文鮮明先生御言葉選集 5 - 7. 「おお!私はどこに行くべきか」 (1959年1月18日)
1959年1月18日(日)、前本部教会。
聖書拝読:マタイ7:7-8
<祈祷(I)>
一週間の間に受けた傷と傷ついた心を持って、再びお父様の前に参りました。憐れみ深いお父様!この一時間、愛の御手を伸ばし、私たちの体と心を包み込み、私たちの心の上に、お父様の愛と教えを注いでくださるよう、切にお願い申し上げます。
お父様、この日は新年に入って三度目の聖なる日です。どうか、私たちの心がお父様の心の中に留まることを許し、私たちの体がお父様の懐に抱かれることを許してください。この一年、私たちが父と共に喜びを分かち合うことを許し、お父様の希望の領域の中で生きることを許し、父に代わってサタンと戦うことができるようにしてくださるよう、愛するお父様、切に願い求めます。
善の理念と善の愛と善の生命と善の栄光を持ち、私たちを探しに来てくださったお父様の歴史的歩みを知るとき、私たちはお父様の前に顔向けできない民であることを認めざるを得ません。しかし、お父様の善なるその心を変えずに、私たちを再び見つけて教え導いてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
命と死が今日、私たちの命を天秤にかけて見ているこの一時間であることを認識させてください。私たちの体と心をお父様の前に捧げる生ける捧げ物であるべきことを理解しました。そして、これまでの生活と今日という一日の生活も、聖別されるべき一時間であることを認識しています。どうか、体と心のすべてをお父様の前に捧げ、再びお父様の認めを受けることができるこの時間としてください。お父様、切に願い求めます。
私たちは、お父様が大きな期待を持って接してくださるときに、失望させてしまう不完全な者たちです。しかし、あなたとの歴史的な縁と血統的な縁を持つ私たちであることを見て受け入れてくださり、この一時間、親しく私たちを訪ねてくださるよう願い求めます。
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不完全な体と心が一つとなり、サタンと対峙するためにお父様の前に伏しているのです。私たちの訴えと捧げる礼拝が、お父様の前に喜びとなりますように。お父様が私たちを責任を持って扱ってくださらなければ、私たちはサタンの懐に引きずり込まれてしまうことを知っています。お父様、この時間、親しく私たちを導いてくださるよう切に願い求めます。
ここに集まったあなたの息子娘たちを親しく教え導いてください。この一日、天のために戦う責任を私たちが負わなければならないことを知っています。お父様、愛する幼い息子娘たちがお父様の前に集い過ごしているこの期間を通じて、天の心情を感じ取らせてください。この機会にお父様の御心を成し遂げるために歩んだ人々の足跡を知ることを許し、さらに、お父様の息子娘が戦って進んでいたその戦いの道を知ることができるようにしてください。天の御業を知ることができ、天が永遠に手放すことのない息子娘たちとなるようにしてくださることを、お父様、心から願い求めます。
彼らには、世界中に散らばっている多くの兄弟姉妹を見つけなければならない責任があります。隠された祭壇を築き、天の前に切に祈りながら、血に染まった祭壇を築いている、踏みにじられているあなたの息子娘が多くいることを知っています。どうか彼らを慰めてください。お父様が彼らを集められたのは、天の使命を与えるためであることを知っています。どうか彼らをサタンの世界から永遠に区別し、お父様が永遠に抱きしめてくださるように願い求めます。そして、お父様の栄光の祭壇を担うことのできる祭司たちとして、その責任を全うする完全な姿を備えることができるように許しください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、今日、恩恵に報いる術がない私たちであり、何も捧げることができない私たちです。憐れみ深いお父様、孤独な者の友となってくださるお父様、罪人を許してくださるお父様、そのような私たちをお許しくださり、この一時間、見捨てずにいてくださるよう切に願い求めます。
私たちの心を知るお父様、ときに孤独な場所に置かれ、天に対する思いで苦しむ息子娘がいることを知っておられるでしょう。どうか彼らを見て、全体を憐れんでください。彼らはこの一時間、お父様の許しとお父様の慰めを求めているでしょう。どうか彼らに恵みをさらに与えてください。憐れみの御手を差し伸べてくださるよう切に願い求めます。
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お父様、この時間、多くの眠れる人類を祝福してくださり、苦難の中にある三千万民族を祝福してくださり、道を失い、行くべき道を知らずに分裂して戦っている韓国の教団を祝福してくださるよう願い求めます。彼らに生命の旗を掲げさせ、鞭を打ってでもお父様の戒めを受けることができる息子娘たちにしてください。
私たちには、進んでも犠牲にならなければならない責任が残されています。人間的な考えでこの犠牲の生活を望まないことが多い私たちですが、それでもこの責任を与えてくださるお父様の心情を理解できるよう導いてください。すべての条件を乗り越えて、今日も、明日も、十年後も、死の谷に至るまで進み続ける責任があることを知り、どうかその一つの道を最後まで歩むことができるよう、疲れず、失望せず、ためらわないように許してください。お父様、切に願い求めます。
今日、私たちのこの礼拝を親しく受け入れてくださり、この時間にも地方の孤独な信徒たちが牧者を送り出して、ひざまずいて切に祈っていることを知っています。どうか彼らの涙に満ちた祈りを踏みにじる者とならないように導いてください。彼らの真実を踏みにじる者とならないよう導いてくださることを、お父様、切に願い求めます。
私たちの心と心が通じ、心情と心情が通じる者たちとなることを許してください。父を中心としてすべてが通じ合い、思いを交わすことができる者たちとなることを切に願います。残りの時間を親しく導いてくださるように願い、主の御名によって祈ります。アーメン。
<祈祷(II)>
お父様、多くの人々が進むべき方向を知らないまま、あなたを求めるために非常に悲しい歴史的な道を歩んできたことを私たちはよく知っています。おられるようでおられないようなお父様の存在、歴史とともに生きておられるようでありながらも、確信を持って存在しているという認識を持つことができないお父様、私たちの心と共におられるようで、実体的な存在として定義することができない父を、私たちは非常に悲しい気持ちで見つめています。
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善の理念で全宇宙を創り、人間に真の良心を与え、知情意の感情を通じてその善の理念を体感することができる驚くべき祝福を下さったことを私たちはよく知っています。しかし、お父様の存在はある時点の時間的な限界でしか感じられないという事実を否定できないこともよく知っています。
今、私たちの心に入ってくるお父様の御姿を思い出すたびに、私たちは知らず知らずのうちに悲しみに囚われてしまいます。惨めな自分の姿を見て嘆かずにはいられません。このような境地に導いてくださる父、それは私たちの命を永遠の命へと導くための、お父様の歴史的な心情の働きであることを理解しています。
歴史の背後で、歴史を一つの実体的な理念として成し遂げるために、私たち人間が知らないうちにその心情と心を通じて見つけてくださった父を知りたいと願い、お父様の心を私たちの生活の理念と生命の理念として確立することを切に願い求めます。しかし、お父様の存在の価値を確かに知らないために、私たちの生活の価値も知らず、私たちの命の価値も知らないまま、今日も明日も苦しみ続けなければならない惨めな立場に置かれています。お父様、そのような私たちを憐れんでください。惨めな死の瀬戸際でさまよっている今日の私たち一人ひとりを憐れんでください。
今、お父様、愛の御手を伸ばさなければならない時が来たことを理解しています。その愛の波が私たちの周囲の環境と私たちの心情の世界にまで及ばなければならず、唯一主導的な権限を持っているそのお父様の心情の権限を私たちが回復しなければならない時であることを理解しています。心を中心にして戦わなければならない時が到来していることを知っています。どうか、閉じた心の扉を開く寛容な者となることを許してください。今、体を屈してお父様の前に礼拝を捧げる準備を整えた息子娘となる時が来ました。どうか、私たちの心の扉を叩くお父様の声を聞くことができるようにしてください。私たちの前に現れるお父様の御手を見ることができる私たちとなるよう、切に願い求めます。
残された恨みの土台、恨みの障壁を乗り越えて進まなければ、終末に至る決戦が残されていることを私たちは理解しています。お父様、これを理解し、お父様の存在を知っているあなたの息子娘に力と能力を与えてください。すべての苦難を乗り越えて戦うことができる堂々とした姿、天の正兵の姿を備えることを許してください。あなたの決断に従って、審判の権限を代行するにあたって堂々として自信のある息子娘となることを、愛するお父様、切に願い求めます。
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選ばれた者たちを祝福されたのもあなたであり、それを成就させるのもあなたであることを知っています。私たちの心の根本は善であり、また、善を通して動かされていることを知っています。善の目的も、歴史的な目的も、摂理的な目的も、父を中心にして一つとなることであることを知っています。従って、善の心情を通じて憧れる理念的な頂点が実を結ぶことを許し、その理念の本体となるために着実に進むことができる自分を立てるこの時間となることを、お父様、切に願い求めます。
今、私たちの心がどこを向いているのか、私たちの体がどこに向かって動いているのかを見つめさせてください。今、私たちの心が父を慕い、善を慕うために全精力を注ぐことができるようにしてください。私たちの体は善を掴むために苦しみながら切に求める手を差し伸べて、父を呼ぶことができるようにしてください。
父を掴み求め続けてきたのが6千年の歴史であることを知っています。お父様の前に率直な自分を立て、礼拝し、自分のすべての事情を打ち明けて、教えを受けることができるこの時間となることを、愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、ここに集まった息子娘たちを憐れんでください。この時間はお父様の前に捧げ物を捧げる時間でした。どうか、この時間だけでも天も頭を下げ、千千万万の聖徒も頭を下げ、万人も頭を下げ、万物も頭を下げることができるように許してください。昔、イスラエルの民がお父様の前に捧げ物を捧げたとき、父も頭を下げて見守り、地上の万人、万物も頭を下げたことを知っています。今日のこの一時間、私たちも知らず知らずのうちに頭を下げて憐れみの恵みを求めることができるように許しください。お父様、親しく訪ねてくださり、受け入れてくださり、導いてくださることを切に願い求めます。
他の人が通らない道へと追い込むのも父であり、行きにくい道へと導くのも父であったのです。どうか、お父様がこの道を責任持ってくださるよう願い求めます。私たちは、どんな人間の心に動かされたのでもなく、どんな人間の事情に引かれて来たのでもなく、行きたくなくても行かざるを得ない心の力に引かれてここまで来ました。どうか、怠惰にならないように導いてください。
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あなたが急かす教えを知らない私たちです。その教えを理解し、その教えの方向に向かって進むように、時間ごとに力強く衝撃を与えてください。どうか、あなたに向かって進む過程で脱落する者がいないようにしてください。お父様、切に願い求めます。
今、自分のすべてをお父様の前に差し出すことを許してください。私たちのためにお父様の祭壇を汚すことがないように許しください。誠心を尽くしてお父様の前に捧げ物を捧げようと伏しているこの時間としてください。
自分の主義や認識、あるいは何らかの観念が残っているならば、この時間すべて取り除いてください。幼子の心で、すべてをお父様のものとして捧げ返し、地上のサタンに対して誇ることができる息子娘となることを許してください。お父様、切に願い求めます。
今、御言葉に接しようとしています。お父様、共にいてください。多くの教えをお与えくださることを知っています。どうか、聞いた後に天を悲しませることがないようにしてください。切に願い求めます。
