人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(6)

2024年06月22日 15時23分13秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 6. 全ての事を復帰しなければならないイエスの心情 (1958年3月23日)


1958年3月23日(日)、前本部教会。


マタイによる福音書 17:1-14


<祈祷>
 お父様、天の意志を必ずや成し遂げなければならない歴史的運命の道が私たちの前に横たわっていることを知りましたので、私たちに力の御手を差し伸べてください。
 私たちの身体と心にただ父の意志だけが満ちるように許してください。そして、この地上で天のいかなる責任を負っている人がいるならば、その天の意志を人間的な考えだけで計らないようにしてください。心の動きに従って行動する子女にならせてください。体が先に動く子女にならせないでください。そうして心と体を通じてお父様の栄光の心情を感じることのできるこの時間にしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
 お父様が定められた天理法度と復活の理念が私たちと関係を結ぶとき、歴史の過程を通じて摂理してこられたお父様の心情を体恤することができると知りましたので、そのお父様の心情を通じる愛の心を持たせてください。お父様の復帰の心情を知ることができるようにしてください。
 そうしてこの地を思いやる父の心情を知ることができるようにしてください。私たちは不足な者たちですので、お父様が支えて目覚めさせてくださり、お父様の民として立ててくださるように、愛するお父様、切に願い求めます。
 乞食のような哀れな私たちですが、お父様の無限の愛の御手を感じて歌いたい私たちですので、お父様、私たちに命じてください。私たちに運行してください。
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 今日この時間、全体の摂理の意志の前に捧げようとする心が私たちにありますので、お父様、私たちの不足を取り除いてください。切に願い求めます。
 そうして私たちの心にお父様の心情だけが染み渡るようにしてください。私たちの体がお父様の歴史的な全ての心情を体恤してお父様の前で嘆息の涙を流すことができるようにしてください。本当にお父様を崇める私たちとなるように導いてください。切に願い求めます。
 長い間サタンの懐に抱かれて生きてきた無知な私たちですが、サタンと関係するすべての環境を断ち切りますので、お父様、この時間憐れんでください。また、この時間私たちをもう一度抱きしめて、生命と復活の権能を現してください。お父様、この時間集まった子供たちに隠された言葉を明かし、疑念のすべての条件を取り払って、お父様の望まれる通りに生命の恩恵が現れるようにしてください。愛する父よ、切に願い求めます。
 言葉を伝える者の心も受け取る者の心も一つにしてください。どうかお父様が直接運行されて恩恵の時間となるようにしてください。すべての御言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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<御言葉>
 今日この時間は「すべてのことを復帰しなければならないイエスの心情」という題で皆さんに少しお話しします。
 皆さんは原理を通して知っているように、神の6000年の摂理歴史は復帰の摂理歴史です。そして復帰摂理歴史の目的は失われた人間を見つけることであり、失われた被造世界を再び取り戻すことであることを、皆さんは原理を学んでよく知っていることでしょう。
 また、人間を救うという言葉もこの一つの目的を成し遂げることであり、宇宙もこの一つの目的を成し遂げることができる条件を持っているために価値があることを、皆さんはよく知っています。
 堕落した人間が天国理念を望むのは本性として天国理念を望むようになっているからです。今日、私自身を見てみると、私自身の生活に幸・不幸が交錯していること、無限で永遠の世界も幸福の天国と不幸の地獄が共存していることも人間が堕落したためだと知っています。
 そして、望む天国、望まない地獄の共存は、堕落した私たち人間が復帰される過程では必然的なものであることを皆さんはよく知っています。神は天地万物を創造し、その中に人間を自分の形に作りました。したがって、人間は神が永遠であるように永遠であり得るし、神が幸福を感じるなら人間もその幸福の感情を感じることができるように作られたのです。
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 神が喜ぶときに共に喜び、神が悲しむときに共に悲しむことができる存在であったのに、今日皆さんの中には神がいるかいないかさえも分からない人が多いです。神がどんな時に喜ぶのか、悲しむのか考えることさえできない人が多いです。
