人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集5(7)

2024年08月25日 17時06分34秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 7. 「おお!私はどこに行くべきか」 (1959年1月18日)

1959年1月18日(日)、前本部教会。

聖書拝読:マタイ7:7-8




<祈祷(I)>

一週間の間に受けた傷と傷ついた心を持って、再びお父様の前に参りました。憐れみ深いお父様!この一時間、愛の御手を伸ばし、私たちの体と心を包み込み、私たちの心の上に、お父様の愛と教えを注いでくださるよう、切にお願い申し上げます。


お父様、この日は新年に入って三度目の聖なる日です。どうか、私たちの心がお父様の心の中に留まることを許し、私たちの体がお父様の懐に抱かれることを許してください。この一年、私たちが父と共に喜びを分かち合うことを許し、お父様の希望の領域の中で生きることを許し、父に代わってサタンと戦うことができるようにしてくださるよう、愛するお父様、切に願い求めます。


善の理念と善の愛と善の生命と善の栄光を持ち、私たちを探しに来てくださったお父様の歴史的歩みを知るとき、私たちはお父様の前に顔向けできない民であることを認めざるを得ません。しかし、お父様の善なるその心を変えずに、私たちを再び見つけて教え導いてくださるよう、お父様、切に願い求めます。


命と死が今日、私たちの命を天秤にかけて見ているこの一時間であることを認識させてください。私たちの体と心をお父様の前に捧げる生ける捧げ物であるべきことを理解しました。そして、これまでの生活と今日という一日の生活も、聖別されるべき一時間であることを認識しています。どうか、体と心のすべてをお父様の前に捧げ、再びお父様の認めを受けることができるこの時間としてください。お父様、切に願い求めます。


私たちは、お父様が大きな期待を持って接してくださるときに、失望させてしまう不完全な者たちです。しかし、あなたとの歴史的な縁と血統的な縁を持つ私たちであることを見て受け入れてくださり、この一時間、親しく私たちを訪ねてくださるよう願い求めます。


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不完全な体と心が一つとなり、サタンと対峙するためにお父様の前に伏しているのです。私たちの訴えと捧げる礼拝が、お父様の前に喜びとなりますように。お父様が私たちを責任を持って扱ってくださらなければ、私たちはサタンの懐に引きずり込まれてしまうことを知っています。お父様、この時間、親しく私たちを導いてくださるよう切に願い求めます。


ここに集まったあなたの息子娘たちを親しく教え導いてください。この一日、天のために戦う責任を私たちが負わなければならないことを知っています。お父様、愛する幼い息子娘たちがお父様の前に集い過ごしているこの期間を通じて、天の心情を感じ取らせてください。この機会にお父様の御心を成し遂げるために歩んだ人々の足跡を知ることを許し、さらに、お父様の息子娘が戦って進んでいたその戦いの道を知ることができるようにしてください。天の御業を知ることができ、天が永遠に手放すことのない息子娘たちとなるようにしてくださることを、お父様、心から願い求めます。


彼らには、世界中に散らばっている多くの兄弟姉妹を見つけなければならない責任があります。隠された祭壇を築き、天の前に切に祈りながら、血に染まった祭壇を築いている、踏みにじられているあなたの息子娘が多くいることを知っています。どうか彼らを慰めてください。お父様が彼らを集められたのは、天の使命を与えるためであることを知っています。どうか彼らをサタンの世界から永遠に区別し、お父様が永遠に抱きしめてくださるように願い求めます。そして、お父様の栄光の祭壇を担うことのできる祭司たちとして、その責任を全うする完全な姿を備えることができるように許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


お父様、今日、恩恵に報いる術がない私たちであり、何も捧げることができない私たちです。憐れみ深いお父様、孤独な者の友となってくださるお父様、罪人を許してくださるお父様、そのような私たちをお許しくださり、この一時間、見捨てずにいてくださるよう切に願い求めます。


私たちの心を知るお父様、ときに孤独な場所に置かれ、天に対する思いで苦しむ息子娘がいることを知っておられるでしょう。どうか彼らを見て、全体を憐れんでください。彼らはこの一時間、お父様の許しとお父様の慰めを求めているでしょう。どうか彼らに恵みをさらに与えてください。憐れみの御手を差し伸べてくださるよう切に願い求めます。


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お父様、この時間、多くの眠れる人類を祝福してくださり、苦難の中にある三千万民族を祝福してくださり、道を失い、行くべき道を知らずに分裂して戦っている韓国の教団を祝福してくださるよう願い求めます。彼らに生命の旗を掲げさせ、鞭を打ってでもお父様の戒めを受けることができる息子娘たちにしてください。


私たちには、進んでも犠牲にならなければならない責任が残されています。人間的な考えでこの犠牲の生活を望まないことが多い私たちですが、それでもこの責任を与えてくださるお父様の心情を理解できるよう導いてください。すべての条件を乗り越えて、今日も、明日も、十年後も、死の谷に至るまで進み続ける責任があることを知り、どうかその一つの道を最後まで歩むことができるよう、疲れず、失望せず、ためらわないように許してください。お父様、切に願い求めます。


今日、私たちのこの礼拝を親しく受け入れてくださり、この時間にも地方の孤独な信徒たちが牧者を送り出して、ひざまずいて切に祈っていることを知っています。どうか彼らの涙に満ちた祈りを踏みにじる者とならないように導いてください。彼らの真実を踏みにじる者とならないよう導いてくださることを、お父様、切に願い求めます。


私たちの心と心が通じ、心情と心情が通じる者たちとなることを許してください。父を中心としてすべてが通じ合い、思いを交わすことができる者たちとなることを切に願います。残りの時間を親しく導いてくださるように願い、主の御名によって祈ります。アーメン。






<祈祷(II)>


お父様、多くの人々が進むべき方向を知らないまま、あなたを求めるために非常に悲しい歴史的な道を歩んできたことを私たちはよく知っています。おられるようでおられないようなお父様の存在、歴史とともに生きておられるようでありながらも、確信を持って存在しているという認識を持つことができないお父様、私たちの心と共におられるようで、実体的な存在として定義することができない父を、私たちは非常に悲しい気持ちで見つめています。


     3


善の理念で全宇宙を創り、人間に真の良心を与え、知情意の感情を通じてその善の理念を体感することができる驚くべき祝福を下さったことを私たちはよく知っています。しかし、お父様の存在はある時点の時間的な限界でしか感じられないという事実を否定できないこともよく知っています。


今、私たちの心に入ってくるお父様の御姿を思い出すたびに、私たちは知らず知らずのうちに悲しみに囚われてしまいます。惨めな自分の姿を見て嘆かずにはいられません。このような境地に導いてくださる父、それは私たちの命を永遠の命へと導くための、お父様の歴史的な心情の働きであることを理解しています。


歴史の背後で、歴史を一つの実体的な理念として成し遂げるために、私たち人間が知らないうちにその心情と心を通じて見つけてくださった父を知りたいと願い、お父様の心を私たちの生活の理念と生命の理念として確立することを切に願い求めます。しかし、お父様の存在の価値を確かに知らないために、私たちの生活の価値も知らず、私たちの命の価値も知らないまま、今日も明日も苦しみ続けなければならない惨めな立場に置かれています。お父様、そのような私たちを憐れんでください。惨めな死の瀬戸際でさまよっている今日の私たち一人ひとりを憐れんでください。


今、お父様、愛の御手を伸ばさなければならない時が来たことを理解しています。その愛の波が私たちの周囲の環境と私たちの心情の世界にまで及ばなければならず、唯一主導的な権限を持っているそのお父様の心情の権限を私たちが回復しなければならない時であることを理解しています。心を中心にして戦わなければならない時が到来していることを知っています。どうか、閉じた心の扉を開く寛容な者となることを許してください。今、体を屈してお父様の前に礼拝を捧げる準備を整えた息子娘となる時が来ました。どうか、私たちの心の扉を叩くお父様の声を聞くことができるようにしてください。私たちの前に現れるお父様の御手を見ることができる私たちとなるよう、切に願い求めます。


残された恨みの土台、恨みの障壁を乗り越えて進まなければ、終末に至る決戦が残されていることを私たちは理解しています。お父様、これを理解し、お父様の存在を知っているあなたの息子娘に力と能力を与えてください。すべての苦難を乗り越えて戦うことができる堂々とした姿、天の正兵の姿を備えることを許してください。あなたの決断に従って、審判の権限を代行するにあたって堂々として自信のある息子娘となることを、愛するお父様、切に願い求めます。


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選ばれた者たちを祝福されたのもあなたであり、それを成就させるのもあなたであることを知っています。私たちの心の根本は善であり、また、善を通して動かされていることを知っています。善の目的も、歴史的な目的も、摂理的な目的も、父を中心にして一つとなることであることを知っています。従って、善の心情を通じて憧れる理念的な頂点が実を結ぶことを許し、その理念の本体となるために着実に進むことができる自分を立てるこの時間となることを、お父様、切に願い求めます。


今、私たちの心がどこを向いているのか、私たちの体がどこに向かって動いているのかを見つめさせてください。今、私たちの心が父を慕い、善を慕うために全精力を注ぐことができるようにしてください。私たちの体は善を掴むために苦しみながら切に求める手を差し伸べて、父を呼ぶことができるようにしてください。


父を掴み求め続けてきたのが6千年の歴史であることを知っています。お父様の前に率直な自分を立て、礼拝し、自分のすべての事情を打ち明けて、教えを受けることができるこの時間となることを、愛するお父様、切に願い求めます。


お父様、ここに集まった息子娘たちを憐れんでください。この時間はお父様の前に捧げ物を捧げる時間でした。どうか、この時間だけでも天も頭を下げ、千千万万の聖徒も頭を下げ、万人も頭を下げ、万物も頭を下げることができるように許してください。昔、イスラエルの民がお父様の前に捧げ物を捧げたとき、父も頭を下げて見守り、地上の万人、万物も頭を下げたことを知っています。今日のこの一時間、私たちも知らず知らずのうちに頭を下げて憐れみの恵みを求めることができるように許しください。お父様、親しく訪ねてくださり、受け入れてくださり、導いてくださることを切に願い求めます。


他の人が通らない道へと追い込むのも父であり、行きにくい道へと導くのも父であったのです。どうか、お父様がこの道を責任持ってくださるよう願い求めます。私たちは、どんな人間の心に動かされたのでもなく、どんな人間の事情に引かれて来たのでもなく、行きたくなくても行かざるを得ない心の力に引かれてここまで来ました。どうか、怠惰にならないように導いてください。


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あなたが急かす教えを知らない私たちです。その教えを理解し、その教えの方向に向かって進むように、時間ごとに力強く衝撃を与えてください。どうか、あなたに向かって進む過程で脱落する者がいないようにしてください。お父様、切に願い求めます。


今、自分のすべてをお父様の前に差し出すことを許してください。私たちのためにお父様の祭壇を汚すことがないように許しください。誠心を尽くしてお父様の前に捧げ物を捧げようと伏しているこの時間としてください。


自分の主義や認識、あるいは何らかの観念が残っているならば、この時間すべて取り除いてください。幼子の心で、すべてをお父様のものとして捧げ返し、地上のサタンに対して誇ることができる息子娘となることを許してください。お父様、切に願い求めます。


今、御言葉に接しようとしています。お父様、共にいてください。多くの教えをお与えくださることを知っています。どうか、聞いた後に天を悲しませることがないようにしてください。切に願い求めます。


今、語る者の心も受ける者の心も一つとなることを許してください。この時間だけでも幼子の心に戻り、母の懐に抱かれて乳を飲むような、そんな時間となることを切にお願いし、すべての御言葉を主の御名によって祈ります。アーメン。


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<御言葉>


今日、皆さんは神が存在するかどうかを確信できていません。しかし、皆さんは生きざるを得ない運命にあり、また、進まざるを得ない運命に置かれています。それにもかかわらず、常により良いものを求めて進んでいます。この動きは、今日も明日も、そして歴史が終わる日まで続くでしょう。また、皆さんやその子孫までもがこの道を進むでしょう。この事実を皆さんは否定できないはずです。


どうせ何かの目的に向かって進まなければならない私たちであれば、私たちはどこへ向かい、どう生き、どう行動し、善と悪についてどのような主張を持つべきか、よく考える必要があります。


皆さんがこうした複雑な問題を一つ一つ解決して明らかにしようとする気持ちが芽生えたとしても、この世の現実を見つめると、後退できる道があるならばその道を選びたいと強く思うことでしょう。目を開いて世の中を見ても、世界は皆さんが望む環境にはなっておらず、振り返って自分が生きている社会を見ても、その社会が自分の心が望む福祉社会にはなっていないと感じるでしょう。


今や、社会環境と時代が複雑に流れているため、皆さんがその社会に留まることができないという事実を懸念せざるを得ません。


世の中は複雑ですが、今日、どのような理念を持って心霊世界を導いている宗教団体の動きはさらに複雑です。ですから、そのような宗教団体を訪ねてみても、心では引かれるものの、それに従うのは難しいのです。


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今日、このような複雑な状況に絡まって、心は望んでいるのに、体は行きたくても行けないという状況にあります。このように心が望む方向に動くことができない自分自身を嘆かざるを得ない立場に私たちは置かれているという事実を知ることができます。


従って、このような立場に置かれている人々が、生きている間に自分自身を立てて批判しないのであれば、死後にでも全宇宙の前で自分を立てて批判しなければならないというのです。そのような場所を宗教では、誰も行きたがらない地獄の世界と定義しています。


