人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集4(23)

2024年08月11日 18時10分22秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 4 - 23. ゴルゴダの友になるのは誰か 

1958年10月19日(日)、前本部教会

ルカによる福音書 23:26-43



<祈祷>

 今日、私たちは再びお父様の御前に集まりましたが、悲しみに暮れるお父様に栄光を捧げることができないのではないかと恐れています。また、お父様が望まれる御心の前で過ちを犯すのではないかと恐れます。お父様、もし私たちが不適当であるならば、自ら低い位置に身を置き、せめてお父様様の慈悲を願う切なる心を持てるようにお許しください。


お父様が見守ってくださらなければ、私たちはどうしてこの地上でお父様の栄光を望むことができましょうか。また、お父様の御心に残る者とならなければ、どうして許された楽園の意義を望むことができましょうか。お父様、あなたの心に残ることができる者たち、あなたの御心に一致する者たち、そしてあなたと共に生活できる者たちになりたいと、私たちは最初から心に描いてきました。そしてその御心を目指して歩んできました。


初めはお父様の御心を理解し、お父様を賛美しましたが、その過程で多くの傷ついた心を持つ人々がいることを知っています。お父様、これらすべての困難な状況を慈悲深くお見守りください。


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最初にお父様の御前で誓った決意が、終わりの日の復帰の園の中に残らなければならないことを、私たちは復帰の道を通して学びました。イスラエル民族の中で荒野の道を歩む中で倒れなかった者たちがいたのは、エジプトのパロの宮殿を後にして出てきた時にお父様様に対して持っていた真剣な心情が、荒野の40年の道のりにおいても変わらなかったからであることを知っています。さらに、お父様様に対して忠義を尽くした者たちが第2イスラエルの祝福を受けたことも、私たちはよく知っています。


お父様の御前で誓った私たち、お父様の御前で決意した私たち、そのお父様の命令に従うことができる私たち自身であるかどうかを、自ら問いかけるこの時をお与えください。


終わりの日が近づいているのに、お父様のために責任を負う者がいないことを見て、お父様が嘆いているのを感じます。私たちはお父様を見つけ、お父様の栄光を望み、心の中で自らをお父様の子と称していますが、お父様の残された御心、お父様の許された摂理、お父様の戦いの道において、どの一分野をも責任を持って表れる者がいないのを見て、お父様様が嘆いていることを知っています。お父様、この時、私たちが再びお父様様の御前に贖罪の祭壇を築き、悔い改めの涙を流せるようお許しください。


荒野の道で安息を求め、お父様を恨んで荒野で倒れたイスラエルの者たちを私たちは知っています。今日、私たちはそのような姿にならないために、お父様の御手をしっかりと握りたくて集まりました。お父様の栄光に参加する者たちとなるように、愛するお父様、心から願い求めます。


お父様、今、この三千万の民族を慈悲深くお見守りください。お父様、この民族を慈悲深くお見守りください。この民族のために集まる多くの祭壇が、もし民族と天の御心から遠く離れているかもしれませんが、彼らを通して成し遂げなければならない摂理の御心がある限り、お父様が直接介入してくださいますように。また、お父様様の警告に耳を傾けない場合は、鞭を取ってでもその進むべき道を教えてください。愛するお父様様よ、心から願い求めます。


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眠っているこの民族を目覚めさせる使命を担い、最後まで残る者たちがいるべき時、お父様、たとえ一人でも多くの命が、お父様の愛の心情に一致することが許されますように。6千年間嘆かれたお父様を支え、お父様の御前で悔い改め、お父様の御前で服従し、サタンに対抗して戦い抜くことのできるお父様の息子娘たちとなるように導いてください。お父様様、心から願い求めます。


お父様が歴史を動かし、摂理を進められましたが、人間の過ちのために後悔と嘆きと恨みが積もっていることを知っています。私たちを通してその恨みを解消してください。お父様、私たちがあなたの理想の楽園を見つけたいと願っておりますので、切なる心情で歴史を動かし、直接的に導いてください。もし清めるべきものがあれば、それを清め、お父様様の御前に栄光の捧げ物として捧げられるようにし、おお父様様の許された祭壇が清められるようにしてください。愛するおお父様様よ、心から願い求めます。


地上で努力しているお父様様の息子娘たちを探しているこの時、自分だけを頼りにして止まっている者たちにならないようにお許しください。自らの不足を感じている私たち、お父様の祭壇の前に立てない不足な存在ですが、御心のためにゴルゴダの道を最後まで守り抜くことができるお父様の息子娘となるようにお許しください。そして、最後まで残る者たちとなるようにお許しください。愛するお父様様よ、心から願い求めます。


お父様、時期とお許しになった御心は、今日私たちを通して現れ、成し遂げられるべきものですが、もし私たちがその御心に向き合えないときには、お父様が準備された他の者たちを立て、私たちに恥をかかせる時が来ることを心配せざるを得ません。ですから、お父様! 私たちを通して栄光の日をお示しくださり、お父様様様の恨みの心情を晴らしてください。


