真実史観で子孫に遺す日本適者生存99年史

歴史には真実と捏造が有るのみ。東大やマスコミ等、虚業が造語の、自虐も保守も革新も右も左も無い!真実の歴史を子孫に遺そう。

正文で無い外務省和訳東京裁判受諾は明白な誤訳だ

2007-03-16 14:18:11 | Weblog
 昭和61(1986)年8月19日の衆議院内閣委員会で、後藤田正晴内閣官房長官は、共産党の柴田睦夫氏が東京裁判についての認識をただしたのに対して、「サンフランシスコ平和条約第11条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」と発言し、東京裁判の正当性を認めることが政府の統一見解であるとの考えを表明した。 

 サンフランシスコ対日平和条約「1951(昭和26)年9月8日」第11条を自分で検証もせず、正文で無い外務省和訳「東京裁判を受諾」と鵜呑みし、外務省に操られた。

 Japan accepts the judgmentsを外務省は「日本は裁判を受諾し」と和訳。裁判は判決が最終決定するまでの過程なのだ。過程は受諾できない。結果が書いていない白紙に、判は押せない。

 条文の正文は英語、フランス語、スペイン語で、日本語の正文はない。日本の外務省がおこなった和訳が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認され、国会承認・内閣批准を受けた公式なテキストとして日本国内では扱われている。

 正文でない外務省和訳で論争するから、おかしくなる。正文で検証すれば、即座に検証出来る。

 accepts(責任や仕事などを引き受ける)。
 the judgments 法律用語でのjudgment は、判決と訳すのが慣例。the judgmentsで諸判決。

 Japan accepts(責任や仕事などを引き受ける) the judgments(諸判決)。文意や正文や用法に沿えばJapan accepts the judgmentsは、「日本は諸判決の責任(刑の執行の継続)を引き受け」となる。
上記は要約、詳細は真実史観HPへ。
真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm

東條英機自殺と捏造したアメリカ

2007-03-16 14:14:24 | Weblog
 インドのパール判事(ラダ・ビノード・パール)の日本人被告の無罪論も、赤穂浪士のあだ討ちも、根底にあるのは実事求是だ。パール判事は職責をまっとうした結果の結論だ。赤穂浪士は幕府の不正を正した結果の結論だ。

アメリカの戦争目的は侵略、植民地化。日本の戦争目的は護国、アジアの解放、人種差別の撤廃、進んで資源の開放(貿易の自由化)。アメリカの原爆「二種類の原爆である。明らかに人体実験目的(ホロコースト・大虐殺)だ」空爆による60万人老若男女無差別殺人C級の罪。アメリカはこの負い目を払拭するため戦後、侵略戦争・南京掃討戦など日本軍隊極悪の多くのプロパガンダ(捏造宣伝)を繰り広げ東京裁判などで軍隊にすべて責任転嫁し、こんなに日本軍隊極悪だから60万人老若男女無差別大虐殺されたのだ、責任はすべて日本軍にあると、軍隊に責任をすり替えた。

 アメリカが日本軍隊極悪の槍玉に挙げ、生け贄にしようとしていたのが総大将東條英機なのだ。その東條が「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」と、大義に殉ずる(命を投げ出す)と公言している。東條英機は日本の正義を明確にし、戦勝国の不正を暴くと公言しているのだ。軍人勅諭「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」に殉ずると公言しているのだ。もはや命をすてた東條英機の証言は阻止出来ずと判断したアメリカは、当然のように東條英機失墜作戦を展開した。ヒトラーはスターリングラード戦で、直々に「降伏禁止令」という、 狂気の極みとも言える命令を出し、凄まじい悲劇となった。東條英機をヒトラーと同罪にするため、ただの単なる教え(戦陣訓)なのに、「降伏禁止令」であるかのように報道させた。総仕上げとしてアメリカは、東條を急襲し、一発の弾丸もしくは弾丸のような刃物で胸を傷つけ、自殺を捏造した。プロパガンダ(捏造宣伝)は真実を覆い隠す仮面だ。叫べば叫ぶほど捏造なのだ。

