文鮮明先生 御言葉選集 4 - 1. 天地万物は愛の一日を求めて彷徨う (1958年2月16日)
天地万物は愛の一日を求めて彷徨う
1958年2月16日(日)、前本部教会(青坡洞1街)。
コリント人への第一の手紙 13:1-13
<祈祷>
お父様! 私たちは人類を創造された父の本来の心情を知らず、私たちの悲しみを取り除くことのできる父の愛を感じることができないことを知っています。
今、私たちのすべてを犠牲にしてでも父の愛を見つけなければならず、お父様と私たちの本来の因縁を回復しなければなりません。
お父様! ここに集まったあなたの息子娘たち、今心の扉を開けて、あなたの心情が何であるか、あなたの愛が何であるかを自ら見つけることができるように許してください。そして耳を開いて、父の声を聞くことができるようにしてください。また、天が許される恩賜を受けることができる息子娘を探しておられる父の姿を見ることができるように目を開かせてください。
そうして見て、聞き、私たちのために尽力されたお父様の御手を知ることができるように許してください。そして、その忍耐の心情を体感することができるように許してください。苦労して忍耐されてきた父の心情を私たちも少しは知っているので、今日この時間、私たちの心と体を完全にお父様のものとして支配してください。
無知のために死の圏内に囚われている息子娘がいるならば、お父様、自ら恵みの御手を再び広げて全体の創造の歴史を起こし、本来の訴えの心情に向き合い、お父様の心の前に和動できるこの時間を許してください。お父様、切に願い求めます。
心を尽くして摂理された父の御心があることを知り、天定の路程を歩んでこられた歴史の道があることを知りました。これはただ天と通じ、天に対する価値観を見つけてきた人々を通して成し遂げられたことを知っています。
歴史的なすべての罪悪、時代的なすべての罪悪、未来的なすべての罪悪の源を根絶しなければならない使命が私たちにあるならば、罪悪に引かれて責めを受けず、父の愛の中で感謝したいという心の衝動が起こるように、父の直接的な愛の歴史が現れることを許してください、父よ、切に願い求めます。
今日の私たちの心は私を中心に動いておらず、私たちの体も私を離れて動いていることを知っています。私の心も私を離れ、体も私を離れたとき、そんな私たちを摂理しなければならない父の心情がどのようなものであるかを感じるようになりました。
天倫の真理を通さなければならない時が来ており、天倫の人格を通さなければならない時が来ており、父の愛を通さなければならない時が来ていることを知りました。
お父様、すべての人類にお父様の愛を紹介できる御言葉が現れることを許し、お父様の愛を証することができる人格者が今日の終わりの日に多くの人々の前に現れることを許してください、切に願い求めます。
その真理を従うことができる私たちの心的な準備と土台を備えさせてくださり、お父様の御心の前で全てが明らかにされるその日が歴史の前に早く現れるように歴史(役事)してくださることを、お父様、切に願い求めます。
お父様、今パウロが語った、哀しみのお父様の心情を体感する私たちとならせてくださり、彼が心で感じることのできなかったお父様の愛の心情を体感することができるように許してください。イエス・キリストが十字架にかけられたように、この民の前に犠牲となり全体の祭壇を築くことができる子供となり、お父様の愛の心情を共に持つことができるように許してください。
お父様、天倫に向かう道もこの一つの道であり、イエス・キリストのすべての労苦を解放する道もこの一つの道であり、先知先烈たちの死の恨みを晴らす道もこの一つの道であるという一つの心を持ち、天と地を代表して父の前に贖いの捧げ物を捧げるこの一時間となることを許してください、お父様、切に願い求めます。
今、すべてをあなたに委ねましたので、再びご支配ください。伝えたい父の御言葉を伝えることができるようにしてください。与える者の心と受け取る者の心が一つとなることを許し、天が動くとき、私たちの心と体も共に動くことができるこの一時間としてください。サタンを取り除き、すべてを親しくご支配いただくことをお願いいたします。
天地万物は愛の一日を求めて彷徨う
1958年2月16日(日)、前本部教会(青坡洞1街)。
コリント人への第一の手紙 13:1-13
<祈祷>
お父様! 私たちは人類を創造された父の本来の心情を知らず、私たちの悲しみを取り除くことのできる父の愛を感じることができないことを知っています。
今、私たちのすべてを犠牲にしてでも父の愛を見つけなければならず、お父様と私たちの本来の因縁を回復しなければなりません。
お父様! ここに集まったあなたの息子娘たち、今心の扉を開けて、あなたの心情が何であるか、あなたの愛が何であるかを自ら見つけることができるように許してください。そして耳を開いて、父の声を聞くことができるようにしてください。また、天が許される恩賜を受けることができる息子娘を探しておられる父の姿を見ることができるように目を開かせてください。
そうして見て、聞き、私たちのために尽力されたお父様の御手を知ることができるように許してください。そして、その忍耐の心情を体感することができるように許してください。苦労して忍耐されてきた父の心情を私たちも少しは知っているので、今日この時間、私たちの心と体を完全にお父様のものとして支配してください。
無知のために死の圏内に囚われている息子娘がいるならば、お父様、自ら恵みの御手を再び広げて全体の創造の歴史を起こし、本来の訴えの心情に向き合い、お父様の心の前に和動できるこの時間を許してください。お父様、切に願い求めます。
心を尽くして摂理された父の御心があることを知り、天定の路程を歩んでこられた歴史の道があることを知りました。これはただ天と通じ、天に対する価値観を見つけてきた人々を通して成し遂げられたことを知っています。
歴史的なすべての罪悪、時代的なすべての罪悪、未来的なすべての罪悪の源を根絶しなければならない使命が私たちにあるならば、罪悪に引かれて責めを受けず、父の愛の中で感謝したいという心の衝動が起こるように、父の直接的な愛の歴史が現れることを許してください、父よ、切に願い求めます。
今日の私たちの心は私を中心に動いておらず、私たちの体も私を離れて動いていることを知っています。私の心も私を離れ、体も私を離れたとき、そんな私たちを摂理しなければならない父の心情がどのようなものであるかを感じるようになりました。
天倫の真理を通さなければならない時が来ており、天倫の人格を通さなければならない時が来ており、父の愛を通さなければならない時が来ていることを知りました。
お父様、すべての人類にお父様の愛を紹介できる御言葉が現れることを許し、お父様の愛を証することができる人格者が今日の終わりの日に多くの人々の前に現れることを許してください、切に願い求めます。
その真理を従うことができる私たちの心的な準備と土台を備えさせてくださり、お父様の御心の前で全てが明らかにされるその日が歴史の前に早く現れるように歴史(役事)してくださることを、お父様、切に願い求めます。
お父様、今パウロが語った、哀しみのお父様の心情を体感する私たちとならせてくださり、彼が心で感じることのできなかったお父様の愛の心情を体感することができるように許してください。イエス・キリストが十字架にかけられたように、この民の前に犠牲となり全体の祭壇を築くことができる子供となり、お父様の愛の心情を共に持つことができるように許してください。
お父様、天倫に向かう道もこの一つの道であり、イエス・キリストのすべての労苦を解放する道もこの一つの道であり、先知先烈たちの死の恨みを晴らす道もこの一つの道であるという一つの心を持ち、天と地を代表して父の前に贖いの捧げ物を捧げるこの一時間となることを許してください、お父様、切に願い求めます。
