堕落したアダムによって今日の全人類は罪の血統を受け継いだ堕落の子孫となりました。2000年前もそうであり、4000年前もそうであり、6000年前もそうであったのです。創世記以降、アダムとエバが堕落した以降、今日、この地上に生きているすべての人間はサタンが主権を持っている環境下に生きています。自分自身だけでなく、家庭も同様であり、社会も国家も世界もすべてその状態にあることを理解しなければなりません。


 では、今日、このような悪の主導的な権限がどこまで及んでいるかと言うと、創造の神がいらっしゃるなら、その創造の神の膝元まで、また天の御座があるなら、その天の御座までサタンは自分の権限を表そうとしていることを皆さんは悟らなければなりません。


     3


 罪悪の事件が起こったその日から今日に至るまで、神も悪に対する苦痛を感じていると同時に、人間も悪に対する苦痛を感じています。もし我々人間に対する神の真の摂理の意図があるならば、その摂理の意図は何を目指して進んでいるのでしょうか?神が悪を裁くことのできる一日、人間自身も悪を裁くことのできる一日に向かって進んでいることを皆さんは悟らなければなりません。


 では、今日、数十億の人類がこのように罪悪の主権下で苦しむことになった原因はどこにあるのでしょうか?それは、神の愛の権限から神の永遠の理念を受け継ぎ、全ての子孫にこれを遺産として残さなければならなかったアダムが失敗したことにあります。そのため、元々の神の意図とは反対の世界となり、今日まで人類は死の歴史を紡ぎ出してきたことを皆さんは忘れてはなりません。


 死の歴史がこの地上に始まったその日から、この地は平和の地ではなく、苦痛の地となり、死がこの地上に腐敗し始めたその日から、人々が置かれる場所はどこも平和ではなく、争いの歴史を歩んできたのです。個人においては個人的な争いがあり、家庭においては家庭的な争いがあり、そしてこの争いが民族的な争い、さらには世界的な争いへと広がり、世界のどこにも争いのない場所がない歴史を紡いできたことを皆さんは知るべきです。


 このような争いの歴史の過程で、最初に追いやられ、裂かれ、犠牲となったのは誰だったのでしょうか?地上に生きる人々の中で、悪を追う者たちではなく、真を求める者たちだったのです。


 これを皆さんは原理を通じてよく知っています。では、私たちが生きているこの地の歴史を考える時、この地に満ちている悪に対する憤りと敵意が皆さんの体に感じられる時があるでしょうか?しかし、この地を踏む時、この地が悪の血で染まった地ではなく、善の血で染まった地だと考える時がありますか?そのような時はあまりないのです。


     4


 天を中心に戦う歴史の過程で捧げられるべき犠牲者は、本来悪に属する人々であるべきですが、最初に犠牲となったのは、善を求める苦しい集団だったことを歴史を通じて皆さんはよく知っているでしょう。


 一人のアダムの罪により人間はどうなったのでしょうか?人間は1600年後のノアの時代に下された天の洪水審判を免れることができず、神は洪水審判を行いましたが、ノアの家族が完全に罪の根を絶つことができなかったため、神の悲しみは完全に断ち切られることができなかったのです。


 そのため、神は洪水審判の後にアブラハムを召し、またヤコブを召しました。これらの人々もまた、この地上で不幸な犠牲者の道を歩ませたのです。さらに、モーセもまた犠牲の生涯を歩み、イエスもまたこの地上で犠牲の生涯を歩んだのです。


 そのため、善の世界を憧れ、善の世界を実現しようとした人々、つまり個人であれば個人、家庭であれば家庭、または社会であれば社会、国家であれば国家が、まず犠牲の道を歩んだのです。今、アベルとカインを中心としたアダム家庭の争いが今日、世界的な規模で現れる時が来ました。それゆえ、これから起こる世界的な善と悪の争いにおいて、善のための犠牲者となる人々は誰かと言うと、真を求める人々なのです。


 今日、このような世界に身を置きながら、世の中のことをすべて忘れ、人間たちのために誰よりも涙の祭壇を多く築き、天の心情を見習って生きようとした人々が歴史の過程でこのように虐待され、戦ってきたことを、今日心の深くで考える時がないならば、皆さんは摂理の意図を持ち続けてきた神の善なる意図と結びつくことはできません。


     5


 これまで悪は外的に現れる権限を持って世界を支配してきました。しかし、人に心があるように、世界の歴史にも心があります。歴史の方向が悪に向かって進んでいるように見えるかもしれませんが、そうではありません。人間が自分の心を中心に体を抑制し、新たな覚悟と決意を持って進む方向を選ぶように、歴史も歴史そのものが志向するのではなく、ある時期、ある世紀に歴史の背後にいる神が関与し、支配してきた過程を経ていることを知るべきです。


