人生訓読 ブログ(日本語)

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御言葉選集4(7)

2024年06月26日 13時49分29秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 7. 神は追い詰められる人類をどうするか (1958年3月30日)


1958年3月30日(日)、元本部教会にて。


聖書拝読:マタイによる福音書10:16-42




 皆さんに今回お伝えしようとする題目は「神は追い詰められる人類をどうするか」です。この「神は追い詰められる人類をどうするか」という題目についてしばらくお話しします。
 今日ここに集まった皆さんの中で、自分が幸せだと、自分が喜んでいると誇れる人は一人もいないでしょう。皆さんの心と体がそれぞれの心と体のようでありながらも、皆さんは心のあるべき位置や体のあるべき位置に立てていないことを自覚しているでしょう。つまり、自分の心が永遠の心の立場に立っておらず、自分の体も心が永遠に宿れる体にはなっていないのです。
 もし自分の心を中心に自信を持って生きていると言える人がいるならば、その人はこの宇宙の中での人生において成功者と言えるでしょう。しかし、これまでの歴史の中で、自分の心のままにすべてを行い生きてきたと主張した人、断言した人、確信を持った人は一人もいなかったのです。
 そして皆さんは心と体が何かと結びつくべきであるにもかかわらず、それができていないことをよく知っているでしょう。また、皆さんは心と体を信じてくれる環境を持っていないだけでなく、皆さんの家庭や社会、世界、さらには天と地にあるものも皆さんのものではないと感じているでしょう。
 これを考えると、地上に生きてきたすべての人間は追い詰められ、追い立てられてきた人間であることを否定できないでしょう。昔、私たちの先祖が愛の園を築こうとしたエデンで罪を犯したために神の愛の懐から追い出されました。その結果、神の愛の懐から追い出された人類は、今までの6000年の歴史を経てもそこから抜け出せず、今この時も追い詰められ、追い立てられていることを感じざるを得ないでしょう。
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 そのため、人間は人倫という法度を通して人間同士の秩序を立ててきました。さらに、それでは足りないので、そこに宗教を立てて天理に従って生きることを主張していることもよくご存じでしょう。
 では、人間の世界において永遠に変わることができず、永遠に分かれることができない完全な義理を完成させ、天と地の前で誇ることができるそのような義理の関係を結んだ人がいるかと言えば、いないと言っても過言ではありません。さらに、宗教を立ててその道理の前で永遠に分かれることができない自分を立てたかと言えば、これも自信を持って答えられない自分だと気づくでしょう。さらに、天理の前でもやはり永遠に一つになれる、何が分けようとしても分けられない一つの立場に立っているかと言えば、そうではないことを感じるでしょう。
 では、人間の世界から義理が去り、人間から道理が去り、天倫が去ったことを自認すると、今日の皆さんが心で信じたいと思っていること、皆さんが体で求めようとしていること、それらが天倫を代わりにできるか、道理を代わりにできるか、あるいは人倫を代わりにできるかと言えば、やはりそうなっていないことを感じるでしょう。
 では「私は誰のために存在するのか!私は何のために今生きているのか、私はなぜ一つの愛と一つの生命と理念を求めてあえいでいるのか?」と自問することになります。
 これを考えたとき、皆さんはこの問題について深刻に考えれば考えるほど、自分自身の立場を再発見することになるでしょう。そして、皆さんが深刻な立場からこれらすべてを再発見したとき、自分の心にしみる苦しみを避けようとしても避けられないのです。心霊のすべての問題、さらには人生のすべての究極的な問題、そして人生と天倫の関係を明確に知り、自分の生涯の価値を実現しようとするならば、皆さんはこの革命的な仕事のために命を惜しまずに戦う覚悟と決意を持たなければならないでしょう。皆さんがこのような覚悟と決意を持って実践すれば、天の摂理は新しい局面を迎えることになります。
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 では、今後の世界はどうなるのでしょうか。つまり、近づいてくる終末時代はどうなるのでしょうか。終末時代は、聖書の言葉を通しても人間の世界に義理がない時代となります。道理を外れた時代になるでしょう。天倫を外れた時代が来るのです。これは人間同士でももちろんそうなりますが、天が人間をそのような立場に追いやる時があるということを皆さんは知らなければなりません。
 では、終末時代に天倫を守って立つ人は誰でしょうか。天の道理を守って立つ人は誰であり、人倫を代わりに義理を守って立つことができる人は誰でしょうか。皆さんがこれを自問して、自分に自信がないと感じるならば、天倫の前に罪人であることを告白しなければなりません。
