文鮮明先生御言選集 4 - 2. 天を迎える決心を失わない (1958年2月23日)
1958年2月23日(日)、前本部教会
聖書拝読:創世記 19:18-29 コリントの信徒への手紙一 9:23-27
<祈り>
お父様が望まれる勝利の日がまだ現れていないことを私たちは知っています。最終の勝利のために、今日この時までお父様が血を流しながら戦いの道を歩んでこられたことを思うと、私たちは身の置き所がありません。
私たちは真理で武装し、お父様の御心を支えなければならないことを知っており、お父様が望まれる善の意志を広げるためには、自分のすべてを捧げて戦わなければならないことを知っています。どうか私たちの心と体が動員されるよう許してください。そして、この地に広がっている信徒たちと天の天軍天使たちが動員されるよう許してください。そうして、お父様に栄光を捧げることができる日が早く訪れるよう許してください。お父様、切に願い求めます。
この一日を求めるために、私たちの先祖たちは歴史の過程を経て、疲れ果て、苦しみながらも、主の時を切に待ち望んできました。しかし、私たち人間のためにいまだ成し遂げられていない悲しみが地と天に染みついていることを知っています。
不足な私たち、取るに足らない私たち、無能力な私たちをお父様が呼んでくださり、希望されたその栄光の日を求めるために血を流す苦難があったことを私たちに悟らせてくださり、御心のために心と体をすべて捧げて戦う覚悟と決心を与えてくださったお父様の恩寵に感謝いたします。
お父様、この時間、私たちの心を再び聖別し、私たちを供え物として受け入れてください。サタンの讒訴の条件を完全に分離し、お父様だけが取り、お父様だけが誇ることのできる息子娘となるよう許してください。切に願い求めます。
今、望む御心に対して私たちが心と体で忠誠を尽くし、この時間、新たな恩寵を感じることができるよう許してください。そして、心と体に溢れ流れるお父様の栄光の恩寵を体験できるように導いてください。お父様、歴史を動かしてください。
今、お父様の御言を伝えようとしていますので、共にいてくださり、伝える者の心も受け取る者の心も二つにならないように許してください。そして、天の心情と通じ合うこの一時間となるよう、切に願い求めます。
今まで私たちが生活してきた内容と責任を果たせなかったことをお父様の前に差し出し、伏して許してください。矛盾した人間の矛盾した知識が、お父様の真理に代わることができないことを認めるならば、自分のすべてをお父様の前に差し出し、自らお父様の恩寵に浸ることを許してください。切に願い求めます。
サタンが一切隙間に入らないこの時間となるようにしてください。そして、許された恩寵に接することができる貴い時間となるよう許してください。切に願い求め、主の名前でお祈りいたします。アーメン。
<御言>
『天を迎える決心を失わない』という題でお話しします。
今日集まっている皆さんの中には、心の中に何らかの決心を持っている方もいるでしょう。また、人前で自信を持って「私の決心は正しい」と主張できる人もいるかもしれません。
しかし今、皆さんは自分の決心が誰のための決心であるかを考えなければなりません。つまり、皆さんが持っている決心が自分だけのための決心なのか、皆さんと民族、あるいは世界、さらには神様のための決心なのかを考えなければならないのです。
何よりも、自分が抱く決心が天のためのものであるかどうかを考えるべき時期が皆さんの前に来ているという事実を忘れてはなりません。
今日の人々が持っている決心は千差万別です。甲が持つ決心と乙が持つ決心は違い、男性が持つ決心と女性が持つ決心も異なります。また、この民族とあの民族が違うように、それぞれが異なる決心を持っています。
それでは、各々が主張し、各々が持っている決心が最終的にどのような目的を達成するためのものなのか。自分を立てて冷静に問い直すと、自暴自棄にならざるを得ない立場にあることを認識するでしょう。
終末に直面している今日の私たち、あるいは地上に生きる人類は、自分が持っている決心が民族を動かす決心なのか、世界を動かす決心なのか、さらには天上にいる千千万の聖徒たちを動かす決心なのか、さらには神様をも動かす決心なのかと問うとき、そうではないと告白するしかないでしょう。
そのような私、そのような私たちに天の望みがあるならば、私たちが心の中に何を抱き、何を望み進んでいくべきかという問題を何よりも重要視することを望みます。
これまでの歴史の過程で多くの人々がある主義を持ち、それを主張してきましたが、その主張が今日の私たちの心を動かす要素を持っていないとすれば、その主張、つまり歴史の過程で多くの聖賢たちが主張してきた主義は私たちとは何の関係もないものとなるのです。
それでは、これまでの人類の歴史は何を立てるために発展してきたのでしょうか。それは人類の幸福のため、あるいは人類の永遠の理念を立てるために発展してきたと、天があることを知っているならば否定できません。天がある限り、人間に幸福の園がどのようなものであるかを紹介し、人間が永遠の喜びの園を建設するようにさせるべきです。その責任を果たすために今日まで歴史の過程を摂理してきた神であるならば、歴史の終末段階にいる私たちとは切っても切れない関係を持っているのです。
したがって、天が動けば自分も動き、天が止まれば自分も止まるという基準を心の根底に持たない人は、歴史を蹂躙する者であり、神の希望を裏切る者となるのです。
全宇宙の運行の法度は天倫の原則に従うようになっており、その運行の中に全体の目的を成し遂げるための摂理があるならば、神もその摂理の運行の法度を通らなければならず、人類もその運行の法度を通らなければなりません。それならば、今や私自身を民族の前に立てて考えてみなければなりません。
この民族に対して運行される神の意志は何であり、この民族を覚醒させるための神の決心は何かを考えたことがありますか?もしないとすれば、皆さんは民族を天倫の前に導くことを阻む立場に立つことになります。
そして今日、私たちの心に痛切なものがあるとすれば、この民族がどうしても進むべき道を進むために、一つの理念を中心に団結した心で闘えないことです。また、天倫に対して全世界の人類が団結した立場に立てていないことが天の悲しみであり、人類の悲しみであることを皆さんは悟らなければなりません。
そして今日、皆さんは自分がどのような立場に立っているかを冷静に分析し、批判しなければなりません。天は皆さんに対して、民族の前で自信を持って立ち、天倫に対して自信を持って向き合える心の基盤があるかどうかを問いかけています。
神が人間に対して最大の希望を持つとしたら、それは何でしょうか?まずは、この地上で創造の意志を成し遂げるという神の決心を人間が実現することです。神は天地万物を創造する前に決心され、その決心によって万物を創造されましたが、その決心はまだこの被造世界で実現されていないため、神は悲しみの歴史を歩んでこられたことを私たちは知っています。
今、この事実を知っている私たちが、宇宙の隅々まで探し求めても見つけなければならないものがあります。それはまさに神の決心です。私たちはそれを見つけて実現しなければなりません。そして、神が抱いている悲しみと苦しみを解消しなければならないのです。
したがって、今日私たちはこの意志を中心に一大革命の過程に立つ決心と主張、覚悟を持たなければなりません。そうすることで、神の悲しみを解消できるのです。
神は私たちが知らない間に、御自身が決心された意志をこの地上の人間に知らせるために努力されてきた歴史の過程を歩んでこられました。それが今までの摂理の歴史であることを皆さんは知るべきです。
神のこの決心を人間を代行する救世主が地上に現して、すべての悪の勢力と対抗し、彼らを撃退しなければなりません。そのような使命を遂行する代表的な人物がこの地上に現れなければ、神の意志は成就されないのです。そして、神の決心と人間の希望の基準がある一日につながらなければなりません。
神が目指すその意志を人間に代わってこの地上で成し遂げるための中心存在として送られたのがイエス・キリストです。神は4000年間苦労され、あらゆる困難な環境で戦いの道を歩まれました。そのような道を歩まれた方が、私たちが救世主と信じているイエス様なのです。人間の祖先アダムとエバの堕落によって成し遂げられなかった神の創造の決心を復帰するために、イエス様は来られました。言い換えれば、神がこの俗世の人間世界に第二のアダムとして立て、神の決心を全宇宙の前に示すために、イエス様をこの地上に送られたのです。
そのために、イエス様は「私は神と一体である」と主張されました。神とイエス様は二つではなく一つだということです。ここに、神が喜ばれる条件が整えられたことを皆さんは知るべきです。また、イエス様は「神は私の父である。これを反対し妨げたとしても、私が感じ決心しているこの内容は誰にも奪うことはできない」とおっしゃるほどの自負心を持っておられました。つまり、イエスは命の損失を覚悟してこれを果敢に公表されたのです。
神の決心を今日信じている多くの信者に示すことが、イエス様が2000年間苦労された目的でした。神はイエス様を送るために6000年間の長い年月を休むことなく努力してこられたことを、今日この地上にいる私たちは知らなければなりません。
今、皆さんが天に向かって立ち上がったというならば、神の御心を代行して決心して立ち上がったキリストの姿を自分自身の姿として感じたことがあるかどうかを天は問いかけるでしょう。
イエス様はこの地に来られ、30余年の間、言葉では言い尽くせない苦難の人生を送り、最後には十字架の道を行くという悲運の生涯を送りました。しかし、その中でも自身が持っていた中心だけは、何者にも決して壊されることのない確固たるものでした。そのためにイエス様は天に対する決心を、今日私たちの心の中にまで植え付けているのです。たとえ死が訪れようとも、従っていた弟子たちが裏切ろうとも、選ばれた民族が裏切り、教会が裏切ろうとも、イエス様は創世前から父が持っていた決心の内容を知っていたため、変わらない立場を守り続けたのです。 そのような決心の主人公が地上の人間の前に何を成し遂げるために来たのでしょうか?それは、自分が抱いている神の創世前の決心を愛する弟子たちに引き継ぐためでした。しかし、歴史の過程に現れた多くの聖徒の中で、イエスが持っていた決心を抱き、神の御心を成し遂げるために戦った人は何人いたでしょうか?これを考えるとき、神の悲しみは不信者にあるのではありません。イエスの名を頼って信じるという聖徒たちにあるのです。天に代わる確固たる決心のない聖徒たちを見て、神は悲しまれていることを私たちは悟らなければなりません。
イエス様はこの地上で自分の決心を理解してくれる一人の相手を見つけることができなかったため、御心を完全に成し遂げることなく帰られました。この世にイエス様を代行し、神を代行する決心を持つ人がいたならば、神はその心情を通して直接的な権限を行使し、統一の炎を灯すことができたはずでした。しかし、そのような決心の所有者がいなかったため、神の御心は成し遂げられませんでした。
