人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(5)

2024年08月24日 16時58分42秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 5. 勝利の国を復帰しよう(1959年1月4日)


1959年1月4日(日)、全本部教会。


創世記 1:27-28、創世記 2:15-17、使徒行伝 1:1-9




<祈祷>


愛するお父様、新しい年にこの日を私たちにお許しくださったことを感謝します。この初めの時間にお父様の前に出て、恥じることのない真の崇拝の時を持つことができるように許してください。そして、お父様が喜ばれるこの時間となりますように。


私たちがお父様の前に非常に不忠であったことをお許しください。そして、摂理の目的の前に私たちのすべてを捨て、お父様が望まれる祭壇のために忠誠を尽くすことができるように許してくださいと切に願います。


この時間、お父様が親しく導いてくださいますように。今、私たちの体と心をお父様に捧げたいと願いますので、受け取ってくださり、親しく運行して、お父様が命じられる言葉と内容をお与えくださいと切に願います。


おお父様、今まで私たちが摂理のために戦い続けてきたすべてのことが、この一年においては勝利に結びつかなければなりませんので、全身全霊を捧げ、お父様が喜ばれる実績を示すことができるように許してください。


今、お父様が許されたあなたの息子娘たちが喜ぶことができる恵みをお与えください。選ばれたあなたの息子娘たちに親しく勝利の証をお残しくださるように切に願います。


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この時間も孤独な家族が地方に広がって、お父様の前に崇拝する場所に、愛と恵みの手を差し伸べ、慈悲の恵みをお与えください。


お父様の全体の目的の前に忠誠を尽くすことができるあなたの息子娘たちとなるように許してくださいと切に願います。この地上であなたの名を使う場所に、愛の手を差し伸べ、慈悲の恵みをお与えくださいと切に願いながら、この一日をすべて任せて導いてください。主の名によってお祈りします。アーメン。




<御言葉>


今日、皆さんにお話ししたい内容は「勝利の国を回復しよう」、イスラエルの国を回復しようということです。イスラエルという言葉の意味は「勝利」を意味しますので、「勝利の国を回復しよう」という意味のタイトルで、しばらくの間お話しします。


創世記の言葉の中で、神が人を創り、祝福されたという内容があります。しかし、その祝福は成就した祝福ではなく、約束の祝福でした。ですから、アダムとエバは大きな希望を抱き、万物を支配することができる日を心に憧れながら生きていました。


そのような状況の中で、神はアダムとエバに善悪を知る木の実を食べてはならないと命じました。「その木から取って食べると、必ず死ぬ」(創世記 2:17)と言われました。従って、アダムとエバは神が祝福された希望を心に抱き、命令を守る必要がありました。命令に従うことで、アダムとエバは神の目的を果たし、真の家庭を築くことができる一男一女としての出発ができました。これが原則です。


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そのため、人間は必ず希望を持つ者でなければなりません。そして、私たちが希望を持ち、永遠の関係を築くためには、信仰の過程を経なければなりません。この希望が実現し、信仰が成就する日に、私たちは神の愛を受けることができます。これが原則です。従って、パウロもコリント第一の手紙13章で、「信仰、希望、愛、この三つは常に存在するが、その中で最も重要なのは愛である」と述べています。


しかし、人間は堕落によって希望を失い、信仰を失いました。希望と信仰を失うことで、神を中心とした愛を失いました。これを回復するためのものが、今までの6千年の回復摂理の歴史であることを、私たちは知っておかなければなりません。


アダムやエバに代わって、神が被造物の前に与えられた祝福を希望として受け、その希望を自分のものにするために、神が命じたことを守り、実行しなければなりません。それをしなければならない立場にあるのです。


神を中心とした希望と信仰を持ち、実践生活において勝利を収めるとき、初めて私たちは神の愛を受けることができる個人回復の基準を立てることができます。どのような個人や家庭、教会、そしてすべての被造物までも、このような権利の中にあるということを、私たちは理解しなければなりません。


神はこのような理念を持って被造世界を創造されましたが、堕落によってこれらを失ったため、今まで人間は希望を求め、信仰を求め、愛を求めてきました。


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従って、私たちが歴史を振り返るとき、旧約時代は希望を求めて実践してきた時代であり、新約時代は信仰を求めて実践してきた時代です。従って、これからの聖約時代は、愛を求めて実践していく時であることを、皆さんは理解しなければなりません。


希望を求める摂理の時代であった旧約時代には、割礼を通じて選民としての条件を立ててきました。新約時代には、水の洗礼と火(聖霊)の洗礼を通じて、神の前で信仰を立ててきました。そして聖約時代においては、神の愛の印を受けることで、神との愛の縁を結ぶことができるということを、皆さんは知っておかなければなりません。


それでは、今までの6千年の歴史は何をするための歴史だったのか?それは、人間が堕落によって失った希望と信仰と愛を回復するための歴史でした。今まで神はそれを回復するために努力してこられたのです。ところが、今日の私たちは、まだ信仰の時期にとどまっているのです。


それでは、希望は何を象徴していたのでしょうか?それは、神の新しい言葉を象徴していました。そして、信仰は何を象徴していたのでしょうか?それは、神の真の息子娘になるためのものでした。真の息子娘を見つけるために、信仰が象徴されてきたのです。そして、これからは神の愛を中心に、自分の存在が完成した後に家庭を見つけることで、初めて神の愛が成立することを、皆さんは知っておかなければなりません。


神は今までの6千年間、回復摂理の歴史を進めてこられましたが、人間の前に希望の神、信仰の神となることはできても、まだ愛の神になることはできていませんでした。それでは、私たちが今するべきことは何でしょうか?希望の神、信仰の神を土台にして、愛の神を迎えることができる生活環境を築かなければなりません。このような環境を打破しなければならない重要な時が、まさにこの時です。


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今までの信仰生活は、自分一人を見つけるためのものでした。失われたアダムとエバと同じ立場で、原罪のない本来の存在を見つけるためのものでした。では、神が最後に望むものは何でしょうか?まず、神の愛を中心に、個々の存在が結ばれた一つの家庭を見つけることです。さらに、神が愛することができるその家庭を中心に、その家族が増え、民族と世界を見つけることを望んでおられます。これが神の全体的な意図です。


それゆえに、今日の私たちは、私たち自身の希望の時、または信仰の時が過ぎる前に、希望と信仰を見つけて立てなければなりません。私たち一人一人が、6千年間神が摂理された全体を結実した姿、つまり完全なアダムとエバの一つの姿を持つべきです。そして、神の愛を中心に新しい家庭を形成しなければならないということを、皆さんは理解しなければなりません。


イエス様も天国を約束してこの地上に来られましたが、その目的を全て果たすことができませんでした。過去に来た多くの預言者たちも、天を証ししましたが、その目的を果たすことができませんでした。従って、全ての歴史的な希望と信仰を持って天国、つまり勝利の楽園を見つけなければならない今日の私たちです。それでは、今日、皆さんがすべきことは何でしょうか?天が喜ぶ個々の存在を見つけ、天が喜ぶ家庭を築くことです。しかし、その家庭を見つけるには、真の父母を見つけなければなりません。そして、真の夫婦、真の兄弟を見つけなければなりません。


これを見つけるためのものが、神の摂理の歴史です。従って、希望を象徴した時代は旧約時代であり、信仰を象徴した時代は新約時代です。そして、これから愛を象徴する時代が来ますが、その時代を聖約時代と言います。こうして、そのような縁が天から地上世界まで広がっています。


従って、イエスが来る前の旧約時代に生きた多くの人々は、神の前で希望の存在でした。そして、イエスの時代の新約時代の人々は、神の前で信仰を立てることができる対象でした。しかし、これからの聖約時代においては、希望の存在を代わりにでき、信仰の存在を代わりにできる段階を超えて、愛することができる存在を見つけようとしています。これが神が6千年間摂理してきた全体の意図であることを、皆さんは知っておくべきです。


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それでは、今日の私たちは神の愛を受ける必要がありますが、過去の希望の時代に受けたそのような愛は私たちに必要ありません。また、信仰の時代に受けた神の愛も必要ありません。


私たちは、今すべての恨みの歴史を超えて、あなたを愛するという神の直接的な祝福を受けなければなりません。こうして皆さんが天と地に結ばれた恨みを晴らして差し上げることで、イエスと皆さんが新郎新婦の縁を結ぶことができ、愛の条件を通じて神の愛を受けることができます。これが今までの回復摂理の全体的な意図です。


このようにして、神の愛を受けることができる一つの存在になれば、その人は旧約時代を代わりにし、新約時代を代わりにし、聖約時代を代わりにすることになります。従って、皆さんは今まで霊界にいる楽園の霊人たちや、現在地上に生きているキリスト教徒たち、または再臨時代に再臨主を迎え、直接的な神の愛の権内で生きることができる人々と一つの目的を達成しなければなりません。


皆さんは過去の信仰指向的であり、希望指向的な信仰圏内にいた人々、つまり旧約時代から新約時代までを通過した多くの霊人たちは、終末に聖約時代の人を通じてでなければ、神の前に立つこともできず、神の愛を受けることもできないことをよく知っています。


従って、私たち自身は、今や天と地のすべてに対して戦って勝利できる勝利者の姿を持っていなければなりません。この天の全体摂理を見たとき、今まで天上の楽園にいる霊人たちは、希望のイスラエルであり、現在地上にいるキリスト教徒たちは、信仰のイスラエルです。これからはまた新しいイスラエルの世界が来なければなりませんが、そのイスラエルは何かといえば、それは愛のイスラエルです。


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従って、今日の皆さんは神の愛を受けるイスラエルとなるべきです。そして、愛を受けた証を持つイスラエルとなるべきです。そうすれば、過去の希望時代と信仰時代を経たという一つの条件を完結させ、お父様の前に堂々と立つことができるようになります。これを皆さんは理解しなければなりません。


これを指して、私たちはイエス以前の時代の聖徒たちを第一イスラエルと呼び、イエスが来てから現在までイエスを信じている聖徒たちを第二イスラエルと呼び、これから再臨時代に再臨主を迎えて直接的な神の愛の権内で生きることができる人々を第三イスラエルと呼んでいます。


