史上初のノーベル文学贋賞受賞者大江健三郎と売国奴の館NHKと似非平和団体
・・・日本人は原爆を投下させるような戦争を起こした国の人間としての反省を、このように文明的に大きい規模で行ってきたでしょうか・・・
・・・広島、長崎のあの大きい犠牲を償うのは私たちなのだ・・・
・・・日本の侵略によってアジア全域にわたって大きい死者が出たのは、日本の帝国主義の「膨張」という「病気」がもたらした「悲惨な経験」だ・・・ 『あいまいな日本の私』(大江が世界各地で行った9つの講演の記録)大江健三郎大岩波新書(1996)
「僕は日本の戦争犯罪を認める」「『あまりにも巨きい罪の巨塊』の犯人は日本軍」「広島・長崎の原爆投下は天罰のようなもの」「広島・長崎の原爆投下は日本人の責任」「中国などにとっては原爆は救世主だった」 「広島・長崎の原爆投下は天罰だ。日本の悪魔の所業に対する当然の報い」「原爆投下は日本の戦争に究極の責任があり、日本人が人類に対する罪を犯した報いだ」「防衛大学生は恥辱」・・・史上初のノーベル文学贋賞作家大江の発言。
ノーベル賞と言う名前にだまされてはいけない。平和賞や文学賞には、業績を成した人に授与される真の、ノーベル真賞と、政治的意図で傀儡に授与される贋の、ノーベル贋賞、真贋二種の賞がある(もちろん、川端康成はノーベル文学真賞受賞者である)。日本人の覚醒を良しとせず、WW2の非を認めない戦勝国の妖怪がまだ世界にはいる。妖怪が後顧を憂え、傀儡にふさわしい素質の持ち主、侮日で独善軽薄短小な大江健三郎に、最後の白羽の矢を放った。こうして大江は、ノーベル贋賞を受賞した。これが、史上初のノーベル文学贋賞、大江受賞の顛末である。
ノーベル賞受賞本当の理由「WGIP広告塔」も知らず、ノーベル贋賞を勲章に、WGIP活動を成す大江健三郎を筆頭に、先人である祖父や親への冒涜の輩で溢れている。とても文学者と呼べる代物ではない物書きが、ノーベル贋賞という衣を与えられ、踊っているのだ。妖怪のほくそ笑みも知らずノーベル贋賞を身に纏い、先人の子孫大江が、嬉々として祖父母や親を罵倒し踊り狂う様は、誰が見ても異様だ。白羽の矢を放った妖怪も、まさかここまで羽目をはずすとは思わず、見込み違いを悔やんでいるに違いない。踊りすぎて化けの皮が剥がれ、常人に異様に見られる傀儡は、もはや傀儡の用を成さない。知らぬのは、本人とノーベル贋章の威を借りたい迎合者だけだ。馬鹿息子を通り越し、大江の踊りは異様だ。
大江は点から点へ跳び線が無く、整合が無い独り善がりの思考回路の持ち主である。ノーベル贋賞受賞で、文章同様意味不明な独善にさらに拍車がかかり、度を越したのだ。纏ったノーベル贋賞が拍車をかけ過ぎ、化けの皮を剥いだと言える。心ある世界の人々が眉をひそめ、発言するのはうなずけるが、これほど踊りすぎて重症になると、つける薬はない。ノーベル賞受賞者と思うから、意味不明が痛々しく感じるのだ。実体はノーベル贋賞受賞者、正体が判明すれば、さもありなんと得心がいく。「大江健三郎は史上初のノーベル文学贋賞受賞者でWGIP広告塔です」として、そっとして置けばよい。間も無く天定まる。天定まれば、異様な輩は消滅する。
「NHKその時歴史が動いた。軍服を脱いだジャーナリスト」
日露戦争でバルチック艦隊撃破した日本海軍高官の生き様を追った話だ。国民を守るには軍国主義が必要と考えていた海軍高官は第一次世界大戦後のヨーロッパに派遣され、そこの国土人民の惨状をみ、考えを変えた。軍隊では国民を守れない、「平和を守る外交こそが大切」と痛感、軍人をやめジャーナリストの道を選び、軍縮を訴え、軍の暴走を批判し続け、「戦争は日本を焦土と化す」と予言したと賞賛し報道した。
また、NHKの戦争反対者賛美の、半人前つまみ食い売国奴報道だ。弱肉強食の時代は食うか食われるか(逃亡の選択肢もあるが、追いつかれれば同じなので、机上の空論)、服従するか、戦うか、の選択肢しかないのだ。NHKは、米南北、豪の先住民のようになればよかったということか。選択肢は複数だが、選択は一つしかない。世の道理だ。つまみ食い選択不可が現実だ。当時は弱ければ皆侵略された、歴史の事実だ。
