文鮮明先生御言葉選集 4 - 22. 神が求められる自由と解放と統一 (1958年10月12日)
1958年10月12日(日)、本部教会。
ヨハネによる福音書 8:31-47
<祈り>
お父様!この場にひれ伏すあなたの息子娘たちを見捨てず、全身全霊をお父様に捧げることをためらわない息子娘にしてください。私たちは不完全で不忠実であり、多くの点で足りませんが、あなたが私たちを探し求めて努力してきた歴史的な心情に頼り、全身全霊を捧げますので、どうか御自身で導いてください。
不十分な部分を、お父様、聖霊の火で焼き尽くして聖別し、お父様が取るにふさわしい私たちとなり、全身全霊を一つにして捧げることができるこの時間を許してくださいと、切に願い、求めます。
お父様!あなたの息子娘たちがこの場まで歩んできた険しい道は、あなたの涙の跡を代わりに歩んできたものであり、悲しみが染み込んだ、血と肉を裂くようなあなたの道を代わりに歩んできたものであります。お父様、私たちの心で決意したことと体を動かして行動することをご存じで、この時間、私たちをあなたの深い愛の心情で御自身の胸に抱いてくださり、サタンの非難条件にかかる命が一つもないように許してくださいと、切に願い、求めます。
私たちを立てて、この民族の前で、お父様、新しい御言葉を伝えようとする意図を私たちは知っていますが、私たちの不忠と不完全さのために、あなたが望む使命と責任を果たせず、お父様に悲しみをもたらすのではないかと焦る心を持っていますので、お父様の御心に対してこれまでの不十分な事実を御覧になり、それを補うためのあなたの命の力と愛の力を与えてくださり、どんな使命と責任でも果たすことができる直接的な恩賜を私たちに与えてくださるよう、お父様、切に願い、求めます。
私たちが進む道には、それを阻むために無数のサタンが蠢くでしょう。それに備えた私たちの決心が完全であり、私たちがあなたの前で命の生贄となり、最後まで耐え忍んでサタンとの戦いに負けないように、お父様、導いてください。
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初めて持った決意と覚悟で前進し、ただお父様の栄光を現すために努力し戦うことができる息子娘となるように許してください、愛するお父様、切に願い、求めます。今、この場に集まった子供たちを憐れんでくださり、お父様の愛の胸に抱かれるように許してください。
闇のすべての要素と条件を取り除き、命の権威を持って一つに束ねてお父様を迎え、栄光の賛美を捧げ、栄光の恩賜に感謝することができるこの時間を許してください。
最初から最後までサタンがこの一つの集まりに現れないように許してください、ただお父様の栄光だけが私たちの心と体を通して現れるように許してください、と主の御名によって訴えました。アーメン。
<御言葉>
皆さんと共に考えたい御言葉の題は「神が求められる自由と解放と統一」です。この題を持ってしばらく御言葉をお伝えします。
「神が求められる自由と解放と統一」これを信仰的な見地からお話ししようと思います。皆さんは神が全知全能であらゆることができると知っています。しかし、いくら力のある神であっても、神の心情に入り込んでその心が本当に自由な立場にあるかと問われたとき、私はそうだとは答えられません。また、神の本心は希望に満ちた摂理を前にして解放の喜びの中にあるかと問われたとき、それもまたそうではないと言えます。さらに、神が創造された人間とすべての万物の世界が、神の心情を動機として動いているか、つまり神の心が動けば人間も動き、万物の世界が一緒に動くことができる統一的な位置にあるかと問われたとき、それもまたそうではないと私たちは断定せざるを得ません。
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神様も自由になりたいと望んでおられるのが本性であり、本然の心情です。そして神様は解放された立場で全宇宙を主観しなければならないお父様であります。しかし、そうできないことが神様の悲しみであり、全ての被造物の悲しみであり、歴史上の悲しみの原因となったのです。全ての被造世界を一つの統一理念で束ねて支配しなければならない神様が、そのような立場におられないことが神様の悲しみであり、神様の苦しみであり、神様の無念であるという事実を私たちは認めざるを得ません。
神様がこの全ての被造物を創造されたときの本来の理想郷は、自由の園であり、解放の園であり、統一の園でありました。しかし、神様の理想が実現されなかった何らかの事情があり、それが神様から人間と全ての被造物世界にまで悲しみの源となったという事実を皆さんは否定できないでしょう。では、その悲しみの源は何か?それは人間の堕落であることを今日私たちはよく知っています。
それでは、堕落した人間を救おうとする神様がこの社会に望まれる理念があり、私たちが探し求める理念があるとすれば、その理念の基準点は何か?神様の心情を代わりにした自由、神様の事情を中心にした解放、神様の理念を中心にした統一が神様の願いであり、ひいては私たちの願いであり、その理念の基準点であるということを皆さんは知るべきです。
