人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(9)

2024年08月31日 18時02分13秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 9. 開拓者となったイエスの実体(1959年2月1日)


1959年2月1日(日)、全本部教会にて


マタイによる福音書8:18-22




<祈り(Ⅰ)>


天のお父様、不忠実な私たちですが、あなたを求めてここに参りました。どうか憐れんでください。あなたの呼びかけに応えてこの場に集まった私たちが、心も体もすべてあなたのものとなるようお許しください。


あなたとの永遠のつながりが、この場で築かれるようにしてください。私たちの心があなたの心と通じ合い、あなたの聖なる御姿に触れられる体となるようにお許しください。そうして、永遠に続くつながりと関係を持ち、あなたが動くときに私たちも動き、その意志に従って行動できる者とならせてください。


今日ここに集まることは偶然ではなく、あなたの導きであることを私たちは知っています。私たちを集めてくださったのは、死の力を断ち切り、サタンに打ち勝つ生贄となるためです。どうか、あなたの願いの通りに私たちを導き、あなたが喜ばれる生贄として立ててくださるよう、天のお父様、心から願い求めます。


私たち自身を中心とした条件を持たないように、どうかお許しください。また、私たちの体があなたの前で害となる要素を持たないようにお許しください。心と体が一致し、ただあなたのみが通じ、あなたが自由に主導できる本来の姿を備えさせてください。


あなたとの切り離せない心情で一つになれる体にならなければならないことを、私たちは知っています。お父様、どうか私たちの体をあなたがご自身で臨在できる聖所として、私たちの心をあなたがご自身で臨在できる至聖所として作り上げてください。私たちの心と体が、あなたがご自身で臨在し、安らぎを得られる基盤となるように、天のお父様、心から願い求めます。


     17


どうか今、私たちの心の扉を開き、すべての罪悪の要素を取り除いてください。あなたの意志にそぐわないすべての要素を取り除いてください。そして、あなたのみが主導できる私たちとならせてください。あなたの生命体とならせてください。天のお父様、心から願い求めます。


一週間の生活の中で足りないことが多かったかもしれませんが、あなたの前にひれ伏します。どうか、再創造の苦しみの中でも私たちを再び愛してください。せめてこの一時間だけでも、全焼の生贄として天のお父様の懐に抱かれる息子娘とならせてください。愛する天のお父様、心から願い求めます。


この日は聖なる日です。すべての人々に祝福を与えてください。三千万の民衆にも祝福を与えてください。多くの教団にも祝福を与えてください。あなたの心情を慕い、あなたの天倫の意志を願う多くの息子娘の上に、直接的な恩恵の手を差し伸べてください。あなたが世界的に摂理していることを、私たちが心と体で体験できるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


この日、地方に散らばっている孤独な家族たち、あなたの意志一つを心にかけて祈っている息子娘たちに、均等な恩賜を与えてください。そしてご自身で守り導いてください。試練と迫害の中でも、最後まで残る者となるようお許しください。始めから終わりまで主導してください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


行く道が分からずにさまよっていた私たちを、天のお父様がこの場に導いてくださいました。傷ついた体と心を持って、あなたの前にひれ伏しました。


     18


天のお父様にお捧げするものを何も持っていませんが、どうか導いてください。憐れみの恩恵を施してください。愛する天のお父様、疲れた私たちの手を取ってください。頼りどころのない私たちの体を抱きしめてください。永遠のその世界の愛を私たちに施してください。待ち望んでいた希望の父として私たちを教え導いてくださるこの一時間を、天のお父様、心から願い求めます。


真心を込めてあなたに向き合いたいのですが、あなたとの距離があまりにも遠いと感じます。しかし、この場には、あなたのためにすべてを捨てると誓った者も多く、あなたの前にすべてを捧げる覚悟をした者も多くいます。天のお父様、彼らの上に現れて、命じてください。天のお父様がご自身で導き、天のお父様と愛のつながりを持てるこの時間となるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


今、私たちが進む道も、私たちが生きることも、私たちに属するすべてがあなたの意志一つのためです。今、私たちの一体を、ご自身で引き受けて主導してください。そして、ご自身で抱きしめてください。そして、人と結ばれるというその意志が、天のお父様の愛の動きによって現れるようにお許しください。求めている本来の一つの存在を、この一時間を通じて再び形作ることができるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


私たちは自らの意思でこの道を選んだわけではありません。行かざるを得ない天倫の意志があり、ここに来ました。あなたの苦労と血のにじむ道を知り、その意志を完成するために身をよじっています。どうか私たちの心と体を憐れんでください。


あなたが立ててくださった命の灯台を求めて来ました。天のお父様の前に誇れる一つの姿を求めて来ました。天のお父様、どうか命じてください。栄光の恩賜を与えてください。再創造の手を差し伸べてください。


     19


天のお父様の前にふさわしくない私たちのすべてを取り除いてください。天のお父様の善の歴史だけが現れるようにしてください。天のお父様が直接動かれ、私たちが喜んで心と体であなたの前に礼拝できるこの時間をお許しください。愛する天のお父様、心から願い求めます。


私たちは新しい園を心に抱いています。新しい国の理念を慕っています。しかし、天のお父様、この道を阻む敵が多いです。


今日も戦い、明日も戦わなければならない立場にあります。天のお父様、共にいてください。あなたの刺激的な力と衝撃を、この一時間を通して与えてください。天の愛を慕う切なる心だけが、私たちの生活を主導できるようにしてください。そして、環境を動かせるようにしてください。天のお父様、心から願い求めます。


天のお父様、この国、この民族を憐れんでください。進むべき道が分かりません。この民族が求めるのは、希望の祭壇であり、自由の園です。しかし、許された理想世界と天が動かれることを誰も知らずにいます。どうか彼らを目覚めさせてください。そして、この民族に対する私たちの責任が大きいことを知っています。今日この一時間、天のお父様の前にひれ伏した私たちが、この民族に対する責任を果たせるようにしてください。


暗闇の力の下で呻いているこの地上の人類を救う責任を担っていることに気づかせるこの一時間をお許しください。天のお父様の新しい真理の言葉によって、この民族を新しくすることができるようにお許しください。そして、この地上の人類を愛せる時間をお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


     20


天のお父様、この期間、地方に散らばっている孤独な家族たちを憐れんでください。牧者として送った彼らが、あなたに向かって叫ぶこの時間です。どうか均等な恩賜で抱きしめてください。そして、残された戦場で倒れる者がいないように守ってください。落伍者が出ないようにしてください。心から願い求めます。


不忠実な私たちですが、体を整えて天のお父様の聖なる神殿に集まりました。天のお父様の前にふさわしくないすべての要素を取り除いてください。そして、自分を中心に主張するいかなる主義や観念や認識も取り除いてください。あなたのみが動けるこの一時間となるようにしてください。あなたのみが関与できるこの時間をお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


すべてを委ねましたので、あなたの意志のままに主導してください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。




<祈り(Ⅲ)>


天のお父様!わかり得なかった摂理の意志というものを、私たちはもう一度心の中で深く思い返すとき、私たちの祖先が堕落した後、6千年という長い歴史を経てきましたが、人間はあなたのその深い心を理解できなかったという事実を、私たちはあまりにもよく知っています。また、あなたの事情が困難であることもすでに学びました。そして、あなたの願いが今日、地と全人類と天の前に残されていることも私たちは知っています。


今日、私たちがあなたの願いの範囲内に立ち、あなたの心情の園に立って「天のお父様、私がここにいますので、慰めを受けてください」と言える、尊厳なる天のお父様の前で称賛される息子娘の誠実さを持っているかを考えると、私たちはあまりにも遠い距離にいることを認めざるを得ません。


     21


あなたのその心情を代わりにできる願いの実体としておいでになったイエス・キリストが、地上に再び現れるとき、天倫の心情を求めてさまよう者は、そのイエス様の心情を通じて行わなければならないでしょう。そして、天倫の事情を通じてさまよう選ばれたイスラエルにおいては、彼らの事情がイエス様の事情と一体化しなければならなかったことも私たちは知っています。イエス様を送った天のお父様の願いが万人のための願いであったことを、イスラエルの民は知らなければなりませんでした。しかし、願いの実体であるイエス様を見逃してしまったために、この悲しみが今日、私たちにまで引き継がれているという歴史的な悲しみをも感じています。


今、天のお父様に対して叫びたいことは何でしょうか、天のお父様に対して探し求めたいものは何でしょうか、求めたいことは何でしょうか?今日、私たちの祖先が持てなかったあなたの心情を、イエス様が代わりに持たれたように、私たちもその心情を持たせてください。


イエス様の事情と願いを持ち、終わりの日に天のお父様と同じ心情を持った存在にならなければならないこと、そして今まであなたに対する歴史的なすべての負債を清算しなければならない責任があることを、私たちは知っています。今、私たちの心と体を合わせて天のお父様の前にひれ伏しましたが、何を持って天のお父様と呼ぶことができるでしょうか?どのような事情で天のお父様の事情に伴うことができるでしょうか?また、どのような願いを持ってあなたの6千年の願いの心情を代わることができるでしょうか?何一つ持っていない不肖な姿です。


このような立場にある人間を憐れんでくださる天のお父様であることを知っているため、憐れみの心が大きい天のお父様であることを知っているため、十字架の道を歩んで耐えてこられた天のお父様が「来なさい」とおっしゃったことを知っているため、何も整えていない不忠で不完全な姿でありながらも、両手を合わせて天のお父様の前にひれ伏しました。悲惨なこの姿を憐れんでください。そして、天のお父様の御言葉で私たちを目覚めさせてくださることを願い、天のお父様の事情に合うように私たちを教え導いてくださることを願います。天のお父様、私たちを対して忍耐してこられたお怒りの心があるならば、その心を解き放つこの時間をお許しください。


悔しく、無念な心があるとしても、取るに足らない私たちを通して、そのすべてが解消されるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


     22




天のお父様!2千年前に来られたイエス様は本当に哀れな方でした。最後の瞬間まで、その心情を理解する者は一人もおらず、その事情と願いを知る者も誰もいませんでした。地を見ても、万人を見ても、あなたの意志を展開できる基盤がなく、30余年の生涯を悲しくも惨めに生きたイエス様の事情を知る者たちとならせてください。そして、イエス様の心情を似る者とならせてください。希望を抱き、イエスが残された足跡を追う息子娘となるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