今、語る者の心も受ける者の心も一つとなることを許してください。この時間だけでも幼子の心に戻り、母の懐に抱かれて乳を飲むような、そんな時間となることを切にお願いし、すべての御言葉を主の御名によって祈ります。アーメン。
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<御言葉>
今日、皆さんは神が存在するかどうかを確信できていません。しかし、皆さんは生きざるを得ない運命にあり、また、進まざるを得ない運命に置かれています。それにもかかわらず、常により良いものを求めて進んでいます。この動きは、今日も明日も、そして歴史が終わる日まで続くでしょう。また、皆さんやその子孫までもがこの道を進むでしょう。この事実を皆さんは否定できないはずです。
どうせ何かの目的に向かって進まなければならない私たちであれば、私たちはどこへ向かい、どう生き、どう行動し、善と悪についてどのような主張を持つべきか、よく考える必要があります。
皆さんがこうした複雑な問題を一つ一つ解決して明らかにしようとする気持ちが芽生えたとしても、この世の現実を見つめると、後退できる道があるならばその道を選びたいと強く思うことでしょう。目を開いて世の中を見ても、世界は皆さんが望む環境にはなっておらず、振り返って自分が生きている社会を見ても、その社会が自分の心が望む福祉社会にはなっていないと感じるでしょう。
今や、社会環境と時代が複雑に流れているため、皆さんがその社会に留まることができないという事実を懸念せざるを得ません。
世の中は複雑ですが、今日、どのような理念を持って心霊世界を導いている宗教団体の動きはさらに複雑です。ですから、そのような宗教団体を訪ねてみても、心では引かれるものの、それに従うのは難しいのです。
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今日、このような複雑な状況に絡まって、心は望んでいるのに、体は行きたくても行けないという状況にあります。このように心が望む方向に動くことができない自分自身を嘆かざるを得ない立場に私たちは置かれているという事実を知ることができます。
従って、このような立場に置かれている人々が、生きている間に自分自身を立てて批判しないのであれば、死後にでも全宇宙の前で自分を立てて批判しなければならないというのです。そのような場所を宗教では、誰も行きたがらない地獄の世界と定義しています。
今日、私たちは進まざるを得ない立場にあるため、何とかしてこの道を歩んでこの場所まで来ました。では、自分自身を立ててここまで来たという価値を天が求めるとき、皆さん自身は何を誇ることができるでしょうか?過去を振り返り、後悔のため息をつくしかないでしょう。
過去を見ても、現世を見ても、未来を見ても、同じような立場に置かれている自分自身だということです。だからこそ、私たちは何とも言えない最終的な理念と最高の幸福を心から求めています。では、これはいつ、この矛盾した自分自身とこの世界を超えて成し遂げられるのでしょうか?この事実を理解し、心に衝撃を受け、この矛盾した環境を打破しようという使命感に満ちた真の若い男女がいるとすれば、その人は生への執着心さえも失うような境地に入るでしょう。
自分の体からすべての罪を取り除くことができる自分を持たず、罪に満ちた体を放棄し、誰よりも低い位置に立つことができる自分を持たずに、皆さんの心を何が捉え、どのような理念に向かわせているのか、この矛盾をどう超えるのでしょうか?世界中の人々がここに引っかかっています。全人類と万物、つまり天と地のあらゆる存在物もこの過程に引っかかっているという事実を皆さんは知るべきです。この人間であることを皆さんも否定できないでしょう。
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これを認めたその日から、「私はどこへ行けばいいのか」と嘆き、叫び声を上げる心情の訴えが聞こえてくるでしょう。そこで、今日皆さんにお話ししたい題は「おお!私はどこへ行けばいいのか」です。この題で少しの間、お話しします。
今日、私たちの周りにあるすべてのものは、堕落の歴史的な道を歩んできたことを知っています。そして、今日私たちの周りにいるすべての人々は、堕落した現実の中で生きています。また、この現実を基に堕落の歴史が続くであろうと私たちは予測しています。
では、過去の堕落、現世の堕落性、未来にまで続く堕落の原因をどう解明するのでしょうか?今日まで6千年という長い年月を経て、私たちの先祖たちは数多くの苦労と数多くの犠牲を重ねてこれを避けるために努力してきましたが、堕落の歴史は続いてきたということを皆さんはよく知っています。また、今日の現世においても、罪に満ちたこの世界から抜け出すために、多くの人々が苦しみ、心を痛めていることをよく知っています。
過去もそうであったし、現在もそうである世界に生きている自分自身を振り返ってみると、自分の心に過去の先祖たちが抱いた恨みの心情が動いており、現世の衝撃による悲しみの感情が流れていることを否定できません。
では、今、懐かしく思う一つの縁があるとすれば、それは何でしょうか?今この時は、堕落の歴史的な道を歩んで、悲しみの心情を抱えて戦ってきた私たちの先祖を懐かしく思うべき時です。また、この現世において、死の権威から脱するために、苦難の権威と堕落の権威から抜け出すために、悲しみの心情を抱えて戦っている私たちの同志を懐かしく思うべき時です。
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ですから、今日私たちが過去を懐かしく思うならば、過去に起こった歴史的な事実を懐かしく思うのではありません。その歴史的な悲しみに対抗し、真の信仰の心情を抱えて戦っていた先祖たちのその心情を懐かしく思うべきだというのです。
では、私たちの先祖たちが歴史的な悲しみを清算するために持っていた志操は何だったのか?私たちの先祖たちが今日の自分自身を抱えて立てようとする志操は何か?今日、未来に希望を持ち、現実のすべての逆境を乗り越えながら明日の善の基盤を築くために戦っている同志たちは誰か?
このような心を甦らせることができない人は、歴史的な縁を裏切った者であり、時代的な縁を裏切った者であり、未来を台無しにする者であることを否定できないでしょう。今日、皆さんはまさにそのような立場に立っています。
では、どのような先祖が現れて、皆さん自身について「あなたは私を知っていますか?」と言うとき、皆さんは何と答えるのでしょうか?また、今日この時代において罪に満ちた世界と戦っている兄弟に対して、「あなたは私に何を言ってくれるのか?」と尋ねるでしょう。そして、「明日の道を切り開くために戦い、迫害されている私に何か助言を与えてくれるのか?」と尋ねるでしょう。このように、過去と現在と未来の観点から聞こえてくるその声に対して、皆さんは何と答えるのでしょうか?これが問題です。
一歩進んで、先祖たちが言った言葉を聞いて、先祖たちが言った言葉とその心情を理解したとしても、その理解で終わらない事実がまだ残っているということです。時代的な状況をすべて理解しても、それで終わらない状況が残っており、未来のすべての状況を知ったとしても、それで終わらない状況が残っているのです。つまり、歴史的な悲しみ、時代的な悲しみ、未来的な悲しみが残っているということです。このような悲しみが残っていることを知るとき、私たちは先祖たちに代わって、現在の人々に代わって、後の世に代わって代弁しなければならない自分たちであることを考えなければなりません。
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もし、このような責任を果たせる子孫を持たなかったならば、過去の私たちの先祖たちがいくら功績を残したとしても、その先祖たちは嘆くことでしょう。目的のために戦った人々、悲しみの心情に満ちた先祖たち、天と地に対して恨みの心情に満ちた先祖たちが、今日私たちに一つの希望を持っています。だから、私たちがその心情を持たなければ、私たちの先祖たちの悲しみはさらに深まるでしょう。今日この時代や未来も同じだということを皆さんは知っておくべきです。
復帰の道は語っています。アダムの家庭から悲しみの歴史が始まり、復帰摂理を受けてきた先祖たちは悲しい道を歩んできました。ノアが通り、アブラハムが通り、イエスまで波乱万丈の悲運の歴史を経て、このような悲運の歴史が世界を襲ってきました。
このような歴史的な悲運を阻むために、天を代表し、人類を代表し、歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表してきたのがイエスでした。しかし、イエスもこの歴史的な悲運の運命の前で勝利の条件を完全に成し遂げることができず、一つの希望の日を約束して去ったために、今日まで悲しみの歴史が続いているという事実を私たちはよく知っています。
では、今日私はどこへ向かっているのか!今、皆さんは昔のアダムの心情を超えなければならず、ノア、アブラハム、モーセの心情を超えなければならず、どの預言者やどの個人の心情も超えなければならないばかりか、洗礼者ヨハネとイエス様の心情まで超えなければなりません。そして、私たちはイエス様が去った後、今日までの2千年の歴史の過程で、多くのキリスト教徒が虐殺され、殉教した悲しく悲惨な心情を超えなければなりません。そのすべてを代替できる一つの実体の果実が私たち自身であるということです。だからこそ、天は皆さんが歴史的なその心情の縁と向き合うために、どのような心の基盤を皆さんの心に持っているのか問いかけるでしょう。
天が歴史を経て戦ってきたとすれば、終わりには一人の勝利した息子娘を立てようとするでしょう。だからこそ、私たちは歴史的な悲しみの心情を感じ取って勝利しなければなりません。そして今日、私たちはこの時代において歴史に結ばれた天の悲しみのすべての条件を回復しなければなりません。従って、全体の歴史に対する天の悲しみの心情を抱えて慰めることができる天の息子娘になるべきです。もし、そのような息子娘がいるとすれば、神が6千年の間、誰も抱きしめることができなかったとしても、そのような個々の存在を通して喜びの心情を持って抱きしめてくださるのではないかと考える必要があります。
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皆さんに心情があるならば、これは皆さんの個々の存在から始まったものではありません。先祖の縁を通じ、先祖の心情的な基盤を経ていない存在はありません。だからこそ、その心情は歴史的な心情圏内に属している心情であることを私たちは否定できないでしょう。
では、今日私はどのような心情の世界でさまよい、どのような視線とどのような五感を持って生を営んでいるのか?しかし、これを考える前に皆さんはまず「天よ!私はそのような感覚を持って生涯を生きているのだとすれば、昔のエデンでアダムとエバが堕落する前に神に対する心情、堕落する心情、神が追放する心情、この人類を抱えてノアを立てるまでの1600年間苦労された神の心情、ノアが120年間山の頂で方舟を建てながら無限の蔑視と迫害を受けつつも天を抱えて苦労してきたその心情、波乱万丈の歴史の過程を経てきた神の心情を抱えて一度生きてみたい。」と語りたくなるでしょう。
お父様が歴史の生きた実体として、勝利の象徴として一人の人間を立てようとするならば、皆さんは「お父様、御手を伸ばして、私たちが人間が堕落前に父と共に楽しんだその心情から、堕落後の歴史の悲しみのその場面場面を見ることができるように旅をさせていただけますか?」と祈ってみてください。
では、天の悲しみと人間の悲しみが解決されない焦点はどこにあるのでしょうか?それは人はいても神の心情を掴む人がいないからであり、歴史的な心情を掴む人がいないからであり、今日この時代を摂理されている神の心情と未来の心情を掴んで神の心情を人間の心情と結びつける歴史を成し遂げた人がいないからです。従って、天の嘆きがあるとすれば、この意義を成し遂げられなかった嘆きよりも大きな嘆きはないという事実を皆さんは知るべきです。だからこそ、今、皆さんは天を求める道をもう一度振り返るべきです。神は私たちを永遠の希望の園に送るために、私たちに対して訪ねて来られたのです。
皆さんが原理を通じて知っているように、私たち人間は神の言葉を裏切ったために神の言葉を失い、神の実体を失い、神の愛を失いました。
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神が言葉を発されたときの心情はどのようなものであったのか、実体を創られたときの心情はどのようなものであったのか、その実体を通じて誇りたいと思われた神の内的な心情はどのようなものであったのか?
