人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(1)

2024年05月25日 17時08分49秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 4 - 1. 天地万物は愛の一日を求めて彷徨う (1958年2月16日)

天地万物は愛の一日を求めて彷徨う

1958年2月16日(日)、前本部教会(青坡洞1街)。

コリント人への第一の手紙 13:1-13


<祈祷>

 お父様! 私たちは人類を創造された父の本来の心情を知らず、私たちの悲しみを取り除くことのできる父の愛を感じることができないことを知っています。
 今、私たちのすべてを犠牲にしてでも父の愛を見つけなければならず、お父様と私たちの本来の因縁を回復しなければなりません。
 お父様! ここに集まったあなたの息子娘たち、今心の扉を開けて、あなたの心情が何であるか、あなたの愛が何であるかを自ら見つけることができるように許してください。そして耳を開いて、父の声を聞くことができるようにしてください。また、天が許される恩賜を受けることができる息子娘を探しておられる父の姿を見ることができるように目を開かせてください。
 そうして見て、聞き、私たちのために尽力されたお父様の御手を知ることができるように許してください。そして、その忍耐の心情を体感することができるように許してください。苦労して忍耐されてきた父の心情を私たちも少しは知っているので、今日この時間、私たちの心と体を完全にお父様のものとして支配してください。
 無知のために死の圏内に囚われている息子娘がいるならば、お父様、自ら恵みの御手を再び広げて全体の創造の歴史を起こし、本来の訴えの心情に向き合い、お父様の心の前に和動できるこの時間を許してください。お父様、切に願い求めます。
 心を尽くして摂理された父の御心があることを知り、天定の路程を歩んでこられた歴史の道があることを知りました。これはただ天と通じ、天に対する価値観を見つけてきた人々を通して成し遂げられたことを知っています。
 歴史的なすべての罪悪、時代的なすべての罪悪、未来的なすべての罪悪の源を根絶しなければならない使命が私たちにあるならば、罪悪に引かれて責めを受けず、父の愛の中で感謝したいという心の衝動が起こるように、父の直接的な愛の歴史が現れることを許してください、父よ、切に願い求めます。
 今日の私たちの心は私を中心に動いておらず、私たちの体も私を離れて動いていることを知っています。私の心も私を離れ、体も私を離れたとき、そんな私たちを摂理しなければならない父の心情がどのようなものであるかを感じるようになりました。
 天倫の真理を通さなければならない時が来ており、天倫の人格を通さなければならない時が来ており、父の愛を通さなければならない時が来ていることを知りました。
 お父様、すべての人類にお父様の愛を紹介できる御言葉が現れることを許し、お父様の愛を証することができる人格者が今日の終わりの日に多くの人々の前に現れることを許してください、切に願い求めます。
 その真理を従うことができる私たちの心的な準備と土台を備えさせてくださり、お父様の御心の前で全てが明らかにされるその日が歴史の前に早く現れるように歴史(役事)してくださることを、お父様、切に願い求めます。
 お父様、今パウロが語った、哀しみのお父様の心情を体感する私たちとならせてくださり、彼が心で感じることのできなかったお父様の愛の心情を体感することができるように許してください。イエス・キリストが十字架にかけられたように、この民の前に犠牲となり全体の祭壇を築くことができる子供となり、お父様の愛の心情を共に持つことができるように許してください。
 お父様、天倫に向かう道もこの一つの道であり、イエス・キリストのすべての労苦を解放する道もこの一つの道であり、先知先烈たちの死の恨みを晴らす道もこの一つの道であるという一つの心を持ち、天と地を代表して父の前に贖いの捧げ物を捧げるこの一時間となることを許してください、お父様、切に願い求めます。
 今、すべてをあなたに委ねましたので、再びご支配ください。伝えたい父の御言葉を伝えることができるようにしてください。与える者の心と受け取る者の心が一つとなることを許し、天が動くとき、私たちの心と体も共に動くことができるこの一時間としてください。サタンを取り除き、すべてを親しくご支配いただくことをお願いいたします。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。



<御言葉>

 皆さんは原理の中に「天地宇宙(天宙)」という言葉があることをご存知でしょう。そしてこれは無形世界と有形世界を総合した言葉であることもご存知でしょう。しかし、被造世界を創造された創造主も、その創造主によって創られた被造物も、皆愛の一日を求めているのです。
 私たち人間にとって最も必要であり、何よりも緊急かつ重大なことは、神を所有することです。その次に必要なのは、真心と真の体を持った真の人間になることです。その次に必要なのは、真実の物質を持つことです。その次に何があるでしょうか?それは、私たち人間にとって欠かせない愛を持つことです。これらのことが、今日の堕落した人間が生きていく上で欠かせない重要なことなのです。
 今日、私自身を見つめるとき、私には自分を中心とした神、自分を中心とした真の人間、自分を中心とした真の善の物質が必要であり、さらに自分を中心としすべてを団結させることができる一つの愛の縁が必要であることを否定できないでしょう。
 では、今日の皆さん自身を見つめたとき、皆さんが必要とする神がどこにいるのかを知っていますか?皆さんが必要とする真の人間、真の物質がどこにあるのかを知っていますか?これらの質問を受けたとき、それはこれこれこうだと自信と実力を持って答える人は一人もいないのです。
 ですから、今日ここに集まった皆さん自身の中に誇れるものがあるならば、新しい心、新しい意識を持って立ち上がらなければならないのです。そうしなければならない時が来ています。今日、私たちは自分に必要なすべての要素を持たないために、生涯の道を歩む中で平安と安逸の生活を送ることができず、永遠の創造理念に向き合うことができる神の愛を体得して自分の生涯を歌いながら生きることができないということを、皆さんはこれまでの人生を通じてよく感じているでしょう。
 したがって、天地万物の前で自分を誇ることができるものを何も持っていないことを嘆く時が来たことは、皆さんも否定できないでしょう。だからこそ、この事実が天の悲しみであり、人間の悲しみであり、万物の悲しみであることをパウロは明確に訴えていたのです。皆さんはこの悲しみを解消する責任が与えられており、この責任を負って生きることが、復帰の運命の中で生きている皆さんの歩むべき人生の道であることを忘れてはなりません。
 したがって、今、自らを奮い立たせなければならない立場にいる自分自身を嘆く心があるならば、皆さんを取り巻く歴史を憂慮しなければなりません。また、皆さんの現実生活に関連する時代を憂慮し、この時間以降の未来を憂慮しなければなりません。
 しかし、憂慮すべきことを考えずにさまよう人がいるなら、それ以上に哀れな人はいないでしょう。堕落によって天地の前に残された嘆きの条件を解消すべき使命を負った人間たちが、自分の位置を認識せずに天地万物の前に恥ずかしい姿で現れるとき、それを見なければならない神の心情はいかばかりでしょうか。ここで、皆さんは神にさらなる嘆きを与える恥ずかしい姿であることを悟らなければなりません。
 では、このような相反する環境を乗り越え、天地の嘆きを代わりに引き受けることができるその一人の忠臣の姿はどこにあるのでしょうか。人類に希望があるとすれば、そのような忠臣になることです。
 では、私たちがそのような忠臣になるためにはどうすればよいのでしょうか。今日、私たちに必要なのは、神と真の人間と真の万物を代表してこれらを一つに統合し、神の前で愛を語り合うことができる存在になることです。
 これまで私たち人間が摂理の歴史を経て、神に様々な祈りを捧げ、御心を受け入れてきましたが、神の心の奥深くにある恨みの心情を解消し、愛を語り合う場に至った人はまだ一人もいないことを皆さんは知るべきです。イエスがこの地に来たにもかかわらず、人間が彼を通じて実際に神と愛の関係を築けなかったため、彼は再び来なければならないのです。
 イエス・キリストが4000年の復帰の歴史を完成させる使命を持って来られましたが、「人間が神の愛と因縁を結ぶことができたか?」と問われたとき、誰も「そうだ」と答える立場に立てていないのです。このような私たちであるため、哀れであればこれ以上哀れなことはなく、嘆くことがあればこれ以上嘆くことはありません。
 では、今日、皆さんは自分自身を誇る何かを持っていますか?知識を持っていますか?皆さんが持っている知識は天地万物の原理原則に比べれば極めて微々たるものです。今日の20世紀文明がどれほど発達していようとも、絶対的な原理原則を確立することができない範囲に留まっているのです。したがって、私たちに誇るべきものがあるとしても、それを再分析しなければならない新しい時代が近づいていることを感じなければなりません。
 そこで、天が歴史的な運命を見据え、時代的な運命を見据え、未来的な運命を憂慮しながら私たちを見つけてくださったのです。こうした天の前で自分を立て、自分を誇ろうとするならば、まず天を所有することができる人間にならなければなりません。真の人間にならなければなりません。また、真の万物を対することができる人間にならなければなりません。これが重大な問題です。
 そして、皆さんは神が天地万物を創造し、アダムとエバにそれらを管理するように言われた、その管理の資格を持って「父が望まれたもの、父が祝福してくださったものはこれであると知っているので、私にあなたの天的な愛の縁を結ばせてください」と言えるその一つの姿が、今まで摂理してこられた神の最高の目的であり、摂理の意味を立て、今まで苦労してこられたイエス・キリストの最高の基準であることを確実に知るべきです。
 しかし、なぜ人間は現在のような状況に至ったのか?それは人間の堕落によるものです。今日の人間は堕落した人間の子孫であるため、堕落した姿と形を脱ぎ捨てて生活している人は一人もいません。個人の堕落した生活が集まって世界的な堕落性を形成していますが、これを贖い取り除くためには、世界的な堕落性を打ち破ることができる一つの原則が出なければなりません。
 堕落とは反対の方向に人間を導くことができる原則が出る前に、人間がどのような善の理念、どのような真理を主張しても、それは私たち人間の希望や根本的な喜びと関係を持つことはできないということを皆さんは銘記すべきです。
 では、堕落の歴史の枷から逃れられない堕落した子孫である私たちが追求しなければならないものは何でしょうか?それは、天地の理念を代替することができる人格と、万物を管理することができる価値を持った真の人間になることです。また、私たちが神の愛を待ち望むならば、忘れてはならないことがあります。それは私たちが堕落の血統を受け継いだ種族であるという事実です。
 そして、皆さんが自分の心の中に堕落の性質が潜んでいることを感じるなら、今まで考えもしなかった新しい何かが現れていることを知るでしょう。今や皆さんは被造物として、あるいは全宇宙を代表する人格者として、神の前に出て『私は堕落した種族です』と訴えなければなりません。このような祈りの一時間がなければ、皆さんはまだ天の前に残されている嘆きの領域から抜け出すことはできません。
 では、アダムとエバの堕落は何を意味するのでしょうか?それは神を捨てたことであり、本来の理想的な人間性を失ったことであり、善主権の環境を失ったことを意味します。つまり、神を失い、真の人を失い、真の物質を失ったのです。その次に、神の言葉を失い、神の愛を失いました。これが堕落だったのです。しかし、人間はこの結果を超えることができていません。
 今、私たちはこれらを反対の方向から整理し、開拓するための戦いをしなければなりません。皆さんがこのような戦士にならなければ、歴史的な罪悪権と天の摂理に反対してきたサタン権から脱出することはできないことを知っておくべきです。
 人間は堕落によって神の懐から離れ、本来の真の人間性から離れ、真の宇宙権から離れました。これを再び回復するための歴史が神の再創造の歴史であり、今まで努力してこられた神の摂理なのです。
 第1のアダムが堕落したことで恨みが生じましたが、第2のアダム、すなわち復帰されたアダムとして来られたイエスはどのようなことをしなければならなかったのでしょうか?まず、イエス自身の心に神が宿るようにし、自身の体に真の人間の意志を持ち、真の主人となることでした。イエスはこのような実体として来られ、天的な愛を証し、人間的な愛を証し、万物の情までをも証し、すべてを一つに統合する一つの主体としてこの地に来られました。
 だからこそ、イエスはこの地に来て心の天国を主張しました。そして神が自分の心の中にいると言い、神と一体となった自分を主張しました。また、全宇宙が自分の支配を受け入れるべきだと言いました。そして、全人類に対しては愛の標語を掲げて「私は神の子であり、あなたたちは私の友であり、兄弟である」と言いました。皆さんはこの言葉にメシアとしてのイエスの価値が込められていることを知るべきです。
 イエスには自分自身を中心に家庭を動かし、社会を動かし、民族、国家、世界、さらに天地宇宙までも動かさなければならない使命がありましたが、イスラエルの民が反逆し、教会が反逆し、選ばれた洗礼者ヨハネが反逆し、家庭が反逆しました。
 そのため、イエスは自ら使徒たちを立て、彼らを土台にして世界的な第二イスラエルを形成し、世界的なカナン復帰の理念を実現しようとしました。この事実は原理を通してよく知られていることでしょう。当時、イエスは十二部族で形成されたイスラエルの民が反対したため、十二部族の形が崩れ、モーセが築いた土台を失い、ヤコブが築いた十二兄弟を中心とする土台も失い、十二弟子だけを連れて歩かざるを得なかったのです。
 第二イスラエルの創設者として先頭に立たなければならなかったイエスでしたが、ヤコブの十二人の息子のような十二使徒が崩れてしまい、再び遡ってノアの家庭の形を取らなければならず、ノアの三人の息子に相当する三人の弟子を連れてゲッセマネの園を彷徨うことになりました。しかし、この三人の弟子さえもイエスと一つになれなかったため、イエスは堕落当時のアダムの立場に陥ってしまいました。これがイエスの置かれた状況であったことを知っておくべきです。今日のキリスト教徒はこれをよく知りません。また、イエスが無知な人類のために祈ったことや、イエスの悲しい心情を知らないのです。
 世界を主宰する主として全世界の人類に神の心情を紹介しなければならないイエス、万物を主宰しなければならないイエスが、洗礼者ヨハネから拒絶され、自分の家庭からも拒絶されました。
 その結果、イエスは世界的な土台を失い、民族的な土台も失うという哀れな姿になったのです。こうしてイエスは堕落したエバのために花嫁を失ったアダムのような立場に置かれました。
 堕落していない真の父母を失った人類の前に真の父母として来られたイエスは家庭を失い、子として立てた三人の弟子まで失ったため、イエスはエバを失ったアダムの立場に置かれました。そのため、イエスはこの地に「新郎新婦」という名を残されることになったのです。このような悲しい事情に置かれていたイエスであったことを知っておくべきです。
 また、イエスは世界を統合することができる言葉と、イスラエル十二部族に代わる世界的な第二イスラエルであるキリスト教信者を統合することができる言葉と、天倫の前に立つことができる個人的な法や社会倫理、家庭の制度に関する言葉を全て伝えることができずに去ってしまいました。これがイエスの最も大きな悲しみでした。
 しかし、今日の人間はこれらの歴史的な事実を知りません。さらに、神を信じるというキリスト教徒でさえも知りません。こうした人間たちを見ておられる神が、どうして嘆かずにいられましょうか?イエスの時代にユダヤの民を第二のイスラエルとして祝福し、第二のカナンを建設しようとした神の計画が破れたため、神の悲しみはさらに増したのです。
 では、イエスがこの地上に再び来られるなら、どこに、誰のもとに来られるのでしょうか?イエスは堕落した人間世界に直接来られることはできません。復帰の道を経て来られなければならないイエスは、ノアの家庭とアダムの家庭の段階を超えて来られなければなりません。このようなイエスの事情を背負い、世界まで進まなければならない歴史的な運命の過程が、今日の信仰者たちの背後にあるのです。しかし、今日の信仰者たちはこれを知りません。これを知らなければ、イエスを熱心に信じていても、彼を迎えることはできないのです。
 再臨の主は世界の主人公として来られます。しかし、再臨の主にはまず、天を中心とした家庭が必要であり、民族が必要であり、国家が必要です。そうしてこそ世界の主人公になれるのです。これが原則です。
 今日、キリスト教が世界を復帰しようとする主の理念に代わろうとするならば、まず、世界的な基盤となるイエスを中心とした天の家庭があるかどうかを考えなければなりません。イエスを中心とした天の民族、天の教団を備え、民族的な観念を超越する基盤を築き、世界的な基盤を成し遂げなければ、イエスがこの地に再び来ても、誰が悲しみのイエスにはならないと言えるでしょうか?歴史的な事実がこれを証明していることを忘れてはなりません。
 天地の運勢は皆さん自身を通過しています。皆さんが知っていようが知っていまいが、民族が知っていようが知っていまいが、国が滅ぼうが栄えようが、あらゆる困難の道が皆さんを通り過ぎていきます。
 イエス以降2000年の歴史の過程を摂理された神の御心は何だったのでしょうか。イエスを通して全体の天的理念を代行できる中心を立て、この地上に真の愛を実現することが神の御心でした。しかし、イエスが十字架にかけられたことによってその御心が成し遂げられなかったため、その御心を完結させる使命がこの地の人間に残されているのです。
 では、今、皆さんはどうすべきでしょうか。イエスを失ったために、天に属する真の人間、真の万物を所有できる真の指導者を再び送ってくださるよう、天に訴えなければなりません。
 第二のアダムとして来られたイエスを殺したために、人間は再び神の心に隠されている御言葉を持って来られる主、天国の人格を代表し天国を建設しようと来られる主、万物を主宰する資格を持って来られる主が必要なのです。これが人類の希望なのです。
 今、私たちは私たち人間を立てて摂理される神の前で面目を保つことを知っておかなければなりません。そうでなければ、イエスがこの地に再び来られても、私たちは彼に会うことができません。そして皆さんは、イエスがこの地に来られたとき、彼を支えなければならない人間がイエスを死なせたために、第二の堕落の立場に陥り、再び神を捨て、天国を捨て、真の愛を捨て、万宇宙を捨てたことを心に留めて、常に主を信じ支えなければなりません。
 では、今日の信徒たちは何をすべきでしょうか。最も重要なのは、イエスの愛を通して天国を建設することです。では、天国はどこから始まるのでしょうか。それはイエスの愛と人格を知り、イエスが主宰できる万物の主宰権を知ることから始まります。イエスの愛と人格、万物の主宰権を知らない人は神を見つけることができません。
 私たちがイエス以後の2000年の歴史を振り返ると、多くのキリスト教信徒が神を再び見つけるための運動をしてきたことがわかります。その結果、激しく迫害していたローマがキリスト教を公認するに至り、ついにはローマに教皇庁を設立し、教皇権を中心とした政治が行われ、封建社会が形成されました。
 しかし、中世に入ると再び教皇庁が腐敗し、人本主義思想がキリスト教に入り込むことで、中世以降のキリスト教徒は神を失うことになりました。つまり、多くの人々が人本主義思想に流れてしまったのです。こうして啓蒙思想を経て、最終的には唯物史観が現れました。
 これは人間の理性を重視する合理主義と経験主義哲学思想に基づいています。したがって、世界は現在、唯物史観と資本主義思想により物質の価値を重視する物質万能主義が横行する世界に堕落してしまったのです。
 イエスは天の御心を代行し、全体の摂理を統合する使命を担い、第二のアダムとしてこの地に来られましたが、私たちの先祖たちがイエスを拒絶したため、罪悪の歴史の道を逃れることができませんでした。これにより、神を見つけることも、真の人間を見つけることも、真の物質を見つけることもできなかったのです。そのため、どれほど真の人を探そうとしても、見つける方法がない状況に陥ってしまったのです。
 では、中世の封建社会形態を誰が崩壊させたのでしょうか?天が崩壊させたのです。神はローマ教皇庁を中心に御心を成し遂げようとされましたが、その教皇庁が腐敗していったため、神はそれを打ち砕かれました。天を信じる人々がむしろ天倫の御心を裏切ったので、人本主義思想を立てて彼らを打つことになったのです。
 そのような中でも、神は摂理の基点を失わないために天を憂う一人の人物、ルターを中心に宗教改革を起こされました。このようにして、神は一方で打ち砕き、一方で立てる摂理を進めてこられたのです。そして、キリスト教を通じて第二のイスラエルの形を経て文芸復興を経た後、大混乱を経験させ、人本主義的な理性哲学を中心とする啓蒙思想に対抗する摂理を進めてこられたのです。
 啓蒙主義者のヴォルテールやルソー、モンテスキューのような人々は、キリスト教が滅びると思いました。しかし、ドイツでは清廉な人物たちが現れ、神の実際的な内的体験を主張しながら神秘性を高めました。それがイギリスを経てジョン・ウェスレー兄弟の復興運動を引き起こしました。さらに、クエーカー派を起こし、神秘的な内的体験をさせることになりました。
 一方、人間は神を愛することを忘れ、人を愛する理性も忘れ、物質を愛することしか知らない唯物論的な主義にまで到達しました。堕落した人間であっても必ず本来の立場に戻らなければならないため、いずれにせよ物質中心の思想を打ち砕く時が来るのです。
 今日では、神を中心とした中世も過ぎ去り、理性哲学を中心に支配された時代も終わり、18世紀に成立した唯物論的な思想も輝きを失いつつあります。これからの世界は、人が物質を愛しても満足を得られず、過去の歴史的な人物の教えに従っても現実の問題を解決できない、そんな悲惨な世界です。したがって、物質的な生産力を通じて社会の繁栄を目指す共産主義の理念では、到底世界を支配することはできません。
 そのため、21世紀を迎えるにあたって、私たちの前には原子力時代を迎え、物質文明の世界的な支配を破壊する時代がやってくるのです。その次にはどのような時代が来るのでしょうか?愛を探し求め、楽しむ時代がやってきます。互いに尽くし合う時代が私たちの前に訪れるのです。
 したがって、皆さんは来るべき愛の時代に宇宙万物の前で堂々と胸を張って進むために、歴史的なすべての価値を総合し、統合できる中心的な存在としての使命を果たす賢明な人々でなければなりません。
 そして、皆さんは堕落したアダムとエバの道を辿らなければならない立場にあるため、一人一人が第二のアダムの時代的使命を継承しなければなりませんが、そのような資格を持っていないことを知るべきです。さらに、今日の歴史は人間の堕落によって失われた神、真の人間、真の物質を取り戻すための歴史であることを理解しなければなりません。
 では、アダムの堕落はどのようにして起こったのでしょうか?神が許されていない、不義の愛の誘惑に引き込まれて天倫を破壊したことに始まるのです。私たちが生きる中で、エデンの園で起こった天使長的な形態が多く現れています。正しい道でないものが正しい道として振る舞う時代を経ているため、愛の混乱時代を免れることはできません。
 神の摂理は反対の経路を辿って逆に進んできています。6000年の歴史を今日の私たちが振り返ると、旧約時代は物質を求める時代、つまり物質を犠牲にして神の前に出ることができる時代であり、新約時代は真のアダム格であるイエスを犠牲に捧げる時代であったことが分かります。
 そして、これからの成約時代は、すべての人間が神の前に実体の犠牲となり、全ての万物を統合する基準を越え、愛を支配する時代になるでしょう。
 しかし、世界の外面的な側面を打ち壊し、内面的な側面を探して築く形で神の摂理が現れることを、今日のキリスト教信者は知りません。言い換えれば、歴史の外面的な側面を打ち、内面的な側面を取り込むという神の内的摂理の内容を知らないのです。
 では、神が6000年間摂理してこられたのは何を探すためでしょうか?それは神と人間と結ばれた永遠の約束の言葉を見つけるためです。その言葉は、真の父子関係を結んで一つになるということです。
 皆さんは原理を通して人間の堕落が不法な不倫の関係が原因であったことを知っているでしょう。ですから、終末にある皆さんは注意しなければなりません。どの男性も少しの過ちで二人の女性を相手にする立場に立ってしまい、女性はこれに巻き込まれやすいということです。
 では、これをどのように整理し、防ぐことができるでしょうか。このハンドルをどのように動かすかが問題です。
 無限動力を中心とした物質文明の時代が到来しています。初めに人間には生食時代がありました。その後、火食時代を経て、次には水食時代、つまり水の栄養を摂る時代が来るのです。これからは科学的な食糧で私たちの健康を十分に維持できる時代が訪れるでしょう。私たち人間の努力が必要な時代は過ぎ去ろうとしています。
 そのとき、私たちは何をするのでしょうか?そのときに残るのは芸術文化であり、私たちは美と愛の道を探し求めるでしょう。それは良いことです。しかし、人類が天理法道を逸脱してその道を探し求めるならば、結局どこへ行き着くのでしょうか?どうなるのでしょうか?これは今日、宗教を尊重する人々が心配しなければならないことです。
 現代の文明は、世界の真実を知らずにさまよっているため、宗教を必要としない段階にまで来ています。ですから、今日の宗教は人々が進まなければならない道を人類に示す使命を負っているのです。2000年の歴史を振り返ると、数多くの革命がありました。人類はその革命の過程を経て、一つの統一世界を目指してきたことを知るべきです。
 人間に知・情・意があることを考えると、人間を創り、天地万物の主導的主人公である創造主は、さらに高次の原理法道を通すことができる知・情・意の主体であることがわかります。そして歴史を見てみると、個人から家庭、家庭から種族、種族から民族、国家、世界へと拡大してきました。また、そのような外的な形を経て、内的な思想や観念を優先する時代に入ってきています。
 人間個体においても、外面的な側面を経て内面的な精神面に向かっています。精神が主導的であるため、この精神を統一することで一つの価値を見出し、そうなれば統一的な目的に向かって正しい道を歩むことができるのです。
 世界も同様です。世界にも世界認識があるため、一つの帰一(きいつ)点である精神統一のために世界を一つに結びつける世界構造が現れるのです。これが今日、民主主義と共産主義が対立して戦っている姿です。この時、霊界と宇宙を創造された神が宇宙の統一理念を実現しようとされるため、霊界の理念と地上の理念が衝突することを理解しなければなりません。
 地上でも、これまで優勢な民族と劣勢な民族が戦いの歴史を経て一つの世界観を中心に一つの世界に向かっています。やがて霊界のすべての霊が地上に再臨する時が訪れます。そうなると、地上では大きな混乱とあらゆる対立や戦いが起こるでしょう。その時、皆さんはこれらが天の望む方向に収束するように主導的な役割を果たさなければなりません。そのためには、神の心情と天倫の理念を代行できる資格者でなければなりません。これが神が歴史の終局に望まれる希望ですが、今日のキリスト教ではその希望を果たすことはできません。
 これまでの歴史の過程で多くの革命がありましたが、人間の情的な問題を革命したことはありません。社会や国家のすべての構成体系は時代を経る中で革命の要素が芽生えた時、それを排除できず、むしろそれによって革命されて崩壊してきました。
 しかし、人間の親子間の情、夫婦間の情、兄弟間の情だけはまだ革命を受けたことがありません。いかなる倫理や道徳、どんな哲学や理念も革命の過程を経てきましたが、情的な愛の問題については革命を起こせなかったのです。
 では、今日の皆さんはその情的な問題を持って天の前に立てる真の親となったでしょうか?真の夫婦となったでしょうか?真の子供を持っているでしょうか?そうでなければ天倫にかかることになります。
 だからこそ、イエスはこの地上に神の愛を持ってきて、その愛を紹介し、自分を神の子であると言いました。イエスが神と結んだその愛の縁は、今日まで誰も破ることができませんでした。地上にサタンの勢力がどれほど強くても、それを破ることはできなかったのです。また、イエスが「あなたたちは私の花嫁であり、私の兄弟である」と言ったことも破ることができなかったのです。
 このような基盤があったため、キリスト教は歴史の過程を通して発展してきました。こうしてキリスト教は天国の中枢となり、一つの人格を通じて天を代行できる家庭形態を築くために、歴史の過程を通じて発展してきたのです。
 いくら強大な権力を持ち、博士の地位を持っていても、天との情的な縁を持たない人は哀れです。ですから、この原則を知っている人々はイエスに感謝するのです。もしイエスがそれを主張しなかったならば、人間世界はどうなっていたでしょうか。暗黒の世界に変わっていたでしょう。不信と闘争、反目と不和の世界に変わっていたでしょう。
 したがって、この地上に神の愛を中心として人間の情的な分野が一つになり、新しい実証的な愛の世界が築かれてこそ、平和の時代が到来するのです。ですから、宇宙の終末時代にある皆さんは、理性的な問題において自分を中心にしてはいけません。そして、自己よりも家庭を愛し、家庭よりも民族・国家・世界を愛し、世界よりも宇宙を愛する心を持たなければなりません。これまで歴史の過程で見出されたすべての人間的な経綸と天的な経綸がこの終末時代に100パーセント結びつかなければならないのです。したがって、今こそこれまで持っていたすべての情的な問題を捨て、新たに出発できる喜ばしい知らせを待つ時です。
 2000年前、イエスが「誰よりも私を愛せ」と言ったその言葉が、この終末時代に再び現れなければなりません。人間の理性を尊重する時代を経て、物質の時代も経たのですから、今こそ愛の時代が到来するのです。したがって、今は人間の情的な問題、愛の問題を解決できる天の言葉が必要なのです。その時が来たのです。
 これまで人間は歴史の過程を通じてプラスの理念だけを追求してきましたが、それではいけません。天はプラスであり、人間はマイナスのようなものです。ですから、宗教では人間が傲慢であってはいけないと言います。また、自分を愛してはいけないと言います。自分のすべてを否定し、さらに自分の体も打てと言います。これは天がプラスであるため、人間はマイナスでなければ互いに交わることができないからです。
 プラスとプラスは相反します。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神がプラスの立場にあるのに、マイナスの立場に立たず、プラスの立場に立とうとすること、これがサタンなのです。前述したように、道の生活では禁欲主義を叫びます。それは、サタン側、つまり悪に属するプラスの面を打ち、マイナスの立場に転換させるためです。
 身体を打つというのは、身体がマイナスの立場に立つべきなのにプラスの立場に立とうとするため、これを打ってマイナスの立場に戻し、天(プラス)と完全に交わることができるようにするためです。したがって、皆さんも自分の身体を中心としたすべての条件を取り除かなければ、完全なプラスである天の前に完全なマイナスとして立つことはできません。
 全宇宙はそのような存在がこの地に早く現れ、神と永遠の愛を交わすことができる愛の日が来ることを待ち望んでいるということを、皆さんは心に留めておいてください。

