パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その二十

2006-02-10 00:12:19 | 自分史
 前出のY本T也先生だが、反抗した生徒を柔道で投げ飛ばし、その生徒が運動場の壁の羽目板に叩き付けられて怪我をしたので、責任を取って辞職したことを、卒業後数年して人伝に聞いた。
その後、真駒内の青少年会館で水泳のコーチをしていると言う事であった。ある日、地下鉄で座っていると、前に立っているのがY本先生であった。慌てて立って座席を勧めたが、断られた。かといって又、座るわけにもいかず、一つ空いた座席の前で先生と並んで大通り駅まで立っていた。

 さてここで、我輩の筆下ろしの事を記す時がきた。
三月に卒業を控えた前年の大晦日の夜、八時頃だったと思うが、大枚三百円を握り締め、我輩は一大決心を胸に決戦の場へと向かったのだった。そこは、今で言えば、南二条西一丁目の角の高田病院の並びの中通りの角、そこに一人の女が立っていて『お兄さん、遊んでいかない?』と言うたのでありんした。

 『うん』とうなずいた我が輩は女の後に着いていったモンサ。女は仲小路を進み、二階建ての大きな家の裏に回り、縁側から上がった。我輩も続くと、女は靴をしまって『どうぞ』 と二階へ上がり、幾つ目かの部屋へはいった。そこは八畳程の部屋で、奥のほうに一組の布団がひいてあった。女は、良く見ると『おかめ』のような顔付きだった。女はお茶とお菓子を持って来ると、火鉢の中を掻き回して火を起こしてから「お先にお願いします」といった。
我が輩は握ってきた300円を渡した。女はお金を受取って恭しく押し頂き『お床いりしててくださいね』といってから一度階下へ下がっていった。

 部屋の中を眺め回すと、小さな鏡台が一つと何か小物を入れるような低い小箪笥が一つある切りで、そこに住んでいるというようには見えなかった。我が輩は分厚いセーターとズボンを脱ぐと、薄い布団を捲って入った。 部屋が暖まっていなかったから、寒かった。女は戻って来ると服を脱いでスリップ一枚になり、布団を捲って入ろうとして言った。『駄目よ全部脱がなきゃ』。寒かったので、メリヤスの下着の上下を来たままだったのだ。しょうがないので、全部脱いでスッポンポンになった。

 女の手がまだ眠っているジュニァに伸びてきて、優しくもみだした。何しろ、17才10か月の少年だったから、ナニは直ぐにいきり立った。女は器用にコンドーさんを被せた。女の上に覆い被さると女の手がジュニァを誘導してなにやら生暖かいクレパスに押し込んだ。ギャロップを続けること数分、無事に大砲は発射した。で、抜くと、女は京花紙を渡したので、コンドーさんごと外した。女はその後を紙で拭いてくれた。(これがショートで、30分一本勝負なのだ。そして泊りがある)
女は表通りまで送ってきて『また、来てね』といった。

 この世界では、初めての客を『一見の客』とか『初見』といい、二度目で『裏を返す』といい、三度目でやっと『御馴染みさん』となる。
さて、高校生にとって300円は安いものではなかった。だから、月に一度が精一杯だった。でも、卒業までには『御馴染みさん』になっていた。
 そんなある夜、300円握って出掛けたが、おかめさんはいなかったので、せっかくだからと、他の女と上がった。そして一戦交えて表に出てくると、なんとおかめさんとばったり鉢合わせ。で、『なんで私のお客さんを取ったのよ』とおかめが言い、相手は『なによ私のお客さんを』と雪の上で、組んずほぐれつの大乱闘と相成った。イヤハヤ、色男は辛いネエ、てなもんや三度傘・・・?

 雪が解けた頃、この二人が石鹸を買いにきて私とばったり顔があった。さてそれから・・・。


昔、昔、或る所に・・・/その十九

2006-02-09 23:55:55 | 自分史
 何と言っても、高校時代のハイライトは、卒業式の優等生と二年のときの文化祭である。
 文化祭は、各学年の全クラスが頭を捻って腕にヨリを掛けて、他のクラスに負けないものをと出し物を競うわけだが、お化け屋敷や喫茶居、食堂などが多いようであった。金や手聞を掛ければ良いものができそうだが、そこはソレ、若者の特権で、脳味噌を活躍させる見せ所でもあるのだ。

 で、担当に指名された私が考えたものは『世界歴史博物館』。
内容はというとお立ち会い、ご用とお急ぎの方はゆっくりと・・・てなわけでありまして、用意しましたものは、ゴミ捨て場で拾ってきた欠けたお椀、これがナント昔、昔、一寸法師がこれに乗って箸の橋で川を下ったというアノ有名なお椀であります。同じく拾ってきたのは歯の欠けた櫛、コレガナント、かの有名なローレライがライン川の岸辺でウルワシの髪を櫛削りながら歌って、行き来する旅人を誘惑したという櫛なのであります。といった具合に、昔、昔、の物語りに出てくる品物にそれらしき文句を付けて、50点ばかりコサエタモンサ。で、担任だったY本先生が得意の腕を振るって、名刺のカードに宋朝体の見事な字で説明文を書いてくださったので、拾ってきたガラクタも大いに輝いたという訳であって・・・。我がクラスは見事に優勝の栄光に・・・。

