人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(8,9,10)

2024年06月29日 18時46分26秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 4 - 8 「真の牧者と真の羊の群、偽の牧者と偽の羊の群」(1958年4月6日)

1958年4月6日(日曜日)、前本部教会。

聖書拝読:ヨハネによる福音書10章1-21節


祈り

 お父様! 二千年前、あなたはイスラエル民族を選び、彼らに心と身体の両面であなたの心情を共感させることを望まれましたが、私たちはあなたの御心がまだ成就されていないことをよく知っています。

 イスラエル民族が正しいことと間違ったことを見分けられないことを感じざるを得ませんので、あなたの許された言葉を中心にして、正しいと誤りを明確に見分けさせ、生きていけるように導いてください。私たちはあなたの心に従うことができる者となることを熱望し、願っています。

 あなたの心を通して私たちが言葉に従おうと努力していますが、私たちはいつも神の御心に従って生きていないことを認めています。あなたが私たちを選ばれた時、それは私たちだけのためではなく、国民のため、世界のためにもであり、私たちはそれを知っていますので、あなたの御心に従って私たちを導いてください。

 お父様、この堕落した不信心の社会環境を耐え忍び、今まで私たちが選ばれたことに感謝します。この世界がどんなに悪くなろうとも、私たちが天の前に堅く立つことができるように導いてくださり、感謝します。イスラエルの不信心のために苦しみを受けることになったイエス・キリストの立場を思わずにはいられません。彼は天の悲しみを代わりに語られ、信仰に基づく行動であり、あなたを中心としたものであったことを私たちは知っています。

 今、最後に、私たちが人類の罪を贖うために、あなたの心と結びついて私たちの心と身体に導いてください。この地上には多くの信者がいますが、イスラエル民族の中で本当にあなたに従った人はいなかったように、今日、新しいイスラエルとしてのキリスト教はあなたの御心を知らないため、計画の全体の意志を受け継ぐことができませんでした。お父様、あなたの御心を通して私たちを満たし、私たちを導き、永遠にあなたの使命を受け継ぐことができるように導いてください。
    1
 たとえ多くの打撃や迫害、引き裂かれることがあっても、あなたが望む一つの生命を持つことができる場合には、私たちがいつまでもあなたに勝利をもたらすことができるように、私たちを導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 多くの不信心者がいたと知っていますが、天の御心に対応する天の命を持っている人はいなかったと知っています。イエス様はこの地上に来られて天の命を示そうとされましたが、彼を追う者がいなかったために一人で行かれました。今日、私たちが全人類の光となり、イエス様の使命とその意志を受け継ぐグループとなるように導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 今日、ここに集まったあなたの息子たち、娘たち、どうか天の御情を知り、御心を心に留め、天の意志のために立ち上がったか、教会のためにどれだけ努力したかを反省できるように導いてください。ただ正義のために、私の心と身体を捧げることによって、歴史的な意義を達成し、主の御事を心に刻み、生命の主人となれるように導いてください、愛するお父様、熱心に願い、望みます。

 天の意向と私たちの心を結びつけ、父の意志を成就させようと誓う貴重な時間をお与えください。神の計らいにより、愛を持ち、お父様の意志を責任持って遂行できるように許してください。天の意向に共感し、ただお父様の道を歩むことを許してください、お父様、熱望し、願います。 お父様の意志ならば、生涯をかけても、お父様に従い、私たちの心はあなたの命を求め、私たちの体はあなたの命の道を探し、ただお父様の意志を中心にして生きることを許してください。切に願い求めます。

 ここに集まったあなたの息子娘たちが、お父様の言葉と意向を受け入れ、全人類を復活させることができ、お父様の前で忠孝の心を捧げることができるように許してください。私たちの心を導き、父の意志のために逡巡なく従える者となるように許してください、切にお願い申し上げます。
    2
 この説教の時間に、語る者と聞く者の心に隙間がないように許してください。サタンが一切介入できないようにしてください。お父様の本来の領域に帰還しようとする真の命が湧き出るように許してください。お父様、私たちに対して恵みと愛を与え、お父様の意志を中心に生きることができるように許してください、切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の名によって述べさせていただきます。アーメン。


<説教>

 今日は皆さんに「真の羊飼いと偽の羊飼い」と題して少し話をさせていただきます。
 ここに座っている皆さんは、多くの人々がどのように生きるべきか迷っているのを見て、彼らの心と体を一つにして一つの方向に導くことが難しいことを感じているでしょう。個々の視点から見ても、心が向いている方向と体を一致させるには大きな決意と努力が必要だと理解しているでしょう。

 ですから心を意志で動かし、体を意志で応じさせることが、歴史的にも大きな仕事であり、私たち人間にとって極めて重要な課題であることを皆さんはよく理解している必要があります。
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 地上に住むどの人も、自分の希望を実現するために生活面でまたは他のどの面で行動したいと願う人は誰もいません。人間が心を中心にして体と一体化して動きたいとするのは、歴史的な状況から人間の切実な願いとして成り立っており、天からの刺激を受けているからです。これは人類のために幸せなことですが、その事実自体は悲しいことではないと言えるでしょう。

 社会的には権力と名誉を享受しているとしても、心を中心にして自分の体を一つにできない人は、それが彼にとって不幸なことであることを自覚しなければなりません。

 私たちの心は無形の天と関係を持ち、私たちの体は有形の地と密接な関係を持っていることを否定することはできません。私たちは小さな存在かもしれませんが、私たちの心と体は非常に大きく広い世界と繋がっていることを自分自身で感じることができるはずです。このように私たちの心と体は小さいかもしれませんが、非常に大きなものと繋がっているため、心は天の世界と、体は終末時代に訪れる歴史的な理想的な世界との関係を築くように、皆さんの周囲の環境は皆さんを促していることを理解する必要があります。

 皆さんがそれぞれそのような立場にあることを理解し、特に考えなければならないことは、「私は天の前にどのような存在なのか?」ということです。皆さんはこれを考える必要があります。今日、皆さんの心に平安と喜びがあるとしても、それが永遠に続くためには、皆さん個々が天の上に永遠の喜びと幸せな環境を創り上げなければならないということですが、皆さんはそれを達成していないということです。
    4
 これから私たちはこのような難関を乗り越えて、私の身体と心が一つになれるようにして、私の心が望む善の理念に依存して、私の身体が望む理念と関係を築く喜びを見つけなければなりません。そうすることで、皆さんは天国に行っても永遠の幸福を楽しむことができるのです。

 天が要求する心の中心が天に応じるようにするためにはどうすればよいか、ということが問題です。この問題を皆さんが解決しなければなりません。神様はこの問題を常に心配しておられます。

 今、皆さんの心がどこに向かうべきか?まず、皆さん自身から始めて、身体と心が一つになり、天を代わりにし、地を代わりにすることができなければなりません。そして、たとえそのような能力を持っていたとしても、自分の幸福だけを求めてはいけず、全体の幸福を求めなければなりません。そうしなかった場合は、過去を反省し、批判しなければなりません。また、将来についても自己を分析していかなければなりません。