 そして、皆さんが天倫の前に受け入れられない罪を犯した罪人であり、道理と人倫の前に受け入れられない自分であることに気づいたとき、皆さんはそこでどうするべきでしょうか。まさにこのような立場に置かれている自分を認めないならば、皆さんは未来の審判の峠を越えることができなくなります。それだけではありません。今後は、皆さんが持っている命までもがこの地上から追い出されるかもしれません。そして、皆さんが今まで持っている主義主張までもが試される時が来るでしょう。
 人間が堕落することで天倫を裏切ったため、人間の終末時代においても個人はもちろん世界もまた天倫を裏切る立場に進んでいるのです。人間が神を裏切ると、神もまた人間を捨てざるを得なくなります。このような歴史的な過程を経ていることを皆さんは知るべきです。
 昔、アダムが神の前から追い出されたとき、その一人だけが追い出されたのではありません。彼が追い出されることで人類は6000年間追い立てられてきました。だからこそ、この世界の人類を復帰しなければならない時が来るということです。全人類を復帰するためには、まず人間が義理から追い出され、道理から追い出されることになります。それを皆さんが乗り越えなければなりません。また、その時に皆さんがこの地上に真の義理と真の道理と真の天倫を立てることができるようになるということを知っておくべきです。
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 したがって、今それらが個人から追い出され、家庭から追い出され、国家から追い出され、世界から追い出され、この地上のすべての規律が混乱状態になるでしょう。そして、それだけで終わらず、世界から追い出され、天倫と全宇宙から追い出される時が来るということです。
 だからこそ、聖書の言葉にも書かれているように、今日の人間が信仰と義理の道を求めて進んでも、人間はそれを永遠に持つことができないようになっています。道理の道を求めて進んでも、それを永遠のものとして持つことができないのです。天倫の道を求めて進んでも、これもまた永遠の存在として天の前に立つことができないのです。したがって、人間はお互いに信頼し合う相手を見つけなければならない立場に置かれています。しかし、自分を信じてくれる存在、自分が信じられる存在が必要なのに、終末にはその存在が自分を逆に打つ立場に立つことを皆さんは知るべきです。
 だからこそ、これまでの歴史の過程を経て、今どのような時代になったかというと、愛する親も、子供も、兄弟も、友人も、社会も、教会も、国家も、世界も信じられない時代になったということです。
 では、神は世界の終末時代において、人間が取るべきものは個人的な理念ではなく宇宙的な理念であるにもかかわらず、なぜそれを取れずに個人から社会、国家、世界まで追い出されるのでしょうか。このように個人的に信じられず、家庭的に信じられず、社会的に信じられず、国家的に信じられない立場をどう迎えるべきでしょうか。これが今、人類が懸念すべき大きな問題であり、まさにこの立場に今日の私たちは置かれています。
 では、なぜ神はこのような摂理を進めてこられるのでしょうか。皆さんが信じるその信仰が永遠性を代わりにして天の前に立つことができず、皆さんが信じて進む道理が永遠性を代わりにして天の前に立つことができず、皆さんが信じて進む人倫もまた信じることができないからです。だからこそ、これを大きく革命する過程を経なければならないのです。
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 昔、エジプト文明を中心に見たときも、エジプト文明の使命が終わった後には、それを打つ歴史があったということです。ある反対派が出てきて打つ歴史があったのです。それがギリシャ文明を経て新しい文明の形を整えると、また新しいものが出てきてその文明を打ったということです。
 そして、これがローマを経ていくと、ローマに入ったキリスト教を打つ歴史によってキリスト教がこれを引き継いできました。それでキリスト教封建社会を建設したのです。しかし、その後、キリスト教封建社会も永遠の生命力を維持できなかったために打たれたのです。
 それで、これを革命する過程を経て人文主義思想を通した科学文明が台頭しました。そして、イギリスで新しい信仰革命の烽火を掲げた者たちがどこに追い出されたかというと、現在の南北アメリカ大陸に追い出されました。追い出した人々はうまくいくと思ったが、追い出された者たちが追い出した人々のすべての祝福を引き継いだということを今日の人間たちは知らないのです。
 今、責任を果たせないならば、神はアメリカや民主主義圏内の国々を再び打つ時が来るということです。彼らが持っている使命が世界的な使命を代わりにできない時期が来ると、それだけではどうにもなりません。だからこそ、再び天が鞭を加えて追い出す時は、新しい何かが出てこなければならないのです。
 では、もし自分自身から新しい何かが生まれない場合、外部からその意思を示す形が現れますが、まさにその使命を持って現れたのが今日の共産主義です。しかし、共産主義も同様です。その使命を果たせば、必ず二つまたは三つに分かれるのです。そこで一つの宇宙統一の理念が成し遂げられるまで、天はそれを絶えず追い出してきました。しかし、このような追い出される歴史の過程を経てきた人間は、その結果だけを見て知るに過ぎません。ですから、それが嘆きのかたまりだったことを皆さんは知るべきです。