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御言葉選集3(21)

2024年05月18日 15時50分03秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 3-21 神の選民である選ばれたイスラエルになろう 1958年2月9日(日)

1958年2月9日(日)、前本部教会。

聖書拝読 : 創世記 32:1-28、使徒行伝 1:6-11


<祈祷>

この時間、この場所に伏しているこの息子娘たちが、自分の心が暗闇にあるのか、自分の体が暗闇にあるのか、自ら調べることができるように許してくださり、自分を中心とする心や疑う心を持たないように導いてください。


ただ私たちを探しに来られたお父様の心情と、私たちの哀れな体を抱こうとする内なるお父様の心を慰めることができる真の息子娘となれるように許してください。


私たちが悲しみを感じるならば、6000年の歴史の悲しみを感じさせてください。私たちが苦しみを受けなければならないならば、6000年の苦しみを代わりにさせてください。お父様! 私たちがこの地上に住む間、あなたを裏切ることがないように許し、私たちの体がサタンの鎖に縛られて悲しみの条件を作ることがないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


今、あなたの息子娘たちが集まりました。そして、ここの主人はあなたです。この時間、彼らの心が勝手な心にならないように許し、彼らの体が勝手な体にならないように許してください。ただ父を頼り、お父様の憐れみの心に満たされ、お父様の愛の懐に抱かれることができるこの時間を許してください、切に願い求めます。


今、朗読された言葉を通してヤコブが私たちの信仰の標準となることを知りました。一つの意志のために生涯を捧げて努力してきたヤコブの信仰心を私たちが見習うことができるようにし、その心情を体感できるように許してください。私たちの足跡、私たちの心がお父様の意志を代行し、お父様の道を守ってお父様に栄光を捧げることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


お父様が命じた言葉に従うことでお父様の力を現すことができるようにし、不足な私たちをお父様の前にさらけ出します。どうか目のような光で見守ってください。足りないところがあっても、お父様、許してください、切に願い求めます。


暗闇の中に捕らえられているこの民族の中には、行く道を知らず、命の道を知らずにさまよう息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らを導いてください。最後に許される恵みを許し、命の言葉を民族の前に証しすることができる私たちを許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


そして、哀れなこの民族を通して世界のすべての人々がお父様の前にひざまずくことができるようにし、サタンをこの地上で頭を下げさせ、サタンに対して勝利した感動と喜びで満たされるように許してください、お父様、切に願い求めます。


ただお父様が主観してくださり、お父様の貴い言葉であらゆる罪悪を清算し、命の道を見つけるこの時間を許してください。そして、心と体を完全にお父様が直接主観してくださるように切に願いながら、主の名によってお祈り致しました。アーメン。


<説教>


皆さんとしばらく考えてみようと思う説教のタイトルは「神の選民である選ばれたイスラエルになろう」です。「神の選民である選ばれたイスラエルになろう」というタイトルでしばらくお話しします。


創世記にはヤコブが厳しい努力の道を歩んだ後にも天を代わって試みを受けた内容が記録されています。


ヤコブはその試みの過程で自分がイサクから祝福を受けた選民であることを心に抱いており、その意志を阻もうとする天使と最後まで戦いました。それで勝利し、神が許された選民の権利に入ったことを私たちは知っています。ヤコブが神の意志を中心にあらゆる逆境と戦って勝利したことから神が許したのがイスラエルという名前です。今日私たちはイスラエルという言葉を多く使っています。


しかし、これは単なる名前に留まるものではありません。この言葉は歴史的な命を代弁する名前であり、天と地を復帰するために、アダムからヤコブまでの2000年の歴史を終結させることができる勝利の名前であることを忘れてはなりません。また、神がヤコブを立ててイスラエルという祝福を与えたとき、神に喜びがあっただけでなく、反対に悲しみもあったという事実を私たちは悟らなければなりません。


ヤコブを苦しめた神の意志


神がヤコブを探し出し数千年の間努力し摂理したのはヤコブの祖先であるアダムが堕落したからです。アダムが堕落したことで神が与えた祝福を失いました。その祝福を取り戻すためには言い難い悲しみがありました。ヤコブにイスラエルという名前を祝福する神にはこのような悲しみの心があったことを知るべきです。


神がイスラエルという祝福の言葉を与えたのは、ヤコブの一代にだけ許された言葉ではなく、創造の理念と理想を代弁する言葉であり、神の全体の心情がこの一言に込められていることを知るべきです。


それゆえにラバンの家で数十年間苦労して疲れ果てたヤコブ、神が許したカナンの地を築くために困難な生涯を歩んだヤコブはイサクの手を上げて祝福した天の意志を実践する中で財産を含む自分が持っているすべてを失いながらエドムの地のエサウを訪ねました。


しかし訪ねた故郷は自分の一代に幸福をもたらす故郷ではなく、喜びの場ではありませんでした。慣れ親しんだ故郷と兄を訪ねながらも心配しなければならない状況に置かれていました。これはヤコブ一人だけが経験した状況ではなく、すべての人類が歩まなければならない道であることを忘れてはなりません。


故郷に向かうその前にはヨルダン川が横たわっておりヤボク川が横たわっていて、許された祝福の地を前にして一晩中眠れず涙を流して祈らなければならなかった状況は、先祖が残した状況であり、天倫の摂理を運営するお父様の状況であったことを、ヤコブは誰よりも痛感していたことを知るべきです。


このような状況はヤコブの一代だけが経験したものではありません。選民イスラエル民族が歩んできた歴史の道のりでも、神の意志に従って現れたすべての先知先烈たちは、すべてこのような心情を抱いてお父様の懐に帰るために暗闇の壁を前にして戦いの峠を越えなければならない状況に置かれていたことを心に留めておくべきです。


ヤコブがハランで家族を築き成功を収めたが、次に越えなければならない峠、すなわちヤボク川での天使との戦いがありました。これをヤコブの子孫たちは知りませんでした。つまりヤコブの子孫たちはエジプトに入って400年間、ファラオの手の中で民族的な試練を経験しなければならなかったのです。
この時、モーセが現れ、イスラエル民族を再び集め、昔ヤコブから約束されたカナンの地を回復しなければならない責任を負いました。


ヤコブの一代で築かれた勝利の基盤と同じような民族的勝利の基盤を、イスラエル民族はエジプトで築かなければなりませんでした。つまり、イスラエル民族はエジプトで疲れ果てた状態で、ヤコブがヤボク川で天使と戦い勝利した基盤を敵の国で築かなければならなかったにもかかわらず、これを築くことができませんでした。言い換えれば、イスラエル民族は団結して民族的な天の試練を通過しなければならない立場にあったことを忘れていたのです。


このような立場にあった民族を再び集めるために、天はモーセを立て、民族を代表してファラオの宮殿で40年間準備させ、ミディアンでの40年間の牧羊生活の道を歩ませたのです。選民イスラエルの祖先であるヤコブがかつてヤボク川で成し遂げたその祝福を、エジプトにいるイスラエル民族が成し遂げていなかったため、これらを再び集めるためにモーセはヤコブのような民族的な道を歩むために荒野に向かうことになりました。


ヤコブがエサウの祝福を代わりに受けてハランの荒野に向かったのと同じように、モーセもイスラエル民族を代表して神から再び祝福を立てなければならない責任を負いました。このようなモーセは同胞が団結せずに争うのを見て憤り、また民族が異邦人の前で不当な扱いを受けるのを見て、その異邦民族に対抗して命を賭けて戦いました。


このようなモーセの後を追ってエジプト民族に対抗して戦わなければならないイスラエル民族が、むしろモーセを追い出す立場に立ちました。これはちょうどヤコブが神の祝福を受けて故郷を離れたのと同じ立場でした。また、ヤコブが祝福を受けるべき家庭を離れ、サタンの家庭に行ったのと同じように、モーセも祝福を受けるべきイスラエル民族をエジプトに残し、ミディアンの荒野生活40年の道を歩むことになりました。このようにモーセが荒野に向かった事実は、モーセ自身にのみ該当する問題ではありませんでした。


ではなぜモーセはこのような道を歩まなければならなかったのでしょうか。それはヤコブが神の心情を代行して築いた勝利の基盤が失われたからです。そしてこの基盤を民族的に再び築かなければならない責任を、誰よりも痛感したのがモーセでした。敵の手で苦役を経験しているイスラエル民族のために、誰よりも切に祈ったモーセ、1日1時間でも苦役の道を歩んでいるイスラエル民族を忘れたことのないモーセの心情を、皆さんは骨身に染みて感じるべきです。


牧羊者として荒野で孤独な生活を送る自分の事情が悲惨であっても、自分の悲惨さを忘れ、エジプトの地で敵に苦しめられながら苦労しているイスラエル民族を見て同情の涙を流したモーセであったことを皆さんは知るべきです。このようなモーセの孤独な事情と心情が天に通じ、モーセが天のために心配し、選民のために代表的な姿で現れたため、神はモーセを再び呼び、ファラオの宮殿に派遣したのです。


これはちょうどヤコブがエサウを恐れて21年間ラバンの家で苦労し、その後すべての財産を持ってエサウのいる場所に向かう道と同じです。このようにモーセもヤコブと同じ困難な道を歩んだことを皆さんは知るべきです。こうして3つの奇跡を示し、言葉を代行するアロンとミリアムを立て、天が命じたファラオの宮殿に向かうことになりました。


しかし、ここで何が起こったのでしょうか。モーセの道は神が後援する立場ではなく、寝ているモーセを殺そうとする事態が発生しました。これもまたヤコブが歩んだ道と同じです。ヤコブがヤボク川で天使と格闘しているとき、腰の骨が折れるのも気づかずに戦ったその事情を通らなければならないモーセの立場だったため、モーセもまた神の前で同じ立場に立たされました。モーセはこの試練を無事に越えた後、選ばれたイスラエル民族に再び会い、神と民族を代行して民族的なイスラエルの祭壇を築くことができたのです。


モーセに対するイスラエル民族の責任
さて、ここで私たちが知っておくべきことは何でしょうか。私たちの祖先であるヤコブとモーセだけがこのような道を歩まなければならず、このような責任を負ったのかと言えば、そうではありません。ヤコブだけがこの責任を果たすのではなく、ヤコブの家族全員もヤコブ以上に切実な心情を持って天の前に訴え、責任を果たさなければならない立場にあったのです。しかし、ヤコブに従っていたその家族はこの事実を知りませんでした。これが天の悲しみだったのです。実際にはヤコブよりも家族がもっと切実に感じるべきでした。


イスラエル民族を探しに出たモーセ、神がミディアンの荒野で天地は変わってもあなたの約束は変わらないと仰せられた言葉を信じて進んだモーセは、固い覚悟と決意を持ってイスラエル民族の前に再び現れました。このような立場にあったモーセには神の試練だけでなく、ヤコブがエサウから受けた反対と同じファラオの宮殿の反対がありました。皆さんが原理を学んでよく知っているように、ヤコブが十回騙されたことを蕩減する10の災いをエジプトに下してファラオを屈服させることで、イスラエル民族は二度目の民族的な祭壇を築いたのです。


では、神に悲しみがあったとしたら、それは何だったのでしょうか。それは敵による悲しみではありません。また、神に悲しみがあったとしたら、それは敵が悪かったからではなく、神の苦労の道を追っていたイスラエル民族の祭壇が崩れたことが神の悲しみであり、人類の悲しみであることを知るべきです。
60万の民を率いてカナンの地に入らなければならなかったモーセには、また別の試練が立ちはだかっていました。それが紅海の道と荒野の道です。これは何を意味するのでしょうか。それは、モーセが個人的に歩んでいた試練の荒野の道を、民族としても経験しなければならないことを意味します。このような運命にイスラエル民族を追いやったことを皆さんは知るべきです。


荒野でイスラエル民族はモーセが手を挙げれば自分たちも手を挙げ、モーセが座れば自分たちも座り、モーセが行けば自分たちも行かなければなりませんでした。つまり、60万の民が全員第2のモーセとなって、モーセと神を代行しなければならなかったのですが、彼らはそれを忘れていたのです。言い換えれば、神がファラオの宮殿から彼らを引き出したときには感謝し、自分たちを愛する神だと認識し、固い約束が残っているのでカナンの地まで導いてくれると思っていたイスラエル民族だったのです。


では、なぜこの民族は荒野で倒れてしまったのでしょうか。それは、40年間の荒野での放浪生活と牧羊者の生活を送りながらも、神が愛する選民のために節操心を持って戦い続けていたモーセの心を持たなかったからです。イスラエル民族がその心を少しでも持っていたならば、荒野で倒れることはなかったでしょう。


民族を代表して民族的なイスラエルの祝福を築こうとする神の願いは、民族を代表するモーセとその民族が一つになることでした。しかし、二つに分かれたために民族を代表するモーセも崩れ、民族を導くモーセが崩れるとイスラエル民族も崩れたのです。これを皆さんは知るべきです。
それでは、荒野に出て空腹を覚えたときにうずらを与え、マナを降らせて食べさせた神が、なぜアマレク族を通してイスラエル民族を攻撃することを許されたのでしょうか?これは、人間が天倫の意志に反逆したために、人間が天倫の意志を追い求めようとするときに、神も反対の立場から試練を与える摂理的な条件が残っているため、アマレク族を通してイスラエル民族を攻撃せざるを得なかったのです。このような天の切ない心情があったことを皆さんは理解しなければなりません。


この試練に通過できなかったために、死ぬはずのなかったモーセが死に、死ぬはずのなかった民族も滅んでしまったことを知っておくべきです。このとき、モーセには民族の指導者としての責任があったため、モーセ自身の過ちはなかったものの、不信の民族を代表してシナイ山に上り、食べ物もなく、衣服も着ずに倒れそうになるイスラエルを見つけるために、40日間の贖罪の祭壇を築きました。


もしイスラエル民族に選民の資格があったならば、モーセがシナイ山に上り、切に祈っているときに、その山を囲んで60万人が眠らず、食べずに天に向かって「神よ、私たちの指導者モーセを下してくださいますように」と祈ったはずです。しかし、そのような人は一人もいませんでした。


