だが、二日学校を休めという。仕様がないから、家でおとなしく寝ていた。が、退屈だったので、枕元の戸棚(その上が座れるように台になっている)を開けてみると、分厚い教養全集みたいのがずらりと並んでいる。一冊取り出して見ると、川柳や俳句がたくさん載っている。他のは昔話というか、俵の藤太の百足退治の話とか、古代韓国で日本軍が敗退する戦いとか、娘を蛙の長者に嫁がせる男の話とか、何か引き込まれる、ぞくぞくする話が多かった。
そして、学校へ行くと、その二日間に数学は因数分解を終わっていて、それ以来、数学が嫌いになってしまった。
北海中学の三年間は、昭和21年から昭和23年までだったから、敗戦後の大混乱の真っ最中と言う事ができると思う。
学校の教科書は軍事色を払拭するのに懸命で、新しい教育とは何かまだ決定していない混乱期だった。旧い教科書の軍国主義を筆と墨で言われるままに消していくと、生き残ったのは数ページにしか過ぎなかった。
暫定教科書ができたのは夏休み前後だったと思う。タブロイド版のザラ紙に印刷して折り畳んだもので、それにナイフを入れて切り離し、自分で製本?つまり綴じこんで本の形にしなければならなかった。
さて、一方、町には占領軍(進駐軍でなく)のGIどもが、歩き回っていた。彼等の腕には日本の女、つまりパンパン=売春婦がぶら下がっていた。
パンパンの話す英語をパングリッシュと言う。パンパンの話すイングリッシュだから・・・。でも、なんと言われようが、片言の英語で何とか会話をして、それで生業を立てているのだから立派なものじゃあーりませんか。パンパンでも、相手が決まっているものをオンリーと言った。いい得て妙である。
我々少年探検隊は、道路での三角ベースにも飽きると護国神社の境内や中島公園のプールの周辺をうろついた。というのは、その辺りが、GIとパン助のアオカンのエリアだったから、木陰の叢には彼等の前夜の戦いの跡が歴然としてあったからである。
静修高校の近くに小児科があって、その名をH岡という。江戸時代の有名な麻酔医の子孫であるという。先生は小太りで真ん丸な目をして髪は縮れっ毛であった。
我が家は子沢山で、誰かが風邪を引くと皆にうつって、H岡先生に往診を頼んだ。先生は風邪の子の胸に聴診器を当ててから、母に『ほら、こんなにラッセルが(気管支がぜいぜいいう音)凄い。こりゃ大変だ』と言いつつ母に聴診器の音を聞かせたと言う。
そうでなくても若い母親は心配でどきどきしているのに、それ以上、これ以上脅かしてどうしようというの?