人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(3)

2024年08月18日 17時40分14秒 | 日記
文鮮明先生の御言葉選集 5 - 3 「真理を探し求めてさまよう人類」1958年12月21日(日)、前本部教会。

聖書拝読:マタイによる福音書 7:1-12



<祈祷 (Ⅰ)>

愛する天のお父様、愛の理想郷を目指し、あなたの愛を慕わねばならない人々が、その理想郷を建設しようとするあなたの心情を拒んでから、何千年もの歴史の歩みを経て悲しい涙の足跡を残しています。どうか、このような私たち人間をお許しください。

失われたあなたの愛を恋しく思わねばならない時が来ています。私たちはあなたの心情を感じ取り、あなたの側に立たねばならない復帰の日が近づいていることを知っています。愛するお父様、今日、私たちを立て、新たに勧告してください。私たちをお呼びくださったので、新たに戒めてください。復帰の悲しみを取り除き、喜びと栄光の姿であなたの前に礼拝できる私たちとならせてくださることを、お父様、切に願います。

どうか私たちの心が私たち自身のものに留まらないように、そして私たちの身体が自分だけのものにならないように許してください。私たちが感じる感情から持っている観念や主義主張まで、すべてが私たち自身のものでないようにしてください。すべてが天を基にしていることを知っているので、この時間、あなたのものとしてすべてを掲げ、あなたにすべてをお返しできる私たちとなることを、愛するお父様、切に願います。

私たち一人ひとりは、自分の心を主張しても、その心だけで万象の前に現れることはできません。また、自分の身体であっても、それだけで万人の前に誇れる自分ではないことを認めさせてください。自分の持つ何ものをもってしても、自らを宇宙全体の前で誇ることはできない自分であることを認識させてください。そして、自分のすべてを捧げ、あなたの復活の心情を受け入れ、あなたの心情で調和できるようにしてください。そして、あなたの心情の中に深く入り込めるよう導いてください。再創造の命令の言葉を喜びの心情で受け入れることができる切なる心を許してください、愛するお父様、切に願います。

お父様、幼い者たちがこの時間集まったので、私たちが持ってきた心を主導してください。あなたの前にひれ伏す時には、供え物を捧げるのが私たちの本分でしたが、何も持ってこれませんでしたので、お許しください。あなたに捧げるのは切なる心だけです。この心をすべてあなたのものとして受け取ってください。この身体をあなたに捧げますので、生ける供え物となることを許してください。このような切なる心、慕う心がここに集まった全体の頭の上に、心情の上に、心の上に現れることを許してください、お父様、切に願います。

     1

お父様、ここに集まったあなたの息子娘たちの心を主導してください。個々の状況が違うように、感じる感情も違い、過去に汗と涙を流した歩みも違い、主張も違いますが、この一時間だけでもあなたの心情に引きつけられ、あなたの切なる心に引きつけられるよう主導してください。そして互いに一つの束に結び、同じ目的を果たす供え物となることを許してください。この集会の中にサタンが入り込む心の要素を持つ者がいないようにしてください、お父様、切に願います。

お父様、許された一つの基盤を持っていることに感謝し、私たちが負わなければならない使命を理解させてください。私たちはこの民族の前で言葉を宣言しました。この言葉によって天を向かって慕う心情を持ち、現れる者が多くなることを許してください。この民族、この民の中に、この言葉を握りしめ、あなたに向かって切に祈る者が多く現れることを許してください。

終わりの日に直面している私たちが天の栄光と意思を成就するために勝利の祭壇を準備できるようにし、あなたの勝利の日が早く来ることを切に願います。あなたの栄光が結実することは難しくないと信じています。私たちがそのために内的にも外的にも忠実に準備することを許してください、お父様、切に願います。

今、私たちにとって、この時期は心と身体を捧げて祈らなければならない時期であることを許し、伝えるべき言葉を私たちの心と身体に持つことを許してください。この言葉を実践する責任感を失わないなら、その結実がこの民族の前に現れると信じています。お父様、あなたの意思をこの民族を通して成し遂げ、受け取るべき栄光をこの民族を通して受け取ってくださいと切に願います。

今日は聖なる日です。万人に祝福を与えると約束された日ですので、あなたに向かって切にひざまずいて集まった祭壇祭壇に祝福を与えてください。

     2

一つの心情を通して、一つの血統を通してあなたの前に息子の名前を持って集まった子供たちですので、互いに一つになることを許してください。互いに許し合い、互いに調和することを許してください。そして、あなたの抱いた心情を私たちも抱き、あなたの意思を気にかけることができる集団となることを許してください。

お父様、韓国の教会界を哀れんでください。彼らは命の道を求めていますが、自分たちの進むべき道がどこなのか分かっていません。そして、自分たちの命に自信を持てなくても、そのような教団の上に祝福を与えてください。お父様、進むべき道を知らずに迷う彼らの前に命の光を照らしてください。全宇宙の前に一日の勝利の栄光を表すあなたの息子娘たちとして、万人の前に誇れるこの民族となることを許してください、お父様、切に願います。

お父様、私たちを孤独な場所に追い出されたこの一つの意思を理解しています。私たちを民族の前に供え物として許してください。供え物の道理は、まずあなたが喜ばれ、万物が喜んだ後に喜ばねばならないことを知っています。だからこそ、供え物は自分の血肉をすべて捧げてあなたの意思のために静かに生きる責任があります。ここに集まった息子娘たちもそのことを知っています。

今、立てられた天情を受け入れて、この身も心も祭壇となり、あなたの前に捧げられる供え物となるようにしてください。この一身があなたの実体の聖殿となり、あなたの栄光を讃えることができ、ただ一人、あなたの事情を慰めることのできる息子娘たちとなることを許してください、愛するお父様、切に願います。

今日も地方で多くの迫害と困難の中で与えられた責任を果たすために戦っているあなたの息子娘たちと共にいてください。彼らをあなたが導かれたので、その結実もあなたの胸で成し遂げられるように導いてください、お父様、切に願います。

     3

今、欠けた誠心ながらも、あなたの膝前にひれ伏してそのまま捧げますので、お父様、欠けているものがあれば自らむちを持って叱責してください。それでも、あなたの心情を理解する子供たちがいるならば、抱きしめてあなたの事情、あなたの心情を吐露できるこの一時間となることを許してくださいと、切に願い、求めます。今日のすべてをお任せして主導してください。主の名においてお祈り申し上げます。アーメン。



<祈祷 (Ⅱ)>

お父様、この一年も終わりに近づいているこの時に、私たちが過ぎた一年を振り返り、新しい年を迎える準備の心情を持つことを許してください。新しい年にも、あなたの新たな栄光を望みながら、過ぎた一年よりもさらに深く、切なる心情であなたの手に引かれ、あなたの事情を通じることのできる場所に私たちを導いてください。あなたの胸に引き寄せられることを許し、行くべき場所がどこであってもついていく準備と覚悟を持つことを許してください。

お父様、私たちの命は私たちのものではないことを知っています。私たちの理念や愛さえも私たちのものではないことを知っています。今、私たちの心、私たちの体、さらには私たちの命さえも、あなたによって与えられたものであることを許し、私から出たものではないように導いてください。

人間が自分を中心に誇ることも、肉体を持っている期間だけであることを知っています。人間がどんなに自らを高めても、制限された時間の範囲を超えることができない欠けた存在であることを理解しました。あなたの高き心情を見習うことのできる心を与えてください。広き心情を見習うことのできる切なる心を与えてください。深き心情に似るために、自らを否定し、天に向かってひれ伏すことのできる心を抱くことを許してください、お父様、切に願います。

お父様、私たちの身体を供え物として捧げますので、受け取ってください。この祭壇の前にひれ伏しているので、受け入れてください。人間的な何ものもここに入り込まないように許してください。人間の力を通じた何ものも入り込まないようにしてください。

     4

この一時間だけでも、お父様、6千年間、あなたが人間を探し求めてこられた切なる心情と、その心情の上にあふれる感情をもって格闘させてください。そして、あなたの悲しみを感じ取り、無限に泣き崩れることのできる心の変化が起こることを許してください。あなたの事情を抱きしめ、胸を叩くほどの極めて深い心情を持つことを許してください。

お父様、失われた人間を探し出すために、6千年の歴史的な復帰摂理の歩みを続けてこられたことを学びました。そのような歴史の道を通じて、あなたが流された涙の祭壇の跡を私たちは知りました。あなたがその歩みの中で、安らかに歩むことができなかったことを知りました。今、私たちの心が焦燥に駆られても、自分のためにあるのではないように許してください。無限に苦しい時にあっても、自分を中心としないように許してください。

言葉にできないほど孤独で、言葉にできないほど迫害され、無限に追い込まれ、無限に不当な立場に立たされても、自分のためではなく、あなたのために立つことのできるあなたの息子娘たちとならせてください。

心は心を通してでなければ通じず、命は命を通してでなければ通じず、理念は理念を通してでなければ通じず、あなたの愛も愛を通してでなければ通じないことを知っています。お父様、永遠の命を動かすためには、命は命で動かさねばならず、愛は愛で動かさねばならないことを知っています。お父様、そのように命の主であるあなたが命として現れ、愛の主であるあなたが愛として現れてください。

私たちはその命の枯渇に苦しんでおり、愛の枯渇に苦しんでいます。そして、すべての理念的な面で困窮しているので、一日の生活も守れない欠けた姿です。天と地を裏切り、理念を失った堕落の恨みを胸に抱き、この日も悲しみながらあなたの前にひれ伏します。この哀れな姿を、お父様、抱きしめてください。あなたが知らないと言うなら、誰が私たちを引き受けてくれるのでしょうか。あなたが私たちを支えなければ、誰が私たちを支えてくれるのでしょうか。私たちの前には指導者もなく、師もいません。唯一、お父様、あなたが共にいてくださることを切に願います。

     5

私たちが困難に直面する時や、悲しみに襲われる時、あなたが私たちの心を慰めるために努力してくださっているのを感じるとき、あなたの前で顔を上げられない私たちであることをお詫び申し上げます。「行け」とおっしゃる道に従い、私たちが迫害される歩みを続けるのを見て、涙を流されるお父様、申し訳ありません。「来い」とおっしゃるあなたの呼びかけに応えて、あなたが歩まれた足跡をたどり、死の道も覚悟した私たちです。お父様、死の道が現れたとき、死の恐怖に怯え、その前で退く者にならないようにしてください。私たちの身体が引き裂かれ、心が引き裂かれる苦しみが訪れても、お父様、あなたのため息が残っており、あなたの願いが残っており、あなたの愛が残っている限り、すべてを克服して立ち向かうことのできる天の真の勇士、天の真の息子娘となることを許してください、愛するお父様、切に願います。

お父様、私たちを民族の前に、孤独な場所に追い出されたのは、あなたの大きな摂理があるからであることを知っています。どうか、あなたが私たちを叱り、打ち、歴史してくださり、私たちが死の世界を突き破ることのできる命の基盤となるようにしてください。そのように、この命の動きが私たちを通じて孤独な祭壇にまで現れるようにしてください。

死の世界を突き破ることのできる天の勇士がいるならば、その者もまた感謝の心を持ち、立ち向かわせてください。そして、あなたが残されたこの最後の道でためらう者にならないように許してください。残された者たちがその道を見て引き返す者にならないようにしてください。今日、死の都市に向かって進んでいる私たちです。お父様、あなたの力強い手を取り除かないでください。力の言葉を与えてくださり、最終的な栄光を讃えるその日まで、最終的な勝利を手にする日まで導き、勧告してください、お父様、切に願います。

お父様、40数の道を探して立てるために、私たちよりも多くの苦労をされてきたことを知っています。そして、成し遂げる時が近づいていることを知っています。今、私たちの心はどこへ行くのか、私たちの身体はどこへ行くのか。この民族はどこへ行くのか。この人類はどこへ行くのか。どこへ行っても死の恐怖が迫っています。ここでこの民を責任を持って導くことのできる、血がたぎる若者たちが必要な時が来ています。ここに集まったあなたの息子娘たちを勧告し、彼らの血と肉があなたのものとなるようにしてください。愛の爆発物、愛の原子爆弾となるようにしてください。そうして死の世界を克服し、すべてをあなたのものとして返すことができるようにしてください。その勝利の園を新しい再創造の理念圏内で抱き、威風堂々とした勇姿を持つ精兵の姿となるように導いてください、愛するお父様、切に願います。

