人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(1)

2024年08月12日 17時26分18秒 | 日記
文鮮明先生御言葉集 5 - 1. 神様の所有と私たちの所有 (1958年11月9日)

1958年11月9日(日)、本部教会(清波洞1街)。

聖書拝読:マタイによる福音書 6:16-34




<祈祷>

お父様! 私たちの歩みが天に向かって進む時が近づいています。お父様がどれほど苦労されたか、私たちは知っています。そして、お父様が決意された意志が何であるかも理解しています。また、お父様が私たちに成し遂げてほしいと願っている子供の責任がどれほど困難なものであるかも知っています。


お父様の意志を理解する者、お父様の許しを得た園に住む者、その一人は無限の涙を流さねばならないことも知っています。その一人がお父様に向かって進む時、傷を負わなければならないことも理解しています。また、その一人はお父様と共に歩まなければならないことも知っています。そして、その一人は体にもその痕跡を持たなければならず、心にも悲痛な思いを抱き、無限の嘆きの中でお父様の裁きの日を備えることを知っています。


また私たちは、そのような子供を探し求めるお父様と永遠に繋がらなければならないことも理解しています。しかし、今日は私たちがお父様の前に立っている者であると自認する立場に立たないように導いてください。言うことも、行動することも、顔を上げることも恥ずかしい自分たちであることを忘れないように許してください。


もし私たちの中に心を開き、天の思いを知り、お父様の心を感じる者がいるならば、その者は父とこの民族の悲しみを代わりに嘆かずにはいられず、人類の悲しみを代わりに嘆き、すべての霊たちと共に天と地に刻まれた悲しみを分かち合う友となることを私たちは知っています。


今日、私たち自身がそのような立場にあるかどうかを考えた時、お父様、苦労されたお父様の前に、心配されたお父様の前に、苦難の道を歩まれたお父様の前に顔を立てられないとしても、恥ずかしい気持ちを持つことができるようにしてください。私のお父様、心から願い祈ります。


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お父様、選ばれた者たちを導き、聖なる都エルサレムの門を通過させるためにお父様が持っている悲しみ、私たち一人一人を善の立場に導こうとするお父様の困難がどれほど大きかったことでしょう。それにもかかわらず、今日、私たちはお父様の苦労を忘れ、お父様の心配を忘れ、お父様が示された足跡を忘れてしまいました。どうか、天の軍勢が動く時、その動きがお父様の足跡を追うものであるように許し、心に誇りを持って進む動きであるように許してください。


人々はこの道を進みたくないと思っています。今日も明日も、多くの人々はこの道を心では望んでいますが、行動には移せずに止まっていることを知っています。これを解決すべき責任がお父様だけでなく、私たちにもあることを理解させてください。


しかし、この厳然たる事実を責任を負おうとする人々が非常に少ないことも私たちは知っています。安逸な私たちの心に、お父様の切なる思いが溢れ出るようにしてください。お父様の悲しみが溢れ出るようにしてください。そして、天の道を探し求める正しい者たちであるように許してください。


天の祝福を求める者は多く、お父様の子供となるために尽力する者も多いですが、6000年の歴史が経過した今日、お父様の真の息子娘、お父様の前に捧げ物となりたいと忠誠を尽くす者を見つけることは困難です。私たちがお父様の摂理の道を混乱させる可哀そうな者たちとならないか、非常に恐れています。イスラエルの人々がそうであったように、自分自身を誇ることができない私たち自身を心配する人々であるように許してください。


今日、お父様の前に恥じない子供、心配される子供とならないために尽力する息子娘であるように導いてください。お父様、心から願い祈ります。


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祖先の恨みが私たちの前を遮っているこの時、無数の不信のサタンたちが私たちを誘惑しているこの時、お父様の前で誇れる価値ある存在として見つけられるように許してください。お父様、心から願い祈ります。


今日、私たちはお父様の前に礼拝するために集まりました。自らを反省し、心と体が一つになれる条件、善の条件を立てることができる立場に立てるように許してください。お父様、この日を迎えるにあたり、お父様を心配し祈る者たちは誰ですか? 涙を流す者たちは誰ですか? 天と地を代わって悲しむ者たちは誰ですか? 彼らを祝福してください。そして、彼らの上に栄光の日が早く訪れるように許してください。


ここに集まったあなたの息子娘たちが、お父様、他の人々が果たせなかったことまで責任を果たすことができるように許してください。残された使命に対して誠実であり、残された意志に対して真実であり、お父様の一つの意志のためにすべてを捧げて戦い続けるあなたの息子娘たちとなるように許してください。お父様、心から願い祈ります。


戦っている私たちの歩みとその止まる位置が、本来の理想の園とどれだけの距離があるのか、自ら分析できるように許してください。そして、その心配の基準を突破するための戦いで勝利できるように導いてください。


この日にすべてのことがお父様の意志通りに成し遂げられるようにしてください。喜びの恩賜を受けるにふさわしい心情を持つ者がいるなら、その者に働きかけてください。そして、お父様に対して行うように現れ、お父様のために尽力するように祝福してください。


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すべてをお父様に委ねましたので、あなたの導きに任せます。サタンが入り込む時間とならないように許してください。すべてのことを主の名前で祈り願います。アーメン。




<御言葉>


「神様の所有と私たちの所有」このような題で、しばらくお話しさせていただきます。


私たちは、創られた被造物が主を失ったことを知っています。万物もそうであり、私たち自身もそうであることを、私たちはよく知っています。堕落によって、人間は神様に絶対的に所有されることができず、また万物とこの世界を絶対的に所有することができなくなっています。そして今日まで、絶対者である神様もご自身が創った万物を自分の所有だと主張し、自信を持って支配できないというこの悲しい事実を、私たちは知るべきです。


