文鮮明先生 御言葉選集 4 - 3. 神様の悲しみを体感する者になろう (1958年3月2日)
1958年3月2日(日)、前本部教会。
聖書拝読:ローマ書 8:12-27
<祈祷>
お父様! この時間、私たちの心を探ることを許し、私たちの身体を数えることを許し、心と身体が父の心情に近づく息子娘になるように導いてください。
天上のすべての聖徒たちは摂理の意を受けて出て行く中で、堕落の子孫であることを思い、お父様の前に頭を上げることができず、心苦しく思っていることを私たちは知っています。地上にいる私たちも、お父様の前に頭を下げ、お父様の心を持つために努力しなければなりませんので、私たちの心に図々しさがないように許し、私たちの行動が父に不忠でないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
お父様の前に誇ることが何もないことを知らない者は死の手に握られている者であることを悟らせてください。お父様の前に近づけば近づくほど、頭を下げずにはいられず、自らの罪を告白せずにはいられないことを感じます。これが天国に向かう私たちの姿ですが、お父様の意の前で自分の身の置き場を知らず、不忠な息子娘にならないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
自らが罪人であることを認め、お父様の憐れみと愛の手を待ち、頭を下げてお父様の心情を恋しく思う切なる心を持たせてください、そして私たちにもし暗い罪悪の根が残っているならば、お父様! それを取り除いてくださいと切に願い求めます。
この時間、集まった人は多くとも、一つの心になるように許し、身体は多くとも、皆が一つになるように許してください。そしてこの時間、お父様の命令によって新しい道を切り開くことができるように導いてください。新しい権能を受け、新しい行動を起こすことができる天の源泉的な力を持たせてください、愛する父よ、切に願い求めます。
今この時間、天が守ってくださり、サタンが一切入り込まないように許してください。私たちが持っているどんな理論や知識・主義・主張・観念があるならば、お父様、この時間それらをすべて忘れて、ただお父様を慕う純真な心を持たせてください。そして私たちの心身にあるすべてを祭壇の前に静かに捧げることができるように許してください。そうして私たちを新しい御言葉で再び形作ってくださることを切に願い、父の愛の懐に抱かれる直接的な再創造の働きがここに現れることを切に願います。
お父様、今御言葉を伝えたいと願います。伝える者の心も、受け取る者の心も一つでありますように許してください。伝える者と受け取る者の心に隔たりが大きければ大きいほど、サタンが狙う機会が多いことを知っていますので、お父様、この時間、お父様の切なる心情を体感させてください。
そうして父の心配を解き放ち、お父様に喜びと栄光を返すことができる真の息子娘にさせてください。お父様、切に願います。
集まったすべての者にお父様の憐れみの手が加わりますよう、切にお願いしながら、すべての言葉を主の名において祈ります。アーメン。
<御言葉>
今日、この時間は皆さんに「神の悲しみを体感する者になろう」という題で少しお話ししたいと思います。
今、この地上でどれほどの栄光を享受し、幸福に暮らしている人でも、その自分を深く見つめると、悲しみがない人はいないことを皆さんはよく知っています。このような状況は個人にとどまらず、家庭においても同様です。さらに、理念を立てて社会や国家・世界・天地を創造し、その意を成し遂げる日を待ちながら摂理している神自身にまで悲しみがあることを私たちは知らなければなりません。
皆さんは、自分の心に悲しみがあるならば、その悲しみは個体に限定されたものではなく、自分の環境を超えて全体の環境にまで影響を及ぼすことを感じるべきです。
今日の私は非常に微小な存在ですが、私が感じているこの悲しみは私に限定されたものではなく、民族を超え、世界と天倫と天性を超え、創造主である神自身にまでつながっているというこの巨大な事実を皆さん自身が感じなければならない時が来ました。自分が経験する悲しみは、民族や世界、さらには天と地を代表して経験する悲しみだという事実を知る人がいるならば、その人は悲しいというその事実だけを見ると非常に哀れな存在のようですが、天に近い人であることを私たちは感じなければならない時が来たのです。
今まで私たちは個々の悲しみを自分だけの力で解決しようと苦労してきましたが、まだこれを解決できていません。今、天があり、その天と私との縁があり、また歴史を通して摂理する神の意があるならば、自分の個体にとどまるこの悲しみを歴史の過程を代替する悲しみとして、または歴史を摂理してきた神の悲しみとして捉えなければなりません。そのような人は悲しい人ですが、多くの友を持つ人であり、彼は孤独な個体ですが、歴史的な背景を持つ人であり、現実のすべての環境を代表する人であり、未来の天倫の意を代表できる人です。このような自分の立場を見つける時が来たことを私たちは知るべきです。
では、皆さんの心の深くに悲しみがあるなら、その悲しみはどこか一箇所にとどまるものなのでしょうか?皆さんの悲しみが刺激され、地が悲しみ、民族が悲しむことができるべきです。さらには全世界が悲しみ、神が共に悲しむその一日が来なければなりません。しかし、皆さん個々の悲しみは、皆さんのための悲しみにとどまり、さらには人類全体に対する妨げとなり、世界と天倫に対する妨げとなっています。皆さんは、同じ立場や同じ環境で天と地に対して反応できるような悲しみをこの地上に示すことができていません。そのため、人間よりも大きな悲しみを 抱えた神の心情が、世界から国家・民族・家庭を経て私たち個体にまで及び、体感される道が閉ざされてしまったのです。
では、私たちにとって最大の悲しみとは何でしょうか?それは、私が悲しむときに天が一緒に悲しんでくれない状況や、私が悲しむときに家庭全体が悲しまず、地上の全人類が一緒に悲しんでくれない状況にあることが、何よりも大きな悲しみであると今日の私たちは感じなければなりません。
では、私が悲しむときに、天と地の全人類が悲しむその悲しみをどうすれば感じることができるのでしょうか?自分一人を中心にして悲しんでいては、そのような悲しみの状況に至ることはできません。私たちが悲しむというならば、自分を離れて家庭のために悲しむことを知り、家庭の範囲を超えて民族と世界、さらには天のために悲しむ心を持たなければなりません。そうすることで、神の悲しみが世界から国家を経て家庭を経て私に戻ってくるのです。
神はこれまで復帰摂理を進めてきましたが、まず人間に何を信じさせたのでしょうか?すなわち、再創造の歴史を始める前に、まず私たちに何を体感させたのでしょうか?それは喜びではありません。まずは自分自身に対して悲しむ心を湧き上がらせました。その後に、自分の家庭・社会・民族・国家・世界、さらには天倫のために悲しむ心を湧き上がらせました。そうすることで、人間が神の前に立つことができる道が開かれるのです。これが原則です。
したがって、キリスト教の真理は悲しみの涙を流しながら進むようになっており、悔い改めの過程を経て進むようになっているのです。では、人間が堕落したことで神の心中に積もったこの悲しみの曲折は、いつ解消されるのでしょうか?これが全人類と全宇宙、そして天倫が解決しなければならない宿命の課題として残っています。したがって、神に積もっているこの悲しみの根を取り除く前に、人間自身の根本的な悲しみの解決策は見つからないのです。