 戦後、これまで大江健三郎の『沖縄ノート』のように、プロパガンダを鵜呑みし、取材も検証も思考もせず、貼り付け『プロパガンダ貼り付けノート』にしてきた。日本は、とうの昔に独立したのだ、独立国の、人民の、人民による、人民として思考すべきだ。戦後62年を経た、もうプロパガンダを鵜呑みすべきではない。プロパガンダ(捏造宣伝)を探究すべきだ。パール判事や、赤穂浪士の心を失っては駄目だ。

 昨年、虚偽の「戦陣訓」の、その仮面を剥ぎとりました。アメリカのプロパガンダ(捏造宣伝)のシンボル「東條英機」の虚像仮面も昨年剥ぎとりました。東條自殺説では26の矛盾が生じ、米国自殺捏造説では、26の矛盾が氷解する。
 下記の文は下記サイトの要約ですアメリカの東條英機自殺捏造の詳細は下記。

真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm

 まず 「米司令官に陣太刀送る」は前述のように、明白な米軍の捏造。次に、東條英機自殺では、下記26の矛盾点を一切払拭出来ない。下記の矛盾点はすべて一点を指し示している。「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」が鍵となり、米国、東條英機を撃ち、自殺捏造の一点を導き出した。この一点で、下記の矛盾点すべて一瞬に氷解し、画竜点睛となる。

○「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」東條英機は、まさしくこの言葉(米国がもっとも恐れた言葉)に殉じている。「自殺未遂」が無ければ、東條英機は、米国がもっとも恐れたまさに解放の戦士としてアジアの、いや世界の有色人種の英雄となっていた。
○「虜囚の辱=軍人が日本国の囚人となる事」なのに、戦後の捏造(虜囚の辱=敵国の捕虜となる辱=「捕虜となるよりは自殺せよ)を、戦陣訓示達者本人が、なぜ認めたか。(注 検証の順番は戦陣訓が後でした。)
○「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」と東條英機は大義を公言していた。戦後生き恥を曝していた理由は、まさにこれなのだ。総大将東條には、総大将として語る責任の「公」と、「臣」として天皇死守の二つの「公」があるのだ。その人が責任を果たさず、「辱」で無い「捕虜」(私)ごときで、なぜ自殺なのか。既に死を決意し、覚悟を決め、「公」の実現のため生き恥を曝し、「公」の大義の実現の為だけに生きている「私」など皆無の東條の脳裡には、「捕虜」(私)の「辱」など、ひとかけらもなかったはずだ。
○なぜMP、CIC(対敵諜報部)が来てから衝動的に自殺なのか。時間はいくらでも今まであった。

○なぜ「沈黙、弁解せず。一切語るなかれ」なのか。

○なぜMP、CICのいるところで自殺なのだ。失敗の場合は敵国に助けられるのは明明白白なのだ。敵国に生かされて虜囚の辱めを受けることになるのだ。それこそ総大将東條には最大の屈辱ではないのか。こんな単純明快なことすら、総大将カミソリ東條はわからなかったというのか。東條は大臣時代に出した戰陣訓に俘虜となるよりは自殺せよと書いてあるのを實行したのだと後日、証言している。証言が真実なら、必殺の頭を撃つのが正解ではないか。撃ちにくく、失敗しやすい心臓では無いだろう。どちらが撃ちやすいか自分で試して見れば、すぐ分かる。心臓を撃つには両手でピストルを持ち、利き手の親指で引き金を引かねばならず、撃ちにくいのだ。だからピストル自殺者はほとんどが頭だ。

○戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者の氏名を通告し、日本の官憲の手で逮捕するという取り決めになっていた。なぜ取り決め違反の逮捕なのか。事前通告し自殺されるのを恐れたのか?。『東條英機とその時代』矢次一夫

○たまたま本社(朝日新聞)記者は東条邸を訪れたとある。そして記者が口頭の遺言を聞いたというのである。記者が現場に簡単に入れるものだろうか。

○朝日新聞長谷川記者は、なぜ左胸なのに、左腹部と報道したのか。

○朝日新聞長谷川記者が聴いたという口頭の遺言は、不自然な辻褄をあわせるための弁解だ、遺言ではない、内容は遺言になっていない、弁解ばかりだ。

○朝日新聞長谷川記者の記事では生命はとりとめるであり、『眞相箱 』では自分には手を施す術がない、大將は死ぬだらうと一人の日本人の醫者の診察が違う。

○口頭の遺言は誤りが多々あり、日本人記者の文ではない(赤細字で訂正)。手渡された走り書きを、そのまま書き写したものだ。米軍の検閲が有り、勝手に書き直せないので、直さずそのまま載せた。