「主の霊があるところには自由がある」(コリントの信徒への手紙第二 3:17)と聖書に記されていますが、今日、自由の神であり、解放の神であり、統一の神である私たちのお父様、そのお父様を迎えて生きる皆さん自身の心情に、どのようにすればあらゆる試練を超越できる自由の心情が染み込むことができるか、この全ての試練の壁を越えることができる解放の起点はどのようにすれば見つかるか、私たちの理念の中心が望む、つまり全体が統一された安息の時はいつ頃見つかるかということが皆さんが考えるべき重要な問題です。
まだ神様も自由な立場におられず、解放の場におられず、統一された位置におられないために、今日この地上で自由を叫んでいてもその自由は私たちが享受すべき真の自由とはならないのです。解放を語っていてもその解放は完全な解放ではありません。統一を主張していてもその統一もまた完全な統一ではありません。人類社会は氏族から始まり、部族、民族を経て国家へと統一してきましたが、そのような部分的な統一は真の統一ではないのです。
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神様の御心がそのようであるため、神様によって創造された私たちにとっても、私たちが望む完全な自由、私たちが望む完全な解放、私たちが望む完全な統一は、神様が自由になり、神様が解放と統一の主人公となる日が来て初めて実現できるのです。したがって、神様の自由と解放と統一がまさに人間が望む自由と解放と統一の基準であるということを私たちは論理的な見地から否定できないのです。
今日、私たちの歴史の道を振り返ってみると、中世の封建社会以後に人文主義を中心として自由と平等と博愛の思想を鼓吹してきました。では、本来の自由と本来の平等、本来の博愛、これらのすべての属性は誰の属性か?それらはまさに神様の属性なのです。
中世のキリスト教が神様の理念を中心として神様の心と通じる自由の立場に立っていたならば、あるいは解放された立場に立っていたならば、統一された立場に立っていたならば、この地に革命や革新という言葉は必要なかったでしょう。キリスト教が神様を中心として完全な自由と完全な解放を享受できる位置、完全な統一が達成されたその基準を持たなかったために、自由と解放と統一の動きが外的世界に移ったのです。これが今日、私たちが言うルネサンス運動であったのです。
その後、自由思想を掲げて君主国家を革命し、再び帝国主義国家と対峙しながら自由思想を鼓吹しましたが、すべて壊れました。自由を求めて革命を起こしましたが、帝国主義国家の形態を完全に克服することができず、結局壊れたのです。そして主義や思想、あるいは政治的理念を立てて現在に至るまで進んできましたが、これもまた次第に壊れています。
自由を渇望する私たち人間が完全な自由の理念を探してそれを所有する立場に立てず、外的な自由だけを主張することにより、むしろ次第に真の自由を失ってきています。つまり、国家的に社会的に家庭的にさらには個人的に自由を主張してきましたが、完全な自由を見つけられず失ってきた歴史を繰り返してきたということを皆さんは知るべきです。
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今日、人間が主張している自由は、人間が本性として永遠に享受できる自由ではありません。また、自由を主張する人々は過度の個人主義に流れ、次第に孤立しています。これを皆さんは否定できないでしょう。
したがって、天と通じ、天の理念と一致する完全不変の自由の理念を立てない限り、またその自由が天地が望む自由と一致しない場合には、自由を求めて動けば動くほど、むしろ不自由の極点に向かっていくということを現時代の動きを見ればわかるでしょう。
それゆえ、私たちが自由を求めて進むとき、私たちの心の中に、このすべての万象の前で一致することができる自由の心情があるかどうかを見極めることが重要です。私たちが神様の自由の立場に立つならば、そのような自由の心情は全世界の人々と共に楽しむことができる基準となるでしょう。しかし、今日の人間はそのような自由の立場を取ることができていないのです。自由を主張しながらも、自分に及ぶ範囲内で自由の観点を定めているのです。
ここで真の自由について論じるならば、原則を離れた自由は真の自由ではなく、責任を逃れた自由は真の自由ではなく、実績を残さない自由は真の自由ではありません。したがって、どのような自由行動でも原則を逸脱してはならず、責任を負わなければならず、その行動の実績がなければなりません。しかし、これらの条件を備えていない場所で自由になろうとするならば、自然に天倫から遠ざかることを認識しなければなりません。