 また、天をために悲しみ苦労した人たちは、自分を犠牲にしても悔しさと怒りを堪えてきたのに、今日この地上に生きている人間たちはその事実を想像さえもできません。
 このような人間たちを長い歴史を堪えても捨てられない神の心情を誰が理解できるでしょうか?天を一度や二度裏切っただけではなく、6000年という長い年月を経て無数に反逆してきた人間たち、その先祖の子孫である私たちは、天に対して顔向けできず、頭を上げられない立場にいる存在です。さらに神の心情の前にむしろ悲しみをもたらす行為をしている人間たちなのです。しかし、これを感じて生きている人は非常に少ないです。
 このような人間たちに、どうすれば神の実在を感じさせ、歴史的な父の心情を体恤させ、摂理の道を理解させることができるかが、堕落後の人間に対する神の嘆きであったのです。そのために神はノアを選び立て、モーセを選び立てました。さらに神は4000年という歴史の過程を経た後、やっとイエス様一人を立てましたが、イエス様はその日まで復帰摂理の意志を握りしめて苦労してこられた父の内的・外的事情と父の内的・外的心情を人間たちに知らせることができる唯一の方でした。
 イエス様は神のみが主宰できる方であり、神のみが彼と共に相談することができました。また、神の内的な愛と心情を最もよく知っている方でした。では、人間の堕落とはどのような状態を指すのでしょうか?神の事情を理解しなかったことが堕落であり、神の実情を理解しなかったことが堕落でした。それで神は、自分の事情を通じることができる個人を探し求めました。そして、自分の心情を通じることができる個人を見つけるために4000年もの間苦労してこられました。
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 神は4000年目にして、ようやく自分の事情を通じ、自分の心情を論じることができる一人の方、イエス様を見つけて立てました。しかし、それで終わりではありませんでした。彼を通して人類に自分の事情を知らせ、自分の心情を知らせる必要がありました。このような神の切実な願いを成し遂げなければならない使命がイスラエルの民にありましたが、彼らがイエス様を拒絶したために歴史的な悲劇が起こったのです。ここで歴史的な興亡が交錯したことを皆さんは知っておかなければなりません。
 したがって、今日私たちは神の事情と通じる道を歩んでいかなければなりませんし、神の心情と通じる道を歩んでいかなければなりません。このように神の心情と愛を所有して神の栄光の中で神が楽しめば人間も楽しめ、神が喜べば人間も喜べるようにならなければなりません。
 そのような一人の真の人間として、天の血統で創造本性の姿を備え、この地上に万民を代表して現れた方がイエス様であることを皆さんは知っています。イエス様は人間に神と関係を結ばせるために来られたので、神の事情を代わりに現し、神の心情を代わりに現したのです。
 だからこそ、当時の人々がイエス様と一つになっていたならば、神の心情と事情を知ることができただけでなく、イエス様の友になることもできましたが、それはできませんでした。この一つの事実が歴史を流れてきましたが、いまだに成し遂げられていない状況にあることを皆さんは知っておかなければなりません。
 では、イエス様の死よりもさらに悲しんだ神の心情とはどのようなものであったのでしょうか?神が4000年間苦労してイエスを送ったのは、イエス様を死なせるためではなく、人類を救うためでした。イエス様を通して霊的な救済摂理を完成させることがイエス様を送った目的ではなく、この地上のすべての人がイエス様を通して神の事情と心情を知り、イエスと共に喜ぶことができる一日を成し遂げるためにイエス様を送ったのです。しかし、人々が不信仰によってイエス様は十字架を背負うことになり、神の意志は挫折し、神はさらに大きな悲しみに沈むことになりました。
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 今日、この地上には多くの人が住んでいますが、それぞれ事情と心情が異なります。千人いれば千人、万人いれば万人の生活環境がすべて異なります。しかし、私たちは千の目的地、万の目的地に向かうのではなく、ただ天が定めた法度に従って天性という一つの場所に向かうべきです。イエス様は自分の事情と心情をすべて放棄し、ただ天性の事情と心情を代わりにして神の国を建てるために一つの主義と一つの心情と一つの事情を持って人間の前に現れました。しかし、人々はそれぞれの無数の事情を持って彼に向かいました。そのような人々はすべて滅び、彼から離れてしまいました。神は4000年苦労して送ったイエスが十字架にかかって亡くなると、再び聖霊を送りました。このようにして三位一体が一つになり、天の意志と一つになった人々を見つけるために苦労しておられます。
 この観点から考えると、2000年前に来られたイエス・キリストは一個人でしたが、彼は過去、現在、未来を代わりにすることができる天の主人公でした。このことをその時代の人々は知りませんでした。イエスは一個人でしたが、4000年の歴史を代わりにする結実体であり、全世界の人類を復活させることができる生贄の供え物であり、千秋万代に続く祝福の器官でした。