そのため、終末においてこの第三イスラエルの立場に入る人々は、歴史の中で初めて現れる者たちです。また、神の心情を代わりにして、愛という名を掲げて直接関わることができる、創世以来初めて現れた者たちです。従って、このような者が現れなければ、天の希望の摂理も信仰の摂理も全て崩れるということです。従って、終末に置かれている今日の私たちの使命がどれほど重要であるかを再び感じなければなりません。


この地を見れば、この地には第二イスラエルが生きています。そして、霊界には第一イスラエルが生きています。しかし、まだ神が統率できる第三イスラエルが形成されていないのです。さらに、部族の編成から教会の編成、あるいは家庭の編成もされていないのです。


それでは、神がこの地上でしようとしていることは何か?神はヤコブ、モーセ、イエスの時代から12兄弟、12長老、12使徒のような天的な数を探してこられました。このように、天の全ての原則の数を見つけ、それによって天上や地上にいる全ての人々を一つの階級に結び付け、一つに統合することです。これが天の摂理の目的です。このようになると、天国の門が開かれます。しかし、天国の門は天国だけで開かれるのではありません。地上でも開いて広げなければならないのです。


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これまで一つの地域的な限界内にあったその天国の門が、イエスを信じて進んでいく聖徒たちが増えることによって、次第に広がっていったことを私たちは知っておくべきです。これが神の望みです。そのため、皆さんは終末において、サタンとの戦いで勝利し、復帰の目的を立てて、天国の門を通じた存在でなければなりません。


今日の皆さん自身がどの部族に属しているかが問題です。今日、全世界にキリスト教の教派がいくら多くても、その教派は12使徒を代表する何か一つの部族に属さなければなりません。しかし、天が地上を統率し、動かし、命令することができるこのような部族編成はまだできていません。このような地を天は今も心配しています。モーセ時代の12部族はヤコブ時代の12兄弟に代わるものでした。


アブラハムからモーセの時代まで選ばれた民として立てられたこの群れは、ヤコブの家庭を中心とした回復時代の部族に代わる民族回復型の群れでした。従って、その12部族を中心にして、400年間繁殖した子孫は、すべての部族権内に入らなければなりません。そして、モーセの部族権内に入った民は、世界を代表して回復の使命を担ったイエスの12弟子を中心とした部族権内に入らなければならなかったのです。モーセを通じてイエスの時代まで形成されたイスラエル民族は、イエスの12弟子を中心とした部族に編成されなければならなかったのです。このような回復的使命が残されていたことを私たちは知っています。


それでは、当時イエスが来て死なずに目的を果たしていたならば、旧約時代の霊人たちが第二イスラエルとなり、イエスを信じて天の真の愛を受けることができる群れが現れることで、彼らが第三イスラエルとなるべきでした。しかし、この目的が果たされなかったために、第二イスラエルに対する目的はそのまま残りました。また、第二イスラエルに対する目的が果たされなかったために、これが延長されて、2000年が過ぎた今までキリスト教信者がイエスの時代に生きていた選ばれた民が担うべき使命を補完してきたということです。このように、イエスが12使徒を中心にこの地上でイスラエルを統率できる部族編成を行わなかったことが、神の悲しみ、イエスの悲しみ、聖霊の悲しみであったことを私たちは知っておかなければなりません。


それでは、今日の私たちはイエスの目的を成就させ、神の目的を成就させるためには、まず何をすべきでしょうか?それは、天がこの地上に全世界を代表して立てることができる一つの部族を編成しなければならないということです。


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部族を編成するには、ヤコブの12人の息子、モーセの12長老、イエスの12使徒が出てきます。しかし、ヤコブと12人の息子の関係は親子の関係でした。従って、モーセと12長老の関係も親子の関係でなければならなかったが、親子の関係を築くことができませんでした。イエスと使徒たちも親子の関係であるべきでしたが、それができませんでした。これが今日まで回復摂理の過程において一つの悲しみの条件が残された理由であったことを、私たちは知っておかなければなりません。


ヤコブと12人の息子たちは親子の関係にありましたが、モーセと12長老、イエスと12弟子たちは親子関係を結ぶことができませんでした。もし、イスラエル民族がモーセを自分たちの民族の父として迎え、自分たちの民族を天の勝利した民族として立てることができる存在として、天が立てた民族的な父として知り、親子関係を結んでカナンの地へ出発していたならば、イスラエル民族がモーセを裏切ることはなかったはずです。


しかし、モーセと12部族が親子関係を結ぶことができなかったために、モーセが悲しんでも、その民族は悲しむことを知りませんでした。このように互いに関係が途切れ、ここで神が愛を通じて回復しようとした全体の目的にひびが入り、選ばれたイスラエル60万人の民は荒野で倒れることになりました。


その後、イスラエル民族はヨシュアとカレブを中心にカナンの地に入りました。そして彼らがイエスが来るまで持っていた願いは、一人の主を迎えることでした。それでは、なぜイエスを立てなければならなかったのか?それは、モーセを民族的な父として迎えることができなかったために、イスラエル民族はこれから来る世界的な父を迎えなければならない一つの時期を迎えたのです。すなわち、真の父として来られるメシアを待ちながら、イスラエル民族は準備を進めてきたのです。ですから、この地上にメシアが誕生した後、イスラエル民族が天の目的を受けて12使徒と共にイエスと親子の関係を結んでいれば、イエスと別れることはできず、使徒たちも互いに別れることはなかったはずです。イスラエル民族がイエスと神の愛を受ける親子の関係を結ぶことができなかったことが、今日の歴史的な悲しみとなったことを私たちは知っておかなければなりません。


従って、この時期において私たちは天が望み、探している12部族の部族長のような代表者を再び立て、主の愛を中心に親子の縁を結ばなければなりません。そうでなければ、歴史の過程で神の摂理の目的を完結することはできません。これを皆さんが知っておかなければなりません。


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しかし、今日まで回復の過程を歩んできた私たち人間がヤコブ、モーセ、イエスの時代までの4000年間、神の意志を裏切ったために、すべてを失った立場に立ってしまいました。アダムからイエスまでの4000年間、神の意志を全て崩したのと同じ立場に立っているのです。ですから、私たちは民族が倒した罪を再び責任を持ち、イエスが来てから2000年間、努力してきたすべてのことまで責任を持たなければなりません。このような責任を負い、新しい部族を編成してイエスと親子の関係に縁を結ぶことを望んでいるのが、今日の私たちキリスト教徒の立場です。ですから、皆さんは先祖たちが成し遂げられなかったことをすべて遺業として、部族を逆に編成して進んでいくことを目指しながら進んでいかなければならない立場に置かれています。


それでは、部族を編成するにはどうすればよいでしょうか?イスラエル民族になるためには、アブラハムの時代には割礼を受けなければならず、イエス様の時代には洗礼を受けなければなりませんでした。しかし、これからはイエス様の印と父の印を受けなければならないことを、皆さんは知っておかなければなりません。これが私たちが新しい部族を編成して進む際に重要な問題です。イエス様の印を受け、父の印を受けなければなりません。これを成すために神は今までの6000年間、摂理してこられました。希望の旧約時代と信仰の新約時代を経て、愛の聖約時代に進むには、神が私たちを抱きしめ、愛することができる立場を築かなければなりません。


今日の皆さんはこのような過程にあります。従って、皆さんが個人的に完成された聖別された存在となった後には、天が成し遂げようとされた本来のアダム家庭を探しに行かなければなりません。そして、アダムの兄弟となるべきです。


こうして、父母を失った人間たちは兄弟同士で合わさって父母を回復する歴史的過程を経てきました。アダム家庭からノア家庭、ヤコブ家庭を経て見つけてこなければならなかったのです。従って、そのような個人が父の認めを受けた後には、兄弟を探すべき時が来ます。兄弟とは、私の兄弟だけではありません。その兄弟はアダムからヤコブに至るまで、すなわち2000年間、神の摂理を完了させる基準を作り、天の家庭を代表する父母が出た後に初めて12人の兄弟を持ちます。これと同様に、今日の私たちも回復摂理の過程において、自分自身が父の前に認められた後に、アダム家庭の3数を経てノア家庭の3数を経てヤコブ家庭の3数を経て、次にヤコブ家庭の12数を経て進んでいかなければなりません。そして、これを経た後には70数を経て進んでいかなければならず、その次には門徒型の120数を経て進んでいかなければならない立場にあることを皆さんは知っておくべきです。


真の兄弟を見つけた後に真の父母を見つけることができます。父母を見つけた後に兄弟を見つけるのではなく、兄弟を見つけた後に父母を見つけることができるのです。今日この基準を考えると、多くの人が逆の生活をしています。従って、真の父母を見つけようとする人がいるならば、その人は兄弟を通じてでなければ父母を迎えることができないことを知っておくべきです。


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今、神が最も心配しているのは、天を代表する真の父母がいないことではなく、真の兄弟がいないことです。これを皆さんは知っておくべきです。このような摂理的な意図を担うべきだったイエス様は、弟子たちを真の兄弟の立場に立たせるために、3人の弟子を選び、12人の弟子を選びました。しかし、3人の弟子が一つになれず、12人の弟子が一つになれなかったために、真の父母を回復できる道が閉ざされたこの悲しい事実を私たちは知っておくべきです。


そして今、私たちは真の子女の立場を経て、真の父母の門を経た後に初めて、6000年間摂理の希望として残された天の愛を受けることができることを知っておくべきです。この時が必ず来ます。従って、皆さんは自分自身において兄弟との争いに勝利しなければなりません。そうして、天の前で私は新婦であり、イエス様は新郎、すなわち新郎であるイエス様はアベルであり、私たちはカインとして、アベルであるイエス様と一つになるべきです。


それでは、イエスと一つになるにはどうすればよいでしょうか?新婦一人で行っても、新郎であるイエス様を迎えることはできないことを知っておかなければなりません。新婦自身だけが行っても、新郎であるイエス様に会うことはできません。兄弟と一つになって進んでこそ会うことができるのです。さらにイエス様は新郎の名を持って来られますが、新郎の門を通った後には何を探すべきでしょうか?天の失われた家庭を探すべきです。それを見つけなければならない立場にあります。