 では、これを一つの時代を中心に考えると、ある時代に神の意図が現れ、天の意図と地の意図が出会う時には、天と地を代表する一人の主人公が現れました。そして、どの歴史の過程においても、神の摂理の意図と結びつけることができる時が来ると、その主人公によって時代的な革命が起こり、それが世界的な革命段階を経て宇宙的な革命段階へと歴史が発展していくのです。


 今日、堕落したこの人類の歴史を振り返ると、悪が地を支配してきたことがわかります。創世記の言葉のように、天地万物を六日間で創造しましたが、未だにその創造された万物は安息の日を見つけていません。したがって、その安息の日は今もなおすべての人々の前に願望として残されています。神の安息の日として残されるべき安息の日、この安息の日を人間が持つことができなかったため、今までこの被造世界、すなわち全実体世界は安息の日を見つけるための戦いの歴史の過程を経てきたのです。


 そのため、六日間の創造の理念を破壊した人間が、6000年の歴史の中で苦しみに耐え、天の実体的な善の歴史を憧れるこの歴史が神の摂理の歴史なのです。この六の数はサタンに奪われましたが、ある部分は神が関与できる条件が残っているため、たとえある時代が腐敗し、すべてが腐っていったとしても、時代を経ながらそれをある時に打ち破り、新たな摂理の歴史を提起する革命を起こしてきたのです。では、このような摂理の意図を受けて善を志向してきた人々はどうなったのでしょうか?彼らは必ず犠牲となってきたことを皆さんは知るべきです。


 神はアダムとエバを創造した後、「天地万物の主人公となり、神に代わって万物を支配せよ」と祝福されました。今日の人間世界にはそのような天的な祝福の理念が付与されていますが、この理念を実体として成し遂げた人はまだ一人もいません。それで今までの歴史の過程は、この宇宙を支配できる支配的で主体的な理念を求めてきたのです。このような歴史を、天は古代から中世を経て現代に至るまで、時代ごとに摂理してきたのです。


     6


 天が人間にこのような摂理の意図を責任として担わせる時には、中心人物を立てます。その人がその時代全体を支配し、天の理念の中に結びつけるためにある人を立ててきたのです。言い換えれば、神はこの地を対象として、時代と世紀、または歴史の過程を通じて何を求めているのでしょうか?時代を代表する人、全世界を代表する一人の人、世紀を代表する一人の人を神は求めてきたのです。さらに、天と地に代わって主張できる一人の天の人を探しているのです。


 今日、全人類が終わりの日に直面しているとすれば、その終わりの日とはどのような時でしょうか?歴史的な神の摂理から見ると、時代性を代弁し、世界と宇宙の摂理を代弁し、未来の世界と天宙的な摂理を目指して人間の理念が動き出す時なのです。


 では、今日、悪の支配の影に置かれている私たちに対して天が要求することがあるとすれば、それは何でしょうか?それは皆さん一人一人に尋ねることです。終わりの日に直面する皆さん一人一人が、歴史の過程やある時代の代表者の立場を取ることができるか、または世界的な何かの使命を代行して天の前に現れることができるか、さらには今日、この世界を代表する真の一人の人として現れることができるか、さらに霊界と肉界を合わせた天と地の前で贖罪者としての資格を持つことができるかということです。そのような人がいるなら、神はその人を探し出すでしょう。


 今日、私たちがこの時代を終わりの日だと言っています。キリスト教の理念を通じて見ると、審判の日、すなわち終末が私たちの目の前に迫っています。では、その終末とは何でしょうか?それは、世界的な終末期において、そのすべての使命を背負い、天に向かって叫び進んでいく一人の人が、個人から世界の人類、さらには天と地までを一つにするその日が審判の日であることを皆さんは知るべきです。


 今日、私たちが生きている罪悪の世界で、すべての人々が楽しむことのできる理念を切り開いていく時、神は働きます。では、神に創造された私たちがどのようにして神の心に残ることができるのでしょうか?私の心と体が一つとなり、神の前に自分を主張でき、アダムに与えられた祝福を完成した人、すなわち第二のアダムとして神の前に調和することができる人として現れなければなりません。もし、そのような皆さんになれないならば、皆さんは神と心情的な関係を結ぶことはできません。


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 神様はこの終わりの日に世界を代表し、神の法を持ち、堕落の侵略を受けず、罪悪の歴史と無関係な真の一人の人を探しています。最終的にこの世界が求めているものは何でしょうか?人間が期待するものは何でしょうか?それは神の真の子供になることです。つまり、私たちが天の愛を持つ真の人間になることが私たちの願いですが、真の人間になるためにはどうすれば良いのかという問題を私たちは考えなければならないのです。