○朝日新聞長谷川記者の「証言 私の昭和史 6」ではなぜ、あばら骨の四番目と五番目の間なのか。あばら骨は腹ではない、新聞報道となぜ違うのか。

○ピストルで心臓を撃ち自殺する人がいるのだろうか、間違つて生き度くない、一發で死に度かつたのなら撃つのは頭だろう。「ザレイプオブ南京」の著者36歳女性アイリス・チャン頭部への銃弾1発で自殺。ましてや東條は男で軍人だ。敵国に生かされて虜囚の辱めを受け無い必殺は、頭だろう。

○書きかけの、コピーされた遺書が前日日付なのも不自然だ。MP、CIC(対敵諜報部)は取り決め違反で予告無く逮捕に来ているのだ。また覚悟の自殺であれば、前日日付では無く、当日日付ではないのか。

○遺書は未完成なのになぜ自殺をしたか。天皇陛下宛の遺書も清書せず、日にちだけ記載し、不敬のまま、臣(しん「けらい」)英機の自殺は無いだろう。不自然だ。

○未完成な遺書があるのに、口頭でなぜ遺言を話したのか。

○1発で胸を撃ち抜いた人間が2発目3発目を撃たず、長文の遺言を、しゃべったと言うのだ。 治療優先だろう。

○一發で死に度かつたと口頭の遺言の開口一番の言葉だ、一發のいい訳から始まっている、語るに落ちるではないのか。

○遺言を口頭で伝えたといわれた人間が、なぜ生き恥をさらしながら死刑判決まで生き長らえたのか。

○軍人東條が、家族や近親者に死ぬ死ぬと、証言のように詳細に、自殺を公言するものだろうか。

○「忠臣」と言われた東條が、天皇を守らず、死ぬわけにはいかないのだ。ましてや遺書に臣英機と記載し内容は天皇宛である。天皇宛でないところが、追記となっている。臣英機と書き、臣「しん(家来)」の勤めも果たさず自殺は無いだろう。

○ご丁寧に自殺直後の写真まで撮影されている。

○口頭の遺言は朝日の長谷川記者が直接聞いたのではなく、マツクアーサーと記載されたメモとして米軍より手渡されたものを、そのまま転載したものだ。直接の聞き書きであれば、文頭記載のようにマツカーサーと書くはずだ。米軍の検閲が有るので勝手に書き直せない。

○東條大将が自決を図ったのが午後4時、午後7時20分頃、家から運び出し、横浜の米軍病院に収容した。(重光葵の手記より)3時間20分もかかっている、何があったのだろうか。報道されたような重傷であったのだろうか。

○自殺未遂後一月もたたない10月7日、大森俘虜(ふりょ・捕虜)収容所に傷の癒えた東条が送られている。報道されたような重傷ではなかったのだ。


 私が検証した以外にも、反日や戦勝国のプロパガンダはたくさんあります。反日やプロパガンダは真実を隠蔽するためのものです。反日やプロパガンダが叫ぶ、逆が真実です。プロパガンダを鵜呑みせず探究しましょう。