今日、私たちが勝利の道を切り開き、神の真の愛を受けるために、まず何をすべきでしょうか?私の心と体において、私の心の罪を克服し、心が動くままに生活圏内で体を自由自在に完全に支配することができなければなりません。新郎であるイエスをアベルとして、私の体が新婦の立場で、あるいはカイン的な立場で彼と完全に一つになるべきです。しかし、それだけで事が終わるわけではありません。新郎であるイエス様と私が完全に一つになった後に、新郎であるイエス様が探すために努力していた3人の弟子たちを代わりにする存在を見つけるべきです。また、12人の弟子たちを代わりにする存在を見つけるべきです。


なぜイエス様は3人の弟子を探したのか?アダム家庭の3人の息子を代わりにする弟子を見つけ、真のアダムの立場に立たなければならなかったからです。イスラエル民族はどこから形成されたのか?ヤコブから形成されました。アダム家庭の3人の息子を代わりにする者を見つけた後に、ヤコブの時代に来て初めて勝利の条件を立てました。さらに、その3人の息子を基盤として、12人の弟子が一つになり、この地上で勝利の足場を築く必要がありました。しかし、3人の弟子と12人の弟子がすべて裏切り、イエス様は死なざるを得ませんでした。イエス様はこの地上で真の家庭を築くことを望んでいましたが、その目的を果たせずに去りました。従って、今日の私たちがイエス様の新婦の立場に立つには、イエス様がこの地上に残したいくつかの条件を見つけて進むことができるべきです。そうしなければ、新郎である主に会うことはできません。アダム家庭の3数を見つける過程が、今日の私たちの教会においては三位基台の編成です。従って、三位基台を中心にして一つにならない限り、天の前に立つことはできません。


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三位基台が一つになることによって、アダム家庭で失われたものを再び回復しようとする神の目的を果たすことができます。それで、これが2000年過ぎたヤコブの時代に来て、12人の兄弟を探し、摂理の目的を果たしてきたのです。これと同様に、3数を基盤として12人の弟子を探し、一つになった後に初めて、皆さんは父母を迎えることができ、さらに一つの部族を代わりにする種族権内に入ることができるのです。これを皆さんが知っておくべきです。


これがアダム家庭からヤコブの時代までの2000年の歴史を蕩減するための絶対的基準でした。従って、モーセもこの道を通らなければならず、イエス様もこの道を通らなければならなかったのです。


しかし、モーセは12部族が摂理の目的において何を意味する数であり、70長老が何を意味するのかを知りませんでした。しかし、イエス様はこの地上に来て、3人の弟子を選び、さらに12人の弟子を選び、この70人の門徒を立てて、歴史的な縁を結ぶことを知っていました。それで、このような摂理を行いました。イエス様はこの基盤を整えて、必ず民族の足場の上に立たなければなりませんでした。


しかし、この民族的な足場を築く責任は、イエス様が担うべきものではなく、洗礼者ヨハネが担うべきものでした。しかし、洗礼者ヨハネが崩壊したことで、民族的な足場が崩れ、4000年間摂理されたすべてが崩れた結果を招きました。そこで、イエス様は再びアダム家庭に戻り、回復の使命を果たすために、3人の弟子から12人の弟子、70人の長老、120人の門徒を探し、再び第二の道を歩んだということを私たちは知っています。しかし、選民イスラエルの立場に立つべきユダヤの民が、天の前で全て捨てられ、信じていなかった漁師たちや異邦人がこの祝福を継承してきたことを、私たちは知っておくべきです。


イエス様が去ってから3人の弟子たちの部族はどこへ行ったのでしょうか?ありません。イエス様が去ってから12人の弟子たちの部族はどこへ行ったのでしょうか?ありません。70人の長老や120人の門徒も、言葉に対する条件は立てましたが、実体に対する条件は立てていませんでした。これを今日の私たちが回復しなければ、神の目的を果たすことはできません。


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これから世界的な使命を担うべき再臨理想時代において、再臨主がこの地上に来て目的を果たそうとするには、イエス様が立てようとしたその足場を立てなければなりません。そうでなければ、回復の使命を完結することはできません。


従って、天はまず3人の弟子を見つけたという基準を合わせて立てるでしょう。見つかったその3人の弟子たちは、死んでも一緒に死に、生きても一緒に生きるべきであり、3人が天を代わりにできる立場に立たなければなりません。次に、12数を見つけなければなりません。これが最低限度の天の足場です。


次に私たちがすべきことは、まず天国の国民を見つけることではなく、天国の家庭を見つけることです。国民がいるためには、まず家庭が必要だからです。従って、この家庭を見つけた後に初めて父母を迎えることができるのです。このように逆さまです。


旧約時代は国民を見つける時であり、新約時代は子女を見つける時であり、聖約時代は父母を見つける時です。従って、新約時代からは家庭を見つける時代でしたので、イエス様は愛を紹介され、愛の道理を立てました。


それでは、今日の私たちは、この回復の時代を経て新しい理想時代に進むために、どのような立場に置かれているのでしょうか?イエス様はこの地上で長子の使命を担い、天の前に立つべき責任を担って来られましたが、この責任を完遂することができなかったため、2000年間延長されました。従って、今日の私たちにはこれを代わりに蕩減回復しなければならない使命があるのです。終末の聖徒である私たちは、このような重大な立場に置かれていることを知っておくべきです。


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それでは、皆さん自身が天国の一つの家族になるにはどうすればよいでしょうか?天が最低限度で探しているもの、すなわちノア家庭で失われたその数を補充しなければなりません。しかし、この3数を補充したからといって、天の前に立つことができるのでしょうか?それも違います。アダム家庭の3人の息子を代わりにできる数がヤコブの時代に来て初めて完結したため、今の時代にはその3兄弟の条件を立てるだけでは不十分であり、必ず12数の条件を立てなければなりません。そうして初めて天国の家庭に復帰した基準を地上に立てて、父の前に進むことができることを皆さんが知っておくべきです。男性も女性も、それぞれこの責任を担っています。元々は、自分を中心にして3兄弟を作らなければ、これからの新しい時代に父母の立場に進むことはできません。


それでは、終末はどのような時代でしょうか?父母が出てくる時代です。しかし、父母が出てくるとき、宇宙的な父母が出てき、民族的な父母が出てき、家庭的な父母が出てくるのです。皆さんは宇宙的な父母を手本にし、あるいは教団的な父母を手本にした後に初めて、家庭的な父母を探しに進むことができます。


6千年の回復摂理の歴史を振り返ると、神は今まで人類に対して真の父母の立場、宇宙的な父母の立場から摂理を進めてこられました。イエスと聖霊は今まで選ばれた第二イスラエルに対して民族的な父母の立場から摂理を進めてこられました。


従って、イエス様は民族的な使命を代表し、教団的な使命を代表しておられましたので、大祭司の立場から出てこられました。従って、皆さんはこのようなイエスを中心にして天の前に立つことができる家庭的な大祭司となり、家庭の真の父母となるべきです。これが神が終末にこの地上に探して立てるべき摂理の中点であることを、皆さんが知っておくべきです。


従って、教団的な父母の立場におられたイエス様は、世界的な父母の立場に進むために再臨という名を残して去られました。それでは、世界的な大祭司の責任を持って来られる方は誰でしょうか?その方は世界的な父母です。このようになります。しかし、今日、この地上を見れば、宇宙的な真の父母がいなく、教団的な真の父母がいなく、家庭的な真の父母もいません。


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それでは、真の父母となるにはどうすればよいのでしょうか?それぞれが教団的な大祭司の立場にある教団的な父母を迎えた者でなければなりません。そうでなければ、家庭的な父母になることはできません。また、その教団的な父母は、天宙的な父母を迎えなければ、完全に教団的な父母としての役割を果たすことはできません。


従って、このような摂理の歴史が完結せずに残っていることを見れば、神の意志はまだ成し遂げられていないということです。それでは、全体回復の使命を完結させるべき私たちは、今何をすべきでしょうか?まず、宇宙的な父母を探して迎え、教団的な父母を探して迎えるべきです。この仕事をして初めて、家庭的な父母の資格者になることができます。


国家を見ても、そこには代表者があり、種族には種族の代表者があり、家庭には家庭の代表者がいます。人間はこのような全体の世界と関係を持っているため、宇宙的な父母、教団的な父母、家庭的な父母を迎えて進まなければ、天の民になることはできません。


今日、この地上に生きている全世界の人類が探しているものは何でしょうか?それは宇宙的な父母を探しています。特にキリスト教信者たちは、教団的な父母が現れることを望んでいます。その宇宙的な父母が現れる日が再臨の日です。しかし、まだ教団的な父母を迎える摂理は成し遂げられていません。


天は6000年間摂理の目的を立ててこられましたが、教団を中心に大祭司の責任を持って来られるべき再臨主の使命が残っていることを見ると、天は新郎新婦という約束の範囲内の摂理を果たしましたが、新郎新婦が教団を中心に生活できる真の父母の位置にはまだ進んでいないことがわかります。真の父母の位置が決まる前には、真の子女たちで構成される真の家庭は成立しません。もう一歩進んで、宇宙的な父母の位置が決まる前には、教団的な父母の位置が決まることはできません。今日、堕落した人間にとって、父母はいるけれども、その父母は真の父母ではありません。その父母は神の前に認められた父母ではありません。


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それでは、終末の私たちがすべきことは何か?それは、私たちが生きているこの時期に宇宙的な父母を迎え、教団的な父母を迎え、その後には家庭的な父母まで迎えなければならないということです。つまり、3代の父母を迎えなければなりません。家庭は民を代表する形であり、教団は子女を代表する形であり、宇宙的な父母は真の父母を代表する形です。


今日、この地上に人間が生きているけれども、天が許した真の父母の愛の権から外れています。父母と血と肉が通じ合うこのような縁が、生まれてから永遠の世界に至るまで結ばれていないことが悲しい事実です。従って、家庭的な父母から教団的な父母、宇宙的な父母と神の愛が結びついてこそ、初めて6000年間の全体の愛の権内に入り、神の前で顔を上げて立つことができることを、皆さんが知っておくべきです。これが私たち人間が必ず歩むべき道なのです。