 ところで、これを地上で誰が知っていたでしょうか。天の心情を紹介するために人間の前にイエスを送ったが、この事情を知っていた人は一人もいませんでした。イエスの事情を理解するべき人間であり、神の事情を理解するべき人間だったのに、人間たちは逆に、「イエスよ!私の事情を受け入れてください。神よ!私の事情を理解してください。」と言ったのです。これがまさに天の摂理の道を妨げた嘆かわしい行為だったことを私たちは知らなければなりません。
 当時の人間たちが神の事情と心情を代弁したイエスの事情と心情を理解していたならば、すなわちイエスの心情がイスラエル民族の心情になっていたならば、イエスは死ななかったのです。また、イエスが最後の死を前にしてゲッセマネの園で「アバ、父よ!あなたにはすべてのことが可能です。この杯を私から取り除いてください。しかし、私の願う通りではなく、あなたの御心の通りにしてください。」(マルコ14:36)と祈る必要もなかったのです。
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 しかし、イエス様の心情の中に4000年の悲しみがあったことを誰が知っていたでしょうか。万民の哀しい心情を解放するために来られたイエス様の哀しい心情を、一度でも理解した人が一人もいなかったのです。皆さんはこれを知らなければなりません。
 今日の皆さんはイエス様を信じ、「おお、主よ、どうか来てください。主は私たちを友と呼ばれました。」と図々しく祈っていますが、単にそのような祈りだけではいけません。実際に、全体復帰摂理の歴史を代弁したイエス様の心情と事情を理解して祈らなければなりません。
 そうして、イエス様から「あなたの心が私の心であり、あなたの体が私の体であり、あなたの事情が私の事情であり、あなたの心情が私の心情である」という言葉を聞くことができなければなりません。
 そのようにイエス様の心情を理解した人が当時いたならば、イスラエル民族が反対し、教団が反対し、弟子たちや使徒たちがすべて背を向ける状況であっても、イエス様は自分を理解する一人を通してそのすべてを解決できたのです。しかし、そのような人がいなかったため、地上を代わって神の心情と事情を慰めることができなかったのです。
 イエス様は言いたいことをすべて言えない生活をされました。しかし、自分自身の目的のためだけに生きた方ではありませんでした。彼は30余年間、木工の仕事をはじめとして困難な仕事をしながら、黙々と祭物の道を歩んできました。そして時が来て、3年間の公生涯を始めたその日からゴルゴタの十字架で亡くなるその時まで、一瞬たりとも自分個人の生活のためだけに生きたことはありませんでした。彼は自分がこの地上で神の事情を紹介し、神の心情を紹介するという歴史的な使命を担っていることを一瞬も忘れませんでした。このような自分の心を当時の人々に知らせようとされたイエス様でした。
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 彼は万物を眺めるとき、万物からどのような感情を受け取ったかというと、「人間の堕落によって生じた恨みを解放してください」と嘆いていることを感じました。人間が神の懐を離れたため、万物も神の懐を離れ、4000年の間嘆息の中に留まっていたので、万物はイエス様一人を切に待ち望んでいたのです。
 そしてイエス様は、万物が自分に向かって「おお、主よ、私たちを解放してください」と嘆きながら訴えるのを感じることができる方でした。それだけでなく、イエス様は4000年間多くの霊人たちが霊界で苦しみながら、自分たちを解放してくれるメシアが現れるのを切望していることを知っており、その願いを成し遂げる者がまさに自分であることも知っていました。さらに地獄のような地上世界に住んでいた当時の人類たち、死の鉄の網に捕らわれて叫びながら、悲惨な環境から解放されることを切望していた多くの命を見て、イエス様は言い表せないほど燃える心情を持って生きておられました。
 私たちが今信じているイエスは、地上の万民と霊界の地獄で苦しんでいる霊人たちのために涙を流し、神の歴史的な事情と心情を推し量りながら涙を流された方であることを知らなければなりません。
 イエス様は一人の人を見る時も、その人をただの個人として見ることはありませんでした。イエス様は歴史を代表し、全宇宙の理念を代表して人間を見ていました。一人の人間に対する希望が大きければ大きいほど、その人に対する切実な思いも大きかったのです。
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 イエス様は反対の声を聞いて悲しみましたが、その悲しみは自分自身のためではありませんでした。イエス様は、その場面が4千年間神に対してサタンが反対してきたことを思い起こさせるものであることを知っていました。だからこそ、イエス様はその場面を通して神の悲しみを感じることができました。民族が叫び声を上げるそのすべての状況を通して、イエス様は神の悲しみを感じていたのです。イエス様は神の言葉に尽くせない悲しみと心情を感じていました。