4千年間、見つけて立てられたユダヤ教団はどこに行き、イスラエルの民はどこに行きましたか?建てられたエルサレムの聖殿もイエス様のために準備されたものでしたが、イエス様との関係を結ぶことができませんでした。準備されたユダヤ教団もイエス様との関係を結ぶことができませんでした。準備された民族もイエス様との何らかの関係がない立場で、むしろイエス様を追い詰める立場に立っていました。しかし、そのような孤独な立場に一人で立ち、追い詰めるその人々のために祈らなければならなかったイエス様の事情を知る者が、この時間にここに多くなるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


天のお父様、私たちがこの場に集まったのは、あなたが「来なさい」と命じられた命令を聞いたからです。今、私たちが進む足跡には十字架の道が残されていることを知っており、涙に濡れた視線を持ち、罪悪の世と戦わなければならない時が来ました。そして、あなたの心情を通らなければならない時が来たので、私たちを呼ばれたことを知っています。ですから、天のお父様の心を私たちの心に、天のお父様の事情を私たちの事情に、天のお父様の願いを私たちの願いに、天のお父様の敵を私たちの敵に、天のお父様の戦いを私たちの戦いにし、天のお父様の願いを成就して差し上げることができる、勝利の生贄として捧げられる息子娘となるようにお許しください。愛する天のお父様、心から願い求めます。


天のお父様、「狐にも穴があり、空の鳥にも巣があるが、人の子には頭を置く場所がない」と言ったイエス様の心に刻まれた事情を、私たちが泣いたからといって解消できるわけではなく、私たちが死んだからといって解消できるわけでもないその恨みの事情を、この時間に私たちが体験することをお許しください。天のお父様の前に近づき、イエス様の前に近づくことができ、三位一体の神の懐に抱かれるこの時間をお許しください。私たちのこの一つの集まりが、天のお父様が頭を置く場所となるようにお許しください。そして、宿る場所となるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。


今、御言葉を伝えようとしていますが、どうか多くの言葉よりも、あなたの心情を伝えられるようにお許しください。そして、あなたの事情を伝えられるようにお許しください。




無言で動くことができる私たちとなり、あなたの心情に触れ、あなたの栄光を仰ぎ見て、あなたの心情を体感できるようにお許しください。それぞれが生きた聖殿として、あなたと共に動き、静まることができる姿となるようにお許しください。


この一時間、聖別された祭壇を築くことができるようにお許しください。天のお父様、心から願い求めます。また、悪魔が侵入する時間とならないように守ってください。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


     23


<御言葉>


今日、皆さんと共に考えたいテーマは「開拓者となったイエスの実体」です。「開拓者となったイエス様の実体」という題でお話しします。


神様は、堕落した人類を救済するために、限りなく努力してこられました。私たちが罪に落ち込んでいるときに、私たちを見つけ、私たちのために福祉を紹介してくれた方がいるとすれば、それは私たちの愛する親でもなく、何らかの情で結ばれている子供や夫婦でもありません。また、国家でもなく、どのような聖人賢者でもありません。それが神様であることを皆さんは忘れてはなりません。


神様は、今日まで私たちの希望の全体を開拓するために苦労されてきました。さらに、私たちの事情と心情を解決し、私たちの絡まったすべてを解きほぐすために、休むことなく努力し、戦ってこられました。このように、神様は歴史の始まりからこの時間まで、開拓者としての使命を果たしてこられたという事実を皆さんは忘れてはなりません。


     24


天は、アダムが堕落した後、イエス様が来られるまでの4千年という長い年月の間、開拓の苦労を引き継ぐべき人間が無知な立場にあったにもかかわらず、変わらずに摂理を続けてこられました。私たち人間に対して一日の希望を持ち、幸福の園を目指してこられました。私たち人間は歴史を経て、一歩一歩その世界を目指して進んできたという事実を私たちはよく知っています。


神様は、人間の堕落以降4千年間、個人を通じて民族を経て、イスラエル民族を立て、あなたの願いの意志を成就するために、4千年の苦労の基盤の上に天の全体的な使命を引き継ぎ、天の心情と願いを引き継ぐことのできる一人の主人としてイエス様を送られました。


しかし、その時、信じていたユダヤ教徒たちや、選ばれた民として自慢していたイスラエル民族は、その方が誰であるかを知りませんでした。このようにして、神様の苦労により選ばれたイスラエル民族は、その苦労を報いるために送られたイエス・キリストを受け入れませんでした。教団も受け入れず、社会も家庭も誰一人として受け入れませんでした。


そのために、神様が願われた開拓の意志は挫折し、イエス様によって成就の道を歩むはずだったイスラエル民族は失敗の道、すなわち死の道を歩んだのです。


神様は開拓の道を歩んで苦労され、イエス様はこの開拓の意志を完成し、天の苦労に報いるべき栄光の使命を持って来られました。しかし、選ばれた民がイエスを知らず、追放したので、イエス様は4千年の苦労を続けてこられた天の前で、その間に開拓してきたイスラエル民族に代わって、再び開拓者の立場に立たなければならなかったという事情を私たちは知っておかなければなりません。


     25


イエス様は天を担い、選ばれた民が希望する理念の世界を建設しなければならない責任を負って来られました。しかし、メシアを待ち望んでいたイスラエル民族は、実際に現れたイエス様が彼らが望んでいたメシアであることを知りませんでした。ここに天の悲しみと悲劇の場面が新しい方向に展開されたのです。誤った方向に展開されたこの一つの事実を通じて、私たちは神様の代わりに悲しむ心情を持たなければなりません。そして、イエス様の代わりに悲しむ心情を持たなければなりません。もしそのような心情がなければ、私たちは人間を対して開拓者の使命を果たしてこられた神様の心情、選ばれた民族の前に開拓者の意志を抱いて現れたイエスの心情を知ることができないのです。


幸福の基盤と希望の園を成すために、その教団と民族はイエス様が先頭に立って死の峠を行けば一緒に行かなければならず、イエス様が幸福と喜びの峠を行けば同じように一緒に行かなければなりませんでした。天は4千年間苦労して切り離せない天的なつながりを結んでくださったが、私たちの先祖は天とのつながりを裏切り、天の開拓の功績を裏切ったこの事実を私たちは悲憤に感じなければなりません。


今から2千年前、イエス様は信じられない要素を持っていたイスラエル民族を切ない心で見つめておられました。また、天的な心情の基盤の上に立つべきユダヤ教団がモーセが受けた律法の形式的な面にとらわれ、天の祭壇の立場から離れているのを見ておられました。自分たちが生きるべき場所がどこなのか、行くべき方向がどの方向なのかを知らずに苦しんでいるイスラエル民族を見つめるイエス様は、神様が4千年間開拓の道を通して自分を立て、彼らを収拾して新しい世界を開拓する群れとして立てようとする目的のもとに、自分を送られたことを知っておられました。その時のイエス様の心情は、壮絶なものであったに違いないということを皆さんは知らなければなりません。


彼は馬小屋で生まれた後、孤独な生活を送りながら大工である父ヨセフを助けました。彼の生活は限られた環境の中での生活でしたが、彼の理念はイスラエル民族を越え、世界を越え、宇宙全体に広がるものであり、そのように生きておられたイエス様でした。


しかし、彼に命じていたヨセフも、彼を追っていた兄弟たちも、この一つの事実を知らないことを考えるとき、イエス様は言葉にできない悲痛な立場に立たざるを得ませんでした。イエス様がこの世の事情を知り、神様の摂理に込められた内的心情を知り、現世に置かれた地の事情を見つめるとき、それら、すなわち心情と事情と物情が一つになって、神様が望まれる方向に動いていくことを望んでおられました。


     26


それにもかかわらず、神様の心情は心情のまま、イエス様の事情は事情のまま、世の中の事情は事情のまま、バラバラに混乱して動いていました。


この一つの事実を見つめるイエス様は、どのような覚悟と決心をしたのでしょうか? 30年の準備の道を経て、実践の道を通じて神様の意志を完成しようという覚悟と決心をしました。イエス様はそのような時を見つめながら、自分の心が悲しくなるほどに天に向かって叫び、地に向かって進む道が途絶えているほどにその事情を人間を通して解こうとされました。


天の心情が自分に近づけば近づくほど、世が自分に近づかなければならず、選ばれた民族と天が立てた教団が自分に近づかなければならないのに、神様には近づいているのに、民族はかえって遠ざかっていることを感じながら生きなければならなかったイエス様の生涯は、皆さんが想像することのできないほど深刻な生涯であったに違いありません。


そのようなイエス様は、天の深刻な事情を知らないこの民を恨んで去るのではなく、彼らの生活を突破して行かなければならず、彼らの心の扉を開けて行かなければならず、最後には彼らの心情を抱いて越えて行かなければならない道が残されていることを考えておられました。これがイエス様でした。ですから、イエス様は「私がまさにあなたたちが望んでいる希望の救い主だ」と主張することができなかった哀れな事情があったということを皆さんは一度考えてみるべきです。


イエス様はこのような逆境の中で、新たな覚悟をしなければなりませんでした。天が4千年間開拓者としての使命を果たしながら築いてこられた基盤が崩れたため、その場所に天の理念を立てることができないことを知っていたイエス様は、再びイスラエル民族に対して戦おうとする壮絶な心情を抱いていました。このことを今日、私たちは知らないでいます。ですから、イエス様はそのような環境に置かれて、「神様、力をお与えください。神様、私に新しい方向を備えさせてください。神様、私に内面的にも外面的にも壮絶な決心を持たせてください」と天に対して内的に祈られました。また、天に対して無言で、心の中で自問自答する生活を30年間という長い年月にわたって繰り返していたことを私たちは再び考えなければなりません。


     27


このような立場に立たれたイエスは、無形でおられる神様の代わりに開拓者の使命を果たすにあたって、どのような使命感を持っていたのでしょうか? 天に対しては、閉ざされた天の扉を開け、天国を建設しなければならない開拓の使命を感じ、また、地に対しては、絡み合い閉ざされている万民の心の世界、天と閉ざされている心の世界を開拓しなければならない使命を感じておられました。さらに、罪に満ちたこの世界を再び開拓しなければならない使命があることをイエス様は感じておられました。


イエス様は神様が4千年間苦労して来られた復帰摂理の歴史を中断させることができず、イスラエル民族が神様を裏切ったとしても、自分は変わらずにその一つの目的を成し遂げなければならないという覚悟で歩んでおられました。すなわち、イエス様は天が動かされたその内的なつながり、その天的なつながりを考えるとき、このように壮絶な覚悟をその身に持たざるを得なかったのです。そして、イエス様にとって当時の環境圏でこのような使命を果たすことのできる開拓者になるかならないかが重要な問題でした。そのような開拓者となるとき、イエス様は神様の前に民族を代表し、選民を代表し、歴史を代表して現れることができ、その覚悟を神様が信じることができ、神様が誇りに思われる一つの姿として現れることができたのです。


