お得意回りの途中で、一服しようと『美松』という喫茶店に入ったものだ。
ここはクラシックのレコードとピアノやチェロ、バイオリンの生演奏が売り物の店で、珈琲もおいしいという評判だった。
このビルは三間幅(約5.5m)で、奥行きがあり、三階建てになっていた。一階の入り口を入ると右手に会計(レジ)左手のスペイスにグランドピアノと譜面台のステイジがあり、数段降りて客席があり、二階、三階は吹き抜けがあってステイジを見下ろせるようになっていた。
私はレジの女の子にブラームスの交響曲第一番をリクエストすると、階段をのぼって三階のカウンターへ腰を下ろす。
と、そのカウンターの中にいたのが何と、山鼻小学校で同級生のT井君であった。(彼の瞳は黒くなく灰色で、髪は茶っぽかった。かなり色素が薄かった。現代ならいじめの対象になっていたかも・・・)
彼は蝶タイに白いYシャツで、注文したブルー マウンテンを真撃に落としていた。余りにも美味しかったので、お替わりを頼むと、又、新しく落とすというので、今のを使ったらというと、それではお金を貰えませんという。もっともだあと思った。
白いと言えば、もう一人、同級生にT沢君がいて、彼も皮膚が白く弱視だった。彼は、声帯の素晴らしいのを持っていたらしく、教育大で音楽の先生をしているときいた。
さて、と腰を上げて一階のレジへいくと、目のぱっちりとした可愛い子がいた。胸の名札にY岸とある。
『いつも良い音楽が聞けていいですね』というと、はにかんだように、にっこりと笑った。それはひまわりが咲いたように見えた。
レジの横に小冊子があったので、貰って帰った。それは『美松の手帳』という店の宣伝を兼ねたもので、季刊で客たちの投稿文も載せると言う事だった。で、ストラビンスキーの『春の祭典』を聞いて書いた散文詩を送ると掲載された。それを編集していたのがY岸N夫で、レジのS子さんの叔父だという。
彼等の一族は由仁町のさらに奥の農家の出で、農家も機械化で次男三男は出稼ぎか、町へ出て他の仕事に着くしか無かったようだ。
N夫氏は『美松の手帳』の編集だけでは食えず、いろいろなことをしていたが、花見のシーズンになると、大きな竹の背負い寵を持ってきて、一晩泊めてくれと店に現れた。翌朝、六時頃に出掛けていったが、その先は円山のお花見の会場で、空き瓶を拾い集めて売るのだという。
そんな彼も数年後、豊平のある店を借りて木彫の工房を開き、作品を夜、狸小路へ並べて売っていた。その時の客で京都から来た観光客の綺麗な女性と仲良くなって結婚したというが、荒れた生活をしていたから、数年後には患って亡くなったと言う事であった。
彼の遺作展が聞かれて、いってみると、綺麗な未亡人が切り盛りしていた。名を名乗って挨拶すると、お名前は始終聞かされていました、という。彼女は一切を処分すると京都へ帰っていった。
一方、S子さんとの仲はというと、恋に恋するというやつで、デートは週一くらいでするが、なかなか発展せず、彼女からの電話を父が取って『最近夜遊びばかりして痩せてきたのでもう相手にしないで欲しい』といって切ってしまった。
彼女は喫茶店を止めて夜の商売に入ったが、そこで知り合った米兵の紹介で、真駒内のキャンプの将校の家のメイドになった。二年後に『美松』で会ったら、すっかりアメリカンスタイルの美人になっていた。 誘われて千歳の部屋にいったが、翌年、米兵と結婚するのだと言っていた。それっきりで・・・。
ここはクラシックのレコードとピアノやチェロ、バイオリンの生演奏が売り物の店で、珈琲もおいしいという評判だった。
このビルは三間幅(約5.5m)で、奥行きがあり、三階建てになっていた。一階の入り口を入ると右手に会計(レジ)左手のスペイスにグランドピアノと譜面台のステイジがあり、数段降りて客席があり、二階、三階は吹き抜けがあってステイジを見下ろせるようになっていた。
私はレジの女の子にブラームスの交響曲第一番をリクエストすると、階段をのぼって三階のカウンターへ腰を下ろす。
と、そのカウンターの中にいたのが何と、山鼻小学校で同級生のT井君であった。(彼の瞳は黒くなく灰色で、髪は茶っぽかった。かなり色素が薄かった。現代ならいじめの対象になっていたかも・・・)
彼は蝶タイに白いYシャツで、注文したブルー マウンテンを真撃に落としていた。余りにも美味しかったので、お替わりを頼むと、又、新しく落とすというので、今のを使ったらというと、それではお金を貰えませんという。もっともだあと思った。
白いと言えば、もう一人、同級生にT沢君がいて、彼も皮膚が白く弱視だった。彼は、声帯の素晴らしいのを持っていたらしく、教育大で音楽の先生をしているときいた。
さて、と腰を上げて一階のレジへいくと、目のぱっちりとした可愛い子がいた。胸の名札にY岸とある。
『いつも良い音楽が聞けていいですね』というと、はにかんだように、にっこりと笑った。それはひまわりが咲いたように見えた。
レジの横に小冊子があったので、貰って帰った。それは『美松の手帳』という店の宣伝を兼ねたもので、季刊で客たちの投稿文も載せると言う事だった。で、ストラビンスキーの『春の祭典』を聞いて書いた散文詩を送ると掲載された。それを編集していたのがY岸N夫で、レジのS子さんの叔父だという。
彼等の一族は由仁町のさらに奥の農家の出で、農家も機械化で次男三男は出稼ぎか、町へ出て他の仕事に着くしか無かったようだ。
N夫氏は『美松の手帳』の編集だけでは食えず、いろいろなことをしていたが、花見のシーズンになると、大きな竹の背負い寵を持ってきて、一晩泊めてくれと店に現れた。翌朝、六時頃に出掛けていったが、その先は円山のお花見の会場で、空き瓶を拾い集めて売るのだという。
そんな彼も数年後、豊平のある店を借りて木彫の工房を開き、作品を夜、狸小路へ並べて売っていた。その時の客で京都から来た観光客の綺麗な女性と仲良くなって結婚したというが、荒れた生活をしていたから、数年後には患って亡くなったと言う事であった。
彼の遺作展が聞かれて、いってみると、綺麗な未亡人が切り盛りしていた。名を名乗って挨拶すると、お名前は始終聞かされていました、という。彼女は一切を処分すると京都へ帰っていった。
一方、S子さんとの仲はというと、恋に恋するというやつで、デートは週一くらいでするが、なかなか発展せず、彼女からの電話を父が取って『最近夜遊びばかりして痩せてきたのでもう相手にしないで欲しい』といって切ってしまった。
彼女は喫茶店を止めて夜の商売に入ったが、そこで知り合った米兵の紹介で、真駒内のキャンプの将校の家のメイドになった。二年後に『美松』で会ったら、すっかりアメリカンスタイルの美人になっていた。 誘われて千歳の部屋にいったが、翌年、米兵と結婚するのだと言っていた。それっきりで・・・。
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