パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その二十八

2007-03-02 12:25:04 | 自分史
 連れていってくれたのは、北大の助手の松崎さんと言って、東北の地方都市の造り酒屋の御曹司と言う事だったが、仏教系の大学へ就職したそうだ。この男、体が大きく、ラガーマンだったが、自分を百姓と言ったり、相手をオトッツァンと呼んだり、大きな顔に小さな目で、まあ学究肌とでも言うのか、知識をひけらかす事もなく、おっとりしたナイスガイであった。
マミイで飲み仲間になって、ちょっとその辺いってミッ力、と出掛けたのが、『バー峠』であった。

 店内は薄暗く、天井の梁に丸太を使ったり、壁なども粗削りの板をそのまま使ったりと、山小屋ふうな内装であった。だから、レコードも歌声喫茶ふうなフォークソングが多くかかった。で、その頃出始めた缶ビールが売り物で、最後の一本はマスターの晩酌?になっていた。
女の子は2、3人いたが割りかし小柄で、中の一人がH井慶子であった。

 彼女は映画通であったから(狸小路の帝国座に7、8年勤めていたと言う事で)話が合って、彼女との交際は結構長くなって、4、5年は付き合っていたと思う。で、新創作同人会の春の遠足に羊が丘にいったり、朝里温泉で開いた例会に出席したりしたものであった。
彼女の妹がススキノのビルの2Fの喫茶店に勤めていて(そのビルは自社ビルで、兄弟が法人で所有しているとのこと)そこの次男坊と結婚した。そこの4Fに住んで一男一女を設けたのが、K一郎くんとA妃くんであった。

 「好事魔多し」の諺のとおり、良いことが続けば次には悪いことがやってくるというわけで、それは起こった。父の店の倒産である。
四月の末、父が私と三男の英三をよんだ。そして、月末の手形か落とせないという。これはまさに晴天の震露であった。それで、父は姿を隠すから後を頼むというのだ。私が28才、英三が22才の時であった。父は東京の吉祥寺の勇吉叔父の所にいった。

 それからが戦場のような、地獄の日々が続いたのであった。二人は店に泊まり込み、表には『社員慰安旅行のため休ませて頂きます』と書いて貼り出し、カーテンも板戸も閉めたままで、ひっそりと息を殺していた。が、電話は鳴り放しで、それを睨み付けながら何もできなかった。

 負債額は1000万弱だったが、がんがんやってくるのは問屋関係で、銀行や高利貸しは慌てず騒がずで、こっちのほうが気味悪かった。で、問屋関係が債権者会議を開くといってきた。が、こっちは初めてのことだし、20もの問屋にやいやい責められるのは適わないので、札商で同級生だったM村巌君に電話して作戦を練った。といっても、こっちには払う金なんか全然無いのだから、頭を下げて勘弁してくださいというしか手は無かった。

 近くの会館の二階の大広間を借りて、債権者会議が開かれた。
問屋たちはぞくぞくと集まった。私と英三が舞台を背にして並び、私の側にM村君にすわってもらった。(彼は北海学園卒業後、私のところにきて『相談がある』といった。それは就職の話で、全国的な機械メーカーか、地元の機械メーカーかの二者選択で迷ったらしかった。で、全国的な会社は東京の大学を出たものが多く、学園出は入社しても、東南アジアなどドサ回りが多いと聞いていたのでそういうと、彼は道内のメーカーを志望し、入社したのであった)
で、債権者会議では私は何もいわず彼に表立ってもらった。問屋はF野の息子は弁護士を雇ってきたといった。


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