それでは、私たちは今どこに立っているのか?私たちはまだ家庭的な真の父母の位置に入っていない立場にあります。従って、家庭的な真の父母の位置を見つけなければならないのですが、その父母を見つけるには簡単ではありません。なぜなら、落ちてしまったので、再び見つけるためには、兄弟の橋を築かなければなりません。私たちのすべてを犠牲にすることがあったとしても、真の父母を見つけるために、あるいは私自身が真の父母になるためには、このような歴史的な恨みを晴らす条件を立てて、蕩減した基準を作らなければなりません。そうでなければ、天は皆さんを許すことができません。


それでは、皆さんがすべきことは何でしょうか?父母を迎える立場にあるので、父母を迎えることができる兄弟の基盤を築かなければなりません。これが三位基台の意義です。編成された三位基台の兄弟たちが、天の父母を迎えることができる中心を持って、3人の兄弟が一つになり、12人の兄弟が一つになった時、初めて天国の家庭としての資格を与えられることができます。そして、その家庭は父母を拡大し、教団や民族、国家を代表する形を持って、その上に父母を迎える基準を準備しなければなりません。


その後に、教団的な形を整えて、世界的な父母を迎える準備を進めなければなりません。ヤコブの時代でも家庭的な基準を作りましたが、その後の子孫が信じなかったため、その基準が全て崩れました。モーセの時代でも民族的な家庭の基準、民族的な父母の基準を整えてきましたが、信じなかったために全て崩れました。イエス様もこの地上に来られて、世界的な家庭の基準を整えようとされましたが、人々が信じなかったため、その目的が全て崩れました。


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従って、今日の人間は希望を持っていますが、信仰を持っていますが、愛を持っていません。堕落によって私たちは希望を失い、信仰を失い、愛を失いました。従って、それを再び見つけなければならない運命にある私たちは、新しい希望を持たなければなりませんし、新しい信仰を持たなければなりません。さらに、新しい希望と新しい信仰が結びついて一つになる兄弟を持たなければなりません。そうしてヤコブ以後、希望で探し、イエス様以後、信仰で探した、その全体の目的を代わりにする基準を皆さんの実体を通じて立てなければなりません。このような実体的な条件を全て整えた時、初めて神がそのような私たちの存在を見て、希望の存在であり信仰の存在であると言うことができるのです。


これまで人間は神を希望として見てきましたし、神を信仰として見てきました。しかし、神がこの地上に希望と信仰の結実を備えた実体が現れる時、その人を見て希望を持つことができるのです。すなわち、神が私たちに対して希望を持つことができ、私たち自身が信じることができる実体となった時、神の愛が世界と縁を結ぶことができるのです。


それを実現するためには、蕩減回復の原則に従って、皆さんの心に父母の愛が成立しなければ、夫婦の愛が成立します。さらに、父母の愛と夫婦の愛が成立してこそ、兄弟の愛が成立します。このようになっています。


父母の愛は一つです。夫婦の愛は父母を中心に繁殖するためのものですし、兄弟の愛はこの夫婦を代表して繁殖することができます。一つから出発して、徐々に拡大していくことが父母の愛です。堕落した私たち人間がこれを探しに行くには、最小単位である兄弟から出発します。兄弟から出発しなければ、理想世界を建設することはできません。


それでは、真の父母を迎えるにはどうすればよいでしょうか?真の夫婦となり、真の家庭を築く必要があります。そうしてその上に真の父母を迎えることができます。皆さんが先生を信じて従うことは良いことです。しかし、先生を信じて従うその心の大きさだけ、他の人が皆さんを信じて従うことができる存在でなければなりません。このようにして、イエスが探そうとした家庭の形を持つべきです。そうすることで、万人は兄弟となります。このことを実現するために、三位基台を編成しました。従って、皆さんはこれから何かをするとき、一人ではいけません。伝道するときも一人ではいけません。


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このような三位基台を築いて、兄弟の立場に立ったとしても、兄弟同士で行うことはできません。それを共にする必要があります。父母と兄弟が一つになってこそ、家庭が成立するのです。そして、これが一つの民族形を持つには、このような家庭が12家庭になるべきです。10数以上を超えた場合に、民族的な条件を代わりに担うことができるのです。


イエス様はなぜ120人の門徒を立てたのでしょうか?アダムからノアまでの10代目であり、ノアからヤコブまでの12代目です。この2000年間を代わりにした縦の結実体がヤコブの12人の息子たちですから、イエス様は縦の12数を中心にしました。ノアからヤコブまでの12代とノアからアダムまでの10代を代表する数を持つために、12数に10を足して120が出るのです。これが何かというと、回復するための全体数を代表する数でした。


従って、これまで皆さんに対して伝道するように言ったのです。人間は地上に生きている間に120人を伝道しなければなりません。それができないなら、12人だけでも伝道しなければなりません。12人を伝道するには、その12人だけでは不十分です。120人を伝道することはできないが、横的に120人を作ることができるようにしなければなりません。すなわち、120人が横的に和することができるようにしてこそ、回復の使命を果たすことができます。


今日、皆さんには勝利の国を建設する責任があります。勝利した国には、勝利した天と地を代わりにすることができる真の父母がいなければなりません。次に、教団をはじめとする世界のすべての宗教を代表する使命を担う真の父母もいなければなりません。また、家庭を代表することができる真の父母もいなければなりません。これを横的に見ると、教会は社会性を帯びており、国家は世界性を象徴して進んでいきます。従って、皆さんが縦的にも横的にも縁を結ばなければ、一つの国の民として、一つの家庭を持つ人にはなれません。


皆さんが進むこの道が天国に行く道ですから、皆さんは必ず進むべきです。従って、家庭を持つ人は家庭的な責任を果たさなければなりません。また、教会を担当する人は教会的な責任を全うしなければならず、より大きな使命を持つ人はより大きな使命の責任を全うしなければなりません。そうすれば、その形と動きが同じになります。すなわち、使命の分野が異なるだけで、生活形態も生活様式も同じです。範囲が大きいか小さいかに違いがあるだけです。従って、これから皆さんは家庭の立場から世界を代わりにすることができる蕩減の条件を立てなければなりません。民族を代わりにし、教会、教団を代わりにしてこれを立てて進めていかなければ、初めて宇宙的な真の父母の理念を成し遂げることができることを、皆さんは知っておくべきです。また、今日、回復の理念を成し遂げる上で、地上に生きる私たちの責任がどれほど貴重であるかを知っておくべきです。


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モーセの道はイエス様の道であり、イエス様の道は私たちの道です。モーセが12部族と70人の長老を中心に60万人の民を率いて進んだように、イエス様も12人の使徒と70人の長老、120人の門徒を中心に歴史を進めましたが、イスラエルの民が共に進んできたならば、イエス様は世界的な足場をつかみ、出発することができたでしょう。しかし、これを民族が受け入れなかったため、イエス様は目的を果たせずに十字架にかけられました。


それでは、今日の再蕩減時代において私たちはどのような使命を果たすべきでしょうか?それは、互いに団結し、3人が12人を作り、12人が120人を作り、120人が60万人、さらにそれ以上に動かせる時を作らなければなりません。それを作り上げなければ、神の全体的な摂理を中心にして、天が全権的な活動を行うことはできません。これを皆さんは知っておくべきです。そうして初めて民族を越えて国家的な段階に進むことができます。従って、皆さんはこれから希望の一日を目指して進んでいかなければなりません。言い換えれば、希望の一日を迎えるために準備を進めていかなければなりません。


この時代において私たちは家庭的な使命も果たさなければならず、民族的な使命も果たさなければならず、世界的な使命も果たさなければなりません。私たちが多くの迫害を受けている原因はここにあることを知っておくべきです。迫害を受けながらも、家庭的にも教団的にも国家的な使命を果たしたという条件を立てることで、6000年間神が摂理してこられたその基盤に私たちを立てようとしているのです。このような神の意図があることを知っておくべきです。この目的の前に立つ日には、イエス以降、今日まで霊界にいる数多くの霊人たちは第一イスラエルの立場に立ち、イエス様が地上に来て去った後に信じた聖徒たちは第二イスラエルの立場に立ち、今日、完成的な条件の上に立つ人々は第三イスラエルの立場に立つということです。第三イスラエルの立場に立つことが、新郎が進むべき道の目的地であるため、私たちは反対の経路をたどって進まなければなりません。


愛を代わりにすることができるのが第三イスラエルであるため、愛の目的を通さなければ神と縁を結ぶことはできません。従って、霊界にいる第一イスラエルは地上にいる第二イスラエルであるキリスト教徒を通じなければならず、第二イスラエルであるキリスト教徒は第三イスラエルを通じなければなりません。また、第三イスラエルを目指している私たちは、仲介的な基準を探し立てなければなりません。自分自身においても、家庭的な分野や教団的な分野においても、世界的な分野においても、皆さんはこのような立場を探し立てなければなりません。


このような全体の目的を前にして、自分がどの段階にあるかを今日の皆さんがよく知っておくべきです。皆さんが先生、先生と言うのはありがたいことです。先生、先生と言うのはありがたいことですが、回復の条件を探し出さない限り、先生もどうすることもできません。


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それでは、今日、真の父母を探して進む過程において、真の兄弟同士はどのようなことを探し立てるべきでしょうか?これまでの6000年間、堕落の血統を経て進んできましたが、どの時代の誰も兄弟を愛したこと以上の愛を、この地上に築かなければなりません。これを立てなければ、天が「おお、お前たちは私が認める兄弟だ」と言うことはできません。このように真の兄弟の道を経た後に、皆さんは家庭的な父母になることができる恩恵の権内に入ることができます。そして、自分のためにそれを行うのではありません。皆さんは民族的な父母、宇宙的な父母のために、家庭的な父母の立場に立たなければなりません。皆さんはこのようなことを行わなければなりません。いかに優れた者であっても、このような蕩減の道を条件として進まなければなりません。


これを成し遂げなければ、勝利したイスラエルの父母にはなれず、勝利したイスラエルの兄弟にもなれず、勝利したイスラエルの民にもなれません。従って、兄弟を編成して天の前に認められた後、家庭を編成し、その後、家庭が合わさって民族を編成し、反列を編成していくべきです。


