パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その十六

2006-01-27 09:34:27 | 自分史
 中央区の大通り西一丁目に北向きで建っている北光教会、現在の建物は20年くらい前に建て直したものであるが、私が幼児洗礼を受けた教会は木造二階建てで、二階の後方に聖歌隊の場所があって、礼拝の時には、頭上から信徒さんたちの上に天井に反響した讃美歌が舞い降りてくるといった趣があった。
日曜礼拝には中学生の時から行っていたが、高校に入ってからは礼拝の後の英語によるバイブルクラスに参加した。なぜなら、そこには女子校生も来ていたから・・・。

 で、私一人で独占?するのは気が引けたので?同級生の星野君と隣のクラスの和夫さんをさそった。北星女子校から三人参加していた。教会を出てから、彼女たちの後を付いて歩きながら、三人で品定め?をしていた。結局、その日は初日と言う事もあって、北星高校に(南3西17)入られたので、オシマイ。

 翌週のバイブルクラスに少し遅れて行き、玄関の靴入れに並んでいる女の子の靴の中から、多分コレ、と狙いをつけた靴にラブレターを入れたものだ。所が、三年生のF原さんでなく、二年生のO田さんに手紙が渡ってしまった。で、彼女からきた返事には(お付き合いはできません)と・・・。そこで一計を案じて、彼女に手紙を出した『また、バイブルクラスで勉強しましょう』。それも、住所が分からないので、学校気付けで出したものだ。
 彼女から一週間後に手紙が来た。『あの手紙を校長先生の前で、読まされました』が、内容が不純では無かったので、バイブルクラスへの出席を厳禁されただけで、許してくれたと言う事であった。

 で、もちろん、彼女とはそれきり会えなくなったのだが、これには後日談があって、高校を出てから、或る初夏の日曜日に独りでスケッチブックを抱えて、オイラン淵(今の十五島島公園)へ出かけた時、会社の同僚と一緒に遊びにきていた彼女とばったりと遭ったのであった。バレーボールが転ってきたので拾って返したのが、彼女であった。まあ、何と言う偶然でしょう、と彼女は興奮気味に言った。(その会社の同僚の中に、父の会社で不始末を起こして辞めさせられたUさんがいた)

 で、社会人となった二人の交際が始まった。でも、映画を見たり喫茶店に入ってお茶を飲んだりしたが、手を握ったことも、もちろんキッスもしなかった。非常にご清潔なお付き合いではありましたです。
 だが、彼女の家には、何か事情があったのか、私に結婚する意思があるかと聞かれた。わずか22か23の男が結婚に踏み切るには何かとてつもない事情が無ければならない。が、私にはそんなものは無かった。
彼女の祖母が急がせたようだった。彼女は帯広の文房具店に嫁いでいった。
 最後の日、彼女はドーナッツ判の45回転のレコード『花のワルツ』を私にくれた。札幌駅でクラスメイトや元の担任の教師などに見送られて涙ながらに旅立っていった。私には悲しいとか、悔しいとかいった感情はなかった。あれは恋とか、愛とかいうものではなかったのかもしれない。


 アメリカからの中古衣料の特売会に星野君とアルバイトをした。
どこかのお寺の本堂を借りて行われたが、我々の仕事はお客さんが掻き回した衣料品を畳んだり整理することであったが、それ程忙しくなかったので、自分に着れそうなものを窓の外に落として、それを拾ってかえったことがあった。若気の至りで深く心の底から反省しております。スンマセン。


昔、昔、或る所に・・・/その十五

2006-01-27 09:24:00 | 自分史
 高校時代の思い出は・・・スクエアダンス・・・北光教会・・・文化祭・・・修学旅行・・・父の独立(開店)などなどe.t.c・・・
 順番からいって、先ず父の独立開店から・・・。
場所は南2条東2丁目の角、丸元近藤鮮魚店の 筋向かい、山口硝子店の跡。平屋で五間間口で、南向きと西側にも出入り口があった。越していった山口硝子店は南3条西1丁目にビルを建てたのだから、この場所はゲンの良い場所だと父は喜んでいた。 だが、考えてみると、扱い商品が違っていた。向こうは硝子や鏡、こっちは文具事務用品・化粧品・小間物・石鹸ちり紙などの雑貨と、こまかくて手間の掛かるものばかりで、向こうの儲け幅のある単価の高いものとは比較するほうが無理というものだった。