では、イエス様はこの使命を果たすためにどのようにしていたのでしょうか? それは、準備期間を経ていました。イエス様は天の心に人類の心を接ぎ木しようとされました。そして、天と地が動き、天と人が動く、つまり一体となる理念を成し遂げようとされました。自分の全身をかけて、天と地が一つとなり、人間と地が一つとなり、地と天が一つとなり、天と人が一つとなる、そのような立場を成し遂げる開拓者として立とうとしたイエス様の覚悟は、言葉に表せないほど壮絶なものであったことを私たちは知らなければなりません。


天が選ばれたイスラエルのために自分を立てられたのです。そして、地にあるすべての被造物のために自分を立てられたのです。ですから、地が自分を裏切っても、民族が残っているので、自分を見捨てることはできませんでした。また、民族が裏切っても、天が残っているので、自分を見捨てることはできなかったイエス様でした。


そのため、彼は内的な心情から壮絶な覚悟と決心を持たざるを得なかったのです。ですから、悪魔から世界を取り戻さなければならないという悲憤の心情と、敵に対する憎悪が心の中から爆発すればするほど、彼は限りなく悲しかったという事実を私たちは知らなければなりません。


     28


そのような心で満たされた準備期間において、イエス様は何百回、何千回、何万回も心の中で誓ったことでしょう。この理念を目指して進む道において、4千年間天の代わりに歩んできたイスラエルの選民の歴史を振り返るとき、イスラエル民族は天の味方になれませんでした。これを知ると、イエス様はこの道を進むには、厳しい迫害があることを予測し、新たな覚悟をされたのです。


神様は今日も、この惨めな環境の中に生きる人間を探し求めておられます。このように探すために苦しんでいる天と人間が互いに通じ合えないことを解決しなければならない責任を感じたイエス様でした。ですから、イスラエル民族が天が定める方向に進まないのを見て、限りなく悲しい心情を感じました。また、この地上の世界を見つめておられる神様が、あなたが足を運べる場所がなく、善の基盤となることができないこの地、悪魔が支配し、蹂躙しているこの地を見つめて、4千年間苦労してこられたことを思うと、限りなく悲しい心情に包まれざるを得ませんでした。


イエス様はそのような悲しみに沈むそのたびに、「私は天のために、人類のために、この地のために天の味方として戦おう」と決意し、どのような迫害や困難が襲ってきても、これを乗り越えてやろうという決心が彼の中で溢れ出てきました。ですから、30年の準備期間に決意したのは、前途の実践の道で大きな戦いを展開しようという覚悟でした。信じないイスラエル民族の前で排斥の生贄となって消え去ることがあっても、今私はこのような道を進もう、このような方法を見つけようと覚悟しました。


信じてくれるならこうするだろうし、信じてくれないならこうするという方法を誰も考えていない中で考え、誰も気にしない中で天に向かって祈っていたイエス様であったことを知らなければなりません。また、30年間、大工のヨセフの家で育ちながら、兄弟たちが喜んでも、喜びの表情をすることができず、親戚や教会などの集まりが楽しそうにしていても、楽しさを表すことができなかったイエスであったことを皆さんは知らなければなりません。


それはなぜかというと、天が望む方向と人間が考える方向があまりにも違っていたからです。これを見つめると、その差が大きければ大きいほどイエス様はさらに固い決心をし、その差が大きければ大きいほど、そのギャップを自分が埋めなければならないと思っていました。


     29


しかし、言いたいことがたくさんあっても口を閉じなければならなかったイエス様でした。イスラエルの地域地域を巡って伝道したいという気持ちが強くても、家庭に役立たなければならなかったイエスの30年間の準備期間の悲しみを皆さんは知らなければなりません。


イエス様が30年の準備期間に開拓者として抱いた決意は何だったのでしょうか? それは、「死の峠があろうと私は行く。迫害の道があろうと私は行く。滅びることがあろうと私は行く」という決意でした。


このようにして、イエス様はこの準備期間に、自分の生活環境を清算することができ、自分のための生涯の理念を清算することができ、民族的なすべての縁を清算することができ、旧約とその法度を重視するユダヤ教団の形式までもすべて清算するという一生の覚悟を持ったのです。


天の国を、全世界の人々の心を開拓しなければならないイエス様は、眠るときも覚めているときも、その生活において彼の心情は神様の理念の境地を一日に何度も往来することがない日はありませんでした。そのようなイエス様であったことを皆さんは知らなければなりません。


30年の準備期間の内なる悲しみを、この地上の万民は理解してくれませんでしたが、ただ神様だけはイエスの味方でいてくださいました。イエス様がかんなを持って木を削る場でも、のこぎりを持って木を切る場でも、食事をして休む場でも、彼の心は神様の心情と事情に共感し、神様の願いである天国が建設されることを願い、一瞬たりともそれを忘れたことがなかったという事実を皆さんは知らなければなりません。


     30


さらに、4千年の歴史を放棄してでも、この価値は放棄できない。選ばれたイスラエルを放棄してでも、この価値は放棄できない。選ばれた教団を放棄しても、これは放棄できない。親や親戚、どんなものでもすべて放棄できるが、これだけは放棄できないということを心に刻み、骨と肉に染み渡らせて感じていました。このようにして、徹底的に動くことができる天情の心情を持ち、希望の一日を見つめて準備してきたイエスの生涯は、壮絶な生活の連続であったことを皆さんは知らなければなりません。


一日を探し、一時を探して準備していたイエス様の心情と彼の姿を、皆さんはもう一度思い描いてみてください。彼が着ていたものは粗末であり、その姿は哀れに見えたかもしれませんが、彼の視線だけは、地上のどんな征服者や開拓者にも劣らないものでした。


天の心情と通じる彼の視線は、宇宙を突き抜けても余裕があるほどの強烈な視線を持っていたという事実を、私たちは考えざるを得ません。このような心情と視線を持って見つめていた彼は、試練を受ける哀れな人の姿にならざるを得ず、悲しみを帯びた姿にならざるを得なかったのです。


この事実を振り返ってみると、イエス様は歴史の道を通して苦労してこられた神様を支える心が強くなればなるほど、不信のイスラエル民族になってしまうのではないかという心配が大きくなり、不信の使徒たち、不信の弟子たちが出てしまうのではないかという無限の心配を抱いていたという事実がわかります。イエス様はこのような心を抱きながら、黙々と30年の準備期間を過ごしました。


イエス様が天の側に立って燃え上がる心情の熱度がどれほど強くなっても、それは自分自身のためのものではありませんでした。天の希望に燃え上がり、世界を見つめる視線がどれほど深刻であっても、それは自分自身の欲望のためのものではなかったことを私たちは知っていなければなりません。


     31


彼が見つめる視線は、ただイスラエル民族のために向けられており、彼の心情もイスラエル民族のためにあり、全世界のためにあったことを知っていなければなりません。そのため、イエス様は無限に悲しい涙を流したのです。その準備期間にイエス様は、十字架の峠を一度だけ覚悟したのではありませんでした。誰かが死ぬという噂を聞くたびに、その人を救うべき人が自分であると感じることが何百回もありました。誰かが不当に迫害を受け、不当に追い込まれ、哀れな立場で不当な目に遭っている人がいると、その事情を自分の事情として考えました。当時の社会の悲惨な現象を、自分自身の実践の道において展開される実証的な生贄のように見つめていたイエスの心情を皆さんは知らなければなりません。


2千年前に来られたイエス様、30年の準備期間を悲しく過ごされたイエス様、そのイエス様の前には、心情に共鳴し、彼を知り、彼に礼拝を捧げ、彼をお迎えする人が一人もいなかったのです。見た目に不格好な者も一人もいませんでした。これは本当に悲しい事実です。そのような人がいたならば、今日の後世の私たち人間は、少しでも面目を保てたかもしれません。これを考えるとき、今日の私たちは天の前にどれほど多くの借りがあるか、計り知れないことを知るべきです。


洗礼者ヨハネの30年の準備の道を見つめて、無限の期待を抱いていたイエス様でした。公生活の道を出発する実践の日を待ち望んでいたイエス様は、ついに準備期間を経て実践の過程に踏み出しました。そのとき、民族が歓迎するだろうと思い、あるいは洗礼者ヨハネが歓迎するだろうと思って行ったが、民族も洗礼者ヨハネも冷淡であり、反対しました。ユダヤ教団も反対しました。準備期間において壮絶な覚悟をして出てきたイエスが、実践の一歩を踏み出すにあたり、イスラエル民族を基盤として世界に対して戦うのが本分であったのに、逆に彼らが自分に反対してきたため、逆にイスラエル民族に対して戦わなければならないという惨めな実践の道が開かれたのです。これを皆さんは知っておくべきです。ですから、4千年間苦労してメシアを迎える準備をしていたイスラエル民族は、第2回目の最初から再び開拓の使命を果たさなければならなくなった事実を知るべきです。


ここで、神が4千年間摂理して築いてこられたすべての基盤が崩壊したため、神はアダムとエバが堕落した直後に摂理されたその歴史の絶対性を持って再びやり直し、全ての民の前に現れなければならなかったイエスの悲しみを私たちは考えなければなりません。選ばれた民だとして訪れたのに、かえって彼らから追放されたのです。


それで、イエス様が向かった場所はどこでしょうか? 神が4千年間苦労して築いてこられたイスラエル民族が天を裏切り、かえって悪魔の立場に立ってしまったのを見つめるイエス様の悲しみに満ちた心情を誰が知るのでしょうか! そのため、イエス様は荒野に出て40日間の断食を行いました。


     32


今日、皆さんが信じているイエス様が、このように哀れな方であったということを、皆さんはまだ知らなかったでしょう。天の独り子であり、天の皇太子であるイエス様が人間の世を訪れ、人間から拒絶され、荒野に出て食べるものもなく、神の敵であるサタンの前で試みを受けるというこの事実を、その時代の人々は知りませんでした。ですから、このようなイエスの悔しさに満ちた道を見つめる神の悔しさを、どう言葉で表現することができたでしょうか!