大国でもない小国が、自らも傷つく戦争など、好き好んでやるものなど誰もいない。野生での同属の争いは、傷つくと即刻死亡なので、互いに威嚇するだけで、なかなか戦いには至らない。3時間威嚇だけに終始した猫を目撃している。小国は止むに止まれず戦争となるのだ。大国ならばいざ知らず、小国の戦争は全てそうだ。大国に小国が仕掛けた戦争など史上無い。平和を守る外交が通用していれば、皆平和を守る外交に励み、侵略されなかったはずだ。通用しないから征服された。戦争で焦土と化さない戦争など無い。当たり前のことを予言とは賛美過剰だ。空論を食って人は生きれない、即刻死亡だ。森を見れず木だけしか見えない半人前の空論など、報道に値しない。
また、金で買われた売国奴が空論を針小棒大にし、先人冒涜愚民化報道しているのだ。服従もせず、戦わずの不可能ねだりの空論報道は、愚民を生み国を滅ぼす。NHKは、日本国民から金を集金し日本を滅ぼす魂胆か。日本が滅べば当然NHKも消滅だ。巣くう売国奴を至急一掃しないと、NHK自身が消える事は常人であれば分かることだ。
広島長崎の原爆投下17年後のキューバ危機(1962年)でWW3を防ぎ世界を救ったのは、フルシチョフでもケネデイでもない、広島長崎の原爆犠牲者だ。フルシチョフもケネデイも脳裏に広島長崎が浮かび踏みとどまったのだ。「こういうときのために怖さを知るため二種類(ウラン235広島投下・プルトニュウム239長崎投下)の人体実験をした」と、詭弁を吐く愚者もいるだろうが、少なくとも米ソの国民は広島長崎で救われたことは事実だ。新たなWW3を防ぎ平和をもたらしているのも、平和の守護神となった広島長崎の原爆犠牲者のおかげだ。すくなくとも全ての国の指導者は、広島長崎を訪れ、今は平和の守護神となった原爆犠牲者に、感謝の意を表し、惨状を目の当たりにする責任がある。人類も感謝の意を表する責任がある。
全ての国の指導者を呼び、原爆の現実を脳裏に刻ませること、各国全てに原爆資料館を作り、人類に原爆の現実を刻ませること、風化させず発信し続け語り続けること、これが新たな世界平和を生む。そしてこれが、人類史上初めての被爆国日本に与えられた重大な使命でもあり、原爆犠牲者の総意でもある。人類の平和は日本の双肩にかかっていると言ってもけして過言ではない。キューバ危機を回避させたのは、日本の原爆犠牲者だ。
使命も果たさず「戦争反対」などと常識(戦争賛成など誰もいない)の愚かな連呼を繰り返し、WW3を防ぎ人類の平和の守護神となった原爆犠牲者を政争の具にし、冒涜する、平和とは名ばかりの似非団体など不要である。似非団体などは至急解散し、被爆国日本に与えられた使命を果たす、原爆犠牲者の総意に基ずく、真の平和団体を立ち上げるべきだ。空論者の集まり似非団体ではなく、政治団体を排除し実利に基づき活動する真の平和団体にすべきだ。原爆犠牲者が嘆くような反日政治団体の隠れ家は不要。反日政治団体だから、下記のような侮辱屈辱国辱となるのだ。
広島原爆慰霊碑碑文『安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから』には謝罪がない。原爆で虐殺された人災犠牲者の「慰霊(死者の霊魂を慰める)」の「碑文」で、天災の犠牲者の「碑文」ではない。虐殺(人災)した「当事者」が慰霊の場合、「犠牲者」に謝罪し、死者の霊魂を慰めるのが「慰霊」で、人災で加害者の「謝罪」の無い「慰霊」など無い。