 では、人間がこの地に生まれる時の目的、生きる目的、成し遂げるべき目的は何だったのでしょうか。しかし、人間は何をすべきであり、何のために生きるべきなのかを知らずにいるので、もし神がいるなら、その神は憤慨しているでしょう。神はどの時代、どの瞬間も休むことなく、天と地を代表できる一人の人を探し、待ち望んでいます。しかし、それを知らない人間たちは、自分たちの罪の大きさを感じることもなく、それさえも忘れています。


 それでもなお、厚かましく天に向き合っている人間たちを見て、一度に裁きたいと思う神に代わり、一つの種となるその一人が現れなかったため、神の摂理の歴史はこのように遅延してきたことを皆さんは知るべきです。


 神は歴史の過程で多くの人を犠牲にしてきましたが、それを条件として真の一人の人を探し出そうとしてきたのです。それにもかかわらず、人間は厚かましく天に向き合っているのです。神は自ら創造した人間を愛することができませんでした。そこで復帰の摂理を進める中で、神は自らの計画を必ず成し遂げようとされました。神は、一つの善から繁殖すべきものが悪から繁殖したため、それを逆に戻す歴史を進め、一つの善の起点を作り、一つの結実点に結びつける摂理を進めてきたのです。


 では、神の悲しみは何でしょうか?全ての天地万物を創造したその創造の理念を代わり、その理念を所有するだけでなく、その理念の主導的な権限を持って神の前に立つことのできる真の人間がいないことが悲しみなのです。霊的な祈りをする人は、終わりの日に神が失われた善の主人公を立てることを望んでいるという声を聞くでしょう。


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 これまでの歴史の過程には完全な善はありませんでした。道徳的な生活や信仰生活において善を自称して行動した人はいましたが、完全な善とは関係がありませんでした。ただ今日までの歴史の過程では、悪が悪と戦っているように見えましたが、そこには見えない内的な戦いもありました。今日の道徳的な生活や信仰生活は、永遠の勝利を保証する善を紹介する生活ではなく、悪に対して善を犠牲にした、つまり償いの生活です。


 イエス様は地上で30余年の苦難の道を通して、その内的な理念を確立しましたが、生活の側面においては完全な善を成し遂げることはできませんでした。サタンの世界にあって、悪と対立し、償いの犠牲として善を紹介したのです。それにもかかわらず、今日まで真の人間が現れていないため、イエス様は悪と対立して戦うために今も楽園で祈っておられます。ですから、皆さんは自分が何をしたかを誇らないでください。皆さんが行った善は、悪を償うための条件にはなりますが、永遠の善の世界の基盤にはなり得ないのです。世界でどんな権限や地位を持っていても、それを誇ることはできません。


 イエス様も天の皇太子であり、万宇宙の主人公であり、万王の王として来られましたが、自分を誇りませんでした。悪との戦いが終わるまでは、自分を誇ることはできませんでした。イエス様が自分を誇らずに耐えたのは、ある日、天の法度を完全に確立するためであったことを皆さんは理解すべきです。


 イエス様は悪が支配する世界に置かれていましたが、善を中心とした理念の世界が将来現れることを知っていました。だからこそ、イエス様は善の世界がこの悪の世界の深い場所にある捨てられた群れの中にあることを知り、「貧しい者に福音が伝えられる」(マタイ11:5)と語られました。貧しい者は良心的な立場にあるため、天が悲しんでいることを誰よりも感じやすいのです。したがって、キリスト教が血の祭壇を経て、捨てられた歴史の過程を歩んできたのは、終わりの日のためであったことを皆さんは知るべきです。


 神やイエスが人間や教団に命令したことはないため、自分の主義や主張を誇る人、または教団を支えて自分のもののように誇る人は必ず打ち破られます。今まで十字架を通じて築かれたキリスト教を神やイエスが完全に支配したことはありません。だからこそ、神は多くの苦難の道を切り開きながら、全ての人間を完全に支配できるその一日を待ち望んで努力してきました。


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 そのため、その過程で自分を主張する人は必ず打ち破られます。天倫とは順序の原理原則を指します。神が天地万物を創造したなら、まず神が天地万物を支配し、その後に人間が支配するのです。その順序を無視して人間が先に支配することはできないのです。


 では、打ち破られる運命にあるならば、戦いの過程を経て目的地を見つけた後に私たちはどうすべきでしょうか?第2の善の理念を創造しなければなりません。このようなことが今日再び必要とされています。今日の人間はこれを理解する必要があります。しかし、それを知らずに、それを暗黙のうちに期待しながら信仰しているのです。その意図が成就する日がまさに信仰的な復活の日であり、あるいは世界的な再臨の日であるのです。