そのため、イエス様には復活後にこの地に再び来られた目的を代行できる決心の主人公を地上に再び立てる責任が残されていました。そこで、自分の使命を引き継がせた一人を送りました。その方が誰かというと、人間の前に現れた聖霊であることを皆さんは知るべきです。
それでは、天の決心とイエスの決心は誰によって実を結ぶのでしょうか?神は聖霊を通じて、ご自身の決心を人間の前に再び示します。これを意志の主人公に伝え、その主人公は花嫁に伝えることで、その基盤の上にその意志の主人公がこの地に現れ、一つの家庭として移し、家庭を中心とした親族、親族を中心とした民族、民族を中心とした国家、国家を中心とした世界にまで広げなければならないのが神の意志です。これを今日の人類は知らないのです。今日の信者たちでさえもこれを知らないのです。
皆さんはイエスを信じ、聖霊に頼って神の前に行けると自信を持って言えますか?どんな苦難や犠牲があっても、またどんな誘惑があっても、それを打ち破り、押しのけることができる神の心情を代行する決心と、イエスと聖霊を代行できる決心を持っていますか?この質問に「私はイエスを代行する心情と決心を持っている」と自信を持って答えられないなら、イエスを裏切り、イエスを売ったイスラエル民族よりもさらに厳しい裁きを免れないでしょう。
なぜなら、イエスの意志を支えられなかった民族がいたために聖霊を苦労させ、その聖霊の意志を支えられなかった第二のイスラエル型の今日のキリスト教信者たちは、多くの使徒たちを苦労させたからです。そして、使徒だけでなく、私たちの多くの先祖たちをも苦労させたのです。このように苦労をかけている今日の私たちが、イエスが持っていた心情と決心を持たなければ、神の前に顔向けできず、イエスと聖霊の前にも顔向けできません。それだけでなく、これまで多くの犠牲の祭壇を築いてきた聖徒たちの前にも顔向けできないのです。今後、責任を果たせなかった人々が自らを嘆く時が来ることを知らなければなりません。
天は今日の終末において私たちに要求しています。イエスと聖霊も私たちに訴えています。父の実体となり、父の決心を持った者となってこれを蹂躙するサタンを打ち倒す勝利の主人公となることを、神はこの時間も切に望んでいることを、皆さんの骨と肉にしみるほどに体感しなければなりません。そして、「天が持つ決心を私に継承してください、血の祭壇の過程を経ても耐えてきた使徒の決心を私にください」と言える資格を持たなければなりません。そうでなくして天国に行こうとすることは間違いであることを再認識しなければならない時が来ました。
現在のキリスト教を覚醒させる責任は私たちにあります。神の決心とイエスと聖霊の決心と私が一つの実体となって現れるならば、歴史を支配する権限を行使できるようになるのです。
先ほど読んだ聖書の言葉には、ソドムとゴモラに対する神の悲痛な心情が表れています。神がその都市を裁こうとされたとき、愛するアブラハムの甥であるロトがいました。神はロトに裁きを免れさせてくださいました。ロトが優れていたためにソドムとゴモラの裁きを逃れたのではありません。神はアブラハムを愛していたので、何の功績もない甥にまで裁きを免れることを許されたのです。しかし、ロトの家族全体が神の心情を理解していたかというと、そうではありませんでした。
ロトとその二人の娘は神が逃れなさいと言った場所に逃れましたが、ロトの妻は神の意志が何かを理解していませんでした。彼女は天の意志に対する決心や意志に対する心配、天に対する恐れよりも、自分たちが住んでいた家やその環境を恋しがって振り返ったため、ソドムとゴモラよりも先に神の罰を受けざるを得なくなったのです。
人間には必ず歩まなければならない道があります。それは、天倫の意志に従って、どんな困難にも立ち向かって歩まなければならない道です。これが堕落した人間が歩むべき運命の道なのです。ロトの妻も自分に属するすべてを顧みずに進む決心を持っていなかったために死んでしまったのです。神の命令に従って進んだ夫を神の代理者として信じ、夫が言う通りにしていたならば、彼女は決して死ぬことはなかったでしょう。
神が摂理の歴史を経てこられる過程においても、神は御自身の心情を代行する人を立て、その人を信じられないならば、その人の言葉を聞いてでも決心できるようにされています。しかし、それさえもできない人は裁きを免れることはできないでしょう。
私たち自身を振り返ると、堕落した種族であるために経験する悲しみがあります。大きな神の意志に対して最善を尽くしたいという気持ちや、自分の心と体を捧げて新たな決心をし、行動に移したいという思いは密かに感じているものの、その決心を実行できない理由は、私たちが堕落の種族であるためです。
アダムとエバは、彼らを創造してくださった神の「食べてはならない」という言葉を心の奥深くに抱き、その言葉と自分たちは切っても切れない一つの結合体であると考え、変わらない決心を持ってすべての万物を主観しなければならないという責任を実感していたならば、堕落しなかったでしょう。
アダムとエバが堕落したのは、エバがアダムと一つになれなかったからであり、またアダムが神と一つになれなかったからです。そのため、各々は分裂し、自分勝手な環境で好き勝手に行動するようになり、創造の理想の園を台無しにしてしまったのです。終末においても、神を中心とした決心を立てずに自由主義を叫び続けると、自由陣営も崩壊してしまいます。天地の理がそうなっているのです。
神に代わらなければならなかったアダムが、誰が意志を裏切るように誘惑したとしても、自分は絶対にその意志を裏切らないという決心を持ち、エバを主観し、天使を主観できていたならば、堕落することはなかったでしょう。まず堕落したエバがどんなにアダムを欺こうとしても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなければ、アダムは堕落しなかったでしょう。もしアダムが堕落しなかったならば、エバはいくらでも再創造することができたのです。
神を裏切ったために天倫から遠ざかり、許された言葉と意志を自分の心の中心に据えることができなかったため、アダムはアダムのまま、エバはエバのまま、天使長は天使長のまま分かれてしまいました。このような種族となった私たちは、今日信じたことを明日には信じられず、この時代に信じたことを次の世代では信じられず、次の世代に信じられることは、その次の終末には信じられない環境に置かれています。
それでは、神の心配とは何でしょうか?天の悲しみとは何でしょうか?「私が6000年間の厳しい逆境と苦難の過程を経て、苦労してようやくあなた一人を見つけて会えたのだから、安息できるだろう」とエデンの園で天使長に語りかけることができなかったその内容を、信じて安心できる場所で語りかけ、御心を打ち明けることができる一人の人がいないことが、神の悲しみであることを知るべきです。
私たちは父を探し、信仰生活をしていますが、神が安息できる環境を提供できていません。このような立場にある私たちは、進むにつれて心の焦りを避けることができず、どれほど優れていると誇っていても、終末が近づくにつれて心の不安を免れることはできません。結果として、個人的にも社会的にも国家的にも、そして世界的にも困難な立場に置かれるのです。
それでは、終末の時代に迫り来るこの恐怖と不安を打ち破ることができる人はどこにいるのでしょうか。人間に代わって断言せず、天倫に代わって断言できる決心の主人公はどこにいるのでしょうか。天はそのような人を探していることを知るべきです。
神がアダムの家庭を失ったことで、アダムと通じることができる創造本来の家庭を失い、同時にアダムと通じることができる親族とアダムの血族を代行することができる民族と、アダムを中心とした国民と、アダムを中心とした天国の民をすべて失いました。しかし、神はこの失ったすべてを再び取り戻そうとしておられるのです。
神はこの民族全体を探し、世界までも探すために、まず一個人から始めて家庭や社会を探し立てようとしておられます。それを基盤にして、民族型から世界型へと進み、この世界全体を取り戻すために神は摂理を進めておられます。
神は一方では戦い、他方では犠牲を払いながら、歴史の過程を通じてこれを探し求めてこられました。その裏では、個人的な形態を備え、アダムに代わる家庭・親戚・民族・国家・世界をこの地上に建設しようとしておられます。
したがって、アダムの家庭を失ったこの一つの事実が、アダム一身だけの悲しみではなく、アダムの血統を通じて千秋万代の全人類にまで及ぶ悲しみであることを、皆さんは生活の中で痛感しているでしょう。この状態で安逸を求め、安楽を享受しようとする人々もいますが、この安逸と安楽な生活が続くことはないことを知っておくべきです。私たちは恐怖の関門を前にして、これを乗り越えなければならない立場にいることを認識すべきです。このような時期をいわゆる「審判の日」と呼ぶのです。
神はこの恐怖を取り除くために選ばれた一人を立て、その人を中心とした民族を築き、その民族を再び世界の先頭に立てるために、今日まで苦しみながら摂理を行っておられることを知っておくべきです。
これから天国を建設できる民族は大きな民族ではありません。今日、世界を支配している民族でもありません。天国の主権を回復し、第二の天国を建設するべき民族は大きな民族ではありません。神は何の前触れもなく、ひそかに天国を建設する作業を進めておられます。
そのため、神の意志に背く人々は豊かに生活し、神の意志に従う人々は貧しく暮らすという逆の現象が起こり、人類の闘争の歴史は今日まで続いているのです。なぜなら、人間が神に対する心情を失ったため、再び神が信じることのできる立場に戻るためには、そのような過程を経なければならないからです。そうであれば、神が6000年の間に苦労されたその苦難が一度に私に降りかかってきたとしても、それを乗り越えられる自分でなければなりません。命を失うとしても、それに屈しない決心の主人公となり、天が代表として立てることができる一存在とならなければならないのです。
神はそのような世界的な代表としてイエスを送り、そのような人を立てるために多くの先祖たちは苦難の道を歩みました。アダムが失った家庭を取り戻すために、アダムに代わって不信の心を持っていたその種族と民族を突き放し、天に対して信仰の決心を持った一人の人が選ばれました。その人がノアです。
ノアは120年間、天が引き続けても変わらない決心を持っていました。これがアダムよりも優れているということです。アダムは未成年のときに堕落しました。アダムが神を裏切ったために、神が再び信じることができるようにするためには、アダム以上の苦労をしなければならず、何百倍の苦労をしても、それを突き抜けて進むことができなければなりません。
アは自分自身、自分の家族、自分の親族、自分の民族、さらには自分と関わるいかなる世界のすべてが反対しても気にせず、一瞬の決心を最後まで守り続けて、父を支えながら120年の生涯期間を戦い抜いたことが、神に代わってその当時の人類の前に立つことができる条件となったのです。