今、すべてをあなたに委ねましたので、再びご支配ください。伝えたい父の御言葉を伝えることができるようにしてください。与える者の心と受け取る者の心が一つとなることを許し、天が動くとき、私たちの心と体も共に動くことができるこの一時間としてください。サタンを取り除き、すべてを親しくご支配いただくことをお願いいたします。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
<御言葉>
皆さんは原理の中に「天地宇宙(天宙)」という言葉があることをご存知でしょう。そしてこれは無形世界と有形世界を総合した言葉であることもご存知でしょう。しかし、被造世界を創造された創造主も、その創造主によって創られた被造物も、皆愛の一日を求めているのです。
私たち人間にとって最も必要であり、何よりも緊急かつ重大なことは、神を所有することです。その次に必要なのは、真心と真の体を持った真の人間になることです。その次に必要なのは、真実の物質を持つことです。その次に何があるでしょうか?それは、私たち人間にとって欠かせない愛を持つことです。これらのことが、今日の堕落した人間が生きていく上で欠かせない重要なことなのです。
今日、私自身を見つめるとき、私には自分を中心とした神、自分を中心とした真の人間、自分を中心とした真の善の物質が必要であり、さらに自分を中心としすべてを団結させることができる一つの愛の縁が必要であることを否定できないでしょう。
では、今日の皆さん自身を見つめたとき、皆さんが必要とする神がどこにいるのかを知っていますか?皆さんが必要とする真の人間、真の物質がどこにあるのかを知っていますか?これらの質問を受けたとき、それはこれこれこうだと自信と実力を持って答える人は一人もいないのです。
ですから、今日ここに集まった皆さん自身の中に誇れるものがあるならば、新しい心、新しい意識を持って立ち上がらなければならないのです。そうしなければならない時が来ています。今日、私たちは自分に必要なすべての要素を持たないために、生涯の道を歩む中で平安と安逸の生活を送ることができず、永遠の創造理念に向き合うことができる神の愛を体得して自分の生涯を歌いながら生きることができないということを、皆さんはこれまでの人生を通じてよく感じているでしょう。
したがって、天地万物の前で自分を誇ることができるものを何も持っていないことを嘆く時が来たことは、皆さんも否定できないでしょう。だからこそ、この事実が天の悲しみであり、人間の悲しみであり、万物の悲しみであることをパウロは明確に訴えていたのです。皆さんはこの悲しみを解消する責任が与えられており、この責任を負って生きることが、復帰の運命の中で生きている皆さんの歩むべき人生の道であることを忘れてはなりません。
したがって、今、自らを奮い立たせなければならない立場にいる自分自身を嘆く心があるならば、皆さんを取り巻く歴史を憂慮しなければなりません。また、皆さんの現実生活に関連する時代を憂慮し、この時間以降の未来を憂慮しなければなりません。
しかし、憂慮すべきことを考えずにさまよう人がいるなら、それ以上に哀れな人はいないでしょう。堕落によって天地の前に残された嘆きの条件を解消すべき使命を負った人間たちが、自分の位置を認識せずに天地万物の前に恥ずかしい姿で現れるとき、それを見なければならない神の心情はいかばかりでしょうか。ここで、皆さんは神にさらなる嘆きを与える恥ずかしい姿であることを悟らなければなりません。
では、このような相反する環境を乗り越え、天地の嘆きを代わりに引き受けることができるその一人の忠臣の姿はどこにあるのでしょうか。人類に希望があるとすれば、そのような忠臣になることです。
では、私たちがそのような忠臣になるためにはどうすればよいのでしょうか。今日、私たちに必要なのは、神と真の人間と真の万物を代表してこれらを一つに統合し、神の前で愛を語り合うことができる存在になることです。
これまで私たち人間が摂理の歴史を経て、神に様々な祈りを捧げ、御心を受け入れてきましたが、神の心の奥深くにある恨みの心情を解消し、愛を語り合う場に至った人はまだ一人もいないことを皆さんは知るべきです。イエスがこの地に来たにもかかわらず、人間が彼を通じて実際に神と愛の関係を築けなかったため、彼は再び来なければならないのです。
イエス・キリストが4000年の復帰の歴史を完成させる使命を持って来られましたが、「人間が神の愛と因縁を結ぶことができたか?」と問われたとき、誰も「そうだ」と答える立場に立てていないのです。このような私たちであるため、哀れであればこれ以上哀れなことはなく、嘆くことがあればこれ以上嘆くことはありません。
では、今日、皆さんは自分自身を誇る何かを持っていますか?知識を持っていますか?皆さんが持っている知識は天地万物の原理原則に比べれば極めて微々たるものです。今日の20世紀文明がどれほど発達していようとも、絶対的な原理原則を確立することができない範囲に留まっているのです。したがって、私たちに誇るべきものがあるとしても、それを再分析しなければならない新しい時代が近づいていることを感じなければなりません。
そこで、天が歴史的な運命を見据え、時代的な運命を見据え、未来的な運命を憂慮しながら私たちを見つけてくださったのです。こうした天の前で自分を立て、自分を誇ろうとするならば、まず天を所有することができる人間にならなければなりません。真の人間にならなければなりません。また、真の万物を対することができる人間にならなければなりません。これが重大な問題です。
そして、皆さんは神が天地万物を創造し、アダムとエバにそれらを管理するように言われた、その管理の資格を持って「父が望まれたもの、父が祝福してくださったものはこれであると知っているので、私にあなたの天的な愛の縁を結ばせてください」と言えるその一つの姿が、今まで摂理してこられた神の最高の目的であり、摂理の意味を立て、今まで苦労してこられたイエス・キリストの最高の基準であることを確実に知るべきです。
しかし、なぜ人間は現在のような状況に至ったのか?それは人間の堕落によるものです。今日の人間は堕落した人間の子孫であるため、堕落した姿と形を脱ぎ捨てて生活している人は一人もいません。個人の堕落した生活が集まって世界的な堕落性を形成していますが、これを贖い取り除くためには、世界的な堕落性を打ち破ることができる一つの原則が出なければなりません。
堕落とは反対の方向に人間を導くことができる原則が出る前に、人間がどのような善の理念、どのような真理を主張しても、それは私たち人間の希望や根本的な喜びと関係を持つことはできないということを皆さんは銘記すべきです。
では、堕落の歴史の枷から逃れられない堕落した子孫である私たちが追求しなければならないものは何でしょうか?それは、天地の理念を代替することができる人格と、万物を管理することができる価値を持った真の人間になることです。また、私たちが神の愛を待ち望むならば、忘れてはならないことがあります。それは私たちが堕落の血統を受け継いだ種族であるという事実です。
そして、皆さんが自分の心の中に堕落の性質が潜んでいることを感じるなら、今まで考えもしなかった新しい何かが現れていることを知るでしょう。今や皆さんは被造物として、あるいは全宇宙を代表する人格者として、神の前に出て『私は堕落した種族です』と訴えなければなりません。このような祈りの一時間がなければ、皆さんはまだ天の前に残されている嘆きの領域から抜け出すことはできません。
では、アダムとエバの堕落は何を意味するのでしょうか?それは神を捨てたことであり、本来の理想的な人間性を失ったことであり、善主権の環境を失ったことを意味します。つまり、神を失い、真の人を失い、真の物質を失ったのです。その次に、神の言葉を失い、神の愛を失いました。これが堕落だったのです。しかし、人間はこの結果を超えることができていません。
今、私たちはこれらを反対の方向から整理し、開拓するための戦いをしなければなりません。皆さんがこのような戦士にならなければ、歴史的な罪悪権と天の摂理に反対してきたサタン権から脱出することはできないことを知っておくべきです。