今日、私たちは進まざるを得ない立場にあるため、何とかしてこの道を歩んでこの場所まで来ました。では、自分自身を立ててここまで来たという価値を天が求めるとき、皆さん自身は何を誇ることができるでしょうか?過去を振り返り、後悔のため息をつくしかないでしょう。


過去を見ても、現世を見ても、未来を見ても、同じような立場に置かれている自分自身だということです。だからこそ、私たちは何とも言えない最終的な理念と最高の幸福を心から求めています。では、これはいつ、この矛盾した自分自身とこの世界を超えて成し遂げられるのでしょうか?この事実を理解し、心に衝撃を受け、この矛盾した環境を打破しようという使命感に満ちた真の若い男女がいるとすれば、その人は生への執着心さえも失うような境地に入るでしょう。


自分の体からすべての罪を取り除くことができる自分を持たず、罪に満ちた体を放棄し、誰よりも低い位置に立つことができる自分を持たずに、皆さんの心を何が捉え、どのような理念に向かわせているのか、この矛盾をどう超えるのでしょうか?世界中の人々がここに引っかかっています。全人類と万物、つまり天と地のあらゆる存在物もこの過程に引っかかっているという事実を皆さんは知るべきです。この人間であることを皆さんも否定できないでしょう。


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これを認めたその日から、「私はどこへ行けばいいのか」と嘆き、叫び声を上げる心情の訴えが聞こえてくるでしょう。そこで、今日皆さんにお話ししたい題は「おお!私はどこへ行けばいいのか」です。この題で少しの間、お話しします。


今日、私たちの周りにあるすべてのものは、堕落の歴史的な道を歩んできたことを知っています。そして、今日私たちの周りにいるすべての人々は、堕落した現実の中で生きています。また、この現実を基に堕落の歴史が続くであろうと私たちは予測しています。


では、過去の堕落、現世の堕落性、未来にまで続く堕落の原因をどう解明するのでしょうか?今日まで6千年という長い年月を経て、私たちの先祖たちは数多くの苦労と数多くの犠牲を重ねてこれを避けるために努力してきましたが、堕落の歴史は続いてきたということを皆さんはよく知っています。また、今日の現世においても、罪に満ちたこの世界から抜け出すために、多くの人々が苦しみ、心を痛めていることをよく知っています。


過去もそうであったし、現在もそうである世界に生きている自分自身を振り返ってみると、自分の心に過去の先祖たちが抱いた恨みの心情が動いており、現世の衝撃による悲しみの感情が流れていることを否定できません。


では、今、懐かしく思う一つの縁があるとすれば、それは何でしょうか?今この時は、堕落の歴史的な道を歩んで、悲しみの心情を抱えて戦ってきた私たちの先祖を懐かしく思うべき時です。また、この現世において、死の権威から脱するために、苦難の権威と堕落の権威から抜け出すために、悲しみの心情を抱えて戦っている私たちの同志を懐かしく思うべき時です。


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ですから、今日私たちが過去を懐かしく思うならば、過去に起こった歴史的な事実を懐かしく思うのではありません。その歴史的な悲しみに対抗し、真の信仰の心情を抱えて戦っていた先祖たちのその心情を懐かしく思うべきだというのです。


では、私たちの先祖たちが歴史的な悲しみを清算するために持っていた志操は何だったのか?私たちの先祖たちが今日の自分自身を抱えて立てようとする志操は何か?今日、未来に希望を持ち、現実のすべての逆境を乗り越えながら明日の善の基盤を築くために戦っている同志たちは誰か?


このような心を甦らせることができない人は、歴史的な縁を裏切った者であり、時代的な縁を裏切った者であり、未来を台無しにする者であることを否定できないでしょう。今日、皆さんはまさにそのような立場に立っています。


では、どのような先祖が現れて、皆さん自身について「あなたは私を知っていますか?」と言うとき、皆さんは何と答えるのでしょうか?また、今日この時代において罪に満ちた世界と戦っている兄弟に対して、「あなたは私に何を言ってくれるのか?」と尋ねるでしょう。そして、「明日の道を切り開くために戦い、迫害されている私に何か助言を与えてくれるのか?」と尋ねるでしょう。このように、過去と現在と未来の観点から聞こえてくるその声に対して、皆さんは何と答えるのでしょうか?これが問題です。


一歩進んで、先祖たちが言った言葉を聞いて、先祖たちが言った言葉とその心情を理解したとしても、その理解で終わらない事実がまだ残っているということです。時代的な状況をすべて理解しても、それで終わらない状況が残っており、未来のすべての状況を知ったとしても、それで終わらない状況が残っているのです。つまり、歴史的な悲しみ、時代的な悲しみ、未来的な悲しみが残っているということです。このような悲しみが残っていることを知るとき、私たちは先祖たちに代わって、現在の人々に代わって、後の世に代わって代弁しなければならない自分たちであることを考えなければなりません。


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もし、このような責任を果たせる子孫を持たなかったならば、過去の私たちの先祖たちがいくら功績を残したとしても、その先祖たちは嘆くことでしょう。目的のために戦った人々、悲しみの心情に満ちた先祖たち、天と地に対して恨みの心情に満ちた先祖たちが、今日私たちに一つの希望を持っています。だから、私たちがその心情を持たなければ、私たちの先祖たちの悲しみはさらに深まるでしょう。今日この時代や未来も同じだということを皆さんは知っておくべきです。


復帰の道は語っています。アダムの家庭から悲しみの歴史が始まり、復帰摂理を受けてきた先祖たちは悲しい道を歩んできました。ノアが通り、アブラハムが通り、イエスまで波乱万丈の悲運の歴史を経て、このような悲運の歴史が世界を襲ってきました。


このような歴史的な悲運を阻むために、天を代表し、人類を代表し、歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表してきたのがイエスでした。しかし、イエスもこの歴史的な悲運の運命の前で勝利の条件を完全に成し遂げることができず、一つの希望の日を約束して去ったために、今日まで悲しみの歴史が続いているという事実を私たちはよく知っています。


では、今日私はどこへ向かっているのか!今、皆さんは昔のアダムの心情を超えなければならず、ノア、アブラハム、モーセの心情を超えなければならず、どの預言者やどの個人の心情も超えなければならないばかりか、洗礼者ヨハネとイエス様の心情まで超えなければなりません。そして、私たちはイエス様が去った後、今日までの2千年の歴史の過程で、多くのキリスト教徒が虐殺され、殉教した悲しく悲惨な心情を超えなければなりません。そのすべてを代替できる一つの実体の果実が私たち自身であるということです。だからこそ、天は皆さんが歴史的なその心情の縁と向き合うために、どのような心の基盤を皆さんの心に持っているのか問いかけるでしょう。


天が歴史を経て戦ってきたとすれば、終わりには一人の勝利した息子娘を立てようとするでしょう。だからこそ、私たちは歴史的な悲しみの心情を感じ取って勝利しなければなりません。そして今日、私たちはこの時代において歴史に結ばれた天の悲しみのすべての条件を回復しなければなりません。従って、全体の歴史に対する天の悲しみの心情を抱えて慰めることができる天の息子娘になるべきです。もし、そのような息子娘がいるとすれば、神が6千年の間、誰も抱きしめることができなかったとしても、そのような個々の存在を通して喜びの心情を持って抱きしめてくださるのではないかと考える必要があります。


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皆さんに心情があるならば、これは皆さんの個々の存在から始まったものではありません。先祖の縁を通じ、先祖の心情的な基盤を経ていない存在はありません。だからこそ、その心情は歴史的な心情圏内に属している心情であることを私たちは否定できないでしょう。


では、今日私はどのような心情の世界でさまよい、どのような視線とどのような五感を持って生を営んでいるのか?しかし、これを考える前に皆さんはまず「天よ!私はそのような感覚を持って生涯を生きているのだとすれば、昔のエデンでアダムとエバが堕落する前に神に対する心情、堕落する心情、神が追放する心情、この人類を抱えてノアを立てるまでの1600年間苦労された神の心情、ノアが120年間山の頂で方舟を建てながら無限の蔑視と迫害を受けつつも天を抱えて苦労してきたその心情、波乱万丈の歴史の過程を経てきた神の心情を抱えて一度生きてみたい。」と語りたくなるでしょう。


お父様が歴史の生きた実体として、勝利の象徴として一人の人間を立てようとするならば、皆さんは「お父様、御手を伸ばして、私たちが人間が堕落前に父と共に楽しんだその心情から、堕落後の歴史の悲しみのその場面場面を見ることができるように旅をさせていただけますか?」と祈ってみてください。


では、天の悲しみと人間の悲しみが解決されない焦点はどこにあるのでしょうか?それは人はいても神の心情を掴む人がいないからであり、歴史的な心情を掴む人がいないからであり、今日この時代を摂理されている神の心情と未来の心情を掴んで神の心情を人間の心情と結びつける歴史を成し遂げた人がいないからです。従って、天の嘆きがあるとすれば、この意義を成し遂げられなかった嘆きよりも大きな嘆きはないという事実を皆さんは知るべきです。だからこそ、今、皆さんは天を求める道をもう一度振り返るべきです。神は私たちを永遠の希望の園に送るために、私たちに対して訪ねて来られたのです。


皆さんが原理を通じて知っているように、私たち人間は神の言葉を裏切ったために神の言葉を失い、神の実体を失い、神の愛を失いました。


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神が言葉を発されたときの心情はどのようなものであったのか、実体を創られたときの心情はどのようなものであったのか、その実体を通じて誇りたいと思われた神の内的な心情はどのようなものであったのか?


これを考えるとき、私たちは神の言葉を失った者であり、本来の実体を失った者であり、神の理念の園を動かすことができる愛の実体を失った者です。従って、私たちは自分を立てて誇ることができない罪人であることを悟らなければなりません。また、自分の実体を立てて主導的な行動を起こすことができない存在であり、自分の心を立てて安息の基盤を見つけることができない存在であることを知るべきです。


このような人間になったために、神が私たちを訪ねて来られるには、まず実体を探して来られ、愛の心情で訪ねて来たかったのですが、人間が実体と愛と御言葉を失ったため、神が直接実体として来られることができなかったのです。ですから、イエス様が実体の代わりに来られましたが、イエスも実体を持った行動をすべて成し遂げずに去りました。


御言葉を裏切った人間に実体を代わる存在を与えましたが、人間がその実体さえも裏切ったため、また神の愛を与えましたが、それも裏切ったため、今日私たち人間の前には実体と御言葉、愛などの名詞だけが残されました。だから、人類はそれを探して苦しんでいるのです。


そして今日、私たちは歴史が回っているのだと理解しています。御言葉のような御言葉が私たちを完成させることができず、実体のような実体が私たちを実体として導くことができず、愛のような愛で私たちの永遠の安息を見つけることができないということを知ったので、私たちは「真の御言葉はどこにあるのか?実体はどこにあるのか?愛はどこにあるのか?」というスローガンを掲げ、それを探して苦しむ立場に立っているのです。


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このような立場に置かれた人類を見て、イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。求める者には与えられ、探す者は見つけ、叩く者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われたことを皆さんは知るべきです。


今日、私が歩んでいる一歩はどこへ向かっているのか?探すために歩んでおり、求めるために歩んでおり、叩くために歩んでいるのです。このような歩みを堕落以降6千年もの間歩んできましたが、まだ止まることを知らない運命に置かれています。


では、今私が歩む一歩はどこへ行くのか?この地を見れば、善だけではありません。善よりもむしろ悪が多いです。このような時、私たちの足跡が左に行くのか右に行くのか、または善の方向に進んでいるのかが深刻な問題です。


そして皆さんは真の師を探してさまよっていますが、善の指導者、真の師を探して何をするのか?彼らを通じて、自分の心の安らぎと希望を起こすことができる御言葉を聞きたいのです。何か新しい御言葉を見つけるために新しい師を探してさまよっているのです。では、御言葉を探して何をするのか?その御言葉と一つになる自分自身の実体を作り上げることが重要なのです。そのために御言葉を探しているのです。


これまでの私たちの先祖たちも、天の存在を明らかにするために、人生の根本問題を解明するために努力してきました。そして、そのような努力は今この瞬間も続いています。皆さんがそのような観念に捉えられているかどうかに関係なく、関心を持つ多くの人々は今日も叩いており、探しており、求めており、さまよっています。皆さん、そのような姿を見つめるとき、皆さんもその立場で苦しんでいるのかどうかを考えてみる必要があります。もし、皆さんが苦しんでいないのであれば、歴史を支配してきた神と出会うことはできないということです。今日、この世界にそのような人がいないのであれば、神の意図と善の理念、または私たちが望む希望の時代は天と共に人間と縁を結ぶことはできないということです。この結論に至ることができます。


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しかし、皆さんが知らなくても、必ず探して、さまよい、苦しんでいる人々が皆さんの先祖の時代から存在しており、現在も存在し、また今後も絶え間なく続いていくという事実を否定することはできません。皆さんはこの観点から、今日という存在がどのような立場にあるのかを自問してみるべきです。


今日、若い学生たちが鞄を持って学校に行きます。しかし、鞄を持ってどのような目的で行くのかを考えられない学生がいます。「私は社会に出る。」、「行くとどこへ行くのか?」、「私は国家の重大な責任を負って出る。世界があるので、世界を導くために出る。」と出ますが、そこからさらに進むとどこへ行くのか?天があるならば、未知数が横たわります。世の中のすべてがこのような苦難の場所に置かれていることを私たちは否定できません。内的な世界もそうであるし、外的な世界も同じです。無限に伸びていきたいのですが、一歩進むたびにその苦難の兆しが私たちの前を遮っています。