 イエス様は、自分を通じて神が慰められるべきだと考えました。すなわち、自分自身によって4千年間苦労された神が喜ばれる立場にあると知ったとき、言葉にできない悲しみを感じました。
 弟子たちを通して証されるイエスは信じやすいですが、イエス様を直接対面する立場では信じることが難しいのです。後世に高く評価されたイエスは信じやすいですが、十字架にかかりイスラエルの反逆者とされたイエス様を信じることは難しいのです。
 それでは、イエスを見守っていた神の悲しみはどこに結びついていたのでしょうか?追いやられるその場面に、追い詰められるその場面に、釘で打たれるその場面に結びついていたことを皆さんは知るべきです。
 当時の人々はイエス様の言葉を聞くだけを望んでいましたが、その言葉を立てることは望んでいませんでした。つまり、イエス様の心の中の意志を実際の生活の中で実践しようとする人は一人もいませんでした。これを考えると、その時も今も天は悲しみを持たざるを得ない立場にあることを皆さんは感じるべきです。今や皆さんがイエスの名前で迫害を受けることでイエスの事情を知るでしょう。そして天を代わって苦難を受けることで、無念の父の心情を知ることになるでしょう。
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 イエスがゲッセマネの園で一人で祈るとき、三人の弟子さえも一夜を共に過ごせずに眠っているのを見ても、イエス様が彼らを責めることができなかったのはなぜでしょうか?それは、4千年間多くの人間が神を裏切りながらも、神が彼らを責めず、裁かれなかった心情をイエス様が知っていたからです。皆さんは、このような弟子たちが体験できなかったイエスの心情を体験する人々にならなければなりません。
 鞭打たれながら十字架を背負ってゴルゴタに向かうとき、イエス様は天を恨むこともできましたが、神が4千年間復帰の摂理を進めるために、自分が十字架を背負う以上に困難な峠を越えてこられたことを知っていたため、イエス様は恨むことができませんでした。自分自身を振り返って他のことを考える余裕もありませんでした。
 後に十字架に釘打たれるとき、すなわち両手両足に釘を打たれ、頭に茨の冠をかぶせられ、脇腹を槍で突かれて生命が絶える状況に置かれても、イエス様は不信仰な人間を恨みませんでした。自分がそのような状況に置かれたのは、自分を通じて万民に神の事情と心情を伝えたいと願われる父の意志であることを知っていたからです。むしろイエス様は心底からの心情を抱き、天に向かって頭を垂れ、感謝の気持ちを持っていました。これによってイエス様は人類の前にメシアとなることができたのです。
 では、イエス様は十字架の上で何を感じていたのでしょうか?イエス様は、4千年間の神の切実な悲しみの心情と事情を共感することができました。そこから神の心とイエスの心が初めて通じ合うことができたのです。そして、そのようにして神とイエスが心情的に一つになったその心は、誰にも断ち切ることができなかったのです。ここで、イエス様が歴史的な摂理の遺産を踏み進むことで、霊界にいた霊人たちが成長級の摂理の復活を遂げることができたのです。これは民族的な革命ではなく、宇宙的な革命でした。それだけでなく、その時まで旧約を信じて行いの信仰をしていた地上の人々も、新約を通じて神の信仰を持つことができるようになったのです。これは大きな変革でした。
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 実体の世界で神の心とイエスの心が一つの化身となることができたので、神はここでイエスと直接的な関係を持つことができました。このように、イエス様が地上に代わって神と同じ心情を持ち、同じ事情に立つことができたので、神の歴史が人間を中心に直接的に成し遂げられることができたのです。皆さんはこのように、天宙的な使命を持って実体の人間として来られたイエス様を再び認識する必要があります。
 これからは皆さんも、イエス様がゲッセマネの園で祈られたその心情を持って祈らなければなりません。ゴルゴタ以上の犠牲を受けるに値する人間であるにもかかわらず、今日の人間は自分たちが少しでも苦労すると「おお、神よ、この苦労を受け入れてください」と祈り、自分たちの事情や哀しみが少しでもあると「神よ、私の事情を引き受けて私を慰めてください」と祈っています。これを見ると、神の心情と人間の心情は感じる方向が対立していることがわかります。
 今日、このような立場に立っている信者が多いです。イエス様の時代も同様でした。イエスに従った弟子たちは、イエス様が自分たち12弟子だけで満足すると思い込み、自分たちがイエスの願いの全てだと思っていました。そして、イスラエル民族は、自分たちの民族だけで神の意志が全て成し遂げられると誤解していました。また、ユダヤ教団は、自分たちの教団だけで神の意志が完全に成し遂げられると信じていました。しかし、イエス様はそう考えていませんでした。イエス様は、自分を中心に意志を成し遂げ、それが民族を越え、世界を越え、永遠の世界にま で及ぶという復帰の理念を持っていましたが、イエス様の前に現れた12弟子は、自分たちだけで神の意志が全て成し遂げられると思っていたのです。このことが、人類の歴史的な悲劇と悲しみをもたらしたことを皆さんは知るべきです。