中世以降、帝国主義が出現しましたが崩壊しました。今日まで思想的な形態を持って進んできたものも、やがて真の自由を主張する思想が現れると崩壊する時が遠くないと見ています。この傾向はますます個人にまで及んでいます。皆さん自身に焦点を当ててみても、自由を主張するならば、社会も刷新しなければならず、家庭も刷新しなければならないと感じるでしょう。さらに進んで、歴史は今や心と体をも分離する方向に進んでいます。
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民主主義陣営を考えてみると、その理念はキリスト教から取り入れようとしていますが、実生活は科学を中心とした個人主義思想に染まっています。したがって、民主主義の理念は自由を基盤としていますが、キリスト教思想とは根本的に対立しています。
キリスト教の理念は自由を主張しながらも全宇宙の自由を主張し、解放を望みながらも全体の解放を成し遂げる解放を望み、統一を主張しながらも全体が神の心情を代わりにする統一、つまり神が喜ぶならば世界も喜ぶことができるそのような観点からの統一を主張しています。
しかし今日、自由を主張する民主主義陣営の人々は、個人主義的な思想に焦点を当てて自由を論じているため、やがて彼らは国家も否定し、社会も否定し、団体も否定し、家庭や夫婦関係までも否定しています。結果として、自分自身の心の中心までも否定する状況に至っています。
それでは、彼らに最終的に残るものは何か?孤独が残るでしょう。この孤独が極みに達するとき、彼らは互いに信じられず、自分さえも信じられない不信の人間となるでしょう。そして孤独と不信の人間となるとき、宇宙的な恐怖が襲い、最終的には自滅を招くでしょう。今日の歴史はこのような趨勢で動いています。
したがって、私たちが自由を叫ぶならば、過去に叫んでいた自由や今日叫んでいる無責任な自由ではなく、神の愛の理念が伴う真の自由を叫ばなければならず、理念的かつ心情と通じる自由を叫ばなければなりません。そしてそれが皆さんの生命力とともに変わることのない鉄則のように、動こうとしても動けない自由の法則的な何かを持って動く世界でなければならないと見ています。
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それでは、人間が共通して享受しようとする幸福の源はどこにあり、自らが全ての罪悪から解放されたと自負し、時間を超越して解放の喜びを感じることができる幸福の源はどこにあるのでしょうか? また、民族を超え、国家を超え、種族を超え、全ての思想を超え、観念を超えた統一の源はどこにあるのでしょうか?
今日の歴史的終末期に置かれている私たちは、当然取るべき理想を一度も取ったことがありません。したがって、このような理想を探し求めないならば、いくら歴史的な終末時代に理想世界が訪れ、あるいは自由の園が成り立ち、解放の園が成り立ち、統一の園が建設されたとしても、それらは皆さんとは何の関係もないことを知るべきです。
私たちの願いがこのようであるため、神の願いもこのようであると見ています。それでは、神の願いと私たちの願いが私たち一人一人の中で成し遂げられ、神の心情を代わりにすることができる心情的基盤を築き、神が私たちに感じる自由と解放と統一を私たち一人一人の中で見つけることができるのはいつなのでしょうか?これを見つけられないならば、皆さんは歴史的な悲しみと共に審判の犠牲にならざるを得ないことを悟るべきです。
今日まで世界の人類は自由の世界を建設するために戦ってきました。自由を得るために戦ってきました。しかし、神は人間が考えるような作戦を使われませんでした。神が解放の目的を達成するために戦いの過程を経なければならなかったとしても、その方法において神は今日の世界の歴史を紡いできた民族が血の闘争を繰り広げたような戦いの方法とは異なる方法を取ってきたことを皆さんは知るべきです。
私たちが人類の歴史を振り返ってみると、個人を解放するため、あるいは個人を救うためにいかなる主権者とも戦ってきましたが、神様が自由を成し遂げるためには他者を攻撃する方法を取らなかったのです。
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人類の歴史を見ると、個人が個人を攻撃し、民族が民族を攻撃し、国家が国家を攻撃し、そうした道を経て一つの自由の理念を追求してきましたが、神様はこれと反対の方法を取られました。個人を探すために個人を攻撃する前に、まずご自身が打たれました。民族を探すためにその民族を攻撃する前に、民族を解放するための苦難の道を神様が先に歩まれました。そして世界を探すために世界を攻撃する前に、まず苦労の道を神様が自ら歩んでこられたことを皆さんは知るべきです。