これを考えるとき、私たちは神の言葉を失った者であり、本来の実体を失った者であり、神の理念の園を動かすことができる愛の実体を失った者です。従って、私たちは自分を立てて誇ることができない罪人であることを悟らなければなりません。また、自分の実体を立てて主導的な行動を起こすことができない存在であり、自分の心を立てて安息の基盤を見つけることができない存在であることを知るべきです。
このような人間になったために、神が私たちを訪ねて来られるには、まず実体を探して来られ、愛の心情で訪ねて来たかったのですが、人間が実体と愛と御言葉を失ったため、神が直接実体として来られることができなかったのです。ですから、イエス様が実体の代わりに来られましたが、イエスも実体を持った行動をすべて成し遂げずに去りました。
御言葉を裏切った人間に実体を代わる存在を与えましたが、人間がその実体さえも裏切ったため、また神の愛を与えましたが、それも裏切ったため、今日私たち人間の前には実体と御言葉、愛などの名詞だけが残されました。だから、人類はそれを探して苦しんでいるのです。
そして今日、私たちは歴史が回っているのだと理解しています。御言葉のような御言葉が私たちを完成させることができず、実体のような実体が私たちを実体として導くことができず、愛のような愛で私たちの永遠の安息を見つけることができないということを知ったので、私たちは「真の御言葉はどこにあるのか?実体はどこにあるのか?愛はどこにあるのか?」というスローガンを掲げ、それを探して苦しむ立場に立っているのです。
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このような立場に置かれた人類を見て、イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。求める者には与えられ、探す者は見つけ、叩く者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われたことを皆さんは知るべきです。
今日、私が歩んでいる一歩はどこへ向かっているのか?探すために歩んでおり、求めるために歩んでおり、叩くために歩んでいるのです。このような歩みを堕落以降6千年もの間歩んできましたが、まだ止まることを知らない運命に置かれています。
では、今私が歩む一歩はどこへ行くのか?この地を見れば、善だけではありません。善よりもむしろ悪が多いです。このような時、私たちの足跡が左に行くのか右に行くのか、または善の方向に進んでいるのかが深刻な問題です。
そして皆さんは真の師を探してさまよっていますが、善の指導者、真の師を探して何をするのか?彼らを通じて、自分の心の安らぎと希望を起こすことができる御言葉を聞きたいのです。何か新しい御言葉を見つけるために新しい師を探してさまよっているのです。では、御言葉を探して何をするのか?その御言葉と一つになる自分自身の実体を作り上げることが重要なのです。そのために御言葉を探しているのです。
これまでの私たちの先祖たちも、天の存在を明らかにするために、人生の根本問題を解明するために努力してきました。そして、そのような努力は今この瞬間も続いています。皆さんがそのような観念に捉えられているかどうかに関係なく、関心を持つ多くの人々は今日も叩いており、探しており、求めており、さまよっています。皆さん、そのような姿を見つめるとき、皆さんもその立場で苦しんでいるのかどうかを考えてみる必要があります。もし、皆さんが苦しんでいないのであれば、歴史を支配してきた神と出会うことはできないということです。今日、この世界にそのような人がいないのであれば、神の意図と善の理念、または私たちが望む希望の時代は天と共に人間と縁を結ぶことはできないということです。この結論に至ることができます。
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しかし、皆さんが知らなくても、必ず探して、さまよい、苦しんでいる人々が皆さんの先祖の時代から存在しており、現在も存在し、また今後も絶え間なく続いていくという事実を否定することはできません。皆さんはこの観点から、今日という存在がどのような立場にあるのかを自問してみるべきです。
今日、若い学生たちが鞄を持って学校に行きます。しかし、鞄を持ってどのような目的で行くのかを考えられない学生がいます。「私は社会に出る。」、「行くとどこへ行くのか?」、「私は国家の重大な責任を負って出る。世界があるので、世界を導くために出る。」と出ますが、そこからさらに進むとどこへ行くのか?天があるならば、未知数が横たわります。世の中のすべてがこのような苦難の場所に置かれていることを私たちは否定できません。内的な世界もそうであるし、外的な世界も同じです。無限に伸びていきたいのですが、一歩進むたびにその苦難の兆しが私たちの前を遮っています。
そこでそれを避けて内的な世界に向かおうとすると、道義や道徳や倫理や宗教といった方向に自分自身を導いていこうとするのですが、そこにもまた無数の苦難が立ちはだかるのです。その時は「神よ、宗教を立てたのですか?神よ、歴史を支配しているのですか?」と言いたくなるでしょう。神がいるならば、なぜこのような悲運の歴史を作り出したのか、またそれを体験させる原因はどこにあり、私が世の中のすべての内的な世界を見抜く権限を持たないで苦しんでいる原因はどこにあるのかを解明しようとする立場で、天と地と世をかけて、自分の命をかけてこの悲運の力と対決しなければなりません。これが分かれ道の峠であることを皆さんは知るべきです。人間はどうしてもこれを越えなければならないのです。
この悲運の苦難をどこで解くのか?世の中を見ると、無数の破滅の理念しかなく、内的な世界を見ると、さらに暗くなり、暗闇に包まれる立場に直面しています。
そのような境地で真理を求める心が強ければ強いほど、地も天も人間自身も失われた中で、天と地に代わって歴史の道を代わりに進んだ先祖たちが苦しんだその歴史的な心情を知って、自分でも知らず知らずのうちに歴史的なその悲運のすべての苦難の言葉を一度自分の口から言ってみたいのです。しかし、天を見つけることもできず、地を見つけることもできません。帰るしかありません。
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では、歴史的な心情の境地で「私は信じます。」と口にしてみても、うまくいかないのです。この瞬間を皆さんが生きている間に感じることができなければ、運命の直前に遭遇することになります。しかし、その時はすでに手遅れです。
では、今日人類が苦しんでいる原因はどこにあるのか?運命の直前にこの難関に遭遇しないためには、若いうちに必死に信じなければなりません。このように若いうちに必死に信じる信仰を持っていることが、人間の希望であることを皆さんは知るべきです。
運命の直前にこれに遭遇すると、どうしようもなくなります。だからこそ、天は人間が若いうちに善を中心とした生活観念、世界観念を持てるように、つまり自分のすべての問題を解決する一つの解決点を与えるために逆境が道へと追い込むのです。天は人間に世を避けさせるために、人間をさらに反対の道へと追い込むのです。
どのような教義、どのような教派よりも自分を信じるようにと強調してくるのです。自分を信じるためには、自分が人類を信じたのと同じくらい信じなければなりません。今日、信じているすべての信者たちを見てみると、彼らは「神を信じています。」、「イエス様を信じています。」と言葉だけで言っていますが、それでいいのです。しかし、このような信仰は通りすがりの人も言うことができます。このような信仰を天は望んでいません。
では、天はどのような信仰を望んでいるのでしょうか?イエス様が「私を信じなさい」と言ったのは、自分が神を信じるようにイエス様を信じなさいということです。また、イエス様が「私は神の子だ。私は神を信じている。」と言えたのは、自分が神を父として信じるように神も自分を子として信じていることを確信していたからです。このような立場でおっしゃった言葉なのです。
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今日、私たちは信仰を求めてさまよっています。御言葉を求めてさまよっており、御言葉を基にした信仰の道を求めてさまよっています。御言葉を持って真の信仰を中心として人々を訪ねて来られるその実体的な一つの中心存在をキリスト教的に言うと、再臨主というのです。人間は神を信仰の基準としてきました。そして、これまでの信仰を分析してみると、御言葉を基にして人類を導いてきました。
では、ここでこれまでの宗教がすべてを解決できなかったために、再び戦わなければならない時が近づいているのです。これを聖書的に言うと、終わりの時の7年大患難の時期です。これを皆さんは知るべきです。
私たちは御言葉を通して実体に出会うべきです。今日、イエス様の御言葉を信じる人は多いですが、イエス様を信じる人は少ないです。イエス様の御言葉に従う人は多いですが、イエス様の実体を頼りに従う人は少ないです。私たちは進まなければならない人間でありながら、真の御言葉を持つ方が現れても信じず、むしろ迫害しています。
では、今日私たちはどのような人になるべきでしょうか?御言葉と一つになるべきです。そして、神に代わって来られた方は、天的な唯一の存在であり、すべての人間の模範であり、人間の全体の理念を代表する存在ですが、その存在と私たちを比較するとき、私たちが違う存在になってはいけません。
だからこそ、最高に善良で、最高に正義であり、最大の勝利者であるその一つの実体を標榜して、皆さんは再び第2の一歩を踏み出さなければならないのです。これが人間が進むべき道です。
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しかし、この地上のすべての人間は6千年という長い年月を過ごしている間に御言葉に頼り、その御言葉通りに生きようと苦しみながら進んできましたが、御言葉の主人公であり、御言葉の実体である方をお迎えして生きた人は一人もいません。
歴史的な私たちの先祖から今日に至るまで、そのような存在を正しくお迎えして生きた人は一人もいないということです。神は堕落後の4千年の歴史を摂理され、多くの預言者たちを立てられ、無限の御言葉を与えられました。そして、人間に一つの中心を見つけさせるために民族を結集し、一つの方向に導いてこられましたが、御言葉の実体を送ることを約束されました。その方が誰かと言えば、まさにメシアだったのです。だからこそ、イエス様は「私が律法や預言者を廃止しに来たと思ってはならない。廃止しに来たのではなく、完成しに来たのだ。」(マタイ5:17)とおっしゃいました。
イエス様はその時までのすべての御言葉を完結することができる方であり、神が歴史の道を通じて与えられたその御言葉以上のものを持って来られた方です。そのような存在として来られたメシアでした。しかし、御言葉の実体であるメシアを待ち望んで来た多くの人類は、いざ現れた御言葉の実体を見逃してしまいました。御言葉の実体をすべて失ってしまった人間になったという事実を皆さんは知っておくべきです。
突然、御言葉を持って現れたイエス様が神を抱えて分かれ道の戦いをして、歴史的なすべての条件を踏み越えたように、私たちもイエス様を抱えて分かれ道の戦いをしなければならない条件が残っているということを皆さんは知るべきです。
では、イエス様を抱えてどうするのか?ヤコブが天使を抱えて戦ったような戦いをすべきです。長子の相続をイサクから祝福されたヤコブは、その日から御言葉を中心にして祝福の条件を立てようとしました。祝福の条件を立てた後には実体を回復しなければなりませんが、そのためには天を抱えて分かれ道の戦いをしなければならないのです。これが本来の私たち人間が進むべき道です。
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では、今日キリスト教を見てみると、まだサタンを支配することができる御言葉の権限を成し遂げていません。真にサタンを支配することができる権限の実体であるイエス様を紹介し、彼のために祈りながら進む信者はこの地上に少ないということです。皆さんがこれまでの御言葉に包まれて、そこからいくら努力しても進むべき道は遠いです。
今日まで6千年もの間、歴史は流れてきましたが、ここからどこへ進むのか?どこへ進むのか?御言葉を踏み越えて実体を抱きしめなければなりません。新約は大部分が書簡ですが、書簡で出会うのではなく、心に湧き上がる情を通じて出会わなければなりません。このように天と一つになった一つの存在、堕落後6千年の歴史の中で初めて現れたその立場に進んでみた人は一人もいないのです。
御言葉を踏み越えてイエス様を抱きしめる人がいるとしましょう。しかし、イエス様の前に進み出て「あなたが持っている天の全権の力と救い主の資格で万民を救済するための権限を私に教えてくださり、すべての罪の根本を清算する方法を教えてください。そして、あなたと共に永遠に楽しむことができる天の愛を紹介してください。」と祈りながら進んだ人がいないということです。このような人がいなければなりません。