 イエス様は、自分には自分自身を超えて家庭や社会、国家、世界、さらに無限の霊界まで復帰する使命があることを知っていました。したがって、イエス様が個人を探し求めたのは、民族を見つけるためであり、民族を見つけるために探し求めたのは、世界を見つけるためでした。そして、世界を見つけるために今日まで2千年間努力してきたのは、全ての天上天下を神が治める場所にするための努力でした。しかし、この事実を人々は知りませんでした。したがって、イエス様は天宙的な計画を実現しなければならない自分の前に現れる群衆に、神の深い心情と意志を伝えようとしても伝えられなかったのです。このように困難な状況に置かれたイエス様だったことを皆さんは知るべきです。
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 だからこそ、イエス様は「まだ言いたいことがたくさんありますが、今はあなたたちがそれを受け入れることはできません」(ヨハネ16:12)と言われたのです。イエス様は、全世界の万象を復帰しなければならない神の摂理を代行するという天宙的な使命感に燃え、天に対して忠誠を尽くそうとしていましたが、当時の人間はそのようなイエス様を理解していませんでした。
 では、今日の皆さんはどうでしょうか?「私は何十年もイエスを信じてきた。私は牧師だ。私は長老だ。私を神が知らないはずがない。」と主張する人がいますか?もしそのような人がいるなら、その人は神の前に頭を垂れて涙を流すべきです。4千年間選民の権利を誇っていたイスラエル民族が滅びるとは誰も予想しませんでした。3年間の公生活の中でイエスと共に喜び悲しみを共にした12使徒でさえもイエスを不信するとは誰も予想しませんでした。誰も知らなかったのです。
 では、なぜこのような矛盾の歴史が起こったのでしょうか?それは、イエスの考えや希望が弟子たちの考えや希望と異なっていたからです。だから弟子たちはイエスを不信したのです。
 では、皆さんはイエスの時代に、万物の叫び声を聞き、暗闇の中にいた人々が天に向かって「私たちを解放してください」と祈った哀しい心情を感じて涙を流したことがありますか?または、霊界で数千億の霊人たちが嘆いている叫び声を聞いたことがありますか?イエス様はそれを聞いていたのです。イエス様は人類歴史の終わりに審判の硫黄の火が降り注ぐその審判の鞭を知って涙を流されました。しかし、皆さんは困難な状況に置かれ、このように引きずり回されながらも自分を弁護することができなかったイエスの事情を感じたことがありますか?
 今日、キリスト教の運命を新しい方向に導くべき終末のこの時代において、私たちは持っているものがなくても構いません。知っているか知らないかは問題ではありません。今日ここに集まった皆さん、たった一つ、この身が裂かれ踏みにじられても、神の事情を代弁し、神の心情を代弁することができなければなりません。
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 もし、皆さんの中で神の心情を代弁するために死ぬ人がいるならば、全宇宙が共に涙を流すでしょう。切り離そうとしても切り離せない神の心情を代弁する涙の縁を結び、その涙の心情を体感したならば、死の道もいとわないでしょう。イエスがこのような悲しみの心情を代弁して地上に来て倒れた時、天と地は暗くなりました。天と地はイエスの心情を理解することができました。しかし、人間はイエスの心情を理解していませんでした。それゆえ、イエス様は十字架の道を避けることができなかったのです。
 だからこそ、今日の皆さんは自分の子供たちのために祈る前に、まず天上にいる、今まで苦労してきた歴史的な先祖たちのために祈るべきです。自分がよく生きたいと願う前に、この地上の人類がよく生きることを願う心を持たなければなりません。自分が踊る前に、まず嘆きの中にいる全ての人々を見て心配するべきです。また、喜んでもその喜びを表に出さず、楽しんでもその楽しさを表に出さなかったイエスの事情を代弁する心を皆さんが持つべきです。人類歴史の終末時代にある今日、この地上にそのような一人の人が現れ、神とイエスの悲しみを止め、この宇宙の悲しみを止めなければなりません。
 今の皆さんは、迫害されても「いいのです!」と言わなければなりません。十字架上で「すべてが終わった」(ヨハネ19:30)と言い黙って亡くなられたその姿が私たちの主の姿であり、私たちの花婿の姿でした。これからは、どんな看板も教派も必要なくなります。個々人が異なっていても関係なく、民族が異なっていても関係ない真の理想世界が訪れるのです。