 宇宙的な成功者とは、私の個人を中心にして心と身体が一つとなり、世界の終わりに訪れる歴史的な理想世界と関連づけられる一つの基準に達することができなければなりません。このような道を知って、天巡の意志に従って生きていくというのならば、皆さんは幸福感を感じるでしょう。私の身体を心に反映させ、身体の動きが心に従うことで、天巡を代わりにすることができると自称できるということです。そうした皆さんに認められる場合は、天巡を中心にして皆さんの身体と心が世界を代表することができ、喜びを感じさせ、神様と愛の関係を築くことができるのです。

 ですから、皆さんは心を重視して心と身体が一つになり、地上のどんな要素と衝突しようともそれを超える力を持たなければなりません。そのため、どんな状況でも安全な位置にいられる人間にならなければなりません。このような人々を結集して家庭を形成し、教会を形成し、国家を形成し、さらには神様自身と関係を築くことが神様の意志であることを皆さんは知らなければなりません。
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 ですから、今はお金がないから泣く時ではありませんし、名誉や権力がないから泣く時でもありません。そのような外的条件がどれだけ整っていても、それが皆さんを永遠に幸せにする条件にはなりません。しかし、歴史的な試練を振り返ってみると、そのような外的条件を整えるために涙を流し、命を賭けて戦った人は多くいましたが、内的な条件を整えるために涙を流し、命を賭けて戦った人は少なかったです。

 では、イエス様はどのような方でしょうか? イエス様はそのような外的条件を遮り、停止させ、内的な条件を立てるために涙を流し、命を賭けて戦った方でした。皆さんが宗教を信じるようになったときに最初に感じるのは何でしょうか? それは心の中で戦いが行われていることです。しかし、その戦いで何が敵でしょうか? それは身体です。このような実体を中心にした闘いで勝利して、天巡と一体化したように、天巡と一体化した心を重視して、その心と一体化した身体を所有したというのであれば、その人は宇宙的な成功者であるでしょう。

 神様の天理法度が不変の法度であるのに、この天巡の法度と調和できる心を持ち、その心の基準の前に身体が調和して一つになったというのであれば、このようになった化身を変更しようとする存在は地上に何もないということです。

 それでは、今日の私たちが生きている地上では、外的条件を立てるためにも言えないほど激しい闘争を展開してきましたが、この外的条件の中心となる内的条件を立てるための闘争がないとしてはならないでしょう。このような抵抗のない歴史的な変革がなくては、内的な革命を引き起こして外的なすべての事実を是正する方法はないということを知らなければなりません。今、私たちが心配しなければならないことは外的な世界に対する心配ではなく、内的な世界に対する心配ということです。

 しかし、私たちはこれまで私自身の生涯の過程でどのような外的条件を見つけるために指導者を求め、外的な領域で友達を求め、外的な環境で自分の理念を立てようとしましたが、これらは永遠のものではありません。
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 私の存在は一つであっても、外的な条件を追求する世界と内的な条件を追求する世界、この二つの世界の間で葛藤を経験する立場にあることを知るべきです。天はこのことを知っているため、あなたが悲しい立場で万民のために他人が好む道を避け、他人が嫌う道を歩むこの歴史的な過程を開拓しながら進んで来たことを理解すべきです。あなた自身は個人ですが、個人ではありません。あなた自身にこのような形の事実が含まれていることを知るべきです。では、あなたは心と体が一つになり、天に対して要求できるその日を持っていますか? 天はあなたの前にこれを問い詰めるでしょう。

 外的な条件を立てる世界で内的な条件を立てようとすると、世間から疎外される歴史的な過程を避けることはできません。したがって、終末には自分でも知らない世紀末的な恐怖の時代に巻き込まれるでしょう。

 このような現象がなぜ起こるのかと言えば、外的な中心を打破して内的な中心と一体化させるためには、社会的な条件、習慣的な条件、認識的な条件、観念的な条件が内的な条件の前で脅かされ、無慈悲に捨て去らなければならないからです。そのため、自分でも知らない恐怖に包まれることになるのです。

 では、このような時にイエスは終末の聖徒に何を求めているのでしょうか?外的な条件を遮断し、内的な条件を立てることを強調しているのです。今日、あなたに世の中の友人や師がいるならば、外的な理念を中心にしている友人や師であるのか、内的な理念を中心にしている友人や師であるのかを分析すべきです。また、教団や国家、世界も外的に関係を結ぶ方向に流れているのか、内的に関係を結ぶ方向に流れているのかを注視すべきです。

 今、あなたはこの終末を迎え、この地でどのような道主を見つける前に、まず本来の心を見つけるべきです。これを見つけるために、キリスト教では祈りを通じて外的なすべてを断ち切り、神の心情を求め、仏教では禅定を通じて6000年前の人間本来の心を求めています。このようにしなければならないことが人間にとって歴史的な悲哀であることを知るべきです。
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 ここにいる皆さん! もしかして体を中心にして主張する人がいますか?それは天倫の前に反逆者です。なぜなら人間はまだ体と心が合わさって全宇宙の前に誇ったことが一度もないからです。つまり、心と体が一つになり、人と創造主が一つになったことが今まで一度もないということです。心と体が一つになり、創造主と私が一つになるこの時間を持てなかった存在として、体を中心にして生きる自分をどうして天の前に誇ることができるでしょうか?天は到底許容することはできません。天倫が誇らないものを誇る人も裁きにかかります。本来、天がまず誇る真心と体でなければならず、その後に万物が誇るのが原則であるからです。

 今日、あなたは天を探し、真理の道を探し求めたと言います。しかし、天と地を代表する真理があるとしても、あなたがその真理と関係を結ぶためには、まずあなたの心と体が一つになり、心が悲しむときに体が悲しみ、体が悲しむときに心が共に泣くその一日を持たなければなりません。あなたがこのようなことを信仰生活の過程で体験できなければ、決して天倫の前に立つことはできないということを知るべきです。

 今、天倫の意志を成し遂げる時が近づいてくるに従い、人間の心は天倫の意志と関係を持っているため、自分でも知らずに焦燥感と渇望感が生じるのです。だから、アメリカのような国がいくら経済的に社会的に豊かな生活をしていても、心の虚しさと焦燥感によって自殺する人が急増しているのです。

 では、私は心を中心にして何を見つけるべきでしょうか?あなたの心の中に何の理由もない悲しみが湧き上がるとき、それがあなたの師であることを知るべきです。終末の裁きが近づくにつれ、心がそれを感知できるため、自分でも知らずに悲しくなるのです。したがって、あなたは心で自分でも知らずに孤独と焦燥感を感じるとき、その心の友となることができる体を持つために努力すべきです。個人を中心にしてもそうですが、民族を中心にしても同様です。