人間は堕落によって神の懐から離れ、本来の真の人間性から離れ、真の宇宙権から離れました。これを再び回復するための歴史が神の再創造の歴史であり、今まで努力してこられた神の摂理なのです。
第1のアダムが堕落したことで恨みが生じましたが、第2のアダム、すなわち復帰されたアダムとして来られたイエスはどのようなことをしなければならなかったのでしょうか?まず、イエス自身の心に神が宿るようにし、自身の体に真の人間の意志を持ち、真の主人となることでした。イエスはこのような実体として来られ、天的な愛を証し、人間的な愛を証し、万物の情までをも証し、すべてを一つに統合する一つの主体としてこの地に来られました。
だからこそ、イエスはこの地に来て心の天国を主張しました。そして神が自分の心の中にいると言い、神と一体となった自分を主張しました。また、全宇宙が自分の支配を受け入れるべきだと言いました。そして、全人類に対しては愛の標語を掲げて「私は神の子であり、あなたたちは私の友であり、兄弟である」と言いました。皆さんはこの言葉にメシアとしてのイエスの価値が込められていることを知るべきです。
イエスには自分自身を中心に家庭を動かし、社会を動かし、民族、国家、世界、さらに天地宇宙までも動かさなければならない使命がありましたが、イスラエルの民が反逆し、教会が反逆し、選ばれた洗礼者ヨハネが反逆し、家庭が反逆しました。
そのため、イエスは自ら使徒たちを立て、彼らを土台にして世界的な第二イスラエルを形成し、世界的なカナン復帰の理念を実現しようとしました。この事実は原理を通してよく知られていることでしょう。当時、イエスは十二部族で形成されたイスラエルの民が反対したため、十二部族の形が崩れ、モーセが築いた土台を失い、ヤコブが築いた十二兄弟を中心とする土台も失い、十二弟子だけを連れて歩かざるを得なかったのです。
第二イスラエルの創設者として先頭に立たなければならなかったイエスでしたが、ヤコブの十二人の息子のような十二使徒が崩れてしまい、再び遡ってノアの家庭の形を取らなければならず、ノアの三人の息子に相当する三人の弟子を連れてゲッセマネの園を彷徨うことになりました。しかし、この三人の弟子さえもイエスと一つになれなかったため、イエスは堕落当時のアダムの立場に陥ってしまいました。これがイエスの置かれた状況であったことを知っておくべきです。今日のキリスト教徒はこれをよく知りません。また、イエスが無知な人類のために祈ったことや、イエスの悲しい心情を知らないのです。
世界を主宰する主として全世界の人類に神の心情を紹介しなければならないイエス、万物を主宰しなければならないイエスが、洗礼者ヨハネから拒絶され、自分の家庭からも拒絶されました。
その結果、イエスは世界的な土台を失い、民族的な土台も失うという哀れな姿になったのです。こうしてイエスは堕落したエバのために花嫁を失ったアダムのような立場に置かれました。
堕落していない真の父母を失った人類の前に真の父母として来られたイエスは家庭を失い、子として立てた三人の弟子まで失ったため、イエスはエバを失ったアダムの立場に置かれました。そのため、イエスはこの地に「新郎新婦」という名を残されることになったのです。このような悲しい事情に置かれていたイエスであったことを知っておくべきです。
また、イエスは世界を統合することができる言葉と、イスラエル十二部族に代わる世界的な第二イスラエルであるキリスト教信者を統合することができる言葉と、天倫の前に立つことができる個人的な法や社会倫理、家庭の制度に関する言葉を全て伝えることができずに去ってしまいました。これがイエスの最も大きな悲しみでした。
しかし、今日の人間はこれらの歴史的な事実を知りません。さらに、神を信じるというキリスト教徒でさえも知りません。こうした人間たちを見ておられる神が、どうして嘆かずにいられましょうか?イエスの時代にユダヤの民を第二のイスラエルとして祝福し、第二のカナンを建設しようとした神の計画が破れたため、神の悲しみはさらに増したのです。
では、イエスがこの地上に再び来られるなら、どこに、誰のもとに来られるのでしょうか?イエスは堕落した人間世界に直接来られることはできません。復帰の道を経て来られなければならないイエスは、ノアの家庭とアダムの家庭の段階を超えて来られなければなりません。このようなイエスの事情を背負い、世界まで進まなければならない歴史的な運命の過程が、今日の信仰者たちの背後にあるのです。しかし、今日の信仰者たちはこれを知りません。これを知らなければ、イエスを熱心に信じていても、彼を迎えることはできないのです。
再臨の主は世界の主人公として来られます。しかし、再臨の主にはまず、天を中心とした家庭が必要であり、民族が必要であり、国家が必要です。そうしてこそ世界の主人公になれるのです。これが原則です。
今日、キリスト教が世界を復帰しようとする主の理念に代わろうとするならば、まず、世界的な基盤となるイエスを中心とした天の家庭があるかどうかを考えなければなりません。イエスを中心とした天の民族、天の教団を備え、民族的な観念を超越する基盤を築き、世界的な基盤を成し遂げなければ、イエスがこの地に再び来ても、誰が悲しみのイエスにはならないと言えるでしょうか?歴史的な事実がこれを証明していることを忘れてはなりません。
天地の運勢は皆さん自身を通過しています。皆さんが知っていようが知っていまいが、民族が知っていようが知っていまいが、国が滅ぼうが栄えようが、あらゆる困難の道が皆さんを通り過ぎていきます。
イエス以降2000年の歴史の過程を摂理された神の御心は何だったのでしょうか。イエスを通して全体の天的理念を代行できる中心を立て、この地上に真の愛を実現することが神の御心でした。しかし、イエスが十字架にかけられたことによってその御心が成し遂げられなかったため、その御心を完結させる使命がこの地の人間に残されているのです。
では、今、皆さんはどうすべきでしょうか。イエスを失ったために、天に属する真の人間、真の万物を所有できる真の指導者を再び送ってくださるよう、天に訴えなければなりません。
第二のアダムとして来られたイエスを殺したために、人間は再び神の心に隠されている御言葉を持って来られる主、天国の人格を代表し天国を建設しようと来られる主、万物を主宰する資格を持って来られる主が必要なのです。これが人類の希望なのです。
今、私たちは私たち人間を立てて摂理される神の前で面目を保つことを知っておかなければなりません。そうでなければ、イエスがこの地に再び来られても、私たちは彼に会うことができません。そして皆さんは、イエスがこの地に来られたとき、彼を支えなければならない人間がイエスを死なせたために、第二の堕落の立場に陥り、再び神を捨て、天国を捨て、真の愛を捨て、万宇宙を捨てたことを心に留めて、常に主を信じ支えなければなりません。
では、今日の信徒たちは何をすべきでしょうか。最も重要なのは、イエスの愛を通して天国を建設することです。では、天国はどこから始まるのでしょうか。それはイエスの愛と人格を知り、イエスが主宰できる万物の主宰権を知ることから始まります。イエスの愛と人格、万物の主宰権を知らない人は神を見つけることができません。
私たちがイエス以後の2000年の歴史を振り返ると、多くのキリスト教信徒が神を再び見つけるための運動をしてきたことがわかります。その結果、激しく迫害していたローマがキリスト教を公認するに至り、ついにはローマに教皇庁を設立し、教皇権を中心とした政治が行われ、封建社会が形成されました。
しかし、中世に入ると再び教皇庁が腐敗し、人本主義思想がキリスト教に入り込むことで、中世以降のキリスト教徒は神を失うことになりました。つまり、多くの人々が人本主義思想に流れてしまったのです。こうして啓蒙思想を経て、最終的には唯物史観が現れました。