神は全被造物を創造し、今まで6千年の摂理歴史を経営してきましたが、その悲しみを解消し、全被造世界の前に栄光の本体として現れる喜びの一日を持ったことがありません。このような天の悲しい事情があることを皆さんは感じなければなりません。
私たちは心では神の心情を感じようとしますが、周囲の悪の要素や社会環境、あるいは生活環境が身体に心とは逆の道を取らせるため、心と身体が対立する立場に置かれることが多いです。
そして、私たち自身を見たとき、悲しみの側面も二つあることを体感するでしょう。善を慕い悲しむことと、自分自身の欲望のために悲しむことです。つまり、心の欲望のために悲しむ悲しみと、身体の欲望を満たすための悲しみがあるのです。
どうせ悲しみを感じなければならない堕落した人間なら、私たちはどのような悲しみを感じてこの堕落の権力から脱出すべきなのでしょうか?私たちは神の心情にまで達することのできる悲しみを感じなければなりません。そうでなければ、このすべての悲しみの権力から逃れることはできません。
しかし、この地上に生きる人間は、自ら神の側に立ち、神の事情を通じて神と共に悲しむ環境を整えることはできません。そこで神は、神の悲しみを代わりに担うイエス様を人間の中に送り、人間がその方を信じるようにされたのです。
人間がサタンの世界の悲しみと関わりを持たないようにし、彼らを悲しみを感じる神の相対的な位置にまで引き上げるために来られた方が、まさに皆さんが信じているイエス様なのです。
では、今日私たちが信じているイエス様は、この地上に何を持って来られたのでしょうか?愛を持って来られました。しかし、イエス様はその愛を成し遂げるために悲しみの峠を越えなければなりませんでした。しかし、この悲しみの峠を越えることができない状態で、イエス様は30余年の生涯を終えられました。イエス様は他人が知らない心情を抱え、民族のために涙を流し、ユダヤ教と天のために心配し涙を流されたのです。
したがって、堕落した人間がイエスの心情を知ろうとしても、そのままでは知ることはできません。4千年という長い歴史の中に宿っているすべての罪悪の要素を払いのけ、イエスの心情と意志とその使命をすべて自分が引き受けたという立場に立ち、イエス様を主としてお迎えするときに初めて、イエスの悲しみを感じる立場に立つことができるのです。したがって、そのまま信じていたユダヤ教の信者や、単に選民の権利を誇っていたイスラエル民族は、イエスの悲しみとは何の関係もない立場に置かれていたのです。
イエス様がこの地上に来られて悲しまれたのは、神の代わりに悲しまれたのであり、祈られたのはご自身のためではなく、神の側に立てる理念のために祈られたのです。イエス様はただ神の嘆きの心情を解き放ち、神の愛の園を成し遂げる心情を持って祈られましたが、その当時の人々の中にはその祈りの声を理解する者はいませんでした。そして、イエス様が語られた福音(新約)の中心を誰も理解しなかったのです。
そこでイエス様は、ご自身が抱いていた悲しみを人間に移すことによって、人間がイエスの悲しみを抱き、神の代わりに悲しむことができる環境を作らなければならなかったのですが、この全体的な意図が人間に移されなかったため、イエス様は天上に行かれても悲しんでおられるのです。したがって、イエス様が来られた目的が成就されなかったことで、神の悲しみは今もなお摂理歴史の道程に残っていることを私たちは知らなければなりません。
今、皆さんは神の悲しい心情を体感し、イエス・キリストの悲しい心情を体感しなければなりません。そうして体感した悲しい心情を持って天を憂うことができる真の人間にならなければなりません。しかし、皆さんは自分自身を中心に悲しむ悲しみを持っているものの、天の縁を代わり、私たちが復活し、復帰の道を切り開くことのできる悲しみはまだ持っていません。
したがって、皆さんが世俗的な自分のすべての悲しみを放棄し、天の悲しみと神の悲しみを感じて涙を流す時間を持つならば、そこから新しい希望の出発があるでしょう。
神の悲しみを抱きしめ、人知れず涙を流し、万民の代わりにその悲しみを解放できる一人の真の人間がいるなら、その人がいるところを中心に地の運命が動くことを皆さんは知っておくべきです。
今、神の代わりに悲しむことができない民族は滅びます。天の代わりに悲しむことができない教会・家庭・社会・国家は滅びるのです。この国も、上から下まで一致し、為政者から一般民衆に至るまで天倫の祭壇を抱きしめて涙を流し悲しむ民族であったならば、今日のようにはならなかったでしょう。今こそ、私たちが新たに覚醒する時が来たのです。
キリスト教は涙の宗教です。したがって、真に神の心情を体感するとき、涙なしでは民族や国家、そして世界や天を見つめることができなくなるでしょう。そのような立場に立つべき人間なのに、感動の涙を流さず、天に対して図々しく、天倫に対して軽率な行動を取っています。
世の中の真の友人同士の情愛も涙を条件として結ばれるのですから、堕落した人間が天倫の心情を体感する場において、どうして涙がないことがあるでしょうか?したがって、イエスを信じて罪人である自分自身を悟るときには、無限の涙を流すひとときがなければなりません。そこでは自分の身の置き場がわからず、無数の罰を受けるべきだと感じるでしょう。そして天の前に頭を上げることができず、座っていても自分の位置を見つけることができないほどの心苦しさを感じるのです。したがって、皆さんは真に嘆きながら涙を流す人にならなければなりません。そうでなければ、皆さんの個人的な道が閉ざされるのです。そして、天の意図を抱いて憂う家庭にならなければなりません。そうでなければ、皆さんの家庭の道も閉ざされるのです。
この地上に生きる堕落した人間たちは、悲しい心が強ければ強いほど、互いに分裂していきます。自分を中心に悲しむと悪人の習性である分裂が生じ、善のために悲しむと分裂したものが結びつきます。つまり、分かれた心と身体が一つになり、天倫との統一の合一点が実現するのです。
では、なぜ私たちは悲惨な運命の道を歩まなければならないのでしょうか?それは、人間が堕落し、神の愛を感じながら生きる理想の園を失ったために、神に無限の悲しみを抱かせてしまったからです。つまり、人間が神に胸が裂けるような悲しみを抱かせたため、そのような道を通らなければならない曲折が残ることになったのです。
では、今日この時代はどのような時なのでしょうか?今日この時代は終末の時代であり、個人のために涙を流す時は過ぎ去り、家庭のために涙を流す時も過ぎ去りました。また、国のために涙を流す時も過ぎ去りました。今こそ世界のために涙を流す時が来たのです。したがって、今皆さんは世界のために涙を流さなければならないだけでなく、さらに天倫と霊界のために涙を流さなければならず、天のために涙を流すことができなければなりません。そして、神の喜びを自分の喜びとし、神の悲しみを自分の悲しみと感じなければなりません。そのような人になって 初めて、天地万物を創造された父の子として、全世界を主管する資格を持つ者として立つことができるのです。
このような世界的な悲しみの峠を越えるために、これまで個人が犠牲となり、教会や社会が犠牲となってきました。しかし、今この時は世界のために私たちが犠牲になる過程を経なければならない時です。これからは世界的な犠牲の道を進むでしょう。その一日、まさにその時が、神の内的な悲しみを知らなかったことを一世代で清算するための、今日のキリスト教が言う終末の時なのです。