 これにはちょっとしたエピソードがあって、高校一年から生徒に校章入りの日記帳を(といっても、戦後直ぐのことで、紙はザラ紙であったが)を渡され、毎日の行動を書いて、それを掃除当番の日に先生に提出するように言われていた。
その日記に、ストーブの回りで煙草をのんでいたクラスメイトの名前を書いたので、先生に呼ばれ、友達を告げ口するのは最低のことだと説教された。つまり、先生は日体大をでた、パリパリの硬派だったから、体育系が煙草を吸うのは当たり前田のクラッカー?というわけであって・・・。

 そのY本先生が大いに協力して下さったのには感激であったのだが、更にこれには後日談があって、『世界歴史博物館』は大変な評判を呼んで、全校生の人気投票で一等に入賞したのだ。が、金を掛けて喫茶店や食堂をやった上級生は、ごみ同然のものを掻き集めて優勝したのが面白くないと、大勢で押し掛けて来たのだ。こちらはか弱い?美少年?だからとても適わなかったが、そこへ現れたのが、かの体育系のY本先生。ぐっと睨みを利かしたから南条堪ろうか、上級生はすごすごと引き上げていったのでありました。

 で、前記のザラ紙の日記帳だが、これに毎日、毎日、ある事無いこと?を書き連ねたお陰で、ワチキの文才は大いに腕を上げたのであって・・・。これには今でも感謝感激してござる。

 卒業式の日に校長室へ呼ばれた事は前述したが、卒業式の右総代はK玉Tくんであったが、 彼は私と同じ位?いい男だった。
が、第一銀行に就職し、基礎訓練を受けて、東京本社へ配属となり、明日からお世話になりますと浅草支店に挨拶し、翌日から音信不通になってしまったのだ。いい男だったから女に引っ掛かったのだろうというのが、大方の見方だったが、事故や事件だったら警察が関係するし、死体も出てくるはずだが、それもなく、つまり、何にもない何にもないと言う訳であって、恐らくヤクザ絡みの何かに巻き込まれたから、死体もでないような殺され方をしたのだろうと言う事になった。いい男といっても、死んで花実が咲くものか。

 いい男といえば、他にも、女に負けない前田正一くんとか、日銀にいった中谷一郎くん、明治神宮の宮司になった外山くんとか、いろいろと取揃えていたのだ。


昔、昔、或る所に・・・/その十八

2006-02-09 23:42:55 | 自分史
 で、修学旅行の追加だが・・・。
どこの旅館だったか忘れたが、数人が疲れで寝そびれて雑談をしていた時、T中君がむっくりと起き上がってシクシクと泣き出したので、一同ポカンとして眺めていた。

彼は普段はいわゆる餓鬼大将で何時でも誰か彼かと喧嘩をしていて、その夜はどこかで酒を飲んで女を買ってきた話を自慢げにしていたのが、ことんと寝てしまって、煩いのがいなくなったと思っていたのに起き上がって泣き出したのだった。で、泣きながら 皆が俺を苛めるといって泣いているので、またびっくり。一同、彼を見ていると、またことんと寝てしまったものだ。一体全体、これはどういう事かいなと暫くはワイワイと賑やかな事であった。

 御土産は静岡で山葵漬けを10個程買ってきたが、重かった。
岩手の駅で写真を撮ったのにS藤K治君が写っているのがあるが、彼は利尻島の出身で、卒業後は稚内信金に勤めたはずだが、独立開業してから、商売を始めたといって、帳簿やパインダーやリーフなどを数千円分品借りしていったが、それきり返しに来なかった。どんな事情があったのか、話して欲しかった。
 もう一人、道東の温泉旅館の息子だったK君も写っていたが、彼は親父の店の頃、彼女とやってきて、金を貸してくれと言う。が、持ち合わせがないと言って断った。彼もその後、クラス会にも同窓会にも顔を出さず、住所も不明となっていた。

 ここで、まとめて友達の話をしておこう。
前の二人は余り芳しくない方だったが、1・2年と同級だった宮村巌くんは大変出来た男で、それは努力の賜物だった。彼の家は輪厚の農家で、勉強ばかりしていると爪が伸びて困ると言っていた。つまり、畑の草取りなどの労働をすると爪が擦れるので伸びないと言う事。だから、彼の手は真ん丸でがっしりとして、いかにも男の手といった感じで、私の細くて薄い手が恥ずかしかったほどだった。

 彼は奮励努力して北海学園大学へ入ったが、卒業を前に何か相談があると言ってきた。それは就職の話で、札幌の中道機械と、東京のヤンマージーゼルのどちらに行こうか迷っていたのだ。で、ヤンマーは大きいけど、六大学出がいるから学園卒では太刀打ちできず、東南アジアとかに飛ばされるのでは・・・とアドバイスした。で、彼は中道に入って大活躍し、中道木工とか中道リースとかを設立して大いに腕を振るったのだった。私が独立開店してからは名入りの手帳の注文をくれれたり、事務用品を買ってくれたりした。これは本当に有難かった。