 今日まで神が失われたものを探し求めてきたのは、人間を支配する能力がないからではありません。今日までサタンの訴えを受けながら戦ってきたのも、神が力を持たないからではありません。原理原則を確立するためでした。神はサタンを前に立て、サタンが成し遂げたことを整理する歴史を進めてきました。サタンが最初に支配したものを整理することは、サタンが訴えることができないということです。したがって、最も賢明な人はサタンさえも立てて使い走りにできる人です。今日、そのような人がいれば、その人は最終的な勝利者となるでしょう。


 イエス様は世界を支配する指導者として来られましたが、一番下の立場に立ち、全ての人を前に立たせようとされました。一見すると落伍者のようでしたが、実際には無限の知恵を持つ方でした。サタンが最初に行ったことを修正してきたのです。サタンを前に立て、最前線で戦わせ、神は後方で戦いを整理してきたのです。これが神の作戦です。サタンは先頭の一面しか持てず、両面を持つことはできません。


 したがって、死なずに復活したイエスの前に拒否されたマグダラのマリアのような信者ではなく、復活したイエスを迎え、道を案内できる人がその時代に一人でもいたなら、今日私たちは未知の聖書だけを頼りにしていなかったでしょう。未知の信仰世界で苦しむこともなかったでしょう。


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 皆さんが今まで苦労してきたのは、自分自身が救われるための苦労であり、人類の全ての罪を完全に償い、神が喜べるような苦労ではありませんでした。そのような苦労をした人は、これまでサタン世界の歴史的人物の中に一人もいませんでした。


 では、歴史的な全ての債務を償い、神の恨みを晴らし、慰めることができる人とはどのような人でしょうか?それは、自分の罪の因縁を父の前に心配の対象として残さず、自分の全ての行動が天の意志のために尽くしたといえる新しい歴史の先駆者たちです。そのような人々が多い民族は、神の全権的な理念を占有し、世界を支配することができるでしょう。


 イエス様も人類を救うために十字架の道を歩みましたが、その救いの意志を成し遂げても神を慰め、喜ばせることはできませんでした。終わりの日の私たちは、そのような生活をこの体を使って成し遂げなければならないのです。


 では、イエス様が終わりの日の聖徒たちに対して待ち望んでいるものは何でしょうか?それは、天の内的基準まで見つけ出し、6000年間私たちを慰めてくださった神をむしろ慰める人、2000年間人類のために尽くされたイエスに代わって尽くすことができる人々になることを望んでいます。そのような人になって初めて、天の全ての債務を償った資格者として天の前に堂々と立つことができるのです。イエス様はこの地に来て、言いたいことをすべて言えずに去りました。イエス様は「まだあなたたちに言いたいことがたくさんあるが、今はそれを受け入れることができない」(ヨハネ16:12)と言われました。


 ですから神は、この歴史的な転換期において、その大きな全体的な債務を償い、歓喜と栄光の中で世界の人々を祝福し、この民族を祝福し、この教団を祝福し、一人一人を祝福し、さらに霊界にいる多くの霊人を祝福することができる真の人々が現れることを望んでいます。


 したがって、皆さんはその大きな因縁を今日の自分が持っていることを認識し、天と地の前に一つの犠牲として立つことができる人になるべきです。そうして初めて、歴史的な全ての債務を償ったという条件を備えた人になれることを心に留めておくべきです。
















文鮮明先生御言葉選集 4 - 12. 6千年の間に残された負債を誰が担当するのか (1958年4月27日)
1958年4月27日(日)、前本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書 18:15-35




 皆さんは、自分が歴史的な借金を背負っていることを感じる時が必要だと思います。私たちはこの地に生まれる時にまず親の血と肉を受け、その後に地の恩恵を受けて生きています。さらに、心を中心に見れば、永遠の天が私と関わりを持ち、私の命を守ってくれていることがわかります。しかし、表面的には多くの人が幸せな場所に立っているように見えますが、実際には幸せを感じていないのはなぜでしょうか?その原因はその人自身にあるのではなく、相対的な何かと関わっているからです。しかし、人々はこれに気づいていません。


 では、人間の不幸の原因は何でしょうか?人間はこれまでこの不幸の原因を解明し、完全に喜び、幸せになる時を迎える前に「幸福」という名詞を使ってきました。しかし、「幸福」という名詞を使うことはできても、実際に幸福な生活をしたことがないのは、歴史的な過程を通じてよく経験してきたことです。


 では、なぜ人間は幸福と満足を得られなかったのでしょうか?それは、私たちが言葉にできない借金を背負っているからです。これが核心的な問題です。私たちに負わされた借金を清算しない限り、個人、教団、国家、世界に幸福は訪れないということを皆さんは理解しなければなりません。