これらのことを考えるとき、今日皆さんはどのような環境に置かれているのでしょうか?どのような立場にあるのでしょうか?私たちが信じているイエスも、個人を超えて天倫の心情を代行する生涯の道を歩まれました。これを考えると、今日私たちは、神が人間のために流された涙と同じだけの涙を神のために流していない、神の前に涙の負債を負った者たちであることが分かります。
したがって、今日皆さんはただ座っていてはいけません。胸の中で自分でも知らず知らずのうちに悲しみが爆発し、この民族とこの国、そして世界と天地のために涙の祭壇を築かなければなりません。さらに、自分自身の悲しみをすべて忘れ、神の意を憂う心で祈らなければならないのです。
皆さんはそのように「神よ!私を通してあなたの悲しみを解き放ってください」と祈りながら、神を慰め、イエス様を慰めなければならない立場にありますが、そのような祈りをしていませんでした。自分のためだけに祈っていたのです。したがって、皆さんはそのような立場を超えなければならない責任が残っていることを知らなければなりません。
今や皆さんは自分のすべての悲しみを天に投げ捨て、自分のすべてを天に捧げて生きる人間にならなければなりません。そうすることで初めて、皆さんは神が皆さんのために涙を流され、世界のために涙を流される父であることを知ることができるのです。
また、そのように自分を抱えて涙を流される父であることを皆さんが知って初めて、その父が皆さんの父となり、イエス様が皆さんの主となるのです。もしそのような立場で生きる人がいるなら、その人は神が私たちのためにどのような環境で涙を流しているかを知ることになるでしょう。
本来、人間が堕落しなければ、罪の血統から生まれることはなく、食べるときも嘆く万物を食べることはありません。また、死ぬときも天地の悲しみを背負って死ぬことはないのです。しかし、人間が堕落したことで、そのすべての嘆きの条件を背負わなければならなくなり、またそれを人間自身が脱しなければならない立場に置かれることになったのです。イエス様は罪人の汚名を着せられて亡くなりましたが、人類を愛する心は変わりませんでした。このように地上で神を抱きしめて悲しむ人がいるなら、その人は個人的に悲しむのではなく、公的に悲しむ人であれば、神はその人を罪から救いたいと思われるのです。
神はこれまでこの地上で罪にまみれた物を食べ、罪にまみれた物を着ている人間を見て悲しまざるを得ませんでした。神はこのように、皆さんがサタンの侵略を受ける環境に置かれていることを悲しんでおられるという事実を感じなければなりません。したがって、イスラエルの民がカナンの地で3年間万物を聖別したことがあり、聖書には心の割礼、身体の割礼について記されています。これは、神が非常に小さな万物一つでも完全にご自身のものとして取り戻すことのできる環境が、この地上にまだ実現していないことを意味するのです。
神が自由に抱きしめ愛することができる息子娘がいないということです。愛することができるとしても、サタンを左右に置いて愛さざるを得ない父の切ない事情があることを皆さんは知っておかなければなりません。
神の愛を受ける息子娘は、ふさわしくない食べ物を見ると無意識にそれを食べたくないと感じます。また、ふさわしくない服があるなら、その服も着たくないと感じます。ふさわしくない場所に住むことになっても同様です。これらは神が心を通じて働いているからです。このように神は人間のために背後で心配していますが、人間はそれに気づいていません。これが神の切ない事情なのです。
私たちは神の心を体感できる人となり、ローマ書8章に比喩されているように、全ての被造物が嘆き悲しむ嘆きの領域を抜け出し、安心して与えられた物を食べ、喜ぶことができる息子娘となるべきです。
皆さんがどのような物質を持っているとしても、その物質は世界的な悲しみを代償しなければならない物質であることを知っておかなければなりません。自分に属する物質だけでなく、堕落した人間が住んでいるこの世界のすべてがそのような立場に置かれています。つまり、皆さんにある物質は皆さんのものではないということです。皆さんの身体も皆さんのものではありません。生命と物質の根源はどこにあるのでしょうか?それは神です。したがって、皆さんに属するすべてのものは神を通した後にのみ自分のものとして認められるということを明確に知っておく必要があります。したがって、皆さんは心身ともに神の意志のために犠牲となって進んでいかなければなりません。
これまで正義の道を進もうと奮闘した人々は、自分のすべてを捨てて、ただ全体を思いやる心で一生を過ごしました。つまり、彼らは自分に属するものが神と人類の前でどんな嘆きの条件になるかを知り、それを果敢に取り除いていったのです。このように不義と罪悪の要素を取り除くために努力する道が道義の道であることを今日皆さんは再認識しなければなりません。
イエス様がこの地に来られましたが、彼を信じて仕える使徒はいませんでした。だから彼が持っていたのは神が認める一つの身体だけでした。当時のユダヤ教を中心としたイスラエルの民が最初にイエス様を信じて支えるべきだったのに、そうはなりませんでした。世界がイエス様の前に屈し、すべての被造物がイエス様の前に屈するべきだったのです。
今日、皆さんは自分を中心に誇るべき何かを持っていますか?皆さんは歴史を代行し、あるいは時間を越えて何かを自分のものだと主張できる自信がありますか?そうではない弱者の人間です。今日私たちには自分のものだと言えるものは何もありません。今日この地も主を失った地であり、人も主を失った立場に置かれています。
では、皆さんがこのような立場でどうすればいいのでしょうか?その悲しみの道を避けるために自分のための荷物をまとめてはいけません。もし皆さんが宇宙を支配したいと思うなら、そのような心を捨てて進むことを知らなければなりません。皆さんが生きたいと思うなら、生きた命を捧げなければなりません。勝利しようと思うなら、死を踏み越えて進まなければなりません。このような道を進むとき、人間であるがゆえに、自分でも知らないうちに心の中に染み込む悲しみを避けることはできません。しかし、人間はこの悲しみの峠を越えて全身全霊を神に捧げ、次にすべての被造物を求めて進まなければなりません。
私たちは今持っている物質やすべてのものを神に捧げ、天の代わりにサタンと戦うことを知らなければなりません。そうして自分の心身が完全に神のものとして捧げられるとき、サタンは訴えることができなくなるのです。
神は私たち個人を求めて来られますが、その個人を中心に家庭や社会、さらには世界まで求めようとされています。しかし、この道がまだ閉ざされています。天の摂理の道は私を求めて地まで降りて来ました。
今、私を中心に再び天の方向へ進まなければならないのですが、その道が閉ざされているのです。さらに、善を追求する人々は今まで世俗的なすべてのものを断ち切り、否定しながら失われた本来のものを神の前に再び求めて立て直す道を探してきましたが、この道が限界に達していることを私たちは知るべきです。
今まで私たちの悲しみは神を求めるための悲しみでしたが、すべての宗教の終末時代にはどんな悲しみが残っているでしょうか?それは、神を迎え入れて地の果てまで進むための悲しみが残っています。したがって、皆さんはこの悲しみを通して神の意志を成し遂げる覚悟と使命感を持って進まなければなりません。