 この地上に天倫の意志を代行することができる民族がいるとすれば、その民族は他のどの民族よりも悲惨な環境に置かれる現象があり、また個人においても、そのような人が現れなければならないのです。あなたは今、そのような立場に置かれていることを知るべきです。そしてこの現象が世界的に起こると同時に、あなた自身を見たときにも、心を中心にして体を必ず三度は打たなければならない時が来るのです。しかし、堕落した人間は霊的な五感が鈍く、それを知らないのです。しかし、天は人間に必ず天倫の時を知らせる使命があります。どの人の心を通じてでも、啓示を通じてでも三度は知らせなければならない責任があります。
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 しかし、人の体は心と反対の立場にあります。心は内的であり、体は外的であるので、心が偽りであり体が真実であると言う人は一人もいません。したがって、私の心を中心にして私の体を打ち負かして従わせた人だけが新しい理念の世界を体験できるのです。これは私個人だけで起こるのではなく、教団を中心にしても起こります。

 世の中には多くの宗教や教団がありますが、神の意志に完全に合致する教会は一つもありません。天が存在するならば、必ず真理の中心を立てて、その場所を中心にして内的な分野と外的な分野との関係を築くことが起こるでしょう。また、世紀末の現象として教派と教派の間の闘争が起こるでしょう。どの宗教であれ、他の何であれ、これが個人から始まり、家庭・教団・国家・世界の順に起こります。国も内と外の両面性を持ち、世界も左と右に分かれています。本来はこれが一つにならなければならないのです。

 本来の世界を望み、天の理念を望む皆さんは、他の人々がどのような環境で迫害しても、その困難に打ち勝てずに歴史を壊してしまうことがあってはなりません。皆さんは心を中心に団結し、まず内的な基盤を築き、次に外的な基盤を探し求めなければなりません。そして、神を中心とした私個人を超え、家庭・社会・国家・世界を探し求め、さらに天と地まで探し求めることができるようにしなければなりません。

 では、一つの世界、一つの理念を探し求める人間にとって最も重要な問題は何でしょうか? 一時的に存在して消えてしまう国家や世界の理念が問題ではありません。権力が多く地位がどれほど高くてもそれが重要なことではありません。二つの世界を一つにできる理念とその主人公が問題です。

 人間を見たとき、心を中心とする内的な世界と体を中心とする外的な世界があります。世界がこのように二つの世界に分かれているのと同様に、霊界も天が支配する善の領域の霊界があり、サタンが支配する悪の領域の霊界があります。
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 皆さんは、神の6000年の摂理の終結点が私一人の体にあることを知っていますか?体と心を統一できる一つの原則を持たない人は、世界の人類を導くことも支配することもできません。これが問題の中の問題なのです。神がいないから問題なのではなく、イエス様がいないから問題なのではありません。最初に私が一つになれないことが問題なのです。

 人には誰しも二つの道があります。一つは世の中に出て行く道であり、一つは世を捨てて天倫に向かう道です。これが反映されて、外的な理念を標榜する唯物史観があり、内的な理念を標榜する唯心史観があります。では、この二つの史観がいつ一つになるのでしょうか?これを一つにする調整をどこから始めるのでしょうか?これが大きな課題です。

 神がこの被造世界に対して摂理を行うときも二つの世界に対峙することになります。神が対する心の世界と体の世界があります。このように、私たちは神が二つの方向から摂理を行っていることを一つに結びつけることができる一人の人がこの地上に現れることを望んでいることを知るべきです。

 神も内的な分野を通じて求めるものがあり、外的な分野を通じて求めるものがありますが、内的な分野の世界が外的な分野の世界を吸収する日を迎え、この二つの世界を統一しようとするのが神の摂理の目的であることを知るべきです。

 したがって、今日、摂理の意志を受け継いで進んでいく宗教において、革命があればあるほど発展しています。打たれれば打たれるほど、ぶつかればぶつかるほど、むしろ繁栄しています。これが天の蕩減復帰の歴史というものです。まず打つ者が負けるのが天理法度です。第一次世界大戦においても、最初に打った方が負け、第二次世界大戦においても最初に打った方が負けました。したがって、第三次世界大戦においても最初に打つ方が負けるでしょう。
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 世の人々はしばしば他人を先に攻撃することを好みます。しかし、先に攻撃する者は天が許さないのです。今日の教会でも互いに他人を非難し、批判することを好む者が多いですが、先に攻撃する者を天は決して許さないでしょう。
 今日、世の中に対して心配している人は多くいますが、自分の心を中心にして体が一つになっていないことを心配する人は少ないです。

 ここに集まった統一教会の家族の皆さん! あなたたちは国と世界を心配しなければなりませんが、まずは自分自身が心を中心にして体が一つになっていないことを心配してください。心を中心にして体が一つになった人々が集まり、国を作り、世界を作ることが神が私たちに本当に望んでいることです。神の望みがこれであるならば、世界を心配する際にもこのような人々が集まって心配することを望み、国について心配する際にもこのような人々が集まって心配することを望むでしょう。このようにすることが信仰者の真の態度です。このためにイエス様が来られましたが、その意志を成し遂げることなく帰られましたので、再び来られてその意志を成し遂げようとするのです。

 では、主が再び来られて成し遂げる意志とは何でしょうか? 再び来られてこの世を火で裁こうとしているのでしょうか? そうではありません。火で裁くことはイエス様が来なくても神ができることです。それではなぜ来られるのでしょうか? イエス様は神の内的な摂理と外的な摂理を代行できる中心として来られ、統一の帰一(きいつ)点を整えて平面的な関係を築くために再び来られるのです。

 では、世紀末的な終末期にあたる今日において、あなたたちがこの神の意志を代わって責任を負うとき、人間の心が体によって無情に蹂躙されてきたように、また過去に内的な面を開拓してきたすべての人物が外的なものによって蹂躙され、反対されてきたように、あなたたちが主張する主義が世界のために進むならば世界から攻撃され、国家民族のために進むならば国家民族から攻撃され、教団のために進むならば教団から攻撃されるでしょう。
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 堕落した世の中では、世界のために涙を流す人を追い出すのが簡単であり、国家民族のために涙を流すと国家民族はそのような人を追い出しやすく、教団のために涙を流す人を教団から追い出しやすいのがその性質です。

 このような内的な分野の世界と外的な分野の世界を統一し、本来の世界の形を持って来られる方をキリスト教では再臨主と呼び、仏教では弥勒仏と呼び、儒教では真人と呼ぶなど、それぞれの宗教で異なる名前を付けて呼んでいます。しかし、実際にはこれはすべての宗教が来られる再臨主一人を指して言っているに過ぎません。

 では、過去のイエス様はどのような方であったのでしょうか? 個人を中心に見るとアダムを代行し、民族を中心に見るとヤコブを代行し、民族を中心に見るとモーセを代行し、さらに世界を中心に見ると全人類を代行する責任を負って来られました。さらに、世界だけでなく、天の悲しみまでもその心に抱いてこの地に来られたのです。では、そのように悲しみの中で来られて帰られたイエス様を抱きしめて個人的に涙を流しながら一生を過ごす人は誰でしょうか? イエス様はそのような人を探されるでしょう。神もそのような人を探されるでしょう。

 堕落した人間は生まれるときは喜びの中で生まれたように見えますが、去るときは涙を流しながら去ります。しかし、今や哀れな民族を抱きしめて泣く人は民族の福を受け、哀れな教団を抱きしめて泣く人は教団の福を受けるでしょう。そして、哀れな世界を抱きしめて泣く人は世界の福を受けるでしょう。