お父様、切に祈ります。この民族の運命を哀れんでください。この民族を抱きしめ、無限に涙を流し、無限に悲しみ、無限に悔い改めるあなたの息子娘たちが多くなければなりません。この民族の中には、天倫のため、国家のため、民族のために泣かなければならない選ばれた者たちがいます。

     6

お父様、私たちの心に民族的な命の感情、民族的な愛の感情が爆発するようにしてください。この民族を兄弟として、両親として、友人として抱きしめ、あなたに向かって進むことのできる息子娘となることを許してくださいと切に願います。

深い眠りに落ち、迷っている人類を哀れんでください。この人類の命に代わって、あなたの前に祭壇を築こうとする多くの息子娘たちが集まっている場所ごとに祝福してください。

速やかに、あなたの業を行うために無限に許容し、無限に譲歩する心を持つことができるようにしてください。あなたの業であるならば、命を超越し、自分のすべての所有権を超越してあなたの前にすべてを捧げなければならない人間であることを知っています。互いに思いやり、互いに尊重し、互いに支え合うことができるように導いてください。そうして、失われた一つの理念の世界、一つの善の園を復帰するあなたの働きが、この全ての民族、頭を下げる場所ごとに現れることを許してください、お父様、切に願います。

この時間、霊界にいる無数の聖徒、無数の天使たちを動員して、正しくない暗闇の勢力を防いでください。そして、取り除いてください。お父様、あなたが唯一の主導者として、唯一の栄光を担当してくださることを願います。孤独な家族を抱きしめ、慰め、導いてくださることを願います。すべての言葉を主の名によって祈ります。アーメン。




<祈祷 (Ⅲ)>

お父様、私たちの心情を空虚な心情に変えてください。あなたに向かって無限に湧き上がる私たちの心情となることを許してください。そのような心情の中で、あなたが万物を創造されたその創造理念を移してくださり、あなたが動くと私たちの心が動き、あなたが静まると私たちの心情が静まることのできる自分たちとなることを許してください。

     7

静かな心に沈んで、その心に映る姿を見て喜びたいと思われたお父様、静かな心情を見て訪ねてきて撫でたいと思われたお父様、今、私たちの心と心情はあなたによって動き、あなたのものとしてのみ使われるようにしてください。そして、あなたのものとしてのみ調和し、あなたのものとしてのみ本質世界に深く染み入ることのできる私たちの身体と心情となることを切に願います。

地上には多くの人が住んでいますが、その心の根底、その心情があなたの中に隠され、埋もれるために苦しんでいる者はいないことを、お父様、知っています。今日、私たちの心は非常に本然の心情が恋しく、本来の本性が求められています。これを実現するためには、あなたの新しい言葉が必要であることを知っています。

あなたが喜ばれるために創造された人間が、たとえ堕落して悪い世界に生きているとしても、本性の本然の世界を目指して動いています。本性を呼び起こすための本然の再創造の言葉を6千年、待ち望んできました。そんな言葉を恋い慕い求めて6千年…。

今、死の都が裁きの日を迎えようとしています。お父様、そんな時にあって、恐怖の世界で苦しんでいるこの人類、行くべき道を知らずに迷っているこの人類、中心を失い、居場所を知らず、留まる場所を見つけられない人類を哀れんで、あなたの胸の中に戻れるように導いてください。

ここに集まった子供たちは、あなたが探し求めることのできる聖殿であり、本質的な基盤であることを知っています。あなたが動かないならば、この地上のすべての被造物は裁きの日を迎え、無限の苦しみを受けることでしょう。お父様、再創造の手を差し伸べてください。

     8

愛するためにアダムとエバを創造された元の創造原則があるのではないですか。その原則に基づいて、この人類を再びあなたの前に立たせるために、疲労も顧みず、無念も悲しみも顧みず、怒りと涙の道も顧みず、血の祭壇も顧みず、私を支えてくださるあなたの心情を理解させてください。そのようにせざるを得ないあなたの歴史的な事情を理解できるように導いてください。


あなたの焦燥感を感じ取って、この時間、すべてをあなたのものとして調和させ、あなたのもの以外の一切を取り除いてください。あなたが喜ばれるならば、私たちも喜ぶことができ、あなたが動けば、私たちも動くことを許してください。そうして、万象の前に美の栄光を備えた本来の姿で現れ、新しい声で伝えることのできる姿に回復させてください、愛するお父様、切に願います。

今、私の心が私の心でないことを知りました。私の身体が私の身体でないことを知りました。私が生きているこの地が私のものでないことを知りました。この宇宙が私のものでなく、すべての被造物が私のものでないという事実を知りました。すべてがあなたに由来し、あなたの意思と結びついて、あなたのために創られたものであることを知っています。

このように創られた中心に対して、すべての人々は喜びの栄光を探さねばならないのが創造の本性であることを知っています。立てられた一つの中心の栄光に調和し、心が動き、全宇宙が動くことのできるそのような調和の実体、本来の姿に回復させてください。

今、宇宙的な悲しみの歴史を清算し、新しい喜びの歴史を創造せねばならない時が来ました。お父様、私たちの力が不足しているので、強い力を与えてください。そして、強い欲望を持つことを許してください。新しい勇猛さを備えて目標に向かって自信を持って進むことのできる天の精兵の姿を備えることを許してください、お父様、切に願います。

     9

カナンの地を見据えたヨシュアとカレブにあなたは「強くあれ、雄々しくあれ」とおっしゃいました。敵に対して立てられたヨシュアの前に立つ基準は「強くあれ、雄々しくあれ」というものでした。今日の私たちも強く雄々しくカナンの都市に向かって総攻撃を仕掛けなければなりません。

最後の決戦が目前に迫っているこの時、暗闇の勢力に対してこの地上で責任を持って戦うことのできる息子娘が必要であることを知っています。お父様、ここに集まったあなたの息子娘がそのような責任者となることを許してください、愛するお父様、切に願います。

ここに集まった息子娘たちの心を主導してください。今日、自らを立てて主張する者がいますか?自分の主義や思想、観念を通じて、あるいは自分の認識を通じて、あなたに接する者がいますか?それはあなたの絶対的な権威を知らない者であり、あなたの背後にある苦しみを知らない者です。

お父様、私たちの心情を握りしめ、新しい命の言葉を聞き、新しい愛の感情を通じて再創造の業を成し遂げることができるようにしてください。自分の不足や未熟さを悟らせ、未完成な存在であることを告白して、頭を下げることのできる息子娘となることを許してください、お父様、切に願います。

本性は一つの理念に向かって動こうとします。私たちの身体と心もその意思に従って動くことができるようにしてください。この時間、心と身体が一つとなることを許し、この一つとなった身体と心が供え物として捧げられることを許してください。

     10

恨みと悲しみで6千年間閉ざされていた死の壁を切り開くことができるようにしてください。そうして、無数の聖徒たちが動き、三位一体を中心とした霊界の多くの霊人たちがこの時間、喜びの讃歌を捧げることができるようにしてください。万有万象のすべての存在の前に復帰と解怨の日を約束するこの一時間となることを許してください、お父様、切に願います。

心が主導となり動く全体の世界を身体で統合し、あなたの祭壇の前に結びつけるこの時間となることを切に願います。

今、言葉を伝えようとします。伝える者の心と受ける者の心が二つにならないようにしてください。心で動く言葉であるならば、心で心を感じさせてください。身体で調和させ、あなたの実体の姿の前に導かれるこの一時間となることを許してください。

サタンが一切入り込まないようにしてください。サタンが訴える要素を聖別してください。お父様、あなたが直接、主導してください。


自らの不足を感じ取らない者には、炎のような目で現れてください。そして、私たちの身体と心をあなたのものとして主張し、あなたが臨在してください。苦しみの条件を通じて蕩減復帰の使命を完遂する、その業を成し遂げることのできる私たちとなることを許してください。すべての言葉を主の名によって祈ります。アーメン。


     11




<御言葉>


今日、皆さんにお話ししようと思う題名は「真理を探し求めてさまよう人類」です。「真理を探し求めてさまよう人類」という題名でお話しします。


今日、皆さんは言葉にできない焦りと忙しさを感じ、その一方で悲しみを感じている自分をよく知っていると思います。しかし、自分の身体には心があり、その心には心が求める何らかの目的があり、その目的の本体へと無限に吸収しようとする力があることを否定できないでしょう。何か分からないけれど、自分を何の当てもなく無限に引っ張っていくような生活環境に置かれている自分自身を否定できないでしょう。


このように感じるならば、皆さんは自分自身に戻り、自分の身体を再び感情で見つめ直し、自分の心を再び感情で見つめ直す必要があります。さらに、今日の人類が知らない理念的な無形の世界があるとするならば、その霊的な世界の霊を中心に自分自身を再感情する必要があります。


そして、その霊と自分が一体である、つまり、いかなる観念や思想、理念の中で一体的な関係を築き、一つの方向に進むことのできる自分を見つける必要があります。そうしなければ、皆さんの心情には平和が訪れることはなく、幸せや何かを求めたとしても、その希望は成就されないのです。これをまず皆さんに断言します。


皆さんが原理を通して学んだように、人間は本来、善なる存在でした。しかし、その善なる人間が一日で過ちを犯し、善でない存在となったことを歴史が証明しており、私たち宗教者も証明しています。また、自分自身もその事実を否定できません。


     12


その善の基準は、私たちの命と他のすべてが追い求める理念の基準であり、希望の基準です。さらに、心と心の中で動いている永遠の愛の中心であり、情的な理念の焦点です。そして、それは今日、自分の心を引っ張って何らかの絶対的な安息の場所を追い求めるものです。また、時間と空間を超えて、自分の身体を制御し、自分の心の方向を制御し、自分が目指している理念を制御する力として作用しています。


今日、これを自分一人を中心に見たとき、つまり、身体を中心に見るのか、心を中心に見るのか、あるいは霊を中心に見るのか、そのいずれかが一つ一つの中心となるべきです。そして、これに自由に接し、自由に調和することができて、個人の生活的な感情が全体の感情と結びつくことのできるそのような環境を作るべきです。そうしなければ、皆さんの心と身体、あるいは霊的な動きの全体の価値を見つけることはできないことを理解してください。


だからこそ、堕落によって生じた恨みが今日のような悲しみの場所を生み出し、堕落による悲しみが人類をこのような逆境に追いやったのです。ですから、皆さんが進んでいる歴史の道は堕落によって始まった道をそのまま歩んでおり、そのような立場で苦しんでいるのです。


それならば、皆さんが苦しんでいる自分の姿を第三者の立場に立って批判してみてください。あなたの身体はどの方向に向かって動いているのか? あなたの心はどの方向に向かって動いているのか? そして、あなたの霊的な姿はどの方向に向かって動いているのか? 何か分からないが、絶対的な理念の本体であり、善の本体であり、命の本体であり、愛の本体であるその何かを必然的に探さねばならない人間なのに、自分自身は今、迷っています。


そうであれば、このような自分の姿が絶対的な善の方向と角度に比べて、どの方向と角度を持っているのでしょうか? 自分の心は上へ行きたいのに、左へ行くのはどういうことなのでしょう? 自分の心はより高い理念を持ちたいのに、限界のある宇宙観を持っているのはどういうことなのでしょう? このような立場から脱却し、本来の自分を見つけるために復帰の道を歩んでいる今日の人類です。今、皆さんの姿をもう一度冷静な立場から観察するべき時が来ました。そして、皆さんは何かを探すために苦しんでいる自分の頑なな姿を見つめることを知るべきです。さらに、皆さんの心と霊が実体として調和し、一つの栄光の価値を代わることのできる姿となるべきです。しかし、創世以来、そのような姿は一度も現れたことがありません。ですから、何か分からないが、探さなければならない道、運命の道を歩まなければならない自分自身であることを理解すべきです。


     13


自分自身には身体があり、心があり、霊があります。私たちはこの身体と心と霊が統合された一つの姿となるべきです。したがって、この地上に何らかの創造的な主人がいるならば、その主人の前に引き寄せられ、抱きしめられることができ、その一体が他を抱きしめることができる姿、これが創造主が探し求めている姿であるでしょう。また、今日、私たち人間が探し求めている姿でもあるでしょう。