そこでそれを避けて内的な世界に向かおうとすると、道義や道徳や倫理や宗教といった方向に自分自身を導いていこうとするのですが、そこにもまた無数の苦難が立ちはだかるのです。その時は「神よ、宗教を立てたのですか?神よ、歴史を支配しているのですか?」と言いたくなるでしょう。神がいるならば、なぜこのような悲運の歴史を作り出したのか、またそれを体験させる原因はどこにあり、私が世の中のすべての内的な世界を見抜く権限を持たないで苦しんでいる原因はどこにあるのかを解明しようとする立場で、天と地と世をかけて、自分の命をかけてこの悲運の力と対決しなければなりません。これが分かれ道の峠であることを皆さんは知るべきです。人間はどうしてもこれを越えなければならないのです。


この悲運の苦難をどこで解くのか?世の中を見ると、無数の破滅の理念しかなく、内的な世界を見ると、さらに暗くなり、暗闇に包まれる立場に直面しています。


そのような境地で真理を求める心が強ければ強いほど、地も天も人間自身も失われた中で、天と地に代わって歴史の道を代わりに進んだ先祖たちが苦しんだその歴史的な心情を知って、自分でも知らず知らずのうちに歴史的なその悲運のすべての苦難の言葉を一度自分の口から言ってみたいのです。しかし、天を見つけることもできず、地を見つけることもできません。帰るしかありません。


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では、歴史的な心情の境地で「私は信じます。」と口にしてみても、うまくいかないのです。この瞬間を皆さんが生きている間に感じることができなければ、運命の直前に遭遇することになります。しかし、その時はすでに手遅れです。


では、今日人類が苦しんでいる原因はどこにあるのか?運命の直前にこの難関に遭遇しないためには、若いうちに必死に信じなければなりません。このように若いうちに必死に信じる信仰を持っていることが、人間の希望であることを皆さんは知るべきです。


運命の直前にこれに遭遇すると、どうしようもなくなります。だからこそ、天は人間が若いうちに善を中心とした生活観念、世界観念を持てるように、つまり自分のすべての問題を解決する一つの解決点を与えるために逆境が道へと追い込むのです。天は人間に世を避けさせるために、人間をさらに反対の道へと追い込むのです。


どのような教義、どのような教派よりも自分を信じるようにと強調してくるのです。自分を信じるためには、自分が人類を信じたのと同じくらい信じなければなりません。今日、信じているすべての信者たちを見てみると、彼らは「神を信じています。」、「イエス様を信じています。」と言葉だけで言っていますが、それでいいのです。しかし、このような信仰は通りすがりの人も言うことができます。このような信仰を天は望んでいません。


では、天はどのような信仰を望んでいるのでしょうか?イエス様が「私を信じなさい」と言ったのは、自分が神を信じるようにイエス様を信じなさいということです。また、イエス様が「私は神の子だ。私は神を信じている。」と言えたのは、自分が神を父として信じるように神も自分を子として信じていることを確信していたからです。このような立場でおっしゃった言葉なのです。


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今日、私たちは信仰を求めてさまよっています。御言葉を求めてさまよっており、御言葉を基にした信仰の道を求めてさまよっています。御言葉を持って真の信仰を中心として人々を訪ねて来られるその実体的な一つの中心存在をキリスト教的に言うと、再臨主というのです。人間は神を信仰の基準としてきました。そして、これまでの信仰を分析してみると、御言葉を基にして人類を導いてきました。


では、ここでこれまでの宗教がすべてを解決できなかったために、再び戦わなければならない時が近づいているのです。これを聖書的に言うと、終わりの時の7年大患難の時期です。これを皆さんは知るべきです。


私たちは御言葉を通して実体に出会うべきです。今日、イエス様の御言葉を信じる人は多いですが、イエス様を信じる人は少ないです。イエス様の御言葉に従う人は多いですが、イエス様の実体を頼りに従う人は少ないです。私たちは進まなければならない人間でありながら、真の御言葉を持つ方が現れても信じず、むしろ迫害しています。


では、今日私たちはどのような人になるべきでしょうか?御言葉と一つになるべきです。そして、神に代わって来られた方は、天的な唯一の存在であり、すべての人間の模範であり、人間の全体の理念を代表する存在ですが、その存在と私たちを比較するとき、私たちが違う存在になってはいけません。


だからこそ、最高に善良で、最高に正義であり、最大の勝利者であるその一つの実体を標榜して、皆さんは再び第2の一歩を踏み出さなければならないのです。これが人間が進むべき道です。


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しかし、この地上のすべての人間は6千年という長い年月を過ごしている間に御言葉に頼り、その御言葉通りに生きようと苦しみながら進んできましたが、御言葉の主人公であり、御言葉の実体である方をお迎えして生きた人は一人もいません。


歴史的な私たちの先祖から今日に至るまで、そのような存在を正しくお迎えして生きた人は一人もいないということです。神は堕落後の4千年の歴史を摂理され、多くの預言者たちを立てられ、無限の御言葉を与えられました。そして、人間に一つの中心を見つけさせるために民族を結集し、一つの方向に導いてこられましたが、御言葉の実体を送ることを約束されました。その方が誰かと言えば、まさにメシアだったのです。だからこそ、イエス様は「私が律法や預言者を廃止しに来たと思ってはならない。廃止しに来たのではなく、完成しに来たのだ。」(マタイ5:17)とおっしゃいました。


イエス様はその時までのすべての御言葉を完結することができる方であり、神が歴史の道を通じて与えられたその御言葉以上のものを持って来られた方です。そのような存在として来られたメシアでした。しかし、御言葉の実体であるメシアを待ち望んで来た多くの人類は、いざ現れた御言葉の実体を見逃してしまいました。御言葉の実体をすべて失ってしまった人間になったという事実を皆さんは知っておくべきです。


突然、御言葉を持って現れたイエス様が神を抱えて分かれ道の戦いをして、歴史的なすべての条件を踏み越えたように、私たちもイエス様を抱えて分かれ道の戦いをしなければならない条件が残っているということを皆さんは知るべきです。


では、イエス様を抱えてどうするのか?ヤコブが天使を抱えて戦ったような戦いをすべきです。長子の相続をイサクから祝福されたヤコブは、その日から御言葉を中心にして祝福の条件を立てようとしました。祝福の条件を立てた後には実体を回復しなければなりませんが、そのためには天を抱えて分かれ道の戦いをしなければならないのです。これが本来の私たち人間が進むべき道です。


     18


では、今日キリスト教を見てみると、まだサタンを支配することができる御言葉の権限を成し遂げていません。真にサタンを支配することができる権限の実体であるイエス様を紹介し、彼のために祈りながら進む信者はこの地上に少ないということです。皆さんがこれまでの御言葉に包まれて、そこからいくら努力しても進むべき道は遠いです。


今日まで6千年もの間、歴史は流れてきましたが、ここからどこへ進むのか?どこへ進むのか?御言葉を踏み越えて実体を抱きしめなければなりません。新約は大部分が書簡ですが、書簡で出会うのではなく、心に湧き上がる情を通じて出会わなければなりません。このように天と一つになった一つの存在、堕落後6千年の歴史の中で初めて現れたその立場に進んでみた人は一人もいないのです。


御言葉を踏み越えてイエス様を抱きしめる人がいるとしましょう。しかし、イエス様の前に進み出て「あなたが持っている天の全権の力と救い主の資格で万民を救済するための権限を私に教えてくださり、すべての罪の根本を清算する方法を教えてください。そして、あなたと共に永遠に楽しむことができる天の愛を紹介してください。」と祈りながら進んだ人がいないということです。このような人がいなければなりません。


もし、イエスに出会ってそのような条件を要求し、祝福を受けて恩恵を受けることができる人がいるとしましょう。しかし、イエス自身が両手を広げて「おお!あなたの願いはこのようであったので、永遠の幸福を享受しなさい。」と言うことができないのです。天の心情がまさにそうなのです。


なぜなら、イエスも十字架にかかって死んだことによって、この地上で新郎新婦として二人が一つになって神の前に出て「神よ、あなたが私たちの実体を立てたので、あなたの心の奥に秘められた愛を授けてください。」と言うべき部分が残っているからです。


     19


では、イエス様は「おお、ここまで来るのに苦労したので、私を条件としてあなたが神の愛を受けなさい。」と言うことができることを私たちは知るべきです。今日、大多数のキリスト教徒はイエス様の愛だけを受けようとしているのです。


パウロが言うには、イエス・キリストの中にある者は神の愛の中にあると言いました。自分にある愛ではなく、イエス・キリストの中にある神の愛を指していたのです。


従って、花嫁の理念を求める皆さんは、このような御言葉を通じて実体を見つけたとしても、神の前に出て「お父様、あなたの愛を、愛の全権を私たちに祝福してください。」と言うべき部分が残っているのです。従って、今日私たちはこのような立場にまで進まなければなりません。


言い換えれば、今日私たちは真理を求めて超え、実体を求めて超えて神の前に出て「神よ!私に愛の祝福を授けてください。」と言わなければならないのです。それでは、これはどういう理由なのか?これは神を求めてきた人々に対して、神が「私を求めて出てくるまで、多くのサタン、数え切れないサタンの試練を経てきたのだから、大変苦労した。」と言いながら、サタンと共に戦って勝利した道のり、神を知るまでの道のりを称賛することができるが、神の心の中で待ち望んでいた理想の園から取って生きることができる愛の心情としては祝福してくれないからです。


だから、天は「それがあなたの願いならば、今は罪深い世界に出て行きなさい。」とおっしゃるのです。つまり、「あなたは罪深い親の子孫であるので、復帰の過程を経なければならない。それで私の息子娘になることができる位置に達したならば、あなたは失われた真の親を探しなさい。」とおっしゃるのだと皆さんは知るべきです。


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私たちは神と出会えばすべてがうまくいくと思っていました。しかし、人間にはまだ残されている分野があります。つまり、人間の祖先が人類の真の祖先になれなかったために真の親を持たず、真の子供になれなかったということです。従って、皆さんが養子として神を知り、サタンと戦って勝利したとしても、直系の血統の縁を結ぶには真の親をお迎えしなければならないということです。そうなっています。


どのような信仰の勇者でも、神の前を離れれば苦しむことになります。結局、神の前に出て「その親が地上にいるのか、いないのか?」と尋ねるしかありません。その時、神は地上にいると答えるでしょう。しかし、もし地上にいなければどうするのでしょうか?皆さんがその親に代わって責任を負わなければなりません。「お前が一度親になってみろ。」このような言葉をおっしゃるのです。


そうすると、その信仰の勇者は別の場所へ足を運ぶでしょう。この地上のすべての信仰者たちをたどって探し当てるでしょう。だから、皆さんが真の親を探してその親の前に出て「おお、私がこれまでの困難を乗り越え、今や真の親であるあなたの前に出ましたので、お父様、これまで歩んできた歴史的なすべての悲しみを慰めてください。今、あなたの永遠の幸福の中で生きることができる全権、あなたの理念の園の全権を私たちに引き継いでください。」と訴えても、訴えたとおりにはならないのです。


その親はまた「お前が進むべき道がまだ残っているので、兄弟を探して来なければならない。」と言うのです。結局、彼は親を離れて兄弟を探しに行きます。だから、地上をさまよい、さまよって兄弟を見つけたら、「お前がいなければ私ができず、私がいなければお前ができないこのような兄弟、死んでも一緒に死に、生きても一緒に生きることができる兄弟、骨と骨を結びつけ、肉と肉を結びつけた身体の中でも切り離すことができない兄弟を探して、私はこのような命令を受け、お前に関する目的を知ってお前を探して来たので、6千年の歴史の恨みが私たちによって解決されるならば、お前と私が兄弟としてその解決の幸福を享受しよう。」と言うでしょう。


すると、真の信仰の兄弟はこう言うでしょう。「おお、君が探して来てくれたことはありがたい。しかし、我々によって神の全体的な目的が成就したわけではありません。まだ進むべき道が残っています。」と。それでは、その道は何の道でしょうか?残っているその道は、善の民族を探して来なければならない道です。この信仰の勇者は再び足を進めます。


     21


だから、一つの民族を見つけて「私がこのような歴史の道を経てあなた方に出会ったので、あなた方を通じて天の目的を成し遂げなければなりません。」と事情を話しても、その民族は「歓迎はできるが、喜びの踊りを踊ることはできない。」と言うでしょう。なぜなら、彼らの民族を破壊したサタンがまだ残っているからです。そして、サタンによって壊れた民族があると同時に、その民族と結びついた民族があるからです。さらに、そのような民族があると同時に「善の民がいた。」という答えが出てくるのです。


だから、また峠を越えてその民を見つけて「おお、今や喜びと幸福と目的の達成をすべて実現できる一つの民を見つけたので、天の民となる者たちと共に楽しもう。」と言いますが、そうはいきません。またあるのです。世界を越えて、私たちの真の親と真の兄弟と真の民族、真の民、真の国家、真の人類が集まって、一斉に神の前に礼拝し、その後にようやく成し遂げられるのです。


これが歴史の背後を動かして来られた神の心情に悲しみの苦難を積み重ねたものであり、これが私たちが生きて来た歴史の目標です。


これとは反対の方向に絡み合っているのが罪深い世であり、この理念を実現できないようにその前進を妨げるのがサタンの歴史であることを皆さんは知るべきです。必ず進まなければならない人生の道がこのように定まっています。