 では、大韓民国! この哀れな民族、解放後に分裂し、今まで統一を望んできましたが、まだ統一を成し遂げていません。むしろ同じ民族同士で信じられない関係になっています。それでも秋の落葉のように落ちる審判の時を知らない哀れな民族です。では、そのようなときに私たちはどうすべきでしょうか? 秋になっても変わらない根を見つけるべきです。そこにはこれまで見てきた世界とは違った姿、色、すべてが違うものがあるでしょう。
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 では、皆さんは何になるべきでしょうか?皆さんは神の羊の群れになるべきです。神は過去6千年間、天と地が喜び合うことができる真の羊の群れを呼び求めてきました。また、今日もその羊の群れを探しており、明日もその羊の群れを探すでしょう。

 では、神とイエス様が来て喜ぶことができる羊の群れはどこにいるのでしょうか? もし皆さんが真の羊の群れになりたいなら、真の牧者の声を聞くことができなければなりません。神の内的な理念と外的な理念を代行する二つの世界があるように、ここにも内的な世界を代表する真理の訴えと、外的な世界を代表する真理の訴えがあります。

 では、私自身が真の牧者に対応できる羊になったことを何で知るのでしょうか? 皆さん自身が心の中に聞こえる牧者の声を聞いたかどうかです。心の中に聞こえる羊の群れの声を聞いたかどうかです。

 涙のない指導者に会う教団、民族、世界は滅びるでしょう。それが原則です。イエスは教団を抱きしめて泣きましたが、教団から追い出されました。民族を抱きしめて泣きましたが、民族から裏切られました。世界を背負って血と汗を流しながら泣きましたが、世界は彼を理解しませんでした。真の牧者とはまさにそのような人です。そして、真の友、真の師とはまさにそのような人です。皆さんが真の牧者を見つけたなら、彼の言葉に心と体を尽くして耳を傾けるべきです。

 神は人間を代行して内的な理念と外的な理念を統一的な形にして掲げるべき時があります。したがって、皆さんはそのような時が来れば内的な声を外的な形で表さなければなりません。また、皆さんは心と体がすべてを忘れて全体を一つにまとめて捧げることができる心を持つべきです。自分自身を無条件に捧げ、頼ることができ、心と永遠に離れることなく頼ることができ、自分をすべて任せても安心できる一人の牧者を地上で迎えなければなりません。そうでない人は天の心情を知ることができません。これを人間の前に直接的な関係で結んだのが父子の関係です。
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 人には内的には親があり、外的には師がありますが、堕落によって真の親と真の師を持つことができなかったため、親と師を代行して心と体を頼ることができ、誠意を尽くして仕えることができる真の牧者を見つけなければなりません。イエス様は亡くなる際にも敵のために祝福を祈りました。皆さんはイエス様と同じ心を持つ牧者を地上で迎えなければ初めて地上で神を迎えることができるのです。これを皆さんは知るべきです。

 これまで神の内的な心情と外的な心情の基準を一つに統合して表すことができる人間が地上に現れなかったため、皆さんの心がどこに頼ろうとしても頼ることができず、皆さんの体が頼ろうとしても頼ることができませんでした。だからこそ、終末期にあたって神の心と通じ、神の内的な心情と外的な心情の基準を代行する一人の人が現れなければなりません。この時が再臨の日であり、来られるその方が真の牧者であり、再臨される主であることを皆さんは明確に知るべきです。







文鮮明先生御言葉選集 4 - 9 イエス様の体を抱きしめて泣ける者になろう 1958年4月13日(日)、旧本部教会


聖書拝読:マタイによる福音書 27:1-56


 今日は「イエス様の体を抱きしめて泣ける者になろう」という題目でお話しします。


 皆さんが信じているイエス様、そして天がすべてを回復しなければならない使命を任せたイエス様は、万物と人間と天が共に来ることを望んでいた希望の中心であることをもう一度感じてください。


 2千年前に来られたイエス様は、当時のユダヤの人々だけでなく、2千年の歴史を経てきた全人類に必要な存在でした。今日生きている皆さん一人一人にとっても必要な方です。そして神が地上に望む平和の楽園を成し遂げるためにも必要な方です。だからこそ、全ての民が再び来られるイエス様を中心に一つになり、勝利の歓声と共に父の御座の前に現れて栄光の賛美を捧げることを、今もなお望んでいます。つまり、イエス様は天にとっても地上の人間にとっても、創られた全ての被造物にとっても必要な存在なのです。


 したがって、今日の皆さんは、神の意志または歴史的な理念を自分自身を中心に勝利の象徴としてイエス様の前に示せるようにならなければなりません。しかし、もしそうでなければ、6千年の闘争の歴史の中で全人類に与えられた嘆きと悲しみのすべてを取り除くことはできません。


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 これまで多くの人々が長い歴史を経てイエス様を信じてきました。一方、イエス様は天の意志を代行して地上を守り、全ての民と万物のためにサタンと戦って来られました。つまり、イエス様はこの地に来られて、天と地を対して望んでいた目的を完全に達成できなかったため、今も霊界で切なる心を持って戦い続けておられることを知ってください。


 その戦いが終わらない限り、天の戦いも終わらないし、地上の戦いも終わりません。我々の希望が達成されない限り、全ての被造物も希望の日を持つことはできません。


 今日皆さんが信じている主、全ての信者が新郎として迎えなければならない主、皆さんの真の父として迎えなければならないその主を考えたとき、そのイエス様と皆さんの生活を比較してみる必要があります。そして、皆さんの生活が過去の歴史と全ての宗教の意志を代行する立場でどれだけイエス様と一つになっているかが問題となるでしょう。


 また、イエス様はこの地上の人間のために来られ、人間のために去られましたが、そうしたイエス様と地上の誰が一つになっていたのでしょうか?天におられる神様とイエス様と永遠に楽しむことができる一つの理念圏内に皆さんはいるでしょうか?これを問うとき、まだイエス様は天の人を見つけられておらず、イエス様が永遠に主導し信頼できる人も持っていません。したがって、神様もイエス様を中心に永遠に安息できる基準を達成していないことを、皆さんは原理を通してよく知っているはずです。


 イエス様がこの地に来られたとき、選ばれたイスラエルに対して望まれた希望は何だったでしょうか?4000年間の摂理を通して神の意志が彼らを通じて成就されることを望んでいました。イエス様は当時の人々と未来の世代が楽しむことができる幸せな安息の場を築くために、新しい福音を宣べ伝えました。

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イエス様は天の新しい理念を実現するために、4千年の歴史を代表して現れた方です。神様はイエス様が大工の息子であり、学んだことのない若者であったにもかかわらず、彼を通じて天のすべての理念と希望の意志が成し遂げられることを望んでいましたが、当時の人々はそれを知っていたでしょうか? 誰も知りませんでした。しかし、イエス様は歴史的な結晶として、天の摂理的な中心として人間の前に現れるとき、心と体で感じる感覚が何であることを望んでいたでしょうか? まずは天に対して天と通じる感覚を、人間に対して人間と通じる感覚を持って現れることを望んでいました。