天がこの地上で探している12部族を代わりにしてきた世界の全てのキリスト教がイスラエルの名を持っているけれども、イスラエル的な反列がないために、神が摂理できる足場がないということです。従って、神が摂理できる足場を作るために、今日散らばったイスラエルの反列を再び編成し、回復できる世界的な足場を作らなければなりません。このような責任が今日の私たちにあります。




<祈祷>
今日、私たちは伝道しています。伝道は兄弟を探すことです。ですから、兄弟が増えれば種族になり、種族が増えれば民族になり、民族が増えれば国家になり、国家が増えれば世界になります。しかし、真の兄弟を見つけようという切実な心があっても、一人ではできないので、あなたと私は一緒にならなければなりません。そうして初めて父の前に立つことができるのです。個人は兄弟と一つになって家庭的な父母を迎えることができ、教団は教団同士で兄弟のように一つになってこそ、教団的な父母を迎えることができます。また、世界は世界、国家は国家で、兄弟のように愛して一つになってこそ、宇宙的な父母を迎えることができるのです。


さて、私たちはこのような歴史的な使命を担うべき時代に置かれています。従って、失われた反列を私たちの手で探し立てなければなりません。しかし、こうして私たちが天の前に立とうとするには、家庭を通過しなければなりません。イエスも家庭を通過できなかったため、楽園に行かれました。


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今まで6000年間の摂理の目的は、家庭を通過するための目的です。しかし、これまで誰も家庭の門を通過できなかったため、この世には神の愛という言葉を見つけることはできません。家庭の門を通過できなかったため、イエスも再臨しなければならないという命題を残し、霊界でも楽園という中間段階にとどまっています。従って、私たちは家庭を通過した後に民族を通過しなければなりません。そうでなければなりません。民族権内に家庭が入り、国家権内に民族が入るからです。


従って、私たちは家庭を合わせて民族を編成し、民族を編成して国家を形成し、国家を編成して世界を形成しなければならない重大な責任があることを知っておくべきです。従って、今日、皆さんが自分が生きる目的が自分の家庭のために生きるという観念を持つならば、天との関係が断たれることになります。私が家庭を中心に生きても、民族のために生きるという心を持ち、民族のために責任を持つ家庭があれば、その家庭は民族のために生きるだけでなく、天と地のために生きるという心を持たなければなりません。このような心を持って生きることができる者たちが、父の大きな恨みを解き放つことができるという事実を知ったので、お父様、私たちが今日からあなたの意志を実践することができるように許してください。


兄弟同士で一つになり、父の栄光の目的を広げていくことができるようにしてくださいと、主の御名によってお祈り致します。アーメン。


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御言葉選集5(4)

2024年08月24日 16時22分28秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 4. かつて悲しんだ天の心情 (1959年1月3日)

1959年1月3日(聖誕日)、元本部教会にて。

マタイによる福音書 1:18-2:12




<祈祷 (Ⅰ)>

私たちは言葉に表せない悲劇と悲しみを残した歴史の事実を知っています。エデンの園を見つめて喜ばれていたお父様の心が、アダムとエバの堕落によって悲しみの心へと変わり、それが6千年もの長い歴史を通じて続いてきた悲しみであることを私たちは知っています。また、私たちが心と体を尽くしてお父様の憂慮する心情を抱き、失われたエデンの園を回復しなければならない歴史的責任を負っていることも理解しています。


お父様! 失われたアダムとエバを再び見出すために、あなたが4千年間苦労し、その結果、アダムの姿を持ってこの地に送られた方がイエス様であることを私たちは知っています。イエスが誕生されるまでのお父様の苦労が大きければ大きいほど、その苦労によって誕生されたイエス様の姿は天の誇りであり、被造物と人類の誇りでなければならないものでした。そのような事実を天は知っていましたが、地は無知で理解せず、天はそれを歓迎しましたが、地は知ることができず歓迎できなかったことを、今日私たちは恥じるしかありません。


苦労されたお父様の希望の眼差しが、飼い葉桶に横たわるイエスの哀れな姿に留まらざるを得なかったこの哀れな事実を思い返し、先祖たちが不信を抱き、先祖たちが不忠であったことを痛感しています。アダムとエバの堕落の罪を人間が再び繰り返したという事実を知っているからこそ、今日私たちは歴史的な悲しい事実を心で感じ、深く悲しまざるを得ません。


昔、お父様を慰めることができなかったイスラエル民族、選ばれた選民に代わって、私たちがお父様の悲しみを慰めることができるように許していただけることを切に願っています。


イエス様が来られてからすでに2千年が経過しましたが、心情の世界は時間を超越することを知っています。歴史を超越して存在するお父様、悲しい心情を抱いて天国へ行かれたイエス・キリストの心情を抱いて、この時間、慰めることができる私たちにしてくださることを許してください。


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イエス様が来られてから2千年の悲しみを、今日この時まで天と地に残された深い恨みを私たちが理解し、イエス様が誕生された当時の姿を心で受け入れるこの一時にしてくださることを、お父様、切に願います。


今日その日を記念するこの一時を、お父様、祝福してください。そして、イエス様が望まれたその喜びの栄光を表されて、2千年前に来られたイエス様が悲しまれたことがこの一日で解放されることを許してください。


すべての内面的な心情を知っている私たちがこの日を記念しようとしているので、人々が知らずに残したすべての過去の悲しみがこの一時によって償われることを許し、私たちがお父様の前に立つことができるように許してください。イエス様が喜ばれ、お父様が慰められることを切に願い求めます。


ここには全体的な復帰の使命を担い、目的に従っている私たちがいます。復帰の親を見つけて迎える立場にある今日の私たちであることをあなたはご存知です。今、私たちはイエスを真の兄弟として迎えなければならない時が来ました。真の兄弟となる立場から、この地上に残されたあなたの悲しい事実を体験し、解放して差し上げることができる私たちにしてくださることを、お父様、切に願い求めます。


この地上には天を目指して生きる道を探している多くの人々がいますが、あなたの命の力がどのような目的で現れるかを知らないでいます。お父様、この一時に彼らの心と体を直接管理してください。霊的なすべての動きを動員し、彼らが終わりを予告するあなたの全体的な目的を理解できるように許し、あなたの内面的な心情を理解できるようにしてください。それによってあなたの真の息子や娘となれる喜びの日が早くこの地に訪れることを許してください。


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地上に来て十字架の苦難の道を歩まれたイエス様もこのような事に協力していることを私たちは知っています。地上にいる私たちが全力を尽くしてあなたが喜ばれる目的を果たすことに少しも不足がないように励ましてください。そして、地上の兄弟たちが団結して進むことができるように許してください。お父様、切に願い求めます。


私たちが心を一つにしてお父様に捧げるこれが歴史的な解放の供え物となることを許し、残された千年の恨みが私たちによって解放され、これから幸せの起源を探すことができる聖なる時間となることを許してください。お父様、切に願い求めます。


お父様、短い礼拝ですが祝福してください。不足な心と体を束ねて、お父様の意志のままに管理してくださることを切に願います。顕現することのできる栄光の賜物がここに現れることを切にお願い申し上げます。主の名においてお祈りしました。アーメン。



<祈祷 (Ⅱ)>

お父様、この時間、すべての人々に再び祝福の手を差し伸べてください。この時間に3千万人の民に再び祝福の手を広げてください。あなたの名を覚えている多くの子供たちに愛の賜物を許してください。そしてこの一時、孤独な場所で心から祈ろうと伏している子供たちの頭の上に、お父様、愛の手を差し伸べて祝福してください。罪悪が留まる地上で残された悲しみを一代で慰めようとこの時間、父のために心配している家族がいることを、お父様、覚えてくださり、この時間祝福してくださることを願い求めます。


    3


地上のすべての人々はこの日を知らず、結ばれた天の悲しみを理解しておらず、無限の悲しみを抱えているあなたの心情をさらに理解していません。あの日の痛ましい事実を知らない私たちに、お父様、この日を許してくださり、すべての人々が理解できないこの一日をキリストの誕生日として祝うことができる栄光の賜物を許してくださったことを感謝せざるを得ません。ここに集まったあなたの息子や娘たちを覚えてください。


今この日を祝うことが、2千年間悲しんでこられたイエスの心情を慰めるきっかけとなることを許してください。悲しみの場所で誕生し、30年余りの生涯を捧げてゴルゴダの道を気にすることなく歩んだキリストを思い出し、彼の全跡を遺産として受け継ぐことができるこの時間にしてくださることを許してください。彼が生前に残された偉業を私たちの使命として引き継ぐことができるこの時間にしなければならないことを私たちは知っています。


お父様! イエス様が残された恨みが地上にまだ残っていることを、この地にいる人間は知らないでいます。今ここに集まったあなたの息子や娘たち、その体と心があなたの心情に染まり、あなたの心情に捉えられることができるようにしてください。幼いイエス様の心情を理解し、死の危機に瀕したイエス様の心情を悟り、慰めることができるようにしてください。


人間は知らないが、イエス様は今でも霊界で働いておられることを感じ取れるこの時間にしてください。お父様、切に願い求めます。この一時間、不忠不孝な体と心ですが、この日を祝うためにお父様の前に伏していますので、あなたが臨まれ、復帰の新たな理念を開拓できるように、溢れる賜物をここに現してください。お父様、この日を覚え、この日を祝福してください。切に願い求めます。


今、少しの間、言葉を伝えたいので、どうか共にいてくださることを切に願います。この日に私たちが祈り願うすべてが天と地に結ばれたものを解放する条件として残ることができるように許してください。


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貴重なこの日に私たちが新たな目的を受け入れ、勝利の証をお父様の前に残さなければならない重要な日であるので、この日を覚えてください。喜びと共にお父様、顕現してくださることを切にお願い申し上げます。主の名においてお祈りしました。アーメン。