イエス様はこの地上に真理の本体として来られ、神に代わる実体として来られ、神の心情に代わる愛の実体として来られました。誰よりも人類の真の親、真のお父様の実体として来られたのです。イエス様が真の父として来られたのです。だからこそ、私たちは互いに真の兄弟なのです。イエスも「あなた方をもう奴隷とは呼ばない。終わりには子供たちと呼ぶであろう。」とおっしゃいました。子供たちなのです。


     22


親であるイエス様を中心にして兄弟として出発し、民族を作ろうということでしたが、その基盤が70門徒と120門徒だったのです。その群れを中心にしてイスラエル教団を動かし、民族を動かそうとしましたが、失敗しました。それによって第一イスラエルは崩壊し、第二イスラエルの歴史が始まりましたが、これがまさにキリスト教の歴史です。


このようにして、キリスト教は今日までイエス様を中心にした世界民族を形成してきました。従って、終わりの時代に到達した今日の人類は、自分自身が歴史的な悲運の峠をすべて越えていく中で、勝利的な縁を結んで進んでいかなければ、14万4千の群れに入ることはできないのです。


黙示録14章には「小羊がシオン山に立ち、そのとともに14万4千が立っていたが、その額には小羊の名とそのお父様の名が書かれていた。」と記されています。皆さん!イエス様の印を受けましたか?まずイエス様の印を受けなければならず、その後にお父様の印を受けなければなりません。イエス様の印を受ければすべてがうまくいくと思いますか?違います。イエス様の印を受け、そしてお父様の印を受けなければならないのです。これが堕落した人間が贖罪の完成を望んで進んできた目標なのです。


堕落していない、神の愛を受けることができる善良な人の目標は、まず神の印を受け、次に兄弟に印をつけることです。さらに、民族と民に印をつけることができなければなりません。これを考えるとき、天の悲しみがどれほど大きかったのかを皆さんは知るべきです。このような天の悲しみに関する御言葉は、夢の中でも知らなかった言葉であり、どの友人からも聞いたことがなく、どの師やどの教役者からも聞いたことがない言葉です。この内容は真に深刻な言葉です。


では、今日ここに立っているこの足取りは、明日どこに向かって行くのでしょうか?皆さんは今、神の愛の圏内にいますか?真の親の愛の圏内にいますか?真の兄弟の愛の圏内にいますか?真の民族の愛の圏内にいますか?真の民の愛の圏内にいますか?天地を統合して神の前に頭を下げるとき、その神が抱きしめることができる愛の圏内にいますか?そのような人は一人もいません。イエスもこのことを成し遂げていないのです。だからこそ、イエス様はまだ楽園で保留状態に留まっています。


     23


では、イエス様は終わりの時に再び来て必ず何をしなければならないのか?この仕事を回復しなければなりません。イエス様は御言葉を踏み越えました。しかし、十字架にかかって死んだ後に復活されたイエス様は、マグダラのマリアが抱きしめようとしたときに拒絶された方であり、「花嫁よ!私と共にお父様の前に行こう。」と言うことができる立場を経ていない方でした。だからこそ、2千年間、花嫁の席を探すその日を待ちながら努力してこられました。イエス様は本来、歓喜する花嫁と共にお父様の前に出て祝福を受け、真の親となるべきでした。そうして、真の子供を抱え、真の民族、真の民を築かなければなりませんでした。このようにして神はイエスにこの天地における真の祖先になるよう祝福しようとされました。


しかし、イエス様は人類の真の祖先として祝福を受けられずに去って行かれたのです。これを皆さんはよく知っています。これが天の悲しみであり、イエス様の悲しみです。今、果てしない涙を流すこのような悲壮な心情の痛みが皆さんの心に響かなければなりません。天の御言葉を裏切った私であり、天の実体を裏切った私であり、神を裏切った私であり、天の兄弟、民族、民を裏切った私であり、さらに進んでは、天の主権を侵害した私をどうして天が許してくださるでしょうか?許されることのない罪人であることを知り、自分の居場所を知らずにもがく青年男女が多く出てくることを天は望んでいます。


これを知るようになるとき、私たちの心情は燃え上がらざるを得ません。情が通い、心が動き、歴史に対して恨みたくなるし、時代に対して恨みたくなる心が込み上げてくるでしょう。


この憤りが強ければ強いほど、この憤りをどこで解決するのかという考えが浮かぶでしょう。このような歴史的な悲しみはサタンのせいであったので、サタンと共に一大決戦をしなければなりません。そして、このような覚悟を持った青年男女が多くいなければ、親を回復することも、兄弟を回復することも、民族、国家、天の主権を回復することもできないことを皆さんは知るべきです。


これまで私たちは安穏な生活を送ってきました。感覚のない無骨者として、存在意識は持っていましたが、存在の価値を持たずに悲しい道を歩んできました。それでもなお、自分が優れていると恥知らずに出てくるのです。今日、私たちがこのような罪深い民族であることを、この時間だけでも認識しなければなりません。これすらも知らない人間は、天の天罰を受けて当然であり、裁きの日に硫黄の火の淵に投げ込まれる裁きの生け贄となって当然でしょう。


     24


これを知り、自分が裁きを受けることを恐れてはなりません。天が自分よりも悲しい事情にあることを知らなければなりません。また、先祖たちが歩んだ歩みが自分よりも悲しい事情であったことを知らなければならず、今日この時代に志を持って進んでいる真の人々が、今日自分が感じている悲しみと苦しみ以上の生活をしていることを知らなければなりません。このような事情を知っている人間でなければなりません。


私たち人間は今日も進み、明日も進み、生きて進めなければ、死んでからでも永遠に歩み続けなければなりません。この運命の峠、この悲惨な苦難の話は恨むことができません。従って、天はこの苦難を引き起こした主人公であるサタンと決戦を行うための天の精兵であり、勇者として天と地に向かって号令をかけて進むことができる青年男女を探しているのです。だから、私たちはそれに向かって突き進むことができる天の心情を持って叫ぶ群れが求められているのだということを知るべきです。


だから、今皆さんは神の心情を通じることができなければなりません。さらに、真の親の血を受けた子供、その血と結びついている民族になり、民にならなければなりません。その親と一つになって、その喜びが全体の喜びであり、全体の喜びが私の喜びであるべきです。そうして、すべての人々が神をお迎えして、その前で賛美を捧げ、礼拝を捧げることができなければなりません。これが私たち堕落した人間が必ず進むべき目的地であることを皆さんは知るべきです。




<祈祷>


お父様、エデンの園を失った人間が経験してきた屈辱の歴史の道と苦しみの歴史的な縁を経て、あなたを探し求めることをしなければならない非常に悲しい障壁と峠が私たちの前に立ちはだかっていることを知りました。


お父様、今日も明日も進まなければならない私たちのこの歴史の悲しみを知ることを許し、命の源であるあなたの悲しみを知ることを許してください。


     25


永遠なるお父様の幸福の園を知り、その園まで一歩一歩進んでいく際に、行進の道を合わせていける私たちになれるよう許してください、愛するお父様、切に願い、望みます。


私たちがどの段階で進んでいるのか、どの段階に留まっているのかを知ることを許してください。お父様、今まで無責任に生きていた私たち個々の存在が裏切り者の歴史の道を歩まないように許してください、全体に応えて一つの理念の園で父をお迎えし、お父様の前で礼拝を捧げられるその日が来るまで、サタンと戦い続ける息子娘たちになれるよう許してください、切に願い、望みます。


お父様、ここにあなたの息子娘たちが集まり、御言葉を聞いたので、この御言葉を通じて自分の人生の道を新たな角度から探し、天の法に従って目的地に向かって進む革新的な運動が起こることを許してください、お父様、切に願い、望みます。


この日のすべてを主宰してくださることを願い、主の名によって祈ります。アーメン。

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御言葉選集5(6)

2024年08月25日 16時37分56秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集 5 - 6. 共に生きるべき人間と神 (1959年1月11日)
1959年1月11日(日)、全本部教会にて。


ヨハネによる福音書 14:6-12


<祈祷(Ⅰ)>
使命の前に立ち、子供としての立場を教え、私たちに本来の価値を教えてくださった父なる神様に、この時間、感謝の意を表さずにはいられません。


今、私たちの心を私たちの心のままに放っておかず、お父様の心と結びつけ、お父様の心を代わることのできる心にしてください。私たちが心で感じるすべてが父を代わる感覚となり、私たちが体験するすべてが人性を超えて天性を代わる体験となるよう、この一時間をお許しください、愛するお父様、心から願い求めます。


お父様! 父から離れた私たちが再び父と会わなければならないので、私たちの歩みが自分のすべてを忘れ、失われた父を見つけるために必死になる熱望の歩みとなるようにしてください。心からの思いと誠実な忠誠、そしてそこから生まれる行いを持たなければならないことを知っていますので、お父様! 私たちの不忠をお許しください。お父様の前で忠誠を尽くすべき私たちが忠誠心を持たなかったことをお許しください、お父様、心から願い求めます。


父、この日は新年に入って2度目の日曜日です。この一日に、私たちが新たな決意を持って出発できるようにしてください。この一日、私たちの心がお父様の前で一つにならなければならないことを知っています。私たちは、お父様の手に導かれなければならないので、お父様! どうか私たちの心をお迎えください、そして私たちの身体を抱きしめてください、お父様、心から願い求めます。


今、この時間から私たちがお父様の前で生ける犠牲として捧げられなければならないことを理解しています。この一時間から、お父様の前で生ける犠牲として捧げられる私たちとなることをお許しください。


     1


この日は聖なる日ですので、この地上にいるすべての人々を祝福してください、そして三千万の民族を祝福してください、また、無数の宗派を祝福してください。特に、この日も孤独な場所で天の一つの意志を抱き、涙を流して訴えている、地方に散らばる孤独な兄弟姉妹たちを抱きしめてください。


天の意志があるために彼らは孤独な場所に立ち、また彼らが天の心情と状況を知っているために、天の心情と状況を代わって戦っているので、この一時間も同じ恵みで彼らを抱きしめてください、心から願い求めます。


お父様! 地方に散らばり戦っていたあなたの息子娘たちが、この一週間を通じて新たな決意と新たな覚悟と新たな武装をするために集まりました。この訓練を通じて、お父様の栄光の痕跡を身体で心で体験できるようにお許しください。


万象の前に現れ、天の慈悲で実行されたその聖なる姿の価値を、私たちが代わりに証しすることができるよう、天の装いを整えられるように祝福し、導いてください、お父様、心から願い求めます。


今この一時間、足りない私たちが集まり、心を合わせて父を迎えて礼拝を捧げたいと思いますので、この場所に現れて、どうか受け入れてください、そして私たちを抱きしめてください。隠された命の恩恵で私たちを導いてくださるよう、心から願い求めます。


     2


暗闇の勢力の中で苦しんでいるこの民族と万民を救う責任が私たちにありますので、お父様! 日夜彼らを守り、闇の勢力と戦わせてください。彼らの代わりに命をかけて犠牲にならなければならない全体的な責任と使命があることを理解し、この一時間、お父様の前で誓う私たちが、その使命を引き継ぐことができるようにお許しください、心から願い求めます。すべてをお任せしますので、御意のままに導いてください。主の名によってお祈りしました。アーメン。






<祈祷(Ⅱ)>
お父様! 地上に住むすべての人々を哀れんでください。意志を完結させなければならない日が近づいていることを私たちは知っています。その日はお父様の慰めの日であり、イエス・キリストの希望の日であり、人類が切に待ち望んでいた日であることを私たちは知っています。


その一つの栄光の日を迎えて、私たちが心から父を迎えなければならない時が来ました。そしてその一つの恐ろしい審判の日を迎える前に、私たちは罪の歴史から逃れなければならない時が来たことを理解しています。ですので、お父様、私たちの心を再び作り直し、あなたが喜ばれる性格を持つことができるようにしてください。私たちの身体を再び作り直し、あなたが運営できる形体となることができるように、心から願い求めます。


そして、この時間、心でも身体でも、お父様が作られた本来の願いを歌うことができる、あなたの所有物となることができる真の息子娘をすべて許してください。


そしてその栄光の中で一つになり、お父様の喜びが私たちの喜びであり、私たちの喜びがお父様の喜びであると同時に、天上のすべての聖徒たちの喜びであり、被造物のすべての喜びであると現れることができるよう、お父様の希望の日とお父様の栄光の日とお父様の喜びの日がこの地上に早く現れることを心から願い求めます。


     3


今、心が未熟な者がいるならば、お父様の本来の心に従って走れるようにお許しください。お父様の姿を代わって作られた人間の本来の形を持たない者がいるならば、その身体を従わせてすべての悪の要素を取り除くことができるようにお許しください。


お父様が動かれるときに、心でも身体でもお父様の心情に共鳴し、動くことができる天の息子娘が非常に恋しいですので、お父様! 私たちの心があなたの本来の心に共鳴し動かないならば、その心を取り除いてください。あなたの姿を似せていないためにお父様の心情に共鳴し動くことができる形体ではない身体があるならば、その身体を従わせて本来の形を整えることができる一つの美の存在として現れるのに不足のない身体となることを心から願い求めます。


お父様、この日に集まったあなたの息子娘たち、たとえ一つの命でもサタンの手に渡ることがないようにし、お父様の愛の腕に抱きしめて聖別してください、心から願います。お父様が直接臨在できる殿として、お父様が直接動かすことができる一つの身体として、お父様がすべてを自由に主観することができる聖徒たちとして作り直してくださるよう、心から願い求めます。


お父様、この日は聖なる日ですので、可哀そうな三千万の民族を哀れんでください、そして道を探し求めてさまよっているあなたの息子娘が多いので、彼らを抱きしめてください、心から願います。