もし、イエスに出会ってそのような条件を要求し、祝福を受けて恩恵を受けることができる人がいるとしましょう。しかし、イエス自身が両手を広げて「おお!あなたの願いはこのようであったので、永遠の幸福を享受しなさい。」と言うことができないのです。天の心情がまさにそうなのです。
なぜなら、イエスも十字架にかかって死んだことによって、この地上で新郎新婦として二人が一つになって神の前に出て「神よ、あなたが私たちの実体を立てたので、あなたの心の奥に秘められた愛を授けてください。」と言うべき部分が残っているからです。
19
では、イエス様は「おお、ここまで来るのに苦労したので、私を条件としてあなたが神の愛を受けなさい。」と言うことができることを私たちは知るべきです。今日、大多数のキリスト教徒はイエス様の愛だけを受けようとしているのです。
パウロが言うには、イエス・キリストの中にある者は神の愛の中にあると言いました。自分にある愛ではなく、イエス・キリストの中にある神の愛を指していたのです。
従って、花嫁の理念を求める皆さんは、このような御言葉を通じて実体を見つけたとしても、神の前に出て「お父様、あなたの愛を、愛の全権を私たちに祝福してください。」と言うべき部分が残っているのです。従って、今日私たちはこのような立場にまで進まなければなりません。
言い換えれば、今日私たちは真理を求めて超え、実体を求めて超えて神の前に出て「神よ!私に愛の祝福を授けてください。」と言わなければならないのです。それでは、これはどういう理由なのか?これは神を求めてきた人々に対して、神が「私を求めて出てくるまで、多くのサタン、数え切れないサタンの試練を経てきたのだから、大変苦労した。」と言いながら、サタンと共に戦って勝利した道のり、神を知るまでの道のりを称賛することができるが、神の心の中で待ち望んでいた理想の園から取って生きることができる愛の心情としては祝福してくれないからです。
だから、天は「それがあなたの願いならば、今は罪深い世界に出て行きなさい。」とおっしゃるのです。つまり、「あなたは罪深い親の子孫であるので、復帰の過程を経なければならない。それで私の息子娘になることができる位置に達したならば、あなたは失われた真の親を探しなさい。」とおっしゃるのだと皆さんは知るべきです。
20
私たちは神と出会えばすべてがうまくいくと思っていました。しかし、人間にはまだ残されている分野があります。つまり、人間の祖先が人類の真の祖先になれなかったために真の親を持たず、真の子供になれなかったということです。従って、皆さんが養子として神を知り、サタンと戦って勝利したとしても、直系の血統の縁を結ぶには真の親をお迎えしなければならないということです。そうなっています。
どのような信仰の勇者でも、神の前を離れれば苦しむことになります。結局、神の前に出て「その親が地上にいるのか、いないのか?」と尋ねるしかありません。その時、神は地上にいると答えるでしょう。しかし、もし地上にいなければどうするのでしょうか?皆さんがその親に代わって責任を負わなければなりません。「お前が一度親になってみろ。」このような言葉をおっしゃるのです。
そうすると、その信仰の勇者は別の場所へ足を運ぶでしょう。この地上のすべての信仰者たちをたどって探し当てるでしょう。だから、皆さんが真の親を探してその親の前に出て「おお、私がこれまでの困難を乗り越え、今や真の親であるあなたの前に出ましたので、お父様、これまで歩んできた歴史的なすべての悲しみを慰めてください。今、あなたの永遠の幸福の中で生きることができる全権、あなたの理念の園の全権を私たちに引き継いでください。」と訴えても、訴えたとおりにはならないのです。
その親はまた「お前が進むべき道がまだ残っているので、兄弟を探して来なければならない。」と言うのです。結局、彼は親を離れて兄弟を探しに行きます。だから、地上をさまよい、さまよって兄弟を見つけたら、「お前がいなければ私ができず、私がいなければお前ができないこのような兄弟、死んでも一緒に死に、生きても一緒に生きることができる兄弟、骨と骨を結びつけ、肉と肉を結びつけた身体の中でも切り離すことができない兄弟を探して、私はこのような命令を受け、お前に関する目的を知ってお前を探して来たので、6千年の歴史の恨みが私たちによって解決されるならば、お前と私が兄弟としてその解決の幸福を享受しよう。」と言うでしょう。
すると、真の信仰の兄弟はこう言うでしょう。「おお、君が探して来てくれたことはありがたい。しかし、我々によって神の全体的な目的が成就したわけではありません。まだ進むべき道が残っています。」と。それでは、その道は何の道でしょうか?残っているその道は、善の民族を探して来なければならない道です。この信仰の勇者は再び足を進めます。
21
だから、一つの民族を見つけて「私がこのような歴史の道を経てあなた方に出会ったので、あなた方を通じて天の目的を成し遂げなければなりません。」と事情を話しても、その民族は「歓迎はできるが、喜びの踊りを踊ることはできない。」と言うでしょう。なぜなら、彼らの民族を破壊したサタンがまだ残っているからです。そして、サタンによって壊れた民族があると同時に、その民族と結びついた民族があるからです。さらに、そのような民族があると同時に「善の民がいた。」という答えが出てくるのです。
だから、また峠を越えてその民を見つけて「おお、今や喜びと幸福と目的の達成をすべて実現できる一つの民を見つけたので、天の民となる者たちと共に楽しもう。」と言いますが、そうはいきません。またあるのです。世界を越えて、私たちの真の親と真の兄弟と真の民族、真の民、真の国家、真の人類が集まって、一斉に神の前に礼拝し、その後にようやく成し遂げられるのです。
これが歴史の背後を動かして来られた神の心情に悲しみの苦難を積み重ねたものであり、これが私たちが生きて来た歴史の目標です。
これとは反対の方向に絡み合っているのが罪深い世であり、この理念を実現できないようにその前進を妨げるのがサタンの歴史であることを皆さんは知るべきです。必ず進まなければならない人生の道がこのように定まっています。
イエス様はこの地上に真理の本体として来られ、神に代わる実体として来られ、神の心情に代わる愛の実体として来られました。誰よりも人類の真の親、真のお父様の実体として来られたのです。イエス様が真の父として来られたのです。だからこそ、私たちは互いに真の兄弟なのです。イエスも「あなた方をもう奴隷とは呼ばない。終わりには子供たちと呼ぶであろう。」とおっしゃいました。子供たちなのです。
22
親であるイエス様を中心にして兄弟として出発し、民族を作ろうということでしたが、その基盤が70門徒と120門徒だったのです。その群れを中心にしてイスラエル教団を動かし、民族を動かそうとしましたが、失敗しました。それによって第一イスラエルは崩壊し、第二イスラエルの歴史が始まりましたが、これがまさにキリスト教の歴史です。
このようにして、キリスト教は今日までイエス様を中心にした世界民族を形成してきました。従って、終わりの時代に到達した今日の人類は、自分自身が歴史的な悲運の峠をすべて越えていく中で、勝利的な縁を結んで進んでいかなければ、14万4千の群れに入ることはできないのです。
黙示録14章には「小羊がシオン山に立ち、そのとともに14万4千が立っていたが、その額には小羊の名とそのお父様の名が書かれていた。」と記されています。皆さん!イエス様の印を受けましたか?まずイエス様の印を受けなければならず、その後にお父様の印を受けなければなりません。イエス様の印を受ければすべてがうまくいくと思いますか?違います。イエス様の印を受け、そしてお父様の印を受けなければならないのです。これが堕落した人間が贖罪の完成を望んで進んできた目標なのです。
堕落していない、神の愛を受けることができる善良な人の目標は、まず神の印を受け、次に兄弟に印をつけることです。さらに、民族と民に印をつけることができなければなりません。これを考えるとき、天の悲しみがどれほど大きかったのかを皆さんは知るべきです。このような天の悲しみに関する御言葉は、夢の中でも知らなかった言葉であり、どの友人からも聞いたことがなく、どの師やどの教役者からも聞いたことがない言葉です。この内容は真に深刻な言葉です。
では、今日ここに立っているこの足取りは、明日どこに向かって行くのでしょうか?皆さんは今、神の愛の圏内にいますか?真の親の愛の圏内にいますか?真の兄弟の愛の圏内にいますか?真の民族の愛の圏内にいますか?真の民の愛の圏内にいますか?天地を統合して神の前に頭を下げるとき、その神が抱きしめることができる愛の圏内にいますか?そのような人は一人もいません。イエスもこのことを成し遂げていないのです。だからこそ、イエス様はまだ楽園で保留状態に留まっています。
23
では、イエス様は終わりの時に再び来て必ず何をしなければならないのか?この仕事を回復しなければなりません。イエス様は御言葉を踏み越えました。しかし、十字架にかかって死んだ後に復活されたイエス様は、マグダラのマリアが抱きしめようとしたときに拒絶された方であり、「花嫁よ!私と共にお父様の前に行こう。」と言うことができる立場を経ていない方でした。だからこそ、2千年間、花嫁の席を探すその日を待ちながら努力してこられました。イエス様は本来、歓喜する花嫁と共にお父様の前に出て祝福を受け、真の親となるべきでした。そうして、真の子供を抱え、真の民族、真の民を築かなければなりませんでした。このようにして神はイエスにこの天地における真の祖先になるよう祝福しようとされました。
しかし、イエス様は人類の真の祖先として祝福を受けられずに去って行かれたのです。これを皆さんはよく知っています。これが天の悲しみであり、イエス様の悲しみです。今、果てしない涙を流すこのような悲壮な心情の痛みが皆さんの心に響かなければなりません。天の御言葉を裏切った私であり、天の実体を裏切った私であり、神を裏切った私であり、天の兄弟、民族、民を裏切った私であり、さらに進んでは、天の主権を侵害した私をどうして天が許してくださるでしょうか?許されることのない罪人であることを知り、自分の居場所を知らずにもがく青年男女が多く出てくることを天は望んでいます。
これを知るようになるとき、私たちの心情は燃え上がらざるを得ません。情が通い、心が動き、歴史に対して恨みたくなるし、時代に対して恨みたくなる心が込み上げてくるでしょう。
この憤りが強ければ強いほど、この憤りをどこで解決するのかという考えが浮かぶでしょう。このような歴史的な悲しみはサタンのせいであったので、サタンと共に一大決戦をしなければなりません。そして、このような覚悟を持った青年男女が多くいなければ、親を回復することも、兄弟を回復することも、民族、国家、天の主権を回復することもできないことを皆さんは知るべきです。
これまで私たちは安穏な生活を送ってきました。感覚のない無骨者として、存在意識は持っていましたが、存在の価値を持たずに悲しい道を歩んできました。それでもなお、自分が優れていると恥知らずに出てくるのです。今日、私たちがこのような罪深い民族であることを、この時間だけでも認識しなければなりません。これすらも知らない人間は、天の天罰を受けて当然であり、裁きの日に硫黄の火の淵に投げ込まれる裁きの生け贄となって当然でしょう。
24
これを知り、自分が裁きを受けることを恐れてはなりません。天が自分よりも悲しい事情にあることを知らなければなりません。また、先祖たちが歩んだ歩みが自分よりも悲しい事情であったことを知らなければならず、今日この時代に志を持って進んでいる真の人々が、今日自分が感じている悲しみと苦しみ以上の生活をしていることを知らなければなりません。このような事情を知っている人間でなければなりません。
私たち人間は今日も進み、明日も進み、生きて進めなければ、死んでからでも永遠に歩み続けなければなりません。この運命の峠、この悲惨な苦難の話は恨むことができません。従って、天はこの苦難を引き起こした主人公であるサタンと決戦を行うための天の精兵であり、勇者として天と地に向かって号令をかけて進むことができる青年男女を探しているのです。だから、私たちはそれに向かって突き進むことができる天の心情を持って叫ぶ群れが求められているのだということを知るべきです。
だから、今皆さんは神の心情を通じることができなければなりません。さらに、真の親の血を受けた子供、その血と結びついている民族になり、民にならなければなりません。その親と一つになって、その喜びが全体の喜びであり、全体の喜びが私の喜びであるべきです。そうして、すべての人々が神をお迎えして、その前で賛美を捧げ、礼拝を捧げることができなければなりません。これが私たち堕落した人間が必ず進むべき目的地であることを皆さんは知るべきです。
<祈祷>