モーセが飢え、祈らなければならなかったのは自分自身のためではなく、民族のためだったのに、民族はそれを夢にも思わなかったため、滅びるしかなかったのです。モーセはヤコブがヤボク川で祈ったのと同じような難しい局面に立たされましたが、モーセに代わってイスラエルの60万人を導く人がいなかったのです。もしそのような人が一人でも現れ、民族を導いていたならば、彼らは困難な立場に置かれることなく、安らかな場所にいたでしょう。しかしそうならなかったため、サタンが民族を弄ぶことになったのです。このような歴史の道を私たちの祖先が歩んできたのです。


試練と試練の意味
このようにして再びモーセに代わる指導者としてヨシュアとカレブを立て、2世たちを引き連れてカナンの地に入ることになりました。イスラエル民族はカナンの地に入ってからは聖殿の理念を実現し、聖殿と一体となるべきでした。しかし、この立場に立つことができなかったために、イスラエル民族は倒れてしまいました。このように、言葉を中心に一つになれない民族は、時が来る前に必ず神から見放されるのです。


アダムとエバが全被造物の主人公になることができなかったのですが、この被造物は言葉を中心に6期間を経て作られたため、万物復帰の民族的な峠を越え、世界的な峠を越えるときには、必ず6数の過程を経て神の言葉を立てるか立てないかの試験、つまり天使長がアダムを攻撃するということが起こるのです。


そのため、イエスが来る6世紀前にイスラエル民族は旧約の言葉を守るか守らないかの試験を受けました。つまり、天がイスラエル民族に使命を世界に広めるべき時が来たときに、民族が試練を受けるのです。これがイスラエル民族がバビロンに捕らえられた期間なのです。過去に神を裏切ったこの民族が再び言葉を裏切るか、裏切らないかの重要な岐路に立たされました。


天を裏切った民族だったため、天に代わってこの民族が新しい6数の出発点を越えるときには、サタンの攻撃と打撃を許さざるを得なかったのです。そこでバビロンにイスラエル民族を占領させる時があったのです。


そのとき、イスラエル民族はどうするべきだったのでしょうか?神が与えた言葉を握りしめ、モーセが荒野をさまよいながらも神を敬い民族を愛したその心情を持ち、敵国であるバビロンに行き、最後まで戦ってこの言葉を守らなければなりませんでした。そのような民族でなければならなかったのに、そうならなかったため、イスラエル民族は崩れ去ったのです。


旧約聖書を中心に二度目の民族的な言葉の基準を復帰しなければならなかった歴史的な道のりに立ったイスラエル民族が、神の選民としての節操を持っていたならば、たとえバビロンに捕らえられたとしても、モーセのような新しい指導者が現れ、彼らを導いたことでしょう。


しかし、6世紀が過ぎた後にどのような形が現れたでしょうか?使命があってヤコブがエサウの直系を無視し、モーセが選んだイスラエル民族を無視したのと同じように、イエスが地上に来られて使命があってエサウの立場にいたイスラエル民族がエサウ的な言葉である旧約を無視して進み出たとき、歓迎されるべきエサウの立場にいたイスラエル民族がイエスを歓迎しなかったため、世界的な死の権を形成したのです。


それでは、このイスラエル民族はどのような形でしょうか?エデンの園でアダムとエバを試した天使長の形に似ているのです。そして、今から500年前には新約聖書を攻撃することがありました。つまり、人本主義思想を中心とした文芸復興によって、今日のキリスト教を中心とした封建社会が根本的に崩壊したのです。


教皇庁の主権が崩れ、フランスの攻撃によってアヴィニョンの捕囚期間を経る運命にありましたが、これは何を意味するのでしょうか?復帰の道においてこのようなイスラエル民族を代わる第二イスラエル民族がイエスの時代に形成されるべきでしたが、第二イスラエル民族を代わる新しい使命を担ったキリスト教が使命を果たさなかったため、キリスト教を世界的に攻撃することになったのです。これを皆さんは原理を通してよく知っています。


そこで教皇は天の前に悔い改めるべきであり、神が立てた節操を持つべきであり、最後までこの意志を継承して今日に至るべきでした。それでは最後の時にどうするべきでしょうか?そのときに残された既成の言葉と既成の教団はエサウの立場にあり、イスラエル民族の立場に立っていることを彼らは知るべきです。


キリスト教信者に対する神の願い
それゆえに、神に願いがあるとしたら、その願いは何でしょうか?堕落によって失われたこの世界の人類を代わって見つけられた選民イスラエルを復帰することが神の願いであることを皆さんは知るべきです。イスラエル民族を復帰しようとする天の摂理の意志を皆さんが理解すべきです。
ヤコブを通して、モーセを通して築かれたイスラエル民族は、2000年前にどこへ行ったのでしょうか?彼らはイエスの前に敵となりました。イスラエル民族とユダヤ国家を世界復帰の足場として立て、この足場を中心に世界的なカナン復帰の電撃戦を展開しなければならなかったイエス・キリストの道のりでしたが、イエスが亡くなられたことで、イエス様はモーセと同じ状況に置かれました。それで今日までキリスト教は荒野時代にあるのです。主人を失ったイスラエル民族と同じく、荒野の道に留まっていることを皆さんは知るべきです。


それでは、イエス様はこの地に来られて選ばれた第2イスラエルを回復し、ユダヤ民族はイエスを中心に世界的なカナンの地を復帰しなければならなかったのですが、この責任を負ってイエスの前に立った選ばれたイスラエル民族はどこに行ったのでしょうか?また、ユダヤ教はどこに行ったのでしょうか?イスラエル民族が消え、ユダヤ教団が消え、イスラエルの家庭が消え、ヤコブやモーセのような個人的なイスラエルも消えたため、哀れなイエスが死んでいったのです。


イエスは死にたくて死んだのではありません。今日の既成の神学者たちは、イエスが死ななければならなかったと誤解しています。民族と教団の前に追い詰められ、家庭から追い出され、12弟子に裏切られ、最後には3弟子にまで裏切られ、行く先は死ぬ場所しかなかったのです。


イエスが30余年の生涯を哀れに過ごすことが、神がイエスを送った目的ではありませんでした。イエス様は天の皇太子であり、一人で創造の理念を代行できる天下の主人公として送られたのです。神が愛する独り子イエスが地上に来て苦難を受けたのは、イエスが間違ったからではありません。民族と教団が理解せず、社会と家庭が理解せず、イエスは苦難の道を歩んだのです。
このようにイエスを殺した歴史的な罪を犯した我々にとって、イエスが探し求めたイスラエルはどこにあるのでしょうか。心から訴えなければなりません。また、イエスが探し求めたイスラエルの教団はどこにあるのでしょうか。心から祈らなければなりません。イエス様が2000年前にこの地に来られてイスラエル民族と教団を探されたことを、皆さんは知るべきです。


イエスはこの地に来られ、選ばれた第一イスラエルが反対したために亡くなられました。そのため、イエスを信じるキリスト教徒たちを失った第一イスラエルに代わる第二イスラエルとして立て、世界に広め、再び再編成しておられるのです。今がまさにその時です。


そこで今日、世界中に広がってイエスを信じるキリスト教信者にはどのような使命があるのでしょうか。イエスを裏切って十字架にかけることで、最初に選ばれて立てられたイスラエルを失ったので、これに代わる第二イスラエルを建設しなければならない道が、今日のキリスト教信者に残されているのです。


今日、世界中に広がっているキリスト教信者は、どのような立場にあるのでしょうか。それは、イエスの12使徒のような人物を中心に、またはイエスの3弟子のような人物を中心にして一つの教派として団結しなければならない時なのです。しかし、そのような組織を失っているキリスト教は危機に瀕しています。モーセの前にいた60万人の民は、12部族の長と70人の長老を中心とした組織の中でそれぞれの位置が定められていたため、荒野の道を進むことができました。しかし、今日の第二イスラエルとしての使命を負った世界のキリスト教徒たちには、そのような組織がありません。


イエスの前に12使徒と3弟子が責任を果たさなかったため、イエスが亡くなったのです。したがって、世界中のキリスト教は、世界を代表する教派を中心に12教派の形を整えて結束しなければならない時期が迫っていることを知るべきです。


イエスは今、何をしているのでしょうか。イエス様は天の意志をこの地で成し遂げられなかったため、ヤコブやモーセが牧羊生活をしていたのと同じように、今もイエスはあの世で牧羊生活をしています。霊界に行って休むことなく、皆さんのために祈っているのです。これが牧羊生活です。


それと同時に何をしているのでしょうか。イエス様は今までの2000年の歴史の中でイエスを信じて進んできた人々、すなわちイスラエルとなるべき人々を集め、霊界で失われた第二イスラエルの形を作り上げたのが楽園です。イエスを殺そうとした第一イスラエルを失ったため、蕩減復帰の原則によってイエスの前に現れた聖徒たちを集め、イエスが復活した後に霊的に第一イスラエルを復帰した形が今日の楽園の世界です。


地上天国の主人公の資格
楽園の世界はどのようになっているのでしょうか。楽園の世界に行った霊人たちも、第一イスラエルの祝福を受けてイエスを迎える足場を地上に築かなければならない条件が残されているため、天上にいるすべての霊人たちは地上に再臨し、現在生きているクリスチャンを第二イスラエルの祝福を代行できる立場に立たせ、彼らと一体となって第一イスラエルがイエスを反対したことを蕩減復帰するために活動しなければならない運命にあるのです。これを皆さんは知るべきです。しかし、今日のキリスト教徒はこれを知りません。


今日の終わりの日はどのような時でしょうか。旧約の言葉を信じていたユダヤ民族が異邦人に攻撃されたのと同じように、新約の言葉を信じているキリスト教徒が攻撃される時があるのです。それで、人本主義思想を中心とした唯物論がキリスト教を攻撃しているのです。このように新約の言葉を信じるキリスト教が攻撃されている中で、言葉を守って進むことができる一つの教派が現れなければなりません。その教派は改革派でなければなりません。


モーセの時代において、幕屋を奉じていた時代が過ぎ、神殿を奉じる時代が来たときに、民族が結束して戦わなければならない試練が残されていたことをユダヤ民族は知りませんでした。そして、神殿を奉じていた時代から実体神殿を完成させる時代に移行するときにも、宇宙的な戦いが必要です。この戦いを防げなかったため、今日のこの戦いが世界的に広がったのです。


終わりの日においても同じように、皆さんは実体神殿を整えなければなりません。そして実体神殿を成した後には何をするべきでしょうか。地上天国を建設しなければなりません。


人間は堕落によって言葉を失いました。それで旧約・新約の言葉が出てきて人間を善の方向に導き、今や新しい言葉が出てきて、その言葉と一体となった人々を実体的に復帰させるのです。封建主義時代は神だけを中心とする時代でした。しかし、宗教改革が起こり、その宗教改革によって神だけを中心とするのではなく、人間と結びつくことのできる神として考えるようになりました。人間たちはこのような過程を経てきましたが、今や実体神殿を復帰する時代に入ったのです。
それではここで、皆さんはどうすべきでしょうか。新約を中心とするこの時代において、将来世界的な聖約の理念が現れるとき、皆さんが世界を抱くことのできる主人公となり、イエスに代わる存在となる必要があります。地上天国の主人公になるためには、実体神殿を成した後、環境的な主人公にならなければなりません。このような存在になるためには、理念的な革命の過程を経なければなりません。


それでは、その過程はどのような形になるでしょうか。歴史は蒔いた種を刈り取るように、今日の世界的な終末時代においても、既成概念に属する信仰者たちや既成主義の言葉を持つ者たちは、すべて天を裏切る立場に立っています。彼らは誰かというと、天使長のような立場にいる者たちです。エデンの園で天使長がアダムとエバを誘惑したのと同じように、終末のこの時代にも天使長のような霊的な教団が現れ、神の意志に対して反対する時が避けられなくなるのです。


神がこのような原則を通じて復帰摂理を進めることを感じるとき、終末にいる私たちはどうすれば選ばれたイスラエル民族になれるでしょうか。皆さんは決意しなければなりません。覚悟しなければなりません。皆さんはどのような人にならなければならないのでしょうか。皆さんはヤコブの後継者になるべきです。20年余りの生涯を経てヤボク川で信じて戦い続けたヤコブの代わりになるべきであり、荒野の道でイスラエル民族を支えながら祈り歩んだモーセ、あるいは世界人類を代表してイスラエルのためにゲッセマネの園で祈ったイエスに代わる人になるべきです。


終末にあるキリスト教徒の立場
それでは、今、世界中に広がっている第二イスラエルよ、あなたの行くべき場所はどこか?世界中に広がっているキリスト教徒は天に向かって訴えなければならない時が来ました。イスラエル民族が苦難の中でエジプトのファラオの宮廷を憎み、「誰が我々を約束の地カナンに導くのか」と指導者を求めてさまよったのと同じように、今日のキリスト教徒も自分の属すべき部族と位置を探さなければなりません。


そのために、既成教会は崩壊します。12の団列に分けることができるからです。どんなに取り締まっても、団列を編成して世界的な復帰の運命を超えなければならない立場にあるため、国家の運勢を動かすキリスト教であっても、社会や家庭、個人においてその威信を失う時が来るのです。


イスラエル民族がエジプトにいるときには団列の編成をしませんでしたが、荒野を出発する時になって初めて団列の編成をしました。同じように、世界的なキリスト教も世界的なカナン復帰のための再臨の理想が近づいてきたため、団列の編成を開始すべき時が来たのです。


もし過去にイエスが地上でペテロ、ヨハネ、ヤコブを中心とした12使徒を通して団列を編成し、信者がその部族に属するようにしてから帰天されたならば、今日の世界のキリスト教は混乱を起こさなかったでしょう。これを再び整える時が来ています。しかし、最も底辺で拒絶された一つの集まりを立てて証言する時が来るかもしれません。統一教会がそのような教会かもしれません。


それでは今日の韓国キリスト教において霊的な働きをする者、新しい教派が出てきました。それらの派が今、教会を分裂させています。団列を編成しなければならないので、このような働きが起こっているのです。ここで問題となるのは何でしょうか。既成主義的な観念です。これは神の前に敵です。既成主義的な観念、つまり自分はエサウのような長子だから神の祝福を受けるべきだという浅はかな思想を捨てなければなりません。少しでも間違うとエサウの観念に立ち、イエスを殺したユダヤの民になる危険があります。


これを乗り越えなければならない歴史の終末に来ていますが、この関門をどう乗り越えるかが課題です。この時、誰が敵でしょうか。エデンの園でアダムに最も近かった天使長が敵になったのと同じように、アダムを復帰するために第二のアダムとして来られたイエスの前では、霊界の天使長の形に該当した当時のユダヤ教の祭司長が最大の敵だったのです。彼らは天使長の形を第二に受け継ぎ、イエスを攻撃したため、地獄に行かなければなりません。


今日の終わりの日にも、同様に世界中に広がる教職者たちが再臨の主の前に天使長となって天を利用して天を打つこのような形が現れるでしょう。しかし、たとえそのような立場に立っても、環境に影響されることなく、歴史の運命は越えていきます。この道を誰が歩むでしょうか。このような祭壇の前に新しい言葉を語り、新しい終末を告げることのできる一つの預言者的な使命者が現れなければなりません。しかし、彼らは既成教団の前に拒絶され、新しい段階に進むことになります。


すると同時に、どのような時代が来るでしょうか。霊的な世界の攻撃の時代が来ます。天使長がヤボク川でヤコブを苦しめ、モーセやイエスを攻撃したのと同じように、世界的な終末時代においても、地上のすべての人々が反対し、同時に天も攻撃する時代が来ます。


サタンの訴えを免れる信仰
イエス様が運命を迎えたとき、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と言われたのは、万宇宙の復帰の主人公を代行して現れたイエスが、宇宙を代表してアダムが天を裏切ったことを蕩減しなければならなかったからです。このようなイエス様は、あなたを知らないと言われても「知っている」と言ったため、その「知っている」という条件が霊的な復活を引き起こすことができたのです。皆さん自身にもこのような歴史的な岐路が残っていることを知るべきです。


今日の世界的な終末の運命が皆さんの生活圏に浸透していることを感じるならば、それは皆さんにとってモーセと民族が結束しなければならなかった時期を予告しており、モーセがファラオと戦った時代を予告していることを知るべきです。


それでは神の悲しみはどこから生じたのでしょうか。その指導者たちが間違ったからではなく、後に従った人々が間違って神を悲しませたことを知るべきです。
今日、皆さんは他の人が知らない道、他の人が歩かない道を進む目的は何でしょうか?皆さんは力を合わせて団結し、神が運行できる一つの団列となり、食べる時も飢える時も個体を忘れても天倫の意志に従って苦しんだモーセの足跡を守る後継者にならなければなりません。ヤコブの足跡の後継者となり、イエスが歩んだ道の後継者として使命を果たすべきです。これが終末の聖徒たちが選ばれたイスラエルの地に入るための条件です。


天に代わるイエスはこの原則を知っていたため、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」と言いました。つまり、サタンを屈服させるためには、神を中心とした死の場を越えなければなりません。天が人間を拒絶しても揺るがずに信仰を持ち続けなければ、サタンが退き、サタンのすべての訴えの条件を取り除くことができるのです。


それでは、天は失われた第一イスラエルの形を霊的に立て、世界中の信者を第二イスラエルとして立て、彼らを一つにして第三イスラエルの建設を進めるのです。


したがって、今日の皆さんはアブラハムのような第三イスラエルの祖先にならなければならず、ヤコブに代わる第三イスラエルの祖先となり、民族の代表者であったモーセのような第三イスラエルの代表者となり、世界の代表者であるイエスのような第三イスラエルの代表者となるべきです。そして、皆さん自身が神の復帰摂理の歴史を振り返り、かつてお父様なる神を訴えたサタンを踏み越えて神を慰めることができる個人、民族、国家、世界にならなければなりません。


サタンとは何でしょうか。神に反対する逆賊です。しかし、サタンも神を嫌っているわけではありません。だからこそ、神はサタンを無視することができないのです。サタンも神を好んでいます。この条件があるために6000年もの長い年月を経なければならなかったのです。サタンも神を好む立場から、「アダムを通して万物を支配すべきこの意志を私に託して宇宙を支配させてください。そうすれば神の前に絶対服従します。」と申し出るのです。


サタンは神に対抗し、神の前で承認を得るための働きをしているのです。摂理の意志に最後まで反対して承認を得ようとする立場に立っています。忠臣を装う奸臣も王を嫌うことはありません。しかし、忠臣を排除して自分の言葉を聞いてもらおうとします。


このような立場に立つサタンの権内に全世界があるため、これを認めれば世界は神の前に戻ることができるのです。しかし、それができないのは天理の法度を破ることができないからです。神は法度の神であり、秩序を乱すことはできません。だからこそ、あらゆる苦労をしながらも、世界を支配するサタンを承認せず、世界を支配するサタンの前に人を立て、サタンの訴えを防ぐことが神の切実な心情でした。


もしサタンの訴えを防ぐ人が現れれば、神に対して何も言うことはできません。天理の原則が回復されるため、エデンの園で天使長がアダムとエバに支配されるべきという原則を掲げる主人が現れれば、すべてのサタンは根本的に屈服しなければなりません。それもイエス様のように霊界で神の座に行くのではなく、地上でその日を迎えなければならないのです。その日を迎える時が再臨の時代です。


皆さんはもう反対するサタンの立場に立ってはいけません。6000年の間、苦労された神の足跡を追わなければなりません。今日の終末の皆さんは、神の無限の世界の最初の出発点であるアダムの時代から今日までの復帰過程で苦労された神の心情を体感し、神の後を追わなければなりません。このような運命に置かれているにもかかわらず、夢を見ていないのは大問題です。


サタンの試練に勝つ道


「神よ、私を通して栄光を受け、安息を得てください」と言える天国の選ばれたイスラエルが必要です。この使命を代行したのがヤコブであり、モーセであり、イエスです。神がサタンと戦った戦いを引き継ぎ、サタンに対抗して戦う姿となってこそ、ここから決定的なイスラエルの主権が天の前に立てられます。これにより、これまで神を訴えてきた戦争の目的が終わりを迎えます。どんな抗議も立てられないため、戦争は終わるのです。そのような人々を中心に第三イスラエル建設のための出発が始まります。


モーセの時代、エジプトの地にいたイスラエル民族には、自分たちの故郷であるカナンの地を攻撃する戦いが残っていました。イエスの時代には、イスラエル民族を中心に世界的なカナンの地を建設する戦いが残っていました。今日、第三イスラエルを建設すべき私たちには、団結して第三イスラエルを成し遂げるための激戦が残っています。


それでは、今日の皆さんはどのような人になるべきでしょうか。イスラエル民族を再編成する際、天に対して神の前に立つイスラエルの選民として、自ら3人組の一員となり、小隊長、中隊長、大隊長、連隊長、師団長になるべきです。このような天の精兵の指揮官になるのは誰かが問題です。これを行う時が必ず来ます。歴史的な終末にはすべてが一つの世界に統一されます。多くの人々が思想の統一を求め、地上世界が統一理念を求めているため、必ず天の理念を通じた統一の時が来ます。


これまでの歴史の過程ではどうだったでしょうか。二つが戦えば、その中で少しでも善なるものが勝ちました。これが原則です。地上世界が一つの理念圏内に入るとどうなるでしょうか。地上よりも少し善なるものが勝ちます。これが霊界の地上攻撃時代です。そのため、今日では原因不明の神経症が多く発生しています。薬では治りません。これは天地双和湯を飲まなければなりません。


天を和合させ、地を和合させるこの理念のために、霊界が地上を襲撃する時が来ました。地上人が地上で神の意志を代行する時なので、一つになるためには必ず戦いがあるでしょう。二つが戦った後に一つになるその世界が、天を中心として合一する審判の時です。このように霊界が地上を襲撃する場で、地上を代表する総指揮官としての使命を持って来る方が再臨主です。
第三イスラエル建設の道の出発に立つ皆さん、どうすべきでしょうか?霊界の法度を知ることで初めて解放されるのです。その命令系統がどのようになっているかを知る必要があります。その国の軍隊は自分たちの軍隊で使われている暗号を知らなければ、戦争の際に自軍から攻撃されることがあります。