そして、喜びの日を立て、その日には私たちも共に喜びを分かち合えるようにお許しください。愛するお父様、心からお願い申し上げます。


     3


お父様、今日ここに集まった者たちは、お父様の前に現れたいと願っていますが、お父様が非常に気にされることを心配せざるを得ません。お父様が許された希望の御心に向かってためらうことなく進み、お父様が命じるままに動き、安心して互いに信じ合えるその日が、この民族の前に速やかに現れるようお許しください。お父様様様、心からお願い申し上げます。


お許しになった御心に対して、お父様の心情を持てず、お父様が悲しむ子供たちになってしまうのではないかと恐れます。今日の私たちの心が、お父様の心に似るようにお許しください。また、私たちの事情がお父様の事情と一致するようにお許しください。私たちの願いがお父様の願いに似るようにお許しください。そうして、死ぬにせよ生きるにせよ、お父様様を中心に据えさせてください。死んでも生きても、おお父様様のものとして所有されて生きる私たちとなることをお許しください。おお父様様、心からお願い申し上げます。残されたこの時間をおお父様様に委ねましたので、御心にかなうようにお導きください。


今日も地方に散らばり、切に祈る孤独な者たちがいます。お父様、彼らに一律に恵みの御手を差し伸べ、励ましの賜物をお与えくださり、天の栄光を体感できるようお許しくださいと、心からお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


<御言葉>


今日皆さんと共に考えようとする御言葉の題目は「誰がゴルゴダの友となるか」です。


ゴルゴダという意味は、皆さんがよく知っているように、「頭蓋骨の場所」という意味であり、つまり死の場所という意味です。したがって、ゴルゴダの友となるということは、死の道の友となるということです。キリスト教徒はゴルゴダの主を信じています。ゴルゴダと言えば、私たちはイエス様の十字架を連想します。そして、イエス様の十字架を考えると、イエス様の聖像を連想し、そのイエス様の聖像を思い浮かべると、イエス様の死と共に天が悲しまれたことを思い起こします。


     4


しかし、死にゆくイエス様を前にして、天は悲しみ、地は喜びました。地のために来られたイエス様であり、天のために来られたイエス様でした。しかし、天と地のために行かれるイエス様を、天は理解しましたが、地は理解しなかったのです。これが歴史的な悲しみであることを、私たちは知らなければなりません。


もしイスラエルの民が、天が送ったイエス様を神が知るように知っていたならば、今日の人類の歴史はこのように大きく異なるものになっていなかったでしょう。イエス様は真理の代表者であり、生命の代表者であり、理想の代表者であり、愛の代表者として来られましたが、彼が主張した真理と生命、理想、愛は、人間を基準にしたものではなく、天を基準にしたものでした。そして、堕落した人間が希望として求めるべき真理、堕落した人間が持つべき生命、堕落した人間が求めるべき理想、堕落した人間が永遠に所有すべき愛でした。そのような真理と生命、理想、愛を持って来られたイエス様でしたが、そのイエス様が地上で亡くなってしまったために、人間が求めていた真理を見つけることができなくなり、人間が求めようとしていた生命と理想、愛を見つけることができなくなりました。ですから、今日まで人間はさまよい続けるほかありませんでした。このことを私たちはもう一度認識しなければなりません。


これまで、イエス様の心情から生まれた、つまり彼の胸から生まれた真理の言葉を持つ人が、この地上にいませんでした。また、イエス様の骨と肉に刻まれた生命を持つ人が、この地上には一人もいませんでした。そして、イエス様の体と心が一体となり、希望として見つめた理想、すべての人々を包み込み、一つの目的に向かって進むことができるイエス様の愛を、今日この地上でイエス様の代わりに持つ者も一人もいませんでした。天の真理と生命と理想と愛を持って来られたイエス様は、地上の人間を中心にして、その天の理念と愛の御心を成し遂げようとされ、創造主である神と一つの目的を成し遂げようとされました。しかし、私たちの祖先が不信と背反をしたため、その後の歴史の道程で神が立てようとされた真理は行方を失い、神が立てようとされた生命と理想と愛もすべて失われてしまいました。


そのため、堕落の因縁に埋もれている人間は、真実の言葉を求めてさまよい、真実の生命を求めてさまよい、真実の理念と真実の愛を求めてさまよわなければなりませんでした。このため、終わりの日の人間が、歴史の過程で悲しみに打ちひしがれた闘いの道程を経て、一つの生命を見つける時が来なければならないのです。一つの生命の動きが世界を動かし、一つの理念が世界の人類を包括し、共通の目的を成し遂げることができる時が来なければなりません。


そうして、全世界の人類が切っても切れない一つとなり、何であれ溶け込ませることができる統一的な愛の動きが、終わりの日に広がることを、御心を成し遂げるために来た数多くの先知先烈たち、または御心を持つ者たちは望んできました。また、彼らがそのような一日を成し遂げるために、死を恐れずに闘ってきたことを、今日、歴史的な終末の時代に悲しみと不満と恐怖の中で生きている全世界の人類は、再び感じなければならない緊急な時期に直面しているのです。このことを私たちは感じなければなりません。