洪水の裁きを免れて神の恩恵のもとにあったノアにとって何よりも重要だったのは、神の心を持っていたそのノアの心を引き継ぐことができる人がいることでした。しかし、ノア自身もこの事実を知っていなかったのです。
ノアが120年間苦労し、その悲しくも無念な道を歩みながら天倫を心配していたその心を代わって、ノアの手を取り「父よ、何でも私に命じてください」と言える一人の息子がいなかったのです。そのため、120年の苦労で築いた祭壇は崩れ去ってしまいました。
神に対して誠心を尽くそうと決心したノアであることを、ノアの八人の家族が知っていたならば、生死を共にする覚悟で絶対服従し、父が死ぬなら自分も死に、父が喜ぶなら自分も喜ぶという立場に立たなければなりませんでした。そうであれば、他の些細な内的条件が崩れたとしても、神を中心に心情を結束すれば何の問題もなかったのです。ハムは父であるノアの言葉を聞くべきでした。兄弟が何を言おうと、父の意志に合わないならば聞くべきではありませんでした。彼が聞くべき言葉を聞かず、聞くべきではない言葉を聞いたために、ノアの120年の苦労は無駄になってしまったのです。
アブラハムも同様でした。アブラハムが故郷と自分の所有物をすべて捨てて、カルデアのウルの荒れた荒野に向かって旅立つことも簡単なことではありませんでした。神の意志を知った後、アブラハムは誰にも知られずに決心を抱き、慣れ親しんだ故郷と親族をすべて捨ててカナンの地を目指しました。
その後、アブラハムが故郷を捨てて神の意志だけを心配していたその心を最後まで捨てず、全力を尽くして祭壇を守っていたならば、失敗はなかったでしょう。供物を捧げながら、自分が大変な立場にあることを知り、持っている信仰のすべてと全ての力を注いで神と一体となる決心を持って進まなければなりませんでした。そして、自分は小さな供物であるが、自分の理念を立て、全体の天倫の意志を代行する立場で神に対して誠実な心で供物を捧げていたならば、失敗はなかったでしょう。
供物で失敗したアブラハムが再び神の意志を引き継ぐためには、供物の代わりにイサクを捧げる必要がありました。つまり、アブラハムの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければならなかったのです。同様に、ノアの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければなりませんでした。そこで、アブラハムは自分の心と息子の心が一つに結実する立場を探し始めました。
こうしてイサクをモリヤ山の祭壇に捧げようとし、刀で刺そうとする場面で、天から死に代わる供え物とすることが認められました。イサクも父に従い、アブラハムも神に従うことで、彼らは天倫の目指す方向へ進むことができました。その後、イサクを経てヤコブの時代に至り、ヤコブを中心にアダムの家庭とノアの家庭に代わる基準を見つけて確立することができました。こうして、三世代の親族形態を持つ70人がカナンの地を離れ、エジプトに入ることができたのです。
つまり、息子を経て孫までの三世代の親族的形態を地上に築くことで、彼らはサタンの世界に送り込まれ、エジプトに入ることができたのです。しかし、このように個人から家庭、そして親族的な環境を整えた後でも、彼らは平坦な道を歩んだわけではありません。親族的な70門徒を代表する彼らは、さらに民族を形成するための民族的な戦いを展開し、神を中心とした民族を形成するための試練の舞台に立たされました。これがまさに宮中での400年間の苦役期間であることは皆さんもご存知でしょう。
この苦役期間に選ばれたイスラエル民族は、昔の祖先たちが神を恨み、神の意志を裏切ったことを悔い、再び神を慕う心を取り戻さなければなりませんでした。その心が強ければ強いほど、イスラエルの民は過酷なエジプトの苦役に打ち勝ち、団結して60万人全員を率いてカナンの福地に入る道が容易に開けたのです。
そのため、エジプトで苦難に直面しているイスラエル民族を導くために、モーセもまた、エジプトの宮中で40年間、誰にも知られることのない心の悩みを抱えながら、民族を愛する精神に燃えていました。しかし、エジプト人を打ち殺したことが、彼が荒野で孤独な羊飼いの生活を送るきっかけとなりました。そのような立場に置かれたモーセは、エジプトの宮中での豪華なすべての栄光を捨て、むしろミディアンの地での苦役生活が待ち受けていたとしても、変わらぬ心を抱き、自分自身を愛するよりも神の意志を心配する決心を持つようになりました。
荒野の激しい風雨にさらされる悲しみを味わったとしても、それをすべて乗り越え、民族から追われることがあっても神を信じ続けたモーセの変わらぬ決心があったからこそ、民族が困難な状況に置かれ、モーセがそのような苦難の環境に入っても、民族が団結することができたのです。そして、神はモーセを立てて摂理を進めることができたのです。
ある民族を再び選ばれた国家として立てるためには、世界的な試練の前にその民族を追い込み、攻撃戦を展開させることが神の摂理の一つの方法です。したがって、神を中心とした一つの国家建設のために来られるメシアは、選ばれたイスラエル民族の前で反対されるのです。これは復帰の過程であるからです。
アダムの家庭において、エバはアダムに従うべきだったのにアダムを打ち、ノアの家庭においてはノアの息子がノアを打ち、イスラエル民族の60万人がモーセに従うべきだったのに、モーセをミディアンの荒野に追い出しました。このような歴史の過程を経てきたために、イエスが主人公として来られるとき、選ばれた民はイエスの前で花嫁のような存在でしたが、むしろ彼らがイエスを反論しました。
天倫の法則を知っているイエスは、イスラエル民族に追われ、ユダヤ教団からも追われました。自分の種族の前でも追われ、天に選ばれた洗礼者ヨハネ一派にも追われ、従っていた使徒たちからも追われました。天と地を差し出しても代えられない三人の弟子たちからも追われました。しかし、彼らを捕らえて天の前に引き寄せなければならなかったイエスの事情を誰が理解したでしょうか。アダムがイエスと同じ立場に置かれ、エバの様々な邪悪な策略や誘惑があったとしても、それを打ち破らなければならない立場にあったのと同様に、イエスも民族を取り戻すべき立場にありました。モーセがイスラエル民族の前で追われ、荒野で悲惨な生活を送ったのと同様に、イエスが民族の前で追われれば、世界の前でも追われる立場に置かれることを知っておかなければなりません。
もしこのように「民族が裏切り、教団が裏切っても、私が持っている父に対する一途な心を誰が奪えるだろうか。私の決心の前には、天が立てた洗礼者ヨハネが裏切っても問題ではないし、私に従っている弟子が裏切っても問題ではない。さらに、自分の体が問題ではない」という決心があったために、悲しいことがあっても悲しむことはできず、悲しみの場にあっても悲しみの表情を見せることができなかった復帰の運命を背負ったイエスの心情を、今日の私たちは理解しなければなりません。
天に対する一つの決心を持ち、供え物として全宇宙の前に立って人間が反論しても崩れず、霊界にいる千万の聖徒と今日の空中の権力を持つサタンが総動員されても奪い取ることができないこのような決心があったために、ここから歴史的な転換点が生じました。
このようにして、霊と肉を合わせた実体的な勝利の基盤が世界的に広がる必要があるのです。復活したイエスを中心に第二の決心を弟子たちに授け、霊的なカナン復帰の理念を築き上げてきたことを皆さんは知っておくべきです。
イエスは世界の人類のためにこの地に来られました。世界の人々はイエスの前では子供の立場、つまり相対的な立場にあります。エバがアダムを支配し、イスラエル民族がモーセを追放し、供え物がアブラハムを非難し、ノアの息子がノアを追い出したのと同様に、世界のキリスト教は行く先々で世界中で迫害される悲惨な道を免れることはできません。
今日、世界中に散らばっている第二イスラエルの祝福がイスラエルを中心に成就しなかったため、第二イスラエルとして選ばれたキリスト教徒を立てて、その恨みを晴らし、天と地を復帰させようとしているのです。神は宇宙復帰の意志を成し遂げるために、一つの中心人物、一つの中心民族、一つの中心国家を探していることを皆さんは知るべきです。
なぜなら、6000年間の苦労の末、神の意志に従ってきたものの、イエスが死んだために、ノアもアブラハムもヤコブもモーセも失敗したことになるからです。イエスが亡くなったことにより、救済の摂理は完成しませんでした。そのため、今日パラダイスにいる霊人たちは、失われた第一イスラエルを回復しようとしたイエスの意志のための基盤を築き、さらに回復の意志を霊的に成し遂げた霊人たちなのです。本来、選ばれたイスラエル民族は第一イスラエルであるべきでしたが、第一イスラエルが崩壊したために、第二イスラエルは霊的復帰の過程にとどまっています。
イエスを失ったことで生じた神の恨みは、今日の第二イスラエルに属する霊界の霊人たちによって晴らされるのです。神が選ばれた第一イスラエルをイエスが成し遂げることで、神に抱かれた恨みの心情を解消することができるのです。したがって、今や第二イスラエルと霊界の霊人たちを動員し、第二イスラエル回復運動を加速させる時が終末であることを知るべきです。
それでは、今日世界中に散らばっているキリスト教徒たちはどのような時代に置かれているのでしょうか?彼らはモーセの荒野での40年の道のりに匹敵する時代に置かれています。モーセがシナイ山に上り、石版を受け取るために祈っていた期間に相当し、イエスが昇天した後の2000年の歴史過程は、モーセの40日間の断食期間および40年の荒野期間に匹敵します。また、モーセが消えたことを見てイスラエル民族が不安を感じていた状況に匹敵します。
このキリスト教は再び現れるモーセを迎えて何をすべきでしょうか?荒野のイスラエル民族は旧約の言葉、モーセの十戒を受け入れるべきでしたが、受け入れられず、歓喜の心情を持つことができませんでした。モーセにとっては、民族がモーセの裏切り者になりましたが、私たちは天が望む道を見つけなければなりません。そうして第三イスラエルの立場を見つけ、勝利して世界カナン復帰の理念を成し遂げなければなりません。そのためには、新しい言葉を受け入れる覚悟を持たなければなりません。
モーセの決心が60万人の民の決心となるべきです。今日、世界に散らばる第二イスラエルの祝福を受けるべきこの民族や世界の人々、クリスチャンたちは、イエスの決心を引き継ぐことができていないため、モーセの時代に荒野でサタンがイスラエルの60万人の民を翻弄したのと同じように、今この時代も同じような状況にあるのです。
この状況を見てみると、今日、私たちの身体に血が巡り、心に何かを感じている皆さんは、全力を尽くして進まなければなりません。イスラエルの民がモーセに会う前には、食べることも、着ることも、眠ることも忘れるべきでしたが、それができなかったためにイスラエルはモーセを失い、すべての意志が崩れ去ったことを忘れてはなりません。