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 さらに、キリスト教を中心とした神の摂理の歴史の歩みを振り返ってみると、必ずそうでした。アブラハム一人を立てようとしたときも、彼が住んでいる家庭から彼を追い出しました。彼が持っていたすべてを捨ててカルデアのウルを離れるようにしました。天は一個人を天の前に立て、また今まで築いてきた基盤の中に新しいものを立てるためには、その基盤を追い出される運命に処しました。
 アブラハムは、自分が追い出される環境にあっても、少しも不満に思いませんでした。どんな迫害や困難が訪れようとも、その迫害や困難よりも強い心を持ち、天に代わって変わりようのない義理の法度を立てました。さらに、天に代わる道理の法度を求め、天倫に代わる神を知っていたため、すべてを捨ててカルデアのウルを離れました。
 こうしてアブラハムによって神の第2次的な摂理を始めることができ、新しい形の理念を立てることができる個人的な基準が確立されました。その基盤の上でまた何が起こったかと言えば、ヤコブが家庭的な復帰の使命を引き継ぐ必要があったため、アブラハムの家庭からイサク、ヤコブに至るまで皆追い出されました。つまり、神はヤコブをラバンの住むハランの地に追い出しました。
 では、家族や親戚から追い出され拒絶される立場に立ったヤコブが、どのようにその困難を乗り越えられたのでしょうか。天の前に祝福されたその祝福を忘れず、世の中が変わろうとどうなろうと、私は変わることはないという天への確固たる信仰があったからです。ヤコブは、天が信じてくれなくても、自分の家族がすべて信じるようにし、また祝福の遺産を見つけ出し成し遂げて、天が摂理できる基盤を作ると信じていました。こうしてヤコブは、アブラハムの家庭を通して立てようとしたその天倫の意義を継承する心があったため、21年後に信仰の家庭を成し遂げて帰ってきたのです。
 次に、家庭単位の基準が確立されたこの基盤の上で、民族的な範囲に進まなければならない使命を背負ったモーセが、その民族の前で追い出されました。つまり、神はモーセを民族の前で追い出される運命に処しました。しかし、モーセは天が追い出し、民族が追い出し、またどんな人が追い出そうとも、天に代わる忠義の心、その望む希望、天倫に代わるその切なる心は変わらなかったのです。こうしてモーセは、どんな環境が自分を追い立てようとも、天性に対して不変の心を持ってミディアンの荒野での40年間の羊飼い生活を耐え抜きました。その後に初めて、民族を導き出すための基準が確立されたことを皆さんは知っておくべきです。
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 さらに、民族の基準が確立されたので、世界の基準を立てる時がきます。その使命を背負って来られたのがイエス・キリストでした。イエスもまた、この民族の基準の前に現れたとき、民族が持っている思想と民族が持っている信仰とは対立する立場に立たされました。そのため、民族が彼を追い出しました。民族が追い出しただけでなく、また世界人類が彼を追い出しました。このようにしてキリスト教は、この追い出される運命の歩みを経て、今日では全世界に影響を及ぼす立場まで来たことを皆さんはよく知っています。
 では、今日の世界を動かしているキリスト教はどうなるのでしょうか。このキリスト教もまた、終末には天の理想世界が来ることが確実であるため、その時が来れば神が追い出すことを知るべきです。
 では、どこへ追い出すのでしょうか。イエスを中心に世界舞台に追い出したので、今度は全世界の舞台を中心にして天と地の世界に追い出す時が来るのです。つまり、平面的な世界の理念では立てない時が来るのです。今日どれほど科学文明が誇りに思われても、科学文明が人類の幸福を紹介できず、どれほど論理的な体系を持つ哲学があっても、その哲学が人類のすべての生命問題、理念問題を解決できていないのです。
 そのため、科学を研究する人々があらゆる分野を研究してみても、かえってそれが自分自身を攻撃することになり、それが今人類を救えない立場に直面しています。巨大な力を持つ原子力を研究して人類の平和を築くことを期待しましたが、結局はこれによって世界は降参せざるを得ない時が来てしまいました。
 だからこそ、今日の学者が自分の愛する学問に生涯を捧げたとしても、その学問が永遠の生命問題と永遠の理念問題を天倫に代わる立場で保証してくれるのかということです。したがって、今日のこの時期は、学んできたその学問が自分を追い出す時です。哲学であれ科学であれ、人類を追い出し、宗教であれ我々を追い出すのです。さらに、主義や思想がもう一度追い出さなければならない時が来るのです。これを考えると、今日の人間が信じている事実が不安な立場にあることを認識しなければなりません。
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 だからこそ、今日の学者たちは自分たちが主張する学説を中心に戦っており、宗教家は宗教を中心に戦っています。政治家は政治家同士で戦っており、家庭は家庭を中心に戦っています。信じることができる天の基盤を持つことができない人間なので、前に進むこともできず、後ろに退こうとすると暗闇の権力が立ちはだかります。このようにどうすることもできない立場、つまりこうもできず、ああもできない立場で、全世界の人類は追い出されなければならないのです。