 彼は私に一つの負い目があった。それは国語の試験で、『雲な散らしそ…』という短歌の解釈で、月がとっても締麗なので、雲よ散らないでくれというのが、彼が迷って聞いてきたので、上記のように教えたが、自分が自信が無くなって、『雲よ散ってくれ』と書いて提出したら、彼だけが一人正解で、若林先生から大いに褒められたが『F野はいつもできるのに今日は惜しかったな』と言われたときの彼は本当に申し訳なさそうであった。
 だから、父の店が倒産した時、父はトンズラして、私と英三とが債権者の矢面にたって防戦している時に側についてくれて、F野の息子はどこかの弁護士を連れて来たと言われたほどであった。

 彼は一見、西郷ドンのような面魂だったが、冗談や駄酒落をよく言うし、一度キャバレエに行ったときなど、ホステス相手に素晴らしいステップで踊ったので、全く、おどろかされたものだった。松下に行った二瓶君と共に同期の出世頭ではないか噂があった程で・・・。


昔、昔、或る所に・・・/その十七

2006-02-09 23:34:40 | 自分史
 前回のO田S苗さんに関しての追加・・・。
札幌商業高校の卒業式の日、私は校長室に呼ばれた。控え室に待っているのはワルイ連中ばかりだったので、私には呼ばれた理由がわからなかった。

 N島K治校長は、君は北星女子高校のO田という子と付き合っているそうだが、結婚する予定があるのかと聞いてきた。無いと答えると、私の娘が彼女と同級で後ろの席にいるのだが、彼女が君の写真を皆に見せびらかせて、札商の生徒会長だと触れ回っているようだが、そんな女と付合うのは止せと校長はいった。
私は『はい分かりました』と返事をしてそこを出たが、悪いのは彼女ではなく、校長の娘だと勝手に思った。何しろ紅顔の美少年だったから、彼女が写真を見せびらかすのは致し方のない事であって、それをヤッカミでチチオヤに告げ口をするなんて『アン夕、妬いてんのね』と言ってやりたいところであった。

 女の子の話しの序でに、フォークダンスの話をしておこう。これは星野君に誘われたのだったが、豊平の愛隣館という授産場のような建物があって、その二階がフローリングのダンス教室になっていた。
 札商は男子校だったから、女の子と触れ合えるのは大変結構と出掛けては見たものの、何しろ初体験なものでゲスカラ、心臓はドキンドキン、喉はカラカラ、手には汗がべっとりで、とても大変な思いをしたものであった。が、手と手を触れ合うことはなかなか結構と、味わっている余裕は全然、無かったけど、週に一回、夕方から2・3時間を大いに有意義に過ごしたものであった。

 で、そこで知り合ったどこかの女子高校生がいて(学校も名前も忘れた)卒業式の日、担任の広井潔先生が、狸小路の『いろは』と言う肉鍋屋にクラス全員を連れていって、肉鍋と酒と煙草をふるまってくれたのだが、その帰り、酔っ払った勢いで、その女の子の家(中島公園近くの大きな料亭だったが)そこの正面玄関の暖簾を潜って、なんとかちゃんいますか ! と大声で怒鳴ったのだった。が、出てきた仲居さんに適当に追い返されてしまった。さすがの星野君も呆れて、笑っていたっけ。

 それから、修学旅行・・・。北海高校は京都で地元の高校生と短刀を振り回して喧嘩沙汰を起こしたので、当分禁止だということだったが、我々の仲間も同じ事をやらかしてしまって・・・ほんとに仕様がないもんだと言ってみても、同じ穴のムジナと言うわけであって・・・。

 三泊四日の旅行で、朝、札幌駅を急行で出発して、函館で青函連絡船に乗り換えて、上野駅に着いたのが翌日の朝、だけど汽車と船に酔ってしまって、上野に着いてもフラフラで、真っ直ぐに歩けなかったのには参ってしまったネ。
 で、東京、大阪、奈良、京都を回ったのだったが、せっかく、星野君が嵐山の御土産屋のおネエチャンに話を付けて、記念写真をとることになったのに、私がヘマをして、できた写真がピンぼけになってしまって、本当に何て言ったらいいのか、面目次第もございませんと、謝るしかなかったね。でも、彼は笑って許してくれたのだが、彼は卒業して朝日生命に就職して、大阪の枚方支店に行ったとき、ちゃんとその店に尋ねていって、また、写真を取ってきたんだと、後日話してくれた。

 星野君の父親は不動産屋と興行師をやっていて、美空ひばりを呼んだ時に星野君と一緒に只で入れてもらったが、12・3才の天才少女が笠置シズコの歌を真似たり、リンゴ追分を歌うのを何か、特別の生き物を見るような感じで眺めていたのを覚えている。