それでは、将来の自由の主人公となる人はどのような人でしょうか?それは神様を迎え入れることができる人です。そして、神様が自由を成し遂げるための作戦法がこうであるため、今日、私たちが天と同じように感じる自由の理念を探そうとするならば、天の作戦法に従わなければなりません。つまり、家庭を見つけるためには家庭を解放する価値だけまず自分を打たなければならず、民族や国家、世界を探そうとするならば、まずその価値だけ自分を打つことができなければなりません。そして、天のためにも同様にその価値に応じてまず自分を打ち、打たれながらも喜ぶことができなければなりません。このような自由の心情を持つ人だけが、今日の歴史の終末期に必ず残るのではないかと皆さんは考える必要があります。
神様が望まれる自由の主人公、解放の主人公、統一の主人公がその実体の価値を持って地上に一個体として現れなければ、神様の自由と神様の解放と神様の統一の理念が人間と関係を持つことができないため、これを実践するために実体を持つ自由そのもの、解放そのもの、統一そのものとして天に代わって来られた方が今日、皆さんが信じているイエスであることを知らなければなりません。
したがって、皆さんはイエスを信じて神様の心情に深く刻まれていた自由を掴む価値の心情、解放を成し遂げた価値の心情、統一を成し遂げた価値の心情を感じなければなりません。このようにイエス一人を掴むことで、この世のすべてを捨てても自ら喜ぶことができるそのような心情を持たなければ、神様が人間と共に楽しむことができる自由の境地、解放の境地、統一の境地に到達することはできません。
今日、世の中で求められている自由と神様が求めている自由は方向が異なります。世の中は自由を求めるために命を懸けて民族が民族を攻撃し、主権は主権で互いに対決して戦ってきました。しかし天は自ら打たれながら、自ら責任を負い、自ら解決のポイントを立てて全体の範囲にまで広げてきました。これが神様の自由回復運動の秘訣であることを皆さんは知るべきです。
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今日、皆さん自身に焦点を当てて見ると、皆さんが自分の命を放棄できる立場に立っても、その場で喜ぶことができる自由の心を持っているならば、皆さんは最高の自由を持っている人だと言えるでしょう。
復帰摂理の道程に照らしてこれを考えてみると、地上で解放運動があったと同時に霊界でも解放運動がありました。そして神様はこの地上の人間を神の代弁者、あるいは子として直接対することができないため、人間は使者から上がっていって子の座を経て直接神と対することができる位置まで上がらなければなりません。このような歴史の道を経てきたのです。
旧約時代を中心に見ると、神は天使を使者として立て、神の自由の園、解放の天国を建設してきました。そのような僕の立場から神の子として解放される恩赦権に入るためには、命を失いながらも喜ぶことができなければなりません。このような自由の心情を持つ人だけが僕の座を越えて子の座を見つけて入ることができることを皆さんは知るべきです。
したがって、今日まで神の摂理に従ってきた歴史的な先祖たちは、自分の命を失いながらも喜ぶことができる自由の心情を持つことができ、あらゆる試練を立派に乗り越え、死までも乗り越えることができました。このような心情の基準が定められたために、僕の座から子の座、僕の時代から子の時代を望むことができました。そしてこの基準が定められたことによって、神は独り子をこの地に送ることができました。そしてイエスは子の座から父の座まで上がらなければならなかったのです。
イエスはこの地に来て、父の認めを受けるまで自分の命を神のために自由にできる立場に立ちました。そして彼は神の永遠の、変わることのない独り子の理念を完成することができました。それにより今日まで万民の前に立って僕の座にあった人々を子として解放してきました。これは皆さんがよく知っていることです。
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今日、イエスがこの地に来て死を迎える苦難の道を克服し、神の内的な心情と一体となる基準を定めたことにより、私たちがイエスを信じるときに子の座に行くことができる恩恵を受けることができるのです。
皆さん自身が心から神が求められる自由と解放と統一を望んでいるならば、それが皆さん自身に繋がるように、僕の時代から子の時代、子の時代から親を迎える家庭の時代まで自分自身で探し求めなければなりません。しかしこれは自由の原則に基づいて初めて決定されるということを皆さんは知るべきです。
それはどんな命令や制裁、あるいは強制の下で達成されるものではありません。自分の生死の問題を超えて神様を思い、イエスを思いながら喜びと自由の心情が交流されなければ、神様の理念と私たち自身が関係を持つことができないということを皆さんは知るべきです。
復帰摂理の歴史もこのように解放の歴史を繰り返してきました。今までは奴隷の時代を経て、イエスと聖霊を通じて子供として解放される道を歩んできましたが、今や神様の愛を中心にした神様の息子娘となり、神様の家庭で神様の遺産を継承することができる子供となるべきです。
そして、皆さんが神様を中心に永遠に切り離すことのできない生命の基準を立てるためには、死までも自由に主観できる人にならなければなりません。そうして初めて神様の息子娘として神様の遺産を継承する権利を持つことができることを知らなければなりません。
