パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その十二

2005-12-29 19:38:00 | 自分史
 初夏の頃、顔の真ん中に面腸ができた。酷くなると命に関わるという。で、直ぐ、裏の林の中の渡辺医院にいった。その場で直ぐに切るという。まあそれで治るならと覚悟を決めた。が、簡単に終わった。
 だが、二日学校を休めという。仕様がないから、家でおとなしく寝ていた。が、退屈だったので、枕元の戸棚(その上が座れるように台になっている)を開けてみると、分厚い教養全集みたいのがずらりと並んでいる。一冊取り出して見ると、川柳や俳句がたくさん載っている。他のは昔話というか、俵の藤太の百足退治の話とか、古代韓国で日本軍が敗退する戦いとか、娘を蛙の長者に嫁がせる男の話とか、何か引き込まれる、ぞくぞくする話が多かった。
 そして、学校へ行くと、その二日間に数学は因数分解を終わっていて、それ以来、数学が嫌いになってしまった。

 北海中学の三年間は、昭和21年から昭和23年までだったから、敗戦後の大混乱の真っ最中と言う事ができると思う。
 学校の教科書は軍事色を払拭するのに懸命で、新しい教育とは何かまだ決定していない混乱期だった。旧い教科書の軍国主義を筆と墨で言われるままに消していくと、生き残ったのは数ページにしか過ぎなかった。
 暫定教科書ができたのは夏休み前後だったと思う。タブロイド版のザラ紙に印刷して折り畳んだもので、それにナイフを入れて切り離し、自分で製本?つまり綴じこんで本の形にしなければならなかった。

 さて、一方、町には占領軍(進駐軍でなく)のGIどもが、歩き回っていた。彼等の腕には日本の女、つまりパンパン=売春婦がぶら下がっていた。
 パンパンの話す英語をパングリッシュと言う。パンパンの話すイングリッシュだから・・・。でも、なんと言われようが、片言の英語で何とか会話をして、それで生業を立てているのだから立派なものじゃあーりませんか。パンパンでも、相手が決まっているものをオンリーと言った。いい得て妙である。

 我々少年探検隊は、道路での三角ベースにも飽きると護国神社の境内や中島公園のプールの周辺をうろついた。というのは、その辺りが、GIとパン助のアオカンのエリアだったから、木陰の叢には彼等の前夜の戦いの跡が歴然としてあったからである。

 静修高校の近くに小児科があって、その名をH岡という。江戸時代の有名な麻酔医の子孫であるという。先生は小太りで真ん丸な目をして髪は縮れっ毛であった。
 我が家は子沢山で、誰かが風邪を引くと皆にうつって、H岡先生に往診を頼んだ。先生は風邪の子の胸に聴診器を当ててから、母に『ほら、こんなにラッセルが(気管支がぜいぜいいう音)凄い。こりゃ大変だ』と言いつつ母に聴診器の音を聞かせたと言う。
そうでなくても若い母親は心配でどきどきしているのに、それ以上、これ以上脅かしてどうしようというの?

昔、昔、或る所に・・・/その十一

2005-12-29 19:27:00 | 自分史
 北海中学の二年の時だったと思うが、長女の美和子姉と二人で帯広の勇吉叔父さんの所へ遊びにいった。
どういう経緯だったかは忘れたが、汽車に乗って片道十時間位掛かったと思う。
 私が14才と言う事は姉は18才で、高校三年だったが、敗戦から二年たったとは言えまだ世間は混乱していたはずで、両親が良く子供二人の旅を許したものだ。多分、全ての費用は当時富士銀行の支店長だった叔父貴の負担だったのではないかと思われる。

 どこかへ泊まった筈だがその辺の記憶がなくて、水光園という所と笹川温泉の記憶はある。で、その温泉だが、叔父貴の名刺を持っていったのだが、どうも違う温泉にいったらしく、お女将と番頭さんが名刺を見てなにやら話合っていたが、宜しいという事で従姉弟の直子ちゃんと孝雄君と四人で上がって遊んできたが、間違った所でも叔父貴の名刺は通用した訳でその威力に感心したものだ。

 それと直子ちゃんの自転車を借りて乗れるように練習をしたのだ。家にも自転車はあったが、父が通勤に使っていたから子供は遊ばせて貰えなかったので、乗れるようになって大変嬉しかったのを覚えている。