 これは滅びるように見えますが、そうではありません。ここに平面的な世界の理念を踏んで登り、この世界の人類を無限の霊界にまで結びつけるための神の意志があることを、今日の人類は知るべき時が来ています。神がこのような摂理を進めているため、今日の人類の終末時代には全世界が恐怖の中に置かれています。どれほど先進国であっても、彼らも安心できず、自分たちの主権を信じることができない恐怖の中に囚われているのです。
 その中に置かれているすべての宗教もまた、社会的なすべてのものが私たちを幸福な立場に置くことはできないのです。だからこそ、出会う場所ごとに苛立ちがあり、信じようとしても信じられず、義理が破壊され、道理と法度が失われ、天倫の理念が立つことができない環境になってしまったのです。
 だからイエスは2000年前にこの地上に来て宣言しました。「最後にはあなたの親が敵であり、あなたの子供が敵であり、あなたの愛する家族が敵だ」と。それはなぜか?それは、人間がこれまで信じて望んできたすべてのものを断ち切らなければ、新しい天の摂理と関係を持つことができないからです。
 そのようにすべての関係を断ち切らなければならない時を避けるために、神は人間に福音の知らせを伝えました。それがまさにキリストが伝えた新約福音の言葉でした。しかし、その言葉は「私を誰よりも愛しなさい」という驚くべき言葉でした。この言葉はその時代には受け入れられないものでしたが、イエスは天倫の道を歩むべき人間が一度は捨てられなければならないことを知っていたので、そのように言ったのです。
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 どうせ2000年後にもう一度捨てられなければならないことを知っていたので、2000年前に捨てられた人はそこで天の理念の価値を得て、2000年後の時代にそれによって再び第2の効果を発揮する時が来るのです。だからこそ、そのように歴史の現実と矛盾する宣言をしました。
 では、今日の皆さん自身は誰が分離しようとしても分離できない友、歴史を代わりにして義理を交わすことができる友を持っていますか?また、そのような夫婦、そのような親、そのような子供を持っていますか?永遠にお互いを信じるべき人間であり、お互いに頼るべき人間なのに、そうなっていません。むしろ、お互いに永遠に信じることができ、頼ることができるこのような基盤がますます崩れていっています。
 では、ここで我々の問題は何でしょうか?人間世界においてこのすべての人間の義理と道理と天倫の法度を破壊するのが神の摂理でしょうか?そのように見えますが、その背後には人間を愛する神の善意が潜んでいます。イエスはこれを知っていたので、「誰よりも私を愛しなさい」と言いました。さらに「あなたが地上で死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬだろう」と逆説的な言葉を言いました。
 もしこれが真理でないならば、人類はなぜこの言葉を信じなければならないのでしょうか?もしこれが真理であるならば、この言葉はある時に価値を発揮する時が来るでしょう。今日がまさにその時なので、この聖書の言葉がそのまま実現することを皆さんは知るべきです。
 だから今日では、親が子供を裏切り、子供が親を裏切り、夫婦が裏切り合い、兄弟が裏切り合い、友人が裏切り合う立場に置かれています。まさにこのような個人、家庭、社会、国家、世界になっているのです。
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 では、このような世界を作ることが神の意志なのでしょうか?そうではありません。神は親が子を信じ、子が親を信じられる世界を建設しようとしているのです。夫婦同士、兄弟同士、子供同士が互いに信じられる世界を作ろうとしているのです。さらに、友人、社会、国家、世界もまた永遠に信じられ、人間が安心してすべてを忘れて安息できる基盤を築こうとするのが神の願いです。しかし、今日の世界はそのような願いとはほど遠いものになってしまいました。
 では、神がこのような世界を裁く立場に置くのはなぜでしょうか?神は、どれだけ努力しても信じられない人々、信じられない土地、信じられない世界の主義であることを骨身に染みて感じているからです。このようにして人間に、この地上のどのようなものを中心に動かしてはいけないのかを悟らせようとする神の意志があることを皆さんは知るべきです。
 したがって、地上で他人を多く信じた人は大きな打撃を受けるでしょう。地上で多くの希望を抱いた人は、逆に大きな失望を味わうことになるでしょう。今日の人間はこのような状況に置かれています。
 神がこのような摂理を行うのは、すべてを破壊するためではありません。今日の人間たちが世界を自分たちの思い通りに作ろうとしており、既存の主義主張や制度を固守しているのですが、これらをそのままにしておくと人間の魂は復活できないため、世界的な範囲でこれらは一つ一つ切り取られていくのです。したがって、今日の私たちは、世界的な単位から個人単位に至るまで信じられない立場に立たされているのを目にすることになるのです。これを見ると人間は言い尽くせないほど不幸であるように見えますが、そうではありません。