今日、この地も自由を求めて彷徨い、神様も自由を求めて摂理されています。イエスが神様のために死を厭わずに戦ったのと同じように、神様もそれ以上の困難を厭わずにイエスのために歴史を進められました。したがって、奴隷の立場にある人間が天のために死を厭わない自由の心情で生きるならば、最終的には神様が人間に対しても死の峠を自由に越える心情で迎えに来られるということを皆さんは心に留めておくべきです。
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神様が自ら迎えに来られ、主観されなくても、どんな苦難も喜びで乗り越えることのできる自由の基準を立てれば、今までの恐怖や怒り、悲しみや無念さも乗り越え、死の権威までも神様の生命の権威に変えることができるのです。このように根本的な再生の問題を解決できるその時が来てこそ、私たちは神様を自由にお迎えすることができ、神様も私たちを自由に迎えることができるのです。そして神様と私たちが二つではなく一つとなるとき、神様の自由と解放の心情と統一の理念が私たちの自由と解放の心情、そして私たちの統一の理念と一致するのです。
イエスが神様のために命を捧げたにもかかわらず、イエスと神様が通じ合えない部分が残っています。イエスはまた私たちのために死の道までも自由に行きましたが、聖霊とイエスが一つになれない部分が残っています。なぜなら、イエスは天におり、聖霊は地上にいるため、地上なら地上、天なら天というように、一つの場所にしかいられない隔たりがあるからです。また、イエスと聖霊を中心にして子供の立場を見つめて進む私たちとの間にも隔たりがあります。
イエスと神様の間にあるこの隔たりをなくすためには、神様がこの地上のすべての人類を子供のように愛し、神様が自由自在に人類を掴むことができなければなりません。そのような日が来て初めて神様とイエスの間にあるすべての壁を一挙に解決することができるでしょう。
今日、私たちがイエスに従って神様のために死の道までも自由自在に越えたいと願うならば、それが観念や思考だけに留まってはなりません。どんな苦難も自由に乗り越える一つの基準、死の苦しみも忘れられる解放の基準が今日、私たちによって立てられなければなりません。なぜなら、そこで初めて神様との自由な縁が結ばれ、解放の縁が結ばれ、統一の縁が結ばれるからです。今日、神様を求めて彷徨い、神様の御心を求めて信仰を続けている私たちは、神様の自由と解放と統一の理念圏内で神様に代わる自由の主人公となり、神様に代わって万人を解放することができる主人公となり、統一を成し遂げる資格者とならなければならないのです。
そのためには試練の峠を越えても、それを苦痛と感じず、悲しみと感じず、無念と感じない心を持ち、天に対して切なる心で死の峠を越える自由の人となる必要があります。
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このような人がいるならば、天は自分の苦痛や試練も気にせず、すべての権威や威信を放棄してでもその人を掴んでくれるでしょう。そのような境地でのみ神様が私たちの神様となり、私たちも神様の息子娘となることができるのです。
イエスの後、今日まで数多くの預言者が訪れましたが、試練を越えて苦痛を感じなかった人はいませんでした。神様は失われた愛する子供を探すために、すべての威信や苦痛、あるいは試練や悲しみを乗り越える心情の基準を持っていましたが、そのような神様の心情と同じ心情を持つ人を今まで見つけることができませんでした。これが神様の大きな嘆きの条件となっていることを皆さんは知るべきです。
私たちが神様を掴み、そのような死の権威を越える位置、神様が私たちを掴むことで死の権威を越えることができる位置で結ばれる愛の力こそ、そこで結ばれる解放の恩恵こそ、そこで一つになる統一の原則こそ、この全存在世界に自由の基準となり、解放の基準となり、統一の基準となるのです。
このような境地で神様が探そうとするその息子は、歴史上のすべての悲しみを清算した息子、すべての死を清算した息子であり、宇宙全体の価値以上の存在ということです。天と地上、神様と私たちの間にそのような縁はいつ結ばれるのでしょうか?この縁が結ばれなければ、イエス様も自由の位置、解放の位置に立つことはできませんし、統一の理念も成し遂げることができません。そのため、イエス様は未だにあちらの世界で祈らなければならない立場におられるのです。
今日、私たちキリスト教信者にこのような基準が立てられなければ、神様の心情に刻まれていた自由の原則、天の心情に刻まれていたすべての悪と死に対する解放の原則、天の心情に刻まれていた統一の原則が、皆さん自身に変わらない基準として立てられることはありません。