 それでイエス様は、天地万物が堕落の恨みに満ちていることを感じれば感じるほど、これを見つめる神様の悲しみが被造物に染み渡っていることを知れば知るほど、深刻な心を抱くようになったのです。皆さんはこれを理解する必要があります。イエス様は30年余りの生涯を貧しい大工の息子として過ごし、万人のメシアとしての姿を示すことなく、黙々と生活しながら天の意志を宣べる準備をされました。それでも、彼は天に対する一途な心と万人類への愛を持っていました。天と人類を愛する心が切実になればなるほど、彼の心には誰にも表現できない苦悩が募っていったのです。しかし、その時代の人々は、その苦悩と心配がどれほど大きかったかを誰も知りませんでした。

 さらに、ヨセフ家の家族たちもイエス様のその覚悟と心情を、天の切実な願いとして、人類を救うための天の心情として感じることはできませんでした。しかし、イエス様にはそのような生活環境の中でも、イスラエルの民の前に福音を伝えて新たな革命の烽火を掲げる使命があったため、自分の心と一つになれる人が必要でした。イエス様は神が選ばれたイスラエルの民を代表するユダヤ教を中心に、天の方向を示し、人の道を再び立てなければなりませんでした。

 しかし、イエス様の前には、天の心情を代行し、人類の歴史的な心情を代行できる心を持つ人がいなかったことが、彼が神の救いの摂理を完成できなかった重要な要因の一つでした。

 さらに、神が4千年の苦労を経て築いたユダヤ教団は、イエス様の前になくてはならない祭壇であり、イエス様はこの祭壇の前になくてはならない大祭司の立場でなければならなかったのに、イエス様とユダヤ教団は分かれてしまいました。


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 イエス様は旧約摂理の結実であるユダヤ教を中心に、新しい新約摂理の烽火を掲げようとしました。しかし、神の意志を受け入れるように準備されていたユダヤ教がイエス様と一つになることができなかったとき、イエス様の悲しみは言葉にできないほど大きかったのです。


 また、どこを見回しても、自分の事情を分かち合う真の友がいなかったイエス様のことを、今日この時間に新たに感じなければなりませんでした。そのような孤独な状況にあったため、他の人と同じように安楽な場所に立つことができなかったのです。イエス様自身が悲しむと、その悲しみのために後の人類が断罪されることを知っていたイエス様は、選ばれたユダヤ教団が自分に反対するのを見るたびに、さらに深刻な立場に置かれていたことを知るべきです。


 しかし、このようなイエス様でも、他の人と同じように悲しむことができなかったのです。自分が悲しむと、それが天の前にさらに大きな悲しみをもたらすことを知っていたからです。つまり、自分の悲しみが歴史上の悲しみとして残ることを知っていた当時のイエス様の心情を知る人は誰もいませんでした。だからこそ、歴史の過程を経てきた人々の中で、今まで誰も知らなかったこのイエス様の悲しみを、皆さんが理解しなければなりません。イスラエルの民が追放したこの孤独なイエス様を、皆さんが代わりに慰めてあげなければ、イエス様に対する天の悲しみを解消することもできず、歴史の歩みに染み込んだイエス様の悲しみを解消することもできないのです。


 それでは、皆さん、この目は何を見ていますか?この耳は何を聞いていますか?この心は何に向かっていて、この体はどこに向かって動いていますか?自分自身を冷静に反省しなければならない時が近づいています。


 それゆえ、我々はイエス様を過去の人物としてだけでなく、現実のイエス様として迎えなければなりません。イエス様がこの村、あの村で迫害を受けながら歩き回るとき、行く先々で敵に遭遇し、歩けば歩くほど険しい道が待っていました。神が4千年の間に育てた民族の中で、喜んで迎えてくれる友一人も持てなかったイエス様の事情を、今の皆さんは感じるべきです。

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 多くの教団が待ち望み、多くの人々や多くの祭司たちがメシアを待ち望んでいましたが、いざ彼が現れたとき、迎える人は誰一人いませんでした。そのことを見ていた神の心情はいかばかりであったか?今日、皆さん自身が2000年前のイエス様の時代にいたならば、果たしてあなたはパリサイ人やサドカイ人のような人にならなかったのか、自問してみなければなりません。

 また、イエス様が過去の歴史に現れたイエス様であり、現実のイエス様であり、未来のイエス様であるとするならば、過去の在世時のイエス様の心情を知り、その心情を通して現在のイエス様、未来のイエス様を迎えることができるということを知るべきです。

 それで今日、私たちはイエス様がこの地上に来て、ただ30余年の悲しい道を歩み、十字架で亡くなったと信じています。しかし実際はそうではありません。したがって、皆さんはイエス様がこの地上に来てただ死ぬためだけだったと思っている無知な人々を悟らせなければなりません。今、私たちは2千年前のイエス様が再び来られることを望んでいますが、その2千年前のイエス様が私を訪ねてくるのではなく、私が2千年前のイエス様を訪ねていかなければなりません。つまり、皆さんは2千年前のイエス様の悲しい事情と孤独な事情を知り、その2千年前のイエス様と現実の私に隔たりがない状態になる必要があります。そうしてイエス様を抱きしめて泣ける私になるならば、再び来られる主は決して私を見捨てることはありません。


 2千年前に来られたイエス様を殺してしまい、その死んだイエス様が2千年後の私を訪ねてくれることを望む信仰の態度を持つ人は、決して再び来られる主に会うことはできません。では今から10年、100年、2千年をさかのぼって、悲しいイエス様を抱きしめて泣けるクリスチャンがこの地上に何人いるでしょうか。したがって、今や死んだイエス様を抱きしめて天を向いて涙を流す時代は過ぎ去り、生きているイエス様を喜びの涙で慰めることができる時代が来ています。しかし、そのような生きているイエス様はどこにおられるのでしょうか。そのイエス様を探し立てることが、今日のキリスト教徒の重大な使命です。


 では、皆さんは口を開けて天におられるイエス様を呼んでみたことがありますか? どれだけ呼んでも、皆さんはその方と簡単に関係を結ぶことはできません。しかし、イエス様は万人の救主であり、私のために死んでくださった救主であるため、私はその方と永遠の縁を結ばなければなりません。しかし、私の目が本当にイエス様を見たのか、私の耳がイエス様の言葉を聞いたのか、私の口がイエス様に代わって言葉を語ったのかを考えるとき、イエス様と私との距離はまだ遠いことを皆さんは感じるでしょう。

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 では、そのようなイエス様を抱きしめなければならない運命の歴史、不運の峠を越えなければならない今、この時に皆さんはどうすべきでしょうか? 歴史的なイエス様を現実のイエス様として自分の生活圏内で実証できる縁を結び生きなければなりません。もしそうでなければ、6千年間歴史を作ってこられた神の労苦の意志も皆さんと縁を結び、安息の日を迎えることができないことを知ってください。