 皆さんが生まれる前から想像もできない悲しみの歴史、闘争の歴史が展開されてきたことを皆さんはよく知っているでしょう。また、自分の人生を中心に見たとき、その心と体を中心に無限の闘争の交差点を通り過ぎながら生きていることもよく知っています。さらに、自分の前後、左右、上下を考えるとき、天と地の前に言い表せない借金を背負っているのに、それに気づいていません。私たちの祖先が天と地の前に残した重荷を償わず、罪悪の血統を受け継いで生きている悲しみの存在であることを考えずに生きている人が多いのです。


     11


 天は私たちを理想的な世界に導くために努力していますが、私たちは何をどうすべきでしょうか?私たちは手を挙げて天と全ての万象の前に借金を負っていることを認めなければなりません。また、全ての万象の前に負った借金を返す手立てがないことを認めなければなりません。自分自身を分析してみると、私の体と心、そして私の家族も私のものでないことがわかります。


 では、三千世界の前に不変の姿でこれらが私のものであると誇れるその日はいつ来るのでしょうか?これは全人類が共通の理念の下で解決すべき歴史的な問題です。私たちは借金を負っており、3つの親の借金を負っています。つまり、血と肉の親と、私たちの体を構成してくれた地と、天から受けた命の因縁に対する借金を負っているのです。したがって、人は3つの親の因縁を離れて生きることはできません。私たちの生涯を分析すると、私たちは物質的な面で地の前に借金を負っており、血と肉の親の前に、そして天の前に言い表せない多くの借金を負っているのです。


 では、今日、皆さんは自分自身を中心にして、果たして天の前に、地の前に、そして親の前に借金を負っていることを痛感したことがありますか?これを考えるとき、皆さんは地に対して頭を下げなければならない自分であることを認識する時が必要です。また、親が負わせた借金を考えると、その前にも頭を下げるべきです。そのような心情を中心に永遠の理念を探すための天の努力の借金が私の心と接しているのです。


 したがって、天は皆さんに、天の努力に対して頭を下げ、感謝の心を持ったことがあるかと尋ねるでしょう。また、私たちを育ててくれた親たちも尋ねるでしょう。皆さんがそのような立場に立つとき、「私と私の子孫に及んだ借金をすべて返しました」と自信を持って言える自分になっているでしょうか。


 今日、私たちは自分でも知らないうちにこのような環境的な借金を背負っていることを知らなければなりません。それだけでなく、神はそのような人々を目覚めさせるため、または人間が背負った歴史的なすべての借金を清算するために努力していることを知らなければなりません。


     12


 今日、皆さんが背負っているその借金は清算しなければならない借金であることを、皆さんは知ってもいないし、理解もしていません。しかし、人間を創造した神は、人間が背負ったその借金を清算し、ひとつの方向へ進むことができるようにするために、人間は考えもせず夢にも見ないが、そのような心配を持って長い歴史の過程を摂理してきました。もしこのような神の摂理を理解するなら、皆さんはどのような心を持って感謝すべきかを見直すべきです。


 私が考えていない時間にも、天は私たちのために心配してくださっていました。私が自分自身を愛し、自分の快楽のために奮闘している時にも、天はそうではありませんでした。エデンの園でアダムとエバが堕落して以来、神は6000年の長い年月の中で、人間に血統的に背負わせた罪悪の歴史と社会的に伸びてきた罪悪の歴史、そして天上において結ばれた罪悪の歴史を断ち切るために、今まで休まず努力してこられたことを皆さんは知るべきです。歴史の過程で多くの先祖が天を裏切り、反抗したため、本来ならば神は人間を罰して裁かなければならない立場にありました。しかし、神はむしろ人間に拒絶される悲しみを経験してこられました。そしてその人間を一度も手放すことなく、その人間のために尽力してこられました。


 では、天はなぜ人間に対して、私たちの先祖に対して努力してこられたのでしょうか?人間が背負ったその荷物と借金を人間自身で償還し復帰させることができなければ、6000年の間努力してこられた神の尽力は無駄になってしまい、人間が探し求めてきた道の理念もすべて無駄になってしまうからです。手を出さなかったなら別ですが、一度手を出した以上、神は6000年の間人間がこの地上で負ってきた歴史的な借金を償還し清算できる人を探し出さなければなりません。


 今日、私たち人間に歴史的な借金を償還し清算できるようにするために、神は今日も明日も努力されるでしょう。そして今まで数千年の歴史を耐えながら選ばれた民族を立て、ある橋を架けて歴史的な罪と借金を清算しようとしてこられました。ですから、神はそのような民族を探し求めています。さらに、ある教会を探し求めると同時に、ある個人を探し求めているのです。このような神の存在を皆さんは心で感じるべきです。


 では、喜びと栄光に満ちて万宇宙を支配すべき神の立場がこのような困難な立場に変わったのは誰のせいでしょうか?言うまでもなく、今日の人類のせいだと考えれば、皆さんはその神を抱きしめて慰めなければなりません。しかし、個人のレベルの慰めでは天の心を慰めることはできません。歴史的な悲しみの心情を理解し、全人類的なレベルで共感できる心と体を持たなければ、神の中に染み付いている歴史的な悲しみと現実的な悲しみを清算することはできません。