暗黒の権勢にとらわれ、命の道を探し求めることができずに苦しんでいるあなたの息子娘たちを早く抱きしめて聖別してください。一つの理念で通じ合えるあなたの息子娘となることができるようにし、祝福してください、そして最後の日に一つの祭壇を整える方向に導いてください、心から願います。


     4


今、私たちの身体と心をすべて捧げますので、お父様、受け入れて主観してください、そしてサタンが入り込む要素をすべて取り除いてください。お父様が直接主観し、直接命じて動かし、善の栄光を現すことができるこの一つの集まりとなるよう、心から願い求めます。


私たちが持っているすべての心情を捧げ、再び子供のような心に戻ってお父様の命令に全体的に応えることができるこの一時間となるよう、愛するお父様、心から願い求めます。


お父様! この日を迎えて孤独な心情で祈る場所々に、あなたの愛の手を取り上げず、この一時間、私たち全体の心身を主観してくださり、抱きしめてください。この集まりがお父様の聖なる至聖所でお父様の前に栄光を捧げる祭りとなるようお許しください。すべての言葉を主の名において祈りました。アーメン。


<祈祷(Ⅲ)>
お父様! 愛する弟子たちの前で、やがて地上での生涯を終え、お父様の国へ行くことを話さなければならなかったイエス様の悲しい心を察することができる私たちにしてください。


時間的にはイエス様と私たちの間には2千年の隔たりがありますが、心情の世界では時間を超えることができることを知っていますので、今日もイエス様の切迫した姿と悲しい心情に浸りながら、一言一言切実に訓戒された聖なる姿を見ることができる直接的な体験の働きを起こしてください。これらの場面は、人間である私たちにとって望まないわけにはいかない場面です。


     5


この地上で誰がイエス様の心を理解したでしょうか? 悲しみに沈んだその姿を見て、心の深いところに刻み込まれる天の悲しみを体験した人は一人もいなかったので、天はこのような人々を前に嘆かざるを得なかったことを知っています。天の心情を知り、「主よ!」と呼ぶ弟子一人をも持つことができなかったイエス様は、疑いに満ちた人生の道を歩まざるを得ず、また疑われながらその悲しい生涯の終わりを迎えなければならなかった悲しみを、この時間、私たちが心で共感できるようにしてください。


イエス様が切実な天の心情を抱き、天の全体の偉業を抱いて人間を訪ねて来られましたが、人間はそのようなイエス様を自分たちの思いのままに扱い、拒むところまで拒みました。孤独な場所に追いやられるところまで追いやりました。しかし、悲しみに沈み、嘆きの場所を余すところなく歩み出されても、イエス様はそのような人間を見捨てることができず、命の園へと向かう一つの道を開拓するために彼らを引き連れ、ゲッセマネの園へ向かわざるを得ないこと、そしてゴルゴタの十字架の道を歩まざるを得ないことを考えられたイエス様の痛ましい胸の前に、信頼できる弟子一人もいなかった悲しい事情を私たちに知らせてください。


終わりの日に天が私たちを探されるならば、天の最後の心情を大切にし、その心と共にその言葉と共に、心身を通じて心情を体験できる天の子供となるべきことを私たちは知っています。


過去の悲しみは私たちの祖先たちの不足によるものであり、天の心情を知らなかったことに起因していたことを知っています。今日、私たちがこの事実を考えながら天上を見つめ、孤児のような立場にあったイエスの心情を持って「お父様!」と訴え、当時の心情を通じることができるようにしてください。彼らに心を開き、信頼できる弟子たちとなることを許し、イエス様を証しできる存在となることをお許しください、お父様、心から願い求めます。


ここでトマスは「主の行かれる道を知らない」と言い、ヨハネ14章8節ではピリポが「主の姿を見せてください」と言いました。このように、天の父を見せてほしいと求める弟子たちを目にしたとき、イエスの悲しみがどれほど大きかったかを、ここにいる者たちが一緒に感じられるようにしてください。


     6


イエスが神と共に生きたことを知らなかった弟子たち、そんな弟子たちを残して一生を終えなければならなかったイエスの心情、人間のために全ての生涯を捧げたにもかかわらず、その生涯の実りを見ることができず、痛ましい心情に沈みながら天を心配していたイエスの心を、この時間、私たちが共感することができるようにお許しください、お父様、心から願い求めます。


お父様、ここにあなたの息子娘たちがひざまずいております。彼らの心を一つにしてください。彼らが何も持っていなかったとしても、お父様が残された心情、お父様が自らイエスを送り、示したかった切実なその心情を体験できるようにしてください。


そして天の全体の心情を代わることができ、天の意志を願い、天の心情世界を懐かしむ、被造物全体を代わって現れるのに不足のない息子娘となることを許しください。すべての万象の前に誇ることができる息子娘が現れることを、今日まで望んでおられるお父様の心情とイエスの心情を、この時間理解できる息子娘となることを許しください、お父様、心から願い求めます。


深い死の波に巻き込まれて眠っている三千万の民族を、お父様! 導いてください。暗黒権勢に対して命の権限を持って戦わなければならない、あなたが建てられた教団が一つになるようにしてください。


お父様の意志に従ってはいますが、その意志が何であるかを知らず、天の道を歩んでいると言ってもその道がどんな道かを知らずにいますので、お父様! 私たちに悟ることができる能力をお与えくださり、祝福してください。


     7


お父様、ここに集まったあなたの息子娘たちが、この民族を代わって天の切実な心情を理解できる者となり、父に最も近い場所に立つことを許しください。お父様の勧告の言葉を聞くことができ、お父様の切実な事情を抱きしめて「我がお父様、我がお父様!」と呼びながら泣くことができる切実な心を持って、お父様の前で礼拝を捧げることができるようにお許しください、お父様、心から願い求めます。


サタンは私たちの心情の世界を侵略するために、この時間もあらゆる狡猾な手段で私たちの目を覆っていることを教えてください。私たちが心を一つにして完全に一つとなり、生ける犠牲としてお父様の前に捧げられるこの時間を許しください。


この時間、あなたの命の道を見つけなければならず、あなたと命の縁を結ばなければならず、あなたの命の言葉に触れなければなりません。これを知って、あなたの言葉を伝えようとしていますので、伝える者の心や受け取る者の心が切実な場所で憧れの心情に浸って一つとなることを許しください。


そしてお父様の創造本来の理念を私たちの心情で体験し、その心情を自分のものとして受け取り、許された言葉に共鳴して再び形作られる私たちとなることを許しください、お父様、心から願い求めます。


今日この時間以降、すべてをお任せしますので、御意のままに成し遂げてください。孤独な兄弟姉妹たちを直接抱きしめてくださいとお願いしながら、主の名において祈りました。アーメン。


     8




<御言葉>
「皆さんにお伝えしたい短いお話のタイトルは『共に生きるべき私たちと神』です。『共に生きるべき人間と神』というテーマでお話しさせていただきます。神様がすべての被造物を創造された動機と目的は、共に生きるためでした。共に生きるために創造されたことを、皆さんは知るべきです。


最も小さなものから大きなものに至るまで、その過程に連なるすべての存在物は、神様と共に神様の愛の中で動くことができる喜びの存在として創造されたことを、皆さんはよくご存じでしょう。


その中でも、私たち人間は神様が最も心血を注いでお作りになった存在です。すなわち、神様の考えの中の考えの存在であり、心情の中の心情の存在であり、創造理念の中の理念の存在であり、創造の実体の中の実体の存在です。


従って、神様が人間を所有することは、宇宙全体を所有することになるのであり、人間を支配することは被造世界全体を支配することになるのであり、人間と共に喜ぶことは被造世界全体と喜ぶことになるのです。神様はこのように、創造の理想から創造の結果に至るまで、目的のすべてを代替する代表的な存在として人間を立てられたことを、皆さんは知るべきです。


神様が被造世界を創造された目的は「共に生きること」ですが、今日、人間と万物、すべての存在物が神様と共に生きることができないのはなぜでしょうか。それは、堕落によるものであることを、私たちはよく知っています。堕落のために、神様が臨在することができる土台が失われてしまったのです。


     9


それでは、神様がアダムとエバを失ったその日から今日この時まで、私たち人間を探し求められているのは何のためでしょうか。それは、私たち人間が神様の宮となり、神様の身体となり、神様と一体となって天と地を代替する一つの実体存在になるとき、私たち人間が喜ぶことが神様の喜びとなり、神様の喜びが私たち人間を通じて万物に伝わるからです。すなわち、私たち人間が神様と万物を結びつける中間の媒介者であるからです。


本来そのようであるべき私たち人間が、今日までそのような喜びを感じたことがなく、神様が築こうとされた本来の聖殿を持ったこともなく、神様の心情や神様の思いや神様の理念を持ったこともありませんでした。これが今日までの人間たちの実情でした。


地上にいくら優れて立派な人物がいても、彼は神様が望まれる理念の宮となることはできず、神様が探してくださることができる理念の実体ともなれず、神様の心情を代替することのできる真の姿を持っていないという事実を認めざるを得ません。


そのような立場に置かれた私たち人間は、どこを経てどこへ行き、どこに留まりたいとして、この6千年の長い歳月を過ごしてきたのでしょうか。今日も生きることを望み、明日も生きることを望み、命への愛着を持ち、命の終わりのない延長を願い、一つの理念を求めて彷徨う人間たち、これらの人々が留まりたいと願う希望の起点はどこなのでしょうか。


創造された主人がいながらもその主人を知らず、心情の主体がいながらもその心情の主体を知らず、本来の真の愛の主体がいながらもその真の愛の主体を知らず、他のものを求めて彷徨っている人類を見つめる神様の心情はどうでしょうか。


     10


創造の理念がなく、創造の実績がなければ分かりませんが、創造の実績としての万物があり、創造の理念が神様の中に残っているならば、その理念と実績を完成させ、完結させることのできる存在が現れるべきです。


では、そのような存在はどのような存在でしょうか。その存在は万物でもなく、神様でもなく、まさに人間であることを、私たちは知るべき時が来ました。そして、私たちがそのような人間にならなければならないことを知らなければなりません。だからこそ、神様は6千年間、私たち人間を探し求めてこられました。今日まで、私たち人間を一つの土台とし、天のものに移すために探し求めてこられています。


人間が堕落しなかったならば、すべての条件を完備し、生活を通じて創造理念全体と結びつき、その理念の中で完成され、完成された実体として神様の前に理念の実体となることができたでしょうが、堕落したために、神様は去り、万物との縁も切れ、人間同士の縁も切れてしまいました。これが悲しみの中の悲しみであり、嘆きの中の嘆きなのです。


これは私一人に限られた嘆きではなく、隣を見れば同胞の嘆きであり、世界を見渡せば人類の嘆きであり、さらに万物を見渡せば万物の嘆きであり、頭を上げて心を通して天の世界を見渡せば、天の嘆きです。このような途方もない事実を皆さんは感じたことがありますか?


心と身体でその嘆きを抱きしめて大きく嘆きながら泣いたことがありますか?嘆きに満ちたすべての万象を抱きしめ、その上に降りかかる嘆き、私たちを創造された主人の嘆きを心配し、より大きな嘆きに満たされ、天を抱きしめて慟哭し、万人を抱きしめて慟哭し、万物を抱きしめて慟哭したいというそのような心情を一度でも抱いたことがありますか?


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そのような心を持っていない私たちですが、天が嘆きの心情で私たちを探し求められるならば、皆さんはその天の前に不孝者中の不孝者であり、逆賊中の逆賊であり、裏切り者中の裏切り者であることを感じるべきです。


もしそのような天がいないならば別ですが、いらっしゃるならば、今日この地上に生きている私たち人類は許されない逆賊であることを知るべきです。このような不信の人間であり、裏切りの人間であり、絶望の人間を再び作り直す条件を探して、天は今日この時まで探し求められています。


堕落したアダムの位置にある人間を引き出して天の側に立て、神様の理念から神様の願いまで、神様のすべての属性を完備させて共に議論しながら生きようとされるのが、創造主が人間を探し求められる目的です。これを感じる者がいるならば、神様はこれ以上の感謝することはないでしょう。


今日まで天は人間たちが知らないうちに、個人を通じて環境的な摂理の基盤を築き、環境を通じて世界的な摂理の基盤を築いてきたことを、皆さんは復帰の道を通してよくご存じでしょう。それでは、どうして天は誰も知らないうちに、6千年の歴史を経て、私たちの先祖たちとの縁を結ぶために戦ってこられたのか、私たちの民族と国家と土地との縁を結ぶために戦ってこられたのか。その目的は何でしょうか?