 私が北海中学の三年の時だったから、昭和23年のこと。景気付けにと知り合いの電気屋から拡声器を借りてきて屋根の上に取り付け、高峰三枝子の『別れのタンゴ』『懐かしのブルース』やらをガンガン掛けた。
たまらないのはその大音量をぶつけられた近藤の魚屋。うるさくて商売にならないと怒鳴り込んできた。こりゃもっともな事で、スンマセンと頭を下げ、ボリュームも下げた。

 近くに文房具屋がなかったからともかく売れた。だが、化粧品については、真向かいに化粧品店があったから、苦戦を強いられた。向こうが資生堂ならこちらはメイ牛山のハリウッド化粧品と張り合った。ショウウインドーにはマリリン・モンローのヌードのポスターがはられた。
直ぐ上の薫姉が化粧品の専任担当だったが、姉が週に一度の休みの日には他の者(父、母、私、弟)が客の相手をしなければならなかった。だから、わかりませんでは済まされず、化粧品の勉強もしなければならなかった。
 客といえば、敗戦後直ぐのことで、GIも来た。彼の欲しいものはコンドーさんだったから、『ソリー・ハブノーサア』でジエンド。

 開店の騒ぎが一段落すると、屋根の上の拡声器は電気屋に返し、店内はラジオの放送を掛けていた。
千歳と真駒内に進駐軍という名の占領軍がベースキャンプを設営していたから、GI向けにFEN(ファー・イースト・ネットワーク)の放送が流されていて、それを中波で聞くことができた。だから、クラシックやジャズをふんだんに聞けた。それに気象情報や(モーストリー・クラウディ・・・とか)GI向けの自粛キャンぺーンなどもあった。(ぺンド・オン・ユウ・・・)それから(・・・フィロドキァ・・・)と聞こえていたのが、(フィラデルフィア)だったり・・・。
ハリウッドボールからのライトミュージックの中継とか、フォーフレッシュメン(男声四重奏のチーム)やカント・ベイシーやトミー・ドーシーオーケストラや『ニューヨークの溜め息』と呼ばれたぺギー・リーや多くのミュージシャンの演奏を聞くことができた。

 幼児期の洋楽・邦楽などの間き流しはやはり、子育てにおいて必要であると思われる。というのは、最近になって、30代、40代の人達と話していて、彼等の父親たちは、会話の中でクラシックの演奏家や作曲家、作家や洋画家の名前がぽんぽんとは出てこず、嫌、ほとんど聞いたことがないと言われることがあるからである。最も、それがどうしたと言われれば・・・。


昔、昔、或る所に・・・/その十四

2006-01-27 09:13:01 | 自分史
 父の学歴は昔の高等小学校卒である。今風に言えば中卒という訳・・・。だから大丸藤井商店に了稚小僧として入社したのだが、この学歴では出世が望めないのは今も昔も同じ事・・・。
で、いつまでも傍系の小さな商事会社で働いていてもウダツが上がらないと考えたのか、私が北海高校に進級した春に独立を試みた。

 と、ここまで書いたところで訃報が入った。母の一番下の弟、つまり私の叔父貴に当たる昭司氏が亡くなったという。
夫婦で銀行へいって、待っている聞の出来事で、心筋硬塞だったという。心臓病は血統なのかも知れない。というのは長男の誠次郎叔父も次男の孝三叔父も心臓で急逝した。で、母の妹の寿天子叔母とわが弟・四男の泰世は胸部大動脈破裂で、この二人も急逝している。だから、私にもこの傾向があるというわけなのだ。(名前からみて誠次郎叔父の上に男子がいたと恩われる。誠次郎が次男で孝三が三男と言う事であろう)
 心臓病は急に来て急に死ぬ。本人にとっては、長い間、沢山の管をつけて植物人間として長らえるよりも良いのではないかと考える。周りの家族は、突然の事で大変だろうが、本人は一時の苦しみであの世とやらへ行けるのだから、これも一つの在り方と恩われる。

 さて、横道に逸れたが、父は八人の子供を抱えて、家族を食べさせるのに大変な苦労をしたのではないかと思う。 だから故に、単なる給料取りでなく、自分の店を持って、一国一城の主となって儲けることを考えたのだと思う。

 私は北海中学からトコロテン式に北海高校へ進学した。所が、父が、同じ浅羽学園の、校舎も隣接の札幌商業高校へ行けという。つまり、自分が独立して店を出すから、商業の知識を身に着けろと言う事である。
 で、五月になってから、札商へ編入した。私と同時期に移ったのは、大竹不二夫くんと伊藤士郎くんであった。大竹くんは後に同志社大学ヘ推薦で入学し、卒業後は母校の教師となり、校長まで勤めた。伊藤くんは中央大学へ行き、スケート部で活躍したと聞く。