 今、皆さんはイエス様を回想しなければなりません。2000年の歴史の過程のすべての人類に対する摂理の意志を開拓するために福音を持って立ち上がったイエス様、2千年間その福音の言葉がどの国、どの民族に入ろうと、その言いようのない迫害の道を通ったことを見て耐えてきたこの歴史的なイエス様を知る必要があります。さらに、当時選ばれたイスラエルの民の前に排斥されたイエス様の悲しい事情を知る皆さんでなければなりません。


 そのようなイエスを過去の既成事実としてのイエスとしてではなく、今日この時代に生きているイエスとして対する必要があります。そして、自分の生活圏内でイエス様の悲しみを体験し感じることができて初めて、彼を抱きしめることができることを皆さんは肝に銘じてください。


 それでは、そのようなイエス様はどのような方なのでしょうか? 彼を見るとき、彼の目は創世以来4千年の歴史を経てきた神の聖像を見る目であり、人間の誤りによって霊界の地獄にいる多くの霊人たちを見つめる目であり、楽園にいる霊人たちの恨みを晴らす責任感を感じながら見る目でした。また、神の悲しみを代わりに地上を見るとき、選ばれたイスラエルの民と全世界の人類が彼と一つになれずに反対するのを見るとき、イエス様の視線はアダムとエバの堕落以後4000年間悲しまれてきた神の悲しみを代わりにした視線でした。


 選ばれたイスラエルは天の祝福を受けるべき選民として、イエス様と永遠に共に住む家族として、または家庭としての立場を取るべきでしたが、反対しました。今日、皆さんは反対するイスラエルを抱きしめて語ることができなかったイエス様、聖殿を抱きしめて彼らの無知に悲しんでいたイエス様の友になるべきです。皆さんの目がイエス様が望む目になっていますか? イエス様の目は神の悲しみの聖像を代わりに見る目であり、楽園と地上の復帰の恨みを解決しなければならない状況にあることを見る目であり、地獄も自分によって救われなければならないことを見つめる目でした。

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 そして、皆さんの耳は開いていますか? イエスの耳は天から聞こえる神の声を聞き、多くの霊人たちの悲しみの泣き声を聞きました。その悲嘆の声と悲鳴の声がイエス様一人を囲んで泣き叫ぶのを聞いたとき、イエス様は安らかな一日を持とうとしても持てない立場に置かれるしかなかったことを皆さんは知るべきです。また、この地上を見るとき、悪が進行し善を踏みにじるだけでなく、さらに天を裏切って立ち上がる民族の叫び声を聞いたイエス様でした。イエス様は天の恨みを解消しなければならない使命感を感じただけでなく、反対している群れまで悔い改めさせなければならない使命感を感じていました。


 さらに、彼は自分の口で何を語ったのでしょうか? 楽園と地獄の中間で新しい言葉を語りました。それで楽園の霊人たちを導いて天国に入れようとし、また地獄にいる霊人たちまで弁護しました。見えない世界、楽園にいる霊人たちを天国に入れるための言葉、つまり楽園レベルの霊人たちを復活させるための言葉を叫びました。また地獄の霊人たち、つまりサタンまで弁護する言葉を語ったのです。だからこそ彼の語る言葉は、霊界の恨みを解消するための条件としての言葉であり、また地上にいる人類、サタンの死の権力に縛られている人類を解放するための言葉だったのです。


 このような解放の言葉は地上で当然歓迎されるべきだったのに、歓迎されるどころか反対されてしまいました。これは一体どういうことだったのでしょうか。結果として彼らは天と縁を結ぶことができなかったのです。


 また、彼の手と足はどうだったでしょうか? 病人に手を置き癒したその手、死者を蘇らせたその手、飢えた人々にパンを分け与えたその手でした。そして彼の足は、反対するイスラエルの民やサタンに追われ、この村からあの村、この谷からあの谷へと駆け回りながらも、敵のために祈り続けた足でした。さらに、敵に対して祝福を祈った手、手足を釘付けにされて十字架にかけられたその足とその手でした。


 また、イエス様の体はどうだったでしょうか?  彼の体はどこに行っても安息の日を持つことができませんでした。目に見えるすべてのものが天の理に反し、耳に聞こえるすべてのものが天の理に反する環境で、どこに行っても追われました。そのため、頭を休める場所も見つけられず、安心して過ごせる安息の日も持てなかったイエス様の体、どこに行っても歓迎されなかったイエス様の体であったことを、皆さんは知っておくべきです。だからこそ、彼は話したいことがたくさんあっても話すことができませんでした。地上の言葉を話しても理解されない人々の前で、天の言葉を話すことはできなかったのです。その結果、イエス様は民の前で反逆者の烙印を押されました。当時の教団全体も政権も、彼を喜んで迎えませんでした。

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 しかし、彼はすべての大衆と一つになれる戦略を展開しました。天はこのように二重の戦略を展開してきました。だからこそ、表面的には譲歩するように見えても、最終的にはサタンさえも自分のために働かせる結果をもたらしたのです。


 そのために、世の中の歴史では先に攻撃した者が8割以上敗北しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦でも、先に攻撃した側が敗北しました。この原則を知るとき、今日の2つの陣営のうち、どちらがサタンの側かすぐにわかります。何のために行っているかを見るとすぐにわかります。全体のために行っていない、自分のために行い、全体を犠牲にしようとするのがサタンの側です。


 では、神はどのような方でしょうか? 神は一見、私が犠牲になっているように見えますが、実際には私のために犠牲になってくださる方です。人間が天のために尽くすとき、天は全宇宙の理念を人間にすべて渡してくださるのです。サタンの世界では、一見、私のために尽くしているように見えますが、最終的には私の命までも奪い、その後には与えた理念までも奪い、永遠の地獄に引きずり込むのです。しかし、サタンの非難を受けながら戦い続ければ、天の側の利益になります。だからこそ、天国に行く者が現れるのです。サタンは前進すればするほど後戻りできない立場に立たされるため、サタンはここで譲歩しなければならない立場に置かれます。


 イエス様は全面的に戦わなければなりませんでした。しかし、第一次の摂理に失敗したため、第二次の意志を立てて、犠牲と奉仕の祭壇を中心に摂理を進めてきました。それで今日まで追われながらも、楽園を築き上げてこられました。終わりの時には、それらがサタンの第一線であり神の第一線であるため、混乱した世界になります。したがって、皆さんはここで第一線の神の立場を見つけることができる人になるべきです。そして、天の権威を持ってサタンを打ち倒すことができれば、そこで新たな第一線として出発することができるのです。


 神はイエスが地上に来て責任を果たせずに去ったため、聖霊を送られました。聖霊とは何でしょうか? 第二線を担当して来られた方です。十字架の真理を担当して来られたのが聖霊です。では、第一線は誰が担当しているのでしょうか? サタンと対決してイエスが担当しています。したがって、今日私たちがイエス様と聖霊に従って行動し、これが一つに結びつくとき、イエス様と聖霊も新たな第一線を形成します。したがって、今日私たち人間は聖霊に代わって新たな第二線を形成し、サタンを防ぐ権限を持たなければ、神の真の正兵の資格者となることができます。そして、サタンに勝利し、その正体を明らかにすることができるのです。これは神もイエス様も聖霊もできないことです。