     5


イエス様は十字架にかけられて亡くなりましたが、完全に敗れたわけではありません。イエス様が亡くなった後も、むしろ彼の言葉、つまり真理が残り、生命が残り、愛が残りました。では、この残された言葉と残された生命、残された理想、残された愛を、今日の人類はどのようにして見つけ出すのでしょうか? これが人間が共に解決すべき最終的な問題であることを、皆さんは知らなければなりません。


それでは、神の御心を抱いて来られたイエスご自身の悲しみとは何だったのでしょうか。理不尽さとは何であり、怒りとは何だったのでしょうか。苦しみの中の苦しみとは何だったのでしょうか。人間のために生命的で理想的で愛に満ちた天の言葉を持ちながらも、その言葉をすべて伝えられずに去らなければならなかったイエスのその心情、命をすべて与えることができずに去らなければならなかったイエスのその心情、人間が喜びを得ることのできる理想を与えることができずに去らなければならなかったイエスのその心情、天の愛を与えることができずに去らなければならなかったイエスの心情が、彼にとって最大の悲しみであったことを、皆さんは知っておくべきです。


神様は数千年の歴史の過程を通して私たちの先祖たちを立て、天倫の御心に協力させようとされましたが、私たちの先祖たちは時代ごとに天を裏切りました。そのため、天を裏切った先祖を持つ私たちも、今日の終末の時にあって、再び歴史的かつ宇宙的な裏切り者の群れになりやすい、このような重大な岐路に立っていることを感じ、知らなければなりません。


神様がアブラハム一人からモーセを経て、つまり数千年にわたる労苦を経て、ようやく一つの言葉の中心体、生命の中心体、理想の中心体、愛の中心体として選ばれたイスラエルの民の前に約束して送り出された方が、メシアであるイエスでした。しかし、そのメシア一人が来られることを数千年もの間待ち望み準備していた、つまり歴史的な功績の上に立っていたユダヤの民は、いざメシアが来られたときに彼を迎えることができませんでした。歴史の過程で多くの先祖たちが希望していた、その歴史的な主役として迎えなければならなかったイエスでしたが、彼を迎えた人は一人もいなかったのです。


今日、私たちはベツレヘムの馬小屋に横たわっていたイエスを誇る者となってはなりません。当時、ベツレヘムにメシアが現れるという予言がありましたが、その予言に従ってメシアを迎えるために小屋一つでも建てて待っていた者はどこにもいませんでした。


     6


その当時、ベツレヘムに主が突然おいでになるのではないかと心配し、その時と時期を心に抱いて準備した小屋の主がいたかもしれませんが、いざメシアが現れたときに彼を迎える人はいませんでした。イエスが生まれたとき、エルサレム全市が騒然としました。ベツレヘムでメシアが生まれたという噂が広がりました。しかし、エルサレムの中でもベツレヘムの中でも、メシアの誕生を準備していた人は一人もいませんでした。天の皇太子であり、万民のメシアであるべきイエス様が、馬小屋に横たわっているという哀れな姿だったことを、今日信じているクリスチャンたちは再び考え直さなければなりません。


また、天の事情を語り証言されたメシアであるイエスをイスラエルの民が認識しなかったため、今日イスラエルが天の前に立つことができなくなったのです。メシアも地に来られたときには、身に着けるものが必要であり、住む家も必要です。しかし、当時、天を信じていたファリサイ派の人々やサドカイ派の人々、またユダヤ教徒の中で、現れたメシアを迎えるために一部屋でも準備した人は一人もいませんでした。このようにして、天を信じてきた私たちの先祖が犯した罪状を前に、私たちは悲しまなければなりません。今日、私たちがそのような歴史的な過ちを繰り返さないために、自ら心に憂いを抱き、天の前に訴える者となるべきです。


天が4000年の間、メシア一人を送るためにイスラエルの民を準備していたにもかかわらず、イエスの状況がこのようになるとは! 4000年かけて準備された労苦はどこに行ってしまったのか。天が約束した一人の選ばれた子を送ったのに、その時、何も知らずに深い眠りに陥っていたのはユダヤの民であり、深い眠りに陥っていたのはエルサレムだったのです。


彼らは自分たちの教団を誇りとしており、また天の御心に仕えようとしていたユダヤ教団でもありました。このような民の前にイエス様が現れることになったのは、神の御心を受けるべき人間と、御心を摂理していかれる神との間に横たわっている事実だったのです。しかし、この事実を皆さんはよく知らないでしょう。


イエス様は30歳に至るまで大工として生活していました。もし霊的な体験をした人がいたならば、イエスの30年の生涯の一端を知ることができるでしょう。それを知っている人がいれば、美味しい食事をしても胸が痛むでしょうし、良い服を着ても胸が痛むでしょうし、良い環境にあっても胸が痛み、悲しい生活を送ることになるでしょう。