今は天国の暗号が聞こえる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、歴史的な暗号、時代的な暗号、人間的な暗号、使命的な暗号の通信時代であり、これらの暗号を通じて連絡が取れ、作戦計画を実行でき、地上の統一理念を代行できる時代です。


今日、既成教会から反対される朴長老、私長老、統一教会、あるいは所謂異端派と呼ばれるもの、それで良いのです。現代は科学も宇宙時代を論じる時代です。人工太陽を作る時代です。このような時代に達しているのに、まだ古い宗教観念を持っていてはいけません。これを踏み越えて進む包括的な統一主義が現れなければなりません。


今日、暗号を通じて連絡が取れる短波装置があるのと同じように、神の秘密を通じて連絡が取れる短波装置を持っている者がいれば、その者は勝利するでしょう。だからこそ、霊界が地上を襲撃するときには戦争の方法が変わります。戦いは始まりますが、その限界はわかりません。このような形の戦いが地上で起こりますが、その時、良心を持つ人々はそこに動員されるでしょう。
今日、皆さんはこの終わりの日を迎えるために、良心的で善良な人々を犠牲にしてここまで歴史が進んできたことを知らなければなりません。私たちが堕落の運命に置かれている今日、最終的な一致の理念世界を探し求め、すべてを忘れて犠牲する覚悟を持つべきです。そして、イエスの肩に乗り、「神よ、私をお任せください」と自信を持って言える天の真の子供たちにならなければなりません。神もそのような子供たちが現れることを望んでおられます。


皆さんは、楽園世界にあるすべてを解放し、天国生活を紹介する使命がイエスや神にあるのではなく、今日の終わりの日にいる皆さんにあることを心に留めてください。イエスに代わりすべての作戦計画を担当し、神に代わって戦う代表者が現れ、責任を果たすことで、神とイエスを解放することができるのです。このような宇宙的な使命を前にして、皆さんは勝利のイスラエルの道を探し求めるべきです。


そのためには、まず自分が所属すべき団列を探し、自分の指導者を見つけなければなりません。また、自分が天の前にどのような位置にいるのかを知り、揺るぎないモーセ、アブラハム、ヤコブ、イエスの代わりになる存在となるべきです。そして、サタンに対しても、「あなたは万宇宙の創造理念を代行し、神に栄光を捧げる資格を持つ神の子供です」と称賛され、サタンから崇敬される存在となるべきです。そのようにして初めて、地上天国の園で世界的な聖殿理念を代行し、神の前に立つことができるのです。


しかし、それに至る前に皆さんは大きな戦いに直面します。各教派が皆さんを攻撃します。霊的な試練もあります。モーセを神が試されたように、皆さん自身にもその道があり、モーセが民族に裏切られたように、皆さんにもその道があります。イエスが十字架上で天に見捨てられたように、皆さんにもそのような試練があり、イエスが民族に裏切られたように、皆さんにもその道があることを知り、それに失望してはなりません。


神の意志というものは簡単なものではなく、極めて難しいものです。ですから、皆さんは世界的な苦難を背負い、極めて苛烈な反対を受けながらも、戦いの道で倒れてはならないのです。世界と天地が一つの一致点を見つけるまで、皆さんは戦い続けなければなりません。


この過程で、皆さんはイスラエル民族がエジプトを出て荒野に出て、食べ物がない、水がないと嘆いたように嘆いてはいけません。誰も認めてくれないと責めてはいけません。自分を理解してくれるモーセのような指導者を一人だけでも見つければ、それが一番だと思ってください。自分を理解してくれる神だけを頼りにし、自分を理解してくれるイエス様だけを頼りにし、それが一番だと信じ、すべての人から拒絶されても、その方だけを頼りに進めば、その方が成し遂げることを自分が引き継ぐことができるという心を持たなければなりません。そうして初めて、皆さんは第三イスラエルの選民としての資格を持ち、神の栄光に参加することができるのです。


そして、神の栄光の姿になると同時に、歴史的な栄光の姿、全宇宙の理念を代行できる栄光の姿となるのです。つまり、私たちが栄光の子供として世界を代表して天の前に現れることで、神が初めて安息できるのです。


ヤコブに天使が祝福したような祝福ではなく、神が直接イエスに手を挙げて祝福しようとしたその祝福を皆さんに授けるでしょう。つまり、終わりの日に見つけられた皆さんに、神は手を挙げて「イエスに代わる私の子供たち、永遠の第三イスラエルの主人公としての私の子供たち」として祝福し、永遠に天が喜ぶことのできる実体的な喜びと栄光と美の存在となるよう祝福するでしょう。


このようにして、イエスの愛を通じて神の愛の領域に入り、神の愛を成し遂げることで、第三イスラエルの先祖となることができるのです。




<祈祷>
天のお父様、霊界では第二イスラエルの名のもとに団列が編成されていますが、今日の世界に広がるキリスト教が第二イスラエルの団列を成し遂げていません。お父様、眠っている民族を目覚めさせ、眠っている世界のキリスト教徒を目覚めさせ、地上で第二イスラエルの祝福を代行できる団列を組織し、霊界と一つになり、今日第三イスラエルを世界的に建設できる選民権を私たちにお許しください。


そして、団列で組織された種族を通じて、民族を通じて、国家を通じて世界に至る天的な使命を私たちが引き継ぎ、モーセが戦った道を引き継がせてください。イエスが戦った道を引き継ぎ、サタンの非難と訴えを退け、お父様を迎えることができるようにし、お父様の栄光を私たちにお許しください。お父様、心から願い求めます。


今日伝えられた言葉を受けて、神が選ばれた選民イスラエルの苦難を乗り越える喜びの子供として私たちを立ててくださいますように、そして、彼らが世界カナン復帰の道を成し遂げることを許してください。今、サタンとの戦いの道で私たちが一つに結束し、勝利するように、そして、中心的なイエスの意志に反逆する者とならないようにしてください。中心を苦しめる者とならないようにしてください。


モーセを非難した民族でしたが、イスラエルの建設のために天が必要とされました。今、私たちが天を心配させることなく、第三イスラエルを成し遂げることができる子供たちとしてください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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御言葉選集3(20)

2024年05月18日 15時07分33秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 3 - 20. 神様を迎える者になろう (1958年2月2日)

1958年2月2日(日)、前本部教会。

ヨハネによる福音書 14:1-17



<祈祷>

 愛のお父様! お父様の御前に伏しているこの子供たちが、お父様が望む清らかな心と体を持てるこの時間をお許しください。
 お父様が行われる時、お父様のご臨在を感じられない心と体を持つ者がいないようお許しください。同時に、心をもって体をもって自分自身をお父様に捧げることができるように、そしてお父様の切なる心情が私たちの心を通じて私たちの体にまで伝わるようお許しください。
 天が今切実に求めているように、私たちも切実にしてください。お父様が宿ることができる聖殿を築けるようお許しください。
 何もない者たちを探すために6千年という長い年月を歩んで来られたお父様を抱きしめて泣くことができる者にしてください。すべての虚しい罪を脱ぎ捨てさせ、お父様の胸に抱かれる心、切なる心情に満ちる心を持てるように、私たちの心と体に満ちる愛をお許しください。
 この地には多くの人がいますが、お父様の心情を知る者はおりません。自分の子供を愛する人は多いですが、お父様の心情を知る者はこの地にはおりません。お父様、あなたを知らないこの地の全ての人々を哀れんでください。
 特にこの韓民族、三千万の民を哀れんでください。お父様、あなたの憐れみの手がこの民族にあれば、この民族には何もなく、誇るものもなく、お父様に捧げるものもありませんが、困難な道を歩んで来られたお父様の事情を心配して身を置く場所がありません。お父様、この国に訪れてこの民族を導いてください。
 世界の人々の心を一つにし、お父様の御旨を受け、お父様の祭壇を築くことができる誇り高きお父様の息子娘がこの民族から多く出ることを、お父様よ、切に望み願います。
 お父様は無限に私たちを心配しておられ、お父様のために切に願う子供、そのような教団、そのような民族があれば、お父様が訪れて安息したい切なる心情があることを知っています。どうか今日、私たち一人ひとりがお父様に身を捧げ、私たちの心がお父様を慰めることができる子供たちとなることをお許しください。
 そして、お父様ご自身が私たちに臨在し、私たちの進むべき道や、私たちがお父様のために戦い進むべき道を親しく示してくださる憐れみのひとときをお許しください。お父様、切に望み願います。
 今日、私たちはお父様の言葉に接しようとしております。お父様、私たち自身のいかなる主張や観念も残らないようにお許しください。ただお父様の言葉に浸り、その言葉が再創造の歴史を起こす土と水となるようにしてください。そして、お父様の御姿に造られるひとときをお許しください。お父様、切に望み願います。
 柔和謙遜の捧げ物としてお父様が命じられた言葉を切に待ち望む心情を持つことをお許しください。そして、その言葉によってお父様の御姿とお父様の聖像に似ることができる再創造の歴史がこの時間に現れることをお許しください。私のお父様、切に望み願います。
 伝える者の心も受ける者の心も一つにならせてください。死んでも同じ意志のために共に死ぬことができ、生きても同じ意志のために生きることができ、言葉を聞いても同じ意志のために喜んで聞くことができるこの時間をお許しください。サタンが喜ぶ隙間を作らないようにお許しください。お父様、切に望み願います。
 イエスが愛する弟子たちと人類を残して十字架の道を行かなければならなかった切ないその心情を共感しながら、歴史は過ぎましたが、今、私たちの心と体で先祖たちの心情を共感し、その心情の対象者として責任を果たすことができるように、お父様、この時間に再創造の歴史を起こしてくださることを切に望み願います。
 この時間も多くの聖徒たちが時と機会を知らずに自分を主張しながらあなたの前にひれ伏していることでしょう。お父様、集まる場所ごとに愛の手を差し伸べ、摂理の賜物を共に分かち合えるよう導いてください。そして、勝利できるようお許しください。切に望み願います。
 孤独に地方に散らばっている家族が、このひとときひざまずいてお父様の前に訴えていることを知っておりますので、一律の賜物と一律の愛の手を彼らの体と心に下してくださるよう、切にお願い申し上げます。この時間、ただ生ける捧げ物としてお父様の胸に抱かれる憐れみの賜物だけを許し下さるよう切にお願いし、すべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>