では、自分の心は身体に真実を求めるよう命じています。まず真の身体を求めるよう命じています。今日、世界の人類は何か分からないが真実を探し求めてさまよっています。堕落による恨みの中で生きているこの世界に住んでいるため、何か分からないが真実を探さねばならないその運命に巻き込まれています。


今、皆さんは探さねばならない本来の自分を見つけて喜ぶことができない自分であることを理解すべきです。悲しみに直面している自分であることを理解すべきです。しかし、何かの世界を見て悲しんではいけません。苦しみを感じても、何かの相対的な世界で起こる苦しみを感じてはいけません。悲しみと苦しみを感じるならば、真の自分を見つけられない悲しみ、真の自分を見つけられない苦しみを感じるべきです。世に悲しみや苦しみが多いとしても、真の自分を見つけられない悲しみと苦しみよりも深い苦しみや悲しみはないことを知るべきです。


では、創造主である神様は今日まで誰を探しておられるのでしょうか? 皆さん自身、つまり私を探しておられます。だからこそ、真の私が完全に決定されねばならないのです。そうでなければ、完全に一つの実体を中心とした真の家庭、真の家庭を中心とした社会、国家、さらに国家を単位とした世界、世界を単位とした天宙とつながることはできないのです。だからこそ、完全に私となることがすべての段階の第一基準となるのです。


神様は6千年間、人間に対して無限に悲しんでこられました。愛する息子娘を失ったこの事実が悔しいならば、それ以上に悔しいことはないことを理解すべきです。すべての被造物が宇宙空間に満ちていますが、それは問題ではありません。アダムとエバを一つ失ったことによって、全宇宙が暗闇の世界に変わったということです。そして、神様は無限の苦しみと悲しみを感じておられるということです。


     14


では、今日の人間が失った自分を見つけるためにはどうすればよいのでしょうか? 失った当時の神様の心情を思い出さねばなりません。そうでなければ、本来の自分を見つける方法はないのです。失ったものは失ったその場所に戻って探すことができるように、失った自分を見つけるためには、自分を失った時の神様の心情を思い出さねばなりません。そのような運動を提唱しなければ、人間は本来の自分を見つけることができないのです。


それで天は私たち人間に対して6千年もの間、探し求めてこられたのです。つまり、私一人を見つけるために6千年の歴史的な道を歩んできたのです。その6千年の歴史的な道は血の涙の道であり、その6千年の歴史的な道は迫害の道であり、その6千年の歴史的な道は死の道でした。


このような道を歩みながらも、神様は私一人を探し求めるために、6千年前のエデンの園でアダムとエバを失い流されたその悲しみの涙、苦しみの心情を忘れずに戦い続けてこられました。6千年を一日として失ったその時の心情で人間を探し続けてこられました。このような神様の心情を皆さんは理解すべきです。


悲しみは6千年前の神様の心情から始まりました。したがって、今日までの歴史は悲しみの歴史として残り、私たちには悲しみの結実が生じました。ですから、神様の心に刻まれたその悲しみを解消しない限り、今日の人類の悲しみは解消されません。この事実を私たちは理解しなければなりません。


絡まった問題は絡まった場所で蕩減復帰しなければならないのです。これが救済摂理の鉄則です。これが鉄則であるならば、今日の私たち人間は自分一人を探し求めるために失われたその心情を探し求める歴史的な終末時代が来ることを知るべきです。では、終末時代にはどうなるのでしょうか? 一つの心情の基準を定め、その心情を基準に審判が行われるということです。


     15


今日、皆さん自身を見つめたとき、皆さん一人の身体には6千年もの間、神様の悲しみの涙の跡が染み込んでおり、神様の苦しみの血の跡が染み込んでいることを理解すべきです。そして、骨の髄にまで悪に対する恨みが刻まれていることを理解すべきです。また、このような恨みの条件を取り除くための神様の悲しみと苦しみが自分一人の身体に染み込んでいることを理解すべきです。


昔、エデンから追放された人間は、神様の心情を知らず、自分を中心にして悲しみました。だから今、自分の身体の悲しみと苦しみを忘れて、まず神様を悲しみと苦しみから解放しなければなりません。このような自分にならなければ、歴史的な恨みを解消して乗り越えることはできないのです。だから今、自分一人が6千年もの間流された神様の涙の結晶であることを感じるべきです。そして、自分一人の身体は神様の涙の結晶であるだけでなく、神様の苦しみの結晶であることを理解すべきです。そのような場所でこそ、自分の存在価値が再生されるという事実を理解すべきです。


だからこそ、堕落によって生じた悲しみと苦しみを解消すべき終末に直面している私たちは、今、神様の心情を代わらねばなりません。6千年もの間悲しみ続けてこられた神様を代わって悲しむことができるようにすべきです。6千年もの間苦しんでこられたその神様を代わって苦しむことができるようにすべきです。その神様を代わって受け入れる立場にあるのが人間です。しかし、このようなことを知らない人間であるがために、天は審判という言葉を掲げて人間に対して涙を流しながら摂理を進めておられるという事実を皆さんは理解すべきです。


では、審判を避ける道はどんな道なのでしょうか? 自分の身体を抱きしめて泣くことではありません。自分一人の苦しみのために泣くことではありません。自分を救うために自分の苦しみよりも大きな苦しみを持っておられる神様の苦しみを理解すべきです。自分の悲しみよりも大きな神様の悲しみがあることを理解し、自分の身体の困難よりも大きな神様の困難があることを理解すべきです。そして、自分のすべてを否定し、背後から歴史を動かしてこられた神様の心情に染み込んでいるすべての苦しみを解消して差し上げるべきです。そのようなことを担うべき身体を探し求めねばならない運命を持っているのが今日の人類です。


このように見ると、堕落した人間が自分自身を打ち破るためにはどうすべきでしょうか? 自分の心を動かすことができ、自分の身体を動かすことができ、自分が持っている物質を動かすことができるのは何でしょうか? それは完全な愛の心情です。だから皆さんは、霊が心を抱きしめて愛することを感じることのできる人、心が身体を抱きしめて愛することを感じることのできる人、身体が万物を抱きしめて愛することを感じることのできる人になるべきです。まさにそのような人が、私たち人間が探し求めねばならない目的地であり、終着点なのです。


     16


しかし、心があっても、心が身体を抱きしめて愛していることを感じる人がいませんでした。霊が心を抱きしめて愛していることを感じる人がいませんでした。神様が私たちの霊と心と身体を抱きしめて愛しておられますが、それを感じることのできる人がいませんでした。このことを皆さんは理解すべきです。


神様は私の霊を抱きしめて愛しておられ、私の霊は私の心を、私の心は私の身体を、私の身体は万物を抱きしめて愛すれば心情が統一されるのです。そのような世界では万物を愛する心情は身体を通し身体を愛する心情は心を通し、心を愛する心情は霊を通し、霊を愛する心情は神様と通じるのです。これが人間が探し求める終着点です。


皆さんを引き止め「あなたにはどんな使命があるのか知っていますか?」と尋ねる人はいません。しかし皆さんが知らないうちに皆さんが進む道を遮り、「あなたは誰か? あなたはどこへ行くのか? あなたは何をするのか?」と勧告しておられる方がいます。しかし皆さんはこれを知りません。


では人間が堕落したことによって何を失ったのでしょうか? 愛を失いました。神様の愛を失ったことが人間が嘆き悲しむ原因です。そのために人類の歴史も神様の愛を失った中で嘆き悲しむ歴史の道を歩んできました。分かりますか?


神様の愛は実体的な地上の天国を建設することのできる永遠の天国理念の土台です。しかし人間は堕落によって永遠の世界の理念的な基盤である神様の愛を失いました。この神様の愛を失ったために、神様は人間から離れてしまいました。そうして地上の天国を築くことのできる神様の愛は次第に崩れ落ちていくのです。


     17


神様の愛を失ったことが堕落であると述べました。では、その堕落の歴史的な経路を考えてみると、どのような道をたどったのでしょうか?まず最初に、エバが神様の愛を失いました。次にアダムがそうなりその後に彼らの子供たちもそうなりました。このことは皆さんもよく知っているはずです。これが堕落の経路であり、人類の歴史もまた、愛を失う歴史であったのです。


では最初に愛を論じたのは誰だったでしょうか?それはエデンの園のエバでした。次に誰だったのでしょうか? アダムでした。そして、その次はカインとアベルでした。これが神様の前に最初に現れた人類の家族が歩んだ堕落の歴史の原型だというのです。この堕落の歴史的形態が人類の歴史の始まりに起こったため、人間は今までこのような歴史を経てきているのです。


したがって愛は全宇宙を統率できる一つの中心です。それは主観的な中心であり、統率的な中心であり、寛容的な中心です。これが愛の理念です。この理念が歴史の基盤となったのです。


そのため歴史の道程を見てみると原始時代には母系を中心とした氏族社会がありました。これは最初にエバすなわち母親が愛を論じたからです。これが部族社会を経て、父系を中心とした歴史へと移行し、そして今日の民主主義時代に至っては、兄弟を中心とした兄弟主義の時代になっています。このようにして下ってきた歴史は、終わりを迎えました。今日の人間たちには、親に対する愛を見つけることができなくなってしまいました。今日の民主国家がその例です。


そのため最後には兄弟の立場から夫婦の理念を備えて進んでいくものさえも壊れる時期がやって来ます。だからこそ、今日、天が人間と連絡を取ることができる愛の梯子が断たれつつあるのです。したがって今日の人類は親の愛を失った孤児、真の夫婦の愛を失った孤児、真の兄弟の愛を失った孤児のような立場で生きています。これまで先進国ではまずこうしたことが縦に起こっていましたが、現在ではこれが世界的に、横方向に広がっているのです。


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では、堕落がどのようにして起こったのでしょうか? アダムとエバが神との縦の関係を結べず、サタンと相対的かつ横の関係を結んだために堕落が起こったのです。したがって歴史的な終末時代である今日、民主主義を中心に平等主義が叫ばれているのです。


堕落によってアダムの家庭で何が起こったのでしょうか? カインがアベルを殺しました。そのアベルはエバの代理として存在していました。だからこそ、今日の先進国では平等主義が叫ばれると同時に、女性が男性よりも多くの権限を持つようになっています。したがって、この時代は、横の面を通じて縦の面を立てなければならない時代なのです。しかし、ここで完全な縦の関係を結ぶことができなかったために、世界的な関係が壊れている様子を見ることになります。


今日、皆さんが進んでいくべき道は、天が示す新しい理念の道であり、生命の道であり、愛の道です。この新しい理念と生命を紹介する愛の道を見つけていく歴史の道に立っていることを、皆さんは悟るべきです。

これまで皆さん自身が失ってきた親はどのような親でしょうか?失ったその夫婦はどのような夫婦でしょうか?失ったその子供たちはどのような子供でしょうか?彼らは堕落していない親であり、堕落していない夫婦であり、堕落していない子供です。したがって、今や堕落した一族となったそのエデンの悲しみを払拭し、エデンの喜びを獲得できる一つの集団がこの地上に現れなければならないのです。そのような集団が現れなければ、神様の6000年の復帰摂理は根本的に滅亡の危機に瀕することになるでしょう。

堕落した人間を救うための人類の歴史は、蕩減の原則による歴史でした。母から父へ、父から子供へと主権が移り変わってきた歴史でした。今や歴史的な大転換の時代を迎えました。そのため、天地の運勢が回復されつつあるのです。蕩減復帰の必然的な運命の道程に立っている人類であることを、皆さんは理解すべきです。

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そのため、現在に至っては男女平等が主張されています。女性たちが男性から適切に待遇される時代が来たということです。そうでしょう?これはエデンの園でエバがアダムを逆に支配していたことを蕩減復帰することです。堕落によって進んできた歴史は、正常な歴史ではなく、平面的な歴史でもなく、相対的な歴史でもありませんでした。それは偏向的で、一面的で、一方向の歴史でした。したがって、それが元に戻らなければならないのです。

天は堕落して落ちた人間を戻し、一つを左へ、もう一つを右へと分ける摂理をなさいました。このようにして左右の分立形態は、男女の間にも起こり、男同士、国家と国家、世界と世界の間でも起こっているのです。そして「左」は誤ったことを象徴し、「右」は正しいことを象徴しています。人間は、堕落によって天性を失ってしまいました。それで、良心の導きによって善の道を歩んできたのです。