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ヨセフが神の御心に従ってマリアを迎え入れたとき、神は共におられました。しかし、その後、ヨセフの家庭で育ったイエスは、義理の子供として虐げられました。ヨセフの子供たちが増えるにつれて、イエスはますます孤立した立場に置かれるようになりました。そして、自分の事情や心情を語ることができず、ぼさぼさの髪の青年として、30余年の人生を鋸や鉋を持ち、他人の戸を作りながら過ごしました。このようなイエスの事情を誰が知っていたのでしょうか。誰も知りませんでした。当時のイエスは、今日皆さんが信じている歴史的なイエスとして、歴史的に評価される人格を持つキリストとして現れることができませんでした。


それでは、今日の終末に現れるメシアを迎える者は誰でしょうか? それは歴史的なイエスの人格を受け入れる者ではありません。時代的なイエスの人格を受け入れる者であることを、皆さんは知っておくべきです。


天倫の御心を胸に抱き、この地を憂いながら生きていたイエスでしたが、彼の両親は彼を理解せず、兄弟たちも彼を理解しなかったという悲しむべき立場にあったイエスであったことを、皆さんは知っておくべきです。


私たちは今、そのようなイエスを信じなければなりません。私たち統一教会の信者は、そのようなイエスをまず信じ、知るべきだということです。私たちは十字架のイエス、死の道を歩まれたイエスを知っていますが、実は生きる道を見つけに来られたイエスでもあったことを知るべきです。ただ亡くなられたイエスにしがみついて泣く者となってはいけません。


イエス様は、亡くなる前に死を見据え、それに備えていたその心情を誰にも打ち明けることができず、天地の憂いと悲しみ、そして天地の恨みを抱えたまま、その心情を誰にも打ち明けることができない悲惨な状況に置かれていました。そのような立場にあったイエスを抱きしめて泣くことができた者、そのイエスの事情を理解できた者、そのイエスと友となれる者がいれば、その者たちがイエス様の使徒となったことでしょう。


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しかし、ペテロはどうだったのでしょうか? ガリラヤ湖のほとりで漁をしていたペテロが、どうしてイエスの最初の弟子となったのでしょうか? これは驚くべき事実でした。ユダヤ教はどこに行ったのでしょうか、選ばれた民族はどこに行ったのでしょうか、天の御心の中にはいなかったこのペテロや、その他の漁師たちがどうしてイエスの弟子となったのでしょうか? イエスは不満を抱かざるを得なかったのです。そして、歓迎するユダヤの民がいなかったために悲しまれたイエス様でした。


ですから、今日皆さんは、主を信じるにあたって、亡くなられたイエスだけを信じるのではなく、生きて働かれたイエスを信じなければなりません。十字架にかけられたイエスだけを信じるのではなく、30余年の生涯を通じて天の御心を心配されたイエスを信じるべきだということです。彼の生涯の道には、御心のためのため息の生活があり、悲しみの心情があり、その上に十字架の悲しみが重なっていることを、皆さんは知らなければなりません。


ゴルゴダで苦しんでいたイエスの心情を知る者が地上にどこにいるでしょうか? 彼の友となる者がどこにいるでしょうか? イエス様には、家庭から友が必要でしたし、兄弟の中にも友が必要でした。すべての父親や母親に代わることのできる友、教会に代わることのできる友、イエス様が背負う十字架を代わりに背負うことのできる友、さらには世界の十字架の道、ゴルゴダの道を代わりに歩むことのできる友が必要だったのです。しかし、今日そのような御心を知り、イエスを信じる者は一人もいません。


歴史的な御心のために来られたイエスが肉体を持った人間として現れたものの、時代的に不遇な環境の中で活動され、倒れてしまったために、イエス様が残された御心を追って歴史の道を歩む人々もまた、不遇な時代的環境に置かれ、イエスを叫ばざるを得ない状況に陥りました。また、イエスがゴルゴダの十字架を背負われたときには、全宇宙がかかっていたということです。だからこそ、ゴルゴダの友を求めてさまよう天の心情であることを私たちは知らなければなりません。つまり、ゴルゴダの心情を理解してくれる友を天が求めてさまよっているのです。


それでは、イエス様はご自身を新郎、信徒たちを新婦にたとえられましたが、イエスの新婦となる人とはどのような人でしょうか? それはゴルゴダの道程においても友となれる人々です。


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歴史的に見ると、悪が強くなると善は弱くなりました。悪が強くなって善が悪を導くことができないとき、悪が善を支配しながら流れていきました。しかし、その中で小さな善が現れ、それよりも大きな善を成し遂げ、善の目的に向かって前進していきました。このようにして、善が次第に上へと昇っていくという歴史の発展過程を経てきたのが、今日までの歴史の道程であることを、皆さんは知っておくべきです。


歴史は個人から始まり、家庭を経て、社会性を帯びて流れていきます。集団的な氏族の形態を経て、部族を経て、民族を経て、国家形態を経て、世界にまで及んでいます。そして歴史は、見える世界で終わるのではなく、霊的宇宙の世界まで進展していくでしょう。