 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も天のもとに行くことができない」という言葉を中心に、皆さんに少しお話しさせていただきます。お話ししようとしているタイトルは「神を迎える者になろう」です。
 今日、この地には多くの人々が住んでいます。彼らはそれぞれのビジョンや意見を持ち、また何らかの主義主張を持って生活しています。しかし、心から体から神を礼拝し、神を主張しながら神から遣わされたと天と地の前で自信を持って立ち上がる人はいません。
 今日、この地の多くの人々が自分のビジョンや主張を掲げて生きています。しかし、彼らの主張や行動が天倫の意志や天倫の摂理と一致していなければ、いずれは必ず転覆してしまうことを私たちは歴史の過程を通じて何度も見てきました。
 では、今私たち人間が最終的に求めるべきものは何か?それは、自分の主義主張や自分の何らかの主観的な行動をすべて放棄し、自分の心と体を神に代わり、自分が神に代わって行動していると主張し立ち上がることのできる人がこの地に現れることを、今日まで歴史を経て去っていった多くの人々が望んできたということです。また、天はこのような代理者が現れることを望み、無限の労苦と忍耐をもって長い間摂理してこられたのです。皆さんはこれをよく知っておかなければなりません。
 ですから、この地上の悲しみとは、何かの主義がないから悲しいのではなく、行動する人がいないから悲しいのではありません。神の心情を代弁し、神の意志を代わって主張できる主義がなく、神に代わって行動する人がいないことが悲しみであり、悲しみなのです。
 今日、この地と人間社会に広がっている嘆きと苦痛、そして根深い怨恨を取り除くためには、神を代弁し得る主義の主張と、神を代行する一人の人物が現れる必要があります。ですから、摂理の目的もこの一人の人物であり、歴史の目的もこの一人の人物であるということを、皆さんは改めて認識する時が来たのです。
 神が人間を中心にして、天地万物と共に享受しようとした創造理念は、私たちの祖先であるアダムとエバの堕落によってこの地上で実現しませんでした。神が言葉を通じて6日間で創造したすべての存在は、その言葉を成就するための対象だったのです。つまり、すべての万物は神の言葉の実体対象なのです。
 では、万物が言葉を通して実体対象として現れた後、何を望んだのでしょうか?神の愛を中心にして、神が動けば万物も動き、神が止まれば万物も止まることができる一つの仲介者、一つの中心を望んだのです。もし人間がそのような中心であったならば、今日この地上で起こっている混沌とした歴史はなかったでしょう。
 神の希望も、神を代弁し、神に代わって行動できる一つの存在が現れることです。これは単に人間の堕落後の摂理歴史の過程で望まれたことではなく、創造当初から現在に至るまで望まれた希望の中心であるということです。皆さんはこれを理解しなければなりません。
 では、この希望の中心とはどのような存在でしょうか?それは、言葉を代弁する存在であり、言葉の実体です。同時に、神の愛を中心にして生命の実体とならなければならないのです。これが問題なのです。このように生命の実体となる時に初めて、神の姿を代弁する実体を成すことができ、神の言葉を代弁する一つの主義の主張を持って現れることができるのです。
 聖書の言葉の中に「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)という言葉があります。つまり、イエス様は道であり、真理であり、命であるということです。これは全人類の前に何を示唆しているのでしょうか?それは、アダムとエバの堕落によって神の言葉が成就されず、その言葉がそのまま神の心情に戻ってしまったが、言葉を失った人々も依然としてこの地に生きているため、神は再びこの言葉を人間に与えるということを示唆しているのです。
 創造当時に神様が言われたその言葉と人間が関係を結んでいることから、その言葉を変わらぬ一つの目標、一つの希望として今まで求めてきたのです。したがって、この言葉を成就するために言葉の実体が来なければならないのです。
 神の言葉を代弁するこの地上の実体はどこにあるのでしょうか?その実体を探し求める過程が、神が6000年間苦労された摂理の過程であることを皆さんは理解しなければなりません。五日間で創造されたすべての万物は言葉の実体を持っていますが、六日目に創造された人間は神の言葉の前に立ちながらも言葉の実体を備えることができず、今日に至っています。このように言葉の実体を見つけ立てることが、神の運命の過程であり、復帰の過程であり、歴史的な過程であることを理解しなければなりません。
 それゆえ、イエス様が「わたしは道であり、真理(すなわち言葉)であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われたのは、神が希望された神の言葉の実体がイエス様であることを示す言葉です。
 イエス様の言葉とは何だったのでしょうか?それは、4000年間の歴史の過程で神が人間に対して語りたかった切なる心情を代弁する一つの結実存在として現れ、神の切なる心情を神に代わって人間と万物の前に発表した言葉です。このような使命を担って言葉の主人公として来られた方がイエス様であることを皆さんは理解しなければなりません。
 このように神が4000年間探し求めてこられた言葉の実体として現れた方がイエス様でした。神の心の中にあった言葉が被造世界を通じて現れるべきでしたが、それが叶いませんでした。しかし、イエス様が現れたことで神の心の中にあった言葉がイエス様の心情に再び移されたのです。この事実が人類にとって何よりも喜ばしい知らせであることを理解しなければなりません。
 では、イエス様がこの歴史的な言葉の実体として現れ、口を開いて言葉を発表された時、何を感じたのでしょうか?すなわちどのような心情だったのでしょうか?イエス様はご自身の言葉が歴史的な摂理の意志を代弁する言葉であると感じました。また、ご自身の言葉が神の心の中にあった言葉を代弁するという心情を感じ、永遠をかけて神の意志と言葉の実体がこの地上に成就するまで、神に代わって再創造の歴史を繰り返すことができる言葉であると感じたのです。
 ですから、私たちが今日イエス様の言葉を受けるためには、イエス様が単に30年の生涯を過ごされた方ではないことを理解しなければなりません。イエス様の言葉がその時代の生涯過程を弁明するための言葉ではなく、イエス様の言葉が4000年の歴史を代表することができ、その当時の世界を代弁することができ、今までの人類歴史を代弁することができる言葉であることを理解しなければなりません。しかし、その当時にはこのイエス様の言葉の価値を理解する人はいなかったのです。
 神の嘆きとは何だったのでしょうか?言葉で創造された万物が言葉の実体として現れなかったことが嘆きだったのです。イエス様もまた、神の心情を代表する再創造の言葉の実体として来られ、再創造の歴史を起こすために言葉を伝えられましたが、その言葉の前に立つ人がいなかったことが、イエス様の悲しみだったことを理解しなければなりません。
 皆さんは今も個々に神の言葉が伝えられていることを知るべきです。神は切なる心情で訴えているのです。したがって、皆さんの心に知らず知らずのうちに天倫が通じ、皆さんの心がキリストに向かうようになるのです。
 今まで多くの人々が長い歴史を経て、「真の真理とは何か、真の言葉とは何か?」と絶えず問いかけながら真理を探し求めてきました。このように、人類の歴史がまさに真理の探求の道だったと言っても過言ではないことを理解しなければなりません。
 したがって、神の心情を代弁し、イエスの心情、すなわち悲しみを代弁する言葉がこの地に現れた時には、人々はどうすべきかというと、再創造の力を表すその言葉を地上のすべての人々が受け入れなければならないのです。そうでなければ、イエス・キリストがこの地に来てからの30余年、そして亡くなった後の2000年間の苦労が実現されないということです。
 では、神の悲しみとは何か?第一の言葉である神の言葉を代弁する第二の言葉の実体であるイエスを通じて、第三の言葉の実体、言葉の聖殿を見つけることが摂理の目的ですが、この第三の言葉の実体がないことが神の悲しみであることを理解しなければなりません。
 真理の実体であるイエスが「わたしは道であり、真理である」と言われましたが、イエスが言われたこの道の目的は何でしょうか?4000年の歴史の道の目的はイエスの実体であり、イエスが言われた道の目的は、人間がイエスのように言葉の実体となることでした。そして、これは人間がイエスの言葉を信じることで成し遂げられるものでした。しかし、人間がイエスを信じなかったため、ゴルゴダでイエスの実体は終わりを迎えました。
 神が望み、神が探し求めていたのは、神の言葉を所有し、神から意志を引き継ぎ、神が意志を託すことのできる一つの実体でした。イエスはまさに神の言葉と一体となった実体でした。したがって、イエスの実体は神が摂理し探し求めてきた全歴史の目的体であるのです。神は歩みを止め、イエスを聖殿として初めて意志を地上に引き継ぐことができたのです。
 では、イエス様はご自身をどのように理解していたのでしょうか?イエス様はご自身を神が運行できる聖殿であると理解していました。神が何かを運行される時には、ご自身以外では運行できないことを感じていたのです。このように感じていたイエス様だからこそ、イエス様ご自身は、自分が神が4000年間探し求めてこられた神の聖殿であり、神が運行できる足場であり、この一つの意志を成就するために苦労してきた多くの預言者や先祖たちの代わりの実体であると感じていたのです。
 このような実体であったために、イエス様は神が変わらない限りご自身も変わらず、神が動かない限りご自身も動かないと感じていました。ですから、どんなに多くの人がイエス様を押しのけようとしても、イエス様は押しのけられない方であることを理解しなければなりません。つまり、アダムが神が運行できる道とならなかったことを復帰するために命をかけてアダムの代わりに現れたイエス様であることを理解しなければなりません。このような土台の上で、イエス様の弟子たちもイエス様の言葉が神の再創造の言葉であると感じていたのです。
 このようなイエス様を通じて神が運行されるのと同じように、イエス様に似て、イエス様が歩まれた道を代わりに歩む人にイエス様が運行されるのです。
 神はある一時代の神ではなく、歴史的な神であり、時代的な神であり、未来的な神でもあります。そして、イエス様は神が運行できる実体の聖殿であるため、人類がイエス様と一体となる時に、神の全体の摂理が成就し、人類が神と一体となることができたのです。
 今日の歴史の道筋では何が先行するのでしょうか?エデンの園でアダムが堕落したことにより、言葉を失ったため、言葉が先行します。まず言葉を取り戻してから実体を備えなければなりません。そして、実体を備えた神の生命が動くのです。神の生命はどこに動くのでしょうか?まず言葉を取り戻し、その言葉に基づいて一体となったその中に神の生命が動くのです。そして、神の生命は神と愛の関係を結んだ後に芽生えるのです。またそうして初めて神の生命の実体となることができるのです。
 イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたのは、今日の私たちに神の言葉を直接示されたことであり、神の実体を示されたことであり、神の生命を直接示されたことを意味しています。イエス・キリストは単に30余年の生涯を過ごされた方ではなく、神が4000年間苦労され、人間を愛されたその愛の心情を表した生命の実体であったのです。
 このような言葉の中心的存在であるイエスがこの地上で果たすべき役割は何だったのでしょうか?神が4000年間苦労されたのは、エデンの園で失われた言葉を再び立てるためであり、言葉の実体である第二のアダム、イエスを立てるために苦労されたのです。そして、言葉と実体を備えた後、神の永遠の愛を中心にして人間と愛の絆を結ぼうとされました。しかし、永遠で真実な愛の絆を中心にして、神とイエスは一体となることができましたが、人間は神と永遠の愛の絆を結ぶことができませんでした。
 神の愛は必ず言葉を中心にして現れます。しかし、神の言葉であり、神の実体であるイエスは現れましたが、言葉だけが残り、実体であるイエスは去ってしまいました。ですから、私たちは言葉だけを中心にして生きなければならない悲しい世界に住んでいるのです。
 それでは、言葉を通じて人間が最終的に望むことは何でしょうか?再びイエスを求めることです。言葉だけを所有していてはなりません。実体を迎え入れなければなりません。しかし、言葉に代わる実体がないため、人間は実体を切望しているのです。神の言葉と一体となる人を見つけ、その人を通じてこの地を動かさなければならないので、神の言葉の実体を見つけるために歴史は流れてきたのです。
 言葉を発表された目的は何でしょうか?それは、神の言葉とイエスの言葉を代わりに語ることができる存在が現れることです。神とイエスが語られた言葉は終わりの日に実を結ぶでしょう。これまでの歴史は再創造の過程の歴史です。それでイエスが最後に語られた言葉の中心は、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」という言葉でした。しかし、新郎であるイエスの言葉を代わりに語ることができる不変の言葉の所有者は、まだ現れていないのです。これを理解しなければなりません。
 神の願いは、イエスがただこの地に来て去ることではなく、イエスがこの地上で言葉を伝えることでもありませんでした。神の願いは、イエスの言葉を通じて新婦の資格を備え、神の言葉とイエスの言葉を代わりに語ることができる一つの実体でした。
 イエスは神の身体としてこの地上に来られ、また神の生命を中心にして神の愛の園を成就しなければなりませんでした。これがイエスの来られた目的でした。イエスの身体は神が安息されることのできる実体でした。だからこそ、神がイエスを愛し、イエスが人間を愛されるように、イエスを中心にして愛することができる存在が必要だったのです。
 この思いを抱いて来られたイエスは、後の信徒たちのためにご自身の新婦となる道を開いておかれました。イエスは人間の新郎であり、人間はイエスの新婦となるのです。だからこそ、イエスが神に対して切実であったように、人間もイエスに対して切実でなければならないのです。このような存在を見つける必要があったイエスであったことを理解しなければなりません。
 人間が堕落したことにより、エデンの園で言葉を失い、実体も失いました。そして、来られたイエスによって失われた言葉と実体を取り戻さなければならなかった人間が、イエスを殺すことによって言葉だけを受け取る恩恵を受けたのです。
 今日、皆さんが言葉に依拠して堕落しなかったアダムの姿を再び形作ることができる権利の中にいることは、幸せなことです。
 言葉の実体として来られる方が再臨の主です。これが創造の原則であるため、再臨の主は雲に乗って来ることはできないのです。天理の原則は覆ることができません。ですから、イエスが来られて以来今日まで、人間は言葉の実体を希望してきました。これが再臨の理想であり、2000年のキリスト教歴史の希望なのです。
 マグダラのマリアが復活したイエスを抱きしめようとした時、イエスは彼女に抱きしめないように言いました。人間は抱きしめることができません。言葉だけを残すことしかできなかったイエスだったからこそ、そのように言ったのです。
 したがって、今皆さんはこの言葉を代わりにする第二のキリストの化身となり、イエスの心とイエスが感じた責任感と神の心情を代弁しなければなりません。しかし、今日この地上に住んでいる多くの人々やキリスト教徒たちは、その心情を代弁して言葉を求め、その言葉によって実体を見つけることができるにもかかわらず、喜んでいません。
 今、私たちは神の言葉を握りしめて、死ぬか生きるかを問わず進まなければなりません。エデンの園で規律を破り、堕落の血統を受けた後、今日まで罪の中で生きてきましたが、今、新しい言葉によって喜びに満ちて生きることができるようになりました。全人類が永遠の生命の価値を感じて生きることができるその世界に向かって、今この言葉を握りしめて主張しながら進まなければなりません。そのような時に皆さんは生きているのです。皆さんはこの道を後回しにしますか?それはできません。皆さんはこの歴史的な運命の瞬間に生きていることを知るべきです。
 イエスは神の言葉を代弁し、神の4000年の摂理歴史の全体的な心情を代弁し、神の意志を代わりにして愛の心情を持ち、神の意志を生活の中心に据えて生き、神と愛の絆を結んだがゆえに、十字架で死んでも復活することができたのです。
 神の愛は永遠であり、神の生命も永遠です。イエス様は言葉と実体が一つとなった方であり、神の永遠の愛と生命を代弁する方だったので、この世のどんな死や苦難もイエス様を永遠に殺すことはできませんでした。すなわち、イエス様は復活の権限をすでに持っていたのです。
 では、私たちはこれからどうすべきでしょうか?私たちが主張できる主義があり、従うべき行動があるとすれば、それは何でしょうか?それは他でもなく、イエス・キリストが語られた言葉であり、キリストが示された証拠的な行動です。これを確実に理解しなければなりません。
 皆さんはご自身が神を代弁し、イエスを代弁できる言葉の所有者となっているかを自問しなければなりません。地上と天上で認められる言葉の所有者となっているかどうか、自問する必要があります。
 人間が堕落したために「約束の言葉」が「成就された言葉」として現れませんでした。だからこそ旧約、新約というのです。約束の言葉が成就された言葉として現れなければなりません。今日これが世界人類の重大な問題であるにもかかわらず、人間はそれを理解していません。これは天を求める聖徒たちが総力を結集して解決すべき問題、すなわちキリスト教の問題であり、汎宗教の問題なのです。
 今日の世界は分裂と争いが生じている世界です。なぜこのような現象が起こるのでしょうか?イエス様がこの地に来られた時も、世界は分裂の状態でした。イエス様はこの分裂と争いを解決するために言葉を語られました。しかし当時の人々がイエス様の言葉を信じなかったために、この争いと分裂は完全に解決されませんでした。ですから、今日の世界においても争いと分裂が続いているのです。今、この分裂と争いによって混沌としている世界を収拾し、すべての主義や思想を統合できる完成の言葉が必要なのです。
 したがって、皆さんは真の真理が何であるかを見つける必要があります。今日の世界の歴史の過程を見れば、多くの民族と多くの宗教が存在しましたが、統一の目標に向かって進んでいるのです。この統一の目標はどのような言葉によって達成されるのでしょうか?それは神の約束の言葉によって統一されるのです。人類の歴史は神の約束の言葉によって築かれたその土台から逃れることはできません。ですから、キリスト教を中心として世界の歴史が展開されてきたのです。今や一つに統一すべき時が来ました。すべてを統一できる新しい言葉が、あらゆる知恵を持って現れるでしょう。
 イエス様がどれほど孤独であったか知っていますか?「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には頭を横たえるところがない」(マタイ8:20)という言葉から、イエス様がどれほど孤独であったかが分かります。これはイエス様の悲壮な心情を比喩と象徴で表現したものであり、この言葉の意味を理解しなければならない時が来ました。イエス様が安息する時が来たのです。神はイエス様の中で安息し、イエス様は私たちの中で安息されます。ですから、今や皆さんが天地万物を担う時が来たのです。
 約束の言葉に依り頼んでどこへでも行くことができ、約束の言葉に依り頼んで一つになり、約束された主に会うことができます。また、愛を中心とした神の言葉の中で喜びに満ちて生きることができるのです。
 ですから聖書には「信仰と希望と愛はいつまでも残る。その中で一番大いなるものは愛である」とあります。今、神とイエスが私たちを抱きしめて愛するその言葉を見つける時が来たのです。
 その言葉が実際に現れたら、その言葉をすべて受け入れなければなりません。その言葉に背けば、神の愛を感じることはできません。しかし、イエス様が真に語られた神の言葉が終わりの日に現れるならば、その言葉を聞いた人は神の愛を感じることができ、神の愛を感じることができる人は神の愛の所有者となることができるのです。神の言葉は単なる原則を立てるものではなく、その生命と理念を作るためのものであることを理解しなければなりません。
 今日この地上には真理を掲げる多くの宗教の教義や主義がありますが、それらを実践しても心と体が安らぎ、永遠にその言葉に浸ることができるものはありません。宇宙の生命の源である神の愛が私たちの心と体を動かしてきたのであれば、神の真実の言葉が出れば、すべての主義主張を根本的に解決することができるでしょう。
 イエス様の言葉はどういうものでしょうか?それまでの言葉は約束の言葉であり、約束の実体を探し、約束の愛を探し、約束の生命を探すものでした。しかし、イエス様の言葉はその約束の言葉に事実の言葉を加えて、事実の実体を探し、事実の愛を探し、事実の生命を探すものでした。
 ですから、イエス様は天国ではなく楽園において祈り続けておられます。なぜなら、この地上で果たすべき使命を完全に遂行できなかったからです。もともとイエス様が行かれるべき場所は楽園ではありません。この地上において神の理念を代行できる言葉の主人公、創造の理念を代行する生命の実体が現れ、神の愛を中心にして永遠に安息できる世界を作るまでは、イエス様も安息することはできず、神も安息することができないのです。
 では、私たちは何を嘆くべきでしょうか?私たちは、自分の心と体からイエスの言葉が出てこないことを嘆くべきです。また、自分自身の行動がイエスがご自身の体を動かして行った行動と一致していないことを嘆くべきです。そして、自分自身の心が哀れみの心で涙を流すことができなかったことを嘆くべきです。
 皆さんはイエス様を安息させることができる者になるべきです。イエス様と一つの体を成す一つの細胞となるべきです。本来、ユダヤ教団やイスラエル民族、そして当時の世界の人々がイエス様の体の一部となるべきでした。天地まで一体となるべきだったことを理解しなければなりません。
 イエス様は哀れな方でした。今日のキリスト教徒たちはイエス様が神の右手の座に座っていると信じていますが、実際にはイエス様は哀れな方でした。イエス様は理想世界を築くための天的使命を持って来られましたが、世界を導いて地の果てまで、そして天上まで通じる希望の言葉を持って来られましたが、地上の人々が信じなかったために、地上で話したい言葉をすべて話すことができず、行いたい行動をすべて行うことができなかったのです。このようなイエス様の悲痛な心情を理解しなければなりません。
 この意志を実現するために、村から村へと巡りながら言葉を伝えたイエス様でしたが、人々はイエス様を信じませんでした。そこで神はイエス一人を前にして悲しみ、天使たちも悲しみ、宇宙全体が悲しみました。しかし、今日の人間たちは、イエス様を信じなかった歴史的な罪を犯した先祖たちの子孫であるにもかかわらず、自分がどこに立っているのか、この民族、この世界がどこに向かっているのかを理解していません。このことを見つめる今日の私たちは、2000年前にイエス様が来られて滅びつつあるイスラエル民族を見て悲しまれたように、悲しむべきです。
 また、皆さんは神の最後の願いである言葉の実体となり、天倫の心情を通じて歴史の全体的な実体を代弁できる実体となるべきです。そして、「6000年間摂理してこられた神よ!私を見て、この場所に主を送りください!」と言えるようになるべきです。また、皆さんはイエス様が再臨される時にどこに再臨されるかが、神が地上に対する憂慮の条件であることを理解しなければなりません。
 今日の韓民族は悟らなければなりません。私たちは持つものがなく、他人から非難され、困難な環境の中で生きていますが、私たちの心はイエスの心情と神の愛を代弁し、私たちの体は天の実体となるべきです。そのような人がどこにいるでしょうか?神が6000年の長い歴史を経て探し求めてきたのは、皆さん一人一人の個体ではありません。韓民族全体、人類全体を探し求めてこられたことを理解しなければなりません。さらに、皆さんは人間の堕落によって悲しまれた父の心情を代弁し、イエスの悲しみと先祖たちの心情を代弁できる実体となるべきです。
 イスラエルの民がイエスを支えるべきだったのに、イスラエルの民はイエスを支えませんでした。そこで、イエスは教会に向かいました。つまり、教会を足場にして神の言葉を伝えようとしたのです。しかし、教会も反対しました。そこでイエスは家庭を求めましたが、家庭でも反対されました。仕方なく弟子たちを探し求めたことを、皆さんは理解しなければなりません。
 神の希望の基盤、世界の進むべき道が民族によって支えられずに断たれ、民族の進むべき道が教団によって支えられずに断たれ、教団の進むべき道が家庭によって支えられずに断たれました。このようにすべてが断たれたイエスの悲しみを誰が理解するのでしょうか。神が4000年間苦労して築かれたアブラハムの直系血統であるヨセフの家庭はどこに行ったのでしょうか?ヨセフとマリアはどこに行ったのでしょうか?
 イスラエルの民を基盤とする安息の期待が崩れ、ユダヤ教を基盤とする安息の期待が崩れ、家庭を基盤とする安息の期待が崩れると、イエスは行くところがなくなりました。最終的には12弟子さえもイエスを拒絶し、さらにはその12弟子の中から選ばれた3人の弟子さえも裏切ったため、イエスは十字架にかからざるを得なかったのです。
 今日、皆さんもイエスと同じように追い詰められ、追い立てられ、見捨てられ、拒絶される経験をする必要があります。そうすることで、神の悲しみとイエスの悲しみを理解することができるのです。民族に拒まれ、教団に追い出され、家庭に追い出され、親に見捨てられ、弟子たちに拒絶される中で、皆さんは神の心を理解し、先祖たちの心を理解することができるのです。
 今日、私たちは民族の前に哀れな群れであり、孤独な群れですが、民族が知らない神の言葉が私たちと共にあることを感じなければなりません。そうすれば、世界のために戦ったイエスの姿を代表し、その意志を実践することができるでしょう。ですから、困難に直面しても失望せず、聞いているこの言葉が神の言葉であると信じるならば、その言葉が共にある場所に神の愛が動き、生命が芽生えるでしょう。そして、皆さんはその言葉の証人となるべきです。
 今、皆さんはその愛を持って人間の世界を愛し、十字架にかかったイエスを慰め、第二イスラエルの使命を果たさなければなりません。
 私たちが第三イスラエルの先祖として残るためには、第二イスラエルの道を外れることはできません。イエスが世界を救うために第二イスラエルを召し出して進ませた道、イエスの弟子たちが越えた十字架の道、聖徒たちが歩んだ言葉の峠を越えないわけにはいかないのです。
 では、このような立場にある私たちはどうすべきでしょうか?イエス様はこの地上に来られ、神の内なる心情をすべて発表することなく帰天されました。したがって、私たちはこの一つの心情を土台として、どんな困難が伴おうとも、どんな険しい道が私たちの前に横たわっていようとも、感謝しながら進んでいかなければなりません。すなわち、私たちは天の戦士にならなければならないのです。
 第三イスラエルの先祖となるべき終末の時にある皆さんは、最後の言葉が天の愛の言葉であることを理解しなければなりません。天の愛に基づいた言葉です。したがって、皆さんは神の言葉がそのままあり、皆さんが別にいるということがあってはならないのです。神の言葉の見える実体となるべきです。神の内なる心情が皆さんの内なる心情とならなければなりません。つまり、本心の実体となるべきです。
 皆さんは神の言葉を広めることができる第二の創造主の使命を果たさなければなりません。すなわち、言葉の広める体となり、生命の広める体となり、実体の広める体とならなければなりません。そうしてこそ、愛を中心に一つになり、神を永遠に迎えることができるのです。
 この基準が第三イスラエルの基準です。こうして初めて、言葉を植えることができ、実体を植えることができ、生命を植えることができるのです。
 神を迎え入れることができ、言葉を見て感じることができる言葉の実体、生命の実体、6000年の心情を代弁する実体となり、第二イスラエルを再創造する使命を果たさなければなりません。そうしてこそ、神の内なる心情を完全に理解する息子娘となることができ、そのような神の真の子供となり、神の愛を中心に永遠の栄光の中で生きることができるのです。このことを心に留めておかなければなりません。

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御言葉選集3(18,19)

2024年05月11日 12時12分06秒 | 学習


文鮮明先生御言葉選集 3-18 歴史的な苦難の頂点を超えよう 1958年1月19日


1958年1月19日(日曜日)、前本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書23:27-39


<祈祷>
お父様、私達はお父様の栄光の前に現れる際に愛を感じ得なかったことを許しください。そしてこの世のために労苦しなかったことをお許しください。
お父様の御労苦、お父様の悲しみ、お父様の苦悩を考えたときに、私達の心が悲しみを感じることをお許しください。そして、私達の心が苦悶を感じることを許してください。そして、苦しみを知る子ども達にならせてください。
これらの子ども達にならなければならないことを知っていますので、愛するお父様、この時天国の命を持つことを許してください。そして、天国を求めて集まった子ども達ですので、自分達のすべての罪を持ってお父様の前に立つことができなくても、父が6千年間戦いながら築いてこられた復帰の恵みを見つめ、感謝する姿をお許しください。
そして、私達の心が父を喜ばせることができるようにお許しください。そして、私達の身体が父を喜ばせることができるようにお許しください。父のものとしてこの時間をすべて捧げることができるように、私の愛するお父様、切に願います。
今、一人ひとりの心を見透かして、自分の心の中心にある要求と希望の中心が何であるかを探り、見つけられるようにお許しください。自分を中心に据える何かがある場合、神の意志の前に天国の中心を見つけられないことに気づかせてください。自分自身で天の意志に逆らうことがないように導いてください。
ただし、罪人であることを認めながら、自ら父の前にひれ伏し、すべてを告白し、父の前で涙を流すことができる切実な尊敬の心情だけが、今ここに集まったあなた方の子供たちの心と体に溢れるように許してください。
そして、その心を中心にして復活の歴史を起こしてください、私の父よ、切に願います。今日、私たちは一人ひとりがそろって父の膝の前にひれ伏しましたが、これらがすべて忠誠の条件ではないことを知っていますので、父よ、心を開いて天の意志に没頭できるよう許してください。そして、父の愛の膝の中に入れてください。
そして、父の心情を理解できるように許してください。そして、父が望まれる栄光の姿で現れることを許してください、切に願います。
この時間、私たちが個々の姿で集まったとしても、集まった全体が父の膝の前に一つの生け贄とならなければなりません。私たちが敵であり、歴史的な敵であるサタンが私たちを妬んで妨げようとしても、父の子供になるという切実な心情だけを持つことができるように保護してください、愛する父よ、切に願います。
この日は聖なる日であるべきですので、この国に父の祝福を許してください。知らず知らずのうちに道に迷っているこの国を救うために立ち上がる私たちに鞭を与えてください。最後の勝利の戦いで天の意志を達成する中心的な国民になるように許してください、愛する父よ、切に願います。
お父様、この時間すべてを託してください。私たちにできることは何でしょうか?この時間にすべてを捨て、父のものとして捧げることができるように許してください、愛する父よ、切に願います。
この日、地方にも孤独に父に訴える子供たちがいることを知っていますので、いたるところで一律の恩寵を与え、大きな祝福を授けてください。切に頼み、願いながら、すべての言葉を主の名によってお祈りいたします。アーメン。