今日、皆さんは天の前に堅固に立つべきであり、全宇宙を統率する主人公になるべき立場に立っています。では万物の主人公として決定されるための一つの本質は何でしょうか?それは、生命力ではなく、理念でもなく、愛です。ですから、コリント人への第一の手紙13章13節には「こういうわけで、信仰、希望、愛、この三つはいつまでも残りますが、その中で最も偉大なのは愛です。」と書かれています。つまり、愛の道こそが、人間が歩むべき道なのです。この道を歩むべき人間であるために、使徒パウロはそのような言葉を残して去られたのです。イエスは、内なる霊と外なる肉を合わせて、子供の立場を表す一つの愛の基準を立てるべきだったのです。しかし、ユダヤ民族が不信仰のため、その基準は立てられませんでした。

人類の歴史は再創造の歴史であるため、復帰の過程が再び展開されなければなりませんでした。それで霊的なイエス様は天に昇り、地上の人間と向き合うべき聖霊が地上に来られることになりました。そうなりました。この聖霊は、地上にいる霊的な(信仰的な)子供たちを抱えて、何をなさるべきでしょうか?エデンの理念を再び成就しなければなりません。そのために聖霊が降臨されたのです。

したがって、私たちは聖霊と子供の名分を持ち、新郎なる救世主を見つけなければなりません。しかし救世主を探し求めるにあたって、キリスト教徒たちは霊と肉を合わせて探すことができず、理念的な面だけで探しています。今日、道の道、信仰の道を歩む人々も、肉を打つ生活をしています。このようにして信仰者たちは心の世界、霊の世界を探し求めて彷徨っているのです。

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また、今日の子供である信徒たちは、霊と肉を合わせた形を整え、霊的な母である聖霊を中心にして復帰を望みながら進んでいかなければなりません。エデンで父を支配していた母は、逆に支配されるべきです。そして、母の位置を確立しなければなりません。そして、子供たちを支配しなければなりません。

そのエデンの希望は、霊と肉を合わせて成し遂げられなければなりません。人間が堕落したために、霊と肉が分断されてしまったので、霊と肉が一致した立場に立つ必要があります。そして縦の立場にだけ立つのではなく、横の立場にも立たなければなりません。一方向だけを固守し、縦の立場にだけ立つことで、人間は身体と心が分裂し、心と霊が分裂してしまったのです。

では、イエス様の願いが成就される日はいつなのでしょうか?イエス様は地上に来られて、聖霊を立てられましたが、それだけでは満足できません。再臨の約束を残されたため、その約束を果たすために再び来なければならないのです。その再臨の理想は、エデンの園で失われた身体的な母を取り戻すことです。見つけられたその母は、堕落した母を支配して、身体的な父の位置を復帰しなければなりません。ここでイエス様の願いが成就されるのです。

この願いの成就は、霊と肉が一つになることができる理念世界において可能です。そのようになって初めて、霊と肉を持った一つの父母が天地間に現れます。摂理の法則に照らして見ると、一方向的な歴史観が相対的な歴史観として成立するその日が、人類の歴史の道程において必然的に訪れなければならないのです。そのため、今日の人類が一方向的な側面だけを選択すれば、悲しみの世界で苦悩することは避けられません。

このように見ると、復帰の運命の道を歩んでいる私たち人類は何を探すべきでしょうか?永遠に愛することができる私の真の身体を探し、この身体の親を探さなければなりません。身体の親を見つける前に、心の親、霊の親が現れる道理はありません。なぜなら、天地の創造が外面的なものから成し遂げられたからです。それゆえ、皆さんが文字を書くときも左から書き始めます。右から書き始めることはないのです。これは、創造理念世界の存在方式を表現しているのです。

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今日、人間たちが苦痛の中で叫び声を上げるのはいつ終わるのでしょうか?神に代わって私の身体を愛してくれる親を見つけるその日を迎えなければ、人類の苦痛はこの地球上から取り除かれることはありません。どんなに皆さんが立派であっても、皆さんは本来の肉体的な真の父母を失った人間です。したがって、真の父母が現れない限り、真の子供が存在することはできず、この世は依然として罪悪に満ちた世界であり、地獄の世界であり、苦痛の世界であるほかないのです。

このような人間を神は逆さにして探し出そうとされています。神は霊を通じて私たちの霊を探し、身体を探し出そうとされています。神は人類の真の父母、すなわち霊的な真の父母、心の真の父母として存在しています。神はこのように霊と心を合わせた親の立場に立たれていますが、肉体的な親を探し出して会う一日を人類に予告されました。その日がキリスト教でいう子羊の宴の日です。今やその時が来ています。したがって、母系時代を経て、父系時代を経て、今や兄弟時代に入っています。

人間は新しい主義を掲げ、新しい制度を持ち出してきましたが、そこで理想的な相対、理想的な兄弟、理想的な子供、理想的な親が生まれなければ、その主義や制度は崩壊していくでしょう。それはどこまで追いやられるのでしょうか?万物以下の地位に追いやられることになるでしょう。そして、裁きの日に至るのです。

このように見ると、今日の人間は真の父母を探し求めなければなりません。実体を持った真の父母は、新しい理念とビジョンを持って人間を探し求めに来なければなりません。人間がその真の父母を迎えて生きる世界こそが、理想世界なのです。そのような世界を実現するために、イエス様は再び来るとおっしゃったのです。そして、それによって再臨という名詞が成立したことを知っておくべきです。これは疑いのない事実です。

では、この段階に立っている皆さん自身を、今や全ての被造物の前に置いて攻撃しなければならない時が来ました。サタンに代わって皆さん自身の身体を自分自身で攻撃しなければならないのです。皆さんの身体をサタンに代わって自分で打ち倒して進まなければならないのが道の道です。自分自身の身体を打たなければならないのです。

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親の道、愛の道は私一人では見つけて越えることはできません。それはなぜか?私個人は歴史的な堕落の道を通ってこの罪悪の世界に存在しており、時代的な堕落の運命の中に留まっているからです。したがって、この道は一人で見つけることができないのです。そこには歴史的な問題が絡んでいます。そこには私個人を中心にした家庭の問題があり、社会、国家、世界、さらには霊界の問題があります。

新しい理念の世界と縁を結び、その世界と調和しなければ、理念的な愛の世界を見つけることはできません。道の道は、逆境の中で戦いながら見つけていく道です。また、これが6000年間、摂理されてきた神様の道程であったことを皆さんは知るべきです。

では、皆さんは何者ですか? 6千年を代表する犠牲です。したがって、6000年を代表する犠牲となるためには、6000年間にわたって人間に犠牲を捧げさせた神様の心情を理解して現れなければなりません。

エデンの園でアダムとエバが堕落して神様の愛の権限から追い出されたとき、彼らはどのように感じたのでしょうか?彼らは自分たちが追い出されることを悲しんでいました。これが人類の涙の起源となり、苦痛と悩みの起源となったのです。しかし、エデンの園にはそのようなアダムとエバの悲しみだけがあったのではありません。神はアダムとエバを追い出す際に、彼らが追い出されることの悲しみ以上に大きな悲しみの心情を持っておられたのです。これを知らずに生きているのが人間です。皆さんはそれを知るべきです。

ですから、皆さんは神様の愛の権限から追い出された一族であり、その子孫となりました。そのような人間たちは、自分を中心にして悲しんでいますが、神は今日も追い出された人間を見て悲しんでおられるのです。

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では、自分を中心にして天を裏切って追い出された人間は、どうすれば復帰できるのでしょうか?自分の悲しみがあろうとなかろうと、自分の悔しさや死があろうとなかろうと、自分のすべてを否定して神様の悲しみと神様の苦しみと悔しさを抱えて涙を流すことができる集団にならなければなりません。そうでなければ復帰されることはありません。

したがって、キリスト教では悔い改めるように言いました。ここでの悔い改めとは、号泣することを意味しています。すなわち、涙で始まった歴史の起源を再び探さなければならないのです。そのためには、自分自身の悲しみを抱えて泣いてはいけません。死の境界線に落ちた人間を6000年間抱え、人間が知らない間に涙を流して苦しみ悲しんできた神を抱えて泣くことができなければなりません。そのような人がいれば、神は「そうだ、お前こそが私が愛する息子だ」と言われるのです。したがって、このような言葉とともに神様が歓迎することができる人が現れれば、神は人間のために悲しみ、悔しさを味わい、苦しんでこられたすべてを蕩減し、解放することができるのです。

皆さん、イエス様は誰ですか? 人類の真の父です。4千年ぶりに神に代わって真の父母の心情を持って地上に来られた方です。4000年間、悲惨な状況に苦しんできた人類と再会し、神に代わって彼らを抱きしめて愛するために来られた父でした。そのようなイエス様を人間は認識できず、十字架にかけて殺しました。しかし、殺してみたら、それが自分の父であったのです。殺してから、自分の真の父であることが分かったのです。

地上に来られたイエス様、そのイエス様は私たちを命へと導いてくれる真の父でした。そんなことも知らずにイエス様を殺しましたが、彼が本当に自分の父であると分かると、涙を流さない者はいません。どんなに悪党であろうと、殺人者であろうと、石のような心を持った息子であろうと、胸を叩いて号泣するでしょう。父の悲しみを知らないはずがないのです。

このように見ると、イエス様の十字架の死は、4千年間苦しんだ父母の悲しみを知らない人間たちに、号泣させる一つの刺激となったとも言えるでしょう。したがって、十字架に遭遇した者は号泣しなければなりません。号泣してでも、イエス様が天に代わってこの地上に真の父母として来られたのに、そのイエス様を殺したことをまずは神様のために嘆き悲しみ、来られた真の父母のために嘆き悲しみ、さらに地上の人類のために嘆き悲しまなければなりません。

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では、今日の終末に直面している信徒たちはどのような号泣をすべきでしょうか?自分のために泣く時は過ぎました。家族のために、民族と国家のために泣く時も過ぎました。今や世界のために、天のために、聖父、聖子、聖霊のために泣くことができなければなりません。そうすることで、愛を中心にして創造された全体の世界を統率する理念の中に参加することができることを、皆さんは知るべきです。

イエス様を殺した人間たちでしたが、イエス様が真の父母であることを知りました。それで、その真の父母を失った悲しみと悔しさを感じ、再び生き返ることを望みました。そのような本性が人間にあったため、神はその願いを叶えるために再臨主を送ってくださるのです。

その再臨主を迎えるべき終末の信徒たちも共に涙を流さなければなりません。すなわち、歴史的な涙を代わりに流し、時代を代表して代わりに涙を流さなければなりません。

その後に、喜びの涙を流さなければなりません。私たちは生きている間に、このような涙を流さなければなりません。人間たちはこれまで悲しみの涙は流してきましたが、喜びの涙を流したことはありませんでした。そのため、喜びの涙を流すことができる一日を人間たちは待ち望んでいるのです。その日がまさに再臨の日であり、失われた真の父母を見つける日であることを皆さんは知るべきです。

皆さんが待ち望んでいる真の父母様は、ただ数十年の間準備して来られるのではありません。その期間は人間の一生ではありません。6000年でした。来られるのに、安らかに来られるのではありません。皆さんが安らかに眠り、休んでいるその時間にも、天は皆さんを見つけるために努力されていたのです。乞食のように、貧民のように、放浪者のように、囚人、迫害される者のように、極めて悲惨な姿をして、人間の最低の地位から探しに来られるのです。

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ですから、皆さんが眠っている時間にも、天は涙の道、悲しみの道、嵐に巻き込まれる道、一瞬の休息もない道を歩んでこられました。この道がイエス様が歩まれた道であり、多くの先知先烈たちが歩んできた道でもあります。

皆さんが安らかに食べ、眠り、安らかに休んでいる場所にも、天の悲しい声が響いており、天の悔しさと苦痛と号泣が響いているという悲しい事実を皆さんは感じるべきです。それを感じられなければ、皆さんは真の父母の前で愛される資格がありません。

したがって、皆さんは心を抱いて眠りながらも、食事をしながらも、恥じる心を持たなければなりません。罪人中の罪人であり、天地が許せない罪人であることを感じなければなりません。自分が見ているもの、聞いているもの、見て感じているすべての事実が不十分であり、自分自身がこのような裏切り者の結実体であることを知るべきです。そのような私を探し求めている神様の事情を皆さんは知らなかったことを感じるべきです。