 札商への編入にも一つのクッションがあった。それはまず、豊陵工業高校へ入って、空きができたら札商へ移るということである。この豊陵工業というのは、札商が戦時中に一度工業高校に変わり、戦後になって戻ったが、その時に併設として、ひとクラス工業過程を残しておいたのだ。札商に直ぐには空きがなく、空きができるまでの間の臨時の場所と言う事である。烏口やら、製図の道具を用意して、工業の勉強を始めたが、落ち着かなかった。
六月になって、やっと、札商へ入れた。



札幌商業高校校歌 

『白雲磨く 石狩の 平野の南 緑濃き 空に高鳴る自由の鐘

真理を慕う若人の 窓の明け暮れ むつみ合う わが学び舎を 称えなん』



応援歌 N O.1

『大石狩の 野の果てに 陽炎立つや 春五月

霞みの衣 棚引きて 今 北限の朝ぼらけ』


昔、昔、或る所・・・/その十三

2006-01-14 23:30:45 | 自分史
 前回で、パングリッシュの話をしたが、父が大丸で納品を通じて占領軍と接触したように、真駒内や千歳の米軍キャンプに出入りしている生徒もいて、スラングのような手近で身近な英語が流行った。小さな子供が『バカ』などの言葉を早く覚えるのに似て・・・。
 ガッデム(またはゴッデム=God-damned=こん畜生!)、サナバベッチ(Son of a bitch=野良の雌犬の子=このくそ野郎!てな意味ですか)、デンゲデンゲ(ぐでんぐでんに酔った)、ハバハバレッツゴー(早くしろ)など・・・。

 で、占領軍(時の政府は進駐軍と呼称した。これは占領軍が日本人に敵対感情を持たせないように配慮した結果かもしれない)のキャンプに出入りしていたクラスメイトの中に、『ショウリ』と呼ばれていた生徒がいた。I田稔くんである。
 彼は背丈が小さかった。私と同じくらいだと思うが、GIの連中の中に入れば『チビ』だったから『ショウティ』と呼ばれたのだろう。それがI田のショウリとなったわけだ。
 彼は現在、名寄市でT陶器店を経営している。つまり婿養子になったというこ
と。(因みに、私の家内・慶子の親友のI田啓子さんの旦那はショウリの兄に当たるという)

 少し話は戻るが、敗戦間際の小六の時、余りに私の成績が悪かった?からか、父は私と次男の芳男に家庭教師をつけてくれた。それは芳男の担任教師のM留先生で、我々が先生の自宅へ出向く形であった。
 丁度、雪の季節で、太った奥さんがおやつがわりに餅を焼いて勧めてくれた。話の序に『お父さんは甘党・辛党どっち?』と聞かれて、父が晩酌に唐辛子の焼いたのを肴にしていたのを見ていたので『辛党です』と言うと、それって違うと笑われた。芳男は知っていたらしい。ニャロメ、差をつけられた!因みに父は晩酌をしていたが、大していける口では無く、直ぐに赤くなった。

 父は大丸の基地の司令部への納品の時にガムやチョコレートを貰ってきて子供達にくれたが、自分は貰った葉巻を吸ったのは良いが、吹かすだけでなく吸い込んだので、真っ青な顔になって具合が悪いと寝てしまった。

 中学に入ってからは、北大生のI井さんとか、M井さんとかが私を指導してくれたが、I井さんは大柄で眼鏡を掛けていた。M井さんは若禿げで額が広かった。I井さんは学校を卒業して暫くしてから胸を病んで亡くなったと言う。I井さんの実家が留萌とかで、海産物を年末にたくさん頂いたものだった。

 北海中学から帰ってくると、予習復習などはせず、遊んでばかりいたが、成績がそれ程落ちる訳でもなく、ワシは天才か?などとは全然思わなかったヨン!
 で、遊ぶのに忙しくて、五男勝裕の下にできた子供をおろした(堕胎した)事など知らなかった。(上二人の姉は知っていたらしい)

 どうしてそれが分かったかと言うと、今から20年前、真言密教の修行を始めたからであった。接心修行と言って、霊能者と対座して正座し、臍下丹田に力を入れて祈っていると、霊能者が私の魂を霊界の鏡に写して、その状態を観察する。そして、正しい生き方、正しい考えを見仏に比見するのだが、それを示してから『母親の水子さんが私を頼ってきています』と言う。
 母親の水子と言う事は、私の兄弟か姉妹と言う事だ。それで直ぐに姉(長女)に電話して、その事実が分かったのである。私がみ仏の弟子として修行しているので成仏したくて頼ってきたのがその真相であった。