 これらは神が人間たちに、この平面的な立場から心を転じて永遠の神を仰ぎ見させるためのものであり、外部の不信の条件から刺激を受けても、その刺激に応じて神を求める道を示すためのものです。
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 したがって、今日の私たちが社会の腐敗を見るとき、これをどう解決するのでしょうか。この問題を解決できる真の一人を立てるために、神は歴史の過程を通じて努力してきました。その観点からキリスト教を中心に見ると、個人と人類の前に追い詰められ、天の前に追い詰められた方が誰だったかと言うと、それがイエスでした。
 では、イエスは人間が永遠に共に過ごせる神の一人子であったのに、なぜ世界で最も追い詰められた立場に立たされたのでしょうか?また、なぜ神が知らないという立場に立たされたのでしょうか?「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と叫んで天に訴えたのでしょうか?それは、人間が天倫を裏切ったため、つまり個人的にアダムが裏切ったことを償い復帰しなければならない使命があったため、イエスは天から個人的に見捨てられたのです。しかし、イエスは見捨てられましたが、感謝の心を持っていました。「しかし、私の願い通りではなく、御心のままになさってください」(マタイ26:39)と言いました。自分の前にどんな死や苦しみが訪れようとも、それを乗り越え神と一つになれる心を持っていたので、どんな敵も彼を支配することはできませんでした。したがって、天が拒絶し、民族が拒絶して死の場所に至っても変わらなかったため、新しい復活の門が開かれたのです。
 個人的にキリストが拒絶されたため、摂理の意志の前に召された弟子たちも拒絶され、弟子たちが拒絶されたため、キリスト教団がローマ帝国から国家的に拒絶されました。しかし、ローマ帝国が彼らを追い出したものの、最終的には彼らに屈服しました。また、中世に教皇庁が腐敗し、ルターが改革運動を提起したとき、彼を追い出しましたが、ルターの改革思想は彼らよりも多く世界に広まりました。
 したがって、今日の民主主義を中心とするこの世界も共産主義の侵略があると同時に、天が攻勢を取る時が来るのです。では、このような世界の前で、または教会の前で追い出される何かが出なければならないことを私たちは歴史の過程を通じて一度考える必要があります。これまで人間は歴史的に苦しんできましたが、今日の終末に至っては、外的には世界的な形が現れましたが、内的には神が世界を支える時が近づいています。外的には統一理念の世界形を備える一方で、内的には今日この地に向かって霊界が近づいていることを皆さんは知っておくべきです。
 では、今、皆さん一人一人を中心に考えてみても、皆さんは2000年のキリスト教の摂理の歴史に匹敵するような反対を受けなければなりません。外的には社会のすべての条件が皆さんを反対する立場に立つことになるのです。
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 では、このすべての条件を踏み越えて上がることができる人はどのような人でしょうか?それは、死んでも天倫のために死に、生きても天倫のために生きることができる人です。そのような覚悟を持たなければ、すべての条件を踏み越えて上がることはできません。聖書にも「自分の命を救おうとする者はそれを失い、失う者はそれを得るであろう」(ルカ17:33)とあります。
 したがって、今皆さんは、天が皆さんを拒絶することがあったとしても、最後まで父をつかんで仕える覚悟を持たなければ、イエス・キリストが残した復活の恵みの中に入ることができるということを確かに知っておかなければなりません。
 だからこそ、今地上に生きている私たちは、人倫を通して義理を見つけ立てなければならず、信仰と宗教を通して道理を見つけ立てなければなりません。皆さんが永遠の希望を成し遂げることのできる天倫を見つけ立てる立場に立つならば、義理を通じ、人倫の道理を通じるだけでなく、自分の命を託しても安心できる一つの主人公、天倫を代わりにする一つの主人公が必要であることを皆さんは知っておかなければなりません。
 人倫を立てるためには本来の道理が必要であり、本来の道理を立てるためには天倫が必要ですが、その天倫は何を中心に現れるのでしょうか?それは絶対的な愛を中心に現れます。本来の道理は何を中心に現れるのでしょうか?それは生命の権威を持って現れます。では、今日の人倫を代わりにする義理は何を持って現れなければならないのでしょうか?それは永遠の信義を中心に現れなければならないのです。
 今日皆さんが天倫に向き合おうとする心がありますか?あるならば、皆さんは真に心から神に代わって信じられる一人の友を持たなければなりません。さらに神に代わって信じられる一人の兄弟、親、夫婦を持たなければならないのです。そうして家庭を越えて、社会、国家、世界の舞台まで広がっていかなければなりません。これが神の望んでいた希望なのです。しかし、神は人間を個人の立場から追い出し、信じられない立場に置いて、人間世界のどの希望もすべて断ち切り、人間が天を信じるようにしました。そして、その信じる人々が合わさり、兄弟同士、友人同士が神に代わって互いに信じ合う関係を結ぶことを神は望んでいたのです。まさにこれが天が望む最高の希望なのです。