これは人間の理性を重視する合理主義と経験主義哲学思想に基づいています。したがって、世界は現在、唯物史観と資本主義思想により物質の価値を重視する物質万能主義が横行する世界に堕落してしまったのです。
イエスは天の御心を代行し、全体の摂理を統合する使命を担い、第二のアダムとしてこの地に来られましたが、私たちの先祖たちがイエスを拒絶したため、罪悪の歴史の道を逃れることができませんでした。これにより、神を見つけることも、真の人間を見つけることも、真の物質を見つけることもできなかったのです。そのため、どれほど真の人を探そうとしても、見つける方法がない状況に陥ってしまったのです。
では、中世の封建社会形態を誰が崩壊させたのでしょうか?天が崩壊させたのです。神はローマ教皇庁を中心に御心を成し遂げようとされましたが、その教皇庁が腐敗していったため、神はそれを打ち砕かれました。天を信じる人々がむしろ天倫の御心を裏切ったので、人本主義思想を立てて彼らを打つことになったのです。
そのような中でも、神は摂理の基点を失わないために天を憂う一人の人物、ルターを中心に宗教改革を起こされました。このようにして、神は一方で打ち砕き、一方で立てる摂理を進めてこられたのです。そして、キリスト教を通じて第二のイスラエルの形を経て文芸復興を経た後、大混乱を経験させ、人本主義的な理性哲学を中心とする啓蒙思想に対抗する摂理を進めてこられたのです。
啓蒙主義者のヴォルテールやルソー、モンテスキューのような人々は、キリスト教が滅びると思いました。しかし、ドイツでは清廉な人物たちが現れ、神の実際的な内的体験を主張しながら神秘性を高めました。それがイギリスを経てジョン・ウェスレー兄弟の復興運動を引き起こしました。さらに、クエーカー派を起こし、神秘的な内的体験をさせることになりました。
一方、人間は神を愛することを忘れ、人を愛する理性も忘れ、物質を愛することしか知らない唯物論的な主義にまで到達しました。堕落した人間であっても必ず本来の立場に戻らなければならないため、いずれにせよ物質中心の思想を打ち砕く時が来るのです。
今日では、神を中心とした中世も過ぎ去り、理性哲学を中心に支配された時代も終わり、18世紀に成立した唯物論的な思想も輝きを失いつつあります。これからの世界は、人が物質を愛しても満足を得られず、過去の歴史的な人物の教えに従っても現実の問題を解決できない、そんな悲惨な世界です。したがって、物質的な生産力を通じて社会の繁栄を目指す共産主義の理念では、到底世界を支配することはできません。
そのため、21世紀を迎えるにあたって、私たちの前には原子力時代を迎え、物質文明の世界的な支配を破壊する時代がやってくるのです。その次にはどのような時代が来るのでしょうか?愛を探し求め、楽しむ時代がやってきます。互いに尽くし合う時代が私たちの前に訪れるのです。
したがって、皆さんは来るべき愛の時代に宇宙万物の前で堂々と胸を張って進むために、歴史的なすべての価値を総合し、統合できる中心的な存在としての使命を果たす賢明な人々でなければなりません。
そして、皆さんは堕落したアダムとエバの道を辿らなければならない立場にあるため、一人一人が第二のアダムの時代的使命を継承しなければなりませんが、そのような資格を持っていないことを知るべきです。さらに、今日の歴史は人間の堕落によって失われた神、真の人間、真の物質を取り戻すための歴史であることを理解しなければなりません。
では、アダムの堕落はどのようにして起こったのでしょうか?神が許されていない、不義の愛の誘惑に引き込まれて天倫を破壊したことに始まるのです。私たちが生きる中で、エデンの園で起こった天使長的な形態が多く現れています。正しい道でないものが正しい道として振る舞う時代を経ているため、愛の混乱時代を免れることはできません。
神の摂理は反対の経路を辿って逆に進んできています。6000年の歴史を今日の私たちが振り返ると、旧約時代は物質を求める時代、つまり物質を犠牲にして神の前に出ることができる時代であり、新約時代は真のアダム格であるイエスを犠牲に捧げる時代であったことが分かります。
そして、これからの成約時代は、すべての人間が神の前に実体の犠牲となり、全ての万物を統合する基準を越え、愛を支配する時代になるでしょう。
しかし、世界の外面的な側面を打ち壊し、内面的な側面を探して築く形で神の摂理が現れることを、今日のキリスト教信者は知りません。言い換えれば、歴史の外面的な側面を打ち、内面的な側面を取り込むという神の内的摂理の内容を知らないのです。
では、神が6000年間摂理してこられたのは何を探すためでしょうか?それは神と人間と結ばれた永遠の約束の言葉を見つけるためです。その言葉は、真の父子関係を結んで一つになるということです。
皆さんは原理を通して人間の堕落が不法な不倫の関係が原因であったことを知っているでしょう。ですから、終末にある皆さんは注意しなければなりません。どの男性も少しの過ちで二人の女性を相手にする立場に立ってしまい、女性はこれに巻き込まれやすいということです。
では、これをどのように整理し、防ぐことができるでしょうか。このハンドルをどのように動かすかが問題です。
無限動力を中心とした物質文明の時代が到来しています。初めに人間には生食時代がありました。その後、火食時代を経て、次には水食時代、つまり水の栄養を摂る時代が来るのです。これからは科学的な食糧で私たちの健康を十分に維持できる時代が訪れるでしょう。私たち人間の努力が必要な時代は過ぎ去ろうとしています。
そのとき、私たちは何をするのでしょうか?そのときに残るのは芸術文化であり、私たちは美と愛の道を探し求めるでしょう。それは良いことです。しかし、人類が天理法道を逸脱してその道を探し求めるならば、結局どこへ行き着くのでしょうか?どうなるのでしょうか?これは今日、宗教を尊重する人々が心配しなければならないことです。
現代の文明は、世界の真実を知らずにさまよっているため、宗教を必要としない段階にまで来ています。ですから、今日の宗教は人々が進まなければならない道を人類に示す使命を負っているのです。2000年の歴史を振り返ると、数多くの革命がありました。人類はその革命の過程を経て、一つの統一世界を目指してきたことを知るべきです。
人間に知・情・意があることを考えると、人間を創り、天地万物の主導的主人公である創造主は、さらに高次の原理法道を通すことができる知・情・意の主体であることがわかります。そして歴史を見てみると、個人から家庭、家庭から種族、種族から民族、国家、世界へと拡大してきました。また、そのような外的な形を経て、内的な思想や観念を優先する時代に入ってきています。
人間個体においても、外面的な側面を経て内面的な精神面に向かっています。精神が主導的であるため、この精神を統一することで一つの価値を見出し、そうなれば統一的な目的に向かって正しい道を歩むことができるのです。
世界も同様です。世界にも世界認識があるため、一つの帰一(きいつ)点である精神統一のために世界を一つに結びつける世界構造が現れるのです。これが今日、民主主義と共産主義が対立して戦っている姿です。この時、霊界と宇宙を創造された神が宇宙の統一理念を実現しようとされるため、霊界の理念と地上の理念が衝突することを理解しなければなりません。
地上でも、これまで優勢な民族と劣勢な民族が戦いの歴史を経て一つの世界観を中心に一つの世界に向かっています。やがて霊界のすべての霊が地上に再臨する時が訪れます。そうなると、地上では大きな混乱とあらゆる対立や戦いが起こるでしょう。その時、皆さんはこれらが天の望む方向に収束するように主導的な役割を果たさなければなりません。そのためには、神の心情と天倫の理念を代行できる資格者でなければなりません。これが神が歴史の終局に望まれる希望ですが、今日のキリスト教ではその希望を果たすことはできません。
これまでの歴史の過程で多くの革命がありましたが、人間の情的な問題を革命したことはありません。社会や国家のすべての構成体系は時代を経る中で革命の要素が芽生えた時、それを排除できず、むしろそれによって革命されて崩壊してきました。