それゆえ、これまでの歴史の道程は、ひとりの主に所有されるための道程であったということです。時代を越え、世紀を越え、今日この日までその目的を達成するために、波乱万丈の闘争の歴史を歩んできたことを私たちは心に留めておくべきです。


このすべての被造物が存在しているという事実を否定することができないのなら、この被造物を支配する主、あるいは絶対者が存在しなければなりません。したがって、その絶対者の支配の下で、誰からも非難されることのない絶対的な安定点を見つけない限り、この世界は闘争の歴史から逃れることはできません。


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神様がご自身の創られた万物を自分のものだと主張できないというその一つの事実を、今日の信者たちは誰もがよく知っています。言い換えれば、神様が全力を尽くして創った万物を、意志通りに支配することができず、意志通りに活用することができない立場にあるのです。それゆえ、元の立場を回復するための神様の摂理の歴史があり、これまで信仰者たちは時代ごとに不当な死を遂げ、不当な迫害を受けながら、神様の意志を探し求めてきました。


天に忠誠を尽くし、天のために命を捧げ、その一つの意志を成し遂げるために戦ってきた多くの子供たちを、天が善の理念を中心にして、勝利の栄光を中心にして支配することができないというのもまた、神様の悲しみです。そして、真の信仰の道を歩もうとする真の人々の悲しみであることを、皆さんは知るべきです。


神様がご自身の実在する所有の価値を万宇宙の前で誇れるその一日、それが神様の摂理が総決算される日であり、すべての被造物の願いの焦点であり、イエス様とこれまでの聖賢たちが理想とした基準点であることを、皆さんは知らなければなりません。


今日、皆さんと皆さんが生きている生活環境を見てみると、皆さんが持っている所有物や皆さん自身、皆さんが属している家庭、皆さんが属している社会、そして皆さんが属している国家と世界は誰のものだと断言できるでしょうか。それが天の所有だとも言えず、皆さんのものだとも言えません。これがこれまで堕落した人類にとって最大の悲しみであったことを、私たちは知らなければなりません。神様は救いの摂理という標語を掲げて、ご自身を追随しようとする人々に「この世のすべてのものを持って私のために尽くしなさい」と言うことができなかったのです。このような神様の事情、極めて悲しい事情を、私たちは感じなければなりません。人間を万物の支配者として立たせるべき神様であるにもかかわらず、持っているすべてのものを持ってご自身を追いなさいと勧告できない神様の事情を、私たちは感じなければなりません。


それゆえ、道の道程を探し求める者は、どの時代、どの民族、どの世界に属していようとも、自分が持っているすべての所有物を断ち切って追いなさいとおっしゃる神様の悲しい心情を痛感しなければならないし、痛感しなければならないし、痛感しなければならないのです。そうしなければ、神様の所有権が見つかる時が来た時、神様と何の関係もなくなるということを、皆さんは知らなければなりません。


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今日、信仰していると自称する人々は、救いを受けたいと言っています。天の人になりたいと言っています。また、天の国の民となり、選ばれた第三イスラエルの名前を持って進みたいという心を持っています。そのような心を持つことは良いことですが、自分自身がそれを持つことのできる基準と資格を持っているかどうかが問題であることを、皆さんは知らなければなりません。


天が万物を支配できない立場にあるため、この地上にいかに素晴らしい人々が多く来て去ったとしても、この地を完全に支配して自分のものとして決定することのできる勇者は現れなかったという事実を、私たちは知らなければなりません。


では、この歴史の道程はいつまで続くのでしょうか。この地が永遠に自分のものだと主張できる一つの主人公が決定されるその日まで、歴史は波乱の道程を歩み続けるでしょう。今日まで人間は文化や、あるいはどのような政治権力や宗教も、自分の所有物のように誇ってきましたが、時代の変化に伴い、ある民族が誇ったその文化はその中心が別の場所に移され、ある主義主張を中心としたすべての政治権力も変わり、宗教も変わってきたのです。私たちは歴史の道程を考察する時、この事実をよく知ることができます。つまり、どのような動きも決定的な所有権を持つ立場には立てなかったという事実を、私たちは歴史の道程を振り返る時に知ることができます。


神様が完全に支配できない時に、自分の思い通りに行動したことが堕落の始まりでした。神様が完全に支配できる時を迎えて行動していたならば、堕落することはなかったでしょう。神様は創世以来、今日まで支配的な権限を持って行使することができませんでした。それゆえ、歴史的に多くの人々が民族を動かそうとし、国家を動かそうとし、世界を動かそうとしましたが、その時代を総責任者としてとどまることができませんでした。


個人だけでなく、氏族や部族、民族、国家、さらには天と地まで、神様が支配する時が来なければなりません。それゆえ、神様が天と地、霊界があるならばその霊界まで支配される必然的な動きが、歴史の終末時代に現れなければ、神様が支配する全体の理念が成就することはできないことを、私たちは知らなければなりません。


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それゆえ、神様は私たち人間に対して、持っているすべての物質を捨て、自分の持っている命を捨て、自分の持っている理念を捨て、この地上で喜びを感じる情さえも捨てるように要求しておられます。これが人間に対して主張される神様の道の基準です。


では、神様は何のためにこのような要求の条件を私たちに提示されたのでしょうか。それは、絶対者の所有権が現れる時が必ず来るため、その時に私たちを神様の前に堂々と立つ資格者にするためでした。それは、これまで神様を追い求め、善の意志を探し求めてきた人々が守り続けなければならなかった必須の条件でした。


キリスト教の歴史を振り返っても、神様は喜びを与える前に苦しみを受けさせ、何かを誇らせる前に迫害を受けさせ、自ら楽しむ環境を避けて休まずに祈るように命じられました。神様がこのような道の基準を人間の前に示されたのは、ある一つの時を契機として、人間を神様の完全な所有とするためであったことを、私たちは知らなければなりません。