人類の歴史において、個人は個人を中心として主張する善の時代、氏族は氏族を中心として主張する善の時代、部族は部族を中心として主張する善の時代、民族は民族を中心として主張する善の時代、国家は国家を中心として主張する善の時代、世界は世界を中心として主張する善の時代を経てきました。このようにして、歴史は小さな善が次第に大きな善へと発展してきました。


したがって、闘いにおいても、個人の闘いが家庭の闘い、家庭の闘いが氏族の闘い、氏族の闘いが社会の闘い、社会の闘いが国家の闘い、国家の闘いが世界の闘いを経て、霊界があるならば、その霊界とこの地上との闘いにまで至るということです。また、神が存在するならば、その神と地の無数の悪霊たちとの闘いが終わらなければ、この宇宙に平和の時代は訪れません。このような原則的な過程を通して摂理されている神の事情を、皆さんは理解すべきです。神がサタンと地上の悪しき者たちと戦ってすべての問題を解決しなければ、宇宙的な平和の時代は訪れないのです。


それでは、闘いは個人の闘いが氏族、部族、国家、世界的に広がってきたのですが、これから世界はどうなるのでしょうか。霊界があり、天があるならば、その霊界と戦わなければなりません。終末に立つ皆さん、心に訪れる恐怖をどうやって逃れるのでしょうか。これからは原子爆弾以上の恐怖を感じる時代がやってきます。つまり、外面的に起こる原子時代の恐怖だけでなく、心に訪れる恐怖の波が皆さんを襲うでしょう。


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そのため、今日の人間は恐怖心が多く、精神病者が増えています。これは霊的なサタンとの戦いに直面しているからです。この戦いを終わらせ、善なる神と自分が一つとなり、天のお父様の闘いを自分が引き受け、お父様の悲しみを自分が、お父様の苦しみを自分が責任を持つ者となるべきです。だからこそ、お父様のその苦しみ、その悲しみ、その理不尽さを代わりに責任を負うためのその一日が、イエスが再び来る再臨の日であり、人類が迎えなければならない大審判の日であるのです。神の摂理はこのように定められています。


それでは、このような歴史の道程を経てきた今日、どのような状況になっているのでしょうか? 現在は、国家間の闘争の時代を過ぎ、民主主義と共産主義が世界的な闘争の過程を経て進行している時期です。したがって、いずれは一つになるでしょう。それでは、なぜキリスト教の歴史がこのような過程を経てきたのでしょうか? それは、イエス様がゴルゴダで十字架を背負われたとき、右側にいた強盗と左側にいた強盗の姿が、今日の世界において現れているからです。右側の強盗は天の側を代表する世界的な民主主義の形として現れ、左側の強盗は天に反対し、物質と人間を中心にした世界的な形として現れているのです。


次に現れるものは何でしょうか? それは、イエスの死と共に復活の時が訪れるということです。つまり、個人的な左側の強盗が出発し、それが家庭的に広がり、氏族を経て部族、民族、国家、世界を形成しました。また、右側の強盗の形も世界を形成するようになったのです。イエスという一つの存在が地上に蒔かれることで、その結実が終わりの日にこのように現れたのです。


ここで私たちが心配しなければならないのは、民主主義がどのような立場に立っているかということです。そして、皆さんはイエス様が亡くなられたときの心情を知り、神の国が到来するときに自分を見つけて喜ぶことができるようになるべきです。イエス様の心情を代わりに持つことができないこの民主主義が、最終的にどうなるのかを知るべきです。今日、民主主義陣営に属している私たちは、自分が何万回死んでも当然のことと認識し、イエス様の死に涙を流して共感できる右側の強盗のような人になるべきです。皆さんはそのような時に来ているのです。


今日、全世界で起こっている現象をキリスト教的に見ると、それらは歴史の結論的な現象です。皆さんは、神がこの結論に至るまでにどのような歴史的過程を経てきたのかを祈りによって考えるべきです。そして、皆さんが「お父様! この民族が選ばれた民族として世界の祝福を受けるようにしてください。ユダヤ教を裁き、不信の列を裁いてください。」と祈らざるを得なかったことが、イエスが経験された状況だったことを理解すべきです。


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イエスが亡くなるときに抱いたその怒りとは何だったのでしょうか? 選ばれたユダヤ教がイエスの胸を痛め、選ばれた民がイエスを十字架につけたのです。これが怒りと悲しみの源でした。そのようなイエス様は、ご自身の悲しみが大きかったものの、4千年間涙と血で祭壇を築いてきた神の事情を思い、4千年間選ばれ育てられてきたユダヤの民であることを思い出すと、ご自身の死を忘れ、彼らのために祈ることができたのです。このようなイエスの精神を、今日の世界中に散らばるキリスト教徒たちは再び感じるべきです。


もしイエスが手を挙げて祈らなかったならば、ユダヤの国がまず裁きを受け、ユダヤ教徒がまず裁きを受けていたでしょう。天が猶予の過程を残したことによって、自らが死にゆく足跡を追って救いの恵みを与えたイエスであったことを、皆さんは理解すべきです。