しかし、人間の親子間の情、夫婦間の情、兄弟間の情だけはまだ革命を受けたことがありません。いかなる倫理や道徳、どんな哲学や理念も革命の過程を経てきましたが、情的な愛の問題については革命を起こせなかったのです。
では、今日の皆さんはその情的な問題を持って天の前に立てる真の親となったでしょうか?真の夫婦となったでしょうか?真の子供を持っているでしょうか?そうでなければ天倫にかかることになります。
だからこそ、イエスはこの地上に神の愛を持ってきて、その愛を紹介し、自分を神の子であると言いました。イエスが神と結んだその愛の縁は、今日まで誰も破ることができませんでした。地上にサタンの勢力がどれほど強くても、それを破ることはできなかったのです。また、イエスが「あなたたちは私の花嫁であり、私の兄弟である」と言ったことも破ることができなかったのです。
このような基盤があったため、キリスト教は歴史の過程を通して発展してきました。こうしてキリスト教は天国の中枢となり、一つの人格を通じて天を代行できる家庭形態を築くために、歴史の過程を通じて発展してきたのです。
いくら強大な権力を持ち、博士の地位を持っていても、天との情的な縁を持たない人は哀れです。ですから、この原則を知っている人々はイエスに感謝するのです。もしイエスがそれを主張しなかったならば、人間世界はどうなっていたでしょうか。暗黒の世界に変わっていたでしょう。不信と闘争、反目と不和の世界に変わっていたでしょう。
したがって、この地上に神の愛を中心として人間の情的な分野が一つになり、新しい実証的な愛の世界が築かれてこそ、平和の時代が到来するのです。ですから、宇宙の終末時代にある皆さんは、理性的な問題において自分を中心にしてはいけません。そして、自己よりも家庭を愛し、家庭よりも民族・国家・世界を愛し、世界よりも宇宙を愛する心を持たなければなりません。これまで歴史の過程で見出されたすべての人間的な経綸と天的な経綸がこの終末時代に100パーセント結びつかなければならないのです。したがって、今こそこれまで持っていたすべての情的な問題を捨て、新たに出発できる喜ばしい知らせを待つ時です。
2000年前、イエスが「誰よりも私を愛せ」と言ったその言葉が、この終末時代に再び現れなければなりません。人間の理性を尊重する時代を経て、物質の時代も経たのですから、今こそ愛の時代が到来するのです。したがって、今は人間の情的な問題、愛の問題を解決できる天の言葉が必要なのです。その時が来たのです。
これまで人間は歴史の過程を通じてプラスの理念だけを追求してきましたが、それではいけません。天はプラスであり、人間はマイナスのようなものです。ですから、宗教では人間が傲慢であってはいけないと言います。また、自分を愛してはいけないと言います。自分のすべてを否定し、さらに自分の体も打てと言います。これは天がプラスであるため、人間はマイナスでなければ互いに交わることができないからです。
プラスとプラスは相反します。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神がプラスの立場にあるのに、マイナスの立場に立たず、プラスの立場に立とうとすること、これがサタンなのです。前述したように、道の生活では禁欲主義を叫びます。それは、サタン側、つまり悪に属するプラスの面を打ち、マイナスの立場に転換させるためです。
身体を打つというのは、身体がマイナスの立場に立つべきなのにプラスの立場に立とうとするため、これを打ってマイナスの立場に戻し、天(プラス)と完全に交わることができるようにするためです。したがって、皆さんも自分の身体を中心としたすべての条件を取り除かなければ、完全なプラスである天の前に完全なマイナスとして立つことはできません。
全宇宙はそのような存在がこの地に早く現れ、神と永遠の愛を交わすことができる愛の日が来ることを待ち望んでいるということを、皆さんは心に留めておいてください。
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<御言葉>
皆さんは原理の中に「天地宇宙(天宙)」という言葉があることをご存知でしょう。そしてこれは無形世界と有形世界を総合した言葉であることもご存知でしょう。しかし、被造世界を創造された創造主も、その創造主によって創られた被造物も、皆愛の一日を求めているのです。
私たち人間にとって最も必要であり、何よりも緊急かつ重大なことは、神を所有することです。その次に必要なのは、真心と真の体を持った真の人間になることです。その次に必要なのは、真実の物質を持つことです。その次に何があるでしょうか?それは、私たち人間にとって欠かせない愛を持つことです。これらのことが、今日の堕落した人間が生きていく上で欠かせない重要なことなのです。
今日、私自身を見つめるとき、私には自分を中心とした神、自分を中心とした真の人間、自分を中心とした真の善の物質が必要であり、さらに自分を中心としすべてを団結させることができる一つの愛の縁が必要であることを否定できないでしょう。
では、今日の皆さん自身を見つめたとき、皆さんが必要とする神がどこにいるのかを知っていますか?皆さんが必要とする真の人間、真の物質がどこにあるのかを知っていますか?これらの質問を受けたとき、それはこれこれこうだと自信と実力を持って答える人は一人もいないのです。
ですから、今日ここに集まった皆さん自身の中に誇れるものがあるならば、新しい心、新しい意識を持って立ち上がらなければならないのです。そうしなければならない時が来ています。今日、私たちは自分に必要なすべての要素を持たないために、生涯の道を歩む中で平安と安逸の生活を送ることができず、永遠の創造理念に向き合うことができる神の愛を体得して自分の生涯を歌いながら生きることができないということを、皆さんはこれまでの人生を通じてよく感じているでしょう。
したがって、天地万物の前で自分を誇ることができるものを何も持っていないことを嘆く時が来たことは、皆さんも否定できないでしょう。だからこそ、この事実が天の悲しみであり、人間の悲しみであり、万物の悲しみであることをパウロは明確に訴えていたのです。皆さんはこの悲しみを解消する責任が与えられており、この責任を負って生きることが、復帰の運命の中で生きている皆さんの歩むべき人生の道であることを忘れてはなりません。
したがって、今、自らを奮い立たせなければならない立場にいる自分自身を嘆く心があるならば、皆さんを取り巻く歴史を憂慮しなければなりません。また、皆さんの現実生活に関連する時代を憂慮し、この時間以降の未来を憂慮しなければなりません。
しかし、憂慮すべきことを考えずにさまよう人がいるなら、それ以上に哀れな人はいないでしょう。堕落によって天地の前に残された嘆きの条件を解消すべき使命を負った人間たちが、自分の位置を認識せずに天地万物の前に恥ずかしい姿で現れるとき、それを見なければならない神の心情はいかばかりでしょうか。ここで、皆さんは神にさらなる嘆きを与える恥ずかしい姿であることを悟らなければなりません。
では、このような相反する環境を乗り越え、天地の嘆きを代わりに引き受けることができるその一人の忠臣の姿はどこにあるのでしょうか。人類に希望があるとすれば、そのような忠臣になることです。
では、私たちがそのような忠臣になるためにはどうすればよいのでしょうか。今日、私たちに必要なのは、神と真の人間と真の万物を代表してこれらを一つに統合し、神の前で愛を語り合うことができる存在になることです。
これまで私たち人間が摂理の歴史を経て、神に様々な祈りを捧げ、御心を受け入れてきましたが、神の心の奥深くにある恨みの心情を解消し、愛を語り合う場に至った人はまだ一人もいないことを皆さんは知るべきです。イエスがこの地に来たにもかかわらず、人間が彼を通じて実際に神と愛の関係を築けなかったため、彼は再び来なければならないのです。