聖書の本文に「まず神の国とその義を求めなさい」とあります。それなら、神様の国と呼ばれるその国、神様の義と主張されるその義はどこにあるのでしょうか。また、神様の人と主張される人はどこにいるのでしょうか。つまり、神様が所有できる国とはどのような国でしょうか。それは善の国であるでしょう。その国は宗教を超越し、国家の観念を超越し、人間の区別を超越し、主権を超越し、どのような文化や思想をも超越する善の国であるでしょう。


それゆえ、天国は東西を問わず善良な人々が自分たちの理想的な国だと主張した国であり、自分たちが住みたいと主張した場所です。そして天国は、自分のものを心置きなく主張し、所有の観念を確立できる場所です。このような場所が私たちが望む天国です。


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今日、キリスト教であれ、どの教派であれ、自分たちを中心とした所有観念、あるいは教派的な所有観念に浸っている人々がいるならば、その人々を打つ時が必ず来ます。ある国家の主義だけを中心とし、全体を引き寄せて統合しようとするその主義を打つ時が必ず来るのです。これが鉄則です。


神様はサタンさえも容認されます。それなら、神様がサタンを打たずに容認される理由は何でしょうか。また、サタンの請願を聞き入れ、サタンの訴えの条件を受け入れる理由は何でしょうか。それは、サタンが神様の意志に反対して従わないにもかかわらず、神様を嫌ってはいないからです。神様の意志に従わないけれども、心の中では神様を尊敬し、好意を抱いているからです。


サタンが神様に向かって「神様よ!私の手中にあるこの世界をあなたに差し上げます。ですからアダムを脇に置き、アダムの座に私を立たせてください。そうしてくださるならば、私は人間以上に神様をお仕えします。」と懇願しているのです。サタンが神様に、自分をそのような立場に立たせてくださるならば、人間以上に神様をお仕えすると言っているのです。神様はこのような困難な立場におられます。


それならば、天が多くの預言者と先祖たちを送り、イエスを送って成し遂げようとしたことは何だったのでしょうか。それは、サタンが知っている以上に神様の事情を知り、サタンが神様に対する以上に神様を思うことができる者を立てて、サタンに対する所有権を行使することです。このことを完成することが再臨の歴史の目的です。


それでは、サタンがサタンになった動機はどこにあるのでしょうか。天倫を破綻させた動機はどこにあるのでしょうか。それは、アダムとエバよりも神様の愛を受けたいという願いからでした。神様がアダムとエバを愛する以上にアダムとエバを愛し、アダムとエバが神様を愛する以上に神様を愛していたならば、堕落しなかったでしょう。ここに条件があったのです。悪とは何か。それは、自分よりも他者を思いやることができず、善を奉仕できなかったことです。今日、堕落した人間はこの条件にすべて関わっています。


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それでは、善の国とはどのような国でしょうか。神様が所有できる国とはどのような国でしょうか。また、神様に所有されることができる人とはどのような人でしょうか。神様に所有されることができる万物とは何でしょうか。その結論は何でしょうか。自分を中心としたものは、どのようなものでも神様が所有されることはありません。神様を中心とした立場に立つ存在、神様に吸収されることができる存在です。そのような存在を神様は所有することができるのです。


サタン世界の法則は、自分を思いやる法則です。したがって、サタン世界の人々は家庭、社会、国家、世界、天と地のすべての存在が、自分個人のために存在しなければならないという考えを持っています。これが善なる神様の法則と異なる点です。それなら、善なる人とはどのような人でしょうか。自分が所有するすべてのもの、観念までも他者のものであると感じ、他者のために、あるいは全体のものであると感じ、全体のために使うことができる人です。


このようにして、人間世界でどのような堕落の現象が生じたかというと、万物と世界と神様までも自分を中心とした生活の中に引き入れようとする現象が生じました。これがまさにサタンの歴史によって生じた堕落の現象です。


それならば、善の歴史とは何でしょうか。それは自分の個人から革命を起こし、神様を思いやり、世界を思いやり、他者を思いやるために新しい方向の道を開拓していく歴史です。これがまさに宗教の目的でもあります。


それゆえ、キリスト教の歴史を振り返ってみると、どの時代、どの世紀を問わず、神様の使命を持ち、神様の意志に従っていた人々の中には、自分を思いやって生きた人は一人もいなかったのです。今日までサタン世界で自分を中心にし、自分を思いやるようにしていた英雄たちは、すべて消え去ってしまいました。そのような人々は、歴史が進むにつれてすべて批判されるのです。


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イエス様がこの地上に来られた目的は何だったのでしょうか。それは、神様が所有できる国、神様が所有できる人、神様が所有できる万物を回復するためでした。また、彼が主張した主義とは何だったのでしょうか。イエス様の主義は「自分を犠牲にして民族と世界と宇宙のために奉仕しよう」という主義でした。宇宙のために多く奉仕し、多く犠牲にした人は、その宇宙の主人公となるのです。


今日、悪の世界でもそのような人々を多く見ることができます。無言で忠誠を尽くし、無言で奉仕する者たちは、どのような国家やどのような社会やどのような場所に行っても主人公となるという事実を私たちは知ることができるのです。


今、神様が私たち個人や家庭、社会、国家、世界、そして全宇宙を所有できる権限を取り戻す責任が私たちにあることを感じなければなりません。このような所有権は神様自身が築くのではなく、人間が築いて解決しなければなりません。このような重大な義務が残っているため、歴史的な摂理を代表してきた多くの聖賢たちは、この義務を果たすために、首を切られ、死に至る道を歩まざるを得なかったのです。