 イエスの希望は全宇宙の理念を代弁する希望であり、イエスの使命は全宇宙万物を復帰する使命でした。かつて使徒たちがこのようなイエスの意志を理解できなかったことを、今の皆さんが理解するべきです。第一イスラエルであるユダヤ民族がイエスの心情を慰めることができなかったことを、皆さんが慰めるべきであり、それによってこの民族が第二のイスラエル民族として現れるのです。
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 イエス様はこの地上に来て、永遠に信頼できる個人を探しましたが、そのような個人を見つけることができませんでした。それゆえ、神はこの地上に聖霊を送り、その聖霊を中心にして再び第二の信じるべき人々を、今日のキリスト教を通して探してきたのです。だからこそ、今はイエスの名前だけで救いを得る時代は過ぎ去りました。
 理念は万人に通じることができますが、実体は一人にしか通じません。したがって、理念を信じる信仰者は多いですが、実体を信じる信仰者は少ないのです。「あなたの心が私の心であり、私の心があなたの心であり、あなたの悲しみが私の悲しみである」と言える信仰者はいません。
 皆さんは今日まで抱えてきた天の怨念の心情、骨身が溶けるような悲しみの心情を感じたことがありますか?イエス様はどこに行っても天に対して自分の精神を失うほどの心情を持ってこの地上で30余年の歳月を過ごされたことを皆さんは知っておかなければなりません。
 だからこそ、今日の皆さんはある一日を中心にして審判の関門を通過しなければならない運命にあります。それでは、この審判の道を誰が保証してくれるのでしょうか?イエス様が保証してくれるわけではありません。神も保証できません。かつてイスラエルの行く道もイエス様が保証できず、神も保証できなかったため、選ばれた民が滅びたように、終末のクリスチャンたちが行く道もイエス様が保証してくれません。神も保証できないのです。これを皆さんは確実に知っておくべきです。
 それでは、誰が保証されるのでしょうか?それは、神の事情と心情に通じ、イエスが全人類を抱こうとしたその孤独な心情を感じる人だけが、神とイエスから保証されるのです。
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 今日、イエスを信じている人々は、自分が信じる程度で救いが成就し、自分が要求するすべての天国が建設されると思っていますが、それは全く不当な考えです。霊界に行くとそうではないのです。自分が一番だと誇る人々が霊界に行くと、哀れな場所に置かれているのです。これはどういうわけでしょうか?今日、皆さんが正しい道を歩んでいるように見えますが、永遠の命の終着点に向かう道程では、出発点で髪の毛の厚さだけ違っていても、終わりでは数千マイルの距離が生じることを皆さんは知っておくべきです。
 では、これをつなげることができるものは何でしょうか?それは、私たちの論理的知識でもなければ、どんな主義でもありません。神を愛する心情です。神の心情が私の心情であり、私の心情が神の心情であると言えなければならず、互いに引き寄せる心情の引力が必要です。そうしてこそ、神の最後の心情的中心点と私の心情的中心点が通じるのです。ここで、神が愛を中心にしてアルファでありオメガであると言うことができるのです。
 ですから、今日の私たちは自分の一生を賭けてイエスの願いを叶えるべき時です。2000年前、イエス様はご自身の願いを叶えてくれる人がいなかったために、個人から、家庭から、社会から、教会から、そして国家からも排斥されました。
 しかし、イエス様はそのように排斥され、迫害されながらも、個人や家庭、教会、国家を越えて、今日の世界の舞台で天の意志を成し遂げるために戦い続けていることを、皆さんは理解しなければなりません。だからこそ、キリスト教は伝道の初期において、どの国家からも歓迎されず、どの民族からも歓迎されなかったのです。それはイエス様が歩んだ道が排斥される道だったからです。
 したがって、今日の皆さんが聖書を脇に抱え、楽に座って賛美歌を歌い、祈っていれば天国に行けると思っているなら、それは間違いです。皆さんがこのような恵まれた立場にいることができるのも、天が2000年間排斥され、踏みにじられながらも回り道をして皆さんを見つけ出してきた苦労のおかげです。そして、私たちを立てるために、歴史上の多くの信仰の先祖たちが排斥されながらも道を切り開いてきたおかげです。ですから、終末を迎えた今日のキリスト教徒には、犠牲を払ってでも世界を救わなければならない使命が残されていることを知るべきです。皆さんはこれを体験しなければなりません。
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 たとえ皆さんが過去の歴史の過程をすべて知らなくても、持つべき一つのものは、全宇宙を復帰するために来られたイエスの心情です。そして、そのイエスの心情を理解し、世界を抱えて戦う覚悟を持たなければなりません。