悔しさで胸に痛みを感じていたイエス様は、自分自身の哀れさを見て、天が心配することを知っていました。そのため、自分の悲しい心情も表さず、天に対して極めて孝行心を持っていました。そのようなイエス様を私たちは振り返るとき、イエス様はエデンの園でアダムが天を裏切っていたその境地を超え、自分のために心配してくださる神の心情を感じました。ですから、自分自身の悲しみをもって当然祈るべき立場にあったのに、これを避け、悔しさを抑えて天を慰めようとしたため、堕落の悲しみを転じて神の前に進む希望の道を開くことができたのだということを皆さんは知らなければなりません。イエス様は30年の準備期間において、これを実践の道として見つけ出そうと決意しました。自分が踏み出した一歩が民族を敵にしなければならないことを知っていました。


それでは、神の作戦法とはどのようなものでしょうか? 一人を見つけるためには、その一人の価値に見合うだけの試練を受けてから見つけるということです。これが天の摂理です。一つの家族を見つけるためには、その家族に見合うものを天が代わりに受けてから、その家族を取り戻すのです。したがって、民族を再び立てるためには、神がその程度の打撃を受けてから見つけ立てるのです。イエス様は、実践の道において、これが天の作戦法であることを知っていました。


神に代わらなければならなかったイエス様が民族を見つけるためには、個人の生贄になり、家族の生贄になり、教団の生贄になり、民族の生贄になって、叩かれる犠牲の開拓の道を歩んでこられたことを、皆さんは知らなければなりません。


このような理念の実践方法を持って現れたイエス様は、準備したユダヤ教団から自分の同志を見つけようとしましたが、誰一人歓迎する者はいませんでした。今日の韓国の実情を見ても、漁師と言えば人扱いされず、貧しく悲惨な生活を送っているのが私たちの知っていることですが、今から2千年前のその時代、無知で貧しい漁師たちを探しに行ったイエスがどのような立場にあったかを知らなければなりません。皆さんが聖書で見るように、ペテロのような人々がイエスを見て、イエス様の言葉を聞いてすぐに感動して従ったと見ますか? とんでもないことです。聖書にはその背後の生活の内容が記されていないのです。ペテロのような人々は、イエス様を信じるに足る噂を聞いていたことを知っておくべきです。


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民族に捨てられたイエス様は、労働者のように現れ、漁師の友のように、彼らと同じ思いを抱く友となり、心情を共有する友となり、願いを共有する友となって、彼らが望むことは何であれ、死を覚悟してでも成し遂げてあげるという気持ちで戦いました。このような心情的な内容と理念を持って証し、戦ったために、ペテロのような漁師たちが従うことができたのです。


では、無学な弟子たちを選び、3年間で何をしたのでしょうか? 神がイスラエル民族を立てるために4千年の間、苦労し奉仕してこられたのと同じように、イエス様は彼らを立て、奉仕の生活をされました。


12人の弟子を選ばれたイエス様は、彼らに対して大きな期待を抱いていました。ユダヤ教団を動かし、祭司たちやすべての学者たちを主観するために、天が遣わしたイエス様でした。それゆえ、彼の理念は大きく、彼が持つ欲望も大きく、彼の心情的基準も高かったのです。このような神の実体的理念を持ち、一人の開拓者として現れたイエス様を認識しなかった当時の祭司たちや学者たちは、堕落直後のアダムとエバよりもさらに哀れな人々であったことを知るべきです。


このような群れを見てイエス様はどうされたでしょうか?  天が4千年間、選民を立てるために奉仕の道を歩み、悪魔に対して犠牲と生贄の道を歩んできたその歴史的な伝統を、イエス様は3年間の公生活の道で通過されたことを皆さんは知っておかなければなりません。


したがって、イエス様は食べたいものがあっても、食べるものがあっても、それを忘れて弟子たちを探され、着る服があれば自分が裸であることを考えずに弟子たちに与えました。安らぎの場所があれば、弟子たちをそこに置き、自分は貧しい場所に留まりました。天と結びついたこのような心とこのような理念を持って生活したイエス様の3年間の公生活の道が、必然的に勝利的な成果を収めなければならないはずだったにもかかわらず、その成果を得られなかったその事情を皆さんは知らなければなりません。


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イエス様の心情を理解しなかった弟子たちは、イエス様を利用して高い地位に就こうとしました。それを知っていたイエス様は、地を叩いて泣いてもその心を解く方法がなく、天に対して号泣してもこれを解く方法がなく、哀れな心情を抱えて生活していました。


しかし、行かざるを得ない使命の道が残されていたため、その心を抑えて弟子たちに対して「誰でも自分を高くする者は低くされ、誰でも自分を低くする者は高くされる」(マタイ23:12)と言われました。自分の心に刻まれ、自分の骨肉に刻まれた決意の一端を再び証しされたということを、皆さんは知らなければなりません。


その時、この言葉を聞いた弟子たちは、それはイエス様の言葉であって、自分たちには関係ないと思っていました。皆さん! ヨハネの母が自分の二人の息子を終わりの日の栄光の座に置いてほしいと願ったときに、絶望と悲しみに満ちたイエス様のその心情を一度考えてみてください。イエス様は本当に哀れな方です。イエス様が弟子たちにそのように教え、指導してくれたにもかかわらず、彼らはその意味を理解できませんでした。


したがって、従う者が多くなればなるほど、弟子たちは自分たちが喜ぶ行動を示しましたが、イエス様が自分たちに実践で示し、教え、指導してくれたことを見本にして、彼らがイエス様に従う者たちの前で模範を示し、イエス様を高め、イエス様に仕えるこのような生贄の立場には立てませんでした。むしろ弟子たちのせいで、他の人々がイエス様の前に出るのが難しくなったのです。それにもかかわらず、イエス様はその弟子たちに、自分たちを超えて教団が叫んでいることを成し遂げる責任があることを知っていました。そして、教団には教団を超えて民族が叫んでいることを成し遂げる責任があることを知っていました。民族には民族を超えて世界が叫んでいることを、世界の人類には世界を超えて天が叫んでいることを成し遂げる責任があることを知っていました。


しかし、このような彼の心情を理解する人は一人もいなかったのです。このような事情に置かれているイエス様、ただ自分のために求める数少ない弟子たちを見つめるイエス様に、もし悲しみがあったなら、それ以上の悲しみはなかったことでしょう。


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このようにして、イエス様は天心万苦の精誠を尽くし、信徒たちが飢えているときにはパンを作って食べさせ、彼らが泣くときには彼らを慰め、絶望するときには八福の言葉を通して天の祝福を紹介しました。このようにして、彼らを率いて歩きながら、落胆することを心配し、あるいは離れていくことを心配していたイエス様の心情的な哀れな事情を表現したのが、まさに福音書の言葉であることを私たちは知っておかなければなりません。


しかし、どれほど外的な条件が変わろうとも、イエス様の心は変わることなく、彼の進む道も変わることはありませんでした。この道は堕落した私たち人類が必ず歩まなければならない運命の道であるにもかかわらず、ついていくべきイスラエル民族がイエスを裏切り、従っていた群衆が裏切り、本来イエス様を信じて仕えなければならなかった弟子たちでさえ、彼と心情や事情、そして希望を異にしていました。このことを見つめるイエス様の視線には、悲しみを感じさせる場面が数多く見えたことを皆さんは知っておかなければなりません。


しかし、イエス様は個人的に迫害を受けるべき自分自身を知っており、家庭的にも迫害を受けることを知っており、教団的にも、民族や国家的にも、当時の世界を代表するローマ帝国の前でも迫害を受けることを知り、黙々と歩み続けました。変貌山を越えてゴルゴダの丘を目指す彼は、「どんな迫害や苦難が来ても来るなら来い、私は自分の時を迎えるために超えるべきものは超えなければならない」との覚悟を持っていました。もしそれを超えなければ、準備の過程が悲しみの一面として現れるため、覚悟していたこの峠、死の峠に向かって進みました。この意味を実践するためには、死の生贄としてこの人類に自分の血と肉を分け与えていくという覚悟が天心を代弁していたのです。このように、人類を代弁して天心に感動し、覚悟して歩むイエスの歩みでした。しかし、準備期間に覚悟したその決心を実践するために歩んでいる彼がその誰にも知られていなかったということを皆さんは知らなければなりません。


自分を拒絶する多くの群衆を恨むことを知らないイエス様、誰よりも敏感で、誰よりも強い憤りを持っていたイエス様でした。また、イスラエル民族を中心とした使命の道を再び開拓しなければならない責任感を感じていたイエス様でした。4千年の縁を通して神の心情が注がれていることを知るイエス様は、捨てることのできない民族であったため、彼らが自分を拒絶しても「私を通して救ってください」と、「彼らが迫害しても私を通してこの民族を救ってください」と、最後には弟子たちが裏切る場面に立たされても「私を通して救いの使命を果たしてください」と天に向かって祈願していました。イエス様はまさにこのような道を歩んでいたのです。


12人の弟子たちがイエス様と死んでも共に死に、生きても共に生きようという覚悟で「主よ! どこへ行かれるにも共に参ります」と言っていた言葉は、イエス様が福音を持って現れた時に発せられた言葉です。従う弟子たちが「先生がどこへ行かれるにも私はついていきます」と覚悟していたのは、イエス様が最初に出発した心情とゲッセマネに向かう時の心情と似たものであったことを皆さんは知っておかなければなりません。


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「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所がない」(マタイ8:20)とおっしゃり、「私の体と頭と心情を父の胸に委ねます」と祈ったのは、絡み合った人類の嘆きと逆境をすべて乗り越え、苦労された神を抱きしめて切なく悲しい心情を委ねるものであり、これがまさにゲッセマネの園での最終的な祈りでありました。このような約束を立て、それを実践するために進む歩みが十字架を背負い、ゴルゴダの道を歩むイエス様の姿でありました。イエス様は神が4千年の間、苦労されたその道を代わり、一つの生贄として捧げる覚悟をしました。これがその時まで摂理の使命を理解せず、裏切ってきた堕落した人間を代表して、反対する人類の前で、自分を死の生贄として捧げる覚悟を持って進んでいたイエスの歩みであったことを私たちは忘れてはなりません。そして、イエスの実践の道も悲しみで終わりを告げました。


すなわち、彼は実践の道において、同志を一人も持たずにその生涯を終えたのです。外的な心情でもそうであり、実践的な生活環境でもそうでした。そのため、イエス様は歴史の生贄として、孤独に血と肉を捧げ、新たな生命の道を人類の前に示すために死を覚悟して歩んだのが、まさに彼の実践の道であったことを皆さんは知らなければなりません。


イエス様は十字架上で血を流しながら息を引き取る前に、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか!」(マタイ27:46)と祈り、その後に「すべてが終わった」(ヨハネ19:30)とおっしゃいました。ここで「すべてが終わった」という言葉は、民族を信じ、その民族を中心にして成し遂げるべき理念的な世界をすべて成し遂げたということではなく、30年の準備期間において「悲しみの道が始まるときにはこうしよう」と決心していたその決心をすべて成し遂げたという意味であることを私たちは知っておかなければなりません。この一言の言葉は喜びの言葉ではなく、イエス様が全人類に対して自身の悲しい心情を吐露した言葉でした。知らない人間に対してその悲しい心情を語った最後の遺言であったことを私たちは知っておかなければなりません。


ですから、人類はイエス様の内なる悲しみの道を開拓し、真に「すべてが終わった」と言える日が来ることを望んでいます。それが再臨の日であることを皆さんは知っておかなければなりません。皆さん、そのことを知っておかなければなりません。


イエス様が決心して悪魔の世界と対決しながら進んできた道がまさに十字架の道であったため、今日、全世界のキリスト教徒もその道を模範として歩んでいます。見てください。天は叩かれてから取り戻すと言いました。民族が裏切り、12使徒までもイエス様を否認したために殺されたイエス様が復活して取り戻したのは誰だったでしょうか?  それは12人の弟子たちでした。天はこのように叩かれてから取り戻します。また、イエス様を信じていたステファノは石で打たれて殺されました。このようにして天の側に立っていたステファノが殺された後、天は代わりにサウロを取り戻しました。


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イエス様が復活して自分を裏切った弟子たちを再び取り戻したのと同じように、イエス様の弟子たちをすべて殺すという時に、イエス様は復活の権能を発揮してサウロを奪うという、つまり打たれてから取り戻すことを行いました。また、サウロはパウロに改名された後、12使徒に代わって叩かれました。このように追われていたパウロが使徒の中の使徒となり、キリスト教の基盤を築いたとは誰が想像したでしょうか!