イエス様は30年余りをヨセフの家で働きながら、自分が神様の子であると主張することができませんでした。私は天の全権大使のような存在だと主張することができなかったのです。それは、神様も長い歴史を通してそのような主張を一度もできなかったことを知っていたイエス様だからです。それゆえ、ゲッセマネの園で十字架を前にして最後の祈りをする場面でも、自分の意志を中心に「父よ!成し遂げてください。」という祈りをすることができず、「父よ!私の意志ではなく、父の意志のままにしてください。」と祈られたのです。


イエス様は救世主として地上に対する使命感と責任感が強ければ強いほど、大きければ大きいほど、自分自身に対する存在意識と所有観念が強いでしょうが、自分自身のためだけに生きてはならないことを非常によく理解されていました。そして、イエス様はどこまでも自分は神様のものであり、神様に所有されるべきであることを知っていました。神様の心情を感じ取ることができ、神様の意志を探し求めることができました。だからこそ、神様の心情を自分の心情で代わりにし、神様の意志を自分の意志で代わりにできる立場に立つことができました。そして、被造物の前に天の意志に従い、天の心情に従うべき人間の前に救世主としての資格を持つことができたのです。


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それならば、天国の民とはどのような人々でしょうか。それは、自分を持って万民の前で奉仕の旗を掲げて進む者たちです。それゆえ、今日、私たちはどの民族を救うためにも、自分が所有しているすべてをその民族のために分かち与えなければなりません。それでも足りなければ、自分の命までも捧げる覚悟を持たなければなりません。そのような者たちこそが天国の民です。そのような民を集めて天国の理念を成し遂げなければならないという神様の事情があることを皆さんは考えなければなりません。


それでは、イエス様が地上で所有的な価値を決定しようとされる事実があることを知ったならば、皆さんは自分自身を中心に考えてみなければなりません。イエス様は「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配するな」(マタイ6:31)とおっしゃいました。これは、その時代の人々にとっては矛盾した警告の言葉でした。


それなら、なぜこのような言葉をおっしゃったのでしょうか。それは、6000年間食べず、飲まず、着ずにでも回復しなければならない天的な所有の理念が残っていたからです。神様はどれほど飢え、哀れな民族がいたとしても、その民族以上に哀れな立場におられ、どれほど不当な民族がいたとしても、その民族以上に不当な立場に置かれています。


それにもかかわらず、神様は私たち以上に私たち自身を心配しておられるのです。しかし、これを知るべき人々が知らずに自分個人を中心に心配しているのを見ると、イエス様はそのような言葉をおっしゃったのです。したがって、今日、イエス様のその言葉通りにその国とその義を求めようとする者がいるならば、彼は自分の飢えをかけて「この地上で私のように飢え苦しんでいる善良な者たちはどれほど多いのでしょうか?」と心配しながら天に訴えるべきです。善良な立場にいない自分が飢え苦しむのは当然ですが、善の立場にいる者たちが飢え苦しんではならないのです。そのような者たちのために心配しなければなりません。このような運命が私たちに課されていることを知るべきです。


それゆえ、イエス様は着ることも食べることもできない立場にあったとしても、神様が所有できるその国とその民を作るために尽力してくださることを願っておっしゃったのです。


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それなら、神様がいらっしゃるならば、どのような者を選ばれるのでしょうか。また、どのような者を選んで自分の子供とされるのでしょうか。自分の飢えを越えて自分の困難を越えて、手を挙げて他者を祝福することのできるその一人を見つけられるでしょう。そして、自分の怒りや悲しみを超えて神様の怒りや悲しみを心配し、泣くことのできる人を探されるでしょう。


それゆえ、イエス様はご自分の運命が一刻を争う十字架の上でも、敵を見つめて「天よ!永遠の天よ!彼らに永遠の天罰を下してください。」とは言われず、むしろ手を挙げて彼らに対して祝福を祈られました。このようなイエス様の心情が天国民の心情であり、すなわち神様の心情であることを皆さんは知らなければなりません。


それでは、このような原則に基づいて、今日、私たちの信仰生活と神様を信じているというキリスト教を見てみると、天国に残されることのできる民は何人いるでしょうか。さらに、神様の所有だと永遠に主張できる民族はどこにあり、神様の国だと主張できる土地はどこにあり、そのような物、そしてそのような人はどこにいるのでしょうか。これを皆さんが知るべきです。


皆さんは皆、天国に行きたいと願っています。それだけでなく、今日、何人かの人々が「天国は私のものだ」と自信を持って主張するのを見ることがあります。そのような人々を見ると、どうして彼らは神様以上に所有的な面について堂々と語ることができるのかと思います。神様ご自身でさえ、まだ天国は自分のものだと主張できる立場に立っていないのに…。イエス様も今なお天を向いて祈る立場におられます。また、神様も今なお苦労されています。


霊界にいる何千億の霊たちが地上のために協力しているのも、解放の場、栄光の場で楽しんでいる生活をしていないのは何故でしょうか。どうしてそのような立場に立たなければならないのでしょうか。それは、神様が創世以来今日まで天国を作り上げて「これは私のものだ」と主張できる立場に立っていないからです。神様がそのような立場におられるにもかかわらず、今日、地上の信徒たちの中には何人かが天倫の原則と背反する立場に立ってそのような言葉を発しています。


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天に向かって進めば進むほど、天の恨みを解けば解くほど、借りている自分自身を深く感じます。神様は6000年間この地に対してその国とその民を探し求めてこられました。そうして探し求めてこられ、苦労された歴史的な借りが6000年間積み重なっています。したがって、自分自身が満足と喜びを感じたからといって天国を所有したとは言えません。


ですから、自分が天の子供であるならば、神様に代わって心配し、神様に代わって守るべき責任が残っている土地があり、世界があり、すなわちそれらが神様が所有できるものとなっていない限り、自信を持てない自分ということを感じるべきです。