 それから叔父貴が本屋へ連れていって好きな本を選びなさいといったが、余りにも本の数が多くて目移りがして決め兼ねていたら、叔父貴が円地文子訳のパール・バックの『大地』を買ってくれた。外国の物語は初めてで、それも隣りの中国の事を何も知らなかったので、凄く新鮮でショックでもあった。

 学校生活は大変楽しかった。山鼻小学校の頃は、欲がないというのか、勉強の成績なんて全然気にしていなかったから、通知箋はいつもアヒルの行列であった。(成績の評価方法が『甲・乙・丙』で常に『乙』で、上がりも下がりもしなかったのだった。)
 所が、中学校に進むと、少しはやる気が起きたのか、成績は少しずつ上がり始めた。勉強が面白くなったのは確かであった。分からない事は母に聞いたり辞書を引いたりして一応勉強はした積もりだった。

 英語の教師は『白豚』という渾名のS瓶先生で、この先生、色が白く小太りであったから前述の渾名になったのだが、顔は目が細く、少し垂れ目で興奮すると頬が赤くなってくる。白豚が赤豚になってしまうのだ。先生はもともと教会の牧師さんだったという。が、戦時中に失業したのか、英語の先生になったのだ。

 この先生は一つの趣味というか方針で、成績はともかく、可愛らしい少年を放課後に残らせて英語の特別授業をした。一年生の六クラスから選抜された生徒が十人位もいただろうか。だから必然的に勉強が好きになり、成績も次第に上がっていった。
 先生の善行についてとやかくいう者は、表立ってはいなかった。そう、裏に回ってはいろいろな憶測が飛び交っていたという話であるが、当時者の美少年軍団はそんな事は全然知らなかった。勉強が面白くなって、成績が上がるのであれば、そんないい事はないのではないか。

 それとは別に、私個人には問題があった。美の神・ミューズが美貌の少年に嫉妬をしたのである。ある日、気が付いてみると、ヘレン・ケラーならぬ三重苦が待っていた。それは絶壁で、偏平足で、蟹股と言う事である。
 だから性格が内向的になり、シニカルになり、偏屈で臍曲がりになってしまった。ベートーベンにおける難聴、サマセット・モームの海老足、野口英世の拳の火傷と比する事は無いが、表情に影のある少年になってしまった。

昔、昔、或る所に・・・/その十

2005-12-29 19:17:00 | 自分史

 その丸井の『ニュース映画館』、入れ替えの度に押すな押すなの大盛況だったから、空いた席に座れれば幸いだが、それには三替わりくらい待たなければ座れない。
 で、いつものように後ろの方に立って席の空くのを待っていたが、何時の間にか、誰かに手を握られているのだ。
心臓をどきどきさせながら、それとなく隣りを伺い見ると、大谷の制服を着た女学生がいた。手を握られたままで上映が終わるまで待って、明るくなって人波に押されながら表へ出て、相手の女学生を追ってみたが、どこかへ消えてしまった。だが、顔はしっかり見ていたので、毎週、同じ場所に立っていたが、それっきりで、遭う事はなかった。
 だが、40年くらい経って、ススキノであの顔を見付ける事ができたのだ。彼女は小さなスナックのママさんになっていた。

 この丸井の『ニュース映画』もそこへ真っ直ぐ行ったのではなく、大通り西一丁目にある北光教会で日曜礼拝に立ち会った後で行ったのだ。教会は白い壁ととんがり屋根があり、二階席から聞こえてくる賛美歌はなんとも言えない厳かな美しさがあって、牧師さんの説教より魅力があった。こっちも負けじとボーイソプラノで頑張ったが、多勢に無勢でとても適わなかった。

 その頃、父・照之助は大丸藤井商店の傍系の藤井実業を経営していて、それは南一条西六丁目の電車通りの南向きの建物にあった。父は官庁や庁舎を回って注文を貰い、納品するという商売だった。社員は男女各1名ずつ。

 私と吉田和夫君は冬休みにアルバイトをした。それは卓上カレンダーを台付きセットと玉だけ(カレンダーだけ)を何十個かダンボール箱に入れてソリに積み、六丁目の会社を出て西に向かい、通りに面している会社に、大きい所も小さい所も代わり番こに入って、注文をきくのだ。
 私は北中の、和夫さんは札商の制帽をかぶっていて、この両校の卒業生はどこかに就職していたから、可愛い?後輩に注文をくれる事務所が多かった。だから、父の目の付け所は正しかったと言えよう。