イエス・キリストが4000年の復帰の歴史を完成させる使命を持って来られましたが、「人間が神の愛と因縁を結ぶことができたか?」と問われたとき、誰も「そうだ」と答える立場に立てていないのです。このような私たちであるため、哀れであればこれ以上哀れなことはなく、嘆くことがあればこれ以上嘆くことはありません。
では、今日、皆さんは自分自身を誇る何かを持っていますか?知識を持っていますか?皆さんが持っている知識は天地万物の原理原則に比べれば極めて微々たるものです。今日の20世紀文明がどれほど発達していようとも、絶対的な原理原則を確立することができない範囲に留まっているのです。したがって、私たちに誇るべきものがあるとしても、それを再分析しなければならない新しい時代が近づいていることを感じなければなりません。
そこで、天が歴史的な運命を見据え、時代的な運命を見据え、未来的な運命を憂慮しながら私たちを見つけてくださったのです。こうした天の前で自分を立て、自分を誇ろうとするならば、まず天を所有することができる人間にならなければなりません。真の人間にならなければなりません。また、真の万物を対することができる人間にならなければなりません。これが重大な問題です。
そして、皆さんは神が天地万物を創造し、アダムとエバにそれらを管理するように言われた、その管理の資格を持って「父が望まれたもの、父が祝福してくださったものはこれであると知っているので、私にあなたの天的な愛の縁を結ばせてください」と言えるその一つの姿が、今まで摂理してこられた神の最高の目的であり、摂理の意味を立て、今まで苦労してこられたイエス・キリストの最高の基準であることを確実に知るべきです。
しかし、なぜ人間は現在のような状況に至ったのか?それは人間の堕落によるものです。今日の人間は堕落した人間の子孫であるため、堕落した姿と形を脱ぎ捨てて生活している人は一人もいません。個人の堕落した生活が集まって世界的な堕落性を形成していますが、これを贖い取り除くためには、世界的な堕落性を打ち破ることができる一つの原則が出なければなりません。
堕落とは反対の方向に人間を導くことができる原則が出る前に、人間がどのような善の理念、どのような真理を主張しても、それは私たち人間の希望や根本的な喜びと関係を持つことはできないということを皆さんは銘記すべきです。
では、堕落の歴史の枷から逃れられない堕落した子孫である私たちが追求しなければならないものは何でしょうか?それは、天地の理念を代替することができる人格と、万物を管理することができる価値を持った真の人間になることです。また、私たちが神の愛を待ち望むならば、忘れてはならないことがあります。それは私たちが堕落の血統を受け継いだ種族であるという事実です。
そして、皆さんが自分の心の中に堕落の性質が潜んでいることを感じるなら、今まで考えもしなかった新しい何かが現れていることを知るでしょう。今や皆さんは被造物として、あるいは全宇宙を代表する人格者として、神の前に出て『私は堕落した種族です』と訴えなければなりません。このような祈りの一時間がなければ、皆さんはまだ天の前に残されている嘆きの領域から抜け出すことはできません。
では、アダムとエバの堕落は何を意味するのでしょうか?それは神を捨てたことであり、本来の理想的な人間性を失ったことであり、善主権の環境を失ったことを意味します。つまり、神を失い、真の人を失い、真の物質を失ったのです。その次に、神の言葉を失い、神の愛を失いました。これが堕落だったのです。しかし、人間はこの結果を超えることができていません。
今、私たちはこれらを反対の方向から整理し、開拓するための戦いをしなければなりません。皆さんがこのような戦士にならなければ、歴史的な罪悪権と天の摂理に反対してきたサタン権から脱出することはできないことを知っておくべきです。
人間は堕落によって神の懐から離れ、本来の真の人間性から離れ、真の宇宙権から離れました。これを再び回復するための歴史が神の再創造の歴史であり、今まで努力してこられた神の摂理なのです。
第1のアダムが堕落したことで恨みが生じましたが、第2のアダム、すなわち復帰されたアダムとして来られたイエスはどのようなことをしなければならなかったのでしょうか?まず、イエス自身の心に神が宿るようにし、自身の体に真の人間の意志を持ち、真の主人となることでした。イエスはこのような実体として来られ、天的な愛を証し、人間的な愛を証し、万物の情までをも証し、すべてを一つに統合する一つの主体としてこの地に来られました。
だからこそ、イエスはこの地に来て心の天国を主張しました。そして神が自分の心の中にいると言い、神と一体となった自分を主張しました。また、全宇宙が自分の支配を受け入れるべきだと言いました。そして、全人類に対しては愛の標語を掲げて「私は神の子であり、あなたたちは私の友であり、兄弟である」と言いました。皆さんはこの言葉にメシアとしてのイエスの価値が込められていることを知るべきです。
イエスには自分自身を中心に家庭を動かし、社会を動かし、民族、国家、世界、さらに天地宇宙までも動かさなければならない使命がありましたが、イスラエルの民が反逆し、教会が反逆し、選ばれた洗礼者ヨハネが反逆し、家庭が反逆しました。
そのため、イエスは自ら使徒たちを立て、彼らを土台にして世界的な第二イスラエルを形成し、世界的なカナン復帰の理念を実現しようとしました。この事実は原理を通してよく知られていることでしょう。当時、イエスは十二部族で形成されたイスラエルの民が反対したため、十二部族の形が崩れ、モーセが築いた土台を失い、ヤコブが築いた十二兄弟を中心とする土台も失い、十二弟子だけを連れて歩かざるを得なかったのです。
第二イスラエルの創設者として先頭に立たなければならなかったイエスでしたが、ヤコブの十二人の息子のような十二使徒が崩れてしまい、再び遡ってノアの家庭の形を取らなければならず、ノアの三人の息子に相当する三人の弟子を連れてゲッセマネの園を彷徨うことになりました。しかし、この三人の弟子さえもイエスと一つになれなかったため、イエスは堕落当時のアダムの立場に陥ってしまいました。これがイエスの置かれた状況であったことを知っておくべきです。今日のキリスト教徒はこれをよく知りません。また、イエスが無知な人類のために祈ったことや、イエスの悲しい心情を知らないのです。
世界を主宰する主として全世界の人類に神の心情を紹介しなければならないイエス、万物を主宰しなければならないイエスが、洗礼者ヨハネから拒絶され、自分の家庭からも拒絶されました。
その結果、イエスは世界的な土台を失い、民族的な土台も失うという哀れな姿になったのです。こうしてイエスは堕落したエバのために花嫁を失ったアダムのような立場に置かれました。
堕落していない真の父母を失った人類の前に真の父母として来られたイエスは家庭を失い、子として立てた三人の弟子まで失ったため、イエスはエバを失ったアダムの立場に置かれました。そのため、イエスはこの地に「新郎新婦」という名を残されることになったのです。このような悲しい事情に置かれていたイエスであったことを知っておくべきです。
また、イエスは世界を統合することができる言葉と、イスラエル十二部族に代わる世界的な第二イスラエルであるキリスト教信者を統合することができる言葉と、天倫の前に立つことができる個人的な法や社会倫理、家庭の制度に関する言葉を全て伝えることができずに去ってしまいました。これがイエスの最も大きな悲しみでした。
しかし、今日の人間はこれらの歴史的な事実を知りません。さらに、神を信じるというキリスト教徒でさえも知りません。こうした人間たちを見ておられる神が、どうして嘆かずにいられましょうか?イエスの時代にユダヤの民を第二のイスラエルとして祝福し、第二のカナンを建設しようとした神の計画が破れたため、神の悲しみはさらに増したのです。