陥落後512日戦い、降伏命令書で下山したサイパン島の47士 

2007-03-16 14:09:56 | Weblog
○陥落後512日戦い、降伏命令書で下山したサイパン島の47士 「捕虜の辱」、そんな「私心」でなく、生きて生きて生きて生きて生き抜いて護国「公」(義)のため最後の最後まで戦い帰還した日本兵47士。「捕虜の辱」で自決の記載一切皆無。
 サイパンが落ちれば、米軍爆撃機の行動圏内に日本本土は全部入ってしまう。それはどうしても防がねばならなかった。「我身を以て太平洋の防波堤たらん」と奮闘したが、昭和19年7月7日最期の反撃戦にてむなしく玉砕。
 しかし、サイパンに於ける戦いはそれで終ったわけではなかった。玉砕後、なお生き残った多数の将兵はタッポーチョ山(標高476m)付近を初め、山地、海岸などのほら穴や岩影に潜入し小集団となって遊撃戦を続行した。民間人を守り最後に皆下山させ、なんと終戦後の昭和20年12月1日まで、護国の戦いを続けたのである。
 アメリカ軍は捕虜をつくりたがらない。もし捕虜にするとしたら、婦女を陵辱し、男を拷問にかけて楽しむためだ。と彼(看護婦青野千恵子の父)は聞かされていた。(P27)一家は洞窟に隠れた、しかし一家は見つかり、父母妹の家族全員を目前で瞬時に殺されてしまった。目の前の家族の仇を討とうと機関銃の引き金を引いたが、撃ちかたが分からず仇を討てなかった看護婦の引きずる思い。復讐の念に燃えながら医療品の袋を背負い、ベルトに長いナイフをさげ、大場部隊と女一人となっても最後まで行動を共にし、助ける、看護婦青野千恵子。蔓草で肩から吊るした九九式軽機関銃を操り、米兵100人殺すまでは自分は死なないと誓い、大場部隊を助ける、はぐれ者一匹狼、元ヤクザ刺青一等兵堀内今朝松。なぜかこの二人のはかなく凄まじい生きざまは、読後も深く胸を打つ。この本の早期の復刻を願う。敵味方当事者合作のこの記録には、先に殺さなければ殺される、戦争の真実が存在している。日本人必読の書だ。
 昭和20年12月1日 天羽少将の降伏命令書に従い下山。最後まで戦いを貫いた将兵の数は47名、指揮官は大場栄大尉。その日47名は髯を剃り軍服に着替えて、タッポーチョ山に設けた潜伏拠点の前で慰霊祭を行い、戦友の霊に3度の弔銃を捧げ、へんぽんとひるがえる日の丸を先頭に、銃をかついで歩調を合わせ隊列を組み、軍歌「歩兵の本領」を唱和し、米兵の真つ只中を式場まで整然と行進した。
 米軍は、彼らを勇士として丁重に扱い歓迎会まで催し、米軍の新聞にも大きく報じられた。彼らは祖国日本に忠義を尽し最期まで戦いを貫き、米兵から尊敬までされたのである。米海兵隊の元兵士のドン・ジョーンズ氏が大場部隊47士の姿に感動して、戦後日本を訪れ(昭40)取材して書き残した本が、『タッポーチョ』ドン・ジョーンズ著中村定訳祥伝社1982(昭57)年出版副題「『敵ながら天晴』大場隊の勇戦512日」だ。何と大場部隊に守られた日本人の執筆者に先駆けること一年前、敵国の元兵士が、誰よりも先んじて大場隊の勇戦を世に知らしめたのだ。
序文
 「本書を、自らの国のために全力を尽くし、報われることのなかった、現代の日本人の父親たちに、祖父たちに、伯父たちに捧げる。」
あとがき
 私は今日の日本で、1945年(昭和20年)以降に生れた人たちの間では、日本にあった戦争についてあまりにも知られていないことが残念で、この本を書きました。
 これを書く前に、・・・調べてみました。・・・多くの人たちの間に、戦争のことを言うのに恥じる感覚があるということでした。そして、その恥の感覚は、事実に基づいたものではなく、知識の欠如に基づいたものでした。
 この人たちは、自分たちの父や祖父や叔父たちが、自分たちの国を守るために戦った精神について、何も知りませんでした。もっと驚いたことは、その人がしたことになんの尊敬の念も払っていないことです。
 私は、このことをとても残念に思います。日本の兵隊は、よく戦ったのです。彼らは、世界の戦士たちの中でも、最も優れた戦士たちでした。彼らは、自分たちの国のために生命を捨てることを恐れませんでした。私は、そのことを、こういう兵士たちと三年戦いましたから、よく知っています。
 しかしこの本は戦争の物語ではありません。日本とアメリカとの双方で、多くの人たちは自分が作ったわけでもない恐ろしい状況に、どのように反応したか、と言うことを書いた物語です。双方の人たちは、それぞれ信じていたことをしたのです。
 ・・・事実(この本に記した真実を日本人が知れば)によって、現在の知識の真空状態は埋められることになるでしょう。また、先述の恥じる感覚は誇りに変わるでしょう。
 ・・・そして、それらのページは、今日の若い日本の人たちにとってだけでなく、その人たちの子供や孫にとっても、誇りの源泉になるでしょう。それが、私がもっとも強く持っている願いです。1982年11月 ドン・ジョーンズ
『タッポーチョ』刊行に寄せて  大場 栄
 この本がどのように読まれるかについては、私には懸念がある。しかし、この本がかっては敵同士だった私たちの戦後の長い交流を経て、敵の目で書かれたわれわれの戦いの記録であることは間違いない。