今皆さんが感じるべきことは、神の悲しみです。イエス様の悲しい心情を体感しなければなりません。そして神が6千年という長い年月を悲しみの中で過ごし、皆さん一人ひとりを見つけるために努力してこられたという事実を実際に感じなければなりません。
神は今もなお、人間のために、人間の子孫万代を憂いながら、永遠の天国がこの地上に建設されることを願って努力しています。それにもかかわらず、今日の人間はその事実を忘れています。
歴史的な悲しみの中で摂理を進める神の心情を体感しながら生きる人は、どこにいても涙なしには神を見つめることができません。そのような立場で神の意志を知り、神の息子娘となるために戦うとき、その意志を共にする同志がいれば、神はその場に来て涙を流されるでしょう。
では、神の悲しみはどこにあるのでしょうか?それは私たちの個人の中にあり、この国、この世界、そしてすべての被造物の中にあります。私たちはこれを清算し、神の喜びを取り戻す運動を展開しなければなりません。そのために、私たちの命の中心は神の悲しみを体感する自分自身であるべきです。
その後、人間が知らない霊界の霊人たちを動員して証言させる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそれを求めています。霊界は神の心情を知っているため、この地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して天国の理念の実現のために地上の事に協力するのです。
霊界の霊人たちがこの地上に来られない理由は何でしょうか?それは、この地が嘆きの囲いとなっているからです。もし自分自身がいる環境が嘆きの条件を抜け出すことができ、自分の身体を通しても嘆きの条件を抜け出し、またサタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息の領域に入ったならば、神は自分を助けてくださいます。つまり、神の悲しみを体感する心情にはサタンも侵入できないということです。父のために悲しみ、憂い、涙を流す人を掴むためには、サタンもそのような立場に立たなければならないのです。そうなると、サタンの勢力も根本的に崩壊します。
したがって、今日皆さんは数千年にわたって摂理してこられた神の悲しみを体感し、天と地のすべてを責任を持ち、「この身体を犠牲にしてサタンを爆破する爆弾としてください!そして神の悲しい心を解き放つことができるようにしてください」と言えるようになるべきです。このような心情を持って来られた方がイエス様でした。
イエス様がゴルゴダの道を歩まれたことで、新しい生命の復活を引き起こす爆弾となり、再創造の歴史を起こしたのと同様に、皆さんもそのような歴史を起こさなければなりません。これまで摂理してこられた神の悲しい心情を体感し、この世界のために自分の心身を捧げる覚悟と心情を持つ人にならなければなりません。神はまさにこのような息子娘、一つの家庭、一つの国家、一つの世界を探しておられるのです。
このような神の心情を皆さんが体感し、一日を過ごすならば、皆さんは神に対して無限に悲しむでしょう。もしそのような人がいるならば、神はその人をすぐに知るでしょう。したがって、皆さんはそのような人になるべきです。もし皆さんがそのような人になれなかったなら、そのような人の前で頭を下げなければなりません。
そのような人の前で頭を下げることができる真の息子娘になるべきです。その後に初めて天倫の創造の偉業を継承することができるのです。そのような息子娘がこの地上にいるでしょうか?皆さんがそのような人になるべきです。もし皆さんがそのような人になれなければ、天の前に顔を上げることができない罪人になることを心に刻んでおかなければなりません。
今日皆さんが聞く耳、見る目、話す口、感じる感情はすべて何のために存在するのでしょうか?それは天倫の意志を成し遂げるために存在するのです。しかし、それらが天倫の意志から外れてしまえば、いずれ必ず裁きの日が訪れるでしょう。皆さんはこの事実を知ったので、まず自分自身を裁き、次に周囲の環境を裁くことができなければなりません。つまり、皆さんにとって十字架の道とは、自分を裁くことであり、まず自分の命を裁き、次に自分の死までをも裁くことです。そして復活の日を経て初めて、天が認める真の息子娘となることができるのです。
今や皆さんは自分の心を見つめなければなりません。家族が過ちを犯したなら、それを自分の過ちと受け止め、涙を流せるようでなければなりません。民族が過ちを犯したなら、それを引き受け、涙を流す人にならなければなりません。そのような人がいれば、たとえ民族が滅びてもその人は滅びることはないでしょう。世界のために涙を流し、天の心情を代表する人がいるならば、たとえ世界が滅びてもその人は決して滅びません。さらに、天のために涙を流す人がいるならば、その人は悲しい立場にあるとしても、神を支える立場にいるため祝福された存在であることを皆さんは確かに知っておかなければなりません。
したがって、皆さんが神に対して涙を流す生活を送るとき、神の永遠の愛を感じ、神の代理者の使命を全うすることができるのです。さらに、そのような心情に満たされた人には祈りは必要ありません。「信仰」という言葉さえも必要ありません。そのような人は祈る前にすでに神の心情を感じ取っているのです。
ですから、今や皆さんは天倫の悲しみを体感し、すべての被造物の嘆きを乗り越え、神の事情を直接的に通じることのできる真の人間となるべきです。そのような人がいれば、その人は外見上は滅びるように見えても、決して滅びません。軽んじられ、追われたとしても、その人には必ず後継者が現れるのです。
今日、皆さんは他の道を歩んでいます。皆さん、誰をも恨んではいけません。むしろ、彼らのために流した涙を通じて償いの恩恵を受けるのです。今日、皆さんは他の誰よりも先に神の悲しみを体感し、涙を流す恩恵を受けています。しかし、天が皆さんのために先に涙を流されたことを知っておくべきです。また、すべての人々が家族であることを忘れてはなりません。
この地上で手を取り合い、神の意志、天倫を憂いながら涙を流し、神の前で自分の身の置き場を知らずに頭を下げる一群の羊がいるならば、天もその前で頭を下げます。彼らは見えない犠牲者であるため、万人がその前で頭を下げるのです。昔、アブラハムが捧げた犠牲は小さなものでしたが、その犠牲の前にアブラハムが頭を下げたのと同様に、全天地が頭を下げました。
したがって、今や皆さんの生涯の中でどの環境を代表して犠牲の立場に立つとき、常にどのような犠牲の条件を立てるかを考えなければなりません。その場で個人のための犠牲の条件を立てますか?それとも家庭的、社会的、国家的、世界的な条件を立てますか?皆さんが捧げた犠牲の条件に応じて天的な価値が決まるのです。
では、困難な環境を切り開き、私たちの願いは何でしょうか?それは天の悲しい心情を体感する真の息子娘となり、父の前に敬拝すること、これ以外に望みはありません。
皆さんは「父よ、私に天地に染み渡る悲しみを感じさせてください。そして万民を代表する犠牲とさせてください」と常に祈らなければなりません。そうして涙を流し、悲しまなければなりません。そして父の心情と事情を通じ、その悲しみを解き放つための戦いの旗印を掲げて進む統一の家族にならなければなりません。
このようにして、皆さんの生活の中で天の悲しみを感じ、今日まで残されてきた宇宙的な悲しみを解き放ち、嘆きの条件に満ちたすべての被造物を復帰していかなければなりません。また、皆さんはそのような意志を成し遂げる開拓者として立ち上がったことを知り、今日この時から新しい人間になるべきだということを肝に銘じておくべきです。