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 さらに、イエス様が天倫を代わりにする愛を中心に人倫の道理を立て、今日のキリスト教を通して成し遂げようとしたものは何かというと、それは一つの家庭です。すなわち、イエスを中心にした一つの家庭、一つの友人、一つの親を立てることだということを皆さんは知っておくべきです。
 したがって、今日皆さんは道理と天倫に従って進む人々ですから、世のすべてを捨てなければなりません。家庭を中心に喜ぶ前に、天の理念を中心にした家庭の理念を感じなければならず、自分の子供を愛する代わりに、天のために働く人々を自分の子供以上に愛する心を持たなければなりません。さらに、友人関係でもそうであり、教会、国家、世界もそのような理念の下で関係を築けるようにしなければならないのです。
 では、天の摂理がこのようであり、歴史的な道程もこのような道を歩んできた立場で、今日私たちが再び韓国を見つめるとき、この民族は新羅時代と高麗時代には仏教が支配していましたが、その仏教をこの民族は追い出しました。また、李氏朝鮮時代には儒教が支配しましたが、この民族はまた儒教を追い出しました。このような歴史的な道程を振り返ると、今日キリスト教の立場にあるこの民族がここでキリスト教を追い出すと、どこへ行くのでしょうか?この民族を心配すべき時が来ました。今は終末の日ですから、つまりこの民族が世界の運命と共通の歩調を取らなければならない時が来たので、全世界のキリスト教が新しい理念の時代を経るために、この民族を一度打つ時が来るのです。
 したがって、この民族が世界人類の前に哀れな民族として現れる神の摂理があるならば、この民族は世界のどの民族よりも追われなければなりません。だからこそ、この民族は今までこの国の主権を中心にして、一世紀に何度も追われる歴史の過程を経てきたのです。信じようとしても信じられない悲惨な道程を経てきました。そして、安息の基盤の中で安心して生きられなかった民族として今まで流れてきて、今は二大潮流に押し流されているのです。
 小さな半島ですが、宗教的に見ると仏教が支配しており、儒教が支配しており、今はキリスト教が支配しています。三大宗教が支配してきたのです。しかし、今や二大思想がここで混乱を引き起こし、この民族は混乱の中にあることを知っておくべきです。
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 それでは、この民族を天倫が滅ぼすための意志なのでしょうか?違います。歴史の流れがこうであったために、この民族も最後の終末時代に来て、民族同士の信義がすべて崩れる現象が現れ、そのような時にイエスが再臨するということです。ですから、天が歴史をこのように支配してきたように、この民族にもキリスト教を代わりにして拒絶される一つの集団が現れることを、私は父に祈っているのです。
 今日、世界的な運命の前に弄ばれるこの民族を世界主義が飲み込むことができなければ、この民族がこの世界を飲み込んでしまうでしょう。では、何を飲み込むべきでしょうか。この世界の人間が持っているもの、つまり今までこの地上の主義を飲み込むべきです。そして、この民族が天性を代わりにする天倫を消化できる度量を持つことができれば、この民族は世界を支配するでしょう。ですから、今このような社会に置かれている皆さんは絶望しないでください!信じられない社会の実情を見て、天に対して切なる心で「我が神父よ!」と叫びながら進んでいくことができる切実な心がありますか?そのような心があれば生きるのです。
 キリスト教はローマで無惨な虐殺を受けましたが、後にはむしろローマを飲み込みました。堂々としたローマがキリスト教を容易に飲み込んでしまうと思われましたが、それよりも強力な一体的な力を持つキリスト教だったのでローマを飲み込んだのです。どんなものであっても、自身の反対勢力をすべて飲み込み消化できない限り、それ自体よりも強力な力の前に飲み込まれてしまうのです。
 では、今日の皆さん!民族を代表して大きな使命があることを皆さん自身の口から言っています。また、その使命を果たすと皆さん自身が断言しています。確かにそうであるならば、皆さんは世界から裏切られる立場に立っていますが、天だけは皆さんを見捨てることができない位置に立たなければなりません。その時、皆さんは決して滅びないでしょう。
 これまでキリスト教はどの国に入っても、そのような信念を持ち、その民族のために血を流してきました。したがって、今日私たちもそのような信念を持ち、自分の生活圏内で互いに信じ合い、生死を共にできる環境を作らなければなりません。ですから、今日では神が変わる前に私たちが変わることはできないという信念を持った集まりを探し求めなければならないのです。そのような集まりがどこにあるのか、そのような教会がどこにあるのかを探さなければなりません。
