北中へ通学するには、家を出て東へ向かい、加茂鴨川の対山橋を渡り、石狩川治水事務所の前を通って、幌平橋を渡り、堤防の上を北へ歩き、数丁いってから東へ向かって、林檎園の中の一本道を学校まで歩く。約30分の行程であった。
北海中学には、美術愛好会の『どんぐり会』が長い伝統を誇って、内外にその異彩を放っている。で、とりあえず入会した。同期生の中に『平賀ハイヤー』の息子の平賀君や、割烹『いく代』の息子の斎藤君、それに黄色を好んで使う『イエロー君』こと佐々木君などがいた。
美術の教師は『原始林』と言う渾名の先生で、その名を宮前文平といった。原始林先生はその名の由来の如く、髪の毛が栗色でカールしていて、ジャングルのようにくしゃくしゃしていたからで、目玉はクリッと真ん丸で痩せて小さかったから、下痢をしたベートーベンもかくやの容貌であった。
序でにニックネームのある諸先生を紹介すると・・・
『はげ馬』こと歴史の内田先生。(この先生は帯広の出身とかで、祖父の広吉を知っていて、出席を取るときに「お前は遊園地の近くのF野か」と聞かれた。確かに中島公園で昔、博覧会があって、遊園地があったと聞いていたので「はい」と答えると、以来当分の間『遊園地のF野』と呼ばれた。)『種馬』の白鳥先生。『山嵐』の国語の佐藤先生。(この先生、国防色の背広と乗馬ズボン、同色のハンチングという出立ちで、さすがに私学の名門には異色の教師がいるわいと感激した。)
それから元准尉のジッコと呼ばれた大塚先生。
この元将校の爺さん先生は何を教えたか?科目名は『作業』といい、ルンペンストーブの焚き付け方とか、畑の畝の切り方とかであった。
そして、圧巻はアシリベツ(今の北野や有明方面)の原始林を切り開いて、学校園を作る事だった。そこまで行くのに乗り物に乗らず歩いて行けというのだ。つまり軍事式の強行軍てやつ。とにかく、木を切り倒して大豆やジャガイモを植えた。その作業中に目の中にへっぴりむし(かめむし)が入ってその痛いこと痛いこと、死ぬほど痛かった。何しろ大きな円らなおめめの美少年だったから・・・。
で、帰り道は木材を積んだトラックを止めて乗せてもらった。ヒッチハイクのはしり?それでも、学校へ付いて鶴嘴やシャベルを作業室へ格納すると、大塚先生が最後の一兵の帰るまで頑張って居られた。
で、今になって考えてみると、あの大豆やジャガイモは誰の腹に入ったのか、と言う事で、おそらくは先生方の家族が食べたのだろうと思う。
さて、戦争に負けたのだから、食い物もなかったが、娯楽もなかった。ラジオとたまに見る映画、それに丸井今井の8階のニュース映画位のもの。新聞はあっ
たが、雑誌は昭和25年くらいになって少年倶楽部や野球少年などが出てきた。
で、ラジオだが、NHKで(民放はまだ)『鐘の鳴る丘』という連続物をやっていて、夕方の6時になる前に、どこで遊んでいようとまっしぐらに家へ駆けて帰った。内容は、戦争で親をなくした浮浪児たちが、郊外の施設に集められて生活する、その悲喜こもごも・・・。
それから、丸井のニュース映画は最初が1円99銭、翌年から2円99銭となった。この99銭というのは、1銭増えて2円、3円となると税金が掛かるからなのだ。で、釣りの1銭を持って帰らない人が多かったから、窓口の前には1円玉が山になっていた。
で、『日本ニュース映画』や外国ネタの『ムービートンニュース』や、映画の予告編などで約一時間ほどの上映時間だったが、娯楽に飢えた人々が日曜などどっと押し寄せたから、押すな押すなの大盛況で、あの窓口に山と残った1円玉と共に大いに儲かったのではないかと思う。
大変楽しく、また懐かしく拝見させて頂きました。私達は北海校校友会東京支部ブログ担当です。
新制中2期のご先輩と存じますが、是非とも当時の北海四方山話を拝聴させて頂けますよう御願い申し上げます。
このブログは、父が折々に書きました自分史の原稿を私が代筆(代アップ?)しております。
後輩の方からこのようなコメントを頂き、父も喜ぶことと思います。当時の学生風俗など、お楽しみ頂けましたら幸いです。