「過ち」の主語が人類やアメリカなら、無辜の老若男女の市民を虐殺し尽くし、さらに生存者をも、阿鼻叫喚に叩き落しておきながら一言も、謝罪もせず、殺した本人が殺した相手に「安らかに眠って下さい」は原爆慰霊碑碑文ではなく、原爆犠牲者嘲笑「ちょうしょう(あざけって笑いものにする)」碑文となる。「安らかに眠って下さい」は、殺した本人が殺した相手に使う言葉ではない。使った場合は「嘲笑」の意味しかない。なぜなら「安らかに眠る」ことが出来るのは、殺した本人を霊が赦して、初めて霊は眠れるのだ。霊が赦すかどうかも分からないのに、霊が赦したと、かってに決め付けて「眠れ」は、死者への「冒涜」、ただそれだけである。加害者が被害者に対する慰霊の言葉は、ひたすらの謝罪しかない。ひたすらの謝罪の後に赦すか赦さないかを決めるのは霊で、加害者ではない。加害者に決定権など無いのだ。主語が人類やアメリカの慰霊碑文なら、さも許しを得たかのような「安らかに眠って下さい」は、使えない。どんなにこじつけても、加害者の慰霊碑文として使えないこの言葉が、すべてを否定している。
「安らかに眠って下さい」は、加害者の慰霊碑文として使えない言葉なのだ原爆犠牲者に一言の謝罪も無く、ひたすら今後の誓いだけの碑文、「過ち」の主語は、「日本」だけしかない。したがって「過ち」とは原子爆弾投下ではなく、「過ち」とは大東亜戦争となる。犠牲者の身内「日本」が、「過ち」を犯し、皆様を巻き添えにし、死に至らしめましたが、「過ち」を「繰り返しませぬから」と誓います。誓いましたのでどうか子孫のことは心配せず「安らかに眠って下さい」となり、慰霊の碑文となる。
コードを解くと「日本は大東亜戦争という過ちを犯したため、原子爆弾を投下され、皆さんが犠牲になった。大東亜戦争という過ちを繰り返さないことを誓いましたので、どうか子孫のことは心配せず、原爆犠牲者の皆さん安らかに眠って下さい」となる。文意は、「過ちを犯した(原因は日本)から原子爆弾を投下され、原爆犠牲者(結果)となった」となり、全ての責任は大東亜戦争開戦の日本に有とした、原爆使用責任回避の強調文である。すなわちこの碑文は、原爆慰霊碑碑文などと言う立派なものではない。責任者回避のための言い逃れ、言い訳碑文である。原爆慰霊碑碑文などではない、原爆使用詭弁碑文だ。さらにこの碑文には、原子爆弾投下否定など、どこにも書いていない、皆無である。この内容は「過ちを犯せば原子爆弾を投下する」。なんと原爆虐殺正当化、原子爆弾攻撃肯定碑文なのだ。「核廃絶」ではなく「原子爆弾恐喝」碑文「核恐喝」碑文なのだ。
こんな碑文の前でこれまで仰々しく「核廃絶」「戦争反対」を唱えてきたのだ。正に似非平和団体と言える。心があるなら謝罪し解散せよ、原爆犠牲者冒涜もはなはだしい限りだ。こんな碑文で原爆犠牲者が浮かばれるはずなどない。
これまでご丁寧に、「核」は「恐喝」に使えることを毎年世界に発信してきたのだ。「核」が「拡散」するのも道理だ。
『安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから』は、全世界の戦争犠牲者に対しての人類の平和祈願の碑文なら、「全世界の戦争犠牲者の皆さん、人類はこの過ちを二度と繰り返さないことを誓いますので、安らかに眠って下さい」となり、何も問題は無い。
しかし原爆慰霊碑碑文となった場合は、前述の解釈となり、「原爆虐殺正当化碑文」と化す。対象が、全世界の戦争犠牲者なのか、原爆犠牲者なのかで意味が変貌するのだ。全世界の戦争犠牲者慰霊碑文なのか、原爆犠牲者慰霊碑文なのかで、本意が豹変する。
原爆犠牲者慰霊碑文と見極めての1952年11月5日、ラダ・ビノード・パール博士の解釈
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話)著田中正明
原爆犠牲者慰霊碑文と全世界の戦争犠牲者慰霊碑文を混同した1952年11月10日雑賀忠義(碑文の撰文揮毫者広島大学教授)のパール判事への抗議文
「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」」『ヒロシマの記録ー年表・資料編』/『アメリカの影』p323)
原爆犠牲者慰霊碑文と見極めての解釈
東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成し、アジアの平和確立に寄与した功績で国連ハマーショルド賞を受賞したマレーシアのタンスリー・ガザリー・シャフェー元外務大臣も平成5年(1993)11月に来日した際、この原爆慰霊碑について次のように語っている。