 神が6日間で創造した万物が敵から弄ばれても耐えたのは、神に敵をも愛で包み込む心があったからです。そのため、長い歴史の過程を耐え忍びながら6千年を歩んできたのです。6日間で創造したその期間をすべて経ていく間、神は耐え忍び、包み込んできたのです。
 6日間で創造した人間が堕落したために、神は6千年間悲しみの涙を流しながら、一人の人を見つけて愛するその日まで苦労してこられました。すなわち、神はご自身の愛を受けることができる人間が現れ、歴史的な恨みを解消してくれるその一時を望んで、今日まで耐えてこられたのです。
 しかし、まだ神のそのような心情と意志を受けて耐えられる存在はこの地上に現れていません。だからこそ、イエス様が来られてからすでに2000年が経過しましたが、6千年の歴史を代わりに天上で今も戦い続けておられるのです。このようなイエス様の心情を代弁できる存在がこの地上に再び現れ、人間を代表して神との絆を結ぶその日が再臨の日です。
 遠からぬ日に、すべての万物が審判の権威から逃れることができない恨みに囚われる時、人類の叫び声が皆さんに聞こえてくるでしょう。「おお、私を救ってください。復帰の恨みを私たちから取り除いてください」という祈りの声が聞こえてくるでしょう。万物だけでなく、地上にいる24億の人類がその叫び声を聞くでしょう。
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 さらに、霊界の数千億の霊人たちが「おお、地上にいる兄弟姉妹たちよ、私たちの歴史的な恨みを解消してください」という祈りの声を聞くことができる皆さんでなければなりません。そして、6千年間人間を探し求め、苦労してこられた神の事情を理解しなければなりません。
 では、今皆さんは何を復帰しなければならないのでしょうか。嘆きの中にある万物を復帰し、人類全体を復帰し、地獄にいる霊人たちまで復帰しなければなりません。それから、次に何を復帰しなければならないのでしょうか。神の悲しみの心情を喜びの心情に復帰させるべきです。
 6千年間傷ついた父の悲しみの心情を誰が引き裂いたのでしょうか。引き裂かれた父の心情を誰が癒し、天の愛の対象となる子供たちになるかが問題です。それが皆さんであるべきです。6千年間神の心情に傷をつけ、6千年間神の心情を踏みにじったのは人類です。だからこそ、イエス様は人類がこの天の性に対してすべての恨みの心情を解放することを今も訴えています。
 善なる天の側の人々は、地に対して、またすべての万物に対して、言いようのない悲しみ、引き裂かれるような悲しみの心情を持ち、天の意志を持って飢えながら生きてきました。2000年前のイエス様も同じように生きていました。
 昔、ヤコブがイスラエルの基盤を築くために兄エサウを避けて、叔父ラバンの家に向かう途中、荒野で石を枕にして寝た時や、ラバンの家で牧者の生活をしていた時、ヤコブはどのような心情を持っていたのでしょうか。ヤコブは神が親族を愛されたように、愛の心を持とうとしました。神が2000年間親族を愛し、心配された心情を継承して生きようとしたのです。そうして、積もり積もった天の恨みの心情を解放するために努力しました。このように、神の悲しみの心情をヤコブに引き継ぐための苦難の期間がありました。
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 今日の皆さんは試練の道があっても落胆しないでください。イエスを拒否したためにイスラエル民族が4000年間築いた祝福の基盤が、後の世でイエスを信じる人々に移されたのです。今日、皆さんが神の心情を持って進むときに反対を受けても落胆しないでください。反対はやがて過ぎ去りますが、反対する者の祝福が皆さんに移るのです。イエスがこの地に来た時も、偽りが真実を害しようとしてすべて破れ去りました。真実を打って勝利した例は歴史の中にはなかったのです。
 したがって、今皆さんは心と体に自信を持ち、行動に信念を持って信仰生活を送らなければなりません。そうすれば、神は皆さんが苦しいときに慰めてくださるでしょう。さらに、神の真の愛を感じることができるでしょう。
 サタンの権勢がいかに強大であっても、神を飲み込むことも、消化することもできません。消化しようとしてもできないときには、むしろ倒れるのです。世界にどれほど偉大な人がいたとしても、天の意志を中心にした理念と信念をもって実践し、サタンの権勢を消化し飲み込むことができる教派が出てこなければ、その日は世界がサタンに飲み込まれるということです。これはイエスが主張していた主義です。サタンがイエスを飲み込むことができない条件が地上に残っていたため、イエスは復活したのです。今や天宙の理念さえも吸収できる子供たちが現れなければなりません。すべてを復帰しなければならないイエスの心情を理解した後には、この地にある木の根一本さえもサタンに譲ってはならないのです。
 私の体と私の命は父のものであり、私が持っているすべての物質もすべて父のものであり、この国、この世界、この天と地がすべて父のものです。したがって、堕落によって失われたすべてのものを皆さんが父に取り戻して差し上げることのできる天の勇士となってこそ、イエス・キリストがこの地上で千年間王として君臨するのです。