     13


 天には、このような使命を持った一人を教会や民族を代表して立てる歴史的な基準があります。そのため、そのような個人を見つけ出し立てるために尽力してこられました。そして、4000年の尽力を経て立てられたのが、まさにイエス・キリストでした。


 ですから、イエス・キリストは一個人でありましたが、その背後には歴史的な縁があり、その当時の時代的な縁があり、未来的な縁がありました。しかし、その事実を知っている人は誰もいませんでした。


 イエスは自分の幸福や自分の快楽のために生きたのではありません。また、自分一個人の栄光のための希望も持っていませんでした。そのようなことから離れ、4000年間人類が背負ってきた歴史的な全体の借金をどう清算するかという心配をしていたのです。


 イエス様は天の悲しみを引き起こしているサタンと、そのサタンが人間に対して持つ訴えの条件を妨げて、人間を天の前に勝利的な姿で立たせようとしました。自らのすべての生涯をかけて歴史的なすべての借金を清算するために立ち上がったのです。


 ですから、彼の言葉はその当時の言葉でありながら、4000年の歴史を経てきたすべての人々、すなわち霊界にいる数千万の霊人たちまでも聞かなければならない言葉でした。さらに、イエス様の言葉はその時だけでなく、その後の永遠の時間をかけて、千秋万代の後の子孫たちまでも聞かなければならない言葉でした。イエス様はそのような信念を持って語っておられました。


     14


 しかし、そのような言葉を語っているイエスの前で、彼の心情を通して友になろうとする人は一人もいませんでした。ですから、イエスは進むべき道を見つけるべきイスラエル民族が進むべき道を見つけられず、天の懐に抱かれるべき選ばれた民が天の懐を拒絶したため、言い表せない悲しみの心情にぶつかったのです。


 イエス様が涙を流されたのは、4000年間苦労してきた神の心情を代弁する悲しみの涙でした。イエス様は4000年の歴史を経て来られた多くの預言者たちが待ち望んでいた希望の実体だったので、彼が涙を流せば霊界にいる多くの預言者たちも涙を流さざるを得ない、そういった立場に立っていたのです。これを考えると、地上に来て公生活の道を歩まれたイエスの前で、私たちの先祖たちが責任を果たせなかったことがわかります。そして今日、その子孫である私たちにその責任を果たす歴史的な使命が残されていることを理解しなければなりません。


 イエスの宇宙観は4000年の歴史を貫くだけでなく、その当時の世界観や未来にまで繋がっていました。しかし、イエスを従っていたその当時の人々は、自分を中心とした生活観を持ち、自分を中心とした世界観を持って生きていました。この事実を比較すると、イエス様とその当時の人々との間には生活や生涯、考え方において著しい違いがあったことを理解するべきです。


 このような立場にあったため、イエス様は全人類の罪と借金を償還するために努力されましたが、そのすべての罪悪の借金を償還すべき人々と密接な関係を結ぶことはできませんでした。それにより、イエス様はイスラエル民族に対して4000年間努力してきた神のその苦痛の心情を感じざるを得ない悲惨な立場に立たされました。


 では、このような苦痛が私たちとイエス様の間で解決されたのでしょうか?まだ解決されずに残されたままです。真にイエスの心情であり、私たちの心情であることが結実する時間を探しているのが、今日まで努力してこられた神の願いであり、イエス様の願いであり、今日の私たちの願いなのです。ですから、今日皆さんは自分の細胞一つ一つにまで歴史的な悲しみが染み込んでいることを感じるべきです。また、皆さんは時代性を無視できない存在であるため、皆さん自身には時代的な悲しみが潜在しており、さらに未来に対する責任も皆さん自身にあることを感じるべきです。


     15


 イエス様が地上に来られ涙を流されたのも、人間が背負った借金を償還するためでした。ですから、イエス様は涙の道、裏切りの道を死を覚悟して切り開いていかねばならなかったのです。そして、死んで復活された後も地上の人間のために働かねばなりませんでした。イエス様は自分がこの地上に生まれた以上、人間の歴史的な悲しみの心情までも解放しようとされたのです。


 では、イエス様は地上に何を残そうとされたのでしょうか?サタンに蹂躙されていた善良な人々の涙の跡を自分自身に体験し、この怨念の心情を胸に刻み、さらに天と地とサタンの前でそのすべての歴史的な悲しみを清算する責任を負う覚悟を持った神の子供たちを残そうとされたのです。そのような神の真の子供たちが現れなければ、神は永遠に不憫な立場に置かれることを知っておられました。さらに、彼を従っていた弟子や、今日まで2000年間殉教の道、血のゴルゴタの道を歩む人々もまた不憫な立場に置かれることを知っておられました。