同様に、イエス以降の2000年間は荒野の時代です。イエスを失ったキリスト教信者たちは、食べることも、着ることも、苦しみも怒りも耐え忍び、歯を食いしばってイエスに会うまで、かつてのモーセの足跡を守り抜けなかったことを逆に償い、イエスの足跡を守り抜くイスラエルにならなければなりません。しかし、今日のキリスト教信者たちは、自分たちにこのような使命が課せられていることを知りません。
今や時が近づいているので、この時を準備する過程において、選ばれた民族が異邦の国々に渡されることになります。皆さんが学んで知っているように、イスラエルの民がメシアの降臨準備時代に備えるために、イエスが来る6世紀前にバビロン捕囚時代があったのです。イエスの再臨の6世紀前から、文芸復興運動を中心にキリスト教を破壊する世界的な攻勢が始まっています。この戦いの道を今日の世界のキリスト教信者たちはどう対処すべきでしょうか?これを阻止する責任を全うするために、まず私たちが目覚める必要があります。
14世紀から16世紀にかけて文芸復興運動が起こったのは、人々が古代ギリシャの文明を研究し、新たな復帰の理念を持とうとしたからです。このように革新的な文化が一面に現れたように、今日の終末を迎えた信徒たちも歴史を回顧し、2000年前のイエスの心情を感じ取ることができなければなりません。また、堕落前のアダムとエバ、そして神の心情を感じ取り、心を革新しなければならない時が来たのです。
天の意志に向かおうとする直前のアダムとエバに天使長の攻撃があったように、ノアにも、モーセにも、イエスにも、意志が現れる終末の信徒たちにもこのような攻撃が現れます。これはサタンの攻撃です。まず物質的な攻撃があり、その次に情的な攻撃の時代が来るのです。このような時代の兆候が今日、私たちの前に展開しています。このようなキリスト教の歴史がどの国、どの民族を通じて進展するとき、その道は公式な原理原則として成り立つのです。
世界がキリスト教を外面的に反発する時代になりました。この時代には、昔イスラエル民族に反対したエジプト民族のような形が現れ、第二イスラエル民族の前にモーセのような人物が現れると、民族が団結して彼を追い出す現象が起こるのです。
では、終末時代の信仰者たちはどうなるのでしょうか?私たちの周囲ではエジプトの地で起こったようなことが起こるでしょう。今日私たちが生きている現実は、エジプトでの苦役時代を彷彿とさせる状態です。それだけでなく、思想的にも実際的にも、あるいは信仰的にも、あらゆる面で侵害を受けざるを得ない状態になりつつあります。
かつて選ばれた選民の自尊心を持って、自分たちだけで結束し、外部からの悲しみを追い払うためのイスラエルの団結運動があったように、今日のキリスト教徒にもこのような運動が必要です。教派に依存する者や自分の教会の伝統を誇る者は、イスカリオテのユダの一派になるでしょう。モーセの命に従ってカナンの地を偵察し帰ってきた12部族の中で、ヨシュアとカレブに反対した10部族が現れたように、今日同じようなことが起こらないとは誰が保証できるでしょうか。このような時が私たちの目の前に迫っていることを知るべきです。
私たちは今、自分のすべてを忘れて進まなければなりません。また、ソドムとゴモラが受けたような裁きを逃れるためには、ロトの家族が歩んだ足跡を手本にしなければなりません。ヤコブがハランの地からカナンの地に戻るときにすべてを捨てて進んだように、私たちの足跡もヤコブのようでなければなりません。また、イスラエル民族がエジプトの地を去るときにすべての未練を振り払ったように、私たちもそうしなければならず、イエスがすべてを捨てて十字架の道を一人で越えたように、私たちもそのような決意を持って進まなければなりません。
このような覚悟と決意をすべての万物万象の前に立てる資格を持つ者がいるでしょうか。天はそのような資格を持つ者を探していることを知るべきです。今日世界に広がる新教が旧教に迫害を受ける過程は、悲しいモーセの過程を繰り返すような現象です。
今、この荒野のような世界を開拓する新しい使命者が現れる必要があります。今日のキリスト教に満足していてはなりません。イスラエル民族が荒野の生活でモーセを守ることができなかったように、新教の出現時にも同じことが起こりました。新教が出てきましたが、荒野の生活の中で認められなかったのはモーセの事情と同じでした。終末でもそのような形で神の意志が進展することを知るべきです。
モーセとイエスは人間的に見ると哀れな人々です。モーセとイエスのことを考えるとき、皆さんは彼らの血と肉が通じ合うような感覚がありますか?もし皆さんの心にモーセとイエスが行き場を失い、困難の中を歩んでいたことを考えることさえないとすれば、モーセの40日間のシナイ山での断食祈祷の際に流した悲しみの涙を無駄にした天倫の裏切り者と同じであり、荒野で倒れたイスラエル民族と同じであることを知るべきです。
イエスの悲しみの心情を私たちが感じ取り、第一イスラエルと第二イスラエルが成し遂げられなかったことを完成しなければなりません。このようなことを成し遂げるために来られたイエスの悲しみの心情と足跡を、皆さんは知っていますか?今日、神が私たちを立てて望んでおられることは何ですか?
宇宙的な理念の目的を達成するために、「霊界の霊人たちよ!私はあなたたちの願いを叶える。地上にいる全ての人間たちよ!私はあなたたちの犠牲となる。空中の権威を持つサタンたちよ!私はあなたたちを捕らえて天の裁きの場に連れて行き、告発する。」という決意を持ち、時代が変わろうと、世界が変わろうと、人の主張が全て変わろうと、私は変わらないというイエスの節操と忠誠を、今日の皆さんが持たなければならないのです。このように時間を超え、生涯の理念を超えて天倫の理念に通じる心の覚悟と決意の基盤がなければ、神の前で無条件に服従しなければなりません。そうでなければ、審判を免れることはできません。
シナイ山に登るモーセの前でイスラエル民族が無条件に服従していたならば、彼らは乳と蜜が流れるカナンの地に入ることができたでしょう。また、イエスの時代にも同じであり、今日の終末でも同じです。皆さんの前には、生涯全体の価値を決定するべき時が訪れているのです。私たちが死んでからも神の目的だけを責任を持って果たす心で、神を代わって立ち上がることを、父なる神も、イエスと聖霊も、そして私たちの先祖たちも望んでいることを、皆さんは骨身にしみて感じなければなりません。
このような事実を前にして自分自身を振り返ると、私を中心とした自分の身体が敵であり、私を中心とした自分の家族が敵です。ノアにとっては家族が敵であり、ヤコブの家族にとっては氏族が敵であり、その次に国家形態においては世界が敵でした。神はこのような歴史の道を歩んできましたし、今でも数多くの困難を乗り越え、ある中心人物が倒れたら他の人を立てて再び挑戦しなければならない状況にあります。皆さんはこのような神の名誉と威信を立てられる人にならなければなりません。
どんな個人の力だけでは神の目的を成し遂げることはできません。神は世界に分散して一つの民族形態を見つけ出す包囲作戦を進めています。それゆえ、個人から家族、そして氏族、民族を見つけ出し、神を中心とした国家形態を整える時が来たのです。
したがって、今日の全世界のキリスト教が12部族を再建すべき時期が到来しています。荒野に散らばっていたイスラエルの民に隊列があったのと同様に、世界のキリスト教徒たちも隊列を編成し、サタンに対する攻撃を展開する時代が来ています。このことを知らないキリスト教徒たちは、荒野のイスラエル民族がモーセの導く方向を知らなかったのと同じ立場にあることを理解すべきです。
今や私たちは手を取り合って進む共同運命にあります。12使徒の中でイエスを裏切ったイスカリオテのユダ一人のために、12使徒は崩壊し、イエスを殺すという運命に陥りました。それゆえ、私たちの教会の仲間たちは、「あなたの決意が私の決意であり、あなたの心が私の心である」と言いながら、意志のために一つとなる隊列を整える必要があります。そして、紅海を渡り、荒野を通り、ヨルダン川を渡り、カナンの七部族を打ち破るための戦いの場が私たちに残っていることを知らねばなりません。
したがって、今や私たちは歴史的な使命を帯び、それを償い復帰していかなければなりません。これまでの祭壇では神が「捧げよ」と言いましたが、これからは神に「受け入れてください」と言える供え物が必要です。
天倫の決意が内的および外的な決意の実体として現れ、この決意を中心に家庭と戦い、家庭を復帰し、教会を覚醒させ、国家と民族を覚醒させて復帰しなければなりません。この状況において、私たちが住んでいる家庭、社会、国家、教会が、そして私たちが望みを抱いている世界が私たちを敵視することは避けられません。
今日、皆さん自身が家庭や社会で迫害を受けています。しかし、その迫害に勝ったからといって喜ばないでください。その後、荒野の時代にさまざまな困難に巻き込まれ、攻撃が始まる時、その戦いの場で皆さんが倒れてはならないのです。天倫の運命は一度受けて乗り越えなければならない時期にあり、世界的な復帰過程でキリスト教を攻撃することになるのです。外的にも内的にも攻撃する時が来るのです。第二イスラエルを動員する時代が来るので、霊界が動員されています。天にある霊界が動員され、世界的な第二イスラエルを世界中に広げ、第三イスラエル民族を建設しているのです。
では、イスラエル民族が荒野でさまよい、他人が知らず、他国の者が知り得ず、誰も想像しなかった生命の糧を食べたように、今日の皆さんもこの時代に天から降るマナとウズラの糧を食べることができる人になるべきです。これからは乾燥の時が訪れるので、マナとウズラを求めてさまよう時が来るのです。
今や復帰の園を建設しなければならない時が来ています。どんなに苦しみ、自分の体が裂かれ、骨が粉々になろうとも、天倫のこの一つの目的のために、「父よ!霊界にいる数え切れない聖徒たちよ!歴史を作り上げてください。」と言えるようでなければなりません。イスラエル民族は霊界を動員することができませんでしたが、私たちは霊界を動員しなければならない時が来ました。ですから、皆さんには霊界の協力があります。私たちの仲間が霊界の霊人を呼ぶと、霊人たちはやって来ます。だから今日、霊的な奇跡が多く起こっているのです。
私たちは、自分自身を立て、自分の家族や民族、世界を動員しなければならない使命を持っています。また、サタンを父の前に屈服させなければならない最後の使命を担っていることを知るべきです。私たちは、自分自身に対する試練、家庭に対する試練、教会に対する試練、社会に対する試練をいつ乗り越えるのでしょうか。このような試練を乗り越える決意を持つことが、天の使命を完遂するために必要なのです。
神がヨシュアとカレブに「強くあれ、勇敢であれ」と言ったように、今や私たちにも「強くあれ、勇敢であれ」と言われる時が来ました。皆さんは手に手を取り合い、心に心を合わせてサタンと戦い、勝利をつかみ取るべき時が来ていることを心に留め、強くあれ、勇敢であれということを忘れてはなりません。