お父様、エデンの園を失った人間が経験してきた屈辱の歴史の道と苦しみの歴史的な縁を経て、あなたを探し求めることをしなければならない非常に悲しい障壁と峠が私たちの前に立ちはだかっていることを知りました。
お父様、今日も明日も進まなければならない私たちのこの歴史の悲しみを知ることを許し、命の源であるあなたの悲しみを知ることを許してください。
25
永遠なるお父様の幸福の園を知り、その園まで一歩一歩進んでいく際に、行進の道を合わせていける私たちになれるよう許してください、愛するお父様、切に願い、望みます。
私たちがどの段階で進んでいるのか、どの段階に留まっているのかを知ることを許してください。お父様、今まで無責任に生きていた私たち個々の存在が裏切り者の歴史の道を歩まないように許してください、全体に応えて一つの理念の園で父をお迎えし、お父様の前で礼拝を捧げられるその日が来るまで、サタンと戦い続ける息子娘たちになれるよう許してください、切に願い、望みます。
お父様、ここにあなたの息子娘たちが集まり、御言葉を聞いたので、この御言葉を通じて自分の人生の道を新たな角度から探し、天の法に従って目的地に向かって進む革新的な運動が起こることを許してください、お父様、切に願い、望みます。
この日のすべてを主宰してくださることを願い、主の名によって祈ります。アーメン。
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1959年1月18日(日)、前本部教会。
聖書拝読:マタイ7:7-8
<祈祷(I)>
一週間の間に受けた傷と傷ついた心を持って、再びお父様の前に参りました。憐れみ深いお父様!この一時間、愛の御手を伸ばし、私たちの体と心を包み込み、私たちの心の上に、お父様の愛と教えを注いでくださるよう、切にお願い申し上げます。
お父様、この日は新年に入って三度目の聖なる日です。どうか、私たちの心がお父様の心の中に留まることを許し、私たちの体がお父様の懐に抱かれることを許してください。この一年、私たちが父と共に喜びを分かち合うことを許し、お父様の希望の領域の中で生きることを許し、父に代わってサタンと戦うことができるようにしてくださるよう、愛するお父様、切に願い求めます。
善の理念と善の愛と善の生命と善の栄光を持ち、私たちを探しに来てくださったお父様の歴史的歩みを知るとき、私たちはお父様の前に顔向けできない民であることを認めざるを得ません。しかし、お父様の善なるその心を変えずに、私たちを再び見つけて教え導いてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
命と死が今日、私たちの命を天秤にかけて見ているこの一時間であることを認識させてください。私たちの体と心をお父様の前に捧げる生ける捧げ物であるべきことを理解しました。そして、これまでの生活と今日という一日の生活も、聖別されるべき一時間であることを認識しています。どうか、体と心のすべてをお父様の前に捧げ、再びお父様の認めを受けることができるこの時間としてください。お父様、切に願い求めます。
私たちは、お父様が大きな期待を持って接してくださるときに、失望させてしまう不完全な者たちです。しかし、あなたとの歴史的な縁と血統的な縁を持つ私たちであることを見て受け入れてくださり、この一時間、親しく私たちを訪ねてくださるよう願い求めます。
1
不完全な体と心が一つとなり、サタンと対峙するためにお父様の前に伏しているのです。私たちの訴えと捧げる礼拝が、お父様の前に喜びとなりますように。お父様が私たちを責任を持って扱ってくださらなければ、私たちはサタンの懐に引きずり込まれてしまうことを知っています。お父様、この時間、親しく私たちを導いてくださるよう切に願い求めます。
ここに集まったあなたの息子娘たちを親しく教え導いてください。この一日、天のために戦う責任を私たちが負わなければならないことを知っています。お父様、愛する幼い息子娘たちがお父様の前に集い過ごしているこの期間を通じて、天の心情を感じ取らせてください。この機会にお父様の御心を成し遂げるために歩んだ人々の足跡を知ることを許し、さらに、お父様の息子娘が戦って進んでいたその戦いの道を知ることができるようにしてください。天の御業を知ることができ、天が永遠に手放すことのない息子娘たちとなるようにしてくださることを、お父様、心から願い求めます。
彼らには、世界中に散らばっている多くの兄弟姉妹を見つけなければならない責任があります。隠された祭壇を築き、天の前に切に祈りながら、血に染まった祭壇を築いている、踏みにじられているあなたの息子娘が多くいることを知っています。どうか彼らを慰めてください。お父様が彼らを集められたのは、天の使命を与えるためであることを知っています。どうか彼らをサタンの世界から永遠に区別し、お父様が永遠に抱きしめてくださるように願い求めます。そして、お父様の栄光の祭壇を担うことのできる祭司たちとして、その責任を全うする完全な姿を備えることができるように許しください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、今日、恩恵に報いる術がない私たちであり、何も捧げることができない私たちです。憐れみ深いお父様、孤独な者の友となってくださるお父様、罪人を許してくださるお父様、そのような私たちをお許しくださり、この一時間、見捨てずにいてくださるよう切に願い求めます。
私たちの心を知るお父様、ときに孤独な場所に置かれ、天に対する思いで苦しむ息子娘がいることを知っておられるでしょう。どうか彼らを見て、全体を憐れんでください。彼らはこの一時間、お父様の許しとお父様の慰めを求めているでしょう。どうか彼らに恵みをさらに与えてください。憐れみの御手を差し伸べてくださるよう切に願い求めます。
2
お父様、この時間、多くの眠れる人類を祝福してくださり、苦難の中にある三千万民族を祝福してくださり、道を失い、行くべき道を知らずに分裂して戦っている韓国の教団を祝福してくださるよう願い求めます。彼らに生命の旗を掲げさせ、鞭を打ってでもお父様の戒めを受けることができる息子娘たちにしてください。
私たちには、進んでも犠牲にならなければならない責任が残されています。人間的な考えでこの犠牲の生活を望まないことが多い私たちですが、それでもこの責任を与えてくださるお父様の心情を理解できるよう導いてください。すべての条件を乗り越えて、今日も、明日も、十年後も、死の谷に至るまで進み続ける責任があることを知り、どうかその一つの道を最後まで歩むことができるよう、疲れず、失望せず、ためらわないように許してください。お父様、切に願い求めます。
今日、私たちのこの礼拝を親しく受け入れてくださり、この時間にも地方の孤独な信徒たちが牧者を送り出して、ひざまずいて切に祈っていることを知っています。どうか彼らの涙に満ちた祈りを踏みにじる者とならないように導いてください。彼らの真実を踏みにじる者とならないよう導いてくださることを、お父様、切に願い求めます。
私たちの心と心が通じ、心情と心情が通じる者たちとなることを許してください。父を中心としてすべてが通じ合い、思いを交わすことができる者たちとなることを切に願います。残りの時間を親しく導いてくださるように願い、主の御名によって祈ります。アーメン。
<祈祷(II)>
お父様、多くの人々が進むべき方向を知らないまま、あなたを求めるために非常に悲しい歴史的な道を歩んできたことを私たちはよく知っています。おられるようでおられないようなお父様の存在、歴史とともに生きておられるようでありながらも、確信を持って存在しているという認識を持つことができないお父様、私たちの心と共におられるようで、実体的な存在として定義することができない父を、私たちは非常に悲しい気持ちで見つめています。
3
善の理念で全宇宙を創り、人間に真の良心を与え、知情意の感情を通じてその善の理念を体感することができる驚くべき祝福を下さったことを私たちはよく知っています。しかし、お父様の存在はある時点の時間的な限界でしか感じられないという事実を否定できないこともよく知っています。
今、私たちの心に入ってくるお父様の御姿を思い出すたびに、私たちは知らず知らずのうちに悲しみに囚われてしまいます。惨めな自分の姿を見て嘆かずにはいられません。このような境地に導いてくださる父、それは私たちの命を永遠の命へと導くための、お父様の歴史的な心情の働きであることを理解しています。
歴史の背後で、歴史を一つの実体的な理念として成し遂げるために、私たち人間が知らないうちにその心情と心を通じて見つけてくださった父を知りたいと願い、お父様の心を私たちの生活の理念と生命の理念として確立することを切に願い求めます。しかし、お父様の存在の価値を確かに知らないために、私たちの生活の価値も知らず、私たちの命の価値も知らないまま、今日も明日も苦しみ続けなければならない惨めな立場に置かれています。お父様、そのような私たちを憐れんでください。惨めな死の瀬戸際でさまよっている今日の私たち一人ひとりを憐れんでください。
今、お父様、愛の御手を伸ばさなければならない時が来たことを理解しています。その愛の波が私たちの周囲の環境と私たちの心情の世界にまで及ばなければならず、唯一主導的な権限を持っているそのお父様の心情の権限を私たちが回復しなければならない時であることを理解しています。心を中心にして戦わなければならない時が到来していることを知っています。どうか、閉じた心の扉を開く寛容な者となることを許してください。今、体を屈してお父様の前に礼拝を捧げる準備を整えた息子娘となる時が来ました。どうか、私たちの心の扉を叩くお父様の声を聞くことができるようにしてください。私たちの前に現れるお父様の御手を見ることができる私たちとなるよう、切に願い求めます。
残された恨みの土台、恨みの障壁を乗り越えて進まなければ、終末に至る決戦が残されていることを私たちは理解しています。お父様、これを理解し、お父様の存在を知っているあなたの息子娘に力と能力を与えてください。すべての苦難を乗り越えて戦うことができる堂々とした姿、天の正兵の姿を備えることを許してください。あなたの決断に従って、審判の権限を代行するにあたって堂々として自信のある息子娘となることを、愛するお父様、切に願い求めます。
4
選ばれた者たちを祝福されたのもあなたであり、それを成就させるのもあなたであることを知っています。私たちの心の根本は善であり、また、善を通して動かされていることを知っています。善の目的も、歴史的な目的も、摂理的な目的も、父を中心にして一つとなることであることを知っています。従って、善の心情を通じて憧れる理念的な頂点が実を結ぶことを許し、その理念の本体となるために着実に進むことができる自分を立てるこの時間となることを、お父様、切に願い求めます。
今、私たちの心がどこを向いているのか、私たちの体がどこに向かって動いているのかを見つめさせてください。今、私たちの心が父を慕い、善を慕うために全精力を注ぐことができるようにしてください。私たちの体は善を掴むために苦しみながら切に求める手を差し伸べて、父を呼ぶことができるようにしてください。
父を掴み求め続けてきたのが6千年の歴史であることを知っています。お父様の前に率直な自分を立て、礼拝し、自分のすべての事情を打ち明けて、教えを受けることができるこの時間となることを、愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、ここに集まった息子娘たちを憐れんでください。この時間はお父様の前に捧げ物を捧げる時間でした。どうか、この時間だけでも天も頭を下げ、千千万万の聖徒も頭を下げ、万人も頭を下げ、万物も頭を下げることができるように許してください。昔、イスラエルの民がお父様の前に捧げ物を捧げたとき、父も頭を下げて見守り、地上の万人、万物も頭を下げたことを知っています。今日のこの一時間、私たちも知らず知らずのうちに頭を下げて憐れみの恵みを求めることができるように許しください。お父様、親しく訪ねてくださり、受け入れてくださり、導いてくださることを切に願い求めます。
他の人が通らない道へと追い込むのも父であり、行きにくい道へと導くのも父であったのです。どうか、お父様がこの道を責任持ってくださるよう願い求めます。私たちは、どんな人間の心に動かされたのでもなく、どんな人間の事情に引かれて来たのでもなく、行きたくなくても行かざるを得ない心の力に引かれてここまで来ました。どうか、怠惰にならないように導いてください。
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あなたが急かす教えを知らない私たちです。その教えを理解し、その教えの方向に向かって進むように、時間ごとに力強く衝撃を与えてください。どうか、あなたに向かって進む過程で脱落する者がいないようにしてください。お父様、切に願い求めます。
今、自分のすべてをお父様の前に差し出すことを許してください。私たちのためにお父様の祭壇を汚すことがないように許しください。誠心を尽くしてお父様の前に捧げ物を捧げようと伏しているこの時間としてください。