では、イエスがこの地上に再び来られるなら、どこに、誰のもとに来られるのでしょうか?イエスは堕落した人間世界に直接来られることはできません。復帰の道を経て来られなければならないイエスは、ノアの家庭とアダムの家庭の段階を超えて来られなければなりません。このようなイエスの事情を背負い、世界まで進まなければならない歴史的な運命の過程が、今日の信仰者たちの背後にあるのです。しかし、今日の信仰者たちはこれを知りません。これを知らなければ、イエスを熱心に信じていても、彼を迎えることはできないのです。
再臨の主は世界の主人公として来られます。しかし、再臨の主にはまず、天を中心とした家庭が必要であり、民族が必要であり、国家が必要です。そうしてこそ世界の主人公になれるのです。これが原則です。
今日、キリスト教が世界を復帰しようとする主の理念に代わろうとするならば、まず、世界的な基盤となるイエスを中心とした天の家庭があるかどうかを考えなければなりません。イエスを中心とした天の民族、天の教団を備え、民族的な観念を超越する基盤を築き、世界的な基盤を成し遂げなければ、イエスがこの地に再び来ても、誰が悲しみのイエスにはならないと言えるでしょうか?歴史的な事実がこれを証明していることを忘れてはなりません。
天地の運勢は皆さん自身を通過しています。皆さんが知っていようが知っていまいが、民族が知っていようが知っていまいが、国が滅ぼうが栄えようが、あらゆる困難の道が皆さんを通り過ぎていきます。
イエス以降2000年の歴史の過程を摂理された神の御心は何だったのでしょうか。イエスを通して全体の天的理念を代行できる中心を立て、この地上に真の愛を実現することが神の御心でした。しかし、イエスが十字架にかけられたことによってその御心が成し遂げられなかったため、その御心を完結させる使命がこの地の人間に残されているのです。
では、今、皆さんはどうすべきでしょうか。イエスを失ったために、天に属する真の人間、真の万物を所有できる真の指導者を再び送ってくださるよう、天に訴えなければなりません。
第二のアダムとして来られたイエスを殺したために、人間は再び神の心に隠されている御言葉を持って来られる主、天国の人格を代表し天国を建設しようと来られる主、万物を主宰する資格を持って来られる主が必要なのです。これが人類の希望なのです。
今、私たちは私たち人間を立てて摂理される神の前で面目を保つことを知っておかなければなりません。そうでなければ、イエスがこの地に再び来られても、私たちは彼に会うことができません。そして皆さんは、イエスがこの地に来られたとき、彼を支えなければならない人間がイエスを死なせたために、第二の堕落の立場に陥り、再び神を捨て、天国を捨て、真の愛を捨て、万宇宙を捨てたことを心に留めて、常に主を信じ支えなければなりません。
では、今日の信徒たちは何をすべきでしょうか。最も重要なのは、イエスの愛を通して天国を建設することです。では、天国はどこから始まるのでしょうか。それはイエスの愛と人格を知り、イエスが主宰できる万物の主宰権を知ることから始まります。イエスの愛と人格、万物の主宰権を知らない人は神を見つけることができません。
私たちがイエス以後の2000年の歴史を振り返ると、多くのキリスト教信徒が神を再び見つけるための運動をしてきたことがわかります。その結果、激しく迫害していたローマがキリスト教を公認するに至り、ついにはローマに教皇庁を設立し、教皇権を中心とした政治が行われ、封建社会が形成されました。
しかし、中世に入ると再び教皇庁が腐敗し、人本主義思想がキリスト教に入り込むことで、中世以降のキリスト教徒は神を失うことになりました。つまり、多くの人々が人本主義思想に流れてしまったのです。こうして啓蒙思想を経て、最終的には唯物史観が現れました。
これは人間の理性を重視する合理主義と経験主義哲学思想に基づいています。したがって、世界は現在、唯物史観と資本主義思想により物質の価値を重視する物質万能主義が横行する世界に堕落してしまったのです。
イエスは天の御心を代行し、全体の摂理を統合する使命を担い、第二のアダムとしてこの地に来られましたが、私たちの先祖たちがイエスを拒絶したため、罪悪の歴史の道を逃れることができませんでした。これにより、神を見つけることも、真の人間を見つけることも、真の物質を見つけることもできなかったのです。そのため、どれほど真の人を探そうとしても、見つける方法がない状況に陥ってしまったのです。
では、中世の封建社会形態を誰が崩壊させたのでしょうか?天が崩壊させたのです。神はローマ教皇庁を中心に御心を成し遂げようとされましたが、その教皇庁が腐敗していったため、神はそれを打ち砕かれました。天を信じる人々がむしろ天倫の御心を裏切ったので、人本主義思想を立てて彼らを打つことになったのです。
そのような中でも、神は摂理の基点を失わないために天を憂う一人の人物、ルターを中心に宗教改革を起こされました。このようにして、神は一方で打ち砕き、一方で立てる摂理を進めてこられたのです。そして、キリスト教を通じて第二のイスラエルの形を経て文芸復興を経た後、大混乱を経験させ、人本主義的な理性哲学を中心とする啓蒙思想に対抗する摂理を進めてこられたのです。
啓蒙主義者のヴォルテールやルソー、モンテスキューのような人々は、キリスト教が滅びると思いました。しかし、ドイツでは清廉な人物たちが現れ、神の実際的な内的体験を主張しながら神秘性を高めました。それがイギリスを経てジョン・ウェスレー兄弟の復興運動を引き起こしました。さらに、クエーカー派を起こし、神秘的な内的体験をさせることになりました。
一方、人間は神を愛することを忘れ、人を愛する理性も忘れ、物質を愛することしか知らない唯物論的な主義にまで到達しました。堕落した人間であっても必ず本来の立場に戻らなければならないため、いずれにせよ物質中心の思想を打ち砕く時が来るのです。
今日では、神を中心とした中世も過ぎ去り、理性哲学を中心に支配された時代も終わり、18世紀に成立した唯物論的な思想も輝きを失いつつあります。これからの世界は、人が物質を愛しても満足を得られず、過去の歴史的な人物の教えに従っても現実の問題を解決できない、そんな悲惨な世界です。したがって、物質的な生産力を通じて社会の繁栄を目指す共産主義の理念では、到底世界を支配することはできません。
そのため、21世紀を迎えるにあたって、私たちの前には原子力時代を迎え、物質文明の世界的な支配を破壊する時代がやってくるのです。その次にはどのような時代が来るのでしょうか?愛を探し求め、楽しむ時代がやってきます。互いに尽くし合う時代が私たちの前に訪れるのです。
したがって、皆さんは来るべき愛の時代に宇宙万物の前で堂々と胸を張って進むために、歴史的なすべての価値を総合し、統合できる中心的な存在としての使命を果たす賢明な人々でなければなりません。
そして、皆さんは堕落したアダムとエバの道を辿らなければならない立場にあるため、一人一人が第二のアダムの時代的使命を継承しなければなりませんが、そのような資格を持っていないことを知るべきです。さらに、今日の歴史は人間の堕落によって失われた神、真の人間、真の物質を取り戻すための歴史であることを理解しなければなりません。
では、アダムの堕落はどのようにして起こったのでしょうか?神が許されていない、不義の愛の誘惑に引き込まれて天倫を破壊したことに始まるのです。私たちが生きる中で、エデンの園で起こった天使長的な形態が多く現れています。正しい道でないものが正しい道として振る舞う時代を経ているため、愛の混乱時代を免れることはできません。
神の摂理は反対の経路を辿って逆に進んできています。6000年の歴史を今日の私たちが振り返ると、旧約時代は物質を求める時代、つまり物質を犠牲にして神の前に出ることができる時代であり、新約時代は真のアダム格であるイエスを犠牲に捧げる時代であったことが分かります。
