5月3日の手指の骨折箇所が まだ 治らず、山へ行けない日々が続いています。
書棚から古い山の本を出してみて、 また読みかえしたり、やまのDVDを見たりしています。
『処女峰アンナプルナ』
エルゾーク著 近藤 等訳 白水社 1960
最初の8000m峰登頂と副題がついた本。
到達高度だけなら 戦前 エベレスト挑戦の1924年イギリス隊は8500mラインを超えて到達していたのであるが、山頂へ登頂はしていなかった。
高度だけでなく、人類が初めて8000mを超える高峰の山頂に初登頂したということを副題のように ことさら強調し、1950年アンナプルナのフランス隊の「最初の8000m峰登頂」を有名にしたのも この本のおかげであった。
1950年フランス登山隊は より抜きの優れた登山家ばかりであって、様々な困難を克服し2名が山頂に登ったが、帰途は 大変な苦難の下山となる。
文字通り まさに九死に一生を得た奇跡の生還であったが、大きな代償として著者らは 手足の指を失う。
登頂の栄光と引き替えに凍傷で大きな後遺症を背負った 著者エルゾーク氏はその後もハンディキャップを見事に克服し 素晴らしい活動を続けて 後に フランスの青少年スポーツ大臣、シャモニーモンブラン市長など 公的な立場でもめざましい活躍することになる。
後年 エルゾーク氏は「山は最良の教師」という趣旨の発言をしているが、栄光と引き替えに ハンディーを背負った実体験から身に沁みての言葉であり重みを感じる。大きなハンディをバネに生かして 後年活躍されたのだろう。
『アドバンス山岳ガイド 槍ヶ岳・北鎌尾根』
北鎌尾根のDVD。山と溪谷社 刊
大天井 貧乏沢 北鎌沢経由でありながら、副題に「伝説のクラシックルート、初の完全映像ガイド」の「完全」とは、大いに異議があるところだ。
その昔 当然のごとく 葛 七倉から歩いたのでした。
そもそも 湯俣 千天出合への 長い アプローチにこそ 北鎌尾根 本来の大きな意義があると思う。
アプローチを短縮し楽をして核心部だけ「つまみ食い」?のような、 大天井 貧乏沢 北鎌沢経由というのも 時代の流れというものか?
そういえば 『岳人2007年6月号』は 上高地 水俣乗越 天上沢下降 北鎌沢 北鎌尾根のコースで紹介されていた。
実は その昔 3月 葛温泉から歩き始め、途中 5m進むのに15分かかるような絶望的なラッセルなどもあり、アプローチで さんざん消耗し、苦労して 湯俣まで丸2日かかり 千天出合でやっと3日目夕方着 4日目やっと P2尾根末端取り付くことができた。
北鎌尾根に取り付いてからも トレースなしの 大槍山頂までの長い行程は苦労の連続だった。
北鎌尾根の本来の北鎌らしさと魅力というのは、やはり長いアプローチと下部に多くあるではないかと思う。
北鎌のコルからの上澄だけのようなコースが今では主流になっているようで、 昨今の『山と溪谷』、『岳人』などの 最近の発刊物を見ると 時代の変遷とはいえ なんだか 北鎌尾根の魅力を減じているなと 感じざるを得ない。
こう思うものも
このとき振り返れば、北鎌には下山途中のほろ苦い思い起こすのである。
私の過去の拙い山歴でも有頂天の時には 山はいつも「謙虚さが足らん」と手厳しい試練を与えてくれたが、この3月の北鎌尾根の下りも厳しい試練が待っていた。
3月の北鎌尾根下山途中 、槍沢を下り、途中、デブリ地帯のアイスフォ-ルを飛び降り捻挫。沢渡まで、腫れた足を引きずりながらの長い難行。
今思えば エルゾーク、ラシュナル両氏の処女峰アンナプルナの下山とは比べものにならないほど 遙かに緩い 楽な試練であった筈だったのだが、その当時の私には とても重い試練であった。
今度の自転車遭難も 謙虚な気持ちを取り戻す またとない絶好の機会ととらえ、ゆっくり反省のいい充電期間を山が与えてくれたと感謝する必要があるのでしょう。
骨折箇所 まだ 治らず