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そのような基準が立てられたならば、皆さんがこの世界を見つめるときに、神様が6千年間摂理を進めてきた際に見つめていたその心情を代わって見ることができ、神様が数多くの悲しみと苦痛と逆境を耐えながら愛する息子を探し求めてきたその切なる心情を持って見つめることができるでしょう。
そのような一つの個体が現れ、その個体を中心として家庭が築かれ、社会が建設され、国家と世界が建設されるとき、神様の自由の園を皆さんの生活圏内に建設することができるのです。神様が望んだ解放の園も、あるいは統一の世界も、そのような基準から出発することを皆さんは知るべきです。
今までは、サタン世界が自由ではない自由の形態の主権を立ててきました。それは自由に見えるかもしれませんが、そうではありません。個人から始まり、氏族を経て民族、国家を越えて世界を統合しているように見えますが、実際には自由から離れ、解放の原則から離れ、統一の原則から離れていることを知るべきです。
世の中が望む基準の上で、神様と対立する位置で統一と自由と解放の形態を持つほど、内面的には不安と不満と恐怖に巻き込まれることになります。外面的には成し遂げられているように見えても、内面的には崩壊していくのです。外面的には統一の形態を整えているように見えるかもしれませんが、内面的には分裂していくのです。
それでは、このように内面的に崩壊していくものを何で補うのでしょうか?これを補う歴史を進めているのが神様です。もし、このような神様がいなければ、今日の人類は絶望の果てに皆自暴自棄になり、結局は死の権威で死ぬことになるでしょう。
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アメリカのような国の人々には、両親もいません。子供もいません。親戚もいません。このような世の中になっているため、国さえも放棄する人が多いです。さらに、自分たちが信じてきた宗教までも純粋に自分たちの利益を追求し、利益がなくなるとすべてを放棄する立場にいる人が多いです。しかし、世界は一個人のために生まれたのではなく、世界全体のために生まれたのですから、自分の利益だけのために生存する人は、世界的な理念のために存在する世界の前で、自分の利益だけのために生きたことに比例した苦しみを受けることになります。
したがって、今日、個人主義思想が蔓延する社会、自分を中心に生活する社会は、最終的には孤立と不信と恐怖の社会になるのです。そして、最後には自暴自棄になり自滅するほかありません。このような運命の歴史的な終結時代に私たちは直面していることを知るべきです。このような現実を見ている今日の私たちは、自由と解放と統一の理念を持つべきですが、どこから始めればこれを成し遂げることができるのでしょうか?
皆さんが知っているその個人的な思想から始めて主張していけば、自分も知らないうちに世界を失い、この世界から脱落する立場に立たざるを得なくなるでしょう。今日、これを総括して、本然の個人から本然の家庭へ、そして本然の社会へ、本然の国家へ、本然の世界へと回復させる何かが人間の前に現れないならば、神様にとっても私たち人間にとっても大きな問題となります。
神様には今日、この世紀末的な時代に自由と解放と統一の理念を人間と共に成し遂げる責任があります。したがって、神様は外的な世界は分裂の形態を持っていますが、心中の根源的な一つの力を世界に示し、死の要因が侵入できない絶対的な自由の原則、絶対的な解放の原則、絶対的な統一の原則の基準を立てるために、そしてその基準を持つ一人の人、そのような人々が集まる家庭、そのような人々による氏族、そのような人々による国家と世界を成すために摂理を進めてきました。
したがって、聖書にはイエスが万王の王として来られた方であり、私たちの生命の主人公であり、天地の主人公として表現されています。そして、生命の主体であり、理念の主体であり、愛の主体として来られた方として表現されています。ですから、この主体であるイエスと私が永遠の関係を結び、結ばれたその関係が再び神様と永遠に関係を結べるその段階まで進まなければ、神様とイエスと私たちの間の隔たりを埋めることはできません。
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今日、私たちの前にいかなる不信の社会、あるいは孤独の社会、恐怖の社会が押し寄せてきても、それを自分の死に備えて毅然として乗り越えることができ、死さえも自由自在に乗り越えられる生命力が皆さん自身にあるならば、どのような審判の世界、破壊の世界が訪れても、皆さんの生命力は破壊されることはありません。そのような基準が残っている限り、皆さんは死の恐怖圏内での審判の犠牲になることはないのです。
この基準は理念的に立てられるだけではなく、霊と肉が実体的に一つとなり、その基準を立てなければなりません。皆さん自身がその基準を持つかどうかによって、今後生き残れるかどうかが決まります。その基準を持たなければ、神様が持つすべてを投入して命を懸けて私たちを探しに来られるときに、私も命を懸けて神様をお迎えする資格者になることはできません。