今日の信徒たちは、そのような事情を知り、兄弟の手を握って号泣できなければなりません。道端で彷徨う乞食を見て抱きしめて号泣できなければならず、困難な労働者を見ても「なぜ私の兄弟がこんなふうになってしまったのか」と嘆くべきです。

目を上げて彼らを見つめるとき、彼らを見つけて立たせ、彼らを通して自分を見つけて立たせるべき天倫の歴史的道程があるのです。これを知り、出会う人々ごとに涙を持って対することができる、そのような感情に満ちた人間が地上に現れることを、神は6千年間待ち望んでおられます。しかし、民族の飢えを見ても腹を満たして横たわっている者は裁かれるでしょう。民族が裸でいるのに腹を叩きながら踊りに興じている者は裁かれるべきです。

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では、堕落した人類がすべきことは何でしょうか?自分が飢えても兄弟の飢えを切実に思わなければなりません。自分が食べられず、着られなくても、兄弟のために世界の人類のために生きなければなりません。そうして、天が世界の人類のために泣いていたことを私を通して横方向に蕩減復帰しなければならないのです。天はこのような信徒を求めていることを皆さんは知るべきです。

6千年の歴史の道程の中で、ある時、ある一人がそのような心情を持って天を「お父様」と呼んでくれたことがあったでしょうか? 誰が天を親と呼び、誰が人類を真の兄弟と呼んでくれたのでしょうか? そのような人は誰もいなかったのです。

今日、教団を導く教職者たち、信仰の道を歩んでいるとされる教職者たち、その心はどこを彷徨っているのでしょうか? 天が6千年の歴史をかけて切実に探し求めてきた、その天の苦しみと悲しみと願いを代弁した人々もその道を歩んできたのに、皆さんの身体はどこへ、皆さんの心はどこへ向かっているのでしょうか?これを明らかにしなければなりません。皆さんは、このようなことを解決すべき、堕落の恨みに満ちた人類であることを知るべきです。

歴史に残る人物は、自分を主張して前に出た人ではありませんでした。民族史に残る人物であれば、民族を抱えて前に出た人であり、社会的な人物であれば社会を抱えて前に出た人であり、世界的な人物であれば世界を抱えて前に出た人であり、天的な人物であれば天を抱えて前に出た人でした。

今日、皆さんは親殺しの許されない罪人中の罪人ですから、誰があなたを侮辱し、迫害しても当然のことだと思い、捨てられても当然だと考えるべきです。そのような場所でも、神様の悲しみと歴史的な悔しさを感じ、「ありがとうございます」と言わなければならないのが皆さんです。

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それでもなお、侮辱する兄弟を抱きしめて涙を流すことができる場所が、神様の心情を通じることができる場所です。十字架の上で自分を打つ者をむしろ心配し、そのために涙を流し祈ってくださったイエス様の心情、このような心情を抱いて進む道が、真の人間が歩む典型的な道であり、骨の髄まで貫いていかなければならない道です。

今日、皆さんは犠牲です。私たち統一教会員は皆、犠牲にならなければなりません。天はこのような歴史的な犠牲を求めています。では、犠牲とはどのような存在でしょうか?それを受け取る神様が喜ばれ、万人が喜んだ後にようやく頭を上げる存在です。しかし、今日のキリスト教が神様が喜ばれる前に頭を上げ、万人が喜ばれる前に頭を上げたならば、それは壊れてしまいます。キリスト教が万人のために奉仕しなければならない使命を持っているのに、それを果たしていないならば、改革すべき時が来たのです。

そのため、万王の王であり天の皇太子であるイエスもまた喜ぶことができません。なぜなら、犠牲として来られたからです。霊界に行っても、神は喜ばれ、地上の信徒は喜んでも、犠牲であるイエス様は喜ぶことができません。神と万人が喜んだ後に、ようやくイエス様が喜ぶことができる日が来るのです。それが再臨の日です。これが犠牲の歩む道です。

では、今日、この民族が受けるすべての迫害を見つめるとき、皆さんの心はどのように感じますか? 5千年の歴史を経て、この民族はあらゆる苦難の道を歩んできました。悲しみがあってもどこに訴えることもできず、悔しさや苦痛があっても訴えることができず、この民族は進んできました。では、民族を抱えて皆さんはどうすべきでしょうか?孤児のようなこの民族ですが、私たちが手を取り合って号泣できるなら、この民族は生き延びることができるのです。

兄弟の過ちがあろうとなかろうと、天が許された同じ血筋と骨肉を持って生まれた兄弟である以上、自分個人の事情を超えて、親の歴史的な血統と心情に結びつくために泣くことができる寛大な人々が現れなければなりません。そのような青年たちが求められています。

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そのような青年たちの燃えるような情熱があるなら、その情熱をどこに注ぐのでしょうか?自己の出世と欲望のためであれば、それは個人の限界の中で終わるでしょう。人間の本来の理念は、無限の善を越えて越えて神を抱きしめて喜びを感じることを望んでいます。したがって、このような人間本来の理念のために、その情熱を注がなければならないのです。

今日、この民族が歩んできた歴史の道程に神様の摂理があったなら、その摂理の終わりに神はどのような集団を求められるでしょうか?それは、神様の意志を成し遂げるために泣く姿です。一つの意志に結びついて泣き、一つの心情に結びついて泣き、一つの行動に結びついて泣き、まずは犠牲になろうとする集団です。天はそのような集団を求められるでしょう。

ですから、2千年前イエス様は人間に対して「父や母を私よりも愛する者は私にふさわしくなく、息子や娘を私よりも愛する者も私にふさわしくありません…」と言われました。表面的に考えると、このような矛盾した、でたらめな言葉がどこにあるのでしょうか?理解し難い言葉のように見えますが、イエス様は、愛を失って堕落の道を歩んできた人類が、歴史の終わりには自分個人を中心にすべてが崩れていくことを知っておられたため、それを防ぐためにそのような言葉を述べられたのです。もしその時、イエス様が言われた言葉を実践する歴史が起こっていたなら、2000年間そのようなことはなかったでしょう。

今、天を中心にしない親の愛、夫婦の愛、子供の愛を破壊すべき時代が来ました。このような愛を破壊し、その代わりに天を中心とした親の愛、子供の愛、夫婦の愛を教えようとするのがキリスト教です。ですから、キリスト教では新郎新婦の名前を掲げ、父という名前を掲げ、子供という名前を掲げて摂理してきました。

堕落した人間は、愛を失った存在です。そのような人間の前に、愛の主人公として地上に再び天的な愛を回復しようと来られたのがイエス様でしたが、それを成し遂げられずに霊界へ行かれました。そこで人間は霊的な愛の基準を立て、肉的な愛を回復していく道を歩んでいるのです。このことを皆さんは理解すべきです。

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人間には上と下があり、前後があり、左右があります。その上を代わるものが親であり、下を代わるものが子供であり、前後を代わるものが夫婦であり、左右を代わるものが兄弟です。これが愛の原則です。わかりますか? 人間はこの道を見つけて進むべきですが、その中で前後の関係にある夫婦の関係が最も重要です。だからこそ、イエス様は新郎新婦を最も強調されました。

では、イエス様は新婦をどのような心情で探そうとしているのでしょうか? 神に代わる新婦、子供に代わる新婦、兄弟に代わる新婦を探そうとしているのです。わかりますか? 新郎新婦を送り、地上に一つの基準を立てようとするのが神様の意志です。その意志は、新婦を中心にして上には神、下には子供、左右には兄弟があり、その全体が四位基台の形を成そうというものです。そのような愛を代表する相対存在である新婦を探して進んできた歴史が、2000年の摂理の道程です。

では、今、皆さんがすべきことは何でしょうか?男性は女性を尊重すべきであり、女性は男性を尊重すべきです。互いに尊重する心がなければ、女性は男性に対して接することができず、男性も女性に対して接することができません。男性は父の分身であり、女性は母の分身です。分身ということです。

したがって、今日の復帰の過程において、男女がお互いに接するとき、その顔を見てついていく人は崩れるでしょう。相手を神様の二性性相の一性と考え、男性なら女性を、女性なら男性を尊重すべきです。

互いに尊重の心を持ち、個々の相対的な性質を探し求めて進むことが本来の人間が歩むべき道です。子供に接するときも、たとえ自分の息子であっても、彼を父の分身として、娘は母の分身として考え、その性を尊重する心情を持つべきです。また、神様の理想を展開し、万物を創造し、それを総合して万物の主人公として人間を創造されたその理念を心に抱いて、子供を抱きしめて愛することができる親にならなければなりません。そして、堕落した世界に立っているその子供を見つめ、神様が6000年間悲しまれたその感情に対して「そうだ、お前は神様が喜ばれ、人類が待ち望んでいた本来の人間になれ」と言って涙を流すことができる真の親になるべきです。

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このように見ると、イエス様は万物に対して、宇宙に対して資格を備えていました。だからこそ、イエス様は、自分が探している新婦は神様の代わりであり、人類の代わりであり、千年万代の後の子孫の代わりであるという感情を持って新婦を探されたのです。これが新郎であるイエス様の心情であったことを理解するべきです。そのような新婦を探す日には、天と地を抱いた愛の感情を感じることになるでしょう。親に対しても同様であり、子供に対しても同様でしょう。そのような愛の主人公にならなければなりません。

このように、親を代わり、子供を代わりすることができる一体理想の感情を持ち、実体的な形を持った新郎新婦として出会う日が来なければなりません。その日が来れば、天地、すなわち被造物の悲劇的なすべてのもの、または天と地に遮られていたすべてのものが前後左右上下に和動することができるのです。この日が私たち人類が望んでいる日であることを、皆さんは知るべきです。

では、今日、人間が見つけて進むべき場所はどこでしょうか?この一つの場所を見つけて進むべきです。皆さんがこの一つの場所を見つけて進むためには、親に対してそのような心を持ち、兄弟に対してそのような心を持ち、自分の相手に対してもそのような心を感じることができなければなりません。その一つによって世界を代わる感情を感じることができなければなりません。

皆さんがそのような愛の心情を持って天と地の前に立つことができなければなりません。そうしてこそ、神様が4千年を歴史し、イエスと聖霊を立てたように、実体の新郎の立場から実体の新婦に出会うことができるのです。このような関係を結ぶことが神様の創造目的であり、このような実体的な相対を見つけることが人間が進むべき目的地なのです。そうすれば、人間の身体に神様が入り込み、一体として和することができる理想の園が開かれます。これが人間が探して進むべき最終的な目的地であり、人間が見つけるべき必然的な運命の基準点であることを、皆さんは知るべきです。祈りましょう。

<祈祷>
父なる神よ、真を求めて彷徨っている人類の前で、私の一個体は神様の代わりであり、夫婦の代わりであり、親の代わりであり、子供の代わりであり、兄弟の代わりであることを知りました。また、このような偉大な根本的存在の位置を決定することができる心の安息所を私の一個体を通じて、宇宙に築かなければならない必然的な歴史の道程があることを私たちは知りました。

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今、私たち一個体において、男性は真の姉を、真の妹を探し、真の母を探し、真の相手を探していることを知りました。このように同じ理念を求めて彷徨っている人類であり、同じ立場にある人類であり、敵対することができない人類であり、創造理念で結びつかなければならない人類であることを知っています。

しかし、人類の堕落によって親の愛が壊れ、夫婦の愛が壊れ、兄弟の愛が壊れました。したがって、今日、私たちがこれを取り戻すためには、まず兄弟同士で愛の感情を感じなければなりません。さらに、神様の6千年の悲しみに代わって愛することができる相手を探さなければ、天地を代わることができる原則的な基準が復帰されることを知りました。

今日、私たち一人ひとりの姿は単純な存在ではなく、四方性を備え、どの一面も欠けてはならない存在であるため、兄弟がいなければ悲しいこと、友がいなければ悲しいこと、親がいなければ悲しいこと、子供がいなければ悲しいことを知りました。これは、人間が四方性を備え、互いに愛し合うことが天理の原則であり、それが永遠の本心であり、神様が許してくださった生活の第一基準であるため、現生活でこのような状況に直面すると悲しむことになることを、ここに集まったあなたの息子娘たちが知ることができるようお許しください。