「以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で子供達に『日本は昔悪い事をした。これはその記念碑だ』と教えていたのを見ました。それで広島市長に『原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントンに持っていき、アメリカ人に見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでしょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います』と言った所、広島市長達は真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。
それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほど怯えているのか。敗戦国心理から早く脱却するべきではないだろうか」(『祖国と青年』平成6年1月号)
この場所は、原爆犠牲者に対しての原爆犠牲者慰霊の場で、全世界の戦争犠牲者慰霊の場ではない。混同した撰文者、雑賀忠義の間違いは、明々白々である。雑賀忠義は、被爆者だという。怨讐を無理に超えようとして対象を錯誤したのだ。被爆者ゆえの錯誤だ。波風立てず、すみやかにふさわしい場所に移動すれば、それでよい。
碑文変更反対派は皆、考えず鵜呑みし混同解釈しているのだ。どうしてもこの碑文を置きたいのであれば、前記のようなふさわしい場所に置けばよい。ここは「原爆死没者名簿」が納められた原爆犠牲者慰霊の場所だ。原爆犠牲者嘲笑碑と化す碑文は、不要。慰霊の対象が誰なのか考えれば氷解し、論争などに値しないことなのに、政治団体に扇動され、騒ぐのだ。鵜呑みは、愚人化するのだ。
正式名称は広島平和都市記念碑。しかし、原爆死没者慰霊碑、原爆慰霊碑、と呼称し、市民や県民や国民は、当初より錯誤を指摘していた。広島は、本意の慰霊(死者の霊魂を慰める)碑を、記念碑(世界市民としての誓い、宣言記念碑)と錯誤し、混同したのだ。犠牲者に謝罪し慰霊する場所で、謝罪も慰霊もせず、突然、宣言をしているのだ。宣言だから、記念碑と名付けたのだ。慰霊の場に慰霊碑も置かず突然の、宣言記念碑。錯誤を重ねた、正に広島錯誤記念碑と言える。原爆死没者に謝罪し、慰霊の場にそぐわない広島錯誤記念碑を移動し、至急国辱(広島の錯誤)を雪ぐ責任が、広島には在る。広島の錯誤がこれ以上世界に蔓延るのは、国辱以外の何物でもない。
数多の職責者は誰も気付かなかったのか、嘆かわしいことだ。占領者はとうの昔に去ったのだ。哀れを通り越して職責放棄に怒りをおぼえる。心あるなら、職責者は即時「原爆虐殺正当化碑文」を移動し、原爆犠牲者に謝罪せよ。そして職責者全員(故人は遺族)で浄財を出し、真の原爆慰霊碑と碑文を成し、職責者の責任を果たせ。碑文は国民から募ればよい。心あるなら、成せ。人は皆錯誤する、錯誤を自ら正せば、人は皆不問に付し、その勇気をたたえるだろう。自ら正さざれば、愚かな錯誤者として歴史に汚名を残す。自ら是正の勇気か、汚名か、どちらを子孫に残すかの選択は、あなた方だ。
ノーベル贋賞作家、NHK、平和団体、識者は、検証回路皆無の、単なるWGIP録音機だ。鵜呑みせず、知識を一度リセットし検証すれば、誰でも簡単に真実が現出する。立派な親から授かった己の頭を、似非の輩と同じ録音機にせず、検証機にし、似非を一掃し浄化しよう、子孫のために。護国の戦争は「過ち」などに非ず、生きとし生ける物の、自己保存の本能だ。
今年は愚民化碑文を詫び、「繰り返しませぬから」と誓おう。あの地獄をみれば、たとえ子孫でも「安らかに眠って下さい」などとなど、軽々しく言えるものではない。子孫でさえも、慰霊の言葉がみつからない、無いのだ。しかし人類は今も、救われ続けていることだけは確かだ。慰霊の言葉はみつからないが、この報告を慰霊の言葉とし、子孫は語りかけよう、たとえば下記のように。