 では、未来を責任を持つ人は誰でしょうか?今日の皆さん一人ひとりです。神は責任を負うことができないのです。もし神が責任を負えるのであれば、6000年という長い年月は必要なかったのです。その責任と使命は神がすべて担うのではありません。今日の私たちがしなければならないのです。


 だからこそ、イエス様は人間を代表して地上に来られ、霊と肉を中心にして4000年の歴史の借金をすべて清算しなければなりませんでした。そして、イエス以降すべての人類はサタンの前で訴えられるような借金を持つことがあってはならなかったのですが、イエス様がその使命を果たし切れずに亡くなったため、多くの人類は再びそのすべての借金を引き継ぐことになりました。これを振り返ると、イエス様は今も神の前で頭を上げることができず、贖罪の祭壇を築いて祈っておられるという事実を皆さんは知るべきです。


 このような立場では、どれだけ自分のために富と栄光を求めようとしても幸福を感じることはできません。どれだけ満足しようとしても満足することはできません。しかし、天にいる多くの聖徒たちと地上のすべての人々は、共に喜ぶことのできるその一日を待ち望んでいることを皆さんは知るべきです。


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 したがって、私の手は疲れることのない手であることを知るべきであり、私の手の後ろには歴史的に血を流した過程があることを知るべきです。また、私の体は生き生きとした体に見えますが、この体は裂かれ、傷だらけであることを知るべきです。そして、私にどんな喜びがあってもただ喜ぶのではなく、その喜びは歴史的な犠牲の代価として生まれたものであるという事実を皆さんは知るべきです。また、天が流した涙がこの地を満たし、天が流した血の犠牲がこの地の谷を満たすほどの犠牲の過程が私によって存在したという事実を実感するべきです。


 イエス様の一生に染みついている悲しみを解き放つことができなければ、歴史的な神の心に深く刻まれた悲しみを将来誰が責任を負うのでしょうか?道の探求をすればするほど、人間は天に対して恐れ多い気持ちを抱かざるを得ません。私たちはそれぞれが負った借金を返さなければならない立場にあるため、与えることにおいては個人のために、さらに天のために与えることができるようになるべきです。この道が皆さんに残されています。


 したがって、皆さんはさらに遠くに向かって進みたいという心の方向性を感じるでしょう。しかし、そのような心を抑えて自分自身のために動こうとする人、家族を中心にして進もうとする人は受け入れられません。自分の民族を中心にする主義を持つ人も同じです。国家も同様です。だから、今日私たちが進むべき方向は、天の理念を中心にした個人として、家族、国家、世界へと進むことです。したがって、皆さんは今や個人を超えて、種族や民族、国家、世界のために生きるべきです。さらに6000年の歴史に結びつくもののために生きるべきです。天はこのような個人、家族、民族、国家を探しているのです。


 なぜなら、神は天地万物を創造された方として、天と地全体を統治すべき存在であり、特定の地域を支配する存在ではないからです。したがって、皆さんが神に対して「父」と呼べる神の子供たちになるためには、神が指向する世界について少しでも考えなければなりません。そのときに神と縁を結ぶことができるのです。


 これまで多くの主義や思想は変遷してきました。しかし、それが地上で一つの理念形態を経た後には、宇宙の根源である神と一体化できる天主主義的な形態を成すべきです。これが必然的な歴史的統一の地点として残るべきです。


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 イエス様はゲッセマネの園で「私の望むようにではなく、あなたの御心のままになさってください」(マタイ26:39)と祈られました。しかし、ここで言う「父の御心」とは、過去、現在、未来の理念だけでなく、創造以前の理念も含まれています。


 イエス様は個人のために与えようとしたときに、ある個人がそれを妨げれば、その個人を断ち切りました。家族のために与えようとしたときに、ある家族がそれを妨げれば、その家族を断ち切りました。社会のために与えようとしたときに、社会がそれを妨げれば、その社会を断ち切りました。国家のために与えようとしたときに、国家がそれを妨げれば、その国家を断ち切りました。したがって、天と地のために与えようとする時代が来たときに、それを妨げるものがあれば、それを断ち切るのです。


 今日、私たちがそのような天の全体の意志を償還し、天の理念世界を望んで進むと言うならば、天が私たちを6000年間育て、愛を与えてきたように、私たちもそのような心の持ち主になるべきです。天はまさにそのような人になることを望んでいることを私たちは考えなければなりません。


