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『犬王』・『平家物語』‐‐あるいは、「今を生きる」ということの意義‐‐(ネタバレ注意)

2022-06-06 08:42:04 | 駄文
 しめやかに最後を迎えたアニメ『平家物語』に続き、古川日出男著の続編・『平家物語 犬王の巻』の映画化作品、『犬王』が5月28日に公開された。色々な都合で足踏みをしていたが、つい先日鑑賞する機会を得たので、ようやく見ることが出来た。

 室町時代を舞台に、猿楽能をテーマとした本作は、その言葉だけをなぞればどこか硬派な印象を受けるだろう。しかし、実際は、鮮烈な体験であった。
 呪われた主人公・犬王と、草薙剣を抜いた呪いで盲いとなった琵琶法師の友魚が、相棒となって京の都を熱狂させる猿楽能(ライブ)を披露する。そのパフォーマンスはさながら現代のライブであり、犬王の呪いが解けていく様まで含めて、人々に鮮烈な経験を与えてくれる。

 さて、アニメーションの簡単な説明をしたところで、一度、作品の鍵となる要素について、確認していきたい。
 『平家物語』は、平安末期の源平合戦を主題として語り継がれてきた軍記物であり、琵琶法師を通して現代まで語り継がれている。様々な形式で語り継がれてきており、多くの版があったことは明らかになってきているが、その決定版ともいえる一つの版が、室町は南北朝時代、明石覚一によって編まれた『覚一本』である。『犬王』は、丁度この覚一本成立時期に当たる時代であり、まさに足利義満が南北朝統一を目指して活動していた時代に当たる。
 そして、犬王。またの名を道阿弥と称し、殆ど記録に残っていないものの、当時近江猿楽の大成者として人気を博した人物とされている。現在伝わる能楽は、有名な観阿弥・世阿弥に連なる大和猿楽であり、近江猿楽は大和猿楽に吸収される形で、その要素に含まれているにとどまる。

 歴史の敗者として水底に消えていった平家と、歴史の中で忘れられていった記録の殆ど残っていない「犬王」。この二つを題材とすることで、両作は全く違うテイストの「継承」を描いていく。
 『平家物語』に込められた祈りは、長きにわたって語り継がれ、多くの人々によって読み継がれている。それは、敗者に寄り添って、死者を弔う、日本人特有の文化の現れであり、過去を語ることで未来へと生き続ける継承の一形態である。
 『犬王』に語られる友情と熱狂は、室町時代という「今」を生きた人々が、歴史という正史の中に埋もれて消えていく様を描く。私達が今を生きているが後に忘れ去られるように、私達は室町時代に生きた友魚のことも犬王のことも、忘れ去ってしまう。
 ギリシャの英雄が今も語り継がれて生きているように、継承された平家は今も生き続けている。そして、今、『犬王』を鑑賞した人々の中で、犬王と友魚も生き続けている。
 そうして、生き続けるのだろう。誰かが語り継ぐことで。

「自分達がこの世にいたことを、誰かが知るだけでいいんだ。それで報われる」
 映画『犬王』より引用

 映画全体を通した、ライブ映像の様子も勿論見所だが、その最期、映画を締めくくる演出の妙にも胸を掴まれる。

 本作は、ミュージカルアニメーションである。上映時間の多くを歌が占めている。だが、先ずは平家を知らない人も知っている人も、本作を見て欲しい。特に、私と同じように、物書きを続ける人には、刺さるものが在るかもしれない。

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