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 しかし、そのような集まり、そのような教会がないのです。だからこそ、神はこの地上でそのような教会、そのような集まりを作ることのできる一個人を探し立てるために努力してきたのです。しかし、まだこの地上はサタンの世界であり、天の権威が及ばない世界であるため、天は個人から奪い取る摂理を展開してきました。これがまさに、皆さんが原理から学んだカインとアベルの歴史でした。まず悪いものが出てきて善いものを打つが、最終的には善いものが悪いものを打ち負かし、勝利してきた歴史だったのです。つまり、善いものはまず打たれる過程を経てきたのです。
 では、イエスはどのような方だったのでしょうか?個人から打たれた方です。さらに、弟子たちから打たれ、教会から打たれ、国家から打たれ、世界から打たれました。しかし、イエスはそのすべてに屈しませんでした。どんな個人にも屈せず、教会の前にも屈せず、民族と国家、世界の前にも屈しませんでした。こうしてイエスは歴史的かつ内的な波乱を経ても、天に対して変わらぬ忠誠心を持っていたため、復活の歴史を起こすことができたのです。
 したがって、今日この民族を中心に見た時、この民族が生きる道は、人類に対して真理を中心にして、決して分かれることのない民族になることです。ですから、私たちが互いに信じられない環境に住んでいるとしても、義理を中心にして命を捧げることができる人にならなければならず、天倫を代わりにする教会をつかんで忠誠を尽くすことができる人にならなければなりません。今日皆さんがまさにそのような意志を示さなければならないのです。
 では、今日もしそのような意志が示され、天倫を代わりにするそのような場所があるならば、皆さんはそこを切に望むでしょう。また、そのような天倫の道理を中心とした意志が示されるならば、その意志のために自分の命を覚悟するでしょう。したがって、今や皆さんはイエスが天の愛の実体としてすべての人類の新郎として立つまで、世のすべての愛を忘れ、天の愛に酔いしれて生きたような人になるべきです。
 皆さんはそのような意志が韓民族に現れることを望んでいます。しかし、その意志がこの民族に現れるならば、皆さん自身は個人的に追い詰められ、さらに世界の前に追い詰められることになります。しかし、その追い詰められる期間はそれほど長くないと私は見ています。
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 それでは、皆さんが追い詰められる立場に立つのは、自分を滅ぼすためではなく、個人に関連する祝福を自分に引き継ぐためだということを知っておくべきです。さらに、家庭に関連する世界的な祝福、社会が持つ世界的な祝福、教会が持つ世界的な祝福、国家が持つ世界的な祝福、さらには宇宙に宿る天倫の祝福を引き継ぐために、そのような悲しい立場に置かれるのだということを知っておくべきです。
 したがって、皆さんは終末の時代に天倫の法度を踏み越えて神の意志の前に立とうとする心があるならば、生死を超越する覚悟を持たなければなりません。
 では、なぜイエス様は敵に対して祝福を祈ったのでしょうか?天の側から敵であるサタンに祝福を祈ると、敵であるサタンでさえも天の側に何かを差し出さなければなりません。神を当然崇めるべき存在でありながら、天理を裏切り、自分の主権を掲げて神に代わろうとしたのがサタンですが、人間が敵を愛する心を持つ限り、サタンは根本的に滅びるからです。イエス様は敵に対してむしろ祝福を祈ったのです。イエス様は個人的に拒絶され、社会的に拒絶され、国家的に拒絶され、世界的に拒絶されましたが、それでも彼らを呪わず、むしろ彼らを愛する心を持っていました。だからこそ、イエス様は敵を愛せと叫んだのです。
 では、なぜそのようなことを言ったのでしょうか?それはサタンの権威下にある敵さえも奪い取るために言ったのです。敵が打つ時、むしろそのために天に代わって手を挙げて祝福を祈ることができたので、彼らにも天が臨む安息の基盤となることができました。
 イエス様の精神がそのようであったため、イエスを信じる今日のキリスト教徒は個々の不当な扱いを耐え忍ばなければなりません。独りでは天国に行けません。家庭の十字架と迫害を耐え忍ばなければ、家庭より小さな天国に行くことになるでしょう。したがって、皆さんは社会の迫害を乗り越え、国家と世界の迫害を乗り越えなければ、より高い次元の天国に入ることができるということを確実に知っておくべきです。イエス様はこれを当時の人々や後代の信徒に伝えるために十字架にかかりました。
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 では、今日の皆さんの心はどの段階に固定されていますか?私たちは新しい宇宙の創設者であるため、古いものを持っていてはなりません。ここには新しいものを持たなければならないのです。私たちはこのような信念を持って一つの心にならなければなりません。私たちが生活する中で、私が話すことは自分のために話しているのではなく、食べて飲むことも自分のためではなく、24億の人類のために食べているという信念を持たなければなりません。そのような意志を持つ者が多ければ、その者たちは世界をひっくり返すことができるのです。神は世界を越えて宇宙的な統一の理念を持って摂理しておられるので、そのような理念を持つ民族がいれば、神はその民族を世界で最も優れた民族に立てるでしょう。
 今日、皆さんが持っている物質や名誉、それらすべてを永遠に持っていると考えてはいけません。今までの哲学や政治、経済など、すべては一大変革を迎えることを知っておくべきです。2000年前にイエスが言ったことが虚言でないなら、今日のすべては新しい時代のものとして維持されることはないのです。