<御言葉>

今日は、神が望まれたその日かもしれない重要な日です。私も目的を抱いて出てきたときに望んだ日です。そして、4数で償うと同時に新たな3数を見つけて償うこの時間こそが歴史的な縁の時間であることを皆さんはまず覚えておくべきです。ですから、皆さんの前で少しお話ししようとしている言葉のタイトルは「かつて悲しんだ天の心情」です。このような内容の言葉を持って今日この日を記念しようと思います。


神は一人の人間を作るためにすべての万物を創造されました。初日から5日目まで創造されるその万物を見ながら、無限の希望と無限の喜びを持って楽しまれていたのです。


そして、このすべての万物の主人公として、神の代わりに万物を支配する主人として、私たちの祖先であるアダムとエバを創造されました。そして、無限に喜ばれた心情で彼らのために祝福されました。つまり、彼らに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)と言われました。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」との祝福の言葉を私たち人間に与えられたのは、神を喜ばせるための目的で私たち人間が創造されたという意味です。また、神もこの目的を達成するために私たちを祝福されたのです。


しかし、神のその祝福をアダムとエバは果たせませんでした。そのために、今日この時までその祝福が果たされないまま、悲しい歴史が流れてきたという事実を皆さんはもう一度振り返らなければならないのです。


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アダムが成長しているとき、天は無限に喜んでいました。万物もアダムを通して天に喜びを返していました。しかし、このアダムが天倫の意を完全に理解していない立場で、天の意を、天の言葉を受け入れなかったために、堕落という悲しい鎖に縛られることになったのです。


天地の法度を立て、天倫を立ててこられた神が、アダムとエバが堕落したことで、彼らを自分の愛の懐から追い出さざるを得なかったのです。そのような神の悲しい心情を万物は知っていましたし、天使界の善霊たちも知っていましたが、堕落した人間の子孫である私たちは今までそれを知らなかったのです。このような事実を今日の皆さんはよく知っているはずです。


今日この日を記念するために私たちは集まりました。イエスの誕生を祝うために集まりました。では、そのイエスはどのような方だったのでしょうか? 彼は失われたアダムに代わって天が見出して立てられた存在でした。ですから、当時の人々はイエスの誕生と同時に、神の胸に4千年の間積もっていた悲しみを感じ取り、幼いイエスを抱いて代わりに泣いてあげることができ、イエスを抱いて代わりに喜んであげることができなければなりませんでした。そのような人々が多くなければならなかったのに、誕生されたイエスを抱いて喜んでくれる人、誕生されたイエスを抱いて神に代わって泣いてくれる人は一人もいませんでした。


神の悲しみは人間によって結ばれたものであり、神の悲しみは神だけで解くことができません。神の心の奥底に染み込んでいる悲しみが解かれるためには、必ず人を通してでなければなりません。人間によってこのような悲しみが結ばれたので、人が神に代わって悲しんであげなければ、神の中に染み込んでいる悲しみは解かれることがないという事実を皆さんは理解しなければなりません。


飼い葉桶に横たわっている幼いイエスを見つめて神に代わって泣かなければならない立場にあったにもかかわらず、マリアとヨセフは神の内的な心情がこのように悲しいという事実を知りませんでした。そのため、ヨセフとマリアは飼い葉桶にいるイエスを見つめても、真心で天に代わって悲しむことができなかったということを私たちは知らなければなりません。


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そして、訪ねてきた東方の三博士、羊飼い、アンナなど、多くの人々がイエスを証しし、喜びの心を持っていました。しかし、彼らが喜ぶ前に、神の中に悲しみが染み込んでいることを知っていた人は一人もいませんでした。


では、私たちは今、何をすべきでしょうか? アダムとエバを失われた神の悲しみを理解し、同時にイエスが誕生したこの事実を喜ぶことを知っているべきです。神の心に染み込んでいる悲しい心情を解くためには、人間の祖先によって成されたこの罪悪の世界を償い復帰しなければなりません。罪深い世界を償い復帰するためには、神に代わって泣ける熱心な心を持たなければなりませんし、イエスを抱いて泣ける存在にならなければなりません。もしヨセフとマリアがそのような人々であったなら、イエスの意を受け継ぐことができたでしょう。また、そのような心を持った東方の博士であったなら、彼らもまたイエスの意に従ったことでしょう。


しかし、イエスのために苦労し、イエスのために目的を果たすべきだったヨセフとマリアも、真に天の悲しい心情を抱いてイエスに接することはできませんでした。また、東方の三博士も同様に、天が悲しい心情を抱いてイエスを見つめるようにイエスを見つめることができませんでした。


今日、私たちはまずイエスが生まれるまで神が悲しまれたその心情を思い出さなければなりません。エデンの園でアダムとエバが堕落したことで神が彼らを追放される際の悲しい心情、二度とない独り子として立てたアダムが敵であるサタンに引きずられていく姿を見ておられる神の悲しく惨めなその情景を、皆さんは心に浮かべなければなりません。


この悲しみを解消するために、神はアダムとエバの堕落以来、4千年もの間、摂理を進めながら、多くの預言者たちを送って、この悲しい事情をすべての人々に告げられました。しかし、人間たちはこのような神の悲しみを知ることができず、天が送った預言者の悲しみを理解できなかったために、イスラエル民族は天を背く歴史を歩んできたのです。神は必ず意志を成し遂げられるために、一時も休むことなく苦労されました。ついに4千年の歴史が過ぎた後、ようやく失われたアダムを復帰することができ、その中にマリアとヨセフが現れたのです。


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では、ヨセフとマリアはどのような立場にあったのでしょうか? アダムとエバは婚約段階で堕落しましたが、ヨセフとマリアもまさにそのような立場にありました。神はヨセフとマリアをそのような立場に立てて摂理を進められたのです。そのようなヨセフとマリアを選んで立てるまでに4千年もの時間がかかりました。これを皆さんは理解しなければなりません。


では、マリアが神の前に立つことになった動機と、ヨセフが神の前に立つことになった動機を考えてみると、マリアは幼い身でありながらも、神がこの民族を通して摂理されることを知っていました。そして、マリアはメシアがこの地に来ることを誰よりも切実に願っていました。ヨセフもまた、自分の民族を救い出し、選ばれたイスラエルの選民を天国の国民として導いてくれるメシアが来ることを誰よりも切実に願っていました。


マリアとヨセフは誠心を尽くしてメシアが来ることを待ち望み、神の意志が成し遂げられることをその心に確信していました。自分たちが誠実を尽くせば、どのような方法でもメシアが誕生されることを予告してくださるだろうと信じ、また予告してくださることを願って誠実を尽くしていました。これを私たちは理解しなければなりません。


昔、エデンの園でアダムとエバは信じられずに堕落しましたが、彼らは民族を代表して信じる心、メシアが来ることを願う心、誠実を尽くす心、忠誠を尽くす心を持っていました。この心が神を感動させ、神がイスラエルにメシアを送ってくださることを約束する動機となったことを私たちは理解しなければなりません。


天使がマリアに現れてメシアを宿すことを予告したとき、マリアは戸惑いました。自分はまだ男性を知らないので、そのようなことはありえないと否定したマリアでした。しかし、お父様の意志に対する切実な心を持っていたマリアは天使の命令に答えて、「主の婢ですから、御言葉どおりこの身に成りますように」と答えました。しかし、この一言はユダヤ民族が4千年間守ってきたイスラエルの律法に反するものでした。なぜなら、処女が妊娠することはありえないことでありました。 ワツは妊娠した処女はすぐに石打ちにされ、死刑を宣告されるほどモーセの律法は厳しかったのです。それにもかかわらず、マリアはこのような決断を下したのです。


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ですから、処女の身、さらに婚約中の処女の身で天の前に選ばれたマリアは、生きるか死ぬかという問題を解決しなければならない立場に立たされました。また、自分の血族や社会全般に影響を与える重大な立場に置かれました。


しかし、マリアはこの世のすべてを放棄しても、お父様の意志だけは放棄することができず、お父様の意志を成し遂げるためにはどのようなことでも感謝して受け入れるという確固たる心情でした。このようにマリアが全人類に代わって、自分のすべての威信や体面、自分の一生、自分の命までも犠牲にする瞬間に、ようやくメシアが誕生する縁が結ばれたという事実を私たちは理解しなければなりません。


また、そのような立場でメシアを宿したマリアは、天の前に委ねられた身として、メシアの誕生後に自分が進むべき道を無限に心配しなければならない立場にありました。その事情は神の苦しい事情に似たものであり、その心配は悪い地を心配する神の心に似たものでした。それで神は天使を通してヨセフにマリアを保護するように命じられたのです。


ヨセフもまた、天使を通して自分と婚約したマリアが妊娠したことを知りましたが、人間的な面ではそれを受け入れ難い立場にありました。しかし、神は偉大な意志を成し遂げるために人間を立て、その人間を通して摂理されることを知っているヨセフは、天使の命令に従ってマリアを迎え入れたのです。このようにしてマリアとヨセフが協力したことが、エデンで失われたアダムを再生させる基盤となったことを私たちは考えなければなりません。


今日、皆さんが2千年前のイエスの時代に戻り、マリアとヨセフの立場に立つなら、皆さんはどうするでしょうか? 天が皆さんを訪ねてきて、切実な事情を伝え、皆さんと縁を結びたいと望んでいる場合、皆さんはどのような態度を取るでしょうか? 皆さんはどのような心情を持って天に接するのでしょうか?


