久しぶりの投稿となります。
仏教ファンからの視点からみて
仏教とは何だろ?と考えた事を書き込みしたいと思います。
私ゃ僧侶では無く単なる仏教ファンですので私の思想が正しい仏教と言う訳では有りませんので、参考程度として読んで頂けたら嬉しく思います。
私達人間は普段生活して行く上で様々な欲求、願望を抱えて生きています。
たぶん夢や希望、欲望も無く生活してる人は居ないと思います。
世の中の人々のほとんどが、中々その欲望を叶えられず生きて行く上で苦しみとなってます。
完結適当に申しますと、つまりそれが
欲望を持つ事が苦しみの元となってる訳です。
中には自分は努力して頑張ってキツい仕事をこなしてお金を貯めて、やっとの思いでLEXUS RC350を買ったぞ!
夢が叶ったぞ!と思うかもしれません。しかしそれはホンの一時の幸せで有って生涯の安楽とはなりません。
新車で800万以上で買っても数年間乗れば価値は下って行く訳ですし、古くなれば汚れやキズも多くなります。ひょっとしたら故障したり事故を起こしたりして莫大な修理費用が掛かるかもしれません。
そんな苦しみから逃れる為に人々は
救いを求める事になります。
例えば神様に祈りを捧げる等で欲望からなる苦しみから救いを求める方法の1つな訳ですが、神様を信じる事ができる人ならばそれも救いになり前向きに物事を考える事が出来る訳です。
でもそれは神様を信じる事が出来るからなので信じる事が出来ない人は救われ無いと言う事になります。
そこで仏教的な考えで行くと、神様のように願い事を叶えてくれるような存在は無い。とお釈迦様は言っていたようです。つまり神様やどこぞの宗教の教祖様が願い事を叶えてくれる訳でも無いと言う事です。
お釈迦様はなんと、悲観的な考えなのでしょう。と思う方々が沢山いると思います。
神様もダメお釈迦様もダメかぁ!
と思った方、安心して下さい。
ん?誰も心配しとらんか!
それはさて置き、
お釈迦様は、そんな方々の為にこうも言っています。
自分の力で自分の持つ考えの心の内側を変えて行く事で苦しみから逃れる事が出来るのだ!と説いています。
つまり基本的には他力本願では無く自力本願と言う事です。
仏教の根本的な考えは、煩悩を無くす事に有ります。
煩悩とは自身の欲望や願望(いやしい心)の事です。
煩悩を無くす事により、苦しみは無くなると言う訳です。
なにも新車のLEXUSを欲しがらなくても中古の安いDAIHATSUムーブ(私の愛車です。)で満足すれば良いと言う事です。
つまり、何が言いたいかと言うと
仏教とは神様や教祖様などを信じるとか信じ無いとかでは無く、苦しみから逃れる為の教え(経典)を信じると言う事です。
そもそもお釈迦様が存在してた時代にはお釈迦様の仏像なども有りませんでしたし、お釈迦様自体、自らを拝む対象とされる事を望んでる事は有りませんでした。しかし、お釈迦様が涅槃に入られた後、拝む対象となる物が無かった為にお釈迦様や他の仏様の仏像を作り我々衆生達が祈る対象物となっていった訳です。
一応、ここまで書かせて頂きましたが
仏教以外の信仰宗教を否定してる訳では有りません。
光のなんちゃらとか霊波のなんちゃらとか、統一なんちゃらとか、信じる人が信者となり苦しみから逃れる事が出来てるならばそれらの人々は幸せだと思うからです。
まぁ、多額のお布施、寄付金などの問題や事件を起こす宗教団体も有るので
肯定し難い事も有りますが!
私が仏教を好きな理由の1つとして
仏教は争い事を行わない。と言う事です。
某、海外のとある宗教は他の宗教は間違っているから自分達の宗教に従わせる為に例え暴力によってでも従わせる事が良い行いだと戦争を起こしたりするのです。
仏教とは決して勧誘したりしません。
参拝者を増やす為に宣伝はする事は有りますが、信者を増やす事が仏教の目的では無いからです。
現在の生活に幸せを感じる事が出来ない人々が仏教を通じて修行してる人を見て、私も苦しみから逃れる為に仏教を学びたいと興味を持ち仏教徒となっていくのです。人から誘われて学ぶ物では無いのです。
もしこの記事を読んで仏教に興味持たれた方がいらっしゃいましたら、仏教に関して色々と書いてますので過去の記事も覗きに来て下さいね。
🙏😌南無大師遍照金剛
南無大師遍照金剛
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