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1958年2月23日(日)、前本部教会
聖書拝読:創世記 19:18-29 コリントの信徒への手紙一 9:23-27
<祈り>
お父様が望まれる勝利の日がまだ現れていないことを私たちは知っています。最終の勝利のために、今日この時までお父様が血を流しながら戦いの道を歩んでこられたことを思うと、私たちは身の置き所がありません。
私たちは真理で武装し、お父様の御心を支えなければならないことを知っており、お父様が望まれる善の意志を広げるためには、自分のすべてを捧げて戦わなければならないことを知っています。どうか私たちの心と体が動員されるよう許してください。そして、この地に広がっている信徒たちと天の天軍天使たちが動員されるよう許してください。そうして、お父様に栄光を捧げることができる日が早く訪れるよう許してください。お父様、切に願い求めます。
この一日を求めるために、私たちの先祖たちは歴史の過程を経て、疲れ果て、苦しみながらも、主の時を切に待ち望んできました。しかし、私たち人間のためにいまだ成し遂げられていない悲しみが地と天に染みついていることを知っています。
不足な私たち、取るに足らない私たち、無能力な私たちをお父様が呼んでくださり、希望されたその栄光の日を求めるために血を流す苦難があったことを私たちに悟らせてくださり、御心のために心と体をすべて捧げて戦う覚悟と決心を与えてくださったお父様の恩寵に感謝いたします。
お父様、この時間、私たちの心を再び聖別し、私たちを供え物として受け入れてください。サタンの讒訴の条件を完全に分離し、お父様だけが取り、お父様だけが誇ることのできる息子娘となるよう許してください。切に願い求めます。
今、望む御心に対して私たちが心と体で忠誠を尽くし、この時間、新たな恩寵を感じることができるよう許してください。そして、心と体に溢れ流れるお父様の栄光の恩寵を体験できるように導いてください。お父様、歴史を動かしてください。
今、お父様の御言を伝えようとしていますので、共にいてくださり、伝える者の心も受け取る者の心も二つにならないように許してください。そして、天の心情と通じ合うこの一時間となるよう、切に願い求めます。
今まで私たちが生活してきた内容と責任を果たせなかったことをお父様の前に差し出し、伏して許してください。矛盾した人間の矛盾した知識が、お父様の真理に代わることができないことを認めるならば、自分のすべてをお父様の前に差し出し、自らお父様の恩寵に浸ることを許してください。切に願い求めます。
サタンが一切隙間に入らないこの時間となるようにしてください。そして、許された恩寵に接することができる貴い時間となるよう許してください。切に願い求め、主の名前でお祈りいたします。アーメン。
<御言>
『天を迎える決心を失わない』という題でお話しします。
今日集まっている皆さんの中には、心の中に何らかの決心を持っている方もいるでしょう。また、人前で自信を持って「私の決心は正しい」と主張できる人もいるかもしれません。
しかし今、皆さんは自分の決心が誰のための決心であるかを考えなければなりません。つまり、皆さんが持っている決心が自分だけのための決心なのか、皆さんと民族、あるいは世界、さらには神様のための決心なのかを考えなければならないのです。
何よりも、自分が抱く決心が天のためのものであるかどうかを考えるべき時期が皆さんの前に来ているという事実を忘れてはなりません。
今日の人々が持っている決心は千差万別です。甲が持つ決心と乙が持つ決心は違い、男性が持つ決心と女性が持つ決心も異なります。また、この民族とあの民族が違うように、それぞれが異なる決心を持っています。
それでは、各々が主張し、各々が持っている決心が最終的にどのような目的を達成するためのものなのか。自分を立てて冷静に問い直すと、自暴自棄にならざるを得ない立場にあることを認識するでしょう。
終末に直面している今日の私たち、あるいは地上に生きる人類は、自分が持っている決心が民族を動かす決心なのか、世界を動かす決心なのか、さらには天上にいる千千万の聖徒たちを動かす決心なのか、さらには神様をも動かす決心なのかと問うとき、そうではないと告白するしかないでしょう。
そのような私、そのような私たちに天の望みがあるならば、私たちが心の中に何を抱き、何を望み進んでいくべきかという問題を何よりも重要視することを望みます。
これまでの歴史の過程で多くの人々がある主義を持ち、それを主張してきましたが、その主張が今日の私たちの心を動かす要素を持っていないとすれば、その主張、つまり歴史の過程で多くの聖賢たちが主張してきた主義は私たちとは何の関係もないものとなるのです。
それでは、これまでの人類の歴史は何を立てるために発展してきたのでしょうか。それは人類の幸福のため、あるいは人類の永遠の理念を立てるために発展してきたと、天があることを知っているならば否定できません。天がある限り、人間に幸福の園がどのようなものであるかを紹介し、人間が永遠の喜びの園を建設するようにさせるべきです。その責任を果たすために今日まで歴史の過程を摂理してきた神であるならば、歴史の終末段階にいる私たちとは切っても切れない関係を持っているのです。
したがって、天が動けば自分も動き、天が止まれば自分も止まるという基準を心の根底に持たない人は、歴史を蹂躙する者であり、神の希望を裏切る者となるのです。
全宇宙の運行の法度は天倫の原則に従うようになっており、その運行の中に全体の目的を成し遂げるための摂理があるならば、神もその摂理の運行の法度を通らなければならず、人類もその運行の法度を通らなければなりません。それならば、今や私自身を民族の前に立てて考えてみなければなりません。
この民族に対して運行される神の意志は何であり、この民族を覚醒させるための神の決心は何かを考えたことがありますか?もしないとすれば、皆さんは民族を天倫の前に導くことを阻む立場に立つことになります。
そして今日、私たちの心に痛切なものがあるとすれば、この民族がどうしても進むべき道を進むために、一つの理念を中心に団結した心で闘えないことです。また、天倫に対して全世界の人類が団結した立場に立てていないことが天の悲しみであり、人類の悲しみであることを皆さんは悟らなければなりません。
そして今日、皆さんは自分がどのような立場に立っているかを冷静に分析し、批判しなければなりません。天は皆さんに対して、民族の前で自信を持って立ち、天倫に対して自信を持って向き合える心の基盤があるかどうかを問いかけています。
神が人間に対して最大の希望を持つとしたら、それは何でしょうか?まずは、この地上で創造の意志を成し遂げるという神の決心を人間が実現することです。神は天地万物を創造する前に決心され、その決心によって万物を創造されましたが、その決心はまだこの被造世界で実現されていないため、神は悲しみの歴史を歩んでこられたことを私たちは知っています。
今、この事実を知っている私たちが、宇宙の隅々まで探し求めても見つけなければならないものがあります。それはまさに神の決心です。私たちはそれを見つけて実現しなければなりません。そして、神が抱いている悲しみと苦しみを解消しなければならないのです。
したがって、今日私たちはこの意志を中心に一大革命の過程に立つ決心と主張、覚悟を持たなければなりません。そうすることで、神の悲しみを解消できるのです。
神は私たちが知らない間に、御自身が決心された意志をこの地上の人間に知らせるために努力されてきた歴史の過程を歩んでこられました。それが今までの摂理の歴史であることを皆さんは知るべきです。
神のこの決心を人間を代行する救世主が地上に現して、すべての悪の勢力と対抗し、彼らを撃退しなければなりません。そのような使命を遂行する代表的な人物がこの地上に現れなければ、神の意志は成就されないのです。そして、神の決心と人間の希望の基準がある一日につながらなければなりません。
神が目指すその意志を人間に代わってこの地上で成し遂げるための中心存在として送られたのがイエス・キリストです。神は4000年間苦労され、あらゆる困難な環境で戦いの道を歩まれました。そのような道を歩まれた方が、私たちが救世主と信じているイエス様なのです。人間の祖先アダムとエバの堕落によって成し遂げられなかった神の創造の決心を復帰するために、イエス様は来られました。言い換えれば、神がこの俗世の人間世界に第二のアダムとして立て、神の決心を全宇宙の前に示すために、イエス様をこの地上に送られたのです。
そのために、イエス様は「私は神と一体である」と主張されました。神とイエス様は二つではなく一つだということです。ここに、神が喜ばれる条件が整えられたことを皆さんは知るべきです。また、イエス様は「神は私の父である。これを反対し妨げたとしても、私が感じ決心しているこの内容は誰にも奪うことはできない」とおっしゃるほどの自負心を持っておられました。つまり、イエスは命の損失を覚悟してこれを果敢に公表されたのです。
神の決心を今日信じている多くの信者に示すことが、イエス様が2000年間苦労された目的でした。神はイエス様を送るために6000年間の長い年月を休むことなく努力してこられたことを、今日この地上にいる私たちは知らなければなりません。
今、皆さんが天に向かって立ち上がったというならば、神の御心を代行して決心して立ち上がったキリストの姿を自分自身の姿として感じたことがあるかどうかを天は問いかけるでしょう。
イエス様はこの地に来られ、30余年の間、言葉では言い尽くせない苦難の人生を送り、最後には十字架の道を行くという悲運の生涯を送りました。しかし、その中でも自身が持っていた中心だけは、何者にも決して壊されることのない確固たるものでした。そのためにイエス様は天に対する決心を、今日私たちの心の中にまで植え付けているのです。たとえ死が訪れようとも、従っていた弟子たちが裏切ろうとも、選ばれた民族が裏切り、教会が裏切ろうとも、イエス様は創世前から父が持っていた決心の内容を知っていたため、変わらない立場を守り続けたのです。 そのような決心の主人公が地上の人間の前に何を成し遂げるために来たのでしょうか?それは、自分が抱いている神の創世前の決心を愛する弟子たちに引き継ぐためでした。しかし、歴史の過程に現れた多くの聖徒の中で、イエスが持っていた決心を抱き、神の御心を成し遂げるために戦った人は何人いたでしょうか?これを考えるとき、神の悲しみは不信者にあるのではありません。イエスの名を頼って信じるという聖徒たちにあるのです。天に代わる確固たる決心のない聖徒たちを見て、神は悲しまれていることを私たちは悟らなければなりません。
イエス様はこの地上で自分の決心を理解してくれる一人の相手を見つけることができなかったため、御心を完全に成し遂げることなく帰られました。この世にイエス様を代行し、神を代行する決心を持つ人がいたならば、神はその心情を通して直接的な権限を行使し、統一の炎を灯すことができたはずでした。しかし、そのような決心の所有者がいなかったため、神の御心は成し遂げられませんでした。