今、人類を神に代わって抱くことができる心、聖子に代わって抱くことができる心、聖霊に代わって抱くことができる心情を持たせてください。そして、天の子供として抱くことができるようにお許しください。そのような心を持って天を思い、地を思うことができる私たちであることをお許しください。悲しみ、苦しみながらも喜ぶことができる一日を迎え、永遠の万物世界の前に一つの中心として復帰されることができる喜びの日が早く訪れることをお許しください。

父なる神よ、今日、真を求めて彷徨う道程の終着点で愛する兄弟を持たない者は裁かれるでしょう。愛する子供を持たない者は迫害されるでしょう。愛する親を持たない者、愛する新郎新婦を迎えない者は裁かれることを知ることができるようお許しください。

このような絶対的な鉄則に基づいて、私の身体から真の親を、心から真の親を、霊から真の親を探し求めるべきであり、霊の親はあなた、心の親は再臨の主、肉の親は私を産んでくださった親であることを知り、その相手となる私の子供、兄弟、相手を見つけることができるようお許しください。主の名において祈ります。アーメン。



御言葉選集5(2)

2024年08月18日 16時11分15秒 | 日記


文鮮明先生の御言葉選集 5 - 2. 神様が主管しようとされる天国を探し築こう (1958年12月14日)


1958年12月14日(日)、前本部教会。


聖書拝読:創世記 1:24-28




<祈祷(I)>

失われた真の子供を探し出すために、復帰の悲しい道を進んでこられたお父様の心情と、お父様の事情と、お父様の姿を、この時間、心と体で感じ取り、体得できる息子娘となることを許してください。


アダムとエバを愛することができなかった、6千年の長い年月を愛に飢えて過ごされたお父様の心情を体得できるお父様の息子娘とさせていただき、悲しいお父様の心情を抱きしめ、慰めることができる切なる子供たちとさせてください。


今、この心と体をお父様のものとして捧げることができるようにしてください。私たちの体と心を自分のものとは思わず、永遠なるお父様のものとして誇れる勝利の供え物とさせていただけるよう切に願います。そして、6千年間、真の愛の心情で抱きしめ、愛することができなかった心情を解いて差し上げることができる、あなたの血族とさせていただけるよう切に願い求めます。


地上に多くの人が住んでいますが、お父様が「私の息子娘だ」と愛し、サタンの前で「私の息子娘だ」と弁明し、抱きしめて愛することができる息子娘がいないことを知っています。2千年前、イエス様がこの地上のすべての人を救うために戦いの道を歩まれた時も、お父様は自ら抱きしめて愛することができなかったことを私たちは知っています。


お父様が愛する子供は、誰にも奪われることができないことを知っています。お父様の心に深く刻まれたイエス様であっても、あなたの愛を受けられなかったことを私たちは知っています。愛することができなかったお父様の事情も私たちは知っていますので、栄光の一日を立て、天の息子娘を立て、その切なる心情を解き、抱きしめて愛し、すべての心情を吐露してください。そのような天の息子娘がこの地に現れることがお父様の願いであることを私たちは知ることができるよう許してください。


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今日、私たちは何も持たず、すべてを失ったとしても、お父様の愛の懐に抱かれ、永遠の愛を受けることができる息子娘となることを願います。


愛するお父様! 私たちを祝福してください。権能の手を伸ばして、私たちを聖別してください。悪の要素を取り除き、完全にお父様のものとなることができる私たちの体と心を許し、そういう集まりとさせてください。お父様、切に願います。


お父様! 私たちの心をお父様がご存じであり、私たちの体をお父様がご存じであるので、この時間、お父様の前に跪いた私たちのこの一つの体と心に欠けるものがあるならば、お父様、力を示してください。力強い手を伸ばし、再創造の歴史を起こしていただき、聖別された姿となることができるよう許してください。お父様だけが動かすことができ、お父様だけが主管することができ、お父様だけが勧告することができるこの時間となるよう、愛するお父様、切に願い求めます。


多くの人がこの地上に住んでいますが、その中で価値のない私たちを選び、何もない私たちを呼んでくださったお父様の前で、責任と使命を果たせないのではないかと恐れる心を抱いています。お父様! この時間、私たちをお導きください。モーセが杖で紅海を打ったとき、紅海が分かれたことを知っています。お父様、私たちの杖となってください。お父様の手が動くように、動くことができる天の杖となることを許してください。愛するお父様、切に願い求めます。


この日にここに集まったあなたの息子娘たちを、お父様、親しく主管してください。戦いの地を目指して進軍しなければならない最後の時間がすでに来ています。 今や自らを振り返り、どこにいるのかを見極めさせてください。お父様のものとして捧げられる私たちとなるよう導いてください。各自の立場で、置かれた場所で、お父様の前に供え物として捧げられる息子娘とさせてください。お父様、切に願い求めます。


     2


3千万を代表して私たちが戦いの一日を定め、期待し、待ち望んでいます。お父様、その日を祝福してください。私たちが新しい命の爆弾となって投げられることで、死んでいた命が生き返り、お父様の安息の地を見つけ、喜びの日が速やかに地球上に現れるよう許してください。この民族の中に現れることを許してください。お父様、切に願い求めます。


今、私たちの不忠な体と心を一つにまとめ、お父様の前に捧げたいと思います。自ら罪のすべての要素を捨て、純潔な体と心として、お父様のものとして捧げられるよう祝福してください。サタンの侵略がないように許してください。すべてのことを主の御名によって申し上げました。アーメン。




<祈祷(II)>

お父様、この者たちの心を主管してください。跪いたこの子供たちの魂がいろいろな形をしていても、お父様の命の動きによって統一された性質を備え、一つの供え物として、この時間、お父様を迎えることができる子供たちとさせてください。


今日、この日はすべての命が父の前に出て、お父様を賛美する日であることを知っています。お父様の御名を歌う場所ごとに愛の手を伸ばしてください。天の恩恵を授けていただけるよう切に願います。特に孤独な家族たちがこの一時間、お父様に願い求めていることを知っています。彼らが訴える声をお聞きくださり、彼らの切なる心を哀れんで、彼らが望む願いと彼らが求める願いを成就させてください。


今、ここに集まったあなたの息子娘の前に、一言の御言葉を伝えたいと思います。与える者の心と受ける者の心が二つにならないように導いてください。動くときには共に動き、定まるときには共に定まり、お父様の現れに私たちも共に喜び、創られた本来の楽園の喜びと恩恵の心情をお父様を迎えながら体得できる時間とさせてください。


     3


虚しい自己を中心としたすべての考えや主義、観念や意識、天を悲しませる心情を持たないように許してください。すべてを捨てて、無私の心情と子供のような心を持ち、お父様に捧げ、御旨に委ねることができるこの時間とさせてください。切にお願い申し上げます。すべてのことを主の御名によって申し上げました。アーメン。





<御言葉>

今、読まれた本文の御言葉は、神がアダムとエバを創造し、祝福された御言葉です。神の御姿に従って一男一女を創造し、すべての万物を主宰し、この地をも済艦しながら子孫を増やしなさいと言われた祝福の御言葉です。今日は皆さんと共に考えたい御言葉の題目は「神様が主管しようとされる天国を探し築こう」です。このような題目でお話しします。


神は我々人間がまだ考えていなかった、より高い理念を中心として被造世界を創造されました。その理念を中心として、すなわち神と人間が永遠の愛の権能内で共に生きるために被造世界を創造されました。


しかし、人間はこのような父の御旨、すなわち創造主神の御旨と一つになれませんでした。そのために、神が人間に対して表そうとした理念は理念として残され、その経綸は経綸として残りました。そして、神と人間の間には復帰、あるいは救いという悲しい条件が生じ、その条件を通して神が人間に向かってこられたことを私たちは原理を通してよく知っています。


では、堕落した今日の‘私’は、堕落する前の本来の‘私’に戻らなければならないでしょう。これが人間が果たさなければならない必然的な義務であり、神が成し遂げられなければならない必然的な責任です。ですから、今まで神はこの地上にいる人間を探し出すために苦労してこられましたし、人間も神を探し求めるために苦労してきたことを皆さんは感じなければなりません。


     4


このように神が私たちを探しに来られた足跡を辿ることが私たちの信仰生活です。そして、皆さんは神と先知先烈、そして私たちの先祖が人間を再び探し出すために苦労の道、悲しい血の道を歩んできたことを忘れてはなりません。


では、天が探しに来られた、そして私たち人類が探し求めてきたその終着点は何かと言えば‘私’です。したがって、私たちは天が認めることができる‘私’、歴史を代表することができる‘私’にならなければなりません。摂理の終末時代であるこの時、必然的にそのような人が現れなければならないということです。もし、そのような人が現れなければ、神が6千年の間探してこられた摂理の道も、私たち人類が6千年の間御旨を探し求めて苦労してきた信仰の道もすべて無駄になるということを皆さんは知っておくべきです。


では、天が求め、人類が求めるその‘私’とはどのような‘私’でしょうか?これは神が表すことができなかった創造理念を備えた心情と事情と希望を持つ‘私’であり、今日の人間の歴史において人間が体得できなかった心情、すなわち天的な心情を備え、すべての万物に対して歌うことができる、すなわち万宇宙の主宰者の栄光の価値を持った‘私’です。皆さんはそのような人にならなければなりません。


今日、人間はその人を探し、その人と縁を結ばなければなりません。そのような人と人間が縁を結ばなければ、人間は救われず、神の救いの摂理も完成を見ることができません。また、今日の歴史的な目的もいかなる完成の基準を立てることもできないということを皆さんは知っておくべきです。ですから、今日まで人間がその理念的な標的に向かって走ってきたということを心に留めておかなければなりません。


私たちは人間が堕落したことを知っています。では、堕落とは何でしょうか?堕落とは人間が主人の立場を失ったことであると言えます。すなわち、万宇宙の主宰者として堂々と立つことができる立場を失ったのです。本来、神は人間を御自分の実体として立て、万物万象の前に立ち、号令をかける時に万象が動き、定まることができるそのような本来の一つの自体として立てるために人間を創造されました。しかし、このような本来の御旨を成し遂げることができずに堕落し、今日の私たちのような人間になりました。これを再び復帰するために本来の‘私’を探し求めることが復帰歴史の道であるということを皆さんは知っておくべきです。


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人間が堕落することにより、何を失ったのでしょうか?それは神の愛を失い、神の御言葉を失い、その御言葉の実体を失ったということです。では、本来の自己を探し求める私たちにとって必然的にしなければならないことは何か?それは失われたものを再び取り戻さなければならないということです。すなわち、神の愛、神の御言葉、神の人を失ったので、これを探し求めなければならないということです。そして、今日まで救いの摂理をしてこられた神もこれを探そうとされていたのです。


愛を失った人間、御言葉を失った人間、実体を失った人間、人間はなぜ、何ができなかったために愛と御言葉と実体を失ったのでしょうか?信じられなかったためにこれらを失ったのです。信じられなかったためにこれらを失ったのです。ですから、神が人間を探し求められるためには人間が信仰の条件を立てなければならないということです。すなわち、神は信仰を条件として人間に向き合ってくださるということです。そして、信仰を前提条件として人間を救う摂理をされるのです。


私たちが実体を取り戻し、御言葉を取り戻し、神の愛を取り戻す復帰の道においても、まず何を取り戻さなければならないか?それは信仰を取り戻さなければならないということです。これが私たちの重要な問題です。ところが、その信仰を探し求める人間の前には神の愛が紹介され、神の御言葉が紹介され、神が探そうとされる実体が紹介されているのです。


では、完全な信仰とは何か?今日、私たちはイエス・キリストを信じていますが、イエス・キリストと完全な一体の関係を結ばなければなりません。また、信じると同時に神の御言葉を所有しなければならず、神の実体を所有しなければならず、神の愛を所有しなければなりません。このような信仰が復帰の道において必然的な条件です。このような理由で神は信仰の条件を立てて、私たち人間を探しに来られているのです。


人間が実体を備え、御言葉を備え、愛を備え、愛と信仰が調和し、愛だけが残れば、その愛で神に向き合えるように導かれたのが復帰の要点です。このようなことが復帰摂理の道で必然的に現れなければならないのです。


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私たち一人の個体を見ても、体があり、心があり、霊があります。ところが、私たちが信じられずに堕落したために体と共に万物を失い、神の御言葉を失い、神の愛を失いました。これが人間が犯した罪の根本的な結果です。ですから、私たち一人の個体がこれらを復帰するためには、歴史の中で積み重なった罪のすべてを取り除かなければならないのです。