それゆえ、イエス様は天の王子として主導的な行動をする心的基準を持ってこの地に来られましたが、それを一度も行使することができませんでした。行く先々で弟子の足を洗い、病人を癒されました。このようにして、イエス様の生涯は自分のために生活した日が一日もありませんでした。


彼の生涯を振り返ると、ただひたすら他者のために生活していました。他者のために苦しみ、他者のために涙を流し、他者のために辱めを受け、他者のために裂かれ、他者のために殺される悲しみの生活でした。


イエス様のこのような悲しみを解放できない神様なら、そのような神様は必要ないということです。それゆえ、ある日、神様をこの悲しみの鎖から解放して差し上げることによって、神様が全天と地が私のものであると主張し、手を挙げて万民に「皆一緒に楽しもう!」と言えるその日が訪れる前に、自分自身の立場を主張することはできないという事実を私たちは知らなければなりません。そして、このような曲折があったために、キリスト教の真理は愛を強調し、犠牲と奉仕を強調し、迫害と軽蔑される生活を強調したのです。


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それでは、私たちが神様の所有となるためにはどうすればよいのでしょうか。神様のために多くの涙を流すことができるようになるべきです。神様の悲しみを代わって悲しもうとする心を持つほど、神様の所有となるでしょう。そして、神様の苦労を代わって背負ったほど、神様の所有となり、神様に代わってサタンの非難を受けたほど、神様の所有となることができるのです。


それゆえ、皆さんが行った分だけ忠誠を尽くした分だけ神様の所有となるのであり、それは人々が嫌がって退けた悲しみや苦しみを抱え、忠誠を尽くした時に成し遂げられるのです。この道がキリスト教徒が歩むべき原則の道です。


韓国のキリスト教に火を灯したのは、まさに初期のキリスト教徒たちがこのような道程を歩んだからです。もし「私たちは天国の民なのに、なぜ死ぬの?」と言って否定する者たちが現れていたら、神様の摂理の意志は韓国に伝わることはなかったでしょう。


また、イエス・キリストご自身が「私は神様の子供なのに、なぜ死ぬのか、なぜ辱められ、軽蔑されなければならないのか?」と言って否定していたら、今日皆さんが信じることができる救いの道は人類史上に現れることはなかったでしょう。


どの国でも、その国民を指導する方法として愛国者を取り上げて忠誠を教えたのは何故でしょうか。それは自分の家庭を捨て、自分の欲望や名誉を捨てて、一国の意志を代行したからです。彼らはその国が受ける苦しみを代わりに引き受け、その悲しみを代わりに引き受け、自らが先に悲しみ、その国の主人に代わってすべてを責任を持とうとした人々であったことを知らなければなりません。また、これが天の法を守る姿勢であることを皆さんは知らなければなりません。


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今日、混乱したこの世の中では、多くの人々が自分自身を誇り、自分の主張を立てようとし、自分が持っている権限を示そうとしています。真のクリスチャンを見つけることは難しく、真の神様の子供、神様が所有できる真の民を見つけるのはさらに難しいです。


今、私たちは友を迎えなければなりません。一つの天国民となり、一つの教団を作り、一つの民族を編成しなければなりません。


しかし、神様から所有の決定を受けたその一つの信徒は、韓国のどこにいるのでしょうか。その一つの教団は韓国のどこにあり、その一つの民族は世界のどこにあるのでしょうか。私たちは、私にあるすべての力を使い果たすまで叫び、倒れるまで探さなければならない時が来ていることを知るべきです。


それゆえ、今日、皆さんは自分を飾る前に、この三千万人の民族を飾ろうという心、自分を考える前に、この地上のすべての人々を考えようという心が湧き上がらなければなりません。さらに、草一本でも抱きしめて泣いてあげられる心が、自分でも知らないうちに心の中で爆発するようでなければなりません。このような心情を持たずしては、完全な神様の子供にはなれません。


なぜなら、そのような人間は神様の涙の結実であり、神様の苦しみの結実であり、また神様の血の祭壇に捧げられる犠牲なのです。それにもかかわらず、これを考えずに図々しく自分を主張しているのです。万物も同じことです。


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それでは、この民族の進むべき道を開拓する者は誰でしょうか。本当にこの民族のために地を叩き、胸を打ち、嘆く者が現れるべきです。そして、この分裂した教団を誰が正すのでしょうか。教団を支えるために燃え上がる情熱を持った青年男女たちが、偽善者たちと対決するために地を叩いて叫び、血を流す決死戦を覚悟して立ち上がるべきです。


それでは、この世界を救う者は誰でしょうか。それは皆さんの青年男女たちです。これを皆さんはもう一度考え直さなければなりません。


今日、西洋の物質文明は大いに発展しました。これは大陸エジプトを出発点として、アッシリア文明、バビロニア文明を経て、ギリシャ文明を経て、ローマ文明を経て、今日まで西洋文明を形成してきたのです。


宗教史を調べてみると、イエス様の時代にはすでに3000年以上の文明を誇っていたエジプトは何を中心にそのような文明を築いたのでしょうか。エジプト人は太陽神を崇拝し、オシリス(Osiris)という神を信じていました。このような信仰と思想によって彼らの精神を武装し、団結した力を発揮してそのような強大な国家と文明を築いたのです。彼らはこれを政策的な理念として儀式を強化し、その理想的な標準を目指して民族を導き、エジプト文明を誕生させたのです。


このようにして、国として主張できるものを築き、それによって支配する基準を持つようになりました。この時、彼らが自分の民族を超えて異邦の国々に良い点があるならば、その良い点は吸収しなければなりませんでした。自国のどのようなものでも犠牲にしてでも交換して受け入れたならば、その国は滅びなかったでしょう。