<説教>


 みなさん、しばらくの間、考えてみようとする説教のタイトルは、「歴史的な不運の山を超えよう」というものです。このようなタイトルで、しばらく話させていただきます。
 今日、この世には多くの人々が生きていますが、彼らの前には越えなければならない不運の運命の道が残っていることを、みなさんはよく知っています。
 キリスト教の信条として、最後には審判があるというものがあります。ですから、多くのキリスト教徒は、どうやってこの死の難所を越えるかという心配の念を抱きながら、これまで生きてきたことをよく知っています。
 現在生きている自分自身を考えると、自分でも知らない悲しみの運命に直面していることを認めるほど、自らに深刻な問題が待ち受けていることを感じるでしょう。その問題は、自分の前途に、周囲に、心と体に関わっていると感じるでしょう。
 このような不運の環境を乗り越えていく使命が、現代の私たちにはあり、これが残りの人生の使命であると言えます。このような悲しみの環境を踏み越えて立ち上がるその日が、あなたの前にある限り、あなたは過去の不運な歴史を乗り越えて立ち上がることができ、これを踏み越えて立ち上がることで新しい希望の世界を迎えることができるのです。
 この時点で、私たちは過去の歴史を振り返るとき、あなたが今直面しているこの不運な難所や環境が、あなただけが経験する不運の環境ではないことを理解する必要があります。6000年という長い年月を経て、私たちの先祖たちもまた不運な運命を経験してきたことを理解しなければなりません。
 したがって、歴史を振り返ってみると、あなたが祖先が不運な立場にあったばかりでなく、人間と創造主の関係においても不運な立場にあったことを感じるはずです。あなたは自分自身を中心に据え、歴史的な役割を果たすことで、または創造主の理念を代表して、この切実な感情を感じると同時に、ある日歴史を代表して勝利した喜びの日を持たなければなりません。そうでなければ、今日の人間社会において幸福や希望、理念が全て崩壊してしまうでしょう。
 このような歴史的な過程を経てきた人間であるがゆえに、神は人間の精神と生活に宿っている不運の幕、そして歴史を通じて流れてきた不運の幕をどのように乗り越えるかという責任を感じていたのです。正道を求める者たちもまた、人間のためにこの問題を解決しようとする責任感を持って出てきたのです。これまで存在してきた多くの宗教が未解決の課題を残したと言われるならば、この問題を解決しなければならない使命を残してくれたのです。
 人間に残されたこのような不運の壁を乗り越えるために、天が動員されていることをあなたは知っています。この不運な運命を補うために天が動員されている一方で、その王国の霊的な力も動員されていることを知らなければなりません。さらに、地上の人間も動員されているのです。
 不幸の壁を乗り越えるための歴史的な一時を探さねばならなかった人々が、その時を見つけられなかったために、今日私たちは再びその不幸の歴史を引き継いだのです。ですから、私たちは今、結束してこのすべての不幸の壁を乗り越えなければなりません。これを乗り越えられなければ、あなたの子孫たちも同じく不幸の壁を乗り越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道や悲しみの道、涙の道を避けることはできないことをあなたは知るべきです。
 これを考えると、今日のあなた自身が単なる存在ではないことがわかります。あなた自身には天国の嘆願がかけられ、人類の嘆願が重ねられているのです。さらに、あなたは過去と現在と未来のすべての嘆願を解決しなければならない主人公の立場にあるのです。
 あなたが一日の生活で、または一代の人生で、このすべての不幸の壁を切り開いて乗り越えられない場合、あなたを見守っていた歴史的な希望、または神の計画に基づく希望、または天の希望が崩れることを意味します。これを考えると、今日のあなたは個人ではないことに気づかなければなりません。
 今日、多くの人々がいますが、果たして神の不幸や天使の不幸、そして未来の人類の不幸までを代わって私たちに阻む見えないサタンや悪の集団に立ち向かって戦える責任者はどれくらいいるのかを考えなければなりません。
 これを考えると、今日の私たちがこのような立場に陥ったのは、神の計画に従って来た多くの先覚者たちも同じような状況と同じような環境で自らの生活を犠牲にしながらもこの一つの問題を解決するために戦ってきたということを知るべきです。あなたはこれを骨身に染みて感じなければなりません。
 あなたは旧約時代を振り返り、ノアを見てください。ノアは神が人類の祖先に残した悲惨な運命の後、1600年間も苦労して、数多くの人々の中からようやく見出された一人でした。ノアはどのような存在だったのでしょうか?彼は当時の多くの人々を代表して天の不幸の気持ちを感じ取れる存在であり、当時の人々が感じる不幸の気持ちを代わりに神に慰めてもらう立場に立っていたのです。
 このような立場にあったノアは、1600年の歴史的な使命を負った人間は、人間のためにでも天のためにでもこの不幸の壁を乗り越えようと、歴史上誰もが感じたことのない不幸な場所で、踏みつけられ、嘲笑され、追われる不当な場所から戦ってきたのです。このようなノアの生涯を忘れてはならないでしょう。
 その時、ノアの前に現れたのは何だったのでしょうか?それは、神の復帰摂理を確立するための神の復帰摂理であり、ノアの前に1600年間の悲しみと不幸を代表する方舟が現れたのです。ノアが扱わなければならなかった方舟は、歴史的な不幸を代表する一つの存在だったのです。
 1600年の不幸の山を越えなければならない使命を感じたため、神が与えた責任とその責任を背負ったノアが一つの心情になったのです。ノアは、歴史的な復帰条件として与えられた方舟を知っていたため、120年間、苦難の生活と努力の道を歩んだことを皆さんは知るべきです。
 120年後、この地を審判すると告げられたノアは、その日から誠実に方舟を建て始めました。しかし、1年ではなく、120年もの長い期間を耐えて船を建てたにもかかわらず、ノアの心情は自分の家のために建てるわけではありませんでした。また、子孫のために建てるわけでもありませんでした。そして、その時の悪い世界のために建てるわけでもありませんでした。ただし、この方舟を建てることはただ一つの神の意志を達成するために建てることだったのです。こうして、神の悲しみや1600年にわたって経験された多くの先人たちの悲しみを胸に抱え、黙々と戦ってきたノアの姿を回顧しなければなりません。
 これを考えると、私たちは過去に神の意志に従ってきた先祖たちが悲しい道を歩んできたが、このような環境にあったノアは悲しい難局が押し寄せるにつれ、この困難な環境を押しのけ、乗り越えるために内面的に体と心の無限の戦いを経験したことを知るべきです。
 彼は120年間、このような戦いを続けました。誰も同情してくれない中、ノアは神の意志を達成するために忠実に悔い改めを守りながら戦ってきたのです。これを考えると、このノアの心情は確かに1600年後の誰もが感じなかった悲しみの心情だったことがわかります。
 このような過程を経て、やっと天が認める時が来たため、神の約束が成就するその日、不幸の怨恨を解消できる審判の歴史が生まれたのです。
 ノアがこのように大きな復帰の使命を背負うほど、彼は安逸な生活を送れませんでした。喜びや平和な生活を送れなかったのです。身体的な苦痛と心の苦しみ、そして悪の環境からの迫害を受けたのです。こうして誰も同情してくれない困難な山を越えた後に、天が援助してくれたのです。そして、120年間の迫害や悲しみ、言葉にできない不幸な運命を耐え抜いた後に、ようやく神が友として、ノアの慰め手として、ノアの不幸を解消してくれる責任者として現れることを皆さんは知るべきです。
 しかし、その時点で残っていた外的な不幸の山を越えることで全てが解決されると思っていたが、当時の不幸はもちろん、未来の不幸まで解決しなければならないことを、未だ気づいていなかったのです。永遠の人類史に一つの復帰の基点を築かなければならなかったアブラハムでしたが、それを果たすことができなかったのです。ですから、アブラハムは内的な不幸の生活を踏み越え、イサクを犠牲にする場にまで進んだが、それだけでは解決されず、内的な不幸が今日の私たちにまで続いていることを示しています。
 しかし、皆さんは歴史的な不幸を担ったアブラハムが哀れな状況に置かれていたことを知らなければなりません。
 では、アブラハムはいったい、その時までの人々が感じなかった不幸の心情を持ち、神の前で責任を負うと決意し、誓ったでしょうか?彼はいつでも、目が覚めた瞬間にでも神の意志を中心に据え、自分が犠牲になっていることを忘れる日には、神の意志が果たされないことを懸念しました。そして、天国を悲しんで、天国のために自分を捧げるべきだと考えました。アブラハムのこのような不幸の心情を皆さんは知るべきです。
 ヤコブを見ると、アブラハムの土地を継承して天国の祝福を実現させる使命を受けたその日から、ヤコブも不幸な生活を送りました。ハランのラバンの家で21年という長い年月、不幸な生活を送るだけでなく、内的にはエソの従属を受け入れる生活を送りました。ここでヤコブが行く道にはいつも悲しい条件があったということを皆さんは知るべきです。
 モーセも同様でした。アブラハム以後の400年を民族的に踏み過ごすための使命を負ったモーセにとっても、神の意志に従うための準備期間である宮廷生活40年、意志を実行する段階にあるミディアンの荒野生活40年、悲しみを超えて約束の地カナンに向かう途中での荒野の彷徨40年は、言い表せないほどの不幸な期間でした。
 また、民族が知らない不幸の心情を抱き、民族を代表して責任を果たすためにシナイ山に登り、天国の前で論じることもありました。60万人の大衆を荒野に置いてひとりで神の意志のために、自分の80年の生涯すべてを忘れ、その時の悲しい状況も忘れてシナイ山に向かったモーセの悲しい心情を皆さんは思いやるべきです。
 シナイ山に登り、犠牲の時刻として食べるものや着るものをすべて忘れながら、体も心もすべて捧げ、懇願し、祈ったモーセの偉大な心情を理解した人は、イスラエルの民の中には誰もいませんでした。
 これを考えると、ノアから今まで、復帰の使命を負ってきた私たちの信仰を持った先祖たちが、悲しみの生活や苦難の経験を訴えるその心情を誰も理解せず、誰も彼らに従わなかったことがわかります。ですから天国にいる先達たちは、天国を代表して戦って残した不幸や怨念を誰が責任を負うのかと嘆息しています。もしあなたがその不幸の運命を負わなければ、彼らはあなたを非難するでしょう。
 民族全体が神が許されたカナンの恵みに入る使命を負っていたにもかかわらず、彼らは不満を言い、荒野で座り込もうとしました。このとき、モーセが一つの生命をかけて全民族の命を救う山の犠牲にしようと躍起になったことを、その民族は知りませんでした。ただ神だけが知っていたのです。神だけが友達となってくださり、神だけが父として彼を扱ってくださったのです。
 モーセはそれがわかっていたからこそ、40日間食べるものを忘れながらも、二度と父が悲しみや不幸の心情を持たないようにしてくださる責任を感じ、全力で懇願することでイスラエルの民を復活させることができる言葉を受け取ったのです。
 これは喜ばしいことでした。しかし、喜びを紹介するためには、他人が知らない中で、背後で悲しみの犠牲となった者がいたことをイスラエルの民は知りませんでした。もしそれを知っていたなら、荒野で60万人の民衆が倒れることはありませんでした。その後でも、彼らがモーセの十戒を受け入れ、天国の悲しい心情を和らげるために自分たちの身を犠牲にすることさえ信じていたら、彼らは荒野で倒れなかったでしょう。
 モーセも外的な石板は受け取ったが、自分の行為を通して後継者たちの内的な不幸まで和らげなければならないとは知らなかったのです。ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブもそうでした。自分の行為に現れる生活的な環境は不幸的なものだったが、自分を通して後継者たちの内的な不幸まで引き受けなければならない責任は、モーセも知らなかったのです。
 そのため、モーセの岩2タップを通じてバローの宮廷から神の援助によって導かれたイスラエル60万人の大衆が、荒野で倒れることになったのです。
 彼らが倒れたもう一つの原因は何か?それはモーセの心情を理解しなかったことです。モーセの悔い改めを彼らが受け入れなかったために、彼らは荒野で倒れたのです。
 これを考えると、今、あなたが立っている場所が、古代のノアが方舟を建てていた場所であり、アブラハムが犠牲を捧げていた場所であり、ヤコブが21年間羊を飼っていた場所であり、モーセが120年間労働していた場所であり、40日間断食していた場所であることを、あなたは知らなければなりません。
 神から希望の楽園を約束され、喜びの栄光を称えながら、宮殿に向かって出発していたイスラエルの民が神の心情を忘れ、結果としてその喜びは失われ、敵対心が生まれ、民からの敵意に変わったことです。これが起きると、天国は彼らを罰するしかなかったということを、あなたは知らなければなりません。
 今日の私たちキリスト教徒が持つべきものは何でしょうか?私たちの歴史を台無しにし、私たちの道を台無しにするサタンの勢力に対抗して戦わなければならない心、サタンに対する敵意を持たなければなりません。そういう人は滅びません。しかし、サタンの勢力に対する敵意ではなく、仲間同士の恨みや敵意を抱いてはいけません。そういう人や教団があれば、間違いなく壊れるでしょう。
 これを考えると、神の意志を知る人々は、民がこのような状況にあることを心配しながら祈り続けていたことがわかります。そして、神の意志を代わりに民族や世界を導く使命を負った人がいれば、その人は時が来れば、環境が許す限り、民族の多くの敵を一度に滅ぼすでしょう。
 自分を中心に考え、自分を中心に動いている人々の多くの民族は滅びますが、民族の敵に立ち向かって戦わなければならない使命感を持ち、自分の体と心を犠牲にする人々の多くの民族は滅びません。
 それでは、終末に立っているあなた自身はどのような立場にいるのでしょうか?あなたがすべての先祖を代表して立ったとするならば、ノアからアブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス様など、すべての先祖が敵と戦い、歩んできたその道を歩まなければならず、苦労し、使命を果たしてきたことをあなたが見習わなければなりません。あなたがこの時期にそのような心を持たなければ、誰があなたを先導するかわかりません。あなたはこれを心に留めなければなりません。
 モーセも「私だけ残ったか?」と天国に懇願するエリヤの孤独を感じながら戦ってきましたが、イスラエルの民を守る心、そして民族の敵を討つ日を待ち望む切望の心が彼の心と体から消えなかったため、彼は倒れ、そして再び倒れるかもしれませんが、イスラエルを導く使命を続けられたのです。彼がこうしたのは自分のためではなく、彼の生涯は意志のための生涯であり、民族のための生涯だったからです。
 イエス様がこの地に降臨される6か月前に、意志を持って戦い出していた洗礼者ヨハネも、彼が現れる時の生活環境は悲惨でした。彼も不運な環境から逃れることはできませんでした。神は4000年もの間、待ち望まれたメシアのために、ヨハネは荒野で30年以上も準備してきた生涯は、誰も理解できないほど困難なものでした。それを知る者は彼だけでした。
 しかし、彼も30年以上にわたって悲しい生活を送りながら、イエス様が自分よりも内面的な不幸に苦しんでいる師であることを知らなかったのです。
 マタイやヨハネも同様に、不幸な道を歩みました。しかし、4000年の歴史を代表し、天国の不幸や地上の不幸、そして全人類の不幸を代わりに背負い、史上誰も感じたことのない最高の悲しい気持ちを感じながら、この不幸の歴史を生み出したサタンに立ち向かうことができる存在がこの地に現れなければならなかったのです。このような存在を天が示さなければならなかったのです。
 この責任を背負って来られた方が誰かというと、皆さんがよくご存じのようにイエス様です。イエス様は4000年の帰還の歴史の中で、誰も感じたことのない最高の悲しい気持ちを感じながら、この不幸の歴史を生み出したサタンと対決し、勝利することができる方でした。
 聖書には書かれていませんが、イエス様自身もヨセフの家庭で30年間もの間、語り尽くせないほどの不運の道を歩まれました。これは民族を包むためであり、神の心を代わりに表現するためであり、神を代表して教団や部族を包むためでした。
 しかし、自分の家族や部族、教団や民族を包みたいと願われたイエス様でしたが、彼は民族から迫害を受け、教団から嘲笑され、部族から追い立てられ、最終的には十二弟子たちから裏切りを受けたのです。
 これを考えると、大声で泣き叫びたい悲しい出来事であり、人々に呪いを返すべき出来事でしたが、イエス様は敵意を克服しました。むしろ、道が塞がれたことを知ったイエス様は、誰が歴史的な不幸の気持ちを引き継ぎ、天国の代わりに父の内面的な気持ちを慰めるかを心配していたのです。
 自分の周りの多くの人々は、イスラエルの幸福を引き継ぐことができると考え、ユダヤ教の教団の祝福を達成することができると思い、自分たちを中心に歴史的な王国を築くことができると考えていましたが、イエス様は十字架に架けられました。
 先祖たちが歩んできた公式の道を進む立場に立ったイエス様は、この地上で果たすべき使命が大きければ大きいほど、または思想が高ければ高いほど、責任感を感じるとともに、当時の自分の民族があなたを裏切るかもしれないが、将来は自分の福音が世界的に広まり、世界的な敵が降伏することを知って、十字架の道を選ばれたのです。民族的な敵の立場に立つのではなく、それを踏み越えて世界的な敵を降伏させることを考え、十字架の道を選ばれたのです。
 そのため、聖書に記録されたイエス様のヨセフの家庭での30年間の生涯や3年間の公生涯に関する言葉を見ると、イエス様は歴史的な不幸を代わりに受けた方であり、天敵的な不幸を代わりに受けた方であることがわかります。
 しかし、イエス様を信じていた多くの群衆は、彼らのメシアであり、民族を救う救世主であると信じていましたが、結局はイエス様が去られると、すべてを捨ててしまいました。
 もし、イエス様を信じていた群衆が、天に向かってのイエス様の内面的な気持ち、つまり神に対する心情を知っていたならば、イエス様の状況を理解し、イエス様の後についていたでしょう。そして最初についていた群衆がついていたイエス様の後を全体の民族がついていたでしょう。
 しかし、4000年の帰還の歴史を栄光の1ページとするべきであったイエス様の福音の歴史は、血の祭壇を通じた涙の歴史として記録されています。これが一度で終わることではなく、終わりまで続くことは避けられない事実であると知っていたイエス様だからこそ、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と祈られたのです(マタイ27:46)。これは自分のために祈った祈りではありませんでした。民族を心配し、後の多くの人々を心配して祈られた祈りであったことを理解する必要があります。
 さん、持っているものがないからと落胆しないでください。知っていることがないからと落胆しないでください。皆さんが落胆するべきことは、歴史的な過程を経て戦って来られた神の心情を感じていない事実です。また、先祖が血の祭壇を積み重ねて来られたその心情を感じていないことを懸念すべきです。さらには、私たちが神の真の子となり、キリストの真の友となることを求める中で、誘惑されるサタンに対する強い決意と心を打ち負かすことができないことを残念に思わなければなりません。
 今日、私たちが歴史の過程を振り返るとき、数多くの先祖たちが家庭的あるいは民族的な不遇の状況を乗り越えるためにその心情を持っていたことを認識する必要があります。世界的な不遇の壁を乗り越えなければならない私たちは、ノアの時代の誤りを忘れてはなりません。アブラハムやモーセ、洗礼者ヨハネの誤りを繰り返してはいけません。
 人類の堕落から6000年が経過した今日でも、神の全体的な悲しい心情を感じる人がいないとしたら、あなた方は「父よ!私を立て、ノアやアブラハム、ヤコブ、イエス様の心情を代わりに持ち、全体的な父の心情、つまり堕落する前のアダムを愛された心情、また堕落後の人間たちを扱い表さなかった怒りの心情まで、私の心で感じ、歴史的かつ宇宙的な犠牲となることができますように。」と祈ることができなければなりません。
 神が創世以来今まで鞭を持ち上げられない悲しい立場にいたことを、だれが知らせたのでしょうか?神のことを愛の神とだけ知っていた人々は、公平な怒りの神であることを知りませんでした。神は過程で愛で接してくださいますが、最後には裁き、打たなければならない立場にある神です。あなた方は、神がこのように愛の神であると同時に、公平な怒りの神であることをしっかりと理解する必要があります。
 このようなことを知る人でなければ、カナンの7つの民を追い出し、イスラエルの福祉を築くことはできません。今日「終末の聖徒」と呼ばれるあなたたち、他と異なる志で歩んだあなたたち、愛の神でありながら公正で裁くという命題を掲げて、あなたたちに接しておられることを知る必要があります。そして、それにふさわしい神の立場を理解しなければなりません。
 終末にある私たちは、歴史的な父の心情を知ると同時に、その心情を代わりに持ってこの地上で意味が果たされないことに対する怒りを抱く父を慰めるために戦うことができなければなりません。神の真の子らの立場からこの使命を成し遂げるために来られる方が再臨することです。
 見てください。ノアの時代には箱舟を中心に戦い、アブラハムの時代には祭壇を中心に戦い、モーセの時代にはイスラエルの民を中心に正義を行い、イエス様を中心にしてサタンの世界を打ち負かそうとされましたが、それは果たされませんでした。ですから、イエス様は裁きという名詞を掲げて戻られたのです。
 今日、皆さんが直面している歴史的な困難をどのように乗り越えるか?それは皆さん一人ひとりにかかっています。天国の門は無理やり入ることはできません。ですから、皆さん自身がこの困難を乗り越え、その障壁を崩す必要があります。そして、父の憤りを解き放ち、カナンを目指したイスラエルの希望を抱き、この困難を乗り越えるための戦士になるべきです。
 これまでの歴史の過程を振り返ると、将来の終末時代には、乗り越えなければならない困難が非常に多いことがわかります。その時、皆さんは個人的な扉を通らなければなりません。個人的な扉を通った後には、家庭的な扉、そして国や世界的な扉を通らなければなりません。
 皆さんは今日、どのような使命を担っていますか?皆さんは昔の先祖の困難を負う立場にないなら、時代的な使命を担う立場にあります。また、世界的な使命を担う立場にないなら、永遠の神の計画を負う立場にあるのです。これを心に留めておく必要があります。
 これまでの歴史は何を目指してきたのか?世界史は敵対するメシアに向かって進んできました。ですから、困難の歴史は今や過去のものとなります。信仰の時代も過ぎ去ります。新たな使命を持ち、世界的な困難を解決しに来るメシアが現れるまで、皆さんは勇敢に前進しなければなりません。
 今日、終末の時代に直面している皆さんの中には、歴史的に伝わるすべての条件を一時に克服し、帰還復旧しなければならない時期があるということです。時代の運を担った人もいますし、世界の運を担った使命者や天運を担った使命者もいます。
 これらをどのように結びつけて統合することができるでしょうか?これが道徳家や宗教家の使命なのです。そして、実際にその使命を遂行するのが宗教の使命なのです。
 宇宙が誕生してから今まで、人々は何を中心にしてきたのでしょうか?人々はこれまで、親や夫婦、子供たちの愛を目指してきました。つまり、歴史と時代は変化してきましたが、親や夫婦、子供たちの道や規律は一度も無視されたことがありません。
 終末に直面する人々は、どのようにすればよいのでしょうか?個人的な正を超える必要があります。そのため、道に進んだこれまでの道人たちは、最初から個人的な正を断ち切り出発したのです。これが道の世界での戦いです。
 人間の個人的な問題は歴史的な信仰の目標であったが、それだけでは天倫の精神とは一致しないということです。6000年の人類史が一つの目標を立てるためにあったが、これだけでは宇宙的な問題が完全に解決されないので、天的な生の法則を確立できる一つのイデオロギーを持つ宗教が登場しなければなりません。
 では、将来的に天運の時代に入るその時に立ち現れる真の両親、真の子供、真の夫婦はどのような人々でしょうか? そのような人々は人間の情に従い、神の心情に従う人々であり、宇宙的な苦難を感じる人々であり、神の愛を中心にし、神は私の父であると感じる人々でしょう。
 6千年の歴史の中で、人類は人間の終的な問題も解決できず、横的な問題も解決できませんでした。それで、人々はこのような問題を解決してくれる宗教を求めていたのです。私たちは終末時代に直面するこのような高みとすべての壁を超えなければなりません。
 神は長い歴史を通じて人間に対してすべてを忍耐してこられた真の両親であることを理解しなければなりません。さらに、その次に、イエス様はどのような方でしょうか? イエス様は「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と言われましたが、このような花婿と花嫁、つまり天的な愛の問題を解決する宗教が最後の高みに立つことができるのです。この意味で、キリスト教が中心的な宗教であるのです。
 そして、イエス様は「私は神と一体を成した、私は神の唯一の子」と言われました。さらに、イエス様は人類に向かって「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と言われました。天は長い年月にわたりこのような基準を中心に置き、世界的な苦難の壁を超えることを望まれましたが、このような立場にあった方がイエス様だったのです。
 では、皆さんはどうすべきでしょうか? 皆さんは2000年の間に花婿の苦悩の心と共に来られたイエス様の心情や、多くの聖人たちが抱いた苦悩の心情を受け入れることができる人々にならなければなりません。そのような人にならなければ、神の子と呼ぶことも、イエス様の前に立つ一人の兄弟姉妹と呼ぶこともできないでしょう。
 もしそのような人になろうとするなら、サタンはあなたを攻撃するでしょう。これがサタンの攻撃目標です。しかし、新しい信仰や思想、新しい宗教、新しい指導者が現れてそれを乗り越えれば、サタンの攻撃さえも跳ね返すことができます。そうすれば、サタンが追い払われることはありません。この時、再び革命や変革はありません。そのときに初めて永遠の思想が展開されるのです。
 皆さんは天国に行こうと思ってはいけません。地上で天国を建設しようと思わなければなりません。そして、天国を建設する前に、まず自分自身が天国の人でなければなりません。そのような天国の人になるには、父の心が私の心であり、私の心が父の心であると自信を持って言える程度に、父と心が一体とならなければなりません。そのためには、地上に父の心を代表し、主と先祖の心を代表しなければなりません。そうすれば、歴史上のすべての問題を解決できるということです。
 天界が動員され、歴史的な不運の壁を乗り越えようとしているとき、地上に住む私たちにも使命があることを知るべきです。今、私たちはこのような使命感を持って歴史上の最後の不運の壁を乗り越えようとするために、私たちは自分を阻む真の親の敵、真の子の敵、真の花婿花嫁の敵に対する敵意を持たなければなりません。そのような敵意に燃える息子娘でなければ、最後の審判の壁を越えることはできません。
 歴史的使命、時代的使命、未来の意志を前に置いている皆さんは、現在どのような時代に立っているかを知る必要があります。私たちは今後、天主教の時代が来るということです。望まない者はだれも持てない天国に対する心情や、サタンに対する敵意を持つ方が現れて、この世界を回復するでしょう。そのとき、その方を礼拝し、協力しなければならない使命がキリスト教にあるということです。
 一日を生きることも、生涯を歩むことも、父の意志のために行うべきです。
 そして皆さんは先祖たちが歩んだ辛い道を辿らなければなりません。私たちは今、荒野に出たイスラエルの民と同じです。モーセとイスラエルの民が荒野で追いやられ、苦難を受け、イエスが民や教会から拒絶され、家庭から信用されなかったのと同じように、皆さんもこのような悲しい、不公平な立場を経験しなければなりません。しかし、落胆しないでください。皆さんがこうした不公平な立場で果たすべき役割があるなら、歴史的に苦難を受けた父の心情を共感し、主の苦しみが私の苦しみであり、先祖の苦悩が私の苦悩であると考え、千年にも渡ってその意志を変えずに団結し、サタンに対する敵意を持たなければなりません。そのような敵意に燃える息子娘でなければ、最後の審判の壁を越えることはできません。
 歴史的な使命、時代的な使命、未来の意志を立てる使命を持つ皆さんは、今、どのような時代に立っているかを知るべきです。今、天主教の時代がやってくるということです。誰も持てない天国への心情や、サタンへの敵意を持つ方が現れ、この世界を回復するでしょう。そのとき、その方を礼拝し、協力しなければならない使命がキリスト教にあるということです。
 一日を生きることも、生涯を歩むことも、父の意志のために行うべきです。
 民族を代表して私たちにこのような使命を任せたなら、私たちは父の怒りの心情を感じ、父の悲しみを身に受け、敵に向かって進撃できる勇士にならなければなりません。そのためには、皆さんは自分の生活と信念を統一しなければなりません。天国の悲しみとイエスの悲しみと先祖の悲しみと後続の悲しみを解消するために戦わなければなりません。
 今、不運の歴史が皆さんに迫っています。ですから、皆さんは心を込め、意志を込め、自分のすべてを捧げ、自分が天罰を受け、不当な扱いを受けても、イエス・キリストを代表して民族と世界の前に犠牲となる覚悟を持ちながら自ら手を上げて、天の前で誓うことができなければなりません。