そのため、イエス様には復活後にこの地に再び来られた目的を代行できる決心の主人公を地上に再び立てる責任が残されていました。そこで、自分の使命を引き継がせた一人を送りました。その方が誰かというと、人間の前に現れた聖霊であることを皆さんは知るべきです。
それでは、天の決心とイエスの決心は誰によって実を結ぶのでしょうか?神は聖霊を通じて、ご自身の決心を人間の前に再び示します。これを意志の主人公に伝え、その主人公は花嫁に伝えることで、その基盤の上にその意志の主人公がこの地に現れ、一つの家庭として移し、家庭を中心とした親族、親族を中心とした民族、民族を中心とした国家、国家を中心とした世界にまで広げなければならないのが神の意志です。これを今日の人類は知らないのです。今日の信者たちでさえもこれを知らないのです。
皆さんはイエスを信じ、聖霊に頼って神の前に行けると自信を持って言えますか?どんな苦難や犠牲があっても、またどんな誘惑があっても、それを打ち破り、押しのけることができる神の心情を代行する決心と、イエスと聖霊を代行できる決心を持っていますか?この質問に「私はイエスを代行する心情と決心を持っている」と自信を持って答えられないなら、イエスを裏切り、イエスを売ったイスラエル民族よりもさらに厳しい裁きを免れないでしょう。
なぜなら、イエスの意志を支えられなかった民族がいたために聖霊を苦労させ、その聖霊の意志を支えられなかった第二のイスラエル型の今日のキリスト教信者たちは、多くの使徒たちを苦労させたからです。そして、使徒だけでなく、私たちの多くの先祖たちをも苦労させたのです。このように苦労をかけている今日の私たちが、イエスが持っていた心情と決心を持たなければ、神の前に顔向けできず、イエスと聖霊の前にも顔向けできません。それだけでなく、これまで多くの犠牲の祭壇を築いてきた聖徒たちの前にも顔向けできないのです。今後、責任を果たせなかった人々が自らを嘆く時が来ることを知らなければなりません。
天は今日の終末において私たちに要求しています。イエスと聖霊も私たちに訴えています。父の実体となり、父の決心を持った者となってこれを蹂躙するサタンを打ち倒す勝利の主人公となることを、神はこの時間も切に望んでいることを、皆さんの骨と肉にしみるほどに体感しなければなりません。そして、「天が持つ決心を私に継承してください、血の祭壇の過程を経ても耐えてきた使徒の決心を私にください」と言える資格を持たなければなりません。そうでなくして天国に行こうとすることは間違いであることを再認識しなければならない時が来ました。
現在のキリスト教を覚醒させる責任は私たちにあります。神の決心とイエスと聖霊の決心と私が一つの実体となって現れるならば、歴史を支配する権限を行使できるようになるのです。
先ほど読んだ聖書の言葉には、ソドムとゴモラに対する神の悲痛な心情が表れています。神がその都市を裁こうとされたとき、愛するアブラハムの甥であるロトがいました。神はロトに裁きを免れさせてくださいました。ロトが優れていたためにソドムとゴモラの裁きを逃れたのではありません。神はアブラハムを愛していたので、何の功績もない甥にまで裁きを免れることを許されたのです。しかし、ロトの家族全体が神の心情を理解していたかというと、そうではありませんでした。
ロトとその二人の娘は神が逃れなさいと言った場所に逃れましたが、ロトの妻は神の意志が何かを理解していませんでした。彼女は天の意志に対する決心や意志に対する心配、天に対する恐れよりも、自分たちが住んでいた家やその環境を恋しがって振り返ったため、ソドムとゴモラよりも先に神の罰を受けざるを得なくなったのです。
人間には必ず歩まなければならない道があります。それは、天倫の意志に従って、どんな困難にも立ち向かって歩まなければならない道です。これが堕落した人間が歩むべき運命の道なのです。ロトの妻も自分に属するすべてを顧みずに進む決心を持っていなかったために死んでしまったのです。神の命令に従って進んだ夫を神の代理者として信じ、夫が言う通りにしていたならば、彼女は決して死ぬことはなかったでしょう。
神が摂理の歴史を経てこられる過程においても、神は御自身の心情を代行する人を立て、その人を信じられないならば、その人の言葉を聞いてでも決心できるようにされています。しかし、それさえもできない人は裁きを免れることはできないでしょう。
私たち自身を振り返ると、堕落した種族であるために経験する悲しみがあります。大きな神の意志に対して最善を尽くしたいという気持ちや、自分の心と体を捧げて新たな決心をし、行動に移したいという思いは密かに感じているものの、その決心を実行できない理由は、私たちが堕落の種族であるためです。
アダムとエバは、彼らを創造してくださった神の「食べてはならない」という言葉を心の奥深くに抱き、その言葉と自分たちは切っても切れない一つの結合体であると考え、変わらない決心を持ってすべての万物を主観しなければならないという責任を実感していたならば、堕落しなかったでしょう。
アダムとエバが堕落したのは、エバがアダムと一つになれなかったからであり、またアダムが神と一つになれなかったからです。そのため、各々は分裂し、自分勝手な環境で好き勝手に行動するようになり、創造の理想の園を台無しにしてしまったのです。終末においても、神を中心とした決心を立てずに自由主義を叫び続けると、自由陣営も崩壊してしまいます。天地の理がそうなっているのです。
神に代わらなければならなかったアダムが、誰が意志を裏切るように誘惑したとしても、自分は絶対にその意志を裏切らないという決心を持ち、エバを主観し、天使を主観できていたならば、堕落することはなかったでしょう。まず堕落したエバがどんなにアダムを欺こうとしても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなければ、アダムは堕落しなかったでしょう。もしアダムが堕落しなかったならば、エバはいくらでも再創造することができたのです。
神を裏切ったために天倫から遠ざかり、許された言葉と意志を自分の心の中心に据えることができなかったため、アダムはアダムのまま、エバはエバのまま、天使長は天使長のまま分かれてしまいました。このような種族となった私たちは、今日信じたことを明日には信じられず、この時代に信じたことを次の世代では信じられず、次の世代に信じられることは、その次の終末には信じられない環境に置かれています。
それでは、神の心配とは何でしょうか?天の悲しみとは何でしょうか?「私が6000年間の厳しい逆境と苦難の過程を経て、苦労してようやくあなた一人を見つけて会えたのだから、安息できるだろう」とエデンの園で天使長に語りかけることができなかったその内容を、信じて安心できる場所で語りかけ、御心を打ち明けることができる一人の人がいないことが、神の悲しみであることを知るべきです。
私たちは父を探し、信仰生活をしていますが、神が安息できる環境を提供できていません。このような立場にある私たちは、進むにつれて心の焦りを避けることができず、どれほど優れていると誇っていても、終末が近づくにつれて心の不安を免れることはできません。結果として、個人的にも社会的にも国家的にも、そして世界的にも困難な立場に置かれるのです。
それでは、終末の時代に迫り来るこの恐怖と不安を打ち破ることができる人はどこにいるのでしょうか。人間に代わって断言せず、天倫に代わって断言できる決心の主人公はどこにいるのでしょうか。天はそのような人を探していることを知るべきです。
神がアダムの家庭を失ったことで、アダムと通じることができる創造本来の家庭を失い、同時にアダムと通じることができる親族とアダムの血族を代行することができる民族と、アダムを中心とした国民と、アダムを中心とした天国の民をすべて失いました。しかし、神はこの失ったすべてを再び取り戻そうとしておられるのです。
神はこの民族全体を探し、世界までも探すために、まず一個人から始めて家庭や社会を探し立てようとしておられます。それを基盤にして、民族型から世界型へと進み、この世界全体を取り戻すために神は摂理を進めておられます。
神は一方では戦い、他方では犠牲を払いながら、歴史の過程を通じてこれを探し求めてこられました。その裏では、個人的な形態を備え、アダムに代わる家庭・親戚・民族・国家・世界をこの地上に建設しようとしておられます。
したがって、アダムの家庭を失ったこの一つの事実が、アダム一身だけの悲しみではなく、アダムの血統を通じて千秋万代の全人類にまで及ぶ悲しみであることを、皆さんは生活の中で痛感しているでしょう。この状態で安逸を求め、安楽を享受しようとする人々もいますが、この安逸と安楽な生活が続くことはないことを知っておくべきです。私たちは恐怖の関門を前にして、これを乗り越えなければならない立場にいることを認識すべきです。このような時期をいわゆる「審判の日」と呼ぶのです。
神はこの恐怖を取り除くために選ばれた一人を立て、その人を中心とした民族を築き、その民族を再び世界の先頭に立てるために、今日まで苦しみながら摂理を行っておられることを知っておくべきです。
これから天国を建設できる民族は大きな民族ではありません。今日、世界を支配している民族でもありません。天国の主権を回復し、第二の天国を建設するべき民族は大きな民族ではありません。神は何の前触れもなく、ひそかに天国を建設する作業を進めておられます。
そのため、神の意志に背く人々は豊かに生活し、神の意志に従う人々は貧しく暮らすという逆の現象が起こり、人類の闘争の歴史は今日まで続いているのです。なぜなら、人間が神に対する心情を失ったため、再び神が信じることのできる立場に戻るためには、そのような過程を経なければならないからです。そうであれば、神が6000年の間に苦労されたその苦難が一度に私に降りかかってきたとしても、それを乗り越えられる自分でなければなりません。命を失うとしても、それに屈しない決心の主人公となり、天が代表として立てることができる一存在とならなければならないのです。
神はそのような世界的な代表としてイエスを送り、そのような人を立てるために多くの先祖たちは苦難の道を歩みました。アダムが失った家庭を取り戻すために、アダムに代わって不信の心を持っていたその種族と民族を突き放し、天に対して信仰の決心を持った一人の人が選ばれました。その人がノアです。
ノアは120年間、天が引き続けても変わらない決心を持っていました。これがアダムよりも優れているということです。アダムは未成年のときに堕落しました。アダムが神を裏切ったために、神が再び信じることができるようにするためには、アダム以上の苦労をしなければならず、何百倍の苦労をしても、それを突き抜けて進むことができなければなりません。
アは自分自身、自分の家族、自分の親族、自分の民族、さらには自分と関わるいかなる世界のすべてが反対しても気にせず、一瞬の決心を最後まで守り続けて、父を支えながら120年の生涯期間を戦い抜いたことが、神に代わってその当時の人類の前に立つことができる条件となったのです。