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 そのようになれば、その資格者は神の心の友となり、堕落前のアダムの友となり、天使長と万物を主管する資格者となるのです。神はそのような一人の人を探していることを、皆さんは知っておくべきです。各自が立っている位置で、自分の使命を果たすべきです。宗教であれば宗教、科学であれば科学、その立場で真の神の子として立つことができる人を天は呼んでいます。


 終わりの時には、他人に対してあれこれ言うことはできません。私が死ぬか生きるかの生死の岐路に立っているため、どこへ行けば天の認めを受けることができるかが問題です。だからこそ、良心的な人々が集まって城壁を築き、「天に代わって戦う」と言える民族を作るならば、その民族は神の全体的な主権を代行できる民族となるでしょう。


 今日、アメリカのような国を羨ましがらないでください。どんな大きな文明国家があっても羨ましがらないでください。私たちは天の理の原則を知り、その原則的な権内でどれだけ天上と地上の前に縁を結んでいる民族になるかが問題です。どれだけ外的な条件が良くても、それを一度清算する時が来ます。神は非常に公平な心情を持っていますが、その公平な心情だけではありません。公平な心情の奥には、サタンが計り知れない義の基盤があります。サタンが屈服することができるのも、公平な心情と義の基盤の基準があるため、最終的には屈服するのです。


 人間の心もまた同じです。今日、人間は俗世の罪悪の中で無限に翻弄され、無限に混乱しています。しかし今日、皆さんは心の奥深くに歴史の基盤と一つになり、未来の基盤と一つになって、変えようとしても変えられない一つの原則を立てていかなければなりません。また、自分の内的な基準と生活の基準が何らかの悲哀の事実に直面したとき、それを克服して前に進むことができなければなりません。そうして皆さんが天の歴史と一つになり、今日の現実的な摂理の意志と未来的な摂理の計画と一つになり、それを中心にすべてを操る資格を持つ人になることで、初めて神の心情を知ることができるのです。


 ペテロが亡くなった主に会いたいと切望し、ついに会えたとき、すべてを忘れてその心に引き込まれたのと同じように、皆さんも今日までの歴史的な悲哀のすべてを忘れて、神が今日まで悲痛に満ちた摂理を進めてこられた悲しみの心情を体感しなければなりません。そこから初めて新しい天の歴史が展開されるのです。

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 神は無限の心情を持って人間に接しておられますが、人間は一面的、つまり自分を中心とした角度からしか計り知ることができず、それを天の全体、つまり360度であるかのように錯覚しています。この差が明らかになる時が審判の日です。また、イエス様がメシアとなったのも、歴史の過程でのすべての苦難を通過しながらも、天との一直線上で不変の忠誠をもって天に対したからです。


 では、天の愛はどのようにしてこの地上に現れるのでしょうか? 一つの静的な理念と私たちの心が永遠に一つとなって逸脱しないようにすることです。そうして360度を永遠に回り続けることができ、二つでない一つの理念圏内で一つとなることができれば、神が安心して安息できるのです。また、その時にそこから第二次的な摂理の意志がこの地上に現れることができるのです。したがって、今日私たちはこの罪の世界を踏み越えて、神の心情と通じ合う、つまり静的な第二創造の世界を建設する責任を負わなければなりません。


 今、皆さんは外的な世界の欲望を捨てて、内的な神の心情を代行できる人になるべきです。千人、万人を相手にしても、彼らを通して神の心情を感じ取ることができなければなりません。つまり、どのような人からも彼を通して神の心情を見つめることができる人になるべきです。


 本当にそのような人になるためには、悲しみがあっても最も大きな悲しみを乗り越えることができ、怒りがあっても天地以上の大きな怒りを克服できなければなりません。また、サタンに対する公憤の心情が爆発する時には、いつかそのサタンを崩壊させるという心を持ち、一人でも多くの仲間や同志を確保するために耐えなければなりません。また、そのような心を持って天の前に祈るとき、天は罪の歴史を超えて新しい理念的な立場で私と縁を結ぶことができることを、皆さんは確実に知らなければなりません。









文鮮明先生御言葉選集 4 - 10 復活したイエスの心情を知ろう (1958年4月17日)
1958年4月17日(木、復活祭)、三清公園


聖書拝読:マルコによる福音書 16:1-20


 今日のこの日は、2千年前に来られたイエス様が復活された復活の日です。今日までこの世界には多くのキリスト教徒がいましたが、イエス様が復活されたその一日を知ることなく過ごしてきたことを考えると、皆さんはこの復活の一日を知らない人間に対する天の心情がどれほどもどかしく、どれほど悲しいものかを考えなければなりません。

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 ここにいる皆さんだけは天と全人類を代表して、誰も知らないこの一日を祝わなければならず、この時間にイエス・キリストの心情を感じる彼の内的・外的な友となるべきです。その意味で、今日皆さんが座っているこの場所は、天と地と全ての万物が注視する貴重な場所であることを感じなければなりません。23年前の今日、イエス様が現れて今日があなたの復活の日であることを明かしてくださったことを覚えています。


 イエス様は果たして全人類に対してどのような人になってほしいと望まれたのでしょうか? そして天はどのような人になることを望んでいるのでしょうか?イエス様はこの地に新郎として来られましたが、地上の全人類が新婦の立場で受け入れなかったため、新郎と新婦は分かれざるを得ませんでした。この事実を知っているならば、皆さんがキリストの言葉にならない心情を全人類に代わって感じる新婦になることを天は望んでいることを理解するでしょう。


 イエス様は自分に神の4000年の摂理の目的を成し遂げる責任があることを知っていました。そして、誠心誠意を尽くして4000年間積み重ねられてきた人類の罪悪を清算する大きな責任があることを知っていたため、歴史上の誰よりも内外的な悲しみと苦難の生涯を送られました。


 イエス様が望まれたのは被造世界の復帰であり、語りかけようとされた対象はその仕事を共に成し遂げなければならない世の人々でした。そのため、イエス様は人々に神の切実な心情を吐露し、その意志を成し遂げることを訴えられましたが、当時の人々は受け入れず、理解しませんでした。そのため、イエス様の言葉を受け入れた対象は限られた範囲を超えることができませんでした。その限られた範囲においてさえも、安心して言葉を語ることができなかったのです。このような環境で努力されたイエス様の心情を私たちは理解し、同情し、悲しむ人になるべきです。


 このような苦難の3年間を経て、全人類の前で歓迎されるべき時が来たにもかかわらず、誰一人として彼を神の意志を代行する神の子として受け入れませんでした。さらには、当然知っているべきだったヨセフの家族や親戚たちも知りませんでしたし、知っているべきだったユダヤ教団やイスラエルの民、さらには世界も知りませんでしたし、反対しました。


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 イエス様はこのように全ての人から反対される立場にあっても、不信の地を見つめながら悲しむ天を慰めなければならない立場にありました。また、地に対しても心配しなければならない立場にありました。不信の人々に対しても、十字架で死んでいく瞬間まで祝福を祈られたイエス様でした。このようなイエスの心情を皆さんは理解しなければなりません。