自分の主義や認識、あるいは何らかの観念が残っているならば、この時間すべて取り除いてください。幼子の心で、すべてをお父様のものとして捧げ返し、地上のサタンに対して誇ることができる息子娘となることを許してください。お父様、切に願い求めます。
今、御言葉に接しようとしています。お父様、共にいてください。多くの教えをお与えくださることを知っています。どうか、聞いた後に天を悲しませることがないようにしてください。切に願い求めます。
今、語る者の心も受ける者の心も一つとなることを許してください。この時間だけでも幼子の心に戻り、母の懐に抱かれて乳を飲むような、そんな時間となることを切にお願いし、すべての御言葉を主の御名によって祈ります。アーメン。
6
<御言葉>
今日、皆さんは神が存在するかどうかを確信できていません。しかし、皆さんは生きざるを得ない運命にあり、また、進まざるを得ない運命に置かれています。それにもかかわらず、常により良いものを求めて進んでいます。この動きは、今日も明日も、そして歴史が終わる日まで続くでしょう。また、皆さんやその子孫までもがこの道を進むでしょう。この事実を皆さんは否定できないはずです。
どうせ何かの目的に向かって進まなければならない私たちであれば、私たちはどこへ向かい、どう生き、どう行動し、善と悪についてどのような主張を持つべきか、よく考える必要があります。
皆さんがこうした複雑な問題を一つ一つ解決して明らかにしようとする気持ちが芽生えたとしても、この世の現実を見つめると、後退できる道があるならばその道を選びたいと強く思うことでしょう。目を開いて世の中を見ても、世界は皆さんが望む環境にはなっておらず、振り返って自分が生きている社会を見ても、その社会が自分の心が望む福祉社会にはなっていないと感じるでしょう。
今や、社会環境と時代が複雑に流れているため、皆さんがその社会に留まることができないという事実を懸念せざるを得ません。
世の中は複雑ですが、今日、どのような理念を持って心霊世界を導いている宗教団体の動きはさらに複雑です。ですから、そのような宗教団体を訪ねてみても、心では引かれるものの、それに従うのは難しいのです。
7
今日、このような複雑な状況に絡まって、心は望んでいるのに、体は行きたくても行けないという状況にあります。このように心が望む方向に動くことができない自分自身を嘆かざるを得ない立場に私たちは置かれているという事実を知ることができます。
従って、このような立場に置かれている人々が、生きている間に自分自身を立てて批判しないのであれば、死後にでも全宇宙の前で自分を立てて批判しなければならないというのです。そのような場所を宗教では、誰も行きたがらない地獄の世界と定義しています。
今日、私たちは進まざるを得ない立場にあるため、何とかしてこの道を歩んでこの場所まで来ました。では、自分自身を立ててここまで来たという価値を天が求めるとき、皆さん自身は何を誇ることができるでしょうか?過去を振り返り、後悔のため息をつくしかないでしょう。
過去を見ても、現世を見ても、未来を見ても、同じような立場に置かれている自分自身だということです。だからこそ、私たちは何とも言えない最終的な理念と最高の幸福を心から求めています。では、これはいつ、この矛盾した自分自身とこの世界を超えて成し遂げられるのでしょうか?この事実を理解し、心に衝撃を受け、この矛盾した環境を打破しようという使命感に満ちた真の若い男女がいるとすれば、その人は生への執着心さえも失うような境地に入るでしょう。
自分の体からすべての罪を取り除くことができる自分を持たず、罪に満ちた体を放棄し、誰よりも低い位置に立つことができる自分を持たずに、皆さんの心を何が捉え、どのような理念に向かわせているのか、この矛盾をどう超えるのでしょうか?世界中の人々がここに引っかかっています。全人類と万物、つまり天と地のあらゆる存在物もこの過程に引っかかっているという事実を皆さんは知るべきです。この人間であることを皆さんも否定できないでしょう。
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これを認めたその日から、「私はどこへ行けばいいのか」と嘆き、叫び声を上げる心情の訴えが聞こえてくるでしょう。そこで、今日皆さんにお話ししたい題は「おお!私はどこへ行けばいいのか」です。この題で少しの間、お話しします。
今日、私たちの周りにあるすべてのものは、堕落の歴史的な道を歩んできたことを知っています。そして、今日私たちの周りにいるすべての人々は、堕落した現実の中で生きています。また、この現実を基に堕落の歴史が続くであろうと私たちは予測しています。
では、過去の堕落、現世の堕落性、未来にまで続く堕落の原因をどう解明するのでしょうか?今日まで6千年という長い年月を経て、私たちの先祖たちは数多くの苦労と数多くの犠牲を重ねてこれを避けるために努力してきましたが、堕落の歴史は続いてきたということを皆さんはよく知っています。また、今日の現世においても、罪に満ちたこの世界から抜け出すために、多くの人々が苦しみ、心を痛めていることをよく知っています。
過去もそうであったし、現在もそうである世界に生きている自分自身を振り返ってみると、自分の心に過去の先祖たちが抱いた恨みの心情が動いており、現世の衝撃による悲しみの感情が流れていることを否定できません。
では、今、懐かしく思う一つの縁があるとすれば、それは何でしょうか?今この時は、堕落の歴史的な道を歩んで、悲しみの心情を抱えて戦ってきた私たちの先祖を懐かしく思うべき時です。また、この現世において、死の権威から脱するために、苦難の権威と堕落の権威から抜け出すために、悲しみの心情を抱えて戦っている私たちの同志を懐かしく思うべき時です。
9
ですから、今日私たちが過去を懐かしく思うならば、過去に起こった歴史的な事実を懐かしく思うのではありません。その歴史的な悲しみに対抗し、真の信仰の心情を抱えて戦っていた先祖たちのその心情を懐かしく思うべきだというのです。
では、私たちの先祖たちが歴史的な悲しみを清算するために持っていた志操は何だったのか?私たちの先祖たちが今日の自分自身を抱えて立てようとする志操は何か?今日、未来に希望を持ち、現実のすべての逆境を乗り越えながら明日の善の基盤を築くために戦っている同志たちは誰か?
このような心を甦らせることができない人は、歴史的な縁を裏切った者であり、時代的な縁を裏切った者であり、未来を台無しにする者であることを否定できないでしょう。今日、皆さんはまさにそのような立場に立っています。
では、どのような先祖が現れて、皆さん自身について「あなたは私を知っていますか?」と言うとき、皆さんは何と答えるのでしょうか?また、今日この時代において罪に満ちた世界と戦っている兄弟に対して、「あなたは私に何を言ってくれるのか?」と尋ねるでしょう。そして、「明日の道を切り開くために戦い、迫害されている私に何か助言を与えてくれるのか?」と尋ねるでしょう。このように、過去と現在と未来の観点から聞こえてくるその声に対して、皆さんは何と答えるのでしょうか?これが問題です。
一歩進んで、先祖たちが言った言葉を聞いて、先祖たちが言った言葉とその心情を理解したとしても、その理解で終わらない事実がまだ残っているということです。時代的な状況をすべて理解しても、それで終わらない状況が残っており、未来のすべての状況を知ったとしても、それで終わらない状況が残っているのです。つまり、歴史的な悲しみ、時代的な悲しみ、未来的な悲しみが残っているということです。このような悲しみが残っていることを知るとき、私たちは先祖たちに代わって、現在の人々に代わって、後の世に代わって代弁しなければならない自分たちであることを考えなければなりません。
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もし、このような責任を果たせる子孫を持たなかったならば、過去の私たちの先祖たちがいくら功績を残したとしても、その先祖たちは嘆くことでしょう。目的のために戦った人々、悲しみの心情に満ちた先祖たち、天と地に対して恨みの心情に満ちた先祖たちが、今日私たちに一つの希望を持っています。だから、私たちがその心情を持たなければ、私たちの先祖たちの悲しみはさらに深まるでしょう。今日この時代や未来も同じだということを皆さんは知っておくべきです。
復帰の道は語っています。アダムの家庭から悲しみの歴史が始まり、復帰摂理を受けてきた先祖たちは悲しい道を歩んできました。ノアが通り、アブラハムが通り、イエスまで波乱万丈の悲運の歴史を経て、このような悲運の歴史が世界を襲ってきました。
このような歴史的な悲運を阻むために、天を代表し、人類を代表し、歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表してきたのがイエスでした。しかし、イエスもこの歴史的な悲運の運命の前で勝利の条件を完全に成し遂げることができず、一つの希望の日を約束して去ったために、今日まで悲しみの歴史が続いているという事実を私たちはよく知っています。
では、今日私はどこへ向かっているのか!今、皆さんは昔のアダムの心情を超えなければならず、ノア、アブラハム、モーセの心情を超えなければならず、どの預言者やどの個人の心情も超えなければならないばかりか、洗礼者ヨハネとイエス様の心情まで超えなければなりません。そして、私たちはイエス様が去った後、今日までの2千年の歴史の過程で、多くのキリスト教徒が虐殺され、殉教した悲しく悲惨な心情を超えなければなりません。そのすべてを代替できる一つの実体の果実が私たち自身であるということです。だからこそ、天は皆さんが歴史的なその心情の縁と向き合うために、どのような心の基盤を皆さんの心に持っているのか問いかけるでしょう。
天が歴史を経て戦ってきたとすれば、終わりには一人の勝利した息子娘を立てようとするでしょう。だからこそ、私たちは歴史的な悲しみの心情を感じ取って勝利しなければなりません。そして今日、私たちはこの時代において歴史に結ばれた天の悲しみのすべての条件を回復しなければなりません。従って、全体の歴史に対する天の悲しみの心情を抱えて慰めることができる天の息子娘になるべきです。もし、そのような息子娘がいるとすれば、神が6千年の間、誰も抱きしめることができなかったとしても、そのような個々の存在を通して喜びの心情を持って抱きしめてくださるのではないかと考える必要があります。
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皆さんに心情があるならば、これは皆さんの個々の存在から始まったものではありません。先祖の縁を通じ、先祖の心情的な基盤を経ていない存在はありません。だからこそ、その心情は歴史的な心情圏内に属している心情であることを私たちは否定できないでしょう。
では、今日私はどのような心情の世界でさまよい、どのような視線とどのような五感を持って生を営んでいるのか?しかし、これを考える前に皆さんはまず「天よ!私はそのような感覚を持って生涯を生きているのだとすれば、昔のエデンでアダムとエバが堕落する前に神に対する心情、堕落する心情、神が追放する心情、この人類を抱えてノアを立てるまでの1600年間苦労された神の心情、ノアが120年間山の頂で方舟を建てながら無限の蔑視と迫害を受けつつも天を抱えて苦労してきたその心情、波乱万丈の歴史の過程を経てきた神の心情を抱えて一度生きてみたい。」と語りたくなるでしょう。
お父様が歴史の生きた実体として、勝利の象徴として一人の人間を立てようとするならば、皆さんは「お父様、御手を伸ばして、私たちが人間が堕落前に父と共に楽しんだその心情から、堕落後の歴史の悲しみのその場面場面を見ることができるように旅をさせていただけますか?」と祈ってみてください。
では、天の悲しみと人間の悲しみが解決されない焦点はどこにあるのでしょうか?それは人はいても神の心情を掴む人がいないからであり、歴史的な心情を掴む人がいないからであり、今日この時代を摂理されている神の心情と未来の心情を掴んで神の心情を人間の心情と結びつける歴史を成し遂げた人がいないからです。従って、天の嘆きがあるとすれば、この意義を成し遂げられなかった嘆きよりも大きな嘆きはないという事実を皆さんは知るべきです。だからこそ、今、皆さんは天を求める道をもう一度振り返るべきです。神は私たちを永遠の希望の園に送るために、私たちに対して訪ねて来られたのです。
皆さんが原理を通じて知っているように、私たち人間は神の言葉を裏切ったために神の言葉を失い、神の実体を失い、神の愛を失いました。
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神が言葉を発されたときの心情はどのようなものであったのか、実体を創られたときの心情はどのようなものであったのか、その実体を通じて誇りたいと思われた神の内的な心情はどのようなものであったのか?