では、今日、私たちはどのように復帰の道を歩むべきでしょうか?今日、堕落したこの世は体の安息所を求めて彷徨っています。すなわち、体だけを中心とした生活をしているのです。そして、体が安息するためには物質が必要なので、今まで人類は物質、すなわち外的な条件を満たすために戦ってきたのです。


私の体が安息する間に、次に私の心が安息しなければなりません。では、私の心の安息の楽園はどこでしょうか?今日まで人間はその場所を探し求めてきたのです。さらに、その心の福祉を見つけた後には何を探しに行くべきか?皆さんは永遠なる魂の福祉を探さなければならず、永遠なる私の命の福祉を探さなければなりません。したがって、皆さんはこのように体が安息できる福祉を見つけ、心が安息できる福祉を見つけ、霊が安息できる福祉を見つけた後、信仰を完成させ、神の愛と結ばなければならないのです。


歴史の発展の道をよく考えてみると、歴史はこれまで物質を中心として戦いを続けてきた歴史でした。第二次世界大戦まで物質を中心として戦ってきました。すなわち、経済的基盤を探して体の安息所を探して彷徨うことを第二次世界大戦まで行ってきたということです。


では、その後、第二次世界大戦後の歴史はどのような歴史か?精神界、すなわち人間の本来の心を探し求める現象が起きています。このような現象は思想と主義を中心として繰り広げられていますが、人間の心の福祉を解決するべき思想や主義がその責任を果たせていないのです。ここで今、行き詰まっていることを知っておくべきです。


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人間が堕落したことによって、体を失い、心を失い、霊を失いました。これを復帰し、安息の条件を探し求めてきた歴史が人類の歴史ですが、物質を探し求める段階を過ぎ、今は良心を探し求めなければならない段階に来ているのです。そして、皆さんは世界が思想と主義を中心とした2つの陣営に分かれ、対立していることを知っておくべきです。


さらに、私たちは復帰の道を通り抜けていかなければならない立場にあるため、物質を中心とした理念を超えて、心を中心とした理念を探し求めなければならないということです。このような終着点が人類の歴史の道においてなくてはならないということを皆さんは知っておくべきです。


そして、心の福祉を見つけた後にはどうすべきか?永遠の静的な福祉を見つけなければなりません。最後にこの地上に残る勝利の条件は何か?それは天と地を超越できる静的な主義、心も動かし、宇宙も動かすことができる主義です。この宇宙は他のどのような縁によっても絶対に動きません。皆さんは神もどのような静的な理念の世界を探し求めていることを良心を通して見ることで知るでしょう。


資本主義の時代も過ぎ去り、思想の時代も過ぎ去り、これからは良心の時代が来るでしょう。そして、これからは良心の時代を超えて、永遠なる天的な愛を中心とした心情の時代が来なければなりません。このような時代を通るのが堕落した人間の運命であることを皆さんは知っておくべきです。


今、私たちは霊の安息所を探さなければならず、心の安息所を探さなければならず、神の愛を中心とした永遠の静的な安息所を探さなければなりません。このような道は人間が進まなければならない運命の道であることを皆さんは知っておくべきです。


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では、今日、私たち一つの自体がそのような立場に立って、どのような権能を回復しなければならないでしょうか?天と地を主宰する権能を回復しなければなりません。これは人間が当然行使できる本来の権能です。したがって、人間は天と地を代表して天と地を主宰し、天と地を統一させて一つの心情の理念世界を築かなければなりません。このような責任が私たちにあるのです。そして、そのような世界が人間の本来の安息所でしたが、人間が堕落したことによってその本来の安息所を失い、そのために復帰の道が生じたことを知っておくべきです。


では、私たちはどのような過程を通過しなければならないでしょうか?私一つの個体を中心に家庭を経て、社会を経て、国家を経て、世界を経ていかなければなりません。これが復帰の道における段階です。


もし、人間が堕落しなかったならば、人間の心と本来の理念が実際の生活で調和を成していたでしょう。しかし、堕落によって理念は理念として残り、人間の心は別の道を進むことになりました。このような理念と心の間隔が人間に苦痛として残ったということを知っておくべきです。


これが何故、このようになったのか?神に背き、天倫の法度を犯したサタンのせいです。では、サタンが今日まで人間を支配してきた理念の福祉はどこまでだったのか?それはこの地の大地、見える実体世界だけだったということです。


ですから、神はこのような本来の理念の福祉を残しておいて、まずサタンが主宰するこの地の民を抱えてサタンと対決してこられました。これが復帰の摂理の歴史です。 今や神様が心情を通じることができる新しい世界が人類の前に現れなければなりません。その世界が現れる一日はキリスト教が語る再臨の日であり、その一日が宗教で言う審判の日なのです。


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昔から人間は互いに戦ってきました。それで、氏族から部族、民族、国家間の戦いを経ていく間に次第に多くの民族が融合され、現在は2つの世界に形成されました。


人類がこのような過程を経てきたのは、人類が復帰の運勢を免れることができなかったためでした。それで、この地上にそのような形態が整ったのです。神とサタンがこのような2つの世界をそれぞれ相手にして今も戦っているのです。


一人の人間を見ても、人間はまだ体を復帰していないのです。この体を復帰するための戦いの歴史が第二次世界大戦前までの戦いの歴史です。第二次世界大戦以前は物質を中心とした、すなわち経済を中心とした戦いの歴史でした。第二次世界大戦以前までは物質、経済が左右されれば、国の主権と世界全体が左右されていました。このような物質を中心とした時代が過ぎた後に、すなわち第二次世界大戦以降に思想の時代が来たということです。


これは歴史発展の必然的な流れでした。今、精神を中心とした主義と思想の時代が来ました。では、ここでどのような思想が勝利するでしょうか?それは物質を支配することができる思想です。心が体を主宰しなければならないように、思想と主義が物質を支配しなければならないということです。今日も世界のすべての主権国家は必ず経済の基盤の上に成り立っています。しかし、その国家の理念が世界的に広がるためには、その理念は物質を超越した理念でなければならないのです。


民主陣営と共産陣営も多くの国々が各々主権を持ち、互いに対決していますが、ここでどちらの陣営が勝利するでしょうか?その勝敗を決定するのは何でしょうか?これはどちらの陣営がまず所有している物質を弱小国に与えることができるかにかかっています。ここで勝敗が決まるということです。


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今日、自由陣営では弱小国に経済援助をしなければならないという主張がありますが、効果を上げていません。それで、ソ連はこれを弱点と見て、経済攻勢を取ってきています。エジプトに対する経済援助を行い、民主陣営の弱点を利用しようという作戦を展開しています。しかし、民主陣営はこれを理解していません。


全世界に主義思想を広めるためには、その思想や主義は物質を支配できなければなりません。また、そのような思想であっても、それを全世界に広めるためにはすべてを犠牲にする覚悟が必要です。この道以外には他の道はありません。


次に人間が探し求めるべき最後の道は何か?良心主義の世界を目指していかなければならないということです。そのためには、人間に主義と思想の時代を過ぎさせ、良心の時代を目指させ、永遠なる命の世界を目指させ、神の静的な理念の世界を目指させる何かが出てこなければなりません。これが何なのか、今日の人間は分かっていません。


では、神が存在するとすれば、神はいつの時を見据えて作戦計画を立て、準備してこられたのでしょうか?神は思想の時代を過ぎ、良心の時代を見据えて進んでこられました。その時こそが神の作戦と計画が実行段階に入る時であることを知っておくべきです。


しかし、今日、私たちの前には2つの陣営、すなわち民主陣営と共産陣営の前に宗教の形態を持ったアラブ圏が生じているということです。かつてのサラセン帝国を模倣したイスラム教文明圏を形成し、一つの理念を掲げて一つのブロックを形成しています。これは何を意味するのでしょうか?人類を宗教理念の世界に統一させることが神の復帰摂理の目的であることを示しているのです。このような復帰摂理の目的の最後には、このような作戦が必然的に行われるということです。


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ところが、民主陣営と共産陣営が戦って、共産陣営が崩壊するならばどうなるでしょうか?共産陣営の多くの国々が自由陣営よりもアラブ圏に吸収される可能性が高いということです。これを私たちは知っておくべきです。


今日、この地上に一つの目的、一つの理念を中心とした統一世界が築かれるべきならば、この時代において民主陣営では何が必要でしょうか?神の心情を中心とした理念を持った宗教、神の実体である人間を愛する宗教、すべての主義主張に取って代わる宗教が必然的に出てこなければなりません。そのような宗教が出てくる終末が近づいているという事実を今日の人間は知りません。いずれの日にか、民主陣営からアラブ陣営、すなわちイスラム教圏を制圧することができる、統一の理念を持った宗教が現れるでしょうか?


統一理念、これは新しい時代においては必ず出てこなければならない歴史的な基準であり、宇宙的な基準であり、天宙的な基準です。その基準の上で宗教の統一が行われるということを今日、皆さんは考えるべきです。この意味で統一教会という名前には一理があります。


まだ、統一理念を中心として継続的に発展し、その理念を主張し、このような世界の動きに対して先頭に立って戦ういかなる迫害される群れも現れていないということです。 今や思想の時代、主義の時代において私たちが探し築かなければならないものは何でしょうか? 人間は心で故郷を憧れてきたのであり、神の心情を中心として楽しむことができる愛の楽園を夢見て切望してきました。


私たちが歴史の発展過程を振り返ってみると、人類最初の文明であるエジプト文明はナイル川を中心とした河川文明です。すなわち、エジプト文明はナイル川を母体として発展した文明だということです。そのエジプト文明はまたどのように発展したのでしょうか?彼らは「川の向こう側には何があるのか?」と気にしていました。常に川の向こう側に行ってみたいと望んでいましたが、このようなことがエジプト文明を発展させる精神的な背景となったのです。このような河川文明時代が過ぎ去った後に地中海文明が築かれました。彼岸を望む切なる心、希望の心情がきっかけとなり、人類社会が発展してきたのです。そして、彼岸に向けた切なる心情が文明の革命を起こしたということを皆さんは知っておくべきです。


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ギリシャ・ローマ時代には地中海を中心とした文明圏が形成されました。地中海を見つめ、地中海の向こう側、すなわち彼岸に対する関心を持った民族が地中海を支配していたのです。16世紀に入ると、地中海文明が衰退し、大西洋文明圏が形成されました。その後、大西洋を渡ることを望む人々の意志と努力によって大西洋を横断してアメリカに到達し、今はアメリカとアジアをつなぐ新しい太平洋文明圏を形成しています。そのような時がほぼ来ているということです。


今、人間はこの地上で自由に生きることができるようになり、望んでいた希望も叶ったために宇宙に進出しようとしています。すなわち、新しい彼岸を探し求めているということです。それで、今後は宇宙時代が開かれるでしょう。そして、「月に行こう」という希望通りに、実際に人間が月に到着するでしょう。


では、歴史発展の道で新しい理想郷を望み、実際に開拓するようにした人間の心的な動向と理想郷を憧れる人間のこのような心の動きが、宇宙を征服した後には終わるのでしょうか?終わらないでしょう。


宇宙を超えて心の楽園、世界万民の心を主宰することができる楽園、心の世界を探し、その次に心の世界を超えて神が実在するならば、その神の理念世界で完全に神と一体を成し、神の理念に染まり、他の何も求めなくなった時に理想郷を憧れる心の動きが終わるでしょう。


では、私たち人類が科学文明を称賛し始めたのはいつからでしょうか?16世紀後半からでした。科学文明の歴史はわずか400年しかありません。しかし、私たちが6千年の人類歴史を考えてみると、人類は6千年の間ずっと心で理想郷、すなわち天国を目指してきたのであり、神を探し求めてきたということです。そして、神を探し、天倫によって神と縁を結ぶことを望んできたという歴史的な事実を皆さんは否定できないでしょう。


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皆さんは人間の心や良心を否定する書籍を見たことがないでしょう。この地上に心を否定する世界、心を否定する主義はありません。人間が永遠なる理念の世界、人間の感情と通じる体得の世界を憧れ、目指していることを否定する主義はないのです。


多くの教会や多くの宗教がこの心の世界を理念として教えてきましたが、無駄なことを教えてきたのでしょうか?とんでもないことです。数千数万冊の書籍を見ても、その理念を否定する書籍はありません。しかし、このような宗教の理念が正しいのに、その理念が実現しない原因は何でしょうか?これは人間が堕落したためです。