「文鮮明先生の著作選集3 - 19章、『イエス・キリストの心を持つ者になろう』(1958年1月26日)」


1958年1月26日(日)、本部教会での説教。


ピリポの信徒への手紙1:1-11


<祈祷>


愛するお父様、私たちが集まったのは、あなたの意志を知るためです。この子供たちの心と体を受け入れてください。まだ戻るべき戦いが残されているにもかかわらず、天の道を見落とさず、あなたからの命令を深く心に留め、その通りに行動するよう導いてください。
この時、私たちの心の深い部分にあなたの本性を満たしてくれることを許してください。また、あなたの本性を慕いたくなるこの時間を与えてください。6000年に渡るあなたの苦悩をこの時理解できるようにしてください。あなたが私たちのために努力し、私たちのために十字架の苦しみを耐え、戦ってきたことを理解できるようにしてください。
地上には多くの人々がいますが、宇宙的な心情を代表できる者はいません。あなたの子として、あなたの栄光を歌うことができる者もいません。私たちを呼んであなたの愛を感じさせ、預言者たちの心情と万物の心情を通じることができる恵みを与えたあなたの前に、謙虚な心を持ってひれ伏すことができるこの時間を許してください。
与えられた恵みが鞭であることを知り、あなたを慕う心も大きくなければならないことを知っています。しかし、私たちの切実な心が十分ではないことをお許しください。あなたの悲しみを恐れることができる子供になれるようにこの時間を許してください。
それにより、自らのすべての過ちを認め、自らのすべての罪を悔い改め、自らのすべてを公にして、あなただけを所有し、あなただけを愛し、あなただけに頼ることができる一つの誠実さを備えることを祝福してください。愛する父よ、心から願います。
お父様、この時間、直接管理してくださり、サタンが介入することのないように導いてくださいますよう切に願います。私たちの体と心がお父様と一つになるこの時を許してください。また、私たちが築く祭壇が天地の生命を代表する聖別された祭壇となるように許してください。愛する父よ、心から願います。
地と天の恨みが満ちていることを感じますので、私たちの心と体が特に父の前に捧げられる供物となるように許してください。愛するお父様、心から願います。
今、私たちの前に御言葉を示してください。この時、与える者の心も受ける者の心も二つに分かれず、一つになるように許してください。お父様の実体を感じ、不信の群れに対抗するために父の前に実体として捧げられた供物であることを感じるこの時間を許してください。愛するお父様、心から願います。
この時、集まった子供たちの悲しい心を慰めてくださり、意のままに管理してくださいますよう切にお願いします。
すべての言葉を主の御名でお祈り申し上げます。アーメン。


<説教>
今、皆さんと少し考えたい言葉の題は「イエス・キリストの心を持つ者になろう」です。本文中「私がイエス・キリストの心であなたたちをどれほど慕っているか、神が私の証人である」という言葉を中心に、「イエス・キリストの心を持つ者になろう」と題して説教いたします。
アダムとイヴが堕落したその日から、神の希望は何かと言えば、神の心情を代表できる人、神が住むことができる聖堂として完成された人、神と一致する心情と心を持つ人を探すことでした。
この地上に神の意志を代表する神の実体聖堂として来たイエス・キリストは、4000年にわたる神の苦労した歴史的な摂理の道を代わりに表現した神の聖堂であり、4000年にわたる摂理で神が持っていた内的な心情を代表した方で、実際的な温かい心を持って現れた方です。今日、私たちはこれを感じざるを得ません。
神の心情を理解できるイエス・キリストの体であり、神の事情を感じることができるイエスの心でした。ですから、イエスの鼓動する心は天を動脈とし、人間を静脈として、天が動けばイエスが動き、人間が静まればイエスが静まる一体の関係を結ぶべきでした。それがこの地に来たイエス・キリストの使命であり、神の心情を感じるイエス・キリストの内的な心情を知る人、神の体を代表したイエスの外的な心を知る人がいなかったのです。
イエス・キリストの心情がどのようであったかと言えば、30年の準備期間中に他人が知らない孤独を感じた心情であったことです。
イエスはなぜそのような孤独を感じたのでしょうか?それは、人類の祖アダムとイブが堕落したことにより、創造の理念を達成し栄光を享受しようとした神の意志が成就されず、被造物は主を失った立場になったため、これを見る神は言葉にできない孤独を感じられたからです。イエスはこのような神の心情を知っていたため、同じ孤独を感じたのです。ですから、皆さんもイエスと同じように、被造世界が言葉にできないほど孤独な世界になってしまったことを感じる人になるべきです。
30年の準備期間を経たイエスはその後どのような生活をされたのでしょうか?4000年間神が努力して選び立てたイスラエルの民の前に現れ、新しい福音を伝えるために神の意志を代行する時、その心臓は言葉では表せない使命感に満ちていたはずです。30年間の悲しみの生涯を清算し、天の悲しみと苦しみを乗り越え、失われたエデンの主人公を再び回復させる使命を負ったイエスは、誰にも言えないほどの熱い心臓を持って現れたことを皆さんは忘れてはなりません。
選ばれた選民の前に現れ、新しい言葉を伝えるべく現れた時、イスラエルは、理念全体を代表するイエスを自らの希望の実体として、自らの栄光そのものとして迎え入れる環境を用意せず、むしろ彼らは意気込んで現れたイエスに反旗を翻しました。神がアダムとイブを失い悲しまれたのと同じように、神に代わって立てられたイスラエルがイエスの前で意志を示すことができなかった時、イエスは神がアダムとイブを失い悲しまれた心情を改めて感じざるを得なかったのです。
不信のイスラエルの民を見るイエスの心情は無限に悲しかったでしょう。憤りも強かったはずです。天に訴え、呪いをかけ、彼らを打つよう命じたいという切ない気持ちもあったでしょう。しかし、イエスはそのような心情を振り払い、エデンでアダムとイブが堕落した後に神が耐えられたその心情を思いながら耐え、悲しい心情を抱いたのです。そして反対するイスラエルの民に対して希望を持っていたイエス・キリストであったことを皆さんは知るべきです。
イスラエル民族を代表して贖罪の祭壇を築くべきであった洗礼者ヨハネや、アブラハム以降40余代にわたり選民の血統として神の手により導かれてきたヨセフの家族も消え去り、神の意志を受けて自らを宿し、出産後30年間育ててきたマリアやその兄弟、一族もすべて失われました。
「キツネにも巣があり、空の鳥にも住むところがあるが、ただ人の子には頭を置く場所がない」と言われたイエスの心情を、皆さんはこの時感じ取るべきです。その疾走する心臓の中には、神の労苦が大きかったことを理解すればするほど、イエスの苦悩とその怒りは大きかったでしょうし、選ばれたイスラエルに対する希望と期待が大きければ大きいほど、イエス・キリストの心臓は引き裂かれるような恨みに満ちていたでしょう。しかし、これを耐えながら静かに家を出たイエスの心臓がどのようであったか、皆さんは感じ取らなければなりません。そして、今日、皆さんの心臓がどのような状態にあるのかを見極める時が、まさに今であることを理解すべきです。
時は過ぎ去りましたが、イエス・キリストの疾走する心臓の脈動が今日、皆さんの心臓と血管、動脈と静脈を通じて動いていることです。そのため、皆さんは天に選ばれた心臓の脈動を代行できる人になるべきです。このような責任を代行できる人が現れることを、イエスは2000年もの間待ち望んでいたのです。また、神も6000年も待ち続けていたことを、皆さんは理解すべきです。
このようなことを考えるとき、住む場所がなく孤立した状況にあったイエス・キリストが、選ばれたイスラエルの民を背にし、信仰を頼りにしてユダヤ教を後にし、約30年の生涯をかけて荒野でバッタと野草を食べながら苦労し、メシアとしての道を準備していた洗礼者ヨハンも後にし、選ばれたアブラハムの血統であるヨセフ家族も後にして、天を背にし、家族を背にし、教団を背にして荒野へと出て行ったイエスの疾走する心臓がどのようであったかを、皆さんは理解すべきです。
振り返ってその一歩に恨みがあれば、天を代わってその恨みに満ちた心情を持ち、民族を責め、その責めに満ちた心情が爆発すれば、呪いの炎を下すように裁判の訴えをするべき立場であったにもかかわらず、イエスは民族の行く道を心配し、裏切り、拒絶する人々を心配し、彼らを再び抱きしめるために荒野へ歩いて行かれたのです。このようなイエスの孤独な心情を、皆さんは感じるべきです。
イエスは民族を後にして荒野に出て40日間断食しました。このように荒野に出て食べ物を口にすることができずに40日間孤独にさまようことを考えると、怒りが込み上げてくるかもしれませんが、4000年間耐えてこられた神の心情を思い、それでもこの民族に対する未練が残っていることを感じたイエスは、彼らに第二の生の期待を抱かせるために、荒野で何も食べずに40日間、神の前に民族的な捧げ物をしたことを、皆さんは知るべきです。
皆さんも経験があるかと思いますが、イエスは40日間の断食中に食べ物を摂取できなかったため、体が枯れるほど痩せていたということです。40日間の断食の過程で、イエスの心情は言葉にできないほど締め付けられ、心臓は衰えていきましたが、40日間の断食を乗り越えたのは、神の心情を切実に感じたからです。
それでは、今日の私たちはどうすべきでしょうか?私たちは、イエス・キリストの事情を理解できる友となり、食べられなかったイエス・キリストに固執し、死に向かうイエスの心臓の音を心配して泣くことができる友となるべきです。
そして、力ない体であったが、天命の新しい理念が塞がれてしまったことを打開しようとする戦いの中で、燃え上がる心を持っていたイエス、神の孤独な心情を思い、苦悩する心を持っていたイエスのもとに友は現れず、サタンが現れて試練を与えました。このような状況にあっても、自らの使命を果たさねばならなかったイエス・キリストの心臓を感じる皆さんであるべきです。
サタンが現れてイエスの心と体を破壊しようと3つの大きな試練を行ったとき、私たちは神の意志を代表し、民族を代表し、先祖を代表して新たに決意し立ち上がったイエスの疾走する心臓を感じるべきです。
最終的にサタンの試練を退けたイエスは、自分を拒絶したイスラエルの民が再び見つかるのが難しいこと、自分を反対し排斥したユダヤ教が再び見つかるのが難しいことを知りつつも、荒野に出て神との対決後、この罪の都を回復するための戦いに燃える忠誠心を持って決然と立ち上がったことを皆さんは知るべきです。
その日以降、イエスは死を覚悟して出発しました。イスラエルの民を代表して死ぬかもしれないが、自分自身を自分のものでないと自覚し、自分を試みたサタンに対して、自分を拒絶したイスラエルの民に向かって第二の攻勢を展開し出発したイエス・キリストの疾走する心臓を、皆さんはこの時再び感じるべきです。
よく人々は、イエス・キリストだからそのような事情に耐えることができたし、そのような苦難や非難にも耐えられたと言います。しかし、イエス・キリストだからこそ、より耐え難いということを皆さんは知るべきです。イエスは他の人よりも敏感で、他の人よりも極限の心情に苦しんでいたため、誰にも持たない重大な心情を持っていました。
そのような立場に立っていたイエス・キリストが、失われた都を再び探しに出たとき、人々は信じませんでした。イエスがそのような悲しみの生活、衣服を乏しく、飢える生活を経て立っていたとしても、地上にはイエスの事情に同調する仲間が一人もいなかったのです。そのため、イエスは「神だけが私の友であり、神だけが私の父だ」という心情を持つに至りました。このように、当時の人々はイエスを信じてはくれませんでした。
民族が裏切り、教団が非難し、親族と血族が見放し、自身の全てが失われるかもしれない中で、ただ一つ、イエスの安寧と、彼の希望、彼の心情を満たすものは何だったのかと言えば、それは「神は私と共におられる」という事実、そして「神は私のものである」という一つの事実でした。この一つの事実が4000年の歴史を代表して再び天を憂い、神の意志を再び掲げ、イスラエル民族に伝え、全人類に神の心情を植え付けるという考えを持たせたのです。
イエスは荒野に出る前までは、神を愛の神として知っていました。自分を育て、無限の希望の神として喜びをもって来られる方だと思っていましたが、このような盛り上がった心情を持って出たとき、常に相対的な関係であり、常に私を育て、私を抱きしめ、私を慰めてくれた神の困難な事情に直面し、神の困難な事情と悲しい心情を感じるようになりました。そして意志を「私が担います」と訴え、そのような心情を持って出たとき、その日から相対的な神ではなく、直接的な神、自分と共にいる神として、神と共に新たな決意を持って敵の前に立つことができたのです。
そこで40日間の断食期間が終わり、新たな戦いの道を始めたイエスは、民族を代表して4000年の神の恨みを解放するため、神の敵であるサタンを打ち倒すために死を覚悟して立ち上がりました。イエスはただ一人で立ち上がったのではなく、4000年間描かれてきた姿、神の心情を代表する者の姿で現れたのです。
その後イエスが語った言葉はイエス自身の言葉ではなく、イエスの行動もイエス自身の行動ではありませんでした。イエスが語った言葉は神の言葉を代表したものであり、イエスが行った行動も神の行動を代表したものでした。イエスは明確に神が自分の心の中に生きており、自分の心臓を動かしていることを感じたのです。
こうしてイエスは再びイスラエルの町に戻りました。しかし最初に民族が反対したときは孤独な心情を持って荒野に出ることができたものの、今回は押し寄せる試練と迫害がどれほど強かろうとも、それに立ち向かい勝負を決めようとする決意と覚悟を持って立ち上がったイエス・キリストの心情を、皆さんはもう一度考えてみるべきです。
失われたイスラエルを再び見つけるために立ち上がったイエス、体が崩れることがあっても決して後退することができないという固い信念に燃えるほど、ますます疾走する心臓を抑えることができなかったイエスを、誰が理解してくれたでしょうか?この世には、イエスの疾走する心情を理解する人は誰もいませんでした。ただ一人、神だけがイエスの事情を理解してくださいました。
そのような中で、イエスは3年間の公生活の道を歩み始めました。最初には、弟子たちを選び、使徒として立てました。しかし、イエスが弟子たちと接するときも、4000年にわたりアダムを失い悲しんでいた神の心情を代わりに表して弟子たちに接したのです。これらの弟子たちは誰であったか?神の実体聖堂となるべき使命を持った弟子たちでした。そしてイエスは、彼らを神の実体聖堂となるよう導くという強い意志が骨に染みていたのです。
反対するイスラエルの民も、サタンの一族ではなく、現れるべき神の実体としての神の子女であるにもかかわらず、神の意志を知らずに反対する彼らを見て、悲しむ神の心情を感じたイエス・キリストの心はどのようであったかを、皆さんは理解する必要があります。
そうしてイエスの3年間の公生活を振り返るとき、イエスは自分のために生きたのではなく、まず神のために、次に弟子たちと人類のために生きました。イエスは自分のためではなく、神の心情を代わりに表して生きたのです。
そして、イエスの疾走する心は神を代表し、イスラエルの民を代表したものでした。そのため、神の悲しみがイエスの悲しみとなり、イスラエルの民の悲しみがイエスの悲しみとなったのです。ここで、神とイエス、そしてイスラエルの民を代表する使徒たちは三つではなく一つとなることができました。神と民と自分が一つとなるべきという心情に苦しんだイエスでした。そして、皆さんはイエスが自分を追いかける弟子たちを自分の実子以上に大切にし、愛したことを知る必要があります。
イエスの3年間の公生活は、子供たちのために犠牲を払う親の心情を持ち、真の愛の生活を送った道でした。罪に苦しむ人類を哀れむ神の心情を代表し、民族と使徒たちの心情を代表したイエスでしたが、イエスの事情を理解する人は地上に一人もいませんでした。
誰にも理解されない中で苦しむ天の心情を抱えて戦いを挑もうとしたイエス、再び民族が反対し、追随する人々が離れ、最後にはゲッセマネの園で一人で祈らねばならなかったイエスの心情はどのようであったでしょうか?皆さんはこれを考えてみるべきです。
ゲッセマネの園で一晩中祈り続けたイエスの心情は、言葉にできないほど苦痛に満ちたものでした。それにもかかわらず、ついていた三人の弟子たちは、イエスとの行動を一致させることができず、それぞれバラバラに行動してしまったのです。イエスを通じて進むべきであり、イエスと同じ心情で訴えるべきであったにも関わらず、また、イエスが愛する弟子たちのために心を痛め、弟子たちを気遣いながら訴えたにもかかわらず、彼らはイエスの心情がどのようであったのかを理解せず、疲れ果てて眠ってしまったのです。
生死の決断の場面に立たされたイエスの心情は、天と地が溶け出すかのような言葉にできないほどの切ない心情でした。神はこのようなイエスの心情をご存知でした。しかし、3年間かけて自分の子のように育てた愛する3人の弟子たちは、イエスの心情を理解せず眠ってしまったのです。そのため、焦燥感に満ちた心情で3回も起き上がり、弟子たちを起こそうとしたイエスの切ない心情を皆さんも感じ取るべきです。
このとき、イエスはどのような心情を感じたでしょうか?それは、神がエデンの園でアダムとイブを失い、感じた悲しみと同じものでした。また、イエスは自らの前に現れた第二の民族である選ばれたイスラエルの民が反対し、ユダヤ教が反対する中で、再び3年の公生活を経ても自分を真に信じる人を一人も見つけられないと感じたでしょう。
アダムが堕落した後に神が感じた悲しみ、イエスが30年の私生活期間と3年の公生活期間に感じた悲しみ、さらにゲッセマネの園で祈っていたときの苦しい心情を理解する人がおらず、神の心情を感じ取る人もいなかったということです。3年間の公生活を共にした弟子たちもそれを知らなかったということです。
神を代表して歩んだ一生であったにも関わらず、イエスが歩んだ目的が民族のため、世界のため、人類のためであったにも関わらず、33年の生涯を歩んだ結果、残ったのは孤独でした。そして40日間の断食を終える時も、苦悩と悲しみに満ちた心情でいるイエスの前に敵であるサタンが現れたのです。
そのときのイエスの心情はどうだったのでしょうか?疾走する心臓はどうだったのでしょうか?何も信じることができず、どこにも頼ることができず、住む場所を決めることもできない切ない状況にあったにも関わらず、敵であるサタンが現れて試練を与えたため、イエスの心情は言葉にできないほど切なかったのです。それでもなお、ユダヤ民族と人類を心配していたイエスの心情を皆さんは理解すべきです。
私たちには、歴史的な使命を代わりに担い、贖罪の道を再び歩む責任があるとすれば、神の心情を代表したイエスの苦しい心情を代わりに担い、代わりに戦い、イエスの疾走する心臓の心配を代わりにすることができなければなりません。天はこのような真の子供たちが現れることを期待しています。
希望の条件をすべて断ち切り、荒野に出たイエスはサタンと戦い勝利しましたが、イエスには実体の供物を捧げるべき状況があったということです。これを皆さんは理解すべきです。
このようにして、イエスは愛する弟子たちと共にエルサレムに入りましたが、選ばれたイスラエル民族と教団を失い、孤独で哀れな状態でゴルゴタの道を歩まれました。この事情を皆さんも知るべきです。また、この事情の中で、非難すべきイスラエル民族であり、呪うべき12使徒であったが、鞭で追い出し、叫び、喚き散らす選ばれたイスラエル民族を見ながら、無言で十字架を背負い、必死でゴルゴタの道を歩かれたイエスの心情を、皆さんが理解すべきです。
イエスも人間であるため、人間的な感情があれば、不当に感じたでしょう。呪いと恨みが心を苦しめ、心が痛んでいたはずですが、神がこの民族、この世界を再び救おうとする意志が残っていることを知り、イエスは呪いの言葉を封じ、悲しい心情を転じさせました。
イエスは、自分が天を代表してこの民族を呪い、神を代表して審判すると、後代の人々を救う救済の計画が全て破壊されると感じたため、救済の基準を設けることができました。もしイエスが自らの不当さを不当として表し、神を代表する立場で呪いと恨みの立場に立っていたら、この世は希望が完全に途絶え、その時が世の終わりになっていただろうと感じます。
そのようなことを知っていたイエスは、「私が死の谷を越えても、なすべき神の意志がある」と感じていました。その心情から、呪うべき民族や復讐すべき敵に対して、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分のしていることを知らないのです。」(ルカ23:32)と言われました。このようにして第二の救済の意志を受け継ぎ、始まった悲痛で重大な瞬間を、皆さんも理解すべきです。そして、神はイエスを第二の救済の実行者として立てることができ、人々に復活の恵みを与えることができたのです。
このような状況にあったイエスは、敵によって十字架に釘付けにされることをすべて忘れ、過去の歴史を振り返りながら神の心情を案じ、未来の子孫を心配し、自らの血と肉が引き裂かれることを忘れ、天の歴史的な悲しみの心情を代わりに背負い、歴史的な神の恨みと歴史的な救済の責任を代わりに背負い、「天よ、赦してください」と訴えました。
それゆえに、万民のために、残念ながら人間としてこの世に生まれ、慰めの場所を一つも見つけることができず、あちこちに追いやられながら、孤独な孤児のように、放浪者のように孤独な道を歩んだ生涯が、結局はゴルゴダの丘での十字架の死に至ったこの一事を考える時、それを見る神の心情はどうだったでしょうか。神の悲しみは、天地をひっくり返すかのようであったでしょう。聖書にはイエスが亡くなる際に3時間天地が暗くなったと記されていますが、これは4000年もの間信じ続けた息子イエス、失われたアダムを見つけ出すために後アダムとして立てられたイエスが、死のゴルゴダの道で犠牲とされていく様子を見て、神が驚くほどの心情を抱いていたことを示しています。このような神の悲しくて切ない心情を理解する必要があります。
4000年の歴史を代表して現れるべきイスラエルが破壊されたことを、今日の私たちは復帰したイスラエルとして、イエスに反対していたイスラエルをイエスを歓迎するイスラエルに復帰させるべきです。そして、神の心情を代表して来たイエスを拒絶したイスラエルは壊れましたが、今日の第二のイスラエルである私たちが神を代表して不公平を解消できるようでなければ、再び来る主を迎えることはできません。天もこれを要求しています。
では、終末の聖者たちに対して求められる最大の要求は何でしょうか。再び来るメシアを迎え入れることができる人は誰でしょうか。それは、イエスが抱いていた苦しい心情とその疾走する心臓の内情を理解できる子供たちです。そのような子供たちがこの地上に現れなければ、死んだイエス・キリストの恨みを解くことができず、神の恨みまで解くことができます。それによって人々は喜びの日を迎えることができると理解しなければなりません。
イエスは復活の日を見つけましたが、復活後もイエスは自らを拒絶した弟子たちと会いましたが、喜びませんでした。復活後、マグダラのマリアがイエスに会って抱きしめようとしたときも、「抱きしめるな」と言いました。
喜びの日であり、喜びの瞬間でしたが、彼らはその歴史的な悲しみを知らず、イエスの代わりにイエスの前に喜びの条件を設けることができませんでした。このことを理解し、復活後にイエスを抱きしめようとしたマリアの心情を超えて、イエスの内的な心情を洞察し、彼の心臓まで理解し、天と地を背負った勝者としての資格を備える必要があります。どんな人間界のサタンであっても踏み越えて、神の前に立つことができる神の心情とイエス・キリストの心情を持つ人々でなければなりません。
アベルの血が歴史を代表して訴えたために、その贖いを果たすべきイエスが血の訴えの供物を捧げましたが、その後私たちはどうすべきでしょうか。イエスの流した血で終わらせるのではなく、その血を収集して、再び神の生きている人の血として私たちの体と心に保持し、その血を動かすことができる天的な心情と心臓を持った資格者でなければなりません。
皆さんは、自分を拒絶していた人々に対して、もう一度赦しの心を持ったイエスの心情を理解しなければなりません。互いに信じ合って、生きるか死ぬか一緒になる覚悟を持って出発した弟子たちが拒絶するとき、イエスは再び寛容で彼らを受け入れ、自らが死の危機を迎えるかもしれないが、彼らを呪わずに許したその心情を理解しなければなりません。
また、拒絶された弟子たちを後にして、復活して喜びの心を持ちながらも独り昇天しなければならないイエス・キリストが、自らに反対した使徒たちを探したイエスの心情を、あなた方が感じ取るべきです。
歴史的な和解の始まりについて、今日どこから始めるべきか考える必要があります。イエスの悲しい心情を慰め、喜びに満ちた心情に変えることから始めるべきです。今日、地上に悲しむ人がいれば、その人を抱きしめて共に悲しむことができるあなた方である必要があります。
選ばれたイスラエルの地位にある全世界に広がるキリスト教徒たちを見る時、選ばれたイスラエルを再び整え、神の祭壇を築き、生贄を捧げるべきイエス・キリストの苦しい状況が、歴史的な恨みとして結ばれていることを理解する必要があります。そして今日、世界に広がる第二イスラエルを動員し、彼らの保護者となり、彼らの戦いの代表者となり、彼らを代わってサタンと戦ったイエス・キリストの状況を共感する人になるべきです。このような心情を共感する聖者たちでなければ、イエス・キリストの使命を受け継ぐことはできません。
また、皆さんは全てを諦め、イエス・キリストの足跡を守り、イエスが荒野で受けたサタンの試練やカエサルの裁判、ローマ兵の槍突きを打ち負かし、勝利することができる人々でなければなりません。このような責任を果たす仲間が必要であり、同時にイエスを迎え入れることができる家族、族、社会、国家、世界が必要ですが、それらは一体どこにあるのでしょうか。
今日、私たちは団結する必要があります。教派を踏み越えて、神の心情を代表して団結する時が来ました。言葉を通してイエス・キリストの実体を所有する時が来たのです。旧約の言葉を基にしてイエス・キリストの実体を所有すべきでしたが、イエスが実体を通過する扉であったにもかかわらず、この扉を知らなかったためにイスラエル民族は砕かれました。そして、旧約・新約の言葉を通過する時代が過ぎ、イエス・キリストを通じた実体通過の時代が来ていることを理解すべきです。
エデンの恨みとは何でしょうか!言葉を失ったことが確かに恨みの条件となりましたが、実体を失ったことがより大きな恨みでした。では、誰が言葉を踏み越えて実体通過の扉を開くでしょうか?これが問題です。このような扉がないために、今日私たちはこの扉の石となり、この扉を作る使命を背負っていることを理解する必要があります。
神は言葉だけを重要視しているわけではありません。新旧約聖書、つまり何億もの人々が読んでいる聖書の言葉よりも、その言葉を通過した一人の息子をより重要視しています。その息子とはどのような人でしょうか?頭で知る人ではなく、心と体で知る人です。頭で知る時代は過ぎ去りました。心で言葉を理解し、体で感じ、自らが神に代わってサタンと戦える実体の生け贄が求められる時が来ています。
イエスが30年以上の生涯を通じて行ったことは、神の悲痛な心情を解放するために、旧約の言葉を蹴飛ばしてでも、人間自体が言葉を代表し、神の心情と一体となり、誰にも分けることのできないこの一つの門を地上に作り出すための努力でした。そして、この資格を持った一人を見つけるための戦いの過程でした。
この一人がいなかったため、イエスは運命によりこの世を去る際、「私は花婿であり、あなたたちは花嫁です」という恨みの言葉を残しました。
今、この恨を解決する者は誰でしょうか?神の恨を解放するためにイエスが苦しんだものの、成し遂げることなく世を去りました。今、6000年の歴史の終わりにあたり、その計画を継承し、この使命を担うために苦闘する地上の花嫁は誰でしょうか?その花嫁は、旧約・新約を知るだけの人ではありません。現代のどんな神学者でもありません。
イエス・キリストは30年以上にわたり神のために隠された悲しみを抱え、知られずに拒絶を受けました。40日間何も食べずにサタンと戦ったイエスは、死んでも生きても共にいると誓いながらも、裏切った弟子たちを再び受け入れるために立ち上がりました。普通の人間なら夢にも見たくないような存在でしょうが、イエスは復活後、弟子たちを再び探し出しました。このように、神の心情を代行するイエス・キリストであるあなたたちは、イエスを売り飛ばそうとしてはなりません。
彼の代わりになるべき世界中に散らばる第二イスラエルのキリスト教徒たちはどこに行くのでしょうか?サドカイ派やファリサイ派のような宗派を形成してきた人々が全てイエス
を受け入れることができずに終わりましたが、今日、皆さんはそうした宗派を踏み越えて立ち上がるべきです。
皆さんは父の言葉に代わって、そのような宗派を踏み越えて立ち上がる実体の供え物となるべきです。イエスの心と心が一つになり、神とイエスの心情と一つになった生きた供え物の実体が、この民族を代表する宗派の上に現れるべき時が来ていますが、今日のこの民族と人類はまだ眠っています。
世界は一つの心臓の動きによって一つの形を成し、天の心情とイエスの血肉を通じて歴史が流れてきましたが、今日、ついに実を結ぶべき一つの実体があなた自身です。
皆さんはイエス・キリストの切ない心情と動く心臓を所有する相手となり、第三イスラエルに残るべきです。イエスがそのような心情を持って供え物となり、第二イスラエルを作ったため、今日、私たちはその覚悟を持つべきであり、それによって第三イスラエルの祖となることができます。また、地上のエデン、つまりエデンの園の本来の子供となるでしょう。
皆さんは復活の恵みの実体を持って、歴史的なすべての苦しみを乗り越え、時代的な恨みを脱し、天を求めて出発できるようにならなければ、神の子供として立てられるでしょう。
イエスの30年の生涯が神の4000年の歴史の心情を代わりにして犠牲の実体として現れたように、今日、私たちも6000年にわたる神の回復の計画の心情とイエス・キリストの心情を代わりにして、天が動けば動き、定まれば定まる神の子女となるべきです。
このように過去6000年の歴史を振り返り、疑っていたイスラエルを見て悲しみ、未来の第三イスラエルの安息の園を築く使命を抱きながら、誰が行こうとも「私一人この責任を負います」と天に誓える子女となるべきです。そして、イエスの足跡を守り、後継者の責任を果たすべきです。
皆さん自身が、今、旧約・新約の言葉が何であるかを理解しなければなりません。旧約・新約の言葉よりも、イエスの心情が何であり、イエスの心臓がどのようであるかを知り、つまりイエスの内的な心情を理解し、外的な心臓の動きを知ることで、天が動けば皆さんも動くことができるようにならなければなりません。
また、天の動きと停止に同調し、天の意志を代表して、父の前で勝利の供え物として自分を捧げることにより、イエスはこの地上で恨みを解き、神もこの地上で恨みを解くことができ、すべての人々が神に従って勝利の栄光を享受できるでしょう。
皆さんが偶然にこの立場に立ったと思わないでください。歴史的な運命を代わりに引き受けた必然的な道程として祭壇を受け継いだと考えてください。皆さん自身が今、イエスがゴルゴダの山で乗り越えた悲しみの壁を踏み越え、ゲッセマネの園からゴルゴダの山まで上がり、12使徒を一つに束ねた生ける供え物として勝利の祭壇を築き、サタンを征服して「父よ、ただひとり栄光を受けられますように」とできる勝利の子女となり、主の前で花嫁の資格を持つ勝者となるべきです。