そして、これからの成約時代は、すべての人間が神の前に実体の犠牲となり、全ての万物を統合する基準を越え、愛を支配する時代になるでしょう。
しかし、世界の外面的な側面を打ち壊し、内面的な側面を探して築く形で神の摂理が現れることを、今日のキリスト教信者は知りません。言い換えれば、歴史の外面的な側面を打ち、内面的な側面を取り込むという神の内的摂理の内容を知らないのです。
では、神が6000年間摂理してこられたのは何を探すためでしょうか?それは神と人間と結ばれた永遠の約束の言葉を見つけるためです。その言葉は、真の父子関係を結んで一つになるということです。
皆さんは原理を通して人間の堕落が不法な不倫の関係が原因であったことを知っているでしょう。ですから、終末にある皆さんは注意しなければなりません。どの男性も少しの過ちで二人の女性を相手にする立場に立ってしまい、女性はこれに巻き込まれやすいということです。
では、これをどのように整理し、防ぐことができるでしょうか。このハンドルをどのように動かすかが問題です。
無限動力を中心とした物質文明の時代が到来しています。初めに人間には生食時代がありました。その後、火食時代を経て、次には水食時代、つまり水の栄養を摂る時代が来るのです。これからは科学的な食糧で私たちの健康を十分に維持できる時代が訪れるでしょう。私たち人間の努力が必要な時代は過ぎ去ろうとしています。
そのとき、私たちは何をするのでしょうか?そのときに残るのは芸術文化であり、私たちは美と愛の道を探し求めるでしょう。それは良いことです。しかし、人類が天理法道を逸脱してその道を探し求めるならば、結局どこへ行き着くのでしょうか?どうなるのでしょうか?これは今日、宗教を尊重する人々が心配しなければならないことです。
現代の文明は、世界の真実を知らずにさまよっているため、宗教を必要としない段階にまで来ています。ですから、今日の宗教は人々が進まなければならない道を人類に示す使命を負っているのです。2000年の歴史を振り返ると、数多くの革命がありました。人類はその革命の過程を経て、一つの統一世界を目指してきたことを知るべきです。
人間に知・情・意があることを考えると、人間を創り、天地万物の主導的主人公である創造主は、さらに高次の原理法道を通すことができる知・情・意の主体であることがわかります。そして歴史を見てみると、個人から家庭、家庭から種族、種族から民族、国家、世界へと拡大してきました。また、そのような外的な形を経て、内的な思想や観念を優先する時代に入ってきています。
人間個体においても、外面的な側面を経て内面的な精神面に向かっています。精神が主導的であるため、この精神を統一することで一つの価値を見出し、そうなれば統一的な目的に向かって正しい道を歩むことができるのです。
世界も同様です。世界にも世界認識があるため、一つの帰一(きいつ)点である精神統一のために世界を一つに結びつける世界構造が現れるのです。これが今日、民主主義と共産主義が対立して戦っている姿です。この時、霊界と宇宙を創造された神が宇宙の統一理念を実現しようとされるため、霊界の理念と地上の理念が衝突することを理解しなければなりません。
地上でも、これまで優勢な民族と劣勢な民族が戦いの歴史を経て一つの世界観を中心に一つの世界に向かっています。やがて霊界のすべての霊が地上に再臨する時が訪れます。そうなると、地上では大きな混乱とあらゆる対立や戦いが起こるでしょう。その時、皆さんはこれらが天の望む方向に収束するように主導的な役割を果たさなければなりません。そのためには、神の心情と天倫の理念を代行できる資格者でなければなりません。これが神が歴史の終局に望まれる希望ですが、今日のキリスト教ではその希望を果たすことはできません。
これまでの歴史の過程で多くの革命がありましたが、人間の情的な問題を革命したことはありません。社会や国家のすべての構成体系は時代を経る中で革命の要素が芽生えた時、それを排除できず、むしろそれによって革命されて崩壊してきました。
しかし、人間の親子間の情、夫婦間の情、兄弟間の情だけはまだ革命を受けたことがありません。いかなる倫理や道徳、どんな哲学や理念も革命の過程を経てきましたが、情的な愛の問題については革命を起こせなかったのです。
では、今日の皆さんはその情的な問題を持って天の前に立てる真の親となったでしょうか?真の夫婦となったでしょうか?真の子供を持っているでしょうか?そうでなければ天倫にかかることになります。
だからこそ、イエスはこの地上に神の愛を持ってきて、その愛を紹介し、自分を神の子であると言いました。イエスが神と結んだその愛の縁は、今日まで誰も破ることができませんでした。地上にサタンの勢力がどれほど強くても、それを破ることはできなかったのです。また、イエスが「あなたたちは私の花嫁であり、私の兄弟である」と言ったことも破ることができなかったのです。
このような基盤があったため、キリスト教は歴史の過程を通して発展してきました。こうしてキリスト教は天国の中枢となり、一つの人格を通じて天を代行できる家庭形態を築くために、歴史の過程を通じて発展してきたのです。
いくら強大な権力を持ち、博士の地位を持っていても、天との情的な縁を持たない人は哀れです。ですから、この原則を知っている人々はイエスに感謝するのです。もしイエスがそれを主張しなかったならば、人間世界はどうなっていたでしょうか。暗黒の世界に変わっていたでしょう。不信と闘争、反目と不和の世界に変わっていたでしょう。
したがって、この地上に神の愛を中心として人間の情的な分野が一つになり、新しい実証的な愛の世界が築かれてこそ、平和の時代が到来するのです。ですから、宇宙の終末時代にある皆さんは、理性的な問題において自分を中心にしてはいけません。そして、自己よりも家庭を愛し、家庭よりも民族・国家・世界を愛し、世界よりも宇宙を愛する心を持たなければなりません。これまで歴史の過程で見出されたすべての人間的な経綸と天的な経綸がこの終末時代に100パーセント結びつかなければならないのです。したがって、今こそこれまで持っていたすべての情的な問題を捨て、新たに出発できる喜ばしい知らせを待つ時です。
2000年前、イエスが「誰よりも私を愛せ」と言ったその言葉が、この終末時代に再び現れなければなりません。人間の理性を尊重する時代を経て、物質の時代も経たのですから、今こそ愛の時代が到来するのです。したがって、今は人間の情的な問題、愛の問題を解決できる天の言葉が必要なのです。その時が来たのです。
これまで人間は歴史の過程を通じてプラスの理念だけを追求してきましたが、それではいけません。天はプラスであり、人間はマイナスのようなものです。ですから、宗教では人間が傲慢であってはいけないと言います。また、自分を愛してはいけないと言います。自分のすべてを否定し、さらに自分の体も打てと言います。これは天がプラスであるため、人間はマイナスでなければ互いに交わることができないからです。
プラスとプラスは相反します。互いに反発し、押し出すのです。サタンとは何かというと、神がプラスの立場にあるのに、マイナスの立場に立たず、プラスの立場に立とうとすること、これがサタンなのです。前述したように、道の生活では禁欲主義を叫びます。それは、サタン側、つまり悪に属するプラスの面を打ち、マイナスの立場に転換させるためです。
身体を打つというのは、身体がマイナスの立場に立つべきなのにプラスの立場に立とうとするため、これを打ってマイナスの立場に戻し、天(プラス)と完全に交わることができるようにするためです。したがって、皆さんも自分の身体を中心としたすべての条件を取り除かなければ、完全なプラスである天の前に完全なマイナスとして立つことはできません。
全宇宙はそのような存在がこの地に早く現れ、神と永遠の愛を交わすことができる愛の日が来ることを待ち望んでいるということを、皆さんは心に留めておいてください。
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