1958年3月2日(日)、前本部教会。
聖書拝読:ローマ書 8:12-27
<祈祷>
お父様! この時間、私たちの心を探ることを許し、私たちの身体を数えることを許し、心と身体が父の心情に近づく息子娘になるように導いてください。
天上のすべての聖徒たちは摂理の意を受けて出て行く中で、堕落の子孫であることを思い、お父様の前に頭を上げることができず、心苦しく思っていることを私たちは知っています。地上にいる私たちも、お父様の前に頭を下げ、お父様の心を持つために努力しなければなりませんので、私たちの心に図々しさがないように許し、私たちの行動が父に不忠でないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
お父様の前に誇ることが何もないことを知らない者は死の手に握られている者であることを悟らせてください。お父様の前に近づけば近づくほど、頭を下げずにはいられず、自らの罪を告白せずにはいられないことを感じます。これが天国に向かう私たちの姿ですが、お父様の意の前で自分の身の置き場を知らず、不忠な息子娘にならないように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。
自らが罪人であることを認め、お父様の憐れみと愛の手を待ち、頭を下げてお父様の心情を恋しく思う切なる心を持たせてください、そして私たちにもし暗い罪悪の根が残っているならば、お父様! それを取り除いてくださいと切に願い求めます。
この時間、集まった人は多くとも、一つの心になるように許し、身体は多くとも、皆が一つになるように許してください。そしてこの時間、お父様の命令によって新しい道を切り開くことができるように導いてください。新しい権能を受け、新しい行動を起こすことができる天の源泉的な力を持たせてください、愛する父よ、切に願い求めます。
今この時間、天が守ってくださり、サタンが一切入り込まないように許してください。私たちが持っているどんな理論や知識・主義・主張・観念があるならば、お父様、この時間それらをすべて忘れて、ただお父様を慕う純真な心を持たせてください。そして私たちの心身にあるすべてを祭壇の前に静かに捧げることができるように許してください。そうして私たちを新しい御言葉で再び形作ってくださることを切に願い、父の愛の懐に抱かれる直接的な再創造の働きがここに現れることを切に願います。
お父様、今御言葉を伝えたいと願います。伝える者の心も、受け取る者の心も一つでありますように許してください。伝える者と受け取る者の心に隔たりが大きければ大きいほど、サタンが狙う機会が多いことを知っていますので、お父様、この時間、お父様の切なる心情を体感させてください。
そうして父の心配を解き放ち、お父様に喜びと栄光を返すことができる真の息子娘にさせてください。お父様、切に願います。
集まったすべての者にお父様の憐れみの手が加わりますよう、切にお願いしながら、すべての言葉を主の名において祈ります。アーメン。
<御言葉>
今日、この時間は皆さんに「神の悲しみを体感する者になろう」という題で少しお話ししたいと思います。
今、この地上でどれほどの栄光を享受し、幸福に暮らしている人でも、その自分を深く見つめると、悲しみがない人はいないことを皆さんはよく知っています。このような状況は個人にとどまらず、家庭においても同様です。さらに、理念を立てて社会や国家・世界・天地を創造し、その意を成し遂げる日を待ちながら摂理している神自身にまで悲しみがあることを私たちは知らなければなりません。
皆さんは、自分の心に悲しみがあるならば、その悲しみは個体に限定されたものではなく、自分の環境を超えて全体の環境にまで影響を及ぼすことを感じるべきです。
今日の私は非常に微小な存在ですが、私が感じているこの悲しみは私に限定されたものではなく、民族を超え、世界と天倫と天性を超え、創造主である神自身にまでつながっているというこの巨大な事実を皆さん自身が感じなければならない時が来ました。自分が経験する悲しみは、民族や世界、さらには天と地を代表して経験する悲しみだという事実を知る人がいるならば、その人は悲しいというその事実だけを見ると非常に哀れな存在のようですが、天に近い人であることを私たちは感じなければならない時が来たのです。
今まで私たちは個々の悲しみを自分だけの力で解決しようと苦労してきましたが、まだこれを解決できていません。今、天があり、その天と私との縁があり、また歴史を通して摂理する神の意があるならば、自分の個体にとどまるこの悲しみを歴史の過程を代替する悲しみとして、または歴史を摂理してきた神の悲しみとして捉えなければなりません。そのような人は悲しい人ですが、多くの友を持つ人であり、彼は孤独な個体ですが、歴史的な背景を持つ人であり、現実のすべての環境を代表する人であり、未来の天倫の意を代表できる人です。このような自分の立場を見つける時が来たことを私たちは知るべきです。
では、皆さんの心の深くに悲しみがあるなら、その悲しみはどこか一箇所にとどまるものなのでしょうか?皆さんの悲しみが刺激され、地が悲しみ、民族が悲しむことができるべきです。さらには全世界が悲しみ、神が共に悲しむその一日が来なければなりません。しかし、皆さん個々の悲しみは、皆さんのための悲しみにとどまり、さらには人類全体に対する妨げとなり、世界と天倫に対する妨げとなっています。皆さんは、同じ立場や同じ環境で天と地に対して反応できるような悲しみをこの地上に示すことができていません。そのため、人間よりも大きな悲しみを 抱えた神の心情が、世界から国家・民族・家庭を経て私たち個体にまで及び、体感される道が閉ざされてしまったのです。
では、私たちにとって最大の悲しみとは何でしょうか?それは、私が悲しむときに天が一緒に悲しんでくれない状況や、私が悲しむときに家庭全体が悲しまず、地上の全人類が一緒に悲しんでくれない状況にあることが、何よりも大きな悲しみであると今日の私たちは感じなければなりません。
では、私が悲しむときに、天と地の全人類が悲しむその悲しみをどうすれば感じることができるのでしょうか?自分一人を中心にして悲しんでいては、そのような悲しみの状況に至ることはできません。私たちが悲しむというならば、自分を離れて家庭のために悲しむことを知り、家庭の範囲を超えて民族と世界、さらには天のために悲しむ心を持たなければなりません。そうすることで、神の悲しみが世界から国家を経て家庭を経て私に戻ってくるのです。
神はこれまで復帰摂理を進めてきましたが、まず人間に何を信じさせたのでしょうか?すなわち、再創造の歴史を始める前に、まず私たちに何を体感させたのでしょうか?それは喜びではありません。まずは自分自身に対して悲しむ心を湧き上がらせました。その後に、自分の家庭・社会・民族・国家・世界、さらには天倫のために悲しむ心を湧き上がらせました。そうすることで、人間が神の前に立つことができる道が開かれるのです。これが原則です。
したがって、キリスト教の真理は悲しみの涙を流しながら進むようになっており、悔い改めの過程を経て進むようになっているのです。では、人間が堕落したことで神の心中に積もったこの悲しみの曲折は、いつ解消されるのでしょうか?これが全人類と全宇宙、そして天倫が解決しなければならない宿命の課題として残っています。したがって、神に積もっているこの悲しみの根を取り除く前に、人間自身の根本的な悲しみの解決策は見つからないのです。