オーストラリア・カウラ・日本人捕虜1104人大脱走 

2007-03-16 14:03:26 | Weblog
カウラの大脱走 1944年8月5日、午前1時55分、オーストラリア・シドニーの西約320キロに位置するカウラ戦争捕虜収容所で、1104人(約80%が陸軍で、20%が海軍。)の日本人捕虜が一斉に脱走した。日本兵の死者231人、負傷者108人、成功者ゼロ。オーストラリア側の死者4人。捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年だ。

 NHK制作の「カウラの大脱走」2005年9月4日に放映された。内容は、カウラ事件の生存者の「証言」を主体に編成したものだ。日本兵の大半は、捕虜となったときに偽名を名乗って入所し、姓名が日本に伝わることを避けたという(捕虜になっての偽名や家族への音信不通は、捕虜は公表されていないので、自分たちだけが捕虜になったのだという、うしろめたさがそうさせた。また捕虜同志の面子もあり、おのずとそうなった)。

 戦陣訓を意識せずに平和な捕虜として暮らしていた。ところが、ある日、日本軍の下士官の一群が収容されて来た。一人の下士官が軍人手帳を示し『諸君は捕虜である。戦場に臨む軍人の心得として、戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と書いてある。生きて捕虜になっていることはこの上なき恥辱である。国に残してきた家族に対しても申し開きができないではないか』と話し始めた。「これは敵につかまるぐらいなら自決しろということだ」とつまみ食い読みし、説明し、皆、戦陣訓に納得し、票決の上決行した、のだという。NHKは戦陣訓原因説だ。

 下記はNHK放映内容記載
http://www.yamadas.jp/mami/cowra.html ←Mami Yamada|週刊マミ自身 
http://daisukepro.exblog.jp/2652637/ ←発見の同好会 : 続 NHKテレビ「カウラの大脱走」と民主主義

『ウィキペディア(Wikipedia)』の見解 ←http://ja.wikipedia.org/wiki/ォヲゥコサカ

 士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった。)

 日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするか の多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)
 この際、紙に移送受諾なら○、反対は×として行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いていた可能性を、現生存者は証言。

「カウラの大脱走」はNHKのように、戦陣訓に責任転嫁だけでは語れない事は確かだ。下記は詳細に語られている「カウラの大脱走」だ。

http://www1.odn.ne.jp/kminami/sub16.html← カウラ (COWRA)―ひそやかに眠る日本の兵士たち 

真実史観の検証 カウラの1100余名の日本兵は、戦陣訓を知らずに平和な捕虜生活を送っていた。そこへ戦陣訓をつまみ食い読みした下士官が現れ、戦陣訓に白紙の兵士は、洗脳され、大脱走となったと言うのが「カウラの大脱走」のあらすじだ。日本軍人の捕虜数を一切軍が公表していなかったので、自分たちだけが捕虜なのではないかという自虐心が、戦陣訓のつまみ食い読みであおられたため、自虐、自損の行動となったのだ。つまり、戦陣訓を読み解いた者が一人もおらず、つまみ食い読みし、悲劇となった。戦陣訓の内容を皆、知らなかったから、つまみ食い読みの間違い〔陸海軍の軍人が空で覚えている軍人勅諭に、義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其「その」操「みさお(定めた意志を固く守ってかえないこと)」を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれと述べているのに、私心(捕虜の辱め)で、死ねという矛盾〕に気付かなかったのだ。戦陣訓を読み解いた者が一人でもおれば、皆帰還していた。捕虜収容所という異常下におきた事件とはいえ、なんという悲劇だ。