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しかし、その国は滅びましたが、その文明は歴史を通じて発展してきました。オリエント地方ではアッシリア文明とバビロン文明が興りましたが、パレスチナ地方ではユダヤ教を中心としてヘブライ思想が形成され、神を中心とした文明が発展してきました。


ギリシャ地方では外的な神の理念を中心としたギリシャ文明が発展し、やがて芸術を崇拝するさまざまな思想と内的に調和しました。これが知識の王国ギリシャを経て、ギリシャ人が創設した独特な宗教的理念となりました。


このようにして、世界的な文明圏を形成しましたが、混乱した思想圏の時期を経てキリスト教思想と融合し、その後ローマに渡りキリスト教文明を築いたのです。中世にはキリスト教はこの宗教の理念を中心にして、その理念の下にある人々は上下を問わず吸収して融合させるべきでした。しかし、この目的を達成することができず、世俗的に堕落したために神様はそれを打たざるを得ませんでした。


もしローマ教皇庁が腐敗せず、自分たちが存在するのは世界のためであり、自分たちが存在するのは人類のためであるという使命感を持って、自分たちが良ければ自分たちが良い前に他者が良いことができるように、すなわち自分よりも他者のために生きる思想を提唱していたならば、教皇庁は崩壊しなかったでしょう。


しかし、ローマ教皇庁がそれを成し遂げることができなかったため、それをそのままにしておくことができずに神様は外的にはルネサンスを起こしてそれを打ち、内的には宗教改革を起こして旧教を打たれました。そうしてその後、ピューリタンを中心にアメリカ大陸に渡り、そこでキリスト教理念を中心とした国家を築くようになったのです。つまり、ローマの政治理念、キリスト教の宗教理念、ギリシャの知性主義が融合して今日の全民主主義を支配する汎米主義(汎米主義)を成したのです。


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しかし、今やアメリカが今日の民主主義を統合して天倫と連なるその時まで、国家的な使命を代行し、所有的な権限を代行する責任を果たすには、どのような思想を持たなければならないのでしょうか。まず自己中心主義思想を捨てなければなりません。これがアメリカ国民にとって何よりも重要なことです。


ですから、アメリカが持っていた経済、文化、科学、宗教、政治体制、これらすべてが自国民のためにあると主張するならば、それは正しいです。そのためにルネサンス運動が起こり、覚醒を促しました。今日では共産主義が登場して覚醒を促しています。今や思想的にも宗教的にも攻撃が始まるでしょう。このような時、私たちは先覚者の心を持って天の動きを知るべきです。このアメリカに警鐘を鳴らすことのできる宗教理念はどこから出るのでしょうか。志のある者たちは考えなければなりません。


これは絶対者の所有権を取り戻せなかったために、打ったり慰めたりしてでもその地位まで引っ張り上げるために起こる歴史的発展の過程的な現象であるということです。それでは、ルネサンス運動とは何でしょうか。それはヘレニズムの復古運動、すなわちギリシャ精神に基づき人間本性を回復し、自我意識を強調する運動でした。同じように、今日アメリカを中心とする民主主義圏内のすべてのキリスト教は初代キリスト教精神に戻らなければなりません。表面的な言葉だけを信じるのではなく、言葉の中に含まれている思想を見つけ、それを中心に再武装する運動が起こらなければなりません。もしそれができなければ、現代のキリスト教は中世の旧教と同じ立場に立ってしまいます。なぜなら、それは神様の言葉が要求されるのではなく、神様の人々が要求され、神様の民族、神様の国が要求されているからです。言葉はそれを成し遂げるために出されたものです。


今や言葉絶対時代を過ぎて、実体絶対時代を築かなければならない時が来ています。それゆえ、言葉を超えた時代を経て、実体を超えた時代の歴史的終末時代が訪れるということです。そして、この時代が審判の時代です。


これを考えると、歴史は今日私たちに警鐘を鳴らしています。過去の預言者たちが歩んだ道は私たちの生活を動かしており、彼らの精神は私たちの思想を背後から操っています。それゆえ、ここから逸脱する者たちは天法によって大手術を受けなければならない時が必ず来るでしょう。


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それでは、神様が地を探し求め、地の人を探して天のものにされた後にはどうなるのでしょうか。神様の命を自分のものとして誇ることのできる日を迎えなければなりません。神様の理念と愛を万宇宙と人類の前で誇ることのできる日を迎えなければなりません。


それならば、今日皆さんの中に神様の命を誇った人がいますか?いるならば出てきてください。また、栄光の天国を成し遂げるために命まで捧げようとした人がいますか?いるならば出てきてください。そして、神様の真の子供となるために、この地に天国を築こうと立ち上がった人がいますか?


多くの人々が復帰の過程でサタンの非難を受ける権内で天国の味を見たかもしれませんが、サタンを取り除いた中で本当に永遠の平和の祖国、天国の味を味わった人はいません。本当の天国の味を感じ、神様の愛を感じた人は、サタンと戦わなければならないという刺激を受けます。そして、本当の天国の味を感じ、神様の愛を一度でも受けると、神様から二度と離れることはありません。このようにして、神様の愛を感じた人がこの地に現れなければなりません。


それでは、神様の所有が決定される限界はどこまででしょうか。それは一草から、一坪の土地から、一人の人から、最終的には天国に至るまで、さらには神様の心情世界に至るまでです。


しかし、その所有の形態は相対的であってはならず、観念的であってはならず、主体的であり、主観的でなければなりません。そのような世界が築かれて初めて、神様の安息が成し遂げられるのです。


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神様が喜ばれるものを人間が喜ばないわけにはいきません。そのため、神様は第七日を安息の日として定め、休むようにおっしゃいました。しかし、6000年の歴史が過ぎた今日まで、安息の日を誇り、休むことができなかった神様であることを、皆さんは知っていましたか?知っていましたか?