これから人間は心の世界、永遠なる霊的な世界を突破して進んでいかなければなりません。これが今日、終末に直面している人間が解決しなければならない重要な問題であることを皆さんは確実に知っておくべきです。神は宗教と道を通じて主義主張の世界を超えて、一つの時を見据えて進んでこられます。


今日、共産主義者たちは物質的な革命を主張していますが、これではいけません。物質的な革命、それが問題ではありません。さらに進んで、良心の革命を提示しなければなりません。では、良心の革命を提示しながら進むことができる主義はどこにあるでしょうか?さらに進んで、心情的な革命を起こすことができる主義はないでしょうか?これを考える必要があります。このような主義が出てこなければ、この世界は統一されないでしょう。もし、そのような主義が現れるならば、その主義は物質を基盤にしなければならず、御言葉を基盤にしなければなりません。


人間が堕落したことによって、信仰を失い、愛を失い、御言葉を失い、実体を失いました。そこで、これらを復帰するために人間はまず物質主義の時代を経て、理念と思想の時代を過ごしています。今後は静的な時代が来るのです。


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御言葉を信じさせるのは情(じょう)です。人々は知情意(ちじょうい)と言いますが、しかし情が先だというのです。この人間本来の情を爆発させ、本来の情の世界で静的な感興で被造万物を歌うことができる偉大な芸術家が現れなければなりません。そして、静的な偉大な科学者と宗教家が現れなければなりません。


今日まで人間は何を探し求めてきたのでしょうか?人間は主義にも満足せず、信仰にも満足しませんでした。真の御言葉、真理を探し求めてきたのです。その真理を探して何をしようというのでしょうか?私の心が新しい理念を中心にして命が躍動することができる春の楽園を迎えようというのです。人々を命が躍動させる真理こそが真の真理でしょう。そうではないでしょうか?


神は今までキリスト教を通して真理の御言葉を紹介してくださっています。人間に実体を復帰するための御言葉を与えてくださいましたが、その御言葉の使命が完了しないまま歴史は流れています。


2千年前にイエス様がこの地に来られ、その御言葉の使命を完結させ、心の革命と情の革命を起こそうとされましたが、人間がイエス様を信じず、お迎えしなかったために、このようなことが成されませんでした。そこで、今日、これらが人類の前に再び成し遂げなければならないものとして残されることになったのです。


イエス様を信じているキリスト教信者だけでなく、それ以外の多くの宗教人もそのような真の御言葉を待ち望んでいます。堕落した人間を復帰させることができる体と心、情、すべてを通じることができる真理の御言葉が出てくれば、世界は自然に統一されるでしょう。堕落した人間を救う復帰の摂理が必然的に必要ですが、堕落によって失われたものをそのまま取り戻す内的な革命が必要です。この内的革命を遂行しなければならない人々が終末のキリスト教信者であり、宗教人であり、良心家たちです。実際、良心家たちは神の復帰摂理に大きく貢献しているわけではありません。彼らがどれほど苦労したとしても、世の終わりがやってくるのです。


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そのように見れば、聖書66巻の御言葉はありがたい御言葉です。しかし、聖書を通しては人間の本来の心を呼び起こし、本来の心情を引き起こすのは難しいということです。ですから、このような2つの内容を備えた新しい御言葉を私たちは探さなければなりません。


もし、このような御言葉を見つけられなければ、神の6千年の摂理は失敗に終わります。このような現象を見ると、神の復帰摂理が失敗に終わらないようにするためには、世界の文化と思想が規合されて進んでいる歴史の趨勢を考慮する時、今や最後の日に必ず必要なものは、本来の心を動かし、本来の心情を動かすことができる御言葉だということです。これが問題だということです。


2千年前にこの地に来られたイエス・キリストは、言いたいことをすべて言えませんでした。また、人間を愛したかったのですが、すべてを愛することができませんでした。これが人類にとって大きな悲しみでした。そして、神にとっても悲しいことでした。復帰の道にいる人間に体と心の世界、情の世界、そして神の心情を紹介する御言葉を語られなかったことが神の悲しみであり、イエス様の悲しみだったのです。


では、今日、私たちがその御言葉を探す中で、神は宇宙を超越して存在する方ではありません。被造万物も神との関係と縁を離れては完成できません。私たちが一つの家を建てるにしても、すべての材料を結びつけて互いに関連性を持たせて建てなければ家は完成しません。


今、聖書66巻の中から神の心と心情を見つけなければならず、イエス様の心と心情を見つけなければなりません。神とイエス様の心と心情を知ってこそ、自分の心と心情を知ることができます。しかし、聖書には神の心と心情、イエス様の心と心情が完全に表されているわけではありません。聖書には「天国があなたの心の中にある」と記されていますが、本当に「天国が私の心の中にある」と言える人がどれほどいるでしょうか?そんな人がどこにいるでしょうか….


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今日、そのようなことを探さなければならない私たち、ここで考えてみると、良い聖書の節を覚えている人は多いです、立派な名文句を。今、私たちがイエス様の心と心情を知るには、万民の救い主であり、すべての人間の真の父として来られたイエス様が、なぜこの地上で悲しまれたのか、そしてイエス様が何を一番悲しまれたのかを知らなければなりません。これを知るべきです。これを知ってこそ、イエス様の心と心情を知ったと言えるのです。イエス様が一番悔しく、憤り、苦しんだことは何か、その事情が何かを知るべきです。


それを知ってこそ、イエス様に対して「あなたの心情と心がこのようでないでしょうか?私はその心情と心を知っています。」と言いながら、イエス様を慰めることができるべきです。そうして初めて真の人間になるということです。これを皆さんは知るべきです。


神が一人の人間を探し出すために今日まで悲しみ、苦しんでこられたその歴史的な内容がこのようであり、時代的な内容がこのようであり、さらに未来に対する希望がこのようであるということを知るべきです。これを知らないために今日、全世界の人類が苦しんでいるのです。


イエス様がこの地に来られ、悲しみの道を歩み、苦しみの道を歩み、十字架の道を歩まれた後に復活の喜びの日を迎えられましたが、天に対しては喜ぶことができましたが、地の人間に対しては喜ぶことができませんでした。これを皆さんは知るべきです。では、復活の日を迎えたイエス様が、どうして神に対しては「父よ!」と言って喜ぶことができたのに、人間に対しては喜ぶことができなかったのでしょうか?イエス様は神の心を知り、神の心情を知っていました。


それで、神の心情を抱きしめ、神の心を抱きしめ、涙を流しながら感謝し、喜ぶことができました。しかし、地上の人間はそのようなイエス様を抱きしめて喜んだ人が一人もいませんでした。それで、イエス様が人間に対して喜ぶことができなかったのです。復活の栄光圏の中で天が喜ばれるその場に人間が出席して共に喜ぶことができていたならば、2千年という悲しい歴史過程は生じなかったでしょう。


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このような事情の心情を抱えて復活されたイエス、そのイエス様の復活の姿をマグダラのマリアが見て、「ああ、主よ!」と言って抱きしめようとした時、イエス様は「私に触れるな」と言われました。これはどういうことでしょうか?人間がどれほどイエスを抱きしめようとしても、イエスの悲しみと苦しみを知らず、イエスの心と心情を知らなければ、イエス様と一つになることができないということを決定的に示されたのです。


今、この地上に生きている人間は、自分が持っている物質や主義を捨てて出なければならない時が来ました。イエス様に反対した者たちはどのような者たちでしたか?私たちは自分が持っている物質や自分が持っている理念や自分が持っているすべてを捨てても、イエス様の心情を知ろうとするべきです。イエス様の心情は自分のためにある心情ではなく、神のためにある心情だったのです。そして、神の心情を心に刻み、神を心に迎えようとしたのです。


神の心情には複雑な経緯がありました。イエス様はこれを解明して、「神よ!今、分かりました。あなたが摂理された究極の御旨が何であり、どのような心情を抱いて摂理されたのか分かりました。」と言いながら、神を抱きしめて自分の威信や体面も忘れて涙を流しながら喜ばれました。イエス様と同じように、皆さんもイエス様を抱きしめて涙を流しながら喜ぶことができるべきです。そうして初めて内的な世界の理念が外的な世界の理念として現れることができるということです。これを皆さんは知るべきです。


これが信仰の核心であるため、人間が両手を挙げて主を信じ、愛で御言葉を実践し、信仰で実体を復帰しても、最後に残るものは何かというと、神の心とイエス様の心と人間の心が一つになり、さらに神の愛とイエス様の愛と人間の愛が一つになることです。これが信仰者たちの最後の課題であり、静的な課題です。ですから、愛の宗教であるキリスト教は最後に残る宗教です。


天国の人々は与えるために苦労する人です。自分の体と心、自分のすべてを与えるために苦労する人です。ところが、この堕落した世のほとんどの人々は皆、自分を中心として生きようと苦労する人々です。このような人々は心の革命を起こすことができてこそ、人間と万物を創造し、人間と万物をその胸に抱いて愛そうとする神の愛を受けることができる息子娘になることができるのです。


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今まで神は一度も霊と肉が完成されたという条件を備えた人を抱きしめて愛したことがないということです。イエス様さえも愛することができませんでした。それゆえにイエス様はまだ天国で祈っておられるのです。


そのために私たちは私たちの霊と肉、全体を抱きしめようとされる神の愛だけを渇望し、子供を愛する親の愛は問題にならない神の愛を受け、そのような権内で初めて神の子供という名分を立てて万物を主宰することができるべきです。そのような世界が神が復帰しようとされる主宰世界であり、安息の楽園であることを皆さんは知るべきです。


では、今、私たち個体の問題に戻って、復帰の運命に置かれた私たちはどうすべきかというと、新しい理念を探し求めなければならないということです。そうすべき時が来ました。これからは真の人生観問題、宇宙観問題が浮上するでしょう。見える実体世界に対する認識と観念を土台とした宇宙観は捨て去られるということです。心の世界に対する認識と感じられる感覚を通して、見えない世界を開拓するでしょう。


今日、この地上に天宙的な理念、心の世界を統一することができるいかなる主義が現れるならば、その主義は最後の主義です。その後には愛だけが残ります。今日、この地上には科学文明が極度に発達しています。しかし、このような科学文明を支配できるように精神文明の水準を向上させなければなりません。心の世界を主宰することができ、さらに霊の世界を主宰することができるそのいかなる主義を必ず探さなければなりません。このような主義を探さなければならないことが私たちの運命であるということです。これを皆さんは確実に知っておくべきです。


そうして、神の愛と結ばれなければなりません。神の愛は宇宙を通じる愛であるため、その愛を抱きしめると全宇宙が私の中に入ってくることができます。そのような宇宙的な感情を感じ、宇宙のすべての万象を代表して天の前で歌うことができ、天と共に喜んで生きることができる息子娘にならなければなりません。さらに万物を主宰することができる主宰権を備えた息子娘にならなければなりません。そのような息子娘になってこそ、神の創造理想の楽園で生きることができる息子娘として認められ、神が抱きしめて愛される息子娘になることができるということです。これを皆さんが知っておくべきです。


     19




<祈祷>


父なる神よ、歴史の流れを人間は知りませんが、お父様が御自ら摂理の御旨を摂理してこられたことを私たちは知っています。


今日、ここに来たあなたの息子娘たち、自分がどのような環境に置かれているのか、自ら判断することができるように許してください。体を探し求めるために、体の安息を求めるために生きている者がいるでしょうか? 心の安息だけを求めて生きている者がいるでしょうか? これらを超えて、お父様の愛によって安息を見出すことができる息子娘たちになることを許してくださいますように、父なる神よ、切にお願いし、願い求めます。


これが人間が進むべき必然的な復帰の道であることが分かりました。堕落によってこれを失ったために、信仰と実体と御言葉と愛を探し求めてきた人類の歴史の前に堂々と立つことができるように許してください。そして、天の心情と天の愛と天の願いを持って、この地のすべての万物の前に堂々と立つことができる息子娘たちになることを許してくださいますように、切にお願いし、願い求めます。

お父様、永遠なる命で私たちの体と心を永遠に抱きしめてくださいますように切にお願いし、すべての御言葉を主の御名によって祈りました。アーメン。


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