 それから、忘れられないのは、映画のロケイションがあって、そのエキストラに出演?した事である。映画の題名は『若き日の血は燃えて』といい、大阪四郎と沼田曜一の主演だった。
 ロケの場所は北18条の北大の飛行場で(今は飛行場跡の棒杭のみ)、我々北中の応援団が応援旗やのぼりを押し立てて、応援歌を大声で歌って(喚いて)いるのをロングショットで撮って(だから我々中学生はその他大勢で、我々の前に数人の俳優が立っていてそれらしく見えるというもの)ギャラは一人50円位だったと思う。つまり当時の珈琲代程度か・・・。

 この飛行場には練習用の複葉機が発着したり、グライダーを飛ばしたりした。
このグライダーの飛ばし方だが、グライダーの前方にゴムヒモを何本も撚った物をつけ、後方には長いロープをつけて固定し、10人か20人くらいでそのロープをえんやこらと引っ張り、ゴムヒモが伸び切ったところで固定し、ロープを解き放つ、とグライダーが飛び出すと言う、なんとも原始的な方法だった。それを日曜などに見に行き、人手が足りないときにはロープを引っ張らされたりもしたのだった。

 北中の先生で追加あり・・・島谷先生は体育の教師だが、専門は柔道と相撲。だか
ら、授業の初めには四股を踏んだり、天突き体操をしたり、後はサッカーばかりやっていた。それから直接授業は教わらなかったが、野球部長の飛沢先生は全国的にも有名だった。


昔、昔、或る所に・・・/その九

2005-12-22 09:40:54 | 自分史

 北中へ通学するには、家を出て東へ向かい、加茂鴨川の対山橋を渡り、石狩川治水事務所の前を通って、幌平橋を渡り、堤防の上を北へ歩き、数丁いってから東へ向かって、林檎園の中の一本道を学校まで歩く。約30分の行程であった。
 北海中学には、美術愛好会の『どんぐり会』が長い伝統を誇って、内外にその異彩を放っている。で、とりあえず入会した。同期生の中に『平賀ハイヤー』の息子の平賀君や、割烹『いく代』の息子の斎藤君、それに黄色を好んで使う『イエロー君』こと佐々木君などがいた。

 美術の教師は『原始林』と言う渾名の先生で、その名を宮前文平といった。原始林先生はその名の由来の如く、髪の毛が栗色でカールしていて、ジャングルのようにくしゃくしゃしていたからで、目玉はクリッと真ん丸で痩せて小さかったから、下痢をしたベートーベンもかくやの容貌であった。

 序でにニックネームのある諸先生を紹介すると・・・
 『はげ馬』こと歴史の内田先生。(この先生は帯広の出身とかで、祖父の広吉を知っていて、出席を取るときに「お前は遊園地の近くのF野か」と聞かれた。確かに中島公園で昔、博覧会があって、遊園地があったと聞いていたので「はい」と答えると、以来当分の間『遊園地のF野』と呼ばれた。)『種馬』の白鳥先生。『山嵐』の国語の佐藤先生。(この先生、国防色の背広と乗馬ズボン、同色のハンチングという出立ちで、さすがに私学の名門には異色の教師がいるわいと感激した。)

 それから元准尉のジッコと呼ばれた大塚先生。
この元将校の爺さん先生は何を教えたか?科目名は『作業』といい、ルンペンストーブの焚き付け方とか、畑の畝の切り方とかであった。
 そして、圧巻はアシリベツ(今の北野や有明方面)の原始林を切り開いて、学校園を作る事だった。そこまで行くのに乗り物に乗らず歩いて行けというのだ。つまり軍事式の強行軍てやつ。とにかく、木を切り倒して大豆やジャガイモを植えた。その作業中に目の中にへっぴりむし(かめむし)が入ってその痛いこと痛いこと、死ぬほど痛かった。何しろ大きな円らなおめめの美少年だったから・・・。
 で、帰り道は木材を積んだトラックを止めて乗せてもらった。ヒッチハイクのはしり?それでも、学校へ付いて鶴嘴やシャベルを作業室へ格納すると、大塚先生が最後の一兵の帰るまで頑張って居られた。
 で、今になって考えてみると、あの大豆やジャガイモは誰の腹に入ったのか、と言う事で、おそらくは先生方の家族が食べたのだろうと思う。

 さて、戦争に負けたのだから、食い物もなかったが、娯楽もなかった。ラジオとたまに見る映画、それに丸井今井の8階のニュース映画位のもの。新聞はあっ
たが、雑誌は昭和25年くらいになって少年倶楽部や野球少年などが出てきた。