 皆さんが本当にイエスの新婦になりたいと願うならば、このように来られて去られたイエス様の心情を理解し、これまでの先祖たちの罪を一人で清算し、主の心情を胸に抱いて生活で実践する人になるべきです。


 そして、天の悲しみとイエス様の悲しみを理解し、そのような理念と心情を持つ人がこの地にいないならば、ここにいる皆さんがその理念と心情を持つように努めなければなりません。今日この地にイエス様が抱かれた心情を持つ人がいるならば、その人は身の置きどころがわからず、涙にむせび泣くことでしょう。そのような人とイエス様とは、たとえ2000年という時間的な隔たりがあっても、2000年前のイエス様の心情を慰めることができる新婦となるでしょう。


 このような内容を知っているならば、皆さんはイエス様の生涯と自分の生涯を比較してみるべきです。もし皆さんの生涯とイエス様の生涯に大きな違いがあるならば、皆さんはイエス様の友にはなれず、彼の新婦にもなれないでしょう。


 では、皆さんはどうすべきでしょうか?イエス様の復活後にペテロが持っていたその欠けた謙虚な心を持ち、迷い彷徨っていたマグダラのマリアのような心を目指すべきです。しかし、イエス様は十字架を背負うまで、そのような友や同志を一人も得ることができませんでした。

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 それでは、復活直後のイエス様の心情はどうだったでしょうか? 三日で復活された彼の心情は、天の前に顔向けできない祈りを捧げるしかない悲しい心情でした。4000年間尽力された父と多くの労苦をした先知先烈たちに対面する時、一方では喜びつつも一方では無限に悲しく、涙が止まりませんでした。このようなイエス様の心情を皆さんは理解すべきです。


 天の聖徒たちは喜びましたが、イエス様は悲しみ、神様も喜びつつも悲しい心を持たれました。今日、この地上に住む人々の中で、このようなイエス様の心情を知る人は一人もいません。しかし、皆さんはこれを知り、新たに心に決意を持つべきです。


 何を決意するべきでしょうか?イエス様がこのようになった原因は、民族のせいでも天のせいでもありません。すべてはサタンのせいでした。イエス様はこのサタンを踏みつけ、失われた使徒たちを見つけるために立ち上がりました。一度は命を懸けて誓った使徒たちが、イエス様の遺体と墓を悪者たちに守らせたことを思うと、イエス様が普通の人であったならば、彼らを再び探しに行かなかったでしょう。


 しかし、イエス様はただひたすら敵であるサタンに対する憤りと、サタンの手中にある弟子と民族と人類を見つけ出さなければならないという一途な心を持っていたので、彼らを探しに行ったのです。また、4000年間人間の裏切りに耐えて摂理を進めてこられた父を見つめると、哀れな人々を見つけ出さなければならないという悲壮な決意を抱き、イエス様は彼らを探しに行きました。このようなイエス様の悲壮な決意を、今日皆さんが持つべきです。


 また、残っていた使徒たちに再びサタンと戦う心の決意を喚起させたイエス様は、いつまでも彼らと共にいることはできませんでした。意志を引き継ぎ、長い歴史の道のりを歩まなければならない使徒たち、言葉にできない血の道とゴルゴダの十字架の苦しみを乗り越えなければならない使徒たちを見つめるイエス様の悲しい心情と苦しみは、十字架を越える時と同じものでした。また、イエス様は40日が過ぎると、愛する弟子たちを敵の地に残して去らなければならない悲しい心情を抱かれました。


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 では、地上にいた聖徒たちはどのような心を持っていたでしょうか?来られたイエス様の悲しみと去らなければならないイエス様の悲しみを知るべきでしたが、彼らはただ愛する先生と別れることだけを悲しんだのです。これを見つめるイエス様の心情は言葉にできないほど悲痛でした。


 では、皆さんはどのような心を持つべきでしょうか? イエス様が去った後のことを自分自身で引き継ぎ、サタンと生死を懸けて戦うことになっても、一寸の譲歩もしないという決意を持ち、鉄のように変わらない心を持つ者でなければなりません。そして、イエス様が亡くなられるまで心を休めることができずに心配されていたその心情を皆さんが直接体験し、代わりに解消しなければなりません。


 もし当時の使徒たちが一つの心を持ち、イエス様と共に十字架にかかっていたならば、神はイエス様一人だけを復活させることはできなかったでしょう。そのようになれば、全ての使徒が復活し、今日のようなキリスト教にはならなかったでしょう。


 では、今、皆さんはこの使徒たちが残した使命を自分自身が引き継ぎ、サタン様に対して憤慨していたイエス様の心を自分の心とし、十字架を越えたイエスの決意を自分の決意としなければなりません。そして、十字架を死なずに越え、復活の姿で現れる第二の使徒となるべきです。そして、6000年間神を悩ませたサタンを一気に打ち破ることのできる使徒となるべきです。また、悲壮な決意を持ち、死の道を歩むことになってもサタンと戦って勝利し、その痕跡を残さなければなりません。


 ここに集まった皆さん! その心、その細胞一つ一つが神と和合できる状態になっていますか? 皆さんのその心、その細胞が神と和合できるとき、イエスが復活後に使徒たちを探しに行かれたように、神が皆さんを探しに来られるでしょう。このような使徒たちが集まり、イエスに代わって世界の人類を探しに行かなければなりません。これまでの使徒たちはイエスが死ぬために来られたと信じつつも、そのような悲壮な決意を持っていましたが、イエスが死ぬために来られたのではないことを知っている皆さんは、さらに悲壮な決意を持たなければなりません。

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 過去、ペテロがイエスの前で死を覚悟して従うと誓ったものの、その誓いを守れず、イエス様が復活された後に二度目の誓いをすることでそれを償い、その条件をもとに天は今日まで歴史を進めてきたと言えるでしょう。したがって、今、皆さんはイエス様一人の前だけで誓うのではなく、ペテロのように死後のイエス様の前だけで誓うのでもなく、一歩進んで天と地と主の前で誓わなければなりません。そして、ペテロが果たせなかった生前の誓いを皆さんが果たすべきです。そうすることで、その条件により主の恨みが解かれるのです。


 そうして皆さんは、神の前で子としての立場とイエス様の前で弟としての立場から、その願いを叶えて差し上げなければなりません。過去の使徒たちはイエス様と師弟関係にありましたが、今日の皆さんはイエス様と兄弟関係にあります。したがって、兄弟の立場から神とイエス様をしっかりと見つめ、彼の無念を償う責任があることを感じなければなりません。


 イエス様が苦しみを耐えながら進まれたように、皆さんもそのような苦しみを耐えながら逆境と戦わなければならない大きな使命があることを知るべきです。だからこそ、皆さんは終わりの日にどのような声が聞こえるか常に耳を傾けなければならず、天と地の願いを知り、その願いを叶えて差し上げなければなりません。そのとき、皆さんは神の息子・娘として立つことができることを確信すべきです。


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