そのようにして初めて、神様が私を見つけ立ててくださり、自由な生活形態を築くことができるのです。また、神様が私を見つけ立ててくださり、自由と解放の理念、統一の理念を築くことができるのです。皆さんがその資格者になるならば、神様が永遠に存在する限り、私たちは死の権威とは一切関係がなくなるのです。
それでは、今度は皆さん自身に戻って、自分自身に問いかけてみてください。皆さんの心には真の命を中心に楽しむことのできる自由の心情と自由の命、自由の理念があるでしょうか? 問題はここにあります。
そのような心情、そのような命、そのような理念を持っている限り、どんな死の道も、どんな死と苦痛が伴う道も自由に消化して乗り越え、命の要素を回復する資格者になることができます。こうして神様の自由の世界、神様の解放の園、神様の統一の園で永遠に生きる存在となることができるのです。
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自由の道を求めて進む私たちは、試練にも遭い、苦難も受けますが、神様に対する切なる心情、湧き上がる自由のその心情を誰が阻むことができるでしょうか? 誰にも阻むことはできません。すべてを壊すことができても、それだけは壊すことができません。湧き上がるその心情は、死の権威がどれだけ強力であっても阻むことはできないのです。
神様と私が永遠に一つになれる生命のつながりが皆さんの生活を中心に成し遂げられるとき、永遠の神様の自由と神様の解放と神様の統一が、皆さんの心の中で初めて成し遂げられるのです。皆さんの心の中にその基準が立てられない限り、相対的な理念として望む自由、望む解放、望む統一がどれだけ成し遂げられても、皆さんとは何の関係もないのです。
それでは、神様が6千年間も苦労された原因は何でしょうか?それは、神様の心情を代わりにして望んでいるその自由、その解放、その統一を神様と共に持ち、感じ、成し遂げることのできる一つの姿を探すためでした。神様が永遠に存在するように、永遠に変わることのできない基準が決定されて初めて、そのような理念の世界が皆さんの前に訪れるということを知るべきです。
そのような心情の基準を皆さんが持っていないならば、どれだけ外的な世界が成し遂げられても、つまりどれだけ外的に自由と解放と統一の世界が成し遂げられても、それは完全な統一の世界ではなく、完全な解放の世界ではなく、完全な自由の世界ではありません。
それでは今日、私たちの心に生命力が躍動し、理念の力が躍動し、愛の力が躍動していますが、その躍動する力の確固たる基準が、6千年間も苦労された神様に対する精誠の基準が皆さん自身の中に立てられない限り、6千年間も天に対して戦ってきた暗闇の権威、死の権威が皆さんの生涯を覆うとき、皆さんは生き残ることができないのです。
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神様の愛を迎える境地で、自分の生命力、自分の理念、自分の愛の力を持ち、それを基盤にして享受する自由こそが完全な自由であり、その原則に基づく解放こそが完全な解放であり、その原則に基づく統一こそが完全な統一なのです。
このような一つの基準を持たない限り、世界が混乱と混沌、恐怖に巻き込まれたとしても、皆さんはそれを防ぐことはできません。それを動かすことができるのは生命力であり、理念の力であり、愛の力です。これを乗り越える基準を立てなければ、どれだけ苦労された神様の摂理の歴史があったとしても、摂理の歴史を通して求めようとしたその自由も解放も統一も見つけることはできないのです。
<祈り>
お父様!自由の園を失った人間、解放の園を失った人間、統一の園を失った人間たちを憐れんでください。失われたすべてのものが外的な世界で解決されるとばかり思っていましたが、外的には一定の基準を整えながらも、内的には分裂してきた歴史的な悲しみを私たちは知っています。
今、問題となっている内的な自由の世界、内的な解放の世界、内的な統一の世界を勝ち取るために、神様に対する生命の力、愛の力、理念の力が私たちに溢れ、死までも嘲笑い、苦痛と悲しみと無念さをすべて乗り越えることのできる一つの心情の基準が私たちの心に立てられるようにしてください。その結果、心情の世界では全体の聖徒の自由を感じることができ、全体の環境も感じることができ、全体の生命までも動かすことができることを私たちに許してください。
お父様!今日の歴史的な世界を見つめると、内面的には分裂を促しながらも外面的には立派に統一の形態を持ち、物質を中心に動いていることが分かります。しかし、内面的に見ると、それとは逆に精神の欠乏を避けるために、生命の欠乏を避けるために、愛の欠乏を避けるために歴史が流れてきたことを知りました。