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もし皆さんがマリアのような心情、ヨセフのような心情を持って天の前に現れないなら、マリアとヨセフが天を心配する心情で誕生させたそのイエスを祝う今日の皆さんの立場は、天の前にふさわしい立場とは言えないでしょう。


ですから、今、皆さんは心を改め、自分が本当にヨセフの立場にあるのか、あるいはマリアの立場にあるのかを深く考えてみなければなりません。いつ天が私に命令しても、その意志に従い、その意志を信じて実行するためには、すべての社会的な慣習や風習、自分が信じてきた倫理観さえも否定していたヨセフとマリアのような人間でなければなりません。したがって、皆さんは自分の命を賭けてこの問題を乗り越える信仰を持って、この一時にイエスの誕生を祝う立場に立たなければならないのです。


神はイエスを送られてヨセフとマリアが心配しなかった心配をされ、ヨセフとマリアが考えなかったことを考えられました。そして、神はヨセフとマリアが誕生されたイエスを大切に保護し、成長させることを望まれました。イエスが敵の世界に立ち向かう責任者として出るまで、全力を尽くして養育し、全力を尽くして支えてあげることを望まれました。また、全力を尽くしてイエスの生活の供え物となってあげることを望まれたのです。


しかし、イエスが誕生するまではヨセフとマリアが一つになって神の願いを心配する心を持っていましたが、イエスが誕生した後は神と同じ心を持って心配することができず、自分たちの心配の条件を中心にしてイエスを見つめ、自分たちの生活の条件を通してイエスを養育しました。


ヨセフとマリアはイエスの保護者になり、イエスの囲いとなり、イエスの戦いの盾にならなければなりませんでした。ですから、彼らは神の心情に代わって現れたイエスを、死ぬまでも受け入れるべきでした。そして、神のために命を賭けてイエスを受け入れるべきだったのがヨセフとマリアでした。育っているイエスは彼らが生んだ息子でありながら、自分たちに属する息子ではありませんでした。


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もしヨセフとマリアがイエスを宿した時に抱いた決心を、イエスが成長する間も持っていたなら、イエスの十字架の道は防ぐことができたでしょう。母子が協力すべき内的な事情と外的な事情を完成させることができなかったために、イエスは家庭を捨てて弟子を求めて出かけました。


ですから、イエスはガリラヤ地方のカナの婚礼で、マリアから水を葡萄酒にしてほしいと言われて、マリアに「女よ、私と何の関係があるのですか?」(ヨハネ2:4)と答えました。この言葉を考えるとき、私たちはイエスが心に抱いた思いをマリアが理解していなかったことを知ることができます。ヨセフも知らず、彼の愛する兄弟も知らなかったのです。イエスはその心で天を心配し、その体で生活環境を心配していました。イエスが神を心配したことは当然のことでしたが、生活環境を心配したことは悲しい事実であることを私たちは理解しなければなりません。


悲しく生まれ、悲しく育ったイエスでした。神だけを考え、神だけを心配して生きるべきだったイエスは、その生活環境を失い、心では神を心配し、体では生計を心配しなければならない立場に置かれたこの悲しい事実を私たちは知っておかなければなりません。


こうしてイエスが家庭を離れたことは、すなわち兄弟を離れることであり、4千年間を経てきたヨセフの一族を離れることでした。信じてくれない多くの人々を見つめるとき、イエスの心情は誰にも訴えることのできない悲しい心情だったことを私たちは考えなければなりません。


イエスの心が痛むのは、彼の環境が悲しく困難であったからではなく、母や兄弟たち、親戚たちが自分を理解してくれなかったからです。この一事がイエスにとっては悲しみの中の悲しみとなったことを私たちは理解しなければなりません。


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したがって、今日の私たちは歴史をさかのぼり、元々のマリアの立場を回復しなければならないし、ヨセフの立場を回復しなければならないし、イエスの兄弟の立場を回復しなければならないし、イエスの一族の立場を回復しなければならないし、さらにはイエスの立場まで回復しなければなりません。このようにしなければならない歴史的な恨みが残っている事実を私たちは知っておかなければなりません。


では、皆さんはイエスが誕生し、この地に来られ、十字架を背負っていった30年余りの生涯を心の奥深くで感じ取り、イエスが悲しんだ事実、あるいは心であれ体であれ苦しんだ事実を痛感しなければなりません。そうでなく、誕生されたイエスだけを祝うことはできません。誕生され、そうして悲しく去ったイエスを知ってこそ、イエスの誕生を祝う資格者となることを皆さんは理解しなければなりません。


ヨセフとマリアが誕生されたイエスを抱いて見つめているその場面は、天の前に喜びの条件となったかもしれませんが、イエスの全生涯を抱いてあげず、祝ってあげなかったために、神の前に喜びの条件を立てることができなかった結果を残すことになりました。


これを考えると、私たちは誕生されたイエスを歓迎する一方で、去られたイエスを知らなければなりません。そして、そのイエスに従い、十字架から遡って誕生されたイエスを抱きしめて祝福する心を持たなければなりません。こうして去られたイエスであり、このように戦われたイエスであり、その生涯で感じたすべての心情を理解し、その心情を受け継いで向き合わなければ、去られたイエスを祝う資格がないことを皆さんは理解しなければなりません。


では、今日私たちはイエスの一身の悲しみを真の私の悲しみとし、イエスの生涯の苦しみを真の私の苦しみとし、イエスが今日まで2千年間歴史された全体の目的を私の目的として心の中に抱いて見つめなければなりません。成長したときのイエスの心情と、成長して苦しみを受け、十字架にかかられたイエスの心情を私たちが理解してこそ、来られたイエスを祝うことができ、そのイエスと私たちが縁を結ぶことができ、そのイエスを条件として神と私たちが縁を結ぶことができることを私たちは知っておかなければなりません。


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今日、私たちはイエスの前に行った東方の博士も代わらなければなりません。イエスに行って黄金と没薬と乳香を捧げ、礼拝した三人の東方の博士が準備した贈り物も準備することを知っていなければなりません。道を行く羊飼いが訪れて礼拝したその準備でも整えなければなりません。天の千千万の聖徒たちがイエスが地に誕生されたことを喜び、歌った歌が天に広がったのと同じように、人間は知りませんが、誕生されたメシア一人を中心に、すべての万物までが応じたこの一事を私たちは考えながら、今日私たち自身が全体を代わってイエスを祝う心を持たなければならないし、祝うことができる心、三人の東方の博士に代わって祝うことができる心、羊飼いに代わって祝うことができる心、万物に代わって祝うことができる心、このような心を持ってイエスに直接向かわなければなりません。


そのとき、全宇宙は止まることなく涙を流すでしょう。涙を流してから喜びで祝うことができるでしょう。このようにしなければならないことが、イエスを送り出した今日の私たち人類の使命であることを理解しなければなりません。


イエス様は皆さんがどのような心情を持つことを望んでおられるのでしょうか? イエス様はどのような心情でこの一日を記念してほしいと望んでおられるのでしょうか? イエス様が心情で私たちに要求しておられることがあるなら、それは自身が地上で30年余りの生涯を生きたとき、誰にも理解されなかったその心情を理解してもらうことであり、2千年の歴史を経て、多くの聖徒たちを殺され、死の場に送り出されたが、耐えてこられたその心情を理解してもらうことです。これを私たちは理解しなければなりません。また、イエス様は、自身が天に代わって地上で神の意志を成し遂げる責任をすべて果たしきれなかったことを代わりに償い復帰してもらうことを望んでおられることも理解しなければなりません。


今、私たちの心はイエスの赤い心を抱き、私たちの体は血を流したイエスの実体を抱き、天と地を抱いてすべての人々のために涙を流し、敵を許して祝福を祈ってくれたイエスの心情を探し、心で痛みを感じ、体で疲れを感じなければなりません。


このような心を持って「天の悲しみをこの時間私たちを通して解放し、イエスの歴史的な悲しみを私たちを通して解放してください」と言える心が、皆さんの心の中から湧き上がってこそ、神は私たちを探しに来られて、縁を結んでくださるでしょう。


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イエスは十字架にかかられた後、霊的な救いの基盤を開拓されましたが、これも平坦な道を通って開拓されたものではありませんでした。死をも恐れない孤独な道を通って開拓されたのです。このようなイエスであったために、今日まで一日も休むことなく涙の歴史を築いてこられたという事実を私たちは理解しなければなりません。


したがって、私たちは今、イエスを抱いて死んでも共に死に、生きても共に生きなければならない共同運命に立っていることを知り、イエスの死が私の死であり、イエスの悲しみが私の悲しみであり、イエスの怒りと恨みが私の怒りと恨みであると感じなければなりません。イエス様の骨に染みる怒りと恨みがまだ地上に残っていますが、この怒りを解消するべき人は、イエス自身ではなく、神でもなく、今日の私たちであるということを片時も忘れてはならないのです。


では、皆さんが祝福の意味を持ってイエスを見つめ、礼拝したいという心があるならば、皆さんは今、イエスが残した恨みの都を目指し、恨みの土地に向かって前進しなければなりません。これを抱えてまず戦い、責任を果たしてからイエスを祝うときにこそ、イエスは私たちに向かい合うことができるということを理解しなければなりません。イエスがこの地に来られて成し遂げるべき意志は、その通りには成し遂げられず、その意志は成し遂げるべき意志として2千年の歴史が経過した今日まで、多くの後継者たちに引き継がれてきたのです。


イエスが残された意志は十字架にかかりながらでも成し遂げるべき意志であり、イエスが残された意志は神が知らないという立場に立っても成し遂げるべき意志であり、イエスが残された意志は、民族が裏切り、この地の近い人が裏切るとしても捨てることのできない意志であることを理解し、皆さん自身がその意志を成し遂げるとイエスに代わって天の前に立たなければならないのです。


この意志を抱いて進む際には、何が私を裏切り、何が私を妨げるとしても、皆さんはかつてイエスが残された意志を私が引き受けたという立場に立って、それを当然のこととして戦っていかなければなりません。そうしなければ、イエスが残された意志を成し遂げることもできず、イエスが残された恨みを解放して差し上げる方法もないことを理解しなければなりません。


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イエスが残された意志を成し遂げ、残された恨みを解放して差し上げなければ、2千年の間、私たちを探してこられた神の意志と神の恨みを解放して差し上げることができないことを理解しなければなりません。


したがって、私たちは「今日の私」は個人であっても「個人的な私」ではないことを理解し、「私」は一分子であっても「全宇宙と縁を結んでいる私」であることを理解し、歴史的な全体の心情を代わってあげることを望み、イエス様の全体の意志を代わってあげることを望み、さらに進んで未来の願いまで加えて、今日の私たちに責任を託そうとされる神の心情が残っていることを理解しなければなりません。


このように歴史的に重大な位置に立たされている私一人であることを知り、イエスを呼び、神を呼ぶことのできる皆さんにならなければなりません。そして、神の4千年の心情とヨセフとマリアの心情が結びついて誕生されたイエスが30年余りの生涯を送り、私たちに望まれた切実な心情があり、それが再び2千年という長い歴史が流れて今日の私たち一人に切実に求めていることを理解しなければなりません。


