■ 2020年09月11日 日光史跡探勝路散策
栃木県日光市にある「日光史跡探勝路」を散策しました。日光市営第1駐車場に車を置き、輪王寺~東照宮をかすめで「史跡探勝路」をたどって滝尾神社へ、帰りは滝尾神社~行者堂~大猶院~二荒山神社~東照宮を経て駐車場へ戻りました。
▼ ルートマップ
▼ 駐車場から輪王寺に至る道路脇にある「法華塔」
▼ 日光山輪王寺
▼ 東照宮
▼ 史跡探勝路
▼ 教旻僧部の墓・・・教旻僧部は勝道上人の十大弟子の一人で、上人第一の高弟でした。上人に従って日光を開山し、ともに苦行を積んで弘仁8年(817)上人の後を継ぎ、日光山第二祖となりました。東照宮創建のおり、墓地の移転をしましたが、教旻僧部の墓を移そうとしたところ、人夫がけがをしたり、異変が起こったために現在の地に残されたと伝えられています。(案内板より抜粋)
▼ 養源院跡・・・寛永3年(1626)、水戸頼房の養母「英勝院」が「於六の方」の菩提を弔うために創建した寺院。家康の側室であった於六の方の院号が「養源院」であったことから、そのまま寺号としたもの。水戸家が代々の大檀家となり、元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、この寺を訪れてから東照宮に参詣した。明治の神仏分離の際に廃寺となった。(案内板より抜粋)
▼ 観音堂(左)と開山堂(右)
▼ 陰陽石・・・お産に縁のある自然石二つからなる奇石。陰(女性)と陽(男性)を意味するといわれている。(案内板より抜粋)
▼ 勝道上人の墓・・・日光開山の祖、勝道上人(735-817)は、弘仁8年(817)3月1日に83歳で遷化され、仏岩谷の上方に埋葬されましたが、東照宮鎮座のおり開山堂が建てられ遺骨もここに移されました。五輪塔の台石には「勝道上人之墓」と刻まれています。(案内板より抜粋)
▼ 仏岩・・・頭上の岩壁には仏の姿をした岩が並んでいたものが、地震で岩が崩れて消失し、仏岩の名のみが残ったともいわれている。岩壁基部のくぼみには、梵天、帝釈天と四天王農地の三体と不動明王の石造、六体が並んでいる。(案内板より抜粋)
▼ 史跡探勝路
▼ 滝尾道
▼ 北野神社・・・学問の神、菅原道真を祀る。寛文元年(1661)筑紫安楽寺の大鳥居信幽が勧請したもの。鳥居や祠の奥の巨岩に天満宮の梅鉢紋が見られる。(案内板より抜粋)
▼ 神馬の碑・・・慶長5年(1600)関ヶ原の戦のおり、徳川家康が乗った名馬の碑。家康が亡くなった後も元和3年(1617)から寛永3年(1630)に亙る十年の間、東照宮に御神馬として奉仕した。延宝6年(1676)梶定良の建立。由来の碑文が刻まれている。(案内板より抜粋)
▼ 史跡探勝路
▼ 昌源杉・・・文明8年(1476)、日光山第四十四世別当になった昌源が山中に数万本の松と杉を植えたもので、中世繁栄期の遺産であり、「昌源杉」と呼ばれる。(案内板より抜粋)
▼ 史跡探勝路
▼ 大小べんきんぜいの碑・・・古くはこのあたりに栃御門(桜門)、下乗石、木の鳥居などがあり、これから先は滝尾神社の聖域に入るので、大小便を禁じる碑が建てられた。庶民にも読めるようにと「大小便禁制」のうち大小のほかは「平仮名」で書かれているのが珍しい。(案内板より抜粋)
▼ 滝尾神社
▼ 白糸の滝・・・天狗沢にかかる名瀑。高さ約十メートル。弘法大師修行の場となったと伝えられる。文明18年(1486)、京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」和歌が詠まれている。「世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この滝尾の たきの白糸」(案内板より抜粋)
▼ 滝尾神社参道
▼ 別所跡・・・東照宮の還座以前、日光参詣の中心はこの滝尾周辺であった。日光責めで有名な輪王寺の「強飯式」(山伏が大盛りの飯を残さず食べろと責める儀式)も。ここが発祥の地である。明治になって別所は廃絶。(案内板より抜粋)
▼ 影向石・・・影向とは、神仏が仮の姿をとってこの世にあらわれること。弘法大師(空海)が弘仁11年(820)、この地に来て奥の大岩のあたりで神霊の効果を祈願したところ、美しい女神が現れたと伝えられている。(案内板より抜粋)
▼ 運試しの鳥居
▼ 滝尾神社楼門・・・日光二荒山神社の別宮。本宮、新宮(現在の二荒山神社)とともに日光三社権現の一つである。女峰山の女神、田心姫命を祀る。弘仁11年(820)、弘法大師が創建したと伝えられる。明治4年の神仏分離までは楼門に大師の筆といわれる「女体中宮」の額が掲げられ、仁王像が安置されていたという。(案内板より抜粋)
▼ 滝尾神社拝殿
▼ 滝尾神社本殿&唐門
▼ 無念橋(願い橋)
▼ 滝尾三本杉
▼ 酒の泉
▼ 子種石
▼ 史跡探勝路、分岐を二荒山神社方面へ
▼ 史跡探勝路
▼ 行者堂・・・修験者の修行場として建てられた切妻造りの簡素な建物。創建は平安時代、山岳信仰の盛んな頃と推定されますが、現在の建物は輪王寺明細帳には天正3年(1575)、桜本坊宗安の再興と伝えており、その後、幾度か修理を経て今日に至っている。正面の一間は土間で、二間目から一段高くなっており、奥の一間に壇を設け、修験道の開祖である「役小角」を中心に両側に侍鬼二体(前鬼・後鬼)が祀られている。(案内板より抜粋)
▼ 空烟地蔵・・・この地には、日光山を開山された奈良時代の修行僧「勝道上人」(735-817)が、男体山に登ろうとして道を探していたときに地蔵菩薩が現れ導いたと言い伝えがあります。その800年後、延宝年間(1675年頃)に三代将軍徳川家光公(1604-1651)の忠臣 阿部豊後守忠秋(1602-1675)の墓を大猶院境内に造った際、上人の言い伝えを聞いた阿部家が石造りの地蔵菩薩像と灯籠を寄進しました。忠秋の墓は、尊像と背中合わせの大猶院境内にありますが、忠秋が「空烟」と号したことから、この地蔵尊を空烟地蔵と呼ぶようになったもの。石灯籠に刻まれた「丸に重ね違いの鷹の羽」は阿部家の家紋です。(案内板より抜粋)
▼ 史跡探勝路(二荒山神社側入り口)
▼ 日光廟大猶院
▼ 二荒山神社
▼ 開運ねずみ@二荒山神社
▼ 二荒山神社参道
▼ 五重塔@東照宮