何も感じなければ、つらいものなどない、という発想は間違っていないと思います。自分というものがなくなれば、苦しみから解放されます。人は見るべき現実から逃れようとするときに、自分を忘れたり、気持ちを薄めようとしたりします。いつ教わったのかもわからないことです。
雛月加代は、母親からの虐待を受け、自分から無関心を装うスキルを身につけました。自己防衛の方法というのは人それぞれであり、私にもこうした経験は思い当たるものがあります。自分の名誉を自ら傷つけることで、周囲からの慰みに安堵する、それが私の場合の自己防衛でした。今でも、これだけは残っている節があります。気になることを聞き出す際にも、そんなことを考えます。
人の防衛本能というのは、その生き方に大きく左右されるようです。しかし、その本質は基本的に「無関心」と「慰み」だと思います。
僕だけがいない街では、たくさんのキャラクターが登場しますが、今回は雛月加代について思うところを述べたいな、と思います。
主人公がはじめに救おうとする人物であり、先述のとおり、苛酷な家庭環境の中で育った人物です。彼女にとって、自分以外の存在は基本的に害をなすものであり、はじめのうちは排他的な印象を受ける部分が多く見られます。はじめに所属した集団が、過酷だったためか、感情の起伏をあまり見せないキャラクターでした。しかし、主人公が関わっていくにつれ、氷が解けるように、徐々に人とのかかわりを強めていきます。やがて、杉田広美と結婚します(死ぬはずだった二人が結ばれるという、この演出もなかなかにくいですね)。
前回は集団という捉え方から、この人物について少し触れました。関わる人が重要というのは、やはり経験からくる人間形成の重要性をあらわしていると思います。主人公から見た雛月加代は、虐待を受けている「かわいそうな」子として映ったのだろうな、と思います。それは、愛情を受けて育った(無意識的にでも)主人公にとって、住む世界があまりに違ったからです。内外ともに味方がいない、という様子です。逆に彼女にとって、主人公の見ている景色はどのように映ったでしょうか。主人公の周りには友人がいて、学校でも孤立することなく、楽しく過ごしています。家には母親がいて、愛情を持って育てられていました。
象徴的には三つのシーンで、その違いを痛感することになると思います。はじめは、主人公とすれ違う場面です。ここでは、主人公が「母さん」を呼んで自宅へと走っていく場面です。その後、河川敷で話をするシーンでは、加代が「母親って、そんなに大事なもの?」と尋ねます。これは、大切さをイメージできない彼女にとって、主人公の行動はある意味異常なものとして映ったのだと思います。失って気づく、などという現象がありますが、これもイメージできていないことが実際に起こって、痛感するというものだと思います。一話の事件発生前の主人公と、その後の行動力の違いもここから来るものが多くあると思います。
二つ目は、誕生日のシーンです。プレゼントをもらったときの加代の反応は、サプライズ以上に驚きから来る感動のようなものを感じます。よく、プレゼントをもらって感動するシーンなどはありますが、私はたまにそれを安っぽく感じることがあります。これは、おそらく受け取ることが当たり前になっている自分がいるからだと思います。恐らく、彼女のそれはもう少し違う意味があると思います。自分のために何かをしてくれる、という経験が薄い彼女にとって、それはある意味異世界のものに感じたでしょう。それが、そのまま反応に出たものだと思います。余談ですが、彼女から何か与えたい、と思うのもまったく無縁の世界だったのではないでしょうか。「プレゼント、渡せなかった・・・」と泣くシーンがあります。子供の頃はこういう特別なイベントに渡す、ということに凄く責任を感じるので、このシーンはこの話とは関係なく微笑ましく感じました。
最後は、食事シーンです。この作品、特にアニメの場合ですが、食事シーンがかなり強調されています。一話の食事シーンは素っ気無いものでしたが、二話のシーンでは宝石のごとくきれいに描かれています。何気ないシーンを強調することで、作品におけるキャラクターの感じ方を知ることができます。その天で、食事シーンを強調しているのはとても面白いな、と思います。すいません、話を戻しましょう。彼女の目に毎日映る朝食の様子を、瞬きの形になぞらえて表現したり、一人公園で食べる描写を入れて強調していますが、主人公の家で食べる食事ではじめて、暖かい朝食を。彼女は肌で感じます。今までに経験のないやさしさを受けてしまった彼女にとって、それは衝撃的なものだったでしょう。そして同時に、彼女の当たり前だった情景が実はそうでもないことを悟ったかもしれません。なんにせよ、自分の経験から外れた何かを感じたとき、人は衝撃を受けるものです。
さて、長々と書きましたが、経験が与える観念や、そこから異なる未経験の体験を通して、彼女の心情に大きな変化が生まれたと考えられます。サーカスの象の足かせの話ではありませんが、自分の当たり前の情景というのは、それが当然と感じてしまうと思います。宗教が対立したり、世代間の感じ方が大きく異なったりするのも、こうしたものから生まれるものなのだろうと思います。ある意味それは、自分が当たり前と刷り込まれていることで、当たり前になっている、ということでしょう。当たり前の日常というのは、すべて異なり、同時に同じように偏在するものなのでしょう。彼女を見ながら、私はそんなことを思いました。