 世界の原則は「与え、受ける」理です。したがって、世界のために与える民族は世界を支配するでしょう。皆さんが人生の終わりを迎える時、つまり運命の時に、皆さんはどのような言葉を残すでしょうか?イエス様は異端の頭とされて十字架にかけられ、死に際しても「成し遂げられました」(ヨハネ19:30)と言われました。つまり、イエス様は世界のためにどれほど心配されたかというと、死を覚悟し、サタンと戦いながら世界の人類を心配されたのです。したがって、皆さん自身もこの地上で命を終える日に「父よ、成し遂げました」と祈れる者になるべきです。


 では、イエス様は地上でどのような人を探されるのでしょうか?自分の使命を引き継いで「父よ!イエスよ!」と呼び、「成し遂げました」と言える一人の主人公を探されているのです。したがって、私たちは心を開いて今日のこの民族のために心配するのではなく、明日のこの民族のために心配して進み出る人々になるべきです。今日のこの世界のために心配するのではなく、明日のこの世界のために心配できる人々になるべきです。私たちは一歩先を行くべきです。


     18


 なぜなら、私たちはまず天の意志を知ったからです。地の人々が知らない一つの世界的な理念を探すべきです。したがって、そのような心を持ち、現実を乗り越えて進み出る一つの姿が必要です。そして、現実的な天の悲しみを償還し、歴史的に矛盾したすべてを踏み越えていくことで、歴史的に絡まったすべてに対する償還的な条件を立て、清算することができるのです。


 だからこそ、皆さんが神秘的な境地に入ってみると、終わりの日の聖徒に対して、天にいるイエスが羨ましく思い、無数の聖徒や神までもが羨ましく思っていることがわかるでしょう。それだけでなく、この地も、歴史の過程でのすべての人間も、時代と場所を超えてそのような人を探しているのです。


 したがって、皆さんは今が世界に対する摂理の時であるのか、個人に対する摂理の時であるのか、民族に対する摂理の時であるのかを見極めなければなりません。また、自分自身のために生きるべき時なのか、それとも他の何かのために生きるべき時なのかを見極めなければなりません。そうして、皆さんが世界を超えて未来の天主的な天国理念を目指して生きることができるその時において、神を呼べば、神は全世界の祝福を皆さんに与えるでしょう。しかし今日の人間は、新しい世界を創建すべき飛躍的なこの峠を残しておきながら、歴史と今までの習慣的な環境に支配されています。


 では、それを超える勇気を持つ人は誰でしょうか?私たちが歩む道には、十字架の道も良いし、苦難の道も良いし、どんな道でも乗り越えなければなりません。イエス・キリストが残された道、最終のゴルゴタの道を死なずに乗り越えなければならないのです。復活したイエスを捕まえようとしたが拒まれたマグダラのマリアのような人になってはいけません。当時、イエスを捕まえ導ける一人の人、または彼の弟子が地上にいたなら、今日私たちはよくわからないこの聖書を信じてはいなかったでしょう。未知の信仰世界で苦しむこともなかったでしょう。


 皆さんがこれまでに努力してきたのは、自分自身が救われるためであって、神のためではありませんでした。自分の罪を完全に償還して神が喜べる人は、歴史的な人物の中に一人もいませんでした。では、神の歴史的なすべての借金を償還して神を慰めることができる人とはどのような人でしょうか?それは、自分の罪を抱えて父を心配させることなく、自ら天の善の意志に属して努力する人でしょう。そして、天の善の意志のために尽力するそのような新しい時代の先駆者がある民族の中に多く現れるほど、その民族は天の全権的な理念を占有し、世界を導くことができる民族になるでしょう。


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 イエス様も救いの意志を成し遂げるために十字架の道を歩みましたが、救いの意志を完全に成し遂げて神を慰め、喜ばせることはできませんでした。ですから、終わりの日にいる今日の私たちが、この肉体を持っている間にそのようなことを成し遂げなければなりません。


 イエス様は終わりの日の聖徒たちがそのような心の基準を見つけて立てることを望んでいます。そして、今日まで努力してきたイエス様に代わって努力できる人になることを望んでいます。そのような人々になって初めて、歴史的に借りたすべてのものを償還した資格者として天の前に立つことができるのです。イエス様はこの地に来て、言いたいことをすべて言わずに去りました。イエス様が「まだあなたたちに言いたいことがたくさんあるが、今はあなたたちがそれを受け入れることができない」(ヨハネ16:12)と言われたことを知るべきです。


 歴史的な転換期において、この大きな借金を償還し、神と共に歓喜と喜びに満ちて手を取り合い、個人を祝福し、教団や民族、世界の人類を祝福し、さらに霊界にいる多くの霊人を祝福できる人々が現れることを天は望んでいます。これを確実に理解しなければなりません。


 したがって、皆さんはこのように大きな天の因縁を、今日の小さな自分自身が持っていることを認識し、天と地の前に残された借金を清算する一つの犠牲として立つことができる自分自身を持つ人になるべきです。そうして初めて、歴史的なすべての借金を償還した条件を備えた人になれるのです。


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