さて、皆さんには天に向かって手を挙げて救いを求める心がありますか? 体をかがめて天に向かって悔い改める心がありますか? 手足を動かして天に向かって走ることのできる心がありますか? 自分のすべての心の準備と体の準備を整えて十字架を前に置いて戦ったイエスの壮大な戦いを引き受けることができる心情がありますか? 皆さんはどのような心情を持っているかを自分で分別し、残された歴史的な恨みを解放する運動を引き受けなければならないということを、この時間、再び痛感しなければなりません。


では、今日、イエスは私たちの前に何を予告されるのでしょうか? イエスは地上で真に彼の心情を吐露し、天の事情を告げることのできる真の息子娘を探しに来られましたが、イエスは真の息子娘を見つけることができませんでした。30年余りをさまよいながら探し歩かれましたが、生死を共にすることのできる人、天の遺産を引き継ぐことのできる一人の人を見つけることができず、引き継ぐことができずに去られました。


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このようなイエスの心情を知り、皆さん自身も同じ責任を引き受けて同じ立場に立ち、天に向かって「お父様」と呼びかけなければならず、地のすべての人々を見つめて悔い改め、叫ばなければならず、すべての万物を見つめて天を祝うように叫ばなければならない切実な心情を持たなければなりません。このような心的な衝動がなければ、皆さんは来られたイエス、去られたイエス、去ってもなお苦労しておられるイエスの意志を受け継ぎ、2千年が過ぎたこの時を経て死の場で戦ってきた多くの預言者たちの前に、面目を立てることができないことを再び考えなければなりません。


では、今、私たちはお父様の前に手を挙げて懇願し、誓わなければなりません。「お父様! 今この時、どうか願わくば、私たちが2千年前にこの地に来られたイエスの体を代わりにすることを許してください。お父様の祭壇の前に差し出したこの体が、2千年前に来られて去られたイエスを代わりにすることを許してください」と懇願し、誓わなければなりません。


今、心情を懸けて天に向かって誓わなければなりません。私たちが抱く心情と意志がイエスの心情とイエスの意志を代わりにすることができ、私たちの四肢がイエスの体を代わりにすることができなければなりません。心情では天を抱き、体では地とすべての人々を抱こうとされたイエスの心情と事情を私たちが一代で代わって解放して差し上げることのできるイエスの化身となるべきです。そして、心では天を抱き、体ではこの地上の人類を抱いて戦うことのできる私たちにならなければならないのです。


イエスが食べたものは自分のためではなく、生きたのも自分のためではなく、悲しんだのも自分のためではなく、焦ったのも自分のためではありませんでした。悲しいときも、イエスは自分より先に悲しんでいるお父様を見て、面目ないと感じました。苦しみがあるときも、天の苦しみがより大きいことを考えて、頭を下げ、より強く責任感を感じた天の子であるイエスの姿を、私たちは見習わなければなりません。


不信の人々を救う責任を持って現れたイエスだったので、30年余りの生涯に苦難の道、労苦の道、悔しく苦しい道が多くありましたが、気にされませんでした。イスラエル民族がお父様の前に立つことができないことを考え、夢の中でも悔しがられたそのイエスの心情を今日、私たちは理解しなければなりません。


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目的に対する私たちの心が切実であればあるほど、心で天を抱き、体では地に向かって切実な心を持って現れることができなければなりません。イエスはゴルゴタの道を歩まれながらも、血を流す場でも、肉が溶ける場でも、天を抱いて慰め、すべての人々を抱いて心配された方でした。今日、私たちはこのような心情を理解しなければなりません。イエスは不憫な方でした。両親を持ちながらも真の両親を持たず、兄弟を持ちながらも真の兄弟を持たず、弟子を持ちながらも真の弟子を持たなかった方でした。


私たちはこのような歴史的なことを回復し、自分自身がイエスの真の両親となることができなければならず、イエスの真の兄弟となることができなければならず、イエスの真の弟子となることができなければならず、イエスの真の信者とならなければなりません。


若い人々は年配の方々を見るときに、真の両親としてお仕えし、お世話したいという心が溢れなければなりません。また、年配の方々は若い人々を見るときに、その母親や父親と同じ立場で彼を抱きしめ、自分の心情を尽くして愛することのできる心、自分が犠牲となることのできる切実な心が皆さん自身の中から湧き上がらなければなりません。


真の兄弟を持ちたいと望まれたイエスでしたが、真の兄弟を持って天の前に出たいという切実な心を命が尽きるまで一度も解き放つことができず、実現できませんでした。それがイエスの恨みでした。これを解放して差し上げたい私たちであるならば、私たちは真の兄弟の立場からすべての人々を愛することができなければなりません。そのような心があってこそ、イエスの恨みを解放することができるでしょう。


神の愛の権限内で永遠に二つとない一つの立場に立つことのできる真の弟子として、イエスの愛を受けた者はいませんでした。また、イエスも真に愛することのできる弟子を持たれませんでした。これがイエスの恨みとなりました。この恨みを解放して差し上げるために、私たちは真のイエスの弟子にならなければなりません。


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では、真の弟子とはどのような弟子でしょうか? イエスの心情を通じてイエスの血を通じたそのような人です。これまで6千年の歴史が過ぎ、イエスを信じる信者は多かったですが、今日まで真の信者を持つことができなかったイエスでした。真に愛することのできる信者を持たなかったイエスでした。この事実を知っている今日の私たちは、イエスを信じる真の信者となり、イエスを受け入れることを知っていなければなりません。


さらに進んで、イエスには真の一族がいませんでしたし、真に愛することのできる民族がいませんでしたし、愛することのできる国家がいませんでしたし、愛することのできる世界がいませんでした。このことを悟って今日の私たちは手を取り合い、心を合わせ、事情に事情を合わせてイエスの民族、イエスの国家、イエスの世界を見出さなければなりません。真にイエスの愛を受けることのできる立場から、この事業を成し遂げなければなりません。


では、この地上にある万物や天にいる千千万の聖徒たちが地上にいる私たちに訴えるとしたら、何を訴えるでしょうか? イエスの恨みを解放してあげることを訴えるでしょう。では、イエスの恨みとは何だったのでしょうか? 地上に来て、真の両親を持つことができず、真の兄弟を持つことができず、真の弟子を持つことができず、真の民族と真の国家を持つことができず、真の世界を持つことができなかったことです。私たちはこのようなイエスの恨みを解放してあげなければなりません。


これまで一時も休むことなく戦ってこられたのがイエスの立場であるので、今日、私たち一人が神の真の息子娘になるためには、イエスの両親にもなれることを知り、イエスの真の兄弟にもなれることを知り、イエスの真の弟子にもなれることを知り、イエスの真の信者にもなれることを知り、イエスの真の代理者にもなれることを知り、イエスの真の世界を築く勇士にもなれることを知っていなければなりません。このような者となってこそ、イエスの恨みはようやく解放されることができるのです。


今日、私たちはこのような心情を持ってイエスの側に立つ者にならなければなりません。イエスがこのような心情を持って来られたのですから、今日の私たちもこのような心情を持って感激の心を抱き、誕生されたイエスを見つけて出会う喜びを感じることができる者となり、イエスに会って祝うことができる者となり、将来再び来られる再臨主も祝うことができる資格者となるでしょう。


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今、天は私たちに何を求めているのでしょうか? 天の喜びは私たちによって成し遂げられるものであり、天の解放も私たちによって成し遂げられるものです。今日の私たち一人は、今やこのような歴史的に重要な立場に置かれています。ですから、私たちの言葉はイエスの言葉を代わりにしなければなりませんし、私たちの行動はイエスの行動を代わりにしなければなりません。迫害を受けて歩く一歩も、イエスが拒絶されながら歩かなければならなかった足跡を代わりにするものと理解し、友を失って孤独であり、兄弟を失ったり、両親を失ったり、弟子を失ったとしても、イエスの事情を感じ取ることができなければなりません。そのような立場に立ってこそ、かつてイエス様がゲッセマネの丘で迷われた事情と通じるでしょうし、ゲッセマネの園に上がって祈られたイエスの悲壮な心情と通じることができるでしょう。


では、今日、私たちがすべきことは何でしょうか? イエスが探し求めた真の一つの家庭を見つけることです。一つの両親を迎えて兄弟たちが一つの一族を成し、繁殖して一つの民族、国家、世界を築くことがイエスの願いでした。


今日、私たちも各家庭に戻ると、両親がいて子供がいます。しかし、愛の真の秩序を立て、真の兄弟と両親と親族と教団と民族を作らなければなりません。このような心を抱いて、皆さんがこの地に誕生されたイエスを見つめる心があるとすれば、イエスは飼い葉桶に寝かされていたとしても、喜ぶでしょう。このような心情を持って今日この一日を記念することをお願い申し上げます。


<祈り>


お父様、送られたイエスをなぜ死の場に追いやられたのかを、人間は今まで知りませんでした。アダムを失われたお父様の悲しみとイエスを失われた悲しみを、今日、私たちが知ることを許してください。哀れなイエスを信じる哀れな信者たちが出てこなければならないことを知っています。主の目的を知る信者が出てこなければならないことを知っています。


摂理の道を歩んだ人々は、死の道をさまよいながらも真の道を探し求めたことを知ることを許してください。真の両親を探し求めたことを知ることを許してください。それが千秋の恨みになった事実を私たちがこの時間知り、私は真の両親を持っているのか、真の兄弟を持っているのか、真の弟子を持っているのか、真の信者を持っているのか、真の民族を持っているのか、真の世界を持っているのかを深く考えさせてください。


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天の悲しみが今日も地と天と万民の中に限りなく染み込んでいることを感じずにはいられません。今日この日を祝う私たちは、真の両親となるために、真の息子娘となるために、真の孝子となるために、真の忠臣となるために集まりました。


不足した私たちを通して、過去に悲しまれたイエス様を慰めてください。お父様の心情の中に常に留まり、あなたの事情を解放成就させて差し上げることのできる私たちとならせてください。すべてを委ね、主の名において祈りました。アーメン。

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