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私記6

2024年05月06日 02時44分02秒 | 日記
【1989.06.04 天安門事件】
 中国共産党が未だに認めたく無い「天安門大虐殺事件」からもう35年が経とうとしている。
中国の近代史の最大汚点となるこの人民の大虐殺事件は神様も目を背ける事件となった。
中国共産党の有りのままの考え方がそのままこの地上で行われた最も顕著な虐殺事件であった。
この事件では日本人も、勿論他の外国人も相当に被害を被ったが、中国政府は未だに謝罪すらない。
日本国内の政治家は何か感心を持っての行動する知恵すら無い様だ。
この事件は日本人の危機管理に関する典型的な法律の改善があって然るべきタイミングであった。
だが、この事件を含めて自国の存続に関わる憲法9条を初めとした様々な国益に関する改憲は未だに為されていない。
其れどころか自国民の保護あっての憲法は今や何処の国の憲法か判らない部分が多々存在している。
国会議員は今や自分個人の権益を守る事にしか目が行かないと言う、小さな存在者で有る存在としか見えない。
果たして30年後にこの国は日本として存在出来ているのか?



【真実も嘘も解らなくさせる事が悪魔の狙い】
 今日、私達はインターネットにより高速にコミュニケーションが取れる様になりました。
 そして世界中の人類がその恩恵を受けている訳ですが、その中には虚実が混沌となっている状態で有る事に気が付かなければなりません。

 一般的な生活の中もそうですが、特に共産主義圏からの民主主義圏への情報には殊更に気を付けなければなりません。
 中共やロシアの為政者が発する情報は信用するに値しないものが殆どですし、何か良い情報が伝えられていると言う場合は必ず裏が有る事を考えるべきです。それが現実です。俗に言えば嘘で固められた情報が常に発信されている事を知るべきです。
 更にはそれが事実では無い事を隠す為に、自己正当化を行い事実を隠蔽する事は彼らの常道です。そう言う事が常日頃から行われている事は事実です。

 何故彼らは嘘を言うのでしょうか?
 もちろん生活の為と言う事でしょうが、誰でも本心では嘘を言いたくは無い筈です。嘘を言えば自分の良心が傷つくのですから心に痛みを感じます。それを無視して嘘を言うしかない環境が有るからであり、それをどの様に変えて行けば良いかも解らずにいます。
 その悪の連鎖を断ち切って行くのは勇気が要りますし、何よりも間違いである事を支えて行く強い心や信仰、思想が必要です。しかし国家はその心や思想を持つ事を許していません。
 それ故に本心は常に肩身の狭い思いをしている訳です。

 それを変えて行こうとされるているのが文鮮明師であった訳であり、この思想を受け継いだ人々で有る訳です。

 これはどれだけ偉大な事でしょうか。 共産主義者が嫌う訳ですね。




【自民党国賊売国議員 河野太郎】
 国賊議員河野太郎の国民の民意を裏切る裏の顔が次第にクローズアップされて来ている様です。
中国の企業をしきりに応援して来たこの輩は国民の知らぬうちの法規制の決定を仕切って、結果的にかなりの損害を国民が被っている状態になっています。
まるで泥棒のようです。
電動キックボード然りで、得体の知れない品質の中国製の物を大量輸入させて利用者を増やし、その結果人身事故が大幅に増えていると言う事態を作り出しています。
普通は自国製品である日本製品を造らせて流通させる事がまず最初で有るべきかと思いますが、この輩はそうではなく、中国ファーストである姿勢が明確に出ていますね。
CO2の削減に繋がるなどと言う話は見事に裏切られ、国賊河野太郎氏の利権絡みの問題になっている様で、最近の自然エネルギー問題に絡んだ中共系の人材の登用も国民の知らない所で行われています。
太陽光発電設備もしかりです。

これらの問題に公安も動き出すとも言われていますので、調査に期待したいがそれをも河野太郎が自分で仕切っているならば話は別です。

泥棒に泥棒を取り締まる法を作らせる事は普通はしませんから。

如何も国賊河野太郎議員は次の選挙では落選して貰う方が国の為になる様に思えます。
岸田氏と向いている方向は同じなのかも知れません。
河野太郎は中共の日本浸透の提灯持ちと言った存在であろうと言われても何も言えないね。
この輩は共産主義の間違いを理解しない左翼思想を持った自民党員らしい。
中共に自分の貯金箱を預けている訳だからそうなるよね。

国民の為ならもっと堂々と公儀に図って事を進めるべきかと思いますが、この人は違う。国民の気づかない様な裏でコッソリと事態を進めて行く、如何にもコソ泥タイプ議員で、表と裏の有る癖の強い我田引水もなんの其のと言った人物で要注意ですね。



【反日教育に使われた資料の嘘】
 元歌手のアグネス・チャン氏が中共の反日教育を受けていた事実と、その教育を信じている事が解った事に驚いてしまった。
 しかし、それらの根拠となっている中共の教育用教科書📕📗📘📙に載っている写真の嘘がもう世界の常識になっている様だ。
 先の戦争に勝とうが負けようが互いに殺戮し有った事実は消えない。
 負けた日本は敗戦国として未だに中共、朝鮮から罵られているが、其れが間違った反日教育の結果で有る事を日本は再三に繰り返して来た。
 そしてその根拠となる情報もしっかりと提示して来たが、お構い無しの様で有る。
まるで見て来たかの様に伝えられる情報は、当初に上げたyoutube に有る様に、実は間違った根拠による物で有る事を確認出来るし、でっち上げや捏造で人を煽動する事が罷り通ってはならない。
 そして更には日本を貶める目的で捏造され、それを日本を良く思わない共産主義者を始めとする輩が利用して来た事は今も変わっていない様だ。
彼らは民主主義国家日本を共産主義国家に変えたい様で有る。
 もはや共産主義に理想国家は作れない事は歴史が証明している事を受け入れられない様だ。
共産主義は間違いである事はもはや疑う事の出来ない事実となっている。
 神を否定し、人が力で人を支配する体制など地上に有ってはならないし、そんな体制で全ての人の幸福を創り出せる事は絶対に無いので有る。
 全ての人類の幸福を創り出せるのは、共生・共栄・共義を創り出せる世界、神を中心とする愛による「為に生きる行為」が為せる世界にしか出来ない事で有る。
 其れには先ず宗教と政治と経済が完全に融合した世界と国家を創っていかなければならない。
人の一体化と神を知って協力し合う信仰が必要となっているのが今の現代に生きる人類が我知らずに望む事であり、たった一つの希望で有る事を知って欲しい。




【核マル派より献金を受けた枝野氏】
枝野氏は「暴力革命を進める組織【核マル派】から800万円と言う金額を受け取っていた」。
この団体こそ解散させられるべき団体では無いだろうか。
そんな団体から金を受け取った枝野氏こそ国会議員の資格が有るのか。
人々を暴力で黙らせ、従えようとする共産主義の思想を持っている輩が、団体が、どれだけ危険な団体であるがを国民全員で理解すべきである。
もちろん共産党もしかりだ。

であるにも関わらず、国を愛し、人を愛し、日本と世界を愛する思想を持って実践している者達が何故誤解され誹りを受けなければ成らないのか?

この他人を追い出し、追い落とす思想こそが共産主義思想その物であるからだ。彼らはそれを良しとする思想の持ち主である。

だが頭翼思想は彼らが破壊して来た人心と世の中を纏めて行く為の思想である。彼らとは180度異なる思想である。

その原点は神を起点とする愛であるからである。
その愛を持って間もなくこの神と悪魔の闘いは終わりを迎える事に成るだろう。

悲しい事に、そんな中で安倍元首相は、原理的に言えば「供え物」となった。
この日本を率いていける優秀な指導者を日本は奪われたと言う事である。

その後を担った岸田氏はこれから日本を引っ張って行くであろう組織を政治から引き離しに掛かった。

岸田氏はピラト裁判の報いを担って行く事に成るだろう。
日本国民もそうなって行くと言う事ではあるまいか。



【櫻live】
https://www.youtube.com/watch?v=miyIikSsPiQ

櫻井よしこ氏が指摘している様に、この「【アジアスーパーグリッド】の正体はアジアにおける中国主導のアジア社会作り」と言う事ですね。

中共の「一帯一路」戦略の一端です。

片や既に中国が日本の社会の中に浸透している様子がこの「中国スタンプ」に良く表れている事が良く解ります。

と言うか、このスタンプが表面化した事で「河野氏と中国による工作」が明確になり、情報が出回った事で「中国が日本政府のエネルギー関連界の中で色々な工作をしているらしい事」が発覚して、我々はやっと知る事が出来た訳です。

裏を返せば、日本政府が気が付かない内に(?)中国の工作が河野太郎氏を通じて行われている事が解った訳です。


我々日本国民は何も知らされずに、「これが日本政府の提案です」と言われていたら後々で大事になるのでは無いかと思う事仕切です。

中国をゴキブリに例えるなら、一件発覚したならば30件は他にも有るのでは無いかと考えてしまうのは難くない事ですので、他にもあるんだろうなと考えてしまいます。

河野氏は何故これを公開しなかったのかも謎です。
国民に公開したら不味いと知っての事でしょうが、裏の顔を持っている事が良く解った気がしてます。

河野氏の近辺に「ゴキブリホイホイ」に代わる「中共ホイホイ」を置いといたら、一杯取れそうな気がしてます。


と言うか既にマイナンバーカードにも工作がされている様な気がしてなりません。

マイナンバーを作った人はすでに中国に裏から情報が行っているかも知れませんね。


それだけでなく、社会保険事務所の個人情報を始め、保険関係の個人情報も非常に心配です。

日本の為にやっていると思っていた国会議員が他国の益の為にやっていると言うこの事態は今に始まった事では無いでしょうが、こう言う事でまさに「国の洗濯」が必要な事が解って来た時代です。


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