神は全被造物を創造し、今まで6千年の摂理歴史を経営してきましたが、その悲しみを解消し、全被造世界の前に栄光の本体として現れる喜びの一日を持ったことがありません。このような天の悲しい事情があることを皆さんは感じなければなりません。
私たちは心では神の心情を感じようとしますが、周囲の悪の要素や社会環境、あるいは生活環境が身体に心とは逆の道を取らせるため、心と身体が対立する立場に置かれることが多いです。
そして、私たち自身を見たとき、悲しみの側面も二つあることを体感するでしょう。善を慕い悲しむことと、自分自身の欲望のために悲しむことです。つまり、心の欲望のために悲しむ悲しみと、身体の欲望を満たすための悲しみがあるのです。
どうせ悲しみを感じなければならない堕落した人間なら、私たちはどのような悲しみを感じてこの堕落の権力から脱出すべきなのでしょうか?私たちは神の心情にまで達することのできる悲しみを感じなければなりません。そうでなければ、このすべての悲しみの権力から逃れることはできません。
しかし、この地上に生きる人間は、自ら神の側に立ち、神の事情を通じて神と共に悲しむ環境を整えることはできません。そこで神は、神の悲しみを代わりに担うイエス様を人間の中に送り、人間がその方を信じるようにされたのです。
人間がサタンの世界の悲しみと関わりを持たないようにし、彼らを悲しみを感じる神の相対的な位置にまで引き上げるために来られた方が、まさに皆さんが信じているイエス様なのです。
では、今日私たちが信じているイエス様は、この地上に何を持って来られたのでしょうか?愛を持って来られました。しかし、イエス様はその愛を成し遂げるために悲しみの峠を越えなければなりませんでした。しかし、この悲しみの峠を越えることができない状態で、イエス様は30余年の生涯を終えられました。イエス様は他人が知らない心情を抱え、民族のために涙を流し、ユダヤ教と天のために心配し涙を流されたのです。
したがって、堕落した人間がイエスの心情を知ろうとしても、そのままでは知ることはできません。4千年という長い歴史の中に宿っているすべての罪悪の要素を払いのけ、イエスの心情と意志とその使命をすべて自分が引き受けたという立場に立ち、イエス様を主としてお迎えするときに初めて、イエスの悲しみを感じる立場に立つことができるのです。したがって、そのまま信じていたユダヤ教の信者や、単に選民の権利を誇っていたイスラエル民族は、イエスの悲しみとは何の関係もない立場に置かれていたのです。
イエス様がこの地上に来られて悲しまれたのは、神の代わりに悲しまれたのであり、祈られたのはご自身のためではなく、神の側に立てる理念のために祈られたのです。イエス様はただ神の嘆きの心情を解き放ち、神の愛の園を成し遂げる心情を持って祈られましたが、その当時の人々の中にはその祈りの声を理解する者はいませんでした。そして、イエス様が語られた福音(新約)の中心を誰も理解しなかったのです。
そこでイエス様は、ご自身が抱いていた悲しみを人間に移すことによって、人間がイエスの悲しみを抱き、神の代わりに悲しむことができる環境を作らなければならなかったのですが、この全体的な意図が人間に移されなかったため、イエス様は天上に行かれても悲しんでおられるのです。したがって、イエス様が来られた目的が成就されなかったことで、神の悲しみは今もなお摂理歴史の道程に残っていることを私たちは知らなければなりません。
今、皆さんは神の悲しい心情を体感し、イエス・キリストの悲しい心情を体感しなければなりません。そうして体感した悲しい心情を持って天を憂うことができる真の人間にならなければなりません。しかし、皆さんは自分自身を中心に悲しむ悲しみを持っているものの、天の縁を代わり、私たちが復活し、復帰の道を切り開くことのできる悲しみはまだ持っていません。
したがって、皆さんが世俗的な自分のすべての悲しみを放棄し、天の悲しみと神の悲しみを感じて涙を流す時間を持つならば、そこから新しい希望の出発があるでしょう。
神の悲しみを抱きしめ、人知れず涙を流し、万民の代わりにその悲しみを解放できる一人の真の人間がいるなら、その人がいるところを中心に地の運命が動くことを皆さんは知っておくべきです。
今、神の代わりに悲しむことができない民族は滅びます。天の代わりに悲しむことができない教会・家庭・社会・国家は滅びるのです。この国も、上から下まで一致し、為政者から一般民衆に至るまで天倫の祭壇を抱きしめて涙を流し悲しむ民族であったならば、今日のようにはならなかったでしょう。今こそ、私たちが新たに覚醒する時が来たのです。
キリスト教は涙の宗教です。したがって、真に神の心情を体感するとき、涙なしでは民族や国家、そして世界や天を見つめることができなくなるでしょう。そのような立場に立つべき人間なのに、感動の涙を流さず、天に対して図々しく、天倫に対して軽率な行動を取っています。
世の中の真の友人同士の情愛も涙を条件として結ばれるのですから、堕落した人間が天倫の心情を体感する場において、どうして涙がないことがあるでしょうか?したがって、イエスを信じて罪人である自分自身を悟るときには、無限の涙を流すひとときがなければなりません。そこでは自分の身の置き場がわからず、無数の罰を受けるべきだと感じるでしょう。そして天の前に頭を上げることができず、座っていても自分の位置を見つけることができないほどの心苦しさを感じるのです。したがって、皆さんは真に嘆きながら涙を流す人にならなければなりません。そうでなければ、皆さんの個人的な道が閉ざされるのです。そして、天の意図を抱いて憂う家庭にならなければなりません。そうでなければ、皆さんの家庭の道も閉ざされるのです。
この地上に生きる堕落した人間たちは、悲しい心が強ければ強いほど、互いに分裂していきます。自分を中心に悲しむと悪人の習性である分裂が生じ、善のために悲しむと分裂したものが結びつきます。つまり、分かれた心と身体が一つになり、天倫との統一の合一点が実現するのです。
では、なぜ私たちは悲惨な運命の道を歩まなければならないのでしょうか?それは、人間が堕落し、神の愛を感じながら生きる理想の園を失ったために、神に無限の悲しみを抱かせてしまったからです。つまり、人間が神に胸が裂けるような悲しみを抱かせたため、そのような道を通らなければならない曲折が残ることになったのです。
では、今日この時代はどのような時なのでしょうか?今日この時代は終末の時代であり、個人のために涙を流す時は過ぎ去り、家庭のために涙を流す時も過ぎ去りました。また、国のために涙を流す時も過ぎ去りました。今こそ世界のために涙を流す時が来たのです。したがって、今皆さんは世界のために涙を流さなければならないだけでなく、さらに天倫と霊界のために涙を流さなければならず、天のために涙を流すことができなければなりません。そして、神の喜びを自分の喜びとし、神の悲しみを自分の悲しみと感じなければなりません。そのような人になって 初めて、天地万物を創造された父の子として、全世界を主管する資格を持つ者として立つことができるのです。
このような世界的な悲しみの峠を越えるために、これまで個人が犠牲となり、教会や社会が犠牲となってきました。しかし、今この時は世界のために私たちが犠牲になる過程を経なければならない時です。これからは世界的な犠牲の道を進むでしょう。その一日、まさにその時が、神の内的な悲しみを知らなかったことを一世代で清算するための、今日のキリスト教が言う終末の時なのです。