 したがって、今日皆さんが宇宙的な理念に代わって天の民として神の全体的な摂理の意志を代行できないならば、再び来るイエスの前に花嫁として立つことはできないでしょう。したがって、今日皆さんは自分個人の欲望を満たし、この民族のためだけに生きる立場に立ってはいけません。民族と国家、世界、さらには宇宙のために戦うことができる人でなければなりません。そのような人を見つけて立てるために、イエスも神も今日まで摂理してこられたのです。
 神は個人を犠牲にしてその個人を犠牲として家庭を見つけ、家庭を犠牲にしてその家庭を犠牲として民族を見つけ、民族を犠牲にしてその民族を犠牲として世界を見つけて立てるために、今まで摂理してこられました。したがって、今日までのものは今や肥料にならなければなりません。そして、今日皆さんが新しい歴史の創設者の先駆者になれないなら、その意志を成し遂げるために力を与える肥料にでもならなければなりません。
 さらに、皆さんがそのような肥料になるためには、生命の前に吸収されることのできる成分にならなければならないだけでなく、自分自身が無限に吸収されることができなければなりません。そうして初めて、天の肥料として生命を育む助けを与えることができるのです。しかし、このような意志の前に自分の不当さや怒りを抑えられない人は哀れな立場に置かれるでしょう。神は個人と家庭を呼んでおられますが、私たちが生きる準備を整えた上で呼んでおられることを知っておくべきです。天と地の統一の理念の基盤を整えたその先で、私たちを呼んでおられるのです。
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 だからこそ、多くの生命が不当な扱いや犠牲の血を流しながら、この意志を成し遂げるために耐えてきました。では、今日の皆さんはこの意志を引き継ぎ、希望の地へ進み、神と関係を築いていく信念がありますか?そのような信仰観が確立されていますか?
 今日、信じている人々に対しては、今や天のすべての理念を通して追い出されることになります。その追い出される方向に従わない者は、歴史的な反逆者であり、天倫の摂理の前でも反逆者です。そのような者は世界で拒絶されるべきであり、この地上に存在することはできません。あの世へ連れて行かれるのです。だからこそ、キリスト教で言う「空中の宴」に参加するのです。
 今日、世界的な観点から個人が追い出されると社会が受け入れられる道を開き、国家から追い出されると世界が受け入れられる道を開いてきました。では、これからの世界で追い出されるとどうなるのでしょうか?その時には天の協力が必要です。
 では、世界的な終末時代に、私たちはどこに向かって進むべきでしょうか?一大飛躍を通じて新しい脱出の理念に向かって進む私たちが準備するものは何でしょうか?私たちが世界から追放されても、天と霊界と関係を築ける一つの起点をどのようにして作るか?このような意志が今日私たちの前に置かれているため、キリスト教に裁きの日があるのです。新しい希望の時が来るのです。
 歴史的な運命の道程がこのようであったので、今皆さんが進む道にも、個人としても家庭としても民族としても、あるいは世界的にどんな迫害があっても耐えなければならないし、どれほど大きな迫害であってもそれを乗り越えなければなりません。しかし、それを世界的に追い出す人はいません。人間はどんなに生きても70年、80年しか生きられない存在です。したがって、信仰を持つ人々が天を掴んでいる限り、全世界的に追い出そうとしても、永遠に追い出すことのできる人はこの地上にはいません。イエス様はこれを知っていたので、2000年にわたって戦いの生活を曲げることなく、努力してこられたのです。
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 今日、信仰生活をしている皆さん、自分の不当な扱いや怒りがあっても、すでに築かれた信義を捨てて背を向けないでください。そのような人は天の意志を知らない人です。そのような人は今日の世界史的な観点から人類の前で、また悪しき世の前で追い詰められ、この地上に居場所がなくなるでしょう。したがって、天の道を進もうとする人は、この地上から追放される覚悟を持たなければなりません。そうして初めて、神を中心とした最終的な勝利を手に入れることができるということを心に刻むべきです。そして、皆さんには地上の敵だけでなく、見えない霊界の敵もいることを知っておくべきです。
 したがって、皆さんがこれをどのように処理するかが問題になります。皆さん自身が切り開かなければならない重大な課題が残っています。そのような問題に直面する世界が必ずやって来るでしょう。したがって、私たちの前には霊的な世界の侵攻の時期が近づいています。
 今日、地上で私たちが理解できない奇妙な現象が多く起こっています。したがって、皆さんはここで自分の霊力を備えなければならないのですが、そうできない人は追い出されるでしょう。追い出される人は自然と裁かれるのです。これが大審判の時期であることを心に刻んでおくべきです。


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