洪水の裁きを免れて神の恩恵のもとにあったノアにとって何よりも重要だったのは、神の心を持っていたそのノアの心を引き継ぐことができる人がいることでした。しかし、ノア自身もこの事実を知っていなかったのです。
ノアが120年間苦労し、その悲しくも無念な道を歩みながら天倫を心配していたその心を代わって、ノアの手を取り「父よ、何でも私に命じてください」と言える一人の息子がいなかったのです。そのため、120年の苦労で築いた祭壇は崩れ去ってしまいました。
神に対して誠心を尽くそうと決心したノアであることを、ノアの八人の家族が知っていたならば、生死を共にする覚悟で絶対服従し、父が死ぬなら自分も死に、父が喜ぶなら自分も喜ぶという立場に立たなければなりませんでした。そうであれば、他の些細な内的条件が崩れたとしても、神を中心に心情を結束すれば何の問題もなかったのです。ハムは父であるノアの言葉を聞くべきでした。兄弟が何を言おうと、父の意志に合わないならば聞くべきではありませんでした。彼が聞くべき言葉を聞かず、聞くべきではない言葉を聞いたために、ノアの120年の苦労は無駄になってしまったのです。
アブラハムも同様でした。アブラハムが故郷と自分の所有物をすべて捨てて、カルデアのウルの荒れた荒野に向かって旅立つことも簡単なことではありませんでした。神の意志を知った後、アブラハムは誰にも知られずに決心を抱き、慣れ親しんだ故郷と親族をすべて捨ててカナンの地を目指しました。
その後、アブラハムが故郷を捨てて神の意志だけを心配していたその心を最後まで捨てず、全力を尽くして祭壇を守っていたならば、失敗はなかったでしょう。供物を捧げながら、自分が大変な立場にあることを知り、持っている信仰のすべてと全ての力を注いで神と一体となる決心を持って進まなければなりませんでした。そして、自分は小さな供物であるが、自分の理念を立て、全体の天倫の意志を代行する立場で神に対して誠実な心で供物を捧げていたならば、失敗はなかったでしょう。
供物で失敗したアブラハムが再び神の意志を引き継ぐためには、供物の代わりにイサクを捧げる必要がありました。つまり、アブラハムの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければならなかったのです。同様に、ノアの心と一体となることができる息子の姿を見つけなければなりませんでした。そこで、アブラハムは自分の心と息子の心が一つに結実する立場を探し始めました。
こうしてイサクをモリヤ山の祭壇に捧げようとし、刀で刺そうとする場面で、天から死に代わる供え物とすることが認められました。イサクも父に従い、アブラハムも神に従うことで、彼らは天倫の目指す方向へ進むことができました。その後、イサクを経てヤコブの時代に至り、ヤコブを中心にアダムの家庭とノアの家庭に代わる基準を見つけて確立することができました。こうして、三世代の親族形態を持つ70人がカナンの地を離れ、エジプトに入ることができたのです。
つまり、息子を経て孫までの三世代の親族的形態を地上に築くことで、彼らはサタンの世界に送り込まれ、エジプトに入ることができたのです。しかし、このように個人から家庭、そして親族的な環境を整えた後でも、彼らは平坦な道を歩んだわけではありません。親族的な70門徒を代表する彼らは、さらに民族を形成するための民族的な戦いを展開し、神を中心とした民族を形成するための試練の舞台に立たされました。これがまさに宮中での400年間の苦役期間であることは皆さんもご存知でしょう。
この苦役期間に選ばれたイスラエル民族は、昔の祖先たちが神を恨み、神の意志を裏切ったことを悔い、再び神を慕う心を取り戻さなければなりませんでした。その心が強ければ強いほど、イスラエルの民は過酷なエジプトの苦役に打ち勝ち、団結して60万人全員を率いてカナンの福地に入る道が容易に開けたのです。
そのため、エジプトで苦難に直面しているイスラエル民族を導くために、モーセもまた、エジプトの宮中で40年間、誰にも知られることのない心の悩みを抱えながら、民族を愛する精神に燃えていました。しかし、エジプト人を打ち殺したことが、彼が荒野で孤独な羊飼いの生活を送るきっかけとなりました。そのような立場に置かれたモーセは、エジプトの宮中での豪華なすべての栄光を捨て、むしろミディアンの地での苦役生活が待ち受けていたとしても、変わらぬ心を抱き、自分自身を愛するよりも神の意志を心配する決心を持つようになりました。
荒野の激しい風雨にさらされる悲しみを味わったとしても、それをすべて乗り越え、民族から追われることがあっても神を信じ続けたモーセの変わらぬ決心があったからこそ、民族が困難な状況に置かれ、モーセがそのような苦難の環境に入っても、民族が団結することができたのです。そして、神はモーセを立てて摂理を進めることができたのです。
ある民族を再び選ばれた国家として立てるためには、世界的な試練の前にその民族を追い込み、攻撃戦を展開させることが神の摂理の一つの方法です。したがって、神を中心とした一つの国家建設のために来られるメシアは、選ばれたイスラエル民族の前で反対されるのです。これは復帰の過程であるからです。
アダムの家庭において、エバはアダムに従うべきだったのにアダムを打ち、ノアの家庭においてはノアの息子がノアを打ち、イスラエル民族の60万人がモーセに従うべきだったのに、モーセをミディアンの荒野に追い出しました。このような歴史の過程を経てきたために、イエスが主人公として来られるとき、選ばれた民はイエスの前で花嫁のような存在でしたが、むしろ彼らがイエスを反論しました。
天倫の法則を知っているイエスは、イスラエル民族に追われ、ユダヤ教団からも追われました。自分の種族の前でも追われ、天に選ばれた洗礼者ヨハネ一派にも追われ、従っていた使徒たちからも追われました。天と地を差し出しても代えられない三人の弟子たちからも追われました。しかし、彼らを捕らえて天の前に引き寄せなければならなかったイエスの事情を誰が理解したでしょうか。アダムがイエスと同じ立場に置かれ、エバの様々な邪悪な策略や誘惑があったとしても、それを打ち破らなければならない立場にあったのと同様に、イエスも民族を取り戻すべき立場にありました。モーセがイスラエル民族の前で追われ、荒野で悲惨な生活を送ったのと同様に、イエスが民族の前で追われれば、世界の前でも追われる立場に置かれることを知っておかなければなりません。
もしこのように「民族が裏切り、教団が裏切っても、私が持っている父に対する一途な心を誰が奪えるだろうか。私の決心の前には、天が立てた洗礼者ヨハネが裏切っても問題ではないし、私に従っている弟子が裏切っても問題ではない。さらに、自分の体が問題ではない」という決心があったために、悲しいことがあっても悲しむことはできず、悲しみの場にあっても悲しみの表情を見せることができなかった復帰の運命を背負ったイエスの心情を、今日の私たちは理解しなければなりません。
天に対する一つの決心を持ち、供え物として全宇宙の前に立って人間が反論しても崩れず、霊界にいる千万の聖徒と今日の空中の権力を持つサタンが総動員されても奪い取ることができないこのような決心があったために、ここから歴史的な転換点が生じました。
このようにして、霊と肉を合わせた実体的な勝利の基盤が世界的に広がる必要があるのです。復活したイエスを中心に第二の決心を弟子たちに授け、霊的なカナン復帰の理念を築き上げてきたことを皆さんは知っておくべきです。
イエスは世界の人類のためにこの地に来られました。世界の人々はイエスの前では子供の立場、つまり相対的な立場にあります。エバがアダムを支配し、イスラエル民族がモーセを追放し、供え物がアブラハムを非難し、ノアの息子がノアを追い出したのと同様に、世界のキリスト教は行く先々で世界中で迫害される悲惨な道を免れることはできません。
今日、世界中に散らばっている第二イスラエルの祝福がイスラエルを中心に成就しなかったため、第二イスラエルとして選ばれたキリスト教徒を立てて、その恨みを晴らし、天と地を復帰させようとしているのです。神は宇宙復帰の意志を成し遂げるために、一つの中心人物、一つの中心民族、一つの中心国家を探していることを皆さんは知るべきです。
なぜなら、6000年間の苦労の末、神の意志に従ってきたものの、イエスが死んだために、ノアもアブラハムもヤコブもモーセも失敗したことになるからです。イエスが亡くなったことにより、救済の摂理は完成しませんでした。そのため、今日パラダイスにいる霊人たちは、失われた第一イスラエルを回復しようとしたイエスの意志のための基盤を築き、さらに回復の意志を霊的に成し遂げた霊人たちなのです。本来、選ばれたイスラエル民族は第一イスラエルであるべきでしたが、第一イスラエルが崩壊したために、第二イスラエルは霊的復帰の過程にとどまっています。
イエスを失ったことで生じた神の恨みは、今日の第二イスラエルに属する霊界の霊人たちによって晴らされるのです。神が選ばれた第一イスラエルをイエスが成し遂げることで、神に抱かれた恨みの心情を解消することができるのです。したがって、今や第二イスラエルと霊界の霊人たちを動員し、第二イスラエル回復運動を加速させる時が終末であることを知るべきです。
それでは、今日世界中に散らばっているキリスト教徒たちはどのような時代に置かれているのでしょうか?彼らはモーセの荒野での40年の道のりに匹敵する時代に置かれています。モーセがシナイ山に上り、石版を受け取るために祈っていた期間に相当し、イエスが昇天した後の2000年の歴史過程は、モーセの40日間の断食期間および40年の荒野期間に匹敵します。また、モーセが消えたことを見てイスラエル民族が不安を感じていた状況に匹敵します。
このキリスト教は再び現れるモーセを迎えて何をすべきでしょうか?荒野のイスラエル民族は旧約の言葉、モーセの十戒を受け入れるべきでしたが、受け入れられず、歓喜の心情を持つことができませんでした。モーセにとっては、民族がモーセの裏切り者になりましたが、私たちは天が望む道を見つけなければなりません。そうして第三イスラエルの立場を見つけ、勝利して世界カナン復帰の理念を成し遂げなければなりません。そのためには、新しい言葉を受け入れる覚悟を持たなければなりません。
モーセの決心が60万人の民の決心となるべきです。今日、世界に散らばる第二イスラエルの祝福を受けるべきこの民族や世界の人々、クリスチャンたちは、イエスの決心を引き継ぐことができていないため、モーセの時代に荒野でサタンがイスラエルの60万人の民を翻弄したのと同じように、今この時代も同じような状況にあるのです。
この状況を見てみると、今日、私たちの身体に血が巡り、心に何かを感じている皆さんは、全力を尽くして進まなければなりません。イスラエルの民がモーセに会う前には、食べることも、着ることも、眠ることも忘れるべきでしたが、それができなかったためにイスラエルはモーセを失い、すべての意志が崩れ去ったことを忘れてはなりません。