雛月加代は、母親からの虐待を受け、自分から無関心を装うスキルを身につけました。自己防衛の方法というのは人それぞれであり、私にもこうした経験は思い当たるものがあります。自分の名誉を自ら傷つけることで、周囲からの慰みに安堵する、それが私の場合の自己防衛でした。今でも、これだけは残っている節があります。気になることを聞き出す際にも、そんなことを考えます。
人の防衛本能というのは、その生き方に大きく左右されるようです。しかし、その本質は基本的に「無関心」と「慰み」だと思います。
僕だけがいない街では、たくさんのキャラクターが登場しますが、今回は雛月加代について思うところを述べたいな、と思います。
主人公がはじめに救おうとする人物であり、先述のとおり、苛酷な家庭環境の中で育った人物です。彼女にとって、自分以外の存在は基本的に害をなすものであり、はじめのうちは排他的な印象を受ける部分が多く見られます。はじめに所属した集団が、過酷だったためか、感情の起伏をあまり見せないキャラクターでした。しかし、主人公が関わっていくにつれ、氷が解けるように、徐々に人とのかかわりを強めていきます。やがて、杉田広美と結婚します(死ぬはずだった二人が結ばれるという、この演出もなかなかにくいですね)。
前回は集団という捉え方から、この人物について少し触れました。関わる人が重要というのは、やはり経験からくる人間形成の重要性をあらわしていると思います。主人公から見た雛月加代は、虐待を受けている「かわいそうな」子として映ったのだろうな、と思います。それは、愛情を受けて育った(無意識的にでも)主人公にとって、住む世界があまりに違ったからです。内外ともに味方がいない、という様子です。逆に彼女にとって、主人公の見ている景色はどのように映ったでしょうか。主人公の周りには友人がいて、学校でも孤立することなく、楽しく過ごしています。家には母親がいて、愛情を持って育てられていました。
象徴的には三つのシーンで、その違いを痛感することになると思います。はじめは、主人公とすれ違う場面です。ここでは、主人公が「母さん」を呼んで自宅へと走っていく場面です。その後、河川敷で話をするシーンでは、加代が「母親って、そんなに大事なもの?」と尋ねます。これは、大切さをイメージできない彼女にとって、主人公の行動はある意味異常なものとして映ったのだと思います。失って気づく、などという現象がありますが、これもイメージできていないことが実際に起こって、痛感するというものだと思います。一話の事件発生前の主人公と、その後の行動力の違いもここから来るものが多くあると思います。
二つ目は、誕生日のシーンです。プレゼントをもらったときの加代の反応は、サプライズ以上に驚きから来る感動のようなものを感じます。よく、プレゼントをもらって感動するシーンなどはありますが、私はたまにそれを安っぽく感じることがあります。これは、おそらく受け取ることが当たり前になっている自分がいるからだと思います。恐らく、彼女のそれはもう少し違う意味があると思います。自分のために何かをしてくれる、という経験が薄い彼女にとって、それはある意味異世界のものに感じたでしょう。それが、そのまま反応に出たものだと思います。余談ですが、彼女から何か与えたい、と思うのもまったく無縁の世界だったのではないでしょうか。「プレゼント、渡せなかった・・・」と泣くシーンがあります。子供の頃はこういう特別なイベントに渡す、ということに凄く責任を感じるので、このシーンはこの話とは関係なく微笑ましく感じました。
最後は、食事シーンです。この作品、特にアニメの場合ですが、食事シーンがかなり強調されています。一話の食事シーンは素っ気無いものでしたが、二話のシーンでは宝石のごとくきれいに描かれています。何気ないシーンを強調することで、作品におけるキャラクターの感じ方を知ることができます。その天で、食事シーンを強調しているのはとても面白いな、と思います。すいません、話を戻しましょう。彼女の目に毎日映る朝食の様子を、瞬きの形になぞらえて表現したり、一人公園で食べる描写を入れて強調していますが、主人公の家で食べる食事ではじめて、暖かい朝食を。彼女は肌で感じます。今までに経験のないやさしさを受けてしまった彼女にとって、それは衝撃的なものだったでしょう。そして同時に、彼女の当たり前だった情景が実はそうでもないことを悟ったかもしれません。なんにせよ、自分の経験から外れた何かを感じたとき、人は衝撃を受けるものです。
さて、長々と書きましたが、経験が与える観念や、そこから異なる未経験の体験を通して、彼女の心情に大きな変化が生まれたと考えられます。サーカスの象の足かせの話ではありませんが、自分の当たり前の情景というのは、それが当然と感じてしまうと思います。宗教が対立したり、世代間の感じ方が大きく異なったりするのも、こうしたものから生まれるものなのだろうと思います。ある意味それは、自分が当たり前と刷り込まれていることで、当たり前になっている、ということでしょう。当たり前の日常というのは、すべて異なり、同時に同じように偏在するものなのでしょう。彼女を見ながら、私はそんなことを思いました。
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