神様の御言葉は、はじめにその御言葉に背いた私たちの先祖たちにだけ現れたわけではありません。堕落後6千年の歴史の道を経て、どの時期やどの時代を問わず、神様は御言葉を現されました。このように神様の御言葉が現れなかった時がなかったにもかかわらず、人間たちは神様の御言葉を心に植え、その御言葉の実を結ぶことができませんでした。これが人類の悲しみの中の悲しみなのです。天の御言葉を心に植え、その御言葉の実を結ぶことを望まれていた天の希望を、何百万回も裏切った先祖たちであることを知ったとき、堕落の血統を残した先祖たちに対して敵意を抱く真の子孫たちは現れないでしょうか?皆さん、考えてみる必要があります。


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先祖たちが天の御言葉に背き、天に対して悲しみを抱かせ、罪の壁を築いたことを憤り、その先祖たちを抱きしめて抗議できる、こみ上げる心情で天と地に向かって叫び出すことができる真の息子娘の姿はないでしょうか?天は探されるでしょう。


神様はアダムとエバの身体に御言葉を植え、その御言葉を通して実体を持った本来の人間として立てようとされましたが、その心の中には何を伝えようとされたのでしょうか?神様の心を植えようとされ、神様の理念を植えようとされ、また、神様の命と神様の愛をその心の中に伝えようとされました。


しかし、神様のそのような創造理念が私たちの先祖たちの裏切りによって失われ、神様の御言葉も失われ、神様の実体である本来の人間も失われ、神様の心も神様の命も、そして神様の愛もどこかへ消え去りました。このようなものを失った以上の悲しみは、被造世界にはもうないでしょう。私たちはこのような悲しい事実を前に、骨身にしみる心情を持ってすすり泣くことを学ばなければなりません。


このようなものを失い、堕落の犠牲となったために、人間は失う前の「本来の自分」を恋しがります。その「本来の自分」が恋しいのです。地上のどんな物が恋しいのではありません。創造された万象があっても、その万象は私と関係のない立場にあります。歴史と世界があっても、それもまた私の心の世界と縁を結ぶことはできず、真の自分を慰めてくれることもなく、どんな刺激的な衝撃を与えることもできない、私とは何の関係もない立場にあります。では、これがどうしてそうなったのでしょうか?


人間にとって最も大切なのは「本来の自分」、つまり神様のすべての属性を備えるべき本来の自分です。しかし、その自分を失ったのであり、最も大切なものを失った人間であるため、それが見つかるまでは人間自身の中で喜びや幸福を感じることはできません。だからこそ、今日、堕落した人類は東西南北四方に散らばって、その本来の自分を探し求めて彷徨っているのです。


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それでは、まず何を探さなければならないのでしょうか?今日、私たちは万物を支配することができる自分になれておらず、身体があっても神様の宮にはなれず、心があっても神様の心を知ることができる心にはなれず、心情があっても神様の心情とは何の関係もない心情になっていることを知るべきです。私が理念と愛を求めて議論しても、それらは天とは何の関係もない立場に落ちてしまったことを知らなければなりません。


これが人間の悲しみであり、神様の悲しみであり、被造物の悲しみです。これを考えるとき、天を求める私たち、神様の善と神様の愛を求める私たち、神様の恨みを晴らそうとする私たちは、誰が叩いても蔑まれても、彼らに叩かれながらも天に向かって天が望まれる意志を求めて進まなければならない運命にあります。


だからこそ、天は人間を叩く際、個人から種族を経て民族を経て世界に至るまで叩くのです。天が人間を叩く目的は、人間を滅ぼすためではなく、人間と接している悪の要素を取り除くためです。この悪の要素のために人間を叩くという事実を、皆さんは知るべきです。


今日まで、サタンという非原理の主人公が私たちを弄んできましたし、私たちの家庭や社会、私たちの創造理念の世界を弄んできました。このサタンとサタンによる罪が、今日まで私たちの生活を支配し、世界を支配する一つの中心となってきたのです。だからこそ、今、私たち人間が心を翻し、神様を思い出し、創造本来の自分を恋しがる心を持たなければなりません。サタンが私の肉体を支配し、世界のすべての被造物を動かしてきたのですから、それよりも強い条件が私たちの心から爆発しない限り、私たちは神様と創造本来の縁を結ぶ方法がないことを、皆さんは知るべきです。


このようにして、私たち人間はサタンに叩かれながらここまで来た結果、今日の終末時代まで来てしまったのです。今この時は、神様の6千年の願いが接近してくる時であり、サタンが破れる時であり、人類の願いが接近してくる時です。


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この終末はサタンにとっては無限の悲しみの日であり、本来の人間にとっては無限の喜びの日であり、摂理を進めてこられた神様にとっては無限に栄光ある日です。私たちはこの終末を迎えるために進んでいる終末の信徒にならなければならない運命にあります。


それでは、神様は6千年間、何をしてこられたのでしょうか?私たちに何を注入するために、長い年月を費やしてこられたのでしょうか?私たちを一つの基盤、一つの土台とし、神様の御言葉を注入するために費やしてこられました。エデンの園で与えられた御言葉を人間が失ったために、それを回復するために6千年がかかったとしても、この地上の人類の前に真の御言葉、神様との関係を知ることができ、神様の実在性を知ることができ、神様の心情と神様の理念と神様の愛を知ることができる、そのような御言葉を人類の前に現そうとされたのです。


しかし、今日まで人類の前にそのような御言葉は現れませんでした。このようにして、その御言葉を取り戻すために、神様は6千年もの間、努力されてきたことを皆さんは知るべきです。


皆さんの身体を解体して分析してみてください。皆さんの属性の中に神様の御言葉がありますか?神様が御言葉を蒔くために6千年間も努力されたのに、その血と汗の結晶である御言葉が皆さんの心の中に入っているでしょうか?天はこのように問いかけられるでしょう。


神様は結局、私たちを見つけ出し、私たちと一つになって、私たちの生活環境とこの世界に理念の園を創設しなければなりません。それによって初めて、神様の復帰摂理が終わるのです。このような理由で、天が皆さんを探し求めて来られるとき、皆さんが神様のものとして神様の前に立つためには、サタン世界のいかなる言葉よりも強力な天が蒔かれた御言葉の所有者とならなければならないのです。


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神様は万物をお作りになるときも御言葉を通じてお作りになり、私たちを探し求める際にも御言葉を通して探してこられます。このようにして、皆さんが神様から出たと言うならば、神様が御言葉を蒔かれたのですから、皆さんにはその御言葉を収穫して、お父様のものとして探し出して差し上げる責任があります。


では、終末とは何でしょうか?御言葉を収穫し、一つの実体を持つべき時です。実体!御言葉を通して実体が形作られます。このようにして御言葉を通して形作られた実体を探し求められたのが神様の歴史であり、イエス・キリストがこの地上に来られた目的です。


神様は堕落した人間に実体を先に示すのではなく、まず御言葉を示されました。それは、逆の順序で探していかなければならないからです。失われた順序通りに探していかなければならないのです。


実体を望まれるとき、まず堕落した人間の胸にその御言葉の種を蒔き、その御言葉を基にして一つの生命体を成す実体を持つのです。このような実体が現れるならば、聖書に「神様がアダムとエバを創造され、その鼻に息を吹き込まれたので、人が生きた者となった。」(創世記2:7)とある聖書の言葉のように息を吹き込んでくださるでしょう。


このようにして実体が完成した後、神様が息を吹き込まれて、生きた霊になるのです。それでは、生きた霊とは何でしょうか?生きた霊とは、神様が私の父であることを感じることができる存在、神様と一体となった世界に入り、切り離そうとしても切り離せない、永遠不変の神様の実体対象であることを体感できる存在です。人間たちがそのような価値を感じることができる生きた霊として完成し、神様の前に現れることを望まれて、神様はこれまで歴史を進めてこられたのです。


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神様は私たち人間の心の土台に蒔かれた御言葉を通して何をされるのでしょうか?エデンの園で失われたアダムとエバの姿を再び形作られるでしょう。皆さんはこれを知るべきです。


従って、4千年の歴史が終わるとき、神様が人間の前に4千年間の御言葉に代わる御言葉の実体として送られた方は誰でしょうか?それはイエスです。それでは、この御言葉の実体として現れたイエスはこの地上で何をしなければならなかったのでしょうか?イエスには、旧約時代に蒔かれた御言葉を受け取った人間たちを導かなければならない責任がありました。旧約の律法を信じていたその時代の人々は、心の土台の上に御言葉に代わる存在を立てなければならず、イエスの身体を握りしめなければならず、イエスの心を握りしめなければならず、イエスの理念を握りしめなければならず、イエスの命とイエスの愛を握りしめなければならなかったのです。


4千年の間、預言者を送り、約束された御言葉に代わる実体、旧約の御言葉を通して証されたその御言葉の実体がこの地上にメシアとして現れたのがイエスです。しかし、数多くの御言葉を通して予言され、神様の無限の苦労を通して送られたイエス、全体の御言葉に代わることができる実体存在として、私たち人間が直接目で見ることができるように、耳で聞くことができるように、手で触れることができるように、握りしめることができるように送られたそのイエスはどこへ行ったのでしょうか!そのイエスはどこへ行ったのでしょうか!イエスはこの地上の人間のために来られましたが、神様が4千年間蒔かれた御言葉の完成実体として、旧約時代の人々の前に無形の神様として御言葉を語られなければならなかった神様の悲しい心情に代わる実体として来られ、実体を持つ実体の神様のように現れ、人間の前に実体の御言葉を与え、御言葉の目的である人間と一つになるためにイエスは来られたのですが、人間たちは実体のイエスを必要としないと言って送られたイエスを好き勝手に弄び、好き勝手に処分しました。だから今日、私たちは実体を失った人間になりました。


イエスがこの地上に来られたのは、天の御言葉、すなわち旧約の御言葉を収穫するためでした。この御言葉を収穫すると同時に、イスラエル民族がイエスを信じてその心の中にすべて取り込むようにされなければなりませんでした。逆の順序でしなければならなかったのです。しかし、人間たちは『4千年の旧約歴史!1600年前からモーセを通じて立てられた律法が神様の御言葉であるのに、イエスは何だ?この御言葉に従わない者は反逆者だ。』と言ってイエスを殺しました。これを私たちはしっかりと知るべきです。


御言葉は実体の前に従わなければならず、実体は神様の前に従わなければなりませんが、その実体であるイエスを人間が殺してしまったのです。実体であるイエスは神様と一体となり、4千年間の歴史的なすべての怨念の条件を清算しようとされました。それでは、歴史的な怨念の条件とは何でしょうか?それは、4千年間与えられた神様の御言葉に背いたことです。この怨念は、イスラエル民族がイエス一人を信じて一つになることで解消されるのですが、イスラエル民族は4千年の怨念の御言葉を掲げ、その実体を捕らえたのです。これがイスラエル民族が犯した罪なのです。


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だからこそ、イスラエル民族は世界を流離孤客として放浪し、奴隷の奴隷となって世界中の人々から踏みにじられ、迫害に迫害を受けなければならなかったのです。栄光の中の栄光の国を建設すべき民族が、苦痛と十字架の道を彷徨い、栄光の国を望みながら歩んでいるのです。それはなぜでしょうか?イエスを殺した罪のためです。この事実を今日、全世界のキリスト教徒たちは知らないのです。これまで私たちには神様の御言葉のようなものはあったかもしれませんが、神様の真の御言葉はありませんでした。


神様に代わり、この地上に実体的な御言葉を立てられるべきであったイエスが、旧約の御言葉のような約束の御言葉を残されたのが新約の御言葉です。だから、人間たちは新約の御言葉の中で実体を探して苦しんできました。しかし、この聖書を見ても、御言葉の中心が何であるかわからないのです。イエス様はこの地上に来られて「まだ、あなたたちに言うことが多くあるが、今はあなたたちがそれに耐えることができない。」(ヨハネ16:13)と言われ、御言葉を言い残して行かれました。人間が完成した実体、地上で完全な基盤を持った実体として生きることのできる生活的な御言葉はどこにあるでしょうか?ありません。聖書の中にもありません。ないのです。この御言葉を言い残して行かれたイエスであるために、再び来られなければならないという命題が残されたことをしっかりと知るべきです。信じられないならば、祈ってみてください。祈ってみると教えてくれます。


では、今日の終末とはどのような時でしょうか?御言葉の実体、御言葉の主人公と出会う時です。しかし、御言葉の実体と出会うためには、人々を救うために神様が6千年間、本当の人間の前に現れようとされたその御言葉、神様の御言葉の中心を通じることのできる御言葉を持ち、その御言葉と一体となる必要があります。そのような人だけが来られる主と関係を結ぶことができます。


イエスはこの地上に来られて、完全な御言葉を伝えるために来られましたが、完全な御言葉を現すことはできませんでした。しかし、聖霊を通じてその完全な御言葉を現すことを約束されたのです。だから、2千年間、努力された聖霊によって、私たちは終末にイエスが現そうとされた御言葉を知ることができるのです。そして、その御言葉を通じて、実体として現れる方を知ることができるのです。その時、私たちはその方を知り、その方を新郎として迎え、私たちは新婦として新郎新婦の相対的な関係を結ばなければなりません。


イエスが実体を持ってこの地上に来られ、人間たちを実体的な聖殿として完成させるための御言葉を言い残されなかったために、私たちがその御言葉に代わる価値的存在として、第2の実体聖殿として立つことができなければ、私たちの身体の中に神様が臨在することはできません。そのような存在が生きる場所が地上の天国です。聖書を抱えて泣いてみた人がいますか?旧約の完成実体として来られたイエスを殺したために、聖書にはそのイエスが完成して実体として現されるすべての御言葉が記録されていないのです。


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無形の神様が御言葉を通して人間に対されたのを実体で対するためにイエスを送られましたが、イエスが亡くなられたために旧約型の御言葉しか残されておらず、これが新約の御言葉です。今、私たちはイエスの御言葉を信じるのではなく、イエスの実体を信じるべきです。実体!今は実体信仰の時代です。


ペテロは12使徒の中でもイエスの御言葉を自由に聞くことができ、信じることのできる立場にありましたが、イエスを自分の心に正しく受け入れることのできる位置には進んでいませんでした。同じように、御言葉の実体を握りしめることのできない立場にあったため、マグダラのマリアが復活したイエスを抱きしめようとしましたが、抱きしめることを止めました。このようにして、実体を抱きしめることのできない人間になってしまったのです。このようになってしまったのが、私たち人間の第2の悲劇です。


第1の悲劇は、エデンの園でアダムを失ったことであり、第2の悲劇は、イエスを失ったこと、御言葉の完成実体を失ったことです。このような理由で、再び来られなければなりません。これを知れば限りなく泣くべきことです。この地上に生きている人間にとって悲しいならば、この上なく悲しいことはないでしょう。


天は恨みを晴らす日を望まれ、4千年間、涙の峠、悲しみの峠、腹痛せざるを得ない峠を越えてこられました。このような峠を越えながら、希望の実体としてイエス一人をこの地上に立てられましたが、イスラエル民族はそのイエスを死の場に送りました。


神様はイエスをイスラエル民族の前に、神様の命を代わり、約束された理念を代わるメシアとして送られました。それにより、イスラエル民族にメシアの後を追い、メシアを迎える準備をさせようとされましたが、メシアとして来られたイエスを抱きしめて泣かなければならない民族が、嘆き悲しまなければならないイスラエルはどこへ行ったのでしょうか?アダムを失ったその日から4千年間、神様をお迎えしてきたイスラエル民族はどこへ行ったのでしょうか?サタンの犠牲となったのです。このイスラエル民族は天の逆賊となりました。逆賊!