同様に、イエス以降の2000年間は荒野の時代です。イエスを失ったキリスト教信者たちは、食べることも、着ることも、苦しみも怒りも耐え忍び、歯を食いしばってイエスに会うまで、かつてのモーセの足跡を守り抜けなかったことを逆に償い、イエスの足跡を守り抜くイスラエルにならなければなりません。しかし、今日のキリスト教信者たちは、自分たちにこのような使命が課せられていることを知りません。
今や時が近づいているので、この時を準備する過程において、選ばれた民族が異邦の国々に渡されることになります。皆さんが学んで知っているように、イスラエルの民がメシアの降臨準備時代に備えるために、イエスが来る6世紀前にバビロン捕囚時代があったのです。イエスの再臨の6世紀前から、文芸復興運動を中心にキリスト教を破壊する世界的な攻勢が始まっています。この戦いの道を今日の世界のキリスト教信者たちはどう対処すべきでしょうか?これを阻止する責任を全うするために、まず私たちが目覚める必要があります。
14世紀から16世紀にかけて文芸復興運動が起こったのは、人々が古代ギリシャの文明を研究し、新たな復帰の理念を持とうとしたからです。このように革新的な文化が一面に現れたように、今日の終末を迎えた信徒たちも歴史を回顧し、2000年前のイエスの心情を感じ取ることができなければなりません。また、堕落前のアダムとエバ、そして神の心情を感じ取り、心を革新しなければならない時が来たのです。
天の意志に向かおうとする直前のアダムとエバに天使長の攻撃があったように、ノアにも、モーセにも、イエスにも、意志が現れる終末の信徒たちにもこのような攻撃が現れます。これはサタンの攻撃です。まず物質的な攻撃があり、その次に情的な攻撃の時代が来るのです。このような時代の兆候が今日、私たちの前に展開しています。このようなキリスト教の歴史がどの国、どの民族を通じて進展するとき、その道は公式な原理原則として成り立つのです。
世界がキリスト教を外面的に反発する時代になりました。この時代には、昔イスラエル民族に反対したエジプト民族のような形が現れ、第二イスラエル民族の前にモーセのような人物が現れると、民族が団結して彼を追い出す現象が起こるのです。
では、終末時代の信仰者たちはどうなるのでしょうか?私たちの周囲ではエジプトの地で起こったようなことが起こるでしょう。今日私たちが生きている現実は、エジプトでの苦役時代を彷彿とさせる状態です。それだけでなく、思想的にも実際的にも、あるいは信仰的にも、あらゆる面で侵害を受けざるを得ない状態になりつつあります。
かつて選ばれた選民の自尊心を持って、自分たちだけで結束し、外部からの悲しみを追い払うためのイスラエルの団結運動があったように、今日のキリスト教徒にもこのような運動が必要です。教派に依存する者や自分の教会の伝統を誇る者は、イスカリオテのユダの一派になるでしょう。モーセの命に従ってカナンの地を偵察し帰ってきた12部族の中で、ヨシュアとカレブに反対した10部族が現れたように、今日同じようなことが起こらないとは誰が保証できるでしょうか。このような時が私たちの目の前に迫っていることを知るべきです。
私たちは今、自分のすべてを忘れて進まなければなりません。また、ソドムとゴモラが受けたような裁きを逃れるためには、ロトの家族が歩んだ足跡を手本にしなければなりません。ヤコブがハランの地からカナンの地に戻るときにすべてを捨てて進んだように、私たちの足跡もヤコブのようでなければなりません。また、イスラエル民族がエジプトの地を去るときにすべての未練を振り払ったように、私たちもそうしなければならず、イエスがすべてを捨てて十字架の道を一人で越えたように、私たちもそのような決意を持って進まなければなりません。
このような覚悟と決意をすべての万物万象の前に立てる資格を持つ者がいるでしょうか。天はそのような資格を持つ者を探していることを知るべきです。今日世界に広がる新教が旧教に迫害を受ける過程は、悲しいモーセの過程を繰り返すような現象です。
今、この荒野のような世界を開拓する新しい使命者が現れる必要があります。今日のキリスト教に満足していてはなりません。イスラエル民族が荒野の生活でモーセを守ることができなかったように、新教の出現時にも同じことが起こりました。新教が出てきましたが、荒野の生活の中で認められなかったのはモーセの事情と同じでした。終末でもそのような形で神の意志が進展することを知るべきです。
モーセとイエスは人間的に見ると哀れな人々です。モーセとイエスのことを考えるとき、皆さんは彼らの血と肉が通じ合うような感覚がありますか?もし皆さんの心にモーセとイエスが行き場を失い、困難の中を歩んでいたことを考えることさえないとすれば、モーセの40日間のシナイ山での断食祈祷の際に流した悲しみの涙を無駄にした天倫の裏切り者と同じであり、荒野で倒れたイスラエル民族と同じであることを知るべきです。
イエスの悲しみの心情を私たちが感じ取り、第一イスラエルと第二イスラエルが成し遂げられなかったことを完成しなければなりません。このようなことを成し遂げるために来られたイエスの悲しみの心情と足跡を、皆さんは知っていますか?今日、神が私たちを立てて望んでおられることは何ですか?
宇宙的な理念の目的を達成するために、「霊界の霊人たちよ!私はあなたたちの願いを叶える。地上にいる全ての人間たちよ!私はあなたたちの犠牲となる。空中の権威を持つサタンたちよ!私はあなたたちを捕らえて天の裁きの場に連れて行き、告発する。」という決意を持ち、時代が変わろうと、世界が変わろうと、人の主張が全て変わろうと、私は変わらないというイエスの節操と忠誠を、今日の皆さんが持たなければならないのです。このように時間を超え、生涯の理念を超えて天倫の理念に通じる心の覚悟と決意の基盤がなければ、神の前で無条件に服従しなければなりません。そうでなければ、審判を免れることはできません。
シナイ山に登るモーセの前でイスラエル民族が無条件に服従していたならば、彼らは乳と蜜が流れるカナンの地に入ることができたでしょう。また、イエスの時代にも同じであり、今日の終末でも同じです。皆さんの前には、生涯全体の価値を決定するべき時が訪れているのです。私たちが死んでからも神の目的だけを責任を持って果たす心で、神を代わって立ち上がることを、父なる神も、イエスと聖霊も、そして私たちの先祖たちも望んでいることを、皆さんは骨身にしみて感じなければなりません。
このような事実を前にして自分自身を振り返ると、私を中心とした自分の身体が敵であり、私を中心とした自分の家族が敵です。ノアにとっては家族が敵であり、ヤコブの家族にとっては氏族が敵であり、その次に国家形態においては世界が敵でした。神はこのような歴史の道を歩んできましたし、今でも数多くの困難を乗り越え、ある中心人物が倒れたら他の人を立てて再び挑戦しなければならない状況にあります。皆さんはこのような神の名誉と威信を立てられる人にならなければなりません。
どんな個人の力だけでは神の目的を成し遂げることはできません。神は世界に分散して一つの民族形態を見つけ出す包囲作戦を進めています。それゆえ、個人から家族、そして氏族、民族を見つけ出し、神を中心とした国家形態を整える時が来たのです。
したがって、今日の全世界のキリスト教が12部族を再建すべき時期が到来しています。荒野に散らばっていたイスラエルの民に隊列があったのと同様に、世界のキリスト教徒たちも隊列を編成し、サタンに対する攻撃を展開する時代が来ています。このことを知らないキリスト教徒たちは、荒野のイスラエル民族がモーセの導く方向を知らなかったのと同じ立場にあることを理解すべきです。
今や私たちは手を取り合って進む共同運命にあります。12使徒の中でイエスを裏切ったイスカリオテのユダ一人のために、12使徒は崩壊し、イエスを殺すという運命に陥りました。それゆえ、私たちの教会の仲間たちは、「あなたの決意が私の決意であり、あなたの心が私の心である」と言いながら、意志のために一つとなる隊列を整える必要があります。そして、紅海を渡り、荒野を通り、ヨルダン川を渡り、カナンの七部族を打ち破るための戦いの場が私たちに残っていることを知らねばなりません。
したがって、今や私たちは歴史的な使命を帯び、それを償い復帰していかなければなりません。これまでの祭壇では神が「捧げよ」と言いましたが、これからは神に「受け入れてください」と言える供え物が必要です。
天倫の決意が内的および外的な決意の実体として現れ、この決意を中心に家庭と戦い、家庭を復帰し、教会を覚醒させ、国家と民族を覚醒させて復帰しなければなりません。この状況において、私たちが住んでいる家庭、社会、国家、教会が、そして私たちが望みを抱いている世界が私たちを敵視することは避けられません。
今日、皆さん自身が家庭や社会で迫害を受けています。しかし、その迫害に勝ったからといって喜ばないでください。その後、荒野の時代にさまざまな困難に巻き込まれ、攻撃が始まる時、その戦いの場で皆さんが倒れてはならないのです。天倫の運命は一度受けて乗り越えなければならない時期にあり、世界的な復帰過程でキリスト教を攻撃することになるのです。外的にも内的にも攻撃する時が来るのです。第二イスラエルを動員する時代が来るので、霊界が動員されています。天にある霊界が動員され、世界的な第二イスラエルを世界中に広げ、第三イスラエル民族を建設しているのです。
では、イスラエル民族が荒野でさまよい、他人が知らず、他国の者が知り得ず、誰も想像しなかった生命の糧を食べたように、今日の皆さんもこの時代に天から降るマナとウズラの糧を食べることができる人になるべきです。これからは乾燥の時が訪れるので、マナとウズラを求めてさまよう時が来るのです。
今や復帰の園を建設しなければならない時が来ています。どんなに苦しみ、自分の体が裂かれ、骨が粉々になろうとも、天倫のこの一つの目的のために、「父よ!霊界にいる数え切れない聖徒たちよ!歴史を作り上げてください。」と言えるようでなければなりません。イスラエル民族は霊界を動員することができませんでしたが、私たちは霊界を動員しなければならない時が来ました。ですから、皆さんには霊界の協力があります。私たちの仲間が霊界の霊人を呼ぶと、霊人たちはやって来ます。だから今日、霊的な奇跡が多く起こっているのです。
私たちは、自分自身を立て、自分の家族や民族、世界を動員しなければならない使命を持っています。また、サタンを父の前に屈服させなければならない最後の使命を担っていることを知るべきです。私たちは、自分自身に対する試練、家庭に対する試練、教会に対する試練、社会に対する試練をいつ乗り越えるのでしょうか。このような試練を乗り越える決意を持つことが、天の使命を完遂するために必要なのです。
神がヨシュアとカレブに「強くあれ、勇敢であれ」と言ったように、今や私たちにも「強くあれ、勇敢であれ」と言われる時が来ました。皆さんは手に手を取り合い、心に心を合わせてサタンと戦い、勝利をつかみ取るべき時が来ていることを心に留め、強くあれ、勇敢であれということを忘れてはなりません。
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