私は右側の強盗に対するイエス様の言葉を読むと、知らず知らずのうちに涙がこぼれます。悲しくてたまりません。4千年の神の悲しみがここにあったことを知らなかった民族……。これは悲しい場面でした。その当時、イエス様の前にただ散らばっていた多くの民衆がいたのです。イエス様の血と肉に共に連帯し、感情を共有するべき者たちがユダヤ教徒であり、ユダヤの民であるべきでしたが、そうはなりませんでした。イエス様の十字架の死に血を共に流すべきだったのに、むしろそこには殺人強盗が共にいたというのはどういうことなのでしょうか。イエス様は万民の救い主でありながら、哀れな救い主でした。イエス様が亡くなられるときに唯一の同伴者が殺人強盗であったという事実は、非常に悲しいことです。


ゴルゴダの友がペテロであったならば、12使徒であったならば、天には恨みは残らなかったでしょう。そうであれば、イエス様は亡くならなかったでしょう。もし12使徒が団結し、イエス様の死と共に死のうとしたならば、奇跡が起こっていたでしょう。そうなれば、イエス様は死ぬことはなかったのです。


しかし、33年間選ばれた民族を見つめて悲しまれていたイエス、3年間の公生涯の間、地上の人類のために泣かれたイエス、そのイエスに希望を託していた民族はどこに行ったのでしょうか? 見守っていた教会はどこに行ったのでしょうか? 3年間の公生涯の間に喜びや悲しみを共にしながら従った弟子たちはどこに行ったのでしょうか? 彼らは自分が良くて楽しいときには、「私はイエスの友であり、イエスの弟子だ」と言っていました。誰よりもイエスの立場に立とうとしました。しかし最後には、イエスが歩まれる道とは全く無関係の立場に置かれることになりました。これがまた新たな歴史の出発点となり、そのような形で歴史が発展し、今日の終末に至ったのです。


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それでは、イエスの祝福を受けたのは誰でしょうか? それは、従っていた12使徒でもなく、天を信じていたユダヤ教徒でもなく、祝福されて選ばれたイスラエルの民でもありませんでした。十字架上で共に血を流して死んだ右側の強盗が歴史的な祝福を受け、最初の弟子よりも先に楽園に入ったのです。この事実は悲劇中の悲劇です。もしも殺人強盗の一人でもイエス様の死の日に共にいなかったならば、救いの摂理は頓挫していたでしょう。殺人強盗の流した血が、イエス様の心情を代わりに地上で福祉と楽園を建設する条件を天運と共に築くことができたために、イエス様は復活して地上に再び現れ、不信仰の民に接することができたということを、皆さんは知っておくべきです。


そして、イエス様一人を死の場で新郎として迎えた者がいたために、その基盤から、善の実りが必ず地上に現れるでしょう。それはイエスの代わりに現れるのです。


サタンの勢力がどれほど強くても、善を打ち倒す際に、その善の種までも完全に取り除くことはできないことを知っておかなければなりません。善のために犠牲となり、死の場に立つだけでなく、その善を守って倒れる忠誠心を持つ者がいるならば、その一人が倒れることによって、善は何倍にも増殖して広がるのです。これが鉄則です。


当時、反対していた人々は、イエス様を十字架にかければすべてが終わると思っていました。イエスに従う者が一人もいなかったため、サタンの支配下に全てが奪われたと思っていたのです。しかし、死んだ右側の強盗を条件として復活の歴史を起こしたことを、今日のキリスト教徒は知りません。


サタンはイエスと右側の強盗、そして12使徒を打ちました。イエス様が亡くなられた後、サタンは12使徒を打ちました。天は12使徒もすべてサタンの前に引き渡したのです。それでは、なぜそうしなければならなかったのでしょうか? イエスの道は個人的なゴルゴダの道でしたが、イエス様がゴルゴダの道を歩まれたことで、12使徒もゴルゴダの道を歩まなければならず、ユダヤの民もゴルゴダの道を歩まなければならず、イスラエルの民族もゴルゴダの道を歩まなければなりませんでした。そして、今日の全世界のキリスト教徒もこのゴルゴダの道を歩まなければならず、全人類もこのゴルゴダの道を越えていかなければならないことを知っておくべきです。


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しかし、今日の民主世界は、民主主義を中心にイエスが越えた世界的なゴルゴダの丘を越えなければならないことを知らないのです。皆さんもご存知のように、イエス様が「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と祈られたのは、ご自身の死を悲しんだからではなく、自分がこのように死ねば、自分を通じて全世界の人類も十字架のゴルゴダの道を越えなければならないことを心配されたからです。それで「お父様よ、できることならこの杯を私から取り去ってください」(マタイ26:39)と祈られたのです。


もしイエス様がこのゴルゴダの道を越えられなかったならば、世界的なゴルゴダの道はなかったでしょう。世界的であり宇宙的な使命を持って来られたイエス様がゴルゴダの道を越えられたことで、そのイエスに従う者たちには、個人的なゴルゴダの道が残され、家庭を中心とした摂理の時代と時代においては、家庭的なゴルゴダの道が残されました。また、家庭の時代を過ぎて摂理の御心がますます拡大され、社会の段階に進んだときには、家庭の十字架の道だけでなく、社会的な十字架の道も残されました。