原爆慰霊碑碑文
人類の過誤赦(ゆる)してください
人類は終わりを見ました
人類は永久(とわ)を誓いました
人類は救われました
人類は忘れません
人類に御加護を
・・・日本人は原爆を投下させるような戦争を起こした国の人間としての反省を、このように文明的に大きい規模で行ってきたでしょうか・・・
・・・広島、長崎のあの大きい犠牲を償うのは私たちなのだ・・・
・・・日本の侵略によってアジア全域にわたって大きい死者が出たのは、日本の帝国主義の「膨張」という「病気」がもたらした「悲惨な経験」だ・・・ 『あいまいな日本の私』(大江が世界各地で行った9つの講演の記録)大江健三郎大岩波新書(1996)
「僕は日本の戦争犯罪を認める」「『あまりにも巨きい罪の巨塊』の犯人は日本軍」「広島・長崎の原爆投下は天罰のようなもの」「広島・長崎の原爆投下は日本人の責任」「中国などにとっては原爆は救世主だった」 「広島・長崎の原爆投下は天罰だ。日本の悪魔の所業に対する当然の報い」「原爆投下は日本の戦争に究極の責任があり、日本人が人類に対する罪を犯した報いだ」「防衛大学生は恥辱」・・・史上初のノーベル文学贋賞作家大江の発言。
ノーベル賞と言う名前にだまされてはいけない。平和賞や文学賞には、業績を成した人に授与される真の、ノーベル真賞と、政治的意図で傀儡に授与される贋の、ノーベル贋賞、真贋二種の賞がある(もちろん、川端康成はノーベル文学真賞受賞者である)。日本人の覚醒を良しとせず、WW2の非を認めない戦勝国の妖怪がまだ世界にはいる。妖怪が後顧を憂え、傀儡にふさわしい素質の持ち主、侮日で独善軽薄短小な大江健三郎に、最後の白羽の矢を放った。こうして大江は、ノーベル贋賞を受賞した。これが、史上初のノーベル文学贋賞、大江受賞の顛末である。
ノーベル賞受賞本当の理由「WGIP広告塔」も知らず、ノーベル贋賞を勲章に、WGIP活動を成す大江健三郎を筆頭に、先人である祖父や親への冒涜の輩で溢れている。とても文学者と呼べる代物ではない物書きが、ノーベル贋賞という衣を与えられ、踊っているのだ。妖怪のほくそ笑みも知らずノーベル贋賞を身に纏い、先人の子孫大江が、嬉々として祖父母や親を罵倒し踊り狂う様は、誰が見ても異様だ。白羽の矢を放った妖怪も、まさかここまで羽目をはずすとは思わず、見込み違いを悔やんでいるに違いない。踊りすぎて化けの皮が剥がれ、常人に異様に見られる傀儡は、もはや傀儡の用を成さない。知らぬのは、本人とノーベル贋章の威を借りたい迎合者だけだ。馬鹿息子を通り越し、大江の踊りは異様だ。
大江は点から点へ跳び線が無く、整合が無い独り善がりの思考回路の持ち主である。ノーベル贋賞受賞で、文章同様意味不明な独善にさらに拍車がかかり、度を越したのだ。纏ったノーベル贋賞が拍車をかけ過ぎ、化けの皮を剥いだと言える。心ある世界の人々が眉をひそめ、発言するのはうなずけるが、これほど踊りすぎて重症になると、つける薬はない。ノーベル賞受賞者と思うから、意味不明が痛々しく感じるのだ。実体はノーベル贋賞受賞者、正体が判明すれば、さもありなんと得心がいく。「大江健三郎は史上初のノーベル文学贋賞受賞者でWGIP広告塔です」として、そっとして置けばよい。間も無く天定まる。天定まれば、異様な輩は消滅する。
「NHKその時歴史が動いた。軍服を脱いだジャーナリスト」
日露戦争でバルチック艦隊撃破した日本海軍高官の生き様を追った話だ。国民を守るには軍国主義が必要と考えていた海軍高官は第一次世界大戦後のヨーロッパに派遣され、そこの国土人民の惨状をみ、考えを変えた。軍隊では国民を守れない、「平和を守る外交こそが大切」と痛感、軍人をやめジャーナリストの道を選び、軍縮を訴え、軍の暴走を批判し続け、「戦争は日本を焦土と化す」と予言したと賞賛し報道した。