イエス様も福音の言葉を強調し、安息日の重要性を強調し、2000年の摂理の歴史の曲折の中で戦いの歴史を持ってきましたが、勝利の栄光の一日を迎え、父に誇り、万民と共に安息しようとおっしゃった時がありましたか?ありませんでした。このようにして、神様とイエス様が安息できない立場におられるので、私たちも安息できないのです。


それゆえ、安息が訪れる前に戦争があり、安息が訪れる前に苦しみがあり、安息が訪れる前に死があるのです。これを覚悟して乗り越えた時に初めて、私たちは安息の味を見ることができるでしょう。イエス様も十字架の後に安息の一面を感じられたのは、そのような道を歩んだ後でした。


それでは、今私たちは何を所有しなければならないのでしょうか。安息の園、幸福の園、善の園、愛の園、理想の園を所有しなければなりません。しかし、これを所有する前に、私たちはまずサタンに打たれ、天にも打たれなければなりません。イエス様もサタンと天に打たれました。ユダヤ教のファリサイ派がイエス様を追い出し、同時にローマ人も追い出しました。


次に、イエス様が十字架にかかられる時、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」(マタイ27:46)と切実に祈られたことを見て、神様も見捨てられたのです。それゆえ、天国を所有する者、天国に所有されることのできる者は、神様を探し求める道程で神様のために最も哀れな立場に置かれる者です。世界の人類の中で神様を所有することができる民族とはどのような民族でしょうか。それは最も哀れな民族です。そのような民族であればあるほど神様に近いのです。


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それゆえ、終わりの日には大患難が来ます。これは何でしょうか。自分を中心に所有しようとする心が強い者、自分を中心に安楽を求めて行動する者は打ち負かされるでしょう。これが大患難です。それでも人々をこのような状況に置いて覚醒させ、最終的な審判を通過させようとされる父を思う時、私たちは父に感謝しなければなりません。


もしこのようなことがなかったとすれば、真のために生き、真のために死のうとする者たちは哀れになるでしょう。したがって、死の墓から残されるその者たちが安息の園の主人公となることを、私たちは知るべきです。そのように考えると、聖書66巻の中で何もかもを捨ててでもイエス様が死に際して証ししたその真理を握りしめて実践した者は、イエス様の所有となるでしょうし、神様の所有となるでしょう。


ですから、過去の自分を中心にして、私が何の責任者であったとか、私がどんなことをしたのに私を認めてくれないとか言って不平を言う者がいるならば、荷物をまとめて出て行くべきです。そのような者は、結局ある時に清算されることになるのです。


それでは、皆さんが正義に燃える心、新しい理想の園を築こうとする熱望を持っているならば、皆さんの一挙一動は神様の所有の意志を成し遂げるためのものであり、神様の所有の権限を成就するためのものでなければなりません。したがって、今、皆さんは自分を越えて世界を代表して戦わなければなりません。皆さんの手や足、皆さんの体がそのように動かなければなりません。


今日、神様の再創造の理念を成就しなければならない天宙時代です。このような時、新しい安息の園を築くための天の勇士となるためには、まずサタンが干渉できるすべての要素を排除しなければなりません。そして、天国にあるすべてを持ち帰り、神様をお迎えして慰めて差し上げなければなりません。そのためには、皆さんは天のために歩んできたイエス様以上に、6000年の間、意志のために歩んだどのような人以上に難しい道を堂々と歩んでいける心情を持たなければなりません。


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神様の世界を所有する前に、神様の理念を所有する前に、神様の苦痛と悲しみを所有し、神様が歩まれた逆境まで所有しなければなりません。そのような者たちは天国も地獄も支配することができます。地獄も支配するのです。


それでは、イエス様はどうして地獄を支配することができたのでしょうか。もし善なる面だけで神様の意志を責任を持ち、善なる面だけで神様のために死んだとすれば、天国は支配することができるでしょうが、地獄は支配することができません。それゆえ、イエス様は悪しき場においても自らの節操を守り、天的な基準を立てられたので、地獄までも支配する基準に立つことができたのです。


今、皆さんは地獄の苦しみを踏み越えて、サタンに対して堂々と勝利することのできる資格を持たなければなりません。そのためには、皆さんは神様の善を証しすることができ、神様の義を心配し、神様の全体的な意志を堂々と示すことができなければなりません。


そうして初めて、天の祝福を受けることができ、その時になって私たちクリスチャンは天の前に立つことができます。それゆえ、私たちは最終の審判の舞台まで、最終の決定点まで走り続けなければなりません。したがって、今、皆さんはそこに向かって個人として、民族として、世界として駆け抜けていかなければなりません。しかし、それを越えさせるために、個人を越えて民族、世界が全て攻撃を受けることになるのです。


そこで同じ理念を持って感謝しながら越えていく者たちが、新しい天国の民となり、新しい家庭、新しい社会、新しい国家を形成して天国を築くことを、皆さんは知らなければなりません。


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ですから、自分を思いやり、泣く者は哀れな者となります。それゆえ、私たち統一教会の信徒には断食もさせてみました。それは何故か?自分を中心にして苦しむその場所から離れるためです。それゆえ、断食もさせ、試練も経験させます。その場所を避ければ、打たれるのです。「ありがとうございます。」と言いながら越えていかなければなりません。


神様はサタンも神様の仕事をしたという基準に立たせるために、6000年間耐えてこられました。皆さんが悪を中心に動いていたすべての人々を善に屈服させるその日が最終審判の日です。そのような立場に立って神様に誇れる者が最終審判を越え、神様の所有となるのです。


今日、人々は神様は自己中心的だと言いますが、それは誤った言葉です。イエス様が「私は父の中にあり、父は私の中にいる。」とおっしゃいましたが、これはありがたいお言葉です。皆さんもそのような感じを感じなければなりません。そのようになれば、皆さんは失われたと思っていた世界が、万宇宙がさらに素晴らしく神様と共に皆さんの前にあるということを知ることができるでしょう。