これらのことを考えるとき、今日皆さんはどのような環境に置かれているのでしょうか?どのような立場にあるのでしょうか?私たちが信じているイエスも、個人を超えて天倫の心情を代行する生涯の道を歩まれました。これを考えると、今日私たちは、神が人間のために流された涙と同じだけの涙を神のために流していない、神の前に涙の負債を負った者たちであることが分かります。
したがって、今日皆さんはただ座っていてはいけません。胸の中で自分でも知らず知らずのうちに悲しみが爆発し、この民族とこの国、そして世界と天地のために涙の祭壇を築かなければなりません。さらに、自分自身の悲しみをすべて忘れ、神の意を憂う心で祈らなければならないのです。
皆さんはそのように「神よ!私を通してあなたの悲しみを解き放ってください」と祈りながら、神を慰め、イエス様を慰めなければならない立場にありますが、そのような祈りをしていませんでした。自分のためだけに祈っていたのです。したがって、皆さんはそのような立場を超えなければならない責任が残っていることを知らなければなりません。
今や皆さんは自分のすべての悲しみを天に投げ捨て、自分のすべてを天に捧げて生きる人間にならなければなりません。そうすることで初めて、皆さんは神が皆さんのために涙を流され、世界のために涙を流される父であることを知ることができるのです。
また、そのように自分を抱えて涙を流される父であることを皆さんが知って初めて、その父が皆さんの父となり、イエス様が皆さんの主となるのです。もしそのような立場で生きる人がいるなら、その人は神が私たちのためにどのような環境で涙を流しているかを知ることになるでしょう。
本来、人間が堕落しなければ、罪の血統から生まれることはなく、食べるときも嘆く万物を食べることはありません。また、死ぬときも天地の悲しみを背負って死ぬことはないのです。しかし、人間が堕落したことで、そのすべての嘆きの条件を背負わなければならなくなり、またそれを人間自身が脱しなければならない立場に置かれることになったのです。イエス様は罪人の汚名を着せられて亡くなりましたが、人類を愛する心は変わりませんでした。このように地上で神を抱きしめて悲しむ人がいるなら、その人は個人的に悲しむのではなく、公的に悲しむ人であれば、神はその人を罪から救いたいと思われるのです。
神はこれまでこの地上で罪にまみれた物を食べ、罪にまみれた物を着ている人間を見て悲しまざるを得ませんでした。神はこのように、皆さんがサタンの侵略を受ける環境に置かれていることを悲しんでおられるという事実を感じなければなりません。したがって、イスラエルの民がカナンの地で3年間万物を聖別したことがあり、聖書には心の割礼、身体の割礼について記されています。これは、神が非常に小さな万物一つでも完全にご自身のものとして取り戻すことのできる環境が、この地上にまだ実現していないことを意味するのです。
神が自由に抱きしめ愛することができる息子娘がいないということです。愛することができるとしても、サタンを左右に置いて愛さざるを得ない父の切ない事情があることを皆さんは知っておかなければなりません。
神の愛を受ける息子娘は、ふさわしくない食べ物を見ると無意識にそれを食べたくないと感じます。また、ふさわしくない服があるなら、その服も着たくないと感じます。ふさわしくない場所に住むことになっても同様です。これらは神が心を通じて働いているからです。このように神は人間のために背後で心配していますが、人間はそれに気づいていません。これが神の切ない事情なのです。
私たちは神の心を体感できる人となり、ローマ書8章に比喩されているように、全ての被造物が嘆き悲しむ嘆きの領域を抜け出し、安心して与えられた物を食べ、喜ぶことができる息子娘となるべきです。
皆さんがどのような物質を持っているとしても、その物質は世界的な悲しみを代償しなければならない物質であることを知っておかなければなりません。自分に属する物質だけでなく、堕落した人間が住んでいるこの世界のすべてがそのような立場に置かれています。つまり、皆さんにある物質は皆さんのものではないということです。皆さんの身体も皆さんのものではありません。生命と物質の根源はどこにあるのでしょうか?それは神です。したがって、皆さんに属するすべてのものは神を通した後にのみ自分のものとして認められるということを明確に知っておく必要があります。したがって、皆さんは心身ともに神の意志のために犠牲となって進んでいかなければなりません。
これまで正義の道を進もうと奮闘した人々は、自分のすべてを捨てて、ただ全体を思いやる心で一生を過ごしました。つまり、彼らは自分に属するものが神と人類の前でどんな嘆きの条件になるかを知り、それを果敢に取り除いていったのです。このように不義と罪悪の要素を取り除くために努力する道が道義の道であることを今日皆さんは再認識しなければなりません。
イエス様がこの地に来られましたが、彼を信じて仕える使徒はいませんでした。だから彼が持っていたのは神が認める一つの身体だけでした。当時のユダヤ教を中心としたイスラエルの民が最初にイエス様を信じて支えるべきだったのに、そうはなりませんでした。世界がイエス様の前に屈し、すべての被造物がイエス様の前に屈するべきだったのです。
今日、皆さんは自分を中心に誇るべき何かを持っていますか?皆さんは歴史を代行し、あるいは時間を越えて何かを自分のものだと主張できる自信がありますか?そうではない弱者の人間です。今日私たちには自分のものだと言えるものは何もありません。今日この地も主を失った地であり、人も主を失った立場に置かれています。
では、皆さんがこのような立場でどうすればいいのでしょうか?その悲しみの道を避けるために自分のための荷物をまとめてはいけません。もし皆さんが宇宙を支配したいと思うなら、そのような心を捨てて進むことを知らなければなりません。皆さんが生きたいと思うなら、生きた命を捧げなければなりません。勝利しようと思うなら、死を踏み越えて進まなければなりません。このような道を進むとき、人間であるがゆえに、自分でも知らないうちに心の中に染み込む悲しみを避けることはできません。しかし、人間はこの悲しみの峠を越えて全身全霊を神に捧げ、次にすべての被造物を求めて進まなければなりません。
私たちは今持っている物質やすべてのものを神に捧げ、天の代わりにサタンと戦うことを知らなければなりません。そうして自分の心身が完全に神のものとして捧げられるとき、サタンは訴えることができなくなるのです。
神は私たち個人を求めて来られますが、その個人を中心に家庭や社会、さらには世界まで求めようとされています。しかし、この道がまだ閉ざされています。天の摂理の道は私を求めて地まで降りて来ました。
今、私を中心に再び天の方向へ進まなければならないのですが、その道が閉ざされているのです。さらに、善を追求する人々は今まで世俗的なすべてのものを断ち切り、否定しながら失われた本来のものを神の前に再び求めて立て直す道を探してきましたが、この道が限界に達していることを私たちは知るべきです。
今まで私たちの悲しみは神を求めるための悲しみでしたが、すべての宗教の終末時代にはどんな悲しみが残っているでしょうか?それは、神を迎え入れて地の果てまで進むための悲しみが残っています。したがって、皆さんはこの悲しみを通して神の意志を成し遂げる覚悟と使命感を持って進まなければなりません。