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今日、私たちは生命の時間を補充しなければならない、理念の時間を補充しなければならない、お父様の愛を補充しなければならない時期に来ています。私が死の境を越えながらも喜べる心を許してください。お父様をお父様と呼べる心の忠誠を求めなければならず、私に対して心配し、戦ってくださったお父様であることを私が知らなければなりません。お父様のその労苦が、今日の私たちの千万倍の死を超える価値で私を探し求めていることを感じられる心の変化が起こらなければ、精神力や霊の欠乏を補充する生命の力が生まれないことを私たちに許してください。
お父様!今日この地上に生きている人々の心には、物質的な飢饉や渇きだけでなく、精神的な飢饉や精神的な追及を受けていることを知っています。それを満たすことができる聖霊の火、お父様の命、お父様の愛の力を許してください。そしてそれが爆発する場所でのみ得られるすべての内的な生命、追い求めていた自由の理念さえも消化できるお父様の自由の心情、お父様の解放の心情、お父様の統一の心情を私たちに許してください。
お父様、お父様は今日、私たちを探すために一つから全体まで、すべてをその位置に押し出していることを知っています。また、私たちは今日、お父様の名前を持って世界から国家から民族から個人に至るまで、その位置に押し出していることを知っています。
内面的に最終的なその時を迎えて流れている今日、お父様の全体の力を永遠に失わず、世界と矛盾する私を結びつける基準がないので、それを見つけて結びつけることのできる、より大きな心情を私たちに許してください。
お父様の実存性、お父様の命、お父様の理念、お父様の愛、内面的に動いてきた自由と解放と統一がすべて私一人で成し遂げられるように許してください。それによって、遠くの神様も私のもの、遠くの天国も私の国、遠くの理念と通じる心情も私の心情と呼べる資格者になることを知りました。
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心にそのような心情を持つ人だけが天国を所有することができ、そのような人が天国の理念を成し遂げる資格者だからこそ、お父様も私たちに対して「あなたの心に私がいる」と言い、イエスも私たちに対して「あなたの心に私がいる」と言いました。このように天国も私たちの心にあると信じる心情の基準でのみ、すべての解決点が成し遂げられることを許してください、お父様、切に願い求めます。
お父様、今、願わくば私たちにとって自分の体以上に大切に感じられるお父様の心情、自分の自由以上に大切に感じられるお父様の心情、今日の私の生涯以上に大切に感じられるお父様の心情を知り、この世界全体の死を超えるお父様の悲しみを痛切に感じる一つの心情を回復し、それを理解できる私一人を持ってお父様の前に立てる息子娘となることを許してください。
探し求めた労苦の歴史の道の前に、今、私たちの心にお父様の心情が爆発することを許してください。そして、お父様の生命力、お父様の理念、お父様の愛を中心に、生命を基盤にした自由、理念を基盤にした自由、愛を基盤にした自由、そしてそれらを基盤にした解放と統一が成し遂げられたその全体を所有し、「お父様よ!今こそ慰めを受けてください!あなたの心がこれであることを知りました。」と言いながら、歴史の過程で苦労されたお父様の願いを解消することができる心情的基盤を持たせてください。
その結果、お父様を迎え、栄光を受けることのできる生命と理念と解放を歌う立場で、復帰の悲しみと復帰の苦痛と嘆きを解消する自由の回復運動を摂理されたお父様の心までもすべて解消し、世界の全人類が父を迎え、自由を歌い、解放を歌い、統一を歌うことができるお父様の息子娘となることを許してください、切に願い求めます。
今日、私たちに自由の心情があるならば、解放の心情があるならば、無数のサタン、無数の敵があっても、彼らが私たちをどうすることもできないことを知りました。また、理念に縛られないことも知りました。このような自由と解放の位置でお父様と私たちの心情が一つに統一された基準で動く日には、天地は自動的に統一された基準に合致して動くことを知りました。そのような基準を私たちの心に許してくださいと切に願い求めます。
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この生命とこの希望のために私たちは死を覚悟し、お父様の心情と一つになれる基準を立てることができるように許してください。そして、お父様を心に迎えるまで、敵の策略に落ちることのない者たちにしてください。
敵の迫害を超え、お父様の心情が私たちの心に宿るまで変わることのない息子娘となれるように許してください。すべての恐怖を乗り越えることができる息子娘となるように許してくださいと切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の名前によって祈ります。アーメン。
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