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今日、信じる人々は、イエスが十字架にかかって死ぬために来られたと信じています。それはイエスの降臨目的を知らずに言う言葉です。十字架の道理を信じるのではなく、復活の道理を信じるべきです。十字架はイスラエル民族がイエスの身体を弄んだ罪の条件で生じたものであることを知るべきです。この十字架を超えて復活された後、40日が経過した後、成し遂げられた聖霊降臨と共に復活されたイエスを信じるのが、キリスト教の正統な信仰です。これが正しいキリスト教の信仰です。しかし、キリスト教ではイエスが死ぬために来られたと言います。もし、死ぬために来られたのならば、4千年間、イスラエル民族が信じなければ打ちのめし、エジプトで過酷な労働を強いられ、涙を流しながら引き出されたでしょうか?また、バビロンで捕虜となったときにも、預言者を立てて切に諭されたでしょうか?4千年間の歴史がイエスを捕らえて殺すための歴史だったのでしょうか?もう一度考えてみる時が来ました。


このようなキリスト教徒たちが世界に広がっています。これらが天を裏切り、天を裏切ったイスラエル民族と同じ第2のイスラエル民族ではないと言い切れる人はいるでしょうか?この深刻な事実を、私たちは知るべきです。イエスは神様の御言葉を完成した実体として、天国の御言葉を教えてくださるべきでした。その御言葉はサタンが試すことのできないものです。その御言葉を信じて進む者には、サタンは試すことができません。今日、この地上でイエスを信じる信徒たちの中で、試練を受けなかった人がいましたか?いませんでした。誰もが試練を受けなければなりません。


私たちに必要なのは、サタンが億千万回試そうとしても試すことのできない御言葉です。しかし、イエスがサタンに侵されながら残して行かれた御言葉を持って信じて進んでいるので、その信徒たちにサタンが攻撃してくるのです。それでは、実体を持ち、サタンの試練を乗り越えることのできる時代はいつ来るのでしょうか?その時が再臨の日です。


私たちの身体にサタンが侵すことのできない御言葉の種を蒔いて、神様の御言葉として収穫しなければならず、私たちの身体に御言葉を通じた実体を蒔いて、神様の実体として収穫しなければなりません。そして、神様が喜びに満ちて抱きしめ、愛されることのできる、霊と肉が一つとなった完成実体とならなければなりません。そのような存在が、キリスト教で言う最終的な新郎新婦となることのできる存在です。


終末である今日には、聖霊の働きがあります。このため、私たちの中で聖霊が100%働くことができるように促すことのできる信徒が現れなければなりません。何を言っているかわかりますか?それでは、聖霊が今日、私たちのために働かれるその理念の基準は何でしょうか?聖霊を前に置いて問いかけるべきです。これが終末の私たち信徒がしなければならないことの一つです。


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イエス様が来られてから聖書は66巻になりました。新約聖書には4つの福音書以外にもいくつかの巻がありますが、イエス様が地上に来られた後、最後に収録された黙示録があります。その御言葉は、イエスがこの地上に来られて話したかった御言葉ですが、それを霊界で示されたのです。


聖霊がこの地上で行われる働きを終えるためには、イエスが亡くなられた後、聖霊を送られるときの御言葉の本意を完全に理解し、送られた実体の事情を理解して、その実体以上の位置まで超えて行ける一つの存在が現れなければなりません。このようにして、聖霊の働きは地上で収穫され、地上に聖霊の代わりとなる存在を立てて、聖霊の働きを継承させようとするのが神様の摂理の意図です。


だからこそ、神様の働きは神様に代わるイエスに移されましたし、イエスの働きは聖霊に移されました。今、聖霊の働きを今日信じる信徒たちに移そうとされているのです。それによって、三位一体が休むことができます。そのような位置に進む前には、神様が立てられた御言葉を見つけることができませんし、私たちの身体に御言葉を蒔いたとしても、その御言葉の目的を果たした自体にはなれません。


イエスは復活後、新婦になるべき立場にあったマグダラのマリアが抱きしめようとしたとき、近づいてはいけないとおっしゃるしかありませんでした。それは、マグダラのマリアが『おお、いいよ。』と言ってイエスが手を広げて抱きしめてあげることができる新婦の装いを持っていなかったからです。歴史的な怨念をすべて清算し、生きて完成の御言葉を語ることができる位置に立った新婦になって初めて、サタンが訴えることができません。また、そうであってこそ、摂理が終わるのです。


イエスが来られてから2千年という長い歳月を待ちたかったのが神様の本来の心ではありませんし、イエス様の心もそう願っていたわけではありません。それでは、どうして2千年という長い歳月を待たせることになったのでしょうか?数多くの困難をすべて乗り越えた後、『神様の6千年の歴史の内容はこのようなものでした。』と言える実体、すなわち神様に代わる完成実体としてサタンが反論できない御言葉を語ることができる者が一人も現れなかったために、2千年間待たざるを得なかったのです。このようにして、2千年という長い歳月の間、摂理が延長されたことを、私たちは知るべきです。これが神様の悲しみであり、イエス様の悲しみです。


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終末において、私たちがイエスの御言葉を通じて、イエス様の実体を握りしめて進むとき、何をしなければならないのでしょうか?私たちはサタンが侵すことのできない働きをしなければならず、サタンが侵すことのできない御言葉を語らなければなりません。それでは、その御言葉とはどのような御言葉でしょうか?イエスの身体を握りしめた後に、イエスの心と愛を私たちの心に移し受けることのできる御言葉です。イエス様の御言葉を通じて、実体として現れる方を知り、イエス様の心情を通じて心の基盤を持った後に初めて、約束された神様の愛が人類に与えられるのです。これが復帰です。


堕落せず、御言葉を完成した実体として立ったならば、アダムに神様が臨在され、アダムは神様の実体、御言葉の化身となったでしょう。すなわち、アダムの身体の中に神様が臨在され、アダムの心は神様の心として、アダムの心情は神様の心情として、アダムが感じる感情も神様の感情として現れることができたでしょう。これが創造の目的でした。皆さん、しっかりと知るべきです。


今日、キリスト教で信じられているように、神様は尊厳な方であり、私たちと関係を持つことのできない方なのでしょうか?違います。聖書ははっきりと語っています。「私がお父様の中に、お父様が私の中に、私があなたたちの中にいることを、あなたたちは知るであろう。」(ヨハネ14:20)と。


私たちは何を信じるべきでしょうか?イエスの表面的な部分だけを信じるのでしょうか?違います。私たちはイエスを御言葉の実体として、神様の心情の実体として、神様の心の実体として信じるべきです。そうして、神様の心情と神様の理念、そして神様の命と神様の愛を私たちの身体に移し受け、天が動くなら共に動き、天が止まるなら共に止まることのできる人間にならなければなりません。このように生活の面で天と動き、天と止まることのできる、天と切り離すことのできない関係を結ぶ人間を作り上げようとするのが、創造の目的でした。


今日、神様を信じている人々のように『おお!神様!』といったそのような観念的な信仰を持つ時は過ぎ去りました。そのような神様は、今日発展するこの社会に何の価値も与えてくれません。そのような神様は必要ありません。


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今、終末に神様を信じ、神様を求めて進んでいる真の神様の息子娘がいるならば、その人たちは神様を生活の中心に据えることができなければなりません。そのような神様を人間が求めるその時に、神様はため息をつかれるでしょう。その時、神様がため息をつかれ、相談できる人間は、億千万のサタンがいたとしても侵すことができません。なぜなら、神様の愛を中心に据え、神様の心情を通じ、神様の心を通じ、神様の御言葉を通じた人、神様の事情を抱きしめて愛する者を奪い去ることのできる存在はないからです。いません。いません。


イエスがこの地上に来られましたが、神様がイエスを握りしめて、『あなたは私の永遠の息子であり、サタンを根本的に屈服させた私の真の息子だ。』とおっしゃって、一度も愛されたことがありません。神様がイエスを握りしめて愛されなかったことを知るべきです。イエスが霊肉を通して神様の完全な愛を受けて行かれたならば、楽園に行って祈る必要はなかったでしょう。それでは、イエスの怨念は何でしょうか?新郎新婦の関係を築けずに行かれたことです。


神様の御言葉を通じることのできる個体として神様の愛を受け、霊肉を一つにした実体として、サタンが到底訴えることのできない勝利の御言葉を神様に代わって現すことのできる位置に立たれたならば、その時代にイエスがそのような御言葉を立てて行かれたならば、イエスを信じるキリスト教徒たちにサタンはびくともしないで屈服したでしょう。


しかし、イエスが亡くなられたことで、この地上で実体として締めくくられるべき創造理念を締めくくることができなかったのです。それによって、イエスは霊界に行かれて霊的な働きをされています。イエスが聖霊を通して霊的に活動されますが、肉の働きが残っています。このため、イエスは肉を探し求めなければなりません。これがイエス様の事情です。


イエスの肉を打ったサタンには、今日この地上にいる人類の肉を握りしめて対抗する条件が残っています。私たちはこれを知り、その条件に堂々と反対して進まなければなりません。


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聖霊も私たちを探す際、私たちの肉体がなければなりません。身体がなければなりません。


身体とは何でしょうか?それは、神様が宿ることのできる聖殿です。神様が私たちの身体を聖殿として造られたために、イエスも聖殿を通じなければならず、聖霊も聖殿を通じてこそ救い摂理を行うことができるのです。救いとは何でしょうか?それは、善を繁殖することです。善の息子娘を繁殖するのです。霊肉の実体を通じずに繁殖する存在が地上にどこにいるでしょうか?そのような被造物はありません。


だからこそ、神様もイエスを地上に立てて、堕落後4千年間積み重なってきた歴史的な悲しみを清算しようとされました。このようにして、イエスは神様の御言葉を成就する代わりの存在であり、神様が臨在されることのできる創造本来の第2のアダム的な存在として来られた方であり、神様の心情と事情と願いを持って来られた方であり、神様の理念と生命力と愛を持って現れた方でした。これをしっかりと知るべきです。人間が堕落した後、神様の悲しみは何でしょうか?それは、御言葉を自由に語ることができる人を失ったことであり、その次には命を繁殖させることができる実体を失ったことです。


神様が宿ることのできる天の血統を持つ民族はどこへ行ったのでしょうか!だからこそ、生命の中心としておられる神様が御言葉の相対者を探しておられ、御言葉に代わることのできる生命体を持つ神様の血族を探しておられることを知るべきです。その次には、神様の理念を探しておられます。そして、その後に初めて愛が授けられるのです。これが復帰摂理を進められる神様の意志であり、創造理想であることを私たちは知るべきです。初めて聞く方は、この内容をよく理解できないかもしれません。


それでは、終末とはどのような時代でしょうか?神様の御言葉に代わることのできる一つの存在がこの地上にいないために、人類は東西南北に分裂し、数多くの困難な道を経ながら御言葉の実体を探し求めなければなりませんでした。そのために、物質を奪おうとする戦争時代を経て、思想戦争時代を迎えました。今、この思想戦争時代を経ると、良心戦争時代が来るでしょうが、これから来るその時代を宗教戦争時代と呼ぶことでしょう。


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そのような時代を過ぎた後には、どのような時代が来るべきでしょうか?心情と愛の戦争時代が来るべきです。サタンの愛が大きいか、神様の愛が大きいかという時代が来るべきです。これが堕落した人類が歩むべき運命の道です。行きたくても行かざるを得ない必然的な道であることを知るべきです。


それでは、今の時は何をすべき時でしょうか?思想界に代わる精神界を形成すべき時です。そして、これからは心の主義が出なければなりません。もし心の主義が現れるならば、皆さんの心はその理念に引き寄せられるのです。このようにして、心の主義が現れ、基盤を築くならば天情が動き、人情が動いていきます。このようにして、その理念の範囲内で生きざるを得ない、そのような主義が出るべきだということです。


歴史は物質的、つまり最下層の次元から戦いを進めていくのです。だからこそ、6千年の縦の歴史は、物質から精神界、精神界から心の世界へと探し求めて進む歴史です。一方で、サタンの権限は上から下へと降りていく歴史を経て進んでいます。最上位と主張していた上流階級から中流階級、下流階級へと降りていきます。しかし、このようなものはサタンの支配下にあるため、すべて消え去ってしまいます。歴史の発展過程も、物質を中心にした戦争、つまり第1次世界大戦と第2次世界大戦を経て思想戦争時代に入ります。しかし、このようなものもすべて過ぎ去ります。その次には、心の戦争時代が来て、心の主義時代が来ます。