これを考えるとき、私たちは神の言葉を失った者であり、本来の実体を失った者であり、神の理念の園を動かすことができる愛の実体を失った者です。従って、私たちは自分を立てて誇ることができない罪人であることを悟らなければなりません。また、自分の実体を立てて主導的な行動を起こすことができない存在であり、自分の心を立てて安息の基盤を見つけることができない存在であることを知るべきです。
このような人間になったために、神が私たちを訪ねて来られるには、まず実体を探して来られ、愛の心情で訪ねて来たかったのですが、人間が実体と愛と御言葉を失ったため、神が直接実体として来られることができなかったのです。ですから、イエス様が実体の代わりに来られましたが、イエスも実体を持った行動をすべて成し遂げずに去りました。
御言葉を裏切った人間に実体を代わる存在を与えましたが、人間がその実体さえも裏切ったため、また神の愛を与えましたが、それも裏切ったため、今日私たち人間の前には実体と御言葉、愛などの名詞だけが残されました。だから、人類はそれを探して苦しんでいるのです。
そして今日、私たちは歴史が回っているのだと理解しています。御言葉のような御言葉が私たちを完成させることができず、実体のような実体が私たちを実体として導くことができず、愛のような愛で私たちの永遠の安息を見つけることができないということを知ったので、私たちは「真の御言葉はどこにあるのか?実体はどこにあるのか?愛はどこにあるのか?」というスローガンを掲げ、それを探して苦しむ立場に立っているのです。
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このような立場に置かれた人類を見て、イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。求める者には与えられ、探す者は見つけ、叩く者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われたことを皆さんは知るべきです。
今日、私が歩んでいる一歩はどこへ向かっているのか?探すために歩んでおり、求めるために歩んでおり、叩くために歩んでいるのです。このような歩みを堕落以降6千年もの間歩んできましたが、まだ止まることを知らない運命に置かれています。
では、今私が歩む一歩はどこへ行くのか?この地を見れば、善だけではありません。善よりもむしろ悪が多いです。このような時、私たちの足跡が左に行くのか右に行くのか、または善の方向に進んでいるのかが深刻な問題です。
そして皆さんは真の師を探してさまよっていますが、善の指導者、真の師を探して何をするのか?彼らを通じて、自分の心の安らぎと希望を起こすことができる御言葉を聞きたいのです。何か新しい御言葉を見つけるために新しい師を探してさまよっているのです。では、御言葉を探して何をするのか?その御言葉と一つになる自分自身の実体を作り上げることが重要なのです。そのために御言葉を探しているのです。
これまでの私たちの先祖たちも、天の存在を明らかにするために、人生の根本問題を解明するために努力してきました。そして、そのような努力は今この瞬間も続いています。皆さんがそのような観念に捉えられているかどうかに関係なく、関心を持つ多くの人々は今日も叩いており、探しており、求めており、さまよっています。皆さん、そのような姿を見つめるとき、皆さんもその立場で苦しんでいるのかどうかを考えてみる必要があります。もし、皆さんが苦しんでいないのであれば、歴史を支配してきた神と出会うことはできないということです。今日、この世界にそのような人がいないのであれば、神の意図と善の理念、または私たちが望む希望の時代は天と共に人間と縁を結ぶことはできないということです。この結論に至ることができます。
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しかし、皆さんが知らなくても、必ず探して、さまよい、苦しんでいる人々が皆さんの先祖の時代から存在しており、現在も存在し、また今後も絶え間なく続いていくという事実を否定することはできません。皆さんはこの観点から、今日という存在がどのような立場にあるのかを自問してみるべきです。
今日、若い学生たちが鞄を持って学校に行きます。しかし、鞄を持ってどのような目的で行くのかを考えられない学生がいます。「私は社会に出る。」、「行くとどこへ行くのか?」、「私は国家の重大な責任を負って出る。世界があるので、世界を導くために出る。」と出ますが、そこからさらに進むとどこへ行くのか?天があるならば、未知数が横たわります。世の中のすべてがこのような苦難の場所に置かれていることを私たちは否定できません。内的な世界もそうであるし、外的な世界も同じです。無限に伸びていきたいのですが、一歩進むたびにその苦難の兆しが私たちの前を遮っています。
そこでそれを避けて内的な世界に向かおうとすると、道義や道徳や倫理や宗教といった方向に自分自身を導いていこうとするのですが、そこにもまた無数の苦難が立ちはだかるのです。その時は「神よ、宗教を立てたのですか?神よ、歴史を支配しているのですか?」と言いたくなるでしょう。神がいるならば、なぜこのような悲運の歴史を作り出したのか、またそれを体験させる原因はどこにあり、私が世の中のすべての内的な世界を見抜く権限を持たないで苦しんでいる原因はどこにあるのかを解明しようとする立場で、天と地と世をかけて、自分の命をかけてこの悲運の力と対決しなければなりません。これが分かれ道の峠であることを皆さんは知るべきです。人間はどうしてもこれを越えなければならないのです。
この悲運の苦難をどこで解くのか?世の中を見ると、無数の破滅の理念しかなく、内的な世界を見ると、さらに暗くなり、暗闇に包まれる立場に直面しています。
そのような境地で真理を求める心が強ければ強いほど、地も天も人間自身も失われた中で、天と地に代わって歴史の道を代わりに進んだ先祖たちが苦しんだその歴史的な心情を知って、自分でも知らず知らずのうちに歴史的なその悲運のすべての苦難の言葉を一度自分の口から言ってみたいのです。しかし、天を見つけることもできず、地を見つけることもできません。帰るしかありません。
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では、歴史的な心情の境地で「私は信じます。」と口にしてみても、うまくいかないのです。この瞬間を皆さんが生きている間に感じることができなければ、運命の直前に遭遇することになります。しかし、その時はすでに手遅れです。
では、今日人類が苦しんでいる原因はどこにあるのか?運命の直前にこの難関に遭遇しないためには、若いうちに必死に信じなければなりません。このように若いうちに必死に信じる信仰を持っていることが、人間の希望であることを皆さんは知るべきです。
運命の直前にこれに遭遇すると、どうしようもなくなります。だからこそ、天は人間が若いうちに善を中心とした生活観念、世界観念を持てるように、つまり自分のすべての問題を解決する一つの解決点を与えるために逆境が道へと追い込むのです。天は人間に世を避けさせるために、人間をさらに反対の道へと追い込むのです。
どのような教義、どのような教派よりも自分を信じるようにと強調してくるのです。自分を信じるためには、自分が人類を信じたのと同じくらい信じなければなりません。今日、信じているすべての信者たちを見てみると、彼らは「神を信じています。」、「イエス様を信じています。」と言葉だけで言っていますが、それでいいのです。しかし、このような信仰は通りすがりの人も言うことができます。このような信仰を天は望んでいません。
では、天はどのような信仰を望んでいるのでしょうか?イエス様が「私を信じなさい」と言ったのは、自分が神を信じるようにイエス様を信じなさいということです。また、イエス様が「私は神の子だ。私は神を信じている。」と言えたのは、自分が神を父として信じるように神も自分を子として信じていることを確信していたからです。このような立場でおっしゃった言葉なのです。
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今日、私たちは信仰を求めてさまよっています。御言葉を求めてさまよっており、御言葉を基にした信仰の道を求めてさまよっています。御言葉を持って真の信仰を中心として人々を訪ねて来られるその実体的な一つの中心存在をキリスト教的に言うと、再臨主というのです。人間は神を信仰の基準としてきました。そして、これまでの信仰を分析してみると、御言葉を基にして人類を導いてきました。
では、ここでこれまでの宗教がすべてを解決できなかったために、再び戦わなければならない時が近づいているのです。これを聖書的に言うと、終わりの時の7年大患難の時期です。これを皆さんは知るべきです。
私たちは御言葉を通して実体に出会うべきです。今日、イエス様の御言葉を信じる人は多いですが、イエス様を信じる人は少ないです。イエス様の御言葉に従う人は多いですが、イエス様の実体を頼りに従う人は少ないです。私たちは進まなければならない人間でありながら、真の御言葉を持つ方が現れても信じず、むしろ迫害しています。
では、今日私たちはどのような人になるべきでしょうか?御言葉と一つになるべきです。そして、神に代わって来られた方は、天的な唯一の存在であり、すべての人間の模範であり、人間の全体の理念を代表する存在ですが、その存在と私たちを比較するとき、私たちが違う存在になってはいけません。
だからこそ、最高に善良で、最高に正義であり、最大の勝利者であるその一つの実体を標榜して、皆さんは再び第2の一歩を踏み出さなければならないのです。これが人間が進むべき道です。
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しかし、この地上のすべての人間は6千年という長い年月を過ごしている間に御言葉に頼り、その御言葉通りに生きようと苦しみながら進んできましたが、御言葉の主人公であり、御言葉の実体である方をお迎えして生きた人は一人もいません。
歴史的な私たちの先祖から今日に至るまで、そのような存在を正しくお迎えして生きた人は一人もいないということです。神は堕落後の4千年の歴史を摂理され、多くの預言者たちを立てられ、無限の御言葉を与えられました。そして、人間に一つの中心を見つけさせるために民族を結集し、一つの方向に導いてこられましたが、御言葉の実体を送ることを約束されました。その方が誰かと言えば、まさにメシアだったのです。だからこそ、イエス様は「私が律法や預言者を廃止しに来たと思ってはならない。廃止しに来たのではなく、完成しに来たのだ。」(マタイ5:17)とおっしゃいました。
イエス様はその時までのすべての御言葉を完結することができる方であり、神が歴史の道を通じて与えられたその御言葉以上のものを持って来られた方です。そのような存在として来られたメシアでした。しかし、御言葉の実体であるメシアを待ち望んで来た多くの人類は、いざ現れた御言葉の実体を見逃してしまいました。御言葉の実体をすべて失ってしまった人間になったという事実を皆さんは知っておくべきです。
突然、御言葉を持って現れたイエス様が神を抱えて分かれ道の戦いをして、歴史的なすべての条件を踏み越えたように、私たちもイエス様を抱えて分かれ道の戦いをしなければならない条件が残っているということを皆さんは知るべきです。
では、イエス様を抱えてどうするのか?ヤコブが天使を抱えて戦ったような戦いをすべきです。長子の相続をイサクから祝福されたヤコブは、その日から御言葉を中心にして祝福の条件を立てようとしました。祝福の条件を立てた後には実体を回復しなければなりませんが、そのためには天を抱えて分かれ道の戦いをしなければならないのです。これが本来の私たち人間が進むべき道です。
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では、今日キリスト教を見てみると、まだサタンを支配することができる御言葉の権限を成し遂げていません。真にサタンを支配することができる権限の実体であるイエス様を紹介し、彼のために祈りながら進む信者はこの地上に少ないということです。皆さんがこれまでの御言葉に包まれて、そこからいくら努力しても進むべき道は遠いです。
今日まで6千年もの間、歴史は流れてきましたが、ここからどこへ進むのか?どこへ進むのか?御言葉を踏み越えて実体を抱きしめなければなりません。新約は大部分が書簡ですが、書簡で出会うのではなく、心に湧き上がる情を通じて出会わなければなりません。このように天と一つになった一つの存在、堕落後6千年の歴史の中で初めて現れたその立場に進んでみた人は一人もいないのです。
御言葉を踏み越えてイエス様を抱きしめる人がいるとしましょう。しかし、イエス様の前に進み出て「あなたが持っている天の全権の力と救い主の資格で万民を救済するための権限を私に教えてくださり、すべての罪の根本を清算する方法を教えてください。そして、あなたと共に永遠に楽しむことができる天の愛を紹介してください。」と祈りながら進んだ人がいないということです。このような人がいなければなりません。
もし、イエスに出会ってそのような条件を要求し、祝福を受けて恩恵を受けることができる人がいるとしましょう。しかし、イエス自身が両手を広げて「おお!あなたの願いはこのようであったので、永遠の幸福を享受しなさい。」と言うことができないのです。天の心情がまさにそうなのです。
なぜなら、イエスも十字架にかかって死んだことによって、この地上で新郎新婦として二人が一つになって神の前に出て「神よ、あなたが私たちの実体を立てたので、あなたの心の奥に秘められた愛を授けてください。」と言うべき部分が残っているからです。
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では、イエス様は「おお、ここまで来るのに苦労したので、私を条件としてあなたが神の愛を受けなさい。」と言うことができることを私たちは知るべきです。今日、大多数のキリスト教徒はイエス様の愛だけを受けようとしているのです。