また、NHKの戦争反対者賛美の、半人前つまみ食い売国奴報道だ。弱肉強食の時代は食うか食われるか(逃亡の選択肢もあるが、追いつかれれば同じなので、机上の空論)、服従するか、戦うか、の選択肢しかないのだ。NHKは、米南北、豪の先住民のようになればよかったということか。選択肢は複数だが、選択は一つしかない。世の道理だ。つまみ食い選択不可が現実だ。当時は弱ければ皆侵略された、歴史の事実だ。
大国でもない小国が、自らも傷つく戦争など、好き好んでやるものなど誰もいない。野生での同属の争いは、傷つくと即刻死亡なので、互いに威嚇するだけで、なかなか戦いには至らない。3時間威嚇だけに終始した猫を目撃している。小国は止むに止まれず戦争となるのだ。大国ならばいざ知らず、小国の戦争は全てそうだ。大国に小国が仕掛けた戦争など史上無い。平和を守る外交が通用していれば、皆平和を守る外交に励み、侵略されなかったはずだ。通用しないから征服された。戦争で焦土と化さない戦争など無い。当たり前のことを予言とは賛美過剰だ。空論を食って人は生きれない、即刻死亡だ。森を見れず木だけしか見えない半人前の空論など、報道に値しない。
また、金で買われた売国奴が空論を針小棒大にし、先人冒涜愚民化報道しているのだ。服従もせず、戦わずの不可能ねだりの空論報道は、愚民を生み国を滅ぼす。NHKは、日本国民から金を集金し日本を滅ぼす魂胆か。日本が滅べば当然NHKも消滅だ。巣くう売国奴を至急一掃しないと、NHK自身が消える事は常人であれば分かることだ。
広島長崎の原爆投下17年後のキューバ危機(1962年)でWW3を防ぎ世界を救ったのは、フルシチョフでもケネデイでもない、広島長崎の原爆犠牲者だ。フルシチョフもケネデイも脳裏に広島長崎が浮かび踏みとどまったのだ。「こういうときのために怖さを知るため二種類(ウラン235広島投下・プルトニュウム239長崎投下)の人体実験をした」と、詭弁を吐く愚者もいるだろうが、少なくとも米ソの国民は広島長崎で救われたことは事実だ。新たなWW3を防ぎ平和をもたらしているのも、平和の守護神となった広島長崎の原爆犠牲者のおかげだ。すくなくとも全ての国の指導者は、広島長崎を訪れ、今は平和の守護神となった原爆犠牲者に、感謝の意を表し、惨状を目の当たりにする責任がある。人類も感謝の意を表する責任がある。
全ての国の指導者を呼び、原爆の現実を脳裏に刻ませること、各国全てに原爆資料館を作り、人類に原爆の現実を刻ませること、風化させず発信し続け語り続けること、これが新たな世界平和を生む。そしてこれが、人類史上初めての被爆国日本に与えられた重大な使命でもあり、原爆犠牲者の総意でもある。人類の平和は日本の双肩にかかっていると言ってもけして過言ではない。キューバ危機を回避させたのは、日本の原爆犠牲者だ。
使命も果たさず「戦争反対」などと常識(戦争賛成など誰もいない)の愚かな連呼を繰り返し、WW3を防ぎ人類の平和の守護神となった原爆犠牲者を政争の具にし、冒涜する、平和とは名ばかりの似非団体など不要である。似非団体などは至急解散し、被爆国日本に与えられた使命を果たす、原爆犠牲者の総意に基ずく、真の平和団体を立ち上げるべきだ。空論者の集まり似非団体ではなく、政治団体を排除し実利に基づき活動する真の平和団体にすべきだ。原爆犠牲者が嘆くような反日政治団体の隠れ家は不要。反日政治団体だから、下記のような侮辱屈辱国辱となるのだ。
広島原爆慰霊碑碑文『安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから』には謝罪がない。原爆で虐殺された人災犠牲者の「慰霊(死者の霊魂を慰める)」の「碑文」で、天災の犠牲者の「碑文」ではない。虐殺(人災)した「当事者」が慰霊の場合、「犠牲者」に謝罪し、死者の霊魂を慰めるのが「慰霊」で、人災で加害者の「謝罪」の無い「慰霊」など無い。