それでは誰がイエス様を打ったのでしょうか? ローマ兵たちがイエス様を打ち、イスラエル民族全体が打ちました。その中でも主導的に打ったのは誰かと言えば、それはローマです。ですから、イエス様の弟子たちはイエス様が打たれたことをさらに補うために償いの復帰をしなければならない原則が残されていたため、ローマに入って代わりに叩かれました。12使徒と70門徒、そして信じていた多くの群衆が民族を代表して叩かれたことを再び償いの復帰をしなければならない原則が残されていたため、打たれたローマはそのままではいられませんでした。


ローマ帝国の時代が過ぎ、旧教が栄えた封建社会を過ぎて改革期に入ると、腐敗した旧教がルターが反旗を翻した時に打ちました。このように打てば打たれる新教は、その後その場所を離れ、天道を中心に大西洋を渡り、彼らが誇り、彼らが築き上げてきた文化を起こし、今日のアメリカを築きました。それは世界的な外的カナンの形を追われるキリスト教の群れを通して築き上げられてきたことを示しているのです。


それでは今日のイスラエルが民主国家を代表するこのような社会形態として現れたので、天はまた叩かれる群れを探し求める時が来たということです。したがって、この時は歴史的な転換期です。歴史が叩かれる群れを探し求めています。したがってこの時には教団の中において、民主国家の中で叩かれ追われる群れが出なければならないでしょう。追われる群れは、その主義や理念が従来のものとは異なります。なぜなら、イエス様が持ってきた理念は地上の理念ではなく天国の理念であるため、地上で通じる理念とは根本的に異なるからです。新しい理念に従って生きようとする人々は、その理念の建設者がイエス様であったため、天地開闢的な変革の過程を経て現れることを私たちは歴史を通じて知っています。


それでは、その瞬間にどのような群れが現れるべきでしょうか? 歴史の終末期にイエス様のゴルゴダの道を歩みながら信じる神霊派、すなわち天の祝福を受けた群れが出なければなりません。ゴルゴダの頂を目指して追われ、追われつつも行かざるを得ないこの道を再び歩んでいる群れが出なければならないということです。したがって、今日の時代には、イエス様の個人的なものではなく、キリスト教的な、あるいは教団的なゴルゴダの負担を背負って進む教派が出なければならない時が来ていることを私たちは忘れてはなりません。


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イエス様が手に入れたものは、打たれて手に入れたものです。ローマに打たれたのでローマを手に入れました。このようにして教団復帰運動や国家復帰運動、世界復帰運動を展開したため、個人的に叩かれるゴルゴダの道を歩まれました。したがって、今日では教団的に叩かれる、すなわちゴルゴダの道を進む教団が出なければならず、民族的にもゴルゴダの道を進む民族が出なければならないのです。終末にはこれが天に至る公式的な道です。


それでは、今日この時代において天を探し、準備期間を過ぎて実践期間を過ごし、天倫の本性を探し求めなければならない私たちは何を準備しなければならないでしょうか? また、どのような立場に立たなければならないでしょうか? イエス様が30年間準備したのと同じように、その立場に立たなければなりません。そして、内的な天的心情から人間の心情を代弁し、あるいはすべての主権を代弁して対決し、独りで立ち上がって進む覚悟を持たなければなりません。したがって、今日このような覚悟を持って世界的なゴルゴダを越えていく群れが必ず現れなければならないのです。これを皆さんは知らなければなりません。


イエス様が亡くなられる際に「すべてが終わった」とおっしゃいましたが、それでは摂理の完成点にはなりません。ですから、私たちは生きて「すべてが終わった」と言える道を歩まなければなりません。そして、天軍天使や霊人、そして被造物全体が頭を下げて「おお、あなたの願いが叶った日が今日です。栄光をお受けください」と言えるような、そのような場所で「すべてが終わった」と言える日を準備しなければならない時がまさに今です。ですから、今日のクリスチャンたちは、死んで「すべてが終わった」と言うその日を超えて、生きて「すべてが終わった」と言えるその日を迎えるために信仰しています。したがって、今日の第一の完成期における天的な開拓者の使命を皆さん自身が果たさなければなりません。


イエス様は世界のために死んだかのようですが、世界的な舞台で迫害を受けませんでした。民族と国家の舞台で迫害を受けました。しかし、最終的に勝利のゴルゴダを超えるべき完成期であるキリスト教終末期の今日において、皆さんは世界的な舞台を基盤にして、イエスの30年の生涯の準備期間に抱いていたその心、その決心を持ち、また3年間の実践期間に持っていた作戦法を持ち、どんなゴルゴダでも死を覚悟して越えなければなりません。そして、この仕事を成し遂げる責任を担い、敵を攻撃せずに開拓者の使命を代わりに果たさなければなりません。


言い換えれば、天の新たな第二の舞台を築かなければならないということです。そのためには、敵に対して祈りを捧げていたイエス様の内的な心情を抱き、越えていくことができる、すなわち世界的な使命を受け継いだクリスチャンになる必要があります。そうでなければ、完成の日、「すべてが終わった」と言うその時、すなわち栄光の日を迎えることはできないということを皆さんは知らなければなりません。


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今日まで、キリスト教徒たちは繰り返し未完成の道を歩みながら、この道を責任を持って開拓者の使命を果たしてきましたが、今度は完成の道を開拓しなければなりません。したがって、天の理念を心に抱き、準備してきたその第一の理念が第二の理念として現れたことを今日私たちは受け継がなければなりません。そして、第一にイエス様の心情的な憤りを解放し、その次に6千年の神の憤りを解放して差し上げなければなりません。そして、天の前で死ぬことなく「すべてが終わった」と言えるその日を迎えなければなりません。


悪魔に対して戦う悲運の歴史の道を隠して、神の栄光のために戦って勝利の日を迎えなければなりません。また、皆さんは十字架の道を歩んだイエス様と同じ心情を持ち、またその実体と同じ姿を持って天の前に立たなければなりません。そうすることで、イエス様がこの地上に来て二重の開拓者の使命を果たせなかったことを今日の皆さんが代わりに果たすことができるということです。したがって、私たちはイエス様が残した世界的なゴルゴダの道を開拓しなければならない自分自身であることを痛感しなければなりません。


ここで、イエス様が追われ、追われる者たちを捨てることができず、民族を抱きしめ、敵を抱きしめ、祈りながら越えていったのと同じように、今日私たちもそのような者たちを抱きしめ、祝福を祈ることができる寛容さを持たなければならず、死を超えて天を掴む覚悟がなければなりません。そうすることで、栄光の日を迎え、神の愛に包まれることができる世界的な息子娘、世界的な新しい楽園の開拓者になることができるのです。これを肝に銘じてください。


ですから、イエス様が築かれた天国が私の心に、イエス様が求めていた愛の心が私の心に、イエス様が求めていた世界が私の体からすべて完結されなければなりません。そして、悪魔が何の未練も持たない勝利者の姿として、新しい宇宙的な開拓者として天の栄光の旗を掲げて進むことで、お父様の意志が成就し、皆さんの復帰の使命が終結し、イエス様の憤りを解放することが完結されるのです。これを私たちは知っておかなければなりません。






祈り


お父様! 恐れ多くも私たちに使命を託し、叫び求める哀れなその声に、私たちの骨髄が震えるような恩寵を受けたことに感謝いたします。


     40


今、私たちの信仰が私たちの心ではなく、涙なくしては接することのできないお父様の心であることを知りました。そして、哀れなものを抱きしめ、もがき苦しむ天の心情を知ることができました。声を上げて泣いても終わりのない恐れ多いその恩寵の前に、身をかがめ、頭を垂れて、罪人の種族、罪人である自分をさらけ出さずにはいられないことを悟ることができました。


愛するお父様! 私たちを見つけてくださり、ありがとうございます。今日お迎えしたお父様の訪れは喜びに満ちたものでしたが、明日お別れするお父様の姿が歓喜の歌を約束して去ることができるお父様の姿であることを願います。お会いする時は喜びで満ちていますが、別れる時は悲しみで満ちています。これが人間に向き合い続けてきたお父様の苦難の道であることを知りました。今日よりも明日が、お父様の前により待ち遠しくなれるように許してください。青春期よりも老年期に入るにつれて、さらにお父様を恋しく思えるようにしてください。


そうして、心の深く高いその世界に一歩一歩進むことができる息子娘にしてくださいますように。そして、お父様の恨みの心情を慰め、イエス様の恨みを解き放ち、歴史上の先祖たちの恨みを解き放つことができるようにしてください。今日の終末的な使命、天的な解放の聖業を私たちによって成し遂げてくださいますように、心から願い、祈り求めます。


今日私たちは、開拓者の心情で来られたことを知りました。栄光が変わって開拓者がどうして現れるのでしょうか? バプテスマのヨハネが裏切ったためでした。教団が裏切ったためでした。民族が裏切ったためでした。世界のすべての人々が裏切ったためでした。これが今日のキリスト教史に残された事実であることを知る限り、イエス様が準備期間を通じて、実践期間を通じて、完成基準を目指して進んでいったその内的決意の心情が、終末期に残された私たちの心の土台の上に沸き上がるようにしてください。


