しばらく選挙の遊説の話で立ち止まりましたが、少し時間を進めてみたいと思います。
マインドコントロールが完成した私は、熱心な活動家になりました。
選挙があればもちろん会社の上司にもFを頼むような勇敢さも身につけましたし、
当時、会友運動というのがあり、友人を創価学会の会友にしようというものなのですが、
これも上司を会友にすることができました。
それなりに怖い上司たちだったのですが、マインドコントロールというのは恐ろしいですね。
上司は私の勢いに怖じ気づいたか、もしくは気の毒に思ってくれたのでしょう。
今思うと、本当に恥ずかしいし、赤面物です。できることなら土下座して謝りたいです。
どうしてここまでの大胆なことをしたのか、思い返してみました。
そうだ、文化祭があったからだ、と思い出しました。
創価学会にはその「伝統」として、文化祭というものがあります。
古くは六段円筒という人間ピラミッドのもっとすごい版とかをやったり、
甲子園のスタンドで人文字を展開したりと、そういう文化祭があったのです。
これらは「人材育成=大量マインドコントロールの機会」として設けられていました。
小さな頃からこれらの文化祭の映像を見せられ、創価学会の子どもたちは
「青年部になったらこれに出られるように頑張りなさい」と親や婦人部の人たちに言われて育ちます。
創価学会の文化祭は、未来部の子どもたちにとっては憧れのものでありました。
某大型ホールで開催される文化祭が決まったとき、私はスタンドのメンバーとして選ばれました。
スタンドで色のついた板を操作しながら、イヤホンで無線の指示を受け、さまざまな絵や文字などを作っていくのです。
北朝鮮でそれっぽいのをやってましたが、あんな感じです。
ホールのアリーナ部分では、これまた北朝鮮っぽい組み体操や、女子部によるダンスや
創価学会芸術部の音楽演奏などが行われます。
これらはプロの人たちも関わっているので、参加した私たちもわくわくするような演出でした。
スタンドをびっしり埋め尽くした人文字隊だけで数千人。
その他参加者も数千人いるでしょう。
こうした実際の出場者の影には、その何倍もの裏方さんの存在がありました。
創価学会はこの裏方さんたちにも折伏や(聖教)新聞啓蒙などの過酷なノルマを与え、表舞台の参加者たちと同じ戦いを求めます。
「裏方も主役」ということを教えたいようなのですが、本当のところは「裏方もノルマは同じ」ということなのだと思います。
裏方さんは舞台を作る人や照明の人、さまざまな演出のナレーションを考える人、キャッチフレーズを考える人、
ロゴみたいなのもあったので、そういったもののデザイン。衣装のデザイン、衣装を作る人、音楽を編集する人などなど……。
すべてボランティアです。安上がりです。相変わらずコスパ抜群です。
また、スタンドの人文字部隊の練習の責任者、踊りの指導者、組み体操にも指導者が何人もいるでしょう。
こうした莫大な裏方の人たちにも、創価学会は「裏方も主役」として「同じノルマ」を強制するのです。
実際に出場する私たちは仕方ないにしても、
膨大な数の裏方の人までしっかりマインドコントロールする機会にしてしまっているのです。
「骨までしゃぶり尽くす」という言葉が浮かんでしまいました。
練習は、もうすでに遊説で苦しい練習