 で、ラジオだが、NHKで(民放はまだ)『鐘の鳴る丘』という連続物をやっていて、夕方の6時になる前に、どこで遊んでいようとまっしぐらに家へ駆けて帰った。内容は、戦争で親をなくした浮浪児たちが、郊外の施設に集められて生活する、その悲喜こもごも・・・。

 それから、丸井のニュース映画は最初が1円99銭、翌年から2円99銭となった。この99銭というのは、1銭増えて2円、3円となると税金が掛かるからなのだ。で、釣りの1銭を持って帰らない人が多かったから、窓口の前には1円玉が山になっていた。
 で、『日本ニュース映画』や外国ネタの『ムービートンニュース』や、映画の予告編などで約一時間ほどの上映時間だったが、娯楽に飢えた人々が日曜などどっと押し寄せたから、押すな押すなの大盛況で、あの窓口に山と残った1円玉と共に大いに儲かったのではないかと思う。


昔、昔、或る所に・・・/その八

2005-12-22 09:21:37 | 自分史

 山羊は、吹雪の吹き込むボロ小屋で肺炎を起こして死んでしまった。
悲しくて、食事も喉を通らなかった。他の兄弟には分からなかっただろう。これは手塩にかけて育てた者でなければ分からないのだ。夜、布団の中で、気付かれないように泣いた。

 そして、詩を書いた。『山羊の死』と言う題名だったと思う。
・・・死んだ山羊はどこへ行ったのか・・・。天へ上って星に成ったのだろう・・・。夜空を見上げている私に、瞬いて教えておくれ・・・。
といったような内容だったと思うが、中学生の書いたものだから、とても人様には見せられない。

 とは思ったが、何しろ、その当時から自己顕示欲が強かったらしく、その詩を北中文芸に投稿したと記憶していた。だが、同級生だった故大竹不二夫くんが、札商高校の校長だった時、見せてくれた札商文芸にそれが載っていたのだ。つまり、北海から札商に編入して、作品を募集した時に、中学時代の作品を提出したと言う事である。

 山羊といえば、忘れられない事件がある。それはまさに事件と呼ぶにふさわしい出来事だった。
 朝、学校に行く前に、山羊を小屋から連れ出して、首輪に長い5mほどの鎖をつけて、川ぶちの草の生えているところへ、1mくらいの鉄棒を打ち込んで、鎖の先をつける。その半径内の草を食べられるわけだが、鉄棒の打ち込みが浅ければ、山羊の力であっちこっち引っ張っているうちに抜けてしまって、よその畑の作物を頂戴している事もあった。畑にニラなどがあったら、その乳はニラ臭くてとても飲めなかった。

 夕方、学校から帰ってくる私の姿を見つけて、山羊君・・・じゃない山羊嬢はめえーめえーと鳴くのであった。全く泣かせる話だねえ・・・。
それまでに急に雨が降ったりすると、母が家へ連れて帰ってくれたが、山羊も急いで帰りたいらしく、凄い勢いで走り出すのだと、母が話していた。

 で、その頃、母のすぐ下のナミコ叔母の一家が海外から引き上げてきて(叔父さんは砲兵隊の大尉だったが、戦死したので)、中島公園に臨時に作られた引き上げ者用の住宅に越してきていた。すぐ側に我が家があったので、従兄弟達が遊びにきた時に、その事件は起こった。

 従兄弟達は、一番上の久男ちゃんが私と同い年で、その下に男、女、女、女と続いて、さらにその下にも二人できてしまって、女一人でそんなには育てられないという事で、下の二人は叔母のすぐ下の妹の寿天子叔母に貰われていった。

 五人の従兄弟達が来た時、ちょうど山羊を小屋へ入れる時刻であったので、一同がぞろぞろと山羊を放牧?じゃなくて、繋いだ所へ行ったと思いねえ。
その時、その瞬間、二番目の演夫ちゃんが叫んだのだ!
『チンポ通せ!』
と。
 いかに戦後すべての価値が変わったと言っても、雌の山羊にチンポがあるわけがないのだ!

 で、この事件を翻訳すると・・・。
山羊は鎖を跨いでいた。だから、鎖が乳房に触れていた。で、勘違いした彼がいみじくも『チンポ通せ!』と叫んだのだ。
つまり、山羊が鎖をまたいでいて、鎖が乳房に触っているから、ちゃんと鎖を直せと、彼は言いたかったのである。乳房を陰茎と勘違いしたという事であります。
まあ言ってみれば知らないという事は往々にして、こんな結果を招くものだと言う、お粗末の一席でありました。