イエス様は民族的な敵、国家的な敵に向き合いましたが、今日の私たちには、民族を超えた世界的な敵、宇宙的な敵に向き合わなければならない責任、すなわち最後の開拓者の使命を果たさなければならない責任があるのです。お父様、どうか私たちに力を与えてください。この責任を独りで担い、世界的なゴルゴダの道を最後まで毅然と歩み、勝利する栄光の息子娘とならせてくださいと心からお願い申し上げます。すべての御言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。


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御言葉選集5(8)

2024年08月31日 17時02分56秒 | 日記
文鮮明先生の御言葉選集 5 - 8. 山を求めるイエス様の悲しい心情 (1959年1月25日)


1959年1月25日(日)、前本部教会


<祈祷 (Ⅰ)>

お父様、この日を覚えてください。私たちの身体と心が自己中心のままで、あなたの御前に出ることがないようにしてください。私たちの心と身体が、あなたが直接臨在できる聖なる至聖所となるようにしてください。この時間が、あなたが行き、教えることができる純粋な供え物として、あなたに捧げられることを許してください。


お父様、一週間の間に傷ついた心と疲れた身体を抱えてあなたの前に出てきました。愛の手を差し伸べ、新しい生命の喜びを私たちに与えてください。あなたと私たちとの間に切れない永遠の絆を結んでくださいと、心から願います。

あなたが喜ばれるとき、私たちも喜べるようにしてください。あなたが悲しまれるとき、私たちも悲しめるようにしてください。あなたが行うとき、私たちも行えるようにしてください。あなたが戦うとき、私たちも一緒に戦えるようにしてください。永遠に消えない、切れない絆を結んでくださいと、心から願います。

今まで多くの先祖たちもあなたとの絆を結ぶために懸命に努力してきたことを知っています。あなたが喜ばれる存在として、永遠に抱きしめて愛することのできる存在として、私たちを立ててください。あなたと永遠の愛の絆を結び、あなたと離れることができない関係をこの時間に結ばせてください。

     1

この日は聖なる日ですので、あなたの愛の心情と私たちが一つになることによって、3千万人の民がこの一時間の中で同じ恩恵を受け、あなたの愛の領域に引き入れられるようにしてください。

隠れた祭壇を築き、あなたのために心配し祈る家族が多くいることを知っています。彼らも切れない命の糸に絡み合い、あなたが喜ばれる愛の園で一つになれるように導いてください。心から願います。

この時間、私たちのすべてを捧げますので、あなたのものとして受け入れてください。あなたの心から切り離すことのできない、永遠の一体となる存在にしてください。

今、私たちのすべてを差し出し、あなたのものとして心と身体を満たし、真の心の喜びを回復できるこの時間にしてくださいと、心から願います。

すべての上にあなたの祝福の手を共にしてください。主の名により心から祈ります。アーメン。

     2


<祈祷 (Ⅱ)>


お父様、あなたが集められた子供たちの前に、許された言葉を伝えようとします。私たちの心の主となり、私たちの身体の支配者となってください。


お父様、私たちは2千年前にイエス様が希望の一つの基準を失い、十字架を覚悟しなければならなかった悲しい瞬間に発せられた言葉を見ました。お父様、時と時期はすでに過ぎ去りましたが、心情の世界は時間を超越していることを知っています。イエス様を送り、心配されたあなたの憤りの心情が私たちの憤りとして現れるようにしてください。イエス様の30余年の生涯が私たちの生涯で現れるようにしてください。


お父様、私たちの先祖が天に対して責任を果たせなかった事実が永遠の恨みとなったことを知る者は地上にいません。お父様、あなたはこの不孝な者たちを集め、多くの言葉で天の心情を紹介し、持っている事情を通してすべてを教えてくださいましたが、私たちにはあなたに捧げるものが何もなく、備えもありません。ただあなたに捧げることができるのは、死ぬことができる一つの生ける供え物しかないことをこの時間に私たちが知ることを許してください。


あなたの心を通して私たちの心が動き、あなたの心情を通して私たちの心情が動き、互いに手を握り合い、天の種族として進むことができるように導いてください。そして、あなたの御子を裏切った事実を憤り、あなたの御子を再び迎えることができる切なる心情を持つことを許してください。その切なる心情がこの集まりの心を通して、身体を通して現れるようにしてくださいと、心から願います。


お父様、今、許された短い時間にあなたの言葉を伝えようと願います。伝える者の心と受け取る者の心が一つになるようにしてください。


     3


言葉がどれほど良くても、その言葉が私たちの心情と結びつく前には、私たち自身とは何の関係もないことを知ることを許してくださいと、心から願います。


あなたが私たちに行われなければ、そのような絆は結ばれないことを知っていますので、最初から終わるまで全体を支配してください。地方に散らばっている孤独な家族たちもこの時間に同じ胸に抱き、同じ恩恵で導いてくださいと願っております。主の御名によってお祈り致しました。アーメン。




<御言葉>


キリスト教がこれまでの歴史を経てきた中で深い絆を結んでいたもの、それは「山」です。ですので、今日は皆さんに「山を求めるイエス様の悲しい心情」という題でお話しします。本文の言葉によりすでによく知っているでしょうが、変貌山に登るイエス様の姿をもう一度この時間に思い出してみてください。


その山頂に登られたイエス様は、過去の歴史にあった全体の摂理を代行する存在であり、その時代全体を代行する存在であり、さらには未来の子孫たち全体を代行する存在でした。しかし、彼が変貌山に喜びの心で登られたのではなく、緊張と悲しみ、孤独の心情を抱えて登られたという事実を思い出してください。


このような出来事は、その瞬間だけで終わったものではなく、イエス様以前の時代やイエス様の時代、さらにはイエス様以後にも影響を与える重大な決定が下された出来事だったのです。


     4


イエス様が重大なことに直面するたびに足を向けられた場所、それは高い山々でした。荒野で40日間飢えた後、悪魔の三つの試練を受けたイエス様は、天への心配と人類への心配と被造物全体への心配をその身に背負い、前後左右を明確に分けなければなりませんでした。そのような責任を負ったイエス様にとって、その場面は天と悪魔、天の仕事と悪魔の仕事を分ける重大で緊張感のある場面でした。その時もイエス様は悪魔に引かれて山頂で試練を受けたのです。


イエス様と縁のあった山を振り返ると、イエス様の前には荒野で悪魔に引かれて登った一つの山があり、ユダヤ人の不信によって最後の十字架を背負う問題を天の前で決定するために訪れた変貌山がありました。そして、次には死のゴルゴタの道を越えるための決定的な祈りをされたゲッセマネの園がありました。この事実を私たちは思い出すべきです。


そのような山を求めたイエス様の足取りがどのように動き、彼が感じた悲しみと苦しみの心情がどのようであったか、彼がどのような姿で現れたのかを考えなければなりません。2千年前に荒野に出られたイエス様の姿をもう一度深く考えなければなりません。そうしないと、悪魔に対して戦いの道を歩んだイエス様の心情を理解することはできません。


荒野の三つの試練でイエス様が悪魔を屈服させ、最後に勝利した場所もまた高い山頂でした。選ばれたバプテスマのヨハネとその仲間から拒絶され、ユダヤの民から裏切られ、荒野の道を進むイエス様の足取りは、今日までこの地上で誰も体験し得なかった悲しい心情を抱えた歩みであったことを知るべきです。


イエス様は天の独り子であり、4千年の歴史を解決する者であり、またその時代と未来の世代の前に天が誇ることのできる勝利の標となる存在でした。しかし、そのようなイエス様が民も背後に置き、教団も放棄し、選ばれたバプテスマのヨハネも、ヨセフの家も残して、友人もなく一人で荒野に出て行かれた悲しい心情を思い出さなければなりません。


     5


そのような歴史的な償還条件を立てようという使命感を抱いて出発したイエス様は、40日間の断食をしながら、その一つの場所で何を思い出していたのでしょうか? それは、昔の先祖たちが歩んできた悲しみの道を自らの体で償還復帰しなければならないという責任感を、誰よりも切実に感じたということです。この事実をこの時間に私たちは理解しなければなりません。


それでは、三つの試練の過程で悪魔に引かれて高い山頂に登っていたイエス様は何を考えていたのでしょうか? 4千年の歴史全体の道のりを心に抱えながら、最後の勝利の盾を立て、悪魔を屈服させるかどうかという緊張感を抱いて高い山頂に向かって登っていたイエス様だったのです。


荒野を歩んだイエス様は、昔エデンの園でアダムとエバが追放された後、エデンの園を失ったために、その子孫もまたその園を探し求めなければならないことを思い出していたことでしょう。神から追放されたアダム以後、悲しみの園で生きてきた歴史的な先祖たちを思い出すとき、イエス様は「山」という名詞とともに山について深く考えざるを得なかったことでしょう。


イエス様は、アダムとエバがエデンの園から追放されたことを追放されなかった立場に戻すために、1600年後に現れたノアが120年という長い年月をかけてアララト山の麓であらゆる逆境を耐え忍びながら箱舟を作った彼の節操を思い出していたでしょう。そして、ノアがそのような生涯を送ったのは、今日の私自身のためだと考えていたでしょう。ノアがこのように山頂に登る自分の姿を懐かしみながら苦労したのだろうとイエス様は思っていたでしょう。


次にアブラハムの時代に移り、アブラハムが供え物を失敗した後、イサクを燔祭に捧げる命令を受けて山頂に向かって行ったことを思い出していたでしょう。この時、サラの晩年に得た子であるイサクを騙してモリヤ山に連れて行ったアブラハムの緊張感あふれる心情を思い出していたのです。


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イサクは誰のために供え物として捧げられなければならなかったのでしょうか? アブラハムは誰のために独り子のイサクを供え物として捧げなければならなかったのでしょうか? もちろん、父なる神のためであり、同時に来るべきメシアのためであったのです。このような歴史的な事実を思い出していたでしょう。


次にモーセを思い出していたでしょう。彼はパロの宮殿での40年とミディアンの荒野での40年の苦労の道を歩んできました。このような悲しい心情を抱えて出発したモーセの前に、ホレブ山の麓で燃える茨の中に神が現れ、新しい約束をされた場面を思い出していたでしょう。


また、モーセが自分を訪ねて来られた神をホレブ山で迎え、不変の絆を結んだ場面、敵である悪魔をこの宇宙から必ず排除するための神の摂理とその目的に対するモーセの忠誠心によって、神とモーセが結びついたその場面を思い出さざるを得ませんでした。


選ばれたイスラエルの民をエジプトの地からカナンの地へ導く命令を受けたモーセは、80歳の老人であり、荒野で苦しめられた身体でした。しかし、彼の視線と姿は天の心情に深く響いていました。そのような心の基準を持っていたモーセを思い出さざるを得ませんでした。