「私があなたの中にあり、あなたが私の中にいる。」という言葉は空言ではありません。それでなければ、神様のものであり、私のものであり、神様であり、私であるということにはならないのです。そのようになれば誇るべきではありませんか。だからこそ、神様は私がいなければ成り立たないのです。何故か?神様は人間のために万物を創造されましたが、人間に与えられた万物を再び神様にお返しする焦点の対象として人間を立てられたので、人間なしには神様はどうすることもできないのです。


それゆえ、世界を見ればすべてが回っている道理です。力の作用が直線的に伸びると永遠に消耗されてしまいます。神様が被造世界を創造された最初の目的はどこにあるのでしょうか。それは直線的に進む力を回すためでした。したがって、世の中の理は回る理であり、同時に動く理です。


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皆さんが化学を学ぼうとするならば、物質を研究し、分析し、運動し、作用するすべての現象を観察することになりますが、その理を逸脱した存在はないことがわかります。そのすべてが360度回っているのです。宇宙も回り、社会も回り、私の心も回っています。


宇宙の中心である神様の心情を中心に回ることのできる者は、神様が回るなら彼も回るでしょう。神様が回る限り、この宇宙も回るでしょう。神様が回るなら、私たちが回り、万物が回るようになるでしょう。


そのような立場に立って初めて、神様の心情が私たちの心情と化すことを感じるでしょうし、神様の心情を感じ取ることができるでしょう。それで、パウロも自分の身体の内にいるのか、身体の外にいるのか分からない境地を強く感じただけでなく、三層天(三層天)や無形実存体の存在価値を感じることができたのです。そこで信仰者の力が発生するのです。


イエス様もそのような境地で主張することのできるその一時を望み、今まで耐えてこられました。キリスト教信徒たちもその一時を望み、今まで耐えてきました。それでは、皆さんは訪れるその一時を迎えることのできる心的基準ができているのでしょうか。そうするためには、皆さん自身がまず神様のものでなければなりません。私の主観も神様のものであり、私の命も神様のものでなければなりません。さらに、家庭も社会も、私たちが持っているすべてが神様のものであり、すべて父のものでなければなりません。


しかし、神様が受け取られるとしても、サタンが支配して汚されたものは受け取ることはできません。サタンの要素(罪悪)があってはならないのです。それを一度打って罪悪の要素を取り除いた後で受け取られるのです。このような神様の悲しみがこもった復帰歴史なのです。


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それゆえ、供え物を捧げる時には、剣を取って切り裂かなければならないということです。皆さんにもそのような時があるのです。それゆえ、終わりの日には分かれる歴史が起こります。分かれて戦争が起こるでしょう。韓国は南北に分かれています。世界に韓国と似たような国家が6カ国以上現れるはずです。この理を逸脱しては動けません。


皆さんがこのことを理解して、自分の命を父に捧げると言っても、神様がすぐに受け取られることはありません。そのまま受け取れば、サタンの無限の非難にかかってしまうため、神様は鞭を振るって打たれ、それでようやく受け取られるのです。そうしてこそ、サタンは非難できないのです。


したがって、神様が選ばれたノアもそうでしたし、アブラハムもそうでしたし、モーセも、イエス様もそうでした。それゆえ、今日、私たちもそうしなければならないのです。もしその道を避けて逃げようとする者がいるならば、それは正規の門を通って入ろうとする者ではありません。正門ではなく、塀を乗り越えて入ろうとする盗賊や強盗と同じ者だということです。


それでは、盗賊や強盗とはどのような者でしょうか。他者のものを自分のものとして行使し、利用しようとする者が盗賊であり、強盗なのです。このことを理解して復帰の難関を越えなければなりません。このように考えると、皆さんが「私の命を父に捧げます」といくら祈っても、「よし、あなたの命が本当に欲しかった」と受け取ることはできない父の悲しみの事情を理解しなければなりません。そのような事情を理解する前に、私たちがすべてを父の前に捧げても、絶対に受け取っていただけないのです。


このような事情を人々に伝え、また解かなければならなかったイエス様がそうせずに行かれたために、再臨という悲しい事実が残されたことを皆さんは知るべきです。


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それでは、今日、終わりの日に立たされている私たちはどうすればよいのでしょうか。そのような「父の悲しい事情、曲折したその心情を私たちに教えてください」と懇願しなければならないでしょう。さらに、自分のすべてを捧げてでも十回で贖罪を受けるべきことを一回で受けることができる道があるならば、その道を探し求めて進まなければなりません。これが終わりの日にキリスト教信徒が歩むべき道です。したがって、そのような場を探し出して越えて行かなければならない、すなわち患難の道をまず越え、勝利しなければならない世界的な運命の道に立たされている私たちです。


終わりの日には大審判、7年の大患難が来ると予言されています。ここで打たれることを恐れ、避ける者は天国に行くのは難しいでしょう。しかし、そのような時を楽しみながら「どうか来てください。一時間で打ち破られ、打ち破られ、私の命が尽きるとしても、7年の大患難を越えさせてください」と言える子供たちが現れることを神様は望んでおられることを、皆さんは知るべきです。


このような者となれば、6000年の歴史の所有は問題ありませんし、天国と神様の心情までも所有することができます。したがって、私たちがいつでも申し上げ、要求すれば、神様が応えてくださるこのような所有的存在、すなわち神様の絶対代理者としての価値的存在として立つことができるということを皆さんは知るべきです。


そのようになれば、ようやく父は私たちを誇り、私たちは苦労された父に対して謹んで拝礼し、慰めて差し上げることのできる一日が訪れることを皆さんは知るべきです。