「過ち」の主語が人類やアメリカなら、無辜の老若男女の市民を虐殺し尽くし、さらに生存者をも、阿鼻叫喚に叩き落しておきながら一言も、謝罪もせず、殺した本人が殺した相手に「安らかに眠って下さい」は原爆慰霊碑碑文ではなく、原爆犠牲者嘲笑「ちょうしょう(あざけって笑いものにする)」碑文となる。「安らかに眠って下さい」は、殺した本人が殺した相手に使う言葉ではない。使った場合は「嘲笑」の意味しかない。なぜなら「安らかに眠る」ことが出来るのは、殺した本人を霊が赦して、初めて霊は眠れるのだ。霊が赦すかどうかも分からないのに、霊が赦したと、かってに決め付けて「眠れ」は、死者への「冒涜」、ただそれだけである。加害者が被害者に対する慰霊の言葉は、ひたすらの謝罪しかない。ひたすらの謝罪の後に赦すか赦さないかを決めるのは霊で、加害者ではない。加害者に決定権など無いのだ。主語が人類やアメリカの慰霊碑文なら、さも許しを得たかのような「安らかに眠って下さい」は、使えない。どんなにこじつけても、加害者の慰霊碑文として使えないこの言葉が、すべてを否定している。
「安らかに眠って下さい」は、加害者の慰霊碑文として使えない言葉なのだ原爆犠牲者に一言の謝罪も無く、ひたすら今後の誓いだけの碑文、「過ち」の主語は、「日本」だけしかない。したがって「過ち」とは原子爆弾投下ではなく、「過ち」とは大東亜戦争となる。犠牲者の身内「日本」が、「過ち」を犯し、皆様を巻き添えにし、死に至らしめましたが、「過ち」を「繰り返しませぬから」と誓います。誓いましたのでどうか子孫のことは心配せず「安らかに眠って下さい」となり、慰霊の碑文となる。
コードを解くと「日本は大東亜戦争という過ちを犯したため、原子爆弾を投下され、皆さんが犠牲になった。大東亜戦争という過ちを繰り返さないことを誓いましたので、どうか子孫のことは心配せず、原爆犠牲者の皆さん安らかに眠って下さい」となる。文意は、「過ちを犯した(原因は日本)から原子爆弾を投下され、原爆犠牲者(結果)となった」となり、全ての責任は大東亜戦争開戦の日本に有とした、原爆使用責任回避の強調文である。すなわちこの碑文は、原爆慰霊碑碑文などと言う立派なものではない。責任者回避のための言い逃れ、言い訳碑文である。原爆慰霊碑碑文などではない、原爆使用詭弁碑文だ。さらにこの碑文には、原子爆弾投下否定など、どこにも書いていない、皆無である。この内容は「過ちを犯せば原子爆弾を投下する」。なんと原爆虐殺正当化、原子爆弾攻撃肯定碑文なのだ。「核廃絶」ではなく「原子爆弾恐喝」碑文「核恐喝」碑文なのだ。
こんな碑文の前でこれまで仰々しく「核廃絶」「戦争反対」を唱えてきたのだ。正に似非平和団体と言える。心があるなら謝罪し解散せよ、原爆犠牲者冒涜もはなはだしい限りだ。こんな碑文で原爆犠牲者が浮かばれるはずなどない。
これまでご丁寧に、「核」は「恐喝」に使えることを毎年世界に発信してきたのだ。「核」が「拡散」するのも道理だ。
『安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから』は、全世界の戦争犠牲者に対しての人類の平和祈願の碑文なら、「全世界の戦争犠牲者の皆さん、人類はこの過ちを二度と繰り返さないことを誓いますので、安らかに眠って下さい」となり、何も問題は無い。
しかし原爆慰霊碑碑文となった場合は、前述の解釈となり、「原爆虐殺正当化碑文」と化す。対象が、全世界の戦争犠牲者なのか、原爆犠牲者なのかで意味が変貌するのだ。全世界の戦争犠牲者慰霊碑文なのか、原爆犠牲者慰霊碑文なのかで、本意が豹変する。
原爆犠牲者慰霊碑文と見極めての1952年11月5日、ラダ・ビノード・パール博士の解釈
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話)著田中正明
原爆犠牲者慰霊碑文と全世界の戦争犠牲者慰霊碑文を混同した1952年11月10日雑賀忠義(碑文の撰文揮毫者広島大学教授)のパール判事への抗議文
「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」」『ヒロシマの記録ー年表・資料編』/『アメリカの影』p323)
原爆犠牲者慰霊碑文と見極めての解釈