さらに、60万人の民を食べ物もなく、衣服もない荒れ地である荒野に引き連れて行った立場で、最後までカナンの地へ導かなければならない責任を負ったモーセは、彼らが誤ったり、間違った道を進まないか心配して登った場所がシナイ山でした。シナイ山頂でモーセは40昼夜の断食祈祷をしました。その後、神様の言葉を受け取って下山しますが、イエス様はそのようなモーセの状況を思い浮かべざるを得ませんでした。


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モーセがこのようにシナイ山に登って40日間の断食祈祷をしたのは、ただ天の父のためであり、メシアが来る道を整えるためであり、さらに、選民を立てて神が求める復帰された国を見つけて立てるためであったことを思い出さざるを得ませんでした。


次にエリヤがカルメル山頂で悪魔側であるバアルの祭司たちと対決していたその場面は、すべて誰のためだったのでしょうか? このような思いを巡らせて歩んだイエス様は、先祖たちが山頂に登って決定的な解決点を見つけるために天の前で祈ったその事実が、すべて神様のためであり、さらには自分のためであったことを思い出していました。イエス様は山に対するこのような歴史的な絆を思い出し、緊張感あふれる心情を抱えていました。今日、私たちもこのようなイエス様の心の世界を思い出さなければなりません。


イエス様が荒野の道で悪魔に引かれて行ったその足取りは、自分のために歩んでいたものではありませんでした。原理を通して知っているように、イエス様は個人復帰と環境復帰と世界復帰を果たさなければならないことをその心に抱き、この象徴的な条件の過程を経て山頂に登られたのです。その場で大試練が起こることを覚悟し、歴史的な新しい先祖としての伝統を立て、天の心情を受け継ぐ決意を持って、悪魔と共に山頂に登ったイエス様であったことを私たちは知るべきです。


このように、目的に対して誰よりも緊張感あふれる心情を抱いて出発したイエス様でした。どのような歴史的な先祖よりも確固たる覚悟を持って悪魔をその手中に収めて屈服させる決意を持って荒野に出られた方であったことを知るべきです。そして山頂に一人で立たれたイエス様であったことを知るべきです。


イエス様はこのような歴史の道のりを思い出すとき、自らが緊張感を持つべきであると感じると同時に、当時選ばれたイスラエルの民を考えるときにも歴史的な責任感を感じ、言葉にできない悲しみの心情を感じたのです。


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神様はこの地上にバプテスマのヨハネを立て、天の目的を成し遂げるための新しい道を整えさせました。メシアを迎えるための基盤を整えるために事前にバプテスマのヨハネを送ったのですが、そのバプテスマのヨハネがイエス様を信じなかったのです。そのため、イスラエルの民を選民として祝福し、4千年の間引き連れてきたその歴史を代行し、時代的な責任を果たし現れるべき民と選ばれた者が消えてしまったのです。このため、失われた群れを再び探さなければならなかったイエス様のその状況を私たちは理解しなければなりません。


そのような立場に立たされたイエス様は、失望せざるを得ない心情でした。その時代のすべての選ばれた民と立てられた群れを思い浮かべるとき、悲しみに満たされずにはいられないイエス様の心情でした。しかしイエス様は、そのような状況を作り出した動機と起源をたどって考え、またその時代までの歴史的な心情を考慮してみるとき、このような状況をもたらした存在がまさに悪魔であることを感じたのです。ここでイエス様は、必ずや悪魔に勝利しようという確固たる決意を持って悪魔の試練に立ち向かったのです。このような緊張感あふれる場面を忘れてはならないのです。


悪魔が「天下の万国とその栄光を見せて、もし私にひれ伏して礼拝するなら、このすべてをあなたに与えよう」(マタイ4:8-9)と言ったとき、イエス様は断固として悪魔を拒絶しました。これによって悪魔の前に一つの勝利の基準を立てました。またそれによって歴史的な悲しみと時代的な悲しみに結びつけられる自分自身の基準を獲得し、歴史的な絆の基盤となっている選ばれたイスラエルと立てられたユダヤ教に向かって再び戻らなければならなかったイエス様の状況を考えるべきです。


こうしてイエス様は荒野の道で勝利の基準を立て、イスラエルの民とユダヤ教を訪ねましたが、彼らは誰も歓迎してくれませんでした。イエス様が行く場所や滞在する場所のどこでも歓迎してくれるどころか、むしろ彼を迫害と反対と嘲笑で迎えたのです。最初に拒絶され荒野の道に出たことも残念で悔しいですが、悪魔に対して勝利した条件を持ち再び民を探しに出たイエス様の前に反旗を翻して出てくるユダヤ教とイスラエルの民を見るとき、それは言葉では言い表せないほどの痛みと悲しみに満ちた心情であったのです。そのような立場に置かれたイエス様を私たちは思い出さなければなりません。


迫害を受ける混乱した環境の中で、民と教団を回復するために山頂で彼らのために祈り、3年間の公生涯の道を通して悪魔と戦いましたが、何の成果も得られませんでした。ですので、最後には自分が死んででも必ず無知な民を警醒させなければならないという心情で変貌山に登ったのです。


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イエス様は人としてできるあらゆる努力をしても成果が得られないことを悟った後、自分が死んで犠牲となり、血と肉を捧げてでも歴史的な絆と時代的な絆を結びつけている彼ら、天の心情に結ばれているその民を救うという切なる思いを抱いていました。しかし、そのような心情を抱いて訪れた場所は立派な宮殿ではありませんでした。自分を迎えてくれる弟子の家でもなく、その国の民の家でもなく、当時のユダヤ教の家でもありませんでした。彼が訪れた場所はどこだったのでしょうか?変貌山でした。行く場所がなく変貌山をあちこち歩いていたイエス様の悲しい心情を考えてみてください。


イエス様が悲しい荒野の道を歩んだのも、先祖たちが不信し責任を果たせなかったためでしたが、3年間、天の心情を理解してくれる人を探し求めましたが、その目的を果たせず、再び山を登らなければならなかったその悲しい心情とその足跡を私たちは思い出さなければなりません。イエス様が荒野に出られた足取りは、サタンに対して勝利する基準を持ち、民を引き寄せるために出発したものでしたが、変貌山を訪れるその足取りは、抱いていた決意をすべて捨て、自分の身体を民の前に差し出すために死を覚悟して出発した足取りでした。この時間、そのように山を登ったイエス様の心情と姿を思い出し、それを自分の悲しみとして感じ取り、そのような心情でイエス様を見る者がいるならば、彼は天に対するイエス様の悲しみ、民に対するイエス様の悲しみ、そして教団に対するイエス様の悲しみまでも理解することができるでしょう。


変貌山に登るとき、三人の弟子がイエス様の後についていました。彼らは民を代表して選ばれた弟子の立場でしたが、山に登るイエス様の前に何の助けとなる条件も立てられなかった弟子たちでした。


イエス様が荒野に出発したときは天使が来て仕えてくれましたが、民のために戦い、民のために死を覚悟して変貌山に登るときは、民を代表してついていた三人の弟子さえもイエス様に仕えることができませんでした。これを考えると、悲しみで始まり悲しみで終わったイエス様の生涯は痛ましいものであったことを感じざるを得ません。


そのイエス様はひざまずいて天を仰ぎ、「私の力が尽きるまで、私にあるすべての誠意を捧げ、望まれる目的に従って進んでいく」と祈りました。歴史的な先祖たちよりも堅固な志を持ち、忠義と誠心と努力を傾けて3年間の公生涯の道を歩んできましたが、民から追い詰められ、教団からも追い詰められました。親族や弟子たちの誰一人としてイエス様の味方にはなってくれない中で、イエス様は天に向かって祈る生活をしていたのです。


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イエス様の心情は、自分が孤独な場所で悲しみを感じることよりも、神様が人間に対して4000年の間苦労してこられた歴史の結果がこのような姿であることを知り、神の前に自分の心情を告げることさえも心苦しい心情であったことを知るべきです。


そのような心情に満たされたイエス様には、民に対する恨みや教団に対する恨み、あるいは堕落したアダムとエバに対する恨みが生じる余地はありませんでした。誰を恨む余地もなかったイエス様であったことを知るべきです。


昔の先祖たちは悲しいときに天からの慰めを受けましたが、イエス様は悲しい場所でも「悲しい」と祈ることができない自分自身であることを悟ったのです。祈る前にすすり泣きの涙がまずイエス様の膝を濡らしていたでしょう。その姿は天と地の上で罪人の中の罪人のような姿でした。4000年の間苦労の歴史を繰り返し摂理されてきた神の前に、勝利の条件を立てることができず敗北の道に立たされた悲しい事情を抱えたイエス様は、口を開いて祈ることができなかったのです。


その姿と事情があまりにも哀れであったため、神はエリヤとモーセを送り、エルサレムでのイエス様の死について話し合われました。弟子たちだけでなく、神が悲しみに沈むことを知っていたイエス様は、民のために、また未来のために天が心配されることを知り、過去と現在と未来を考え、悲しみました。死の道を歩んででも希望がなく、行く先が遮られている状況にあるユダヤの民を救わなければならないと感じたイエス様は、エリヤが「父よ、私だけが残っております」と嘆願したそのような祈りの心情で神様の前に現れました。このようなイエス様の心情は本当に痛ましいものでした。


今日まで私たちの先祖が天に対して出て行く中で、その行った事柄がこのように悲しい歴史を残したという事実をよく知っています。神様は変貌山での弟子たちが自分たちが罪の種族であることを知り、イエス様と同じ心情で、あるいはイエス様に代わって民の悲しみを心配してくれることを望まれました。イエス様を慰め、イエス様に代わって祈ってくれることを望まれましたが、弟子たちの考えは異なりました。これが今日まで私たちの先祖たちが歩んできた歴史の実態でした。


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エルサレムでの死を予告されたイエス様は、その死の一日を密かに準備しました。イエス様は自分の死の時が近づき、事態が混乱していることを感じました。また、愛する弟子が自分を裏切ることを知り、自分が十字架に向かう前にまず世のすべての事を終わらせなければならないという深刻な心情を抱いていました。そのような心情が彼の身体と心に刻まれていたのです。


死を目前にして最後の道を進まなければならない救い主の使命を背負った自分自身であることをイエス様は知っていたため、死の道を越えた後に進むべき方向を設定しなければなりませんでした。イエス様は自分のこの死によって歴史的な悲しみや時代的な悲しみ、そして未来の悲しみが消えるのではなく、死の山を越えた後にも残されることを心配していました。このようなイエス様の心情はどの時よりも緊張感に満ちていたことを知るべきです。