これまでの歴史の道程において、上流階級も世界を支配してみましたし、中流階級も世界を支配してみました。今度は下流階級が世界を支配するでしょう。また、歴史の発展過程を見ると、人類は物質を中心に戦ってきた時代を経てきました。今は精神を中心に戦う時代です。これからは、良心を中心に戦う時代が来ます。この良心を中心に動くのが宗教です。


だからこそ、宗教が戦う時がやがて来ます。これから天を中心にした心、その天的な心を中心にした真理、心を通じ、情を通じ、全天地と情を分かち合い、『神様と私は一つだ。』と結論づけることのできる真理を持つ宗教が出るべきです。そのような時代が来るでしょう。それがそうなるかどうか、見ていてください。


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宗教家たちは昔から物質を探し求めず、物質を放棄してきました。この人たちは最も愚かに見えますが、最も賢い人たちです。宗教は歴史的な戦争の条件から脱出できる基盤を築いてきました。イエスを信じて行った人たちは、戦いの歴史を経た人たちが行く地獄を免れることのできる最も安全な基盤を築いてきた宗教を信じたのです。


今日、自分を主張して歩き回る青年男女たちが『おお!宗教!』と笑っているが、そのような時は過ぎ去ります。見ていてください。そのような時代遅れの思想を持っていると、これから共産党に打ちのめされます。『ああ!私は知らなかった!』という時が来ます。天地の運勢はこのような過程を経て越えていくのです。


今、残された最後の主義はどのような主義でしょうか?『良心的な人々を皆動員せよ。』というスローガンを叫びながら出てくる主義です。このような主義は、人類が望む御言葉に代わり、御言葉を通じて実体に代わり、実体を通じて情に代わることのできる主義です。このような内容を備えて、『良心的な人々を動員せよ。』という時が来ることを、皆さんが知らなかったならば、期待していてください。


これまでの歴史の道程で、良心的な道義生活をした人々が一度世界を揺さぶったことがありましたか?イエスも『貧しい者に福音が伝えられる。』という御言葉を言われましたが、道義生活をした人々が世界を揺さぶったことはまだありませんでした。


心の世界だけが全宇宙を支配することができます。物質世界と精神世界には障壁が多いです。精神世界には主義が四方性を持っています。一つの統一的な中心を持つことのできる基盤は、どこから始まるのでしょうか?それは精神から始まるのではなく、歴史の道程を共通して動かしていく心の土台から始まることを知るべきです。皆さん、これを考えてみましたか?精神も区別された位置に立つことはできますが、変わらない一つの基準は心の主義です。


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私たちは真の宗教を探してさまよい続けてきました。6千年間、さまよい続けてきました。今、私たちは神様の前に心を開き、歴史の発展道程の動きと歩んできた摂理の道程の悲しい困難を知り、『今、神様が臨在されることのできる本来の心が懐かしいです。』と言いながら、終わりなき涙を流すことのできる主人公にならなければなりません。


天はそのような存在を探してさまよい続けられました。今日もさまよっておられます。明日も探し求め続けられるでしょう。これを皆さんは知るべきです。このような理由で、神様は数多くの民族を率いられ、彼らに善を指向させ、良心を正すために宗教という言葉を頼りにして、その宗教の道理を足がかりにして世界を動かし続けておられます。


だからこそ、宗教の理念は昔も今も、平面の直線上を歩んでいます。歴史は困難な道を進もうと進むまいと、思想主義はどのような困難、どのような戦いの道を経ようと経まいと、どのような犠牲と困難に直面しようとも、心的世界の理念で立てられた宗教は平行線上を守り続けようとしています。しかし、これがいつまでも平行線上を歩んでいるだけではいけないということです。


今日、私たちが良心的な基準を探して進む道にも悪が対立しており、サタンが反論できる余地があります。だからこそ、私たちは私たちの心と天の心が一体となるその起点の上で、人情と天情が一体となり、私たちの理念と天的な理念が一体となるその起点の上で、私たちの命と天の命が一つとなり、私たちの愛と天的な愛が一つに絡み合うその起点で、天と縁を結ばなければなりません。天と私たちの心が一つになり、命が一つになり、理念が一つになり、愛が一つになった縁を何で断ち切ることができるでしょうか?堕落した人間同士が結んだ情の縁も断ち切ることができずに泣いて騒ぐのに、天情で絡み合って一つになるその縁を誰が断ち切ることができるでしょうか?


世の中にどんなに罪悪の力が強く、地の権力が強いとしても、この心の根本で結ばれた情的な流れの一つの基準を打ち砕くことのできるものは何もありません。そのような基準を見つけるまで、歴史はもがき苦しみ、人類は苦境の中で苦しむでしょうが、これを防ぐ勇者は地上にいるでしょうか?青年男女がいるならば、このような責任を担うために、このような使命の道を切り開くために、自分の身体を一つの爆弾として、一つの原子爆弾として用い、サタンの城を破壊しようという燃える爆発の心情を持つ勇者がいることを、私は待ち望んでいます。


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今日も行かなければならず、明日も行かなければならない嘆きと恨みの道、時を逃せば千秋万代の子孫たちまでもが行かなければならない悲しい道を誰が責任を持って阻んでくれるでしょうか?いるとすれば、それは天です。今日、私たちがこれを知ったのですから、私たちの時代にこの道を歩まなければなりません。


食べるものを食べられず、着るものを着られず、あらゆる困難と暴風が押し寄せたとしても、『これを私が責任を持って敵に対して戦おう。』と言える真の息子娘、そのような勇気を持った天の精兵たちが多く現れることを天は望んでおられます。これを皆さんは知るべきです。


このような人々が世界が求める人々であり、民族が求める人々であり、教団が求める人々です。人間が生きてみれば70~80年ですが、神様が人間のために6千年間苦しんできたことを知り、その神様の心情を知るならば、この地上の出来事が自分の望むように成し遂げられないとしても嘆くことはできないでしょう。


迫害があっても、神様が6千年間受けられた迫害に比べられるでしょうか?悲しみがあっても、神様が6千年間受けられた悲しみに比べられるでしょうか?追い詰められても、神様が6千年間受けられた悲しみに比べられるでしょうか?私たちは踏まれても弁解せず、追い詰められても弁解せずに進まなければなりません。無念さを味わい、迫害を受けても弁解せず、天の心情を慰めるために、『お父様!人間の祖先がこのような困難を引き起こした張本人でしたので、私たちの祖先に代わって今日、私を迫害させ、神様がこれまで苦労してこられた苦難の道程と歴史の道程をこの時間、天の心情と共に体験する歴史的な犠牲として立ててくださったことを感謝いたします。


お父様!私があなたの涙を代わりますので、どうか、涙をおさめてください。私があなたの悲しみを代わりますので、どうか、悲しみをおさめてください。私の無念さと憤りで、あなたの無念さと憤りを代わりますので、今、無念さと憤りをおさめてください。サタンに対する戦いと歴史以来今まで、あなたの心にかかっている雲をすべて取り除いてください。私を犠牲として清算してください。私がいるので、お父様、慰めをお受けください。』と言える天の勇者、青年男女が現れることを天は待ち望んでおられることを皆さんはしっかりと知るべきです。


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天のために進む道が死の道、迫害を受ける道、涙の道であるとしても、私たちは進まなければなりません。その道は私たちが泣く前に天が先に私たちのために泣かれた道であり、私たちが悲しみ、嘆く前に天が先に悲しみ、嘆かれた道です。このようにして、天が私たちのために6千年間苦労してこられたことを皆さんは知るべきです。


歴史の道程は心の主人公を探し求める道程です。今、この歴史はどこへ向かうのでしょうか?心の中心を見つけられない者、心の主人を見つけることのできる心的基準を持たない者は、天的な愛は夢にも見ない方が良いでしょう。このような観点から今日、信仰を持っているキリスト教信者たちを見ると、これとはあまりにもかけ離れた生活をしています。


天情を通じて進む道が骨髄の道です。人情を通じて進む道は外向きに流れる道です。このような姿勢で天を代表して立っているかのように振る舞うのは軽率な行動です。このような者たちが地上から一掃される日が終末の審判の日であることを皆さんはしっかりと知るべきです。


皆さんは迫害されている統一教会を訪れました。なぜここを訪れたのでしょうか?皆さんは命を渇望している者たちであり、心の乾きを感じている者たちであり、理念の欠乏を感じている者たちであり、命の飢えを感じている者たちです。このようにして追い詰められ、傷ついた身体を引きずってここに来ましたが、ここにはまた、傷ついた身体に加えられる鞭があります。皆さん、ごめんなさい。


しかし、傷ついた身体を引きずって来た私たちに、どんな困難があったとしても、それは天の困難に比べられません。これをイエスはあまりにもよく知っていたため、十字架の死の峠でも民族を救うために自分を送られたが、民族を失うことになった神様はどれほど悲しいだろうかと感じられました。このようにして神様の悲しい心情を知り、民族のために4千年間苦労された神様を心配する心に満ちていたために、彼自身をサタンに差し出しながら敵に向かって祝福を祈ることができる堂々とした心の余裕があったということです。これを皆さんが知るべきです。


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今日、このようなキリスト教信者がいますか?だからこそ、私たちは与えられた使命を分かち合って担わなければなりません。『神様よ!私たちに力をください。これを知ったので、力が尽きる日までこの目標に向かって走ります。走っていて力が尽きて倒れたら、また力をください。』と言って進まなければなりません。祈るとまた力が与えられます。今日も明日も、いや10年、20年、40年を走る覚悟を持って進まなければなりません。今、皆さんはこのような覚悟で神様の御言葉を探し求めなければなりません。


この地に聖殿を建てるために来られたイエスを裏切ったイスラエル民族は、イエス様と一つになれなかったために、聖殿の実体であるイエスを失い、2千年間、荒野をさまよう民族になってしまいました。これは、イスラエル60万人の群衆の前に天を代表して立てられたモーセを民族の指導者ではないと裏切ったのと同じことです。イスラエル民族がモーセを見捨てたことが、イエスを裏切ることのできる歴史的な条件となったのです。それと同じように、困難な歴史の場に戻って、終末に直面した今日の全世界の人類は、世界的なカナン復帰2千年の過程を経て、世界的なカナン復帰のための40年の道程を中心にして、第1次、第2次世界大戦を経て、今、第3次世界大戦が起こる危険の中で生きていますが、摂理の中心がどこにあるのか分からずに苦しんでいます。


どのような学説やどのような理論を基にして実践してみても解決策を見つけることができずに苦しんでおり、自分たちが主張する実証的な何かや生活的な倫理観も自分たちの実体的な永遠の基準だと自信を持つことのできる内容や心的基準を持っていないという事実を、私たちはあまりにもよく知っています。


だからこそ、宗教も苦しみ、倫理も苦しみ、哲学も苦しみ、どのような主義もすべて苦しんでいます。科学者たちまでもが苦しんでいます。この時が世界の終末時代、悲惨な荒野時代です。中心存在たちが中心を見つけられず、天倫を裏切ることができる時であり、持っていた中心までも失うことができる時です。


今日、この時代に私たちは世界カナン復帰を建設する過程で倒れたイスラエル民族とならずに、第2のイスラエルの理念を備え、モーセを裏切った民族を蹴り飛ばしてカナンの地を奪還しようと叫びながら進んでいったヨシュアとカレブのような人物たちとならなければなりません。このような人々を指して聖書は終末の二本のオリーブの木と言ったのです。


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このような時が終末に来るでしょう。その時、世界のキリスト教徒たちは、荒野でさまよい続けた60万人の群衆のように苦しむことになるでしょう。ここで、第2の選民的な理念を新たに認識し、新しい理念を備えて、これまでのすべての間違ったイスラエルの生活習慣を蹴り飛ばして『ヨシュアとカレブを中心にして進んでいこう、行進しよう!』と言える群れが現れなければなりません。


だからこそ、終末に直面している今日のキリスト教信者たちは、新しいカナン復帰を目指して進まなければなりません。新しいカナン復帰に行くことのできる思想観念で武装しなければならない緊迫した立場に置かれています。そして、この理念の楽園を阻んでいる敵たちに一撃を加えることのできる心情的な武装をした勇士たちにならなければなりません。しかし、今まで漠然と荒野をさまよい続けています。


ヨルダン川を渡ってヨシュアとカレブの後に続いて新しいカナン復帰を探し求めて進んだ2世たちのように、モーセがファラオの宮廷で残忍な悪手を蹴り飛ばして出てきた以上の決意を持って、過去の民族が持って倒れたすべての歴史的な観念を一掃してしまわなければなりません。『そのような観念を一掃して進もう』と叫ぶ声が地上に響き渡ると、信徒たちは耳を傾けてしっかりと聞かなければならないでしょう。


今、終末に直面している私たち信徒たちは、天に向かって歴史的な祈りを捧げなければなりません。どのような祈りでしょうか?モーセがシナイ山で石板を受け取るために捧げた祈り以上の祈り、アブラハムがモリヤ山で捧げたイサクの燔祭の時の祈り以上の祈り、イエスがゲッセマネの園で命を賭けて捧げた祈り以上の祈り、十字架を背負ってゴルゴタを目指して神様の心情を探して一歩一歩進みながら心で捧げた祈り以上の祈りです。


このような祈りをしようとする心情に満ちて天と地を抱きしめて涙を流す群れはどこにいるでしょうか? 探さなければならない時が来たことを皆さんは知るべきです。


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