また、国家的な摂理の御心を信じて受け入れる国家的な摂理の時代においては、家庭の十字架、社会の十字架、国家の十字架の道を歩まなければなりませんでした。したがって、今日の世界的なキリストがこの地に来るならば、世界に対する十字架、国家に対する十字架、社会に対する十字架、家庭に対する十字架、個人に対する十字架をすべて背負って越えなければなりません。このような運命の丘が残されていることを、今日の世界のキリスト教徒は知らないのです。


今日のキリスト教徒たちはどのような主を迎えようとしているのでしょうか? 天があるならば、どこでイエスに会うのでしょうか? 十字架の丘を越えて復活の場で会わなければなりません。これが再臨と復活です。したがって、イエス様が来られてから今日までの歴史の道程は、個人から家庭、社会、国家、世界を目指したゴルゴダの道を歩みながら、押しのけ、打たれ、叩かれているのです。


今日の時代は、民主陣営が共産陣営に打たれている時です。それでは、この世界的なゴルゴダをどうやって越えるのでしょうか? イエス様と同じように、この民族を思う心情を持ち、この民族全体が一つの体のように動いて進まなければなりません。そのような民族になる前に、越えることが難しい世界的なゴルゴダの道が立ちはだかっていることを、皆さんは知っておくべきです。


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したがって、極めて悪い場所で善の根または善の実を見つけて立てなければ、悪しき罪人から善なる人々を一つにする道が開かれることはありません。そうして復活したイエス様の権限に頼って、失われた12使徒を再び見つけ出さなければならないのです。当時、個人がイエスを代わり、12使徒がイエスを代わりに受け入れるべきだったのです。しかしそうしなかったため、12使徒のほとんどが皆殺しにされました。12使徒が死の道に立ち向かうとき、仲間を追い出した人が一人いましたが、それが使徒ヨハネでした。そして、一人の強盗はユダヤ教によって追い出され、イスラエルの民によって追い出され、裏切った12使徒たちによって追い出されました。天が立てた民の中でイエス様一人を立て、その復活によって12使徒を再び立てました。さらに天は、その12使徒を代わりにして、イエス様と同じように追い出された一人を立てました。それがパウロです。


今日のキリスト教徒たちは、パウロが天を愛し、神の御心を理解していたと言います。しかし当時、パウロは12使徒たちから追い出されました。使徒として福音を伝えましたが、パウロは12使徒たちから追放されたのです。パウロは復活したイエスに出会い、天の使命を受けました。そして、裏切った使徒ではなく、裏切らなかった生きた使徒として異邦の地ローマに行き、迫害を受けながら福音を伝えたパウロでした。


パウロは12使徒の殉教に代わり、洗礼者ヨハネの死に代わって主を求めたため、地上において摂理的な軌道が異邦の地に移されました。この意味がわかりますか? こうしてパウロはローマ帝国に入って一人で追放されました。宗教的に歓迎されない立場に置かれたのです。


しかしパウロは、イエス様が定められた摂理の御心一つを抱き、人類の十字架であるゴルゴダの道を歩まれたのと同じように、ローマのどのような迫害の矢にも屈することなく突き進みました。天の御心のためには死も恐れずに進んでいくその姿は、イエスの姿を彷彿とさせました。


そうしてパウロを中心にして、キリスト教は動き、家庭的な段階を経て、部族的な段階を経て、民族、国家、世界の段階へと進んでいきました。イエスがゴルゴダの道を歩まれたように、パウロが天の使命を担い、12使徒に代わってサタン世界に対し、死のゴルゴダの道を自ら進んで歩みました。そうしてローマのネロ皇帝時代の激しい迫害と虐殺の過程を経てきたことを、皆さんは知っておくべきです。


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また、個人的なパウロの犠牲が、当時の部族や12使徒のような人々、イスラエルのような集団を生み出しました。こうして、個人から全体が一つにまとまり、死を超えて戦った結果、ローマ帝国を打ち破ることができたのです。そして、約4世紀の間、キリスト教は繁栄しました。中世封建社会の時代には、ローマ教皇庁を中心としてキリスト教は全盛期を迎え、全世界がキリスト教徒によって支配されるようになりました。


しかし、このローマカトリックには進むべき方向がありました。すなわち、国家のゴルゴダの道を超え、世界的な舞台を開拓する使命があったのですが、それを知らず、国家的な理念の欲望にとらわれていたため、彼らは天に打たれることとなります。文芸復興を通じて天は彼らに打撃を与え、宗教改革を通じて旧態依然とした儀式を打ち破り、ついには教皇庁が根本的に追いやられることとなったのです。そして徐々に衰退していったのです。