このような心情にとらわれているイエス様を理解した人は地上に一人もいませんでした。その事情を理解してくれる弟子も一人もいませんでした。イエス様の事情を理解する方は神様しかいませんでした。このため、イエス様は自分だけが知っている悲しい心情を抱え、歴史的であり時代的であり未来的な恨みを抱え、不運の障壁と黒い雲が前を遮る環境、死に追い込まれる悲惨な環境に立たされていたのです。このようなイエス様の心情が悲しいならば、この地上のどの誰よりも悲しい心情であり、悔しいならば誰にも比べられないほど悔しくて不条理なものであったでしょう。


それでは、イエス様は誰のためにこの地に来られたのでしょうか?歴史を代行し、時代を代行し、また民と教団のために来られましたが、彼が進む道はあまりにも悲しいものでした。イエス様はその悲しみが自分の悲しみで終わるものではなく、その悲しみが歴史的な悲しみとして、時代的な悲しみとして結びつくことを知っていたため、また未来の悲しみとして結びつくことを知っていたため、身の置き場を知らず焦燥感に満たされていたことを知るべきです。


そのためにイエス様が訪れた場所がゲッセマネの園でした。これを考えて悲しむことができる人になるべきです。万民の救い主であり、万王の王としてこの地に来られたイエス様が最後の悲しみを吐露した場所は弟子の家ではありませんでした。信仰を持っていたユダヤ教団でもなく、ユダヤの宮殿でもありませんでした。神と話し合い、すべてを決定するために登られた場所は深夜に誰も行かないゲッセマネの園であったのです。この事実を知るべきです。


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したがって、終わりの日にある今日の信徒たちは、イエス様がゲッセマネの園で流した涙を代わりに流すことができるべきです。また、そのようなイエス様の第二の姿を描く心を持つべきです。そうしてこそ、歴史的な悲しみを抱え、時代と未来のために涙を流されたイエス、悲惨で哀れな状況に置かれて三度も血の汗を流して泣かれたイエス様と絆を結ぶことができることを知るべきです。


夜通し「父よ、もしできるならば、この杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と祈られたイエス様が悔しいならば言葉にならないほど悔しく、悲しいならば言葉にならないほど悲しかったでしょう。イエス様のために4000年の歴史が一日に過ぎ去り、多くのイスラエルの民が一朝にして滅び、4000年の摂理の基盤が一時間で崩れ、立てられたユダヤ教団が一時間で崩れることを考えると、彼が流した血の汗は歴史の距離を結びつけた血の汗であり、彼が流した血の涙は歴史の距離を結びつけた血の涙でした。しかし、当時のユダヤの民はこのような内容を夢にも思わなかったことを知るべきです。


イエス様の後を追った弟子たちは「先生がどこへ行かれるにも共に行く」と誓いました。しかし、イエス様のその痛ましい心情を誰が引き継ぎ、誰がこの痛ましい血の涙の事情と絆を結んだでしょうか? この地にはそのような人は一人もいませんでした。そのような事柄はただイエス様だけが行い、成し遂げたのであり、この地上の人間の中にはそのような心情を引き継ぐ者はいなかったことを知るべきです。


ですので、イエス様は死を目前にしてゲッセマネの園で三度も天に向かって「アバ、父よ、あなたはすべてをおできになります。この杯を私から取り除けてください。しかし、私の思い通りではなく、あなたの御心のままにしてください」(マルコ14:36)と祈られました。この訴えは天と地が震えんばかりの一言であり、死の世界が権勢を持って進むのを阻止しようとする緊張感あふれる一言でした。


したがって、ゲッセマネの園での祈りがキリスト教徒にとって死んだ祈りとなってはなりません。どの時代や世紀を経てもこの痛ましく血のにじむ最後の訴えの声が私たち人間の心の中に絶え間なく生き続けなければなりません。「ああ!天よ!」と叫んだイエス様の心情にあなたの心が共鳴する一日を望み、天は再び摂理を進めておられるのです。


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これを考えるとき、今日の終わりの日にある信徒たちは、カルバリ山とゲッセマネの園で訴えられたイエス様のその歴史的で緊張感あふれる心情を引き継がなければなりません。そうして、ゲッセマネの園で眠っていたイエス様の三人の弟子と同じ立場にあるキリスト教徒たちを目覚めさせなければなりません。このような時代が到来していることを知るべきです。


そして、ゲッセマネの園に登られ、天に向かって「父よ、もしできるならば、この杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と祈られたイエス様と同じ心情を抱いて、「アバ、父よ、できるならば私たちのメシアを十字架にかけないでください」と祈る者となるべきです。


イエス様が「父よ、もしできるならば、この杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と三度も祈られたとき、そのような心情で「アバ、父よ、できるならばイエス様に代わって私が十字架にかけられるようにしてください」と祈った人は誰もいませんでした。このような祈りができる一人の選ばれた信徒もいませんでしたし、一人の選ばれた民もいなかったという事実を知るべきです。


イエス様が歩まれた生涯の道は、山頂で繰り広げられるそのような緊張感あふれる出来事の連続であり、喜びに満ちた出来事は一つもありませんでした。孤独な時にはオリーブ山の谷を訪れ、悲しい時には静かな森を友として無言の説教をする生活をされました。誰一人としてその深い心情の内容を訴えることができる自由な場所を持つことができなかったという事実を知るべきです。


イエス様は山頂に登って父を仰ぎ見るたびに、悲しみと苦しみを抱いていました。そのような中で、イエス様には一つの願いがありました。それは何であったのでしょうか?それは、見えるすべての山河が神の涙と結ばれ、先祖たちの切ない心情と結びついている地であることを思い出しながら、このすべての山河が悲しみと涙の山河とならず、喜びと栄光の祭壇を築き、勝利の賛美歌を捧げる山河となることを願っていたのです。これこそがイエス様の願いでした。それでは今日、私たちは山を見て何を感じるべきでしょうか?私たちの先祖が過去に緊張感あふれる決意を持ち、すべての悲しみの歴史をこの山で終結させようとしたことを知っているならば、その山が先祖たちがサタンの世界に対して勝利してくれることを望んでいたことを感じるべきです。山はイエス様が緊張感あふれる場面場面で勝利の基準を立てるために祈った場所であったと考えるべきです。イエス様はこの山で勝利と栄光の祭壇を築き、「アバ、父よ、私によって栄光を受けてください」と言える日を待っていたでしょう。このため、これを知ったあなたたちは、今、山を見てイエス様の血と涙の基盤となった山であったことを感じるべきです。


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おそらくイエス様はゲッセマネの園で一つの草をつかんでも訴えられたでしょうし、一つの岩をつかんでも訴えられたでしょう。このため、その岩や草は夜通し祈られるイエス様の心情に結ばれ、その心情の中に浸ることができましたが、当時の人間はそうではありませんでした。この事実を知るべきです。


さらに、悲しみの人類となったことを嘆き、万物を見ることが恥ずかしく、山を見ることが恥ずかしい自分自身であることを悟り、終わりの日にこの地に再び来られる主の前に、イエス様を山に追いやったユダヤ民族のような人になってはなりません。そうして家庭から主を迎え、社会で迎え、国家で迎えなければなりません。野や山どこであっても、さらには山頂であっても主を迎えなければならないのです。そうして天の前に喜びの存在として、栄光の存在としてその主を迎え入れることができるべきです。また、その主の一言は悲しみの言葉ではなく、喜びと愛に満ちた言葉となる環境を整えて差し上げる責任があなたにあることを知るべきです。


「山よ!山河よ!」とおっしゃり、悲しみの歴史を嘆かれた神の涙の跡を受けた山々、あるいはこの地を前にして、または被造物全体を前にして、歴史の道のりを前にして、この時代を前にして、いかなる存在物に対しても天は悲しみの涙を通して見つめておられます。神はこの地のどの存在物にも悲しい心情を抱いて接しておられるのです。


皆さん!皆さんは山から出発し、山に山に向かって歩まれたイエス様の歩みを知るべきです。イエス様は山頂で勝利の条件を整え、生活環境においても勝利の条件を整えました。山頂でも神を迎えることのできる日を待ち望んでいたイエス様であったことを知るべきです。


これは山を求められて勝利の一基準を立てるために祈られたイエス様の歴史的な心情であり、イエス様の時代的な歩みであり、またイエス様の願いであったのです。これを知るべきです。


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さらに私たちは今日の荒野の道でイエス様に代わって悪魔と戦わなければならず、変貌山で戦われたイエス様に代わって民と国家、世界のために死を覚悟して戦うべきです。ゲッセマネの園で死を目前にして歴史的な絆を結ばれたイエス様の心情を持って、天の父に向かって叫ぶことができるべきです。胸が張り裂けるような切迫した心情を持ち、この地との絆を結びたいとする天の心情を引き継ぐことができるべきです。


そして、あなたを通して天の心情と結びつけることのできる一つの存在を立てなければ、イエス様が歩まれた山頂の苦労は無駄になってしまうことを肝に銘じてください。




<祈祷>


お父様、宗教を求めて出発する人類には名山が必要であることを知っています。歴史に現れたすべての偉大な人物たちは山と縁を結び、山とともに事情を吐露し、山とともに生死の基準、勝敗の基準を決定してきたという事実をよく知っています。


イエス様は人類を代表して行かれた方であり、彼が行かれる場所は山頂であり、心をつなげて天に向かって事情を訴えられた場所は山頂であったことを知っています。


このような歴史的な絆を結びつけてきたのが山であったことを知っているので、この三千里半島の山々にも神の子供たちが現れるようにしてください。そして、神に勝利の栄光を捧げ、歴史的に山で結ばれた恨みを償還することのできる誇り高き者たちとなるよう導いてください。


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そのような者となるためには、私たち個人だけでなく家庭や社会、さらには宗教や民族、世界がこの山頂を通さなければならないという事実を知っているので、今日私たちは天地を代わりに山頂を行き来されたイエス様の心情を見習い、その足跡に従わせてください。そして、最後に勝利の祭壇を山頂に築き、「ホサナ」の勝利の賛歌を歌う日まで、私たちは変わることなく戦い、またその戦いに臨んで疲れることなく、後退することなく進む、真の子供たちとなることを許してください。


お父様、このような覚悟と決意であれば、あなたが助けてくださることを知っていますので、その定められた一念でいかなる困難な道でも突き進むことができるよう導いてください。そして、あなたが望まれるなら、どこにでも出かけてその意を受け、あなたの心情と結びつける責任を負う真の子供たちとなるように心から願い、すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


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