パウロが言うには、イエス・キリストの中にある者は神の愛の中にあると言いました。自分にある愛ではなく、イエス・キリストの中にある神の愛を指していたのです。
従って、花嫁の理念を求める皆さんは、このような御言葉を通じて実体を見つけたとしても、神の前に出て「お父様、あなたの愛を、愛の全権を私たちに祝福してください。」と言うべき部分が残っているのです。従って、今日私たちはこのような立場にまで進まなければなりません。
言い換えれば、今日私たちは真理を求めて超え、実体を求めて超えて神の前に出て「神よ!私に愛の祝福を授けてください。」と言わなければならないのです。それでは、これはどういう理由なのか?これは神を求めてきた人々に対して、神が「私を求めて出てくるまで、多くのサタン、数え切れないサタンの試練を経てきたのだから、大変苦労した。」と言いながら、サタンと共に戦って勝利した道のり、神を知るまでの道のりを称賛することができるが、神の心の中で待ち望んでいた理想の園から取って生きることができる愛の心情としては祝福してくれないからです。
だから、天は「それがあなたの願いならば、今は罪深い世界に出て行きなさい。」とおっしゃるのです。つまり、「あなたは罪深い親の子孫であるので、復帰の過程を経なければならない。それで私の息子娘になることができる位置に達したならば、あなたは失われた真の親を探しなさい。」とおっしゃるのだと皆さんは知るべきです。
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私たちは神と出会えばすべてがうまくいくと思っていました。しかし、人間にはまだ残されている分野があります。つまり、人間の祖先が人類の真の祖先になれなかったために真の親を持たず、真の子供になれなかったということです。従って、皆さんが養子として神を知り、サタンと戦って勝利したとしても、直系の血統の縁を結ぶには真の親をお迎えしなければならないということです。そうなっています。
どのような信仰の勇者でも、神の前を離れれば苦しむことになります。結局、神の前に出て「その親が地上にいるのか、いないのか?」と尋ねるしかありません。その時、神は地上にいると答えるでしょう。しかし、もし地上にいなければどうするのでしょうか?皆さんがその親に代わって責任を負わなければなりません。「お前が一度親になってみろ。」このような言葉をおっしゃるのです。
そうすると、その信仰の勇者は別の場所へ足を運ぶでしょう。この地上のすべての信仰者たちをたどって探し当てるでしょう。だから、皆さんが真の親を探してその親の前に出て「おお、私がこれまでの困難を乗り越え、今や真の親であるあなたの前に出ましたので、お父様、これまで歩んできた歴史的なすべての悲しみを慰めてください。今、あなたの永遠の幸福の中で生きることができる全権、あなたの理念の園の全権を私たちに引き継いでください。」と訴えても、訴えたとおりにはならないのです。
その親はまた「お前が進むべき道がまだ残っているので、兄弟を探して来なければならない。」と言うのです。結局、彼は親を離れて兄弟を探しに行きます。だから、地上をさまよい、さまよって兄弟を見つけたら、「お前がいなければ私ができず、私がいなければお前ができないこのような兄弟、死んでも一緒に死に、生きても一緒に生きることができる兄弟、骨と骨を結びつけ、肉と肉を結びつけた身体の中でも切り離すことができない兄弟を探して、私はこのような命令を受け、お前に関する目的を知ってお前を探して来たので、6千年の歴史の恨みが私たちによって解決されるならば、お前と私が兄弟としてその解決の幸福を享受しよう。」と言うでしょう。
すると、真の信仰の兄弟はこう言うでしょう。「おお、君が探して来てくれたことはありがたい。しかし、我々によって神の全体的な目的が成就したわけではありません。まだ進むべき道が残っています。」と。それでは、その道は何の道でしょうか?残っているその道は、善の民族を探して来なければならない道です。この信仰の勇者は再び足を進めます。
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だから、一つの民族を見つけて「私がこのような歴史の道を経てあなた方に出会ったので、あなた方を通じて天の目的を成し遂げなければなりません。」と事情を話しても、その民族は「歓迎はできるが、喜びの踊りを踊ることはできない。」と言うでしょう。なぜなら、彼らの民族を破壊したサタンがまだ残っているからです。そして、サタンによって壊れた民族があると同時に、その民族と結びついた民族があるからです。さらに、そのような民族があると同時に「善の民がいた。」という答えが出てくるのです。
だから、また峠を越えてその民を見つけて「おお、今や喜びと幸福と目的の達成をすべて実現できる一つの民を見つけたので、天の民となる者たちと共に楽しもう。」と言いますが、そうはいきません。またあるのです。世界を越えて、私たちの真の親と真の兄弟と真の民族、真の民、真の国家、真の人類が集まって、一斉に神の前に礼拝し、その後にようやく成し遂げられるのです。
これが歴史の背後を動かして来られた神の心情に悲しみの苦難を積み重ねたものであり、これが私たちが生きて来た歴史の目標です。
これとは反対の方向に絡み合っているのが罪深い世であり、この理念を実現できないようにその前進を妨げるのがサタンの歴史であることを皆さんは知るべきです。必ず進まなければならない人生の道がこのように定まっています。
イエス様はこの地上に真理の本体として来られ、神に代わる実体として来られ、神の心情に代わる愛の実体として来られました。誰よりも人類の真の親、真のお父様の実体として来られたのです。イエス様が真の父として来られたのです。だからこそ、私たちは互いに真の兄弟なのです。イエスも「あなた方をもう奴隷とは呼ばない。終わりには子供たちと呼ぶであろう。」とおっしゃいました。子供たちなのです。
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親であるイエス様を中心にして兄弟として出発し、民族を作ろうということでしたが、その基盤が70門徒と120門徒だったのです。その群れを中心にしてイスラエル教団を動かし、民族を動かそうとしましたが、失敗しました。それによって第一イスラエルは崩壊し、第二イスラエルの歴史が始まりましたが、これがまさにキリスト教の歴史です。
このようにして、キリスト教は今日までイエス様を中心にした世界民族を形成してきました。従って、終わりの時代に到達した今日の人類は、自分自身が歴史的な悲運の峠をすべて越えていく中で、勝利的な縁を結んで進んでいかなければ、14万4千の群れに入ることはできないのです。
黙示録14章には「小羊がシオン山に立ち、そのとともに14万4千が立っていたが、その額には小羊の名とそのお父様の名が書かれていた。」と記されています。皆さん!イエス様の印を受けましたか?まずイエス様の印を受けなければならず、その後にお父様の印を受けなければなりません。イエス様の印を受ければすべてがうまくいくと思いますか?違います。イエス様の印を受け、そしてお父様の印を受けなければならないのです。これが堕落した人間が贖罪の完成を望んで進んできた目標なのです。
堕落していない、神の愛を受けることができる善良な人の目標は、まず神の印を受け、次に兄弟に印をつけることです。さらに、民族と民に印をつけることができなければなりません。これを考えるとき、天の悲しみがどれほど大きかったのかを皆さんは知るべきです。このような天の悲しみに関する御言葉は、夢の中でも知らなかった言葉であり、どの友人からも聞いたことがなく、どの師やどの教役者からも聞いたことがない言葉です。この内容は真に深刻な言葉です。
では、今日ここに立っているこの足取りは、明日どこに向かって行くのでしょうか?皆さんは今、神の愛の圏内にいますか?真の親の愛の圏内にいますか?真の兄弟の愛の圏内にいますか?真の民族の愛の圏内にいますか?真の民の愛の圏内にいますか?天地を統合して神の前に頭を下げるとき、その神が抱きしめることができる愛の圏内にいますか?そのような人は一人もいません。イエスもこのことを成し遂げていないのです。だからこそ、イエス様はまだ楽園で保留状態に留まっています。
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では、イエス様は終わりの時に再び来て必ず何をしなければならないのか?この仕事を回復しなければなりません。イエス様は御言葉を踏み越えました。しかし、十字架にかかって死んだ後に復活されたイエス様は、マグダラのマリアが抱きしめようとしたときに拒絶された方であり、「花嫁よ!私と共にお父様の前に行こう。」と言うことができる立場を経ていない方でした。だからこそ、2千年間、花嫁の席を探すその日を待ちながら努力してこられました。イエス様は本来、歓喜する花嫁と共にお父様の前に出て祝福を受け、真の親となるべきでした。そうして、真の子供を抱え、真の民族、真の民を築かなければなりませんでした。このようにして神はイエスにこの天地における真の祖先になるよう祝福しようとされました。
しかし、イエス様は人類の真の祖先として祝福を受けられずに去って行かれたのです。これを皆さんはよく知っています。これが天の悲しみであり、イエス様の悲しみです。今、果てしない涙を流すこのような悲壮な心情の痛みが皆さんの心に響かなければなりません。天の御言葉を裏切った私であり、天の実体を裏切った私であり、神を裏切った私であり、天の兄弟、民族、民を裏切った私であり、さらに進んでは、天の主権を侵害した私をどうして天が許してくださるでしょうか?許されることのない罪人であることを知り、自分の居場所を知らずにもがく青年男女が多く出てくることを天は望んでいます。
これを知るようになるとき、私たちの心情は燃え上がらざるを得ません。情が通い、心が動き、歴史に対して恨みたくなるし、時代に対して恨みたくなる心が込み上げてくるでしょう。
この憤りが強ければ強いほど、この憤りをどこで解決するのかという考えが浮かぶでしょう。このような歴史的な悲しみはサタンのせいであったので、サタンと共に一大決戦をしなければなりません。そして、このような覚悟を持った青年男女が多くいなければ、親を回復することも、兄弟を回復することも、民族、国家、天の主権を回復することもできないことを皆さんは知るべきです。
これまで私たちは安穏な生活を送ってきました。感覚のない無骨者として、存在意識は持っていましたが、存在の価値を持たずに悲しい道を歩んできました。それでもなお、自分が優れていると恥知らずに出てくるのです。今日、私たちがこのような罪深い民族であることを、この時間だけでも認識しなければなりません。これすらも知らない人間は、天の天罰を受けて当然であり、裁きの日に硫黄の火の淵に投げ込まれる裁きの生け贄となって当然でしょう。
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これを知り、自分が裁きを受けることを恐れてはなりません。天が自分よりも悲しい事情にあることを知らなければなりません。また、先祖たちが歩んだ歩みが自分よりも悲しい事情であったことを知らなければならず、今日この時代に志を持って進んでいる真の人々が、今日自分が感じている悲しみと苦しみ以上の生活をしていることを知らなければなりません。このような事情を知っている人間でなければなりません。
私たち人間は今日も進み、明日も進み、生きて進めなければ、死んでからでも永遠に歩み続けなければなりません。この運命の峠、この悲惨な苦難の話は恨むことができません。従って、天はこの苦難を引き起こした主人公であるサタンと決戦を行うための天の精兵であり、勇者として天と地に向かって号令をかけて進むことができる青年男女を探しているのです。だから、私たちはそれに向かって突き進むことができる天の心情を持って叫ぶ群れが求められているのだということを知るべきです。
だから、今皆さんは神の心情を通じることができなければなりません。さらに、真の親の血を受けた子供、その血と結びついている民族になり、民にならなければなりません。その親と一つになって、その喜びが全体の喜びであり、全体の喜びが私の喜びであるべきです。そうして、すべての人々が神をお迎えして、その前で賛美を捧げ、礼拝を捧げることができなければなりません。これが私たち堕落した人間が必ず進むべき目的地であることを皆さんは知るべきです。
<祈祷>
お父様、エデンの園を失った人間が経験してきた屈辱の歴史の道と苦しみの歴史的な縁を経て、あなたを探し求めることをしなければならない非常に悲しい障壁と峠が私たちの前に立ちはだかっていることを知りました。
お父様、今日も明日も進まなければならない私たちのこの歴史の悲しみを知ることを許し、命の源であるあなたの悲しみを知ることを許してください。
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永遠なるお父様の幸福の園を知り、その園まで一歩一歩進んでいく際に、行進の道を合わせていける私たちになれるよう許してください、愛するお父様、切に願い、望みます。
私たちがどの段階で進んでいるのか、どの段階に留まっているのかを知ることを許してください。お父様、今まで無責任に生きていた私たち個々の存在が裏切り者の歴史の道を歩まないように許してください、全体に応えて一つの理念の園で父をお迎えし、お父様の前で礼拝を捧げられるその日が来るまで、サタンと戦い続ける息子娘たちになれるよう許してください、切に願い、望みます。
お父様、ここにあなたの息子娘たちが集まり、御言葉を聞いたので、この御言葉を通じて自分の人生の道を新たな角度から探し、天の法に従って目的地に向かって進む革新的な運動が起こることを許してください、お父様、切に願い、望みます。
この日のすべてを主宰してくださることを願い、主の名によって祈ります。アーメン。
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