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 今や皆さん、統一教会員は今までどの信仰者も持たなかった覚悟を持たなければなりません。死を覚悟して進まなければなりません。天の意志に向かって進む過程において、歴史的なすべての摂理の意志を知っているならば、歴史上どんな人も成し遂げたことのない環境で成し遂げるという条件を持たなければなりません。できない環境で成し遂げたという条件を作り出さなければならないのです。今日、私たちは他の人ができないことをして、後の世の人々がどんな条件であっても天の意志を成し遂げることができるようにしてあげなければなりません。
 イエス様はモーセが持っていた杖で紅海を打ったように、自分の生涯を深く感じ取って杖となる人々が現れることを望んでおられました。彼が血の涙を流しながら苦難と逆境の中でも耐え忍んだのは、天の意志を心配していたからであり、皆さんのためであり、千秋万代に誇れる条件を備えるためでした。それゆえ、反対する民族を見つめる彼の心情は、引き裂かれるような悲痛な心情だったのです。
 だからこそ、今や私たちは、イエスが2000年間全世界で心配し続けてきたすべてのことを引き受けなければなりません。そして、その心配を少しずつ減らし、世界を治めようとしたイエスの意志をすべて成し遂げるべきです。さらに、イエス自身が自分自身のことを考えられる一日を私たちが見つけて実現することで、初めて神が自分自身を思い、イエスが自分自身を思うことができる時を持てるのです。人間のために生きるよりも、神とイエスが自ら楽しみながら生きることができる一日を持たなければなりません。このような歴史的な願いがあることを、今日の人間たちは知らないのです。
 さて皆さん、他人が嫌がり否定する道を選び、高い垣根を乗り越えてきた皆さん。今は何も持っていなくても構いません。皆さんを神が認めてくださるかどうかが問題です。
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 皆さん自身には、イエスと神を安息させる責任があります。神を安息させ、「父よ!」と呼ぶことができるようにしなければなりません。そして、サタンを阻止して戦い、原罪のない人間にすることができる資格者となり、「父よ、今はお休みください!」と言わなければなりません。
 このようにして、「主よ、おいでください。父よ、おいでください。」と言う時、その方が来られるのです。なぜなら、人間に対して神が喜べる一日は、試練の条件を超えなければならないからです。恐怖の環境ではいけません。
 創造の理念を持って楽しめる環境に没頭する、そのような園で人間を中心に共に暮らすことが創造の目的でした。したがって、皆さんがそのような場所を成し遂げることで、神を迎え入れ、神の全体摂理を代行できる人々となり、また万民がそのような存在になることができるのです。そうして初めて、全宇宙が彼を中心にして完全な解放を目指して動き出すことができることを、皆さんはしっかりと心に刻んでおくべきです。




<祈祷>
 愛するお父様! イエス様が地上に来られたのは、私一人を見つけるためだけではありませんでした。私の家族のためだけではありませんでした。選ばれたイスラエルのためだけでもありませんでした。どんな教派のためでもありませんでした。
 イエス様は、全被造世界の希望であり、すべての価値を代弁して来られたことを私たちは知りました。お父様! そのようにして全体を復帰しなければならない使命を持つイエス様の前に、今日の私たちはどのような心を持っているのでしょうか。私の家族を守るために命を捨てる者にならないようにしてください。私の民族、私の国、私の世界を守るために命を捨てる者にならないようにしてください。
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 私が生きても天地を代表し、死んでも天地を代表して死ぬ、つまり天宙の生死をかけて生きる姿となれるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
 今日、この被造万物の中でイエス様が復帰しなければならない意志が果たされず、嘆きの叫び声が残らないようにしてください。たとえそのようなものが少しでも残っているとしても、私たちのためにそれを取り除き、イエス様とお父様を安心させ、その心情を通してお父様と永遠の絆を結ぶことができる真の子供たちとなれるようにしてください。お父様、切に願い求めます。
 そのようにして、歴史的なすべての恨みを解消し、解放の慰めを受けられるように、お父様 導いてください。そして共に進むことができるようにしてください。
 私たちがすべてのことを忘れ、天を讃えることができる真の孝行息子、孝行娘となれるように切に願い求め、すべての御言葉を主の御名前によってお祈りいたします。アーメン。

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