ところが、このようなキリスト教の信徒たちの中から新しい革新勢力が現れました。それがルターを中心とした反抗者たちであり、プロテスタントと呼ばれる人々です。旧教を中心とする集団を打ち破る過程で、ルターを中心としたプロテスタントが形成されたのです。この精神を受け継いだピューリタンたちがアメリカに渡り、新大陸の文明を築き、世界的なキリスト教王国を建設したのです。


しかし、世界の歴史がこのように進展してきましたが、今や天が世界に打撃を与える時が来ました。したがって、私たちはここで、人々の中で追いやられている集団がどこにあるのかを見極めることができなければなりません。民主主義陣営の中で最も追いやられている集団、最も不幸な国がどこなのかを探さなければならないのです。


これは、イエスが血を流した十字架の上で、強盗が友となったように、世界的なゴルゴダの道を進む時に、裏切ったユダヤ民族とは友でない集団、または国家が出てくるということです。そのような集団、そのような国家が出てこなければならないということは、歴史的な摂理観に照らしてみれば妥当なことです。


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しかし、今日の世界を見渡すと、神を信じない共産主義が現れました。彼らは神がいないと言っています。神はどこにいるのかと言うのです。それゆえ、イエスを打ち負かすための死の舞台でイエスの味方となった右側の強盗が現れたのと同じように、今日の共産主義は自分たちのすべての野望を実現するために虐殺主義に突き進んでいるのですが、その虐殺が民主主義陣営の側に立つ条件の犠牲となるということを理解しなければなりません。


では、今日の世界でこのように全人類をゴルゴダの道へと追いやる中で、この道を越えなければならない今日のキリスト教徒はどうすべきでしょうか?この世界の前にゴルゴダの道をまず進む集団となるべきです。全キリスト教の先頭に立ち、追いやられる集団、使徒たちの前に追いやられたパウロ、ユダヤ人の前に追いやられた強盗、ローマ教皇庁の前に追いやられたプロテスタントがいたように、今日の世界的な新改革派の立場で追いやられる集団が出てこないか常に注意していなければなりません。これは歴史が証明する事実です。


それでは、今日の私たち統一教会の信徒たちは、20世紀の新しい改革宗教団体として、20世紀のすべての主義や思想から追いやられなければなりません。民主主義陣営、教派主義的状況のこの世界で追いやられる集団となるべきなのです。また、天の理念を持って進んできた国家があるならば、その国家もまた世界の前で強盗のように血を流さなければならないのです。


したがって、韓国は38度線を中心に6・25動乱を通じて世界の生死運命をかけて左翼と右翼が衝突し、血を流す立場が生じたということです。これを考えると、今日の民主主義のゴルゴダの道が右側の強盗の境遇に似ていないとは言えません。


では、今日の韓民族の前に恨みがあるとするならば、今何をつかむべきでしょうか?主の思想をつかんで戦う時ではありません。亡くなったイエスのゴルゴダの心情を持たなければならず、その意義を理解し、民族が裏切った心情、歴史的な裏切りの心情、世界的な裏切りの心情を抱き、あなたが苦難の道を歩まないように私が代わりに行くという心を持たなければなりません。そして、この民族がイエスの栄光を讃えるという心情を持っていた右側の強盗のような心情を持つならば、ゴルゴダの死の道で再び復活したイエスを迎え、復活の栄光の時代に入るのではないかと考えられるのです。


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それゆえ、今日の統一教会の皆さん、迫害されても悲しまないでください。追いやられに追いやられているうちに、イエスの心情がわかり、イエスに会うと、死のゴルゴダを前にしてゲッセマネの園で切実な祈りを捧げた心情まで理解することができます。イエスが追いやられた極限で天と一致して復活の恩恵をもたらしたように、あなたが追いやられるならば、ここから新しい歴史が始まるのです。


私たちが世界的な理念を持っているならば、世界的に追いやられ、国家的に追いやられ、教会的に追いやられ、社会的に追いやられ、家庭的に追いやられ、個人的に追いやられるが、ここで残る集団にならなければ、宇宙的な復活の時代に、宇宙的なゴルゴダの道を越えてこられる主の前に花嫁の資格を持ち、復活の権能を代行することができる天の本然の息子娘となることができるのです。


だからこそ、今日、皆さんは真の友を求めてさまよいました。真の家庭、真の師を求めてさまよいました。真の主義、真の国家、真の世界を求めてさまよいましたが、まだ見つけることはできませんでした。イエスを中心に考えてみると、皆さんはその目的を達成する立場を失ってしまったことを理解しなければなりません。


したがって、今日、私が真の友を見つけたいと望むならば、友のゴルゴダにおいて真の友となるべきであり、真の家庭を見つけたいと望むならば、家庭のゴルゴダを担う者でなければなりません。さらに、国家や世界的なゴルゴダの道においても、皆さんはイエスと同じ心情を抱き、ゴルゴダの道を責任を持って進まなければなりません。そして、すべての人が自分の永遠の生命の問題を任せ、委ねるとしても、それを担うことができるようになり、さらに世界的な問題にも対応できる者でなければ、世界的なゴルゴダの道において天の前に友となることができるということを、皆さんは心に刻むべきです。


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