今皆さんが感じるべきことは、神の悲しみです。イエス様の悲しい心情を体感しなければなりません。そして神が6千年という長い年月を悲しみの中で過ごし、皆さん一人ひとりを見つけるために努力してこられたという事実を実際に感じなければなりません。
神は今もなお、人間のために、人間の子孫万代を憂いながら、永遠の天国がこの地上に建設されることを願って努力しています。それにもかかわらず、今日の人間はその事実を忘れています。
歴史的な悲しみの中で摂理を進める神の心情を体感しながら生きる人は、どこにいても涙なしには神を見つめることができません。そのような立場で神の意志を知り、神の息子娘となるために戦うとき、その意志を共にする同志がいれば、神はその場に来て涙を流されるでしょう。
では、神の悲しみはどこにあるのでしょうか?それは私たちの個人の中にあり、この国、この世界、そしてすべての被造物の中にあります。私たちはこれを清算し、神の喜びを取り戻す運動を展開しなければなりません。そのために、私たちの命の中心は神の悲しみを体感する自分自身であるべきです。
その後、人間が知らない霊界の霊人たちを動員して証言させる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそれを求めています。霊界は神の心情を知っているため、この地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して天国の理念の実現のために地上の事に協力するのです。
霊界の霊人たちがこの地上に来られない理由は何でしょうか?それは、この地が嘆きの囲いとなっているからです。もし自分自身がいる環境が嘆きの条件を抜け出すことができ、自分の身体を通しても嘆きの条件を抜け出し、またサタンの脅威を受けながらも恐怖を感じない安息の領域に入ったならば、神は自分を助けてくださいます。つまり、神の悲しみを体感する心情にはサタンも侵入できないということです。父のために悲しみ、憂い、涙を流す人を掴むためには、サタンもそのような立場に立たなければならないのです。そうなると、サタンの勢力も根本的に崩壊します。
したがって、今日皆さんは数千年にわたって摂理してこられた神の悲しみを体感し、天と地のすべてを責任を持ち、「この身体を犠牲にしてサタンを爆破する爆弾としてください!そして神の悲しい心を解き放つことができるようにしてください」と言えるようになるべきです。このような心情を持って来られた方がイエス様でした。
イエス様がゴルゴダの道を歩まれたことで、新しい生命の復活を引き起こす爆弾となり、再創造の歴史を起こしたのと同様に、皆さんもそのような歴史を起こさなければなりません。これまで摂理してこられた神の悲しい心情を体感し、この世界のために自分の心身を捧げる覚悟と心情を持つ人にならなければなりません。神はまさにこのような息子娘、一つの家庭、一つの国家、一つの世界を探しておられるのです。
このような神の心情を皆さんが体感し、一日を過ごすならば、皆さんは神に対して無限に悲しむでしょう。もしそのような人がいるならば、神はその人をすぐに知るでしょう。したがって、皆さんはそのような人になるべきです。もし皆さんがそのような人になれなかったなら、そのような人の前で頭を下げなければなりません。
そのような人の前で頭を下げることができる真の息子娘になるべきです。その後に初めて天倫の創造の偉業を継承することができるのです。そのような息子娘がこの地上にいるでしょうか?皆さんがそのような人になるべきです。もし皆さんがそのような人になれなければ、天の前に顔を上げることができない罪人になることを心に刻んでおかなければなりません。
今日皆さんが聞く耳、見る目、話す口、感じる感情はすべて何のために存在するのでしょうか?それは天倫の意志を成し遂げるために存在するのです。しかし、それらが天倫の意志から外れてしまえば、いずれ必ず裁きの日が訪れるでしょう。皆さんはこの事実を知ったので、まず自分自身を裁き、次に周囲の環境を裁くことができなければなりません。つまり、皆さんにとって十字架の道とは、自分を裁くことであり、まず自分の命を裁き、次に自分の死までをも裁くことです。そして復活の日を経て初めて、天が認める真の息子娘となることができるのです。
今や皆さんは自分の心を見つめなければなりません。家族が過ちを犯したなら、それを自分の過ちと受け止め、涙を流せるようでなければなりません。民族が過ちを犯したなら、それを引き受け、涙を流す人にならなければなりません。そのような人がいれば、たとえ民族が滅びてもその人は滅びることはないでしょう。世界のために涙を流し、天の心情を代表する人がいるならば、たとえ世界が滅びてもその人は決して滅びません。さらに、天のために涙を流す人がいるならば、その人は悲しい立場にあるとしても、神を支える立場にいるため祝福された存在であることを皆さんは確かに知っておかなければなりません。
したがって、皆さんが神に対して涙を流す生活を送るとき、神の永遠の愛を感じ、神の代理者の使命を全うすることができるのです。さらに、そのような心情に満たされた人には祈りは必要ありません。「信仰」という言葉さえも必要ありません。そのような人は祈る前にすでに神の心情を感じ取っているのです。
ですから、今や皆さんは天倫の悲しみを体感し、すべての被造物の嘆きを乗り越え、神の事情を直接的に通じることのできる真の人間となるべきです。そのような人がいれば、その人は外見上は滅びるように見えても、決して滅びません。軽んじられ、追われたとしても、その人には必ず後継者が現れるのです。
今日、皆さんは他の道を歩んでいます。皆さん、誰をも恨んではいけません。むしろ、彼らのために流した涙を通じて償いの恩恵を受けるのです。今日、皆さんは他の誰よりも先に神の悲しみを体感し、涙を流す恩恵を受けています。しかし、天が皆さんのために先に涙を流されたことを知っておくべきです。また、すべての人々が家族であることを忘れてはなりません。
この地上で手を取り合い、神の意志、天倫を憂いながら涙を流し、神の前で自分の身の置き場を知らずに頭を下げる一群の羊がいるならば、天もその前で頭を下げます。彼らは見えない犠牲者であるため、万人がその前で頭を下げるのです。昔、アブラハムが捧げた犠牲は小さなものでしたが、その犠牲の前にアブラハムが頭を下げたのと同様に、全天地が頭を下げました。
したがって、今や皆さんの生涯の中でどの環境を代表して犠牲の立場に立つとき、常にどのような犠牲の条件を立てるかを考えなければなりません。その場で個人のための犠牲の条件を立てますか?それとも家庭的、社会的、国家的、世界的な条件を立てますか?皆さんが捧げた犠牲の条件に応じて天的な価値が決まるのです。
では、困難な環境を切り開き、私たちの願いは何でしょうか?それは天の悲しい心情を体感する真の息子娘となり、父の前に敬拝すること、これ以外に望みはありません。
皆さんは「父よ、私に天地に染み渡る悲しみを感じさせてください。そして万民を代表する犠牲とさせてください」と常に祈らなければなりません。そうして涙を流し、悲しまなければなりません。そして父の心情と事情を通じ、その悲しみを解き放つための戦いの旗印を掲げて進む統一の家族にならなければなりません。
このようにして、皆さんの生活の中で天の悲しみを感じ、今日まで残されてきた宇宙的な悲しみを解き放ち、嘆きの条件に満ちたすべての被造物を復帰していかなければなりません。また、皆さんはそのような意志を成し遂げる開拓者として立ち上がったことを知り、今日この時から新しい人間になるべきだということを肝に銘じておくべきです。