 「カウラの大脱走」は戦後の日本と同じだ。戦陣訓に白紙の日本人は、戦陣訓を、つまみ食い読みした鵜人識者やマスコミに瞬く間に洗脳され染まってしまった。精神に荒廃を来たしながら61年を経た。手本の軍人勅諭を読み、戦陣訓を読み解き、二度とカウラの悲劇を繰り返してはならない。同胞よ、二度とカウラの悲劇の、轍を踏むなかれ。

玉砕直前のサイパンから一日本兵の母国への伝言

2007-03-16 13:39:40 | Weblog
 2007-2-24 NorthernCaliforniaのDr.夢倉さんより「61年間誤報道され続けた戦陣訓の真実」のスレッドに、「サイパン戦で玉砕されたと思える一人の日本兵の残した従軍手帳と出会う事がありました・・・御時間のあるときにご覧になられてください」と投稿がありました。http://blogs.yahoo.co.jp/drmusou

 Dr.夢倉さんは従軍手帳や遺品を写真掲載し、ブログを以下のように結んでいます。
 戦争の遺物品を収集するコレクターは多くいる。・・・インターネットのオークションサイトで日本兵が最後の力を振り絞り書いたと思われる従軍手帖が「商品」として売られているのを発見した。このような貴重な歴史を語る遺物品は、決して金銭価値で計れるものではない。戦争の遺物品を収集する事を趣味にする人間の、単なる個人のコレクションのひとつとして埋もれさせてはいけない。サイパンから日本に届けたかったと思われる、一日本兵の最後の言葉を含むこの従軍手帖は、必ず、日本人の元に戻さねばならない。そういう思いで、私は競り落とした。
 ・・・玉砕する寸前まで、「生キテ生キテ生キ抜イテ」という一日本兵の言葉は、21世紀に生きる日本人の私の胸を熱くする。敗戦後、六十二年、決して、その言葉の重みは失われてはいない。私は、この従軍手帖に書かれた数名の日本兵の玉砕を弔うと共に、最後の最後まで生きる事をあきらめず、無念にも玉砕した日本兵の言葉を死なせてはならないと思う。私には、果たして、どの日本兵がこの従軍手帖に最後の最後まで力を振りしぼって伝言を綴ったのかは、わからない。今、私にできることは、できる限り多くの人に、この日本兵の最後の「伝言」の言葉を読んでもらう事だと考えている。そして、私の手で、これらの遺物品を無事、母国日本に帰国させてあげたい。適した施設に寄贈し、「地獄ノ有様」の戦争を知らずに育った日本人、そして、これから生まれてくる日本人に、「生きる」という意味を考える一つのきっかけにしてもらいたいと願う。

 戦後戦勝国のプロパガンダに洗脳された哀れな子孫と反日は、先人を犬死に、無駄死に、無駄な戦争と、62年を経た現在でも冒涜し続けています。日本は戦争には確かに負けた。しかし、独立し、護国すると言うことは、日本のように命を懸けなければ達成出来ない事を学び、アジアは戦い、南北アメリカのようにはならず、皆独立した。戦後宗主国が退き、貿易が自由化され、アジアが日本が繁栄している。 1944年(昭和19年)の7月9日サイパン陥落。サイパンで玉砕した一日本兵は「生きて捕虜の辱」などの「私心」ではなく、「護国」と言う「公」のために、玉砕の直前まで「此ノ島ガ陥チタラ日本ノ存在ハ薄氷ヲ踏ムガ如シダドウシテモ死ナレナイ生キテ― ― ―生キ抜イテ此ノ島ヲ守ラネバ・・・」「生きて生きて生きて生きて生き抜いて此の島を守らねば」と日本へ書きしるしています。一人の日本人の熱き想いで発見された伝言は、63年を経て今年日本に届きました。子孫は、この熱き想いと、この真実を流布し、この礎石を、未来永劫忘れてはならない。ここには、先人と子孫、過去と現在、呼応する二つの「公」の感動がある。