東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成し、アジアの平和確立に寄与した功績で国連ハマーショルド賞を受賞したマレーシアのタンスリー・ガザリー・シャフェー元外務大臣も平成5年(1993)11月に来日した際、この原爆慰霊碑について次のように語っている。
「以前、広島を訪れた時、小学校の先生が原爆慰霊碑の前で子供達に『日本は昔悪い事をした。これはその記念碑だ』と教えていたのを見ました。それで広島市長に『原爆慰霊碑と原爆資料館は日本人が見るべきではありません。ワシントンに持っていき、アメリカ人に見せて、アメリカ人に反省させるべきではないでしょうか。原爆資料館がここにあるのは不適切だと思います』と言った所、広島市長達は真っ青になってしまったが、やがて彼らも私の意見に賛同してくれました。
それにしても日本人はなぜアメリカに対して異様なほど怯えているのか。敗戦国心理から早く脱却するべきではないだろうか」(『祖国と青年』平成6年1月号)
この場所は、原爆犠牲者に対しての原爆犠牲者慰霊の場で、全世界の戦争犠牲者慰霊の場ではない。混同した撰文者、雑賀忠義の間違いは、明々白々である。雑賀忠義は、被爆者だという。怨讐を無理に超えようとして対象を錯誤したのだ。被爆者ゆえの錯誤だ。波風立てず、すみやかにふさわしい場所に移動すれば、それでよい。
碑文変更反対派は皆、考えず鵜呑みし混同解釈しているのだ。どうしてもこの碑文を置きたいのであれば、前記のようなふさわしい場所に置けばよい。ここは「原爆死没者名簿」が納められた原爆犠牲者慰霊の場所だ。原爆犠牲者嘲笑碑と化す碑文は、不要。慰霊の対象が誰なのか考えれば氷解し、論争などに値しないことなのに、政治団体に扇動され、騒ぐのだ。鵜呑みは、愚人化するのだ。
正式名称は広島平和都市記念碑。しかし、原爆死没者慰霊碑、原爆慰霊碑、と呼称し、市民や県民や国民は、当初より錯誤を指摘していた。広島は、本意の慰霊(死者の霊魂を慰める)碑を、記念碑(世界市民としての誓い、宣言記念碑)と錯誤し、混同したのだ。犠牲者に謝罪し慰霊する場所で、謝罪も慰霊もせず、突然、宣言をしているのだ。宣言だから、記念碑と名付けたのだ。慰霊の場に慰霊碑も置かず突然の、宣言記念碑。錯誤を重ねた、正に広島錯誤記念碑と言える。原爆死没者に謝罪し、慰霊の場にそぐわない広島錯誤記念碑を移動し、至急国辱(広島の錯誤)を雪ぐ責任が、広島には在る。広島の錯誤がこれ以上世界に蔓延るのは、国辱以外の何物でもない。
数多の職責者は誰も気付かなかったのか、嘆かわしいことだ。占領者はとうの昔に去ったのだ。哀れを通り越して職責放棄に怒りをおぼえる。心あるなら、職責者は即時「原爆虐殺正当化碑文」を移動し、原爆犠牲者に謝罪せよ。そして職責者全員(故人は遺族)で浄財を出し、真の原爆慰霊碑と碑文を成し、職責者の責任を果たせ。碑文は国民から募ればよい。心あるなら、成せ。人は皆錯誤する、錯誤を自ら正せば、人は皆不問に付し、その勇気をたたえるだろう。自ら正さざれば、愚かな錯誤者として歴史に汚名を残す。自ら是正の勇気か、汚名か、どちらを子孫に残すかの選択は、あなた方だ。
ノーベル贋賞作家、NHK、平和団体、識者は、検証回路皆無の、単なるWGIP録音機だ。鵜呑みせず、知識を一度リセットし検証すれば、誰でも簡単に真実が現出する。立派な親から授かった己の頭を、似非の輩と同じ録音機にせず、検証機にし、似非を一掃し浄化しよう、子孫のために。護国の戦争は「過ち」などに非ず、生きとし生ける物の、自己保存の本能だ。
今年は愚民化碑文を詫び、「繰り返しませぬから」と誓おう。あの地獄をみれば、たとえ子孫でも「安らかに眠って下さい」などとなど、軽々しく言えるものではない。子孫でさえも、慰霊の言葉がみつからない、無いのだ。しかし人類は今も、救われ続けていることだけは確かだ。慰霊の言葉はみつからないが、この報告を慰霊の言葉とし、子孫は語りかけよう、たとえば下記のように。
原爆慰霊碑碑文
人類の過誤赦(ゆる)してください
人類は終わりを見ました
人類は永久(とわ)を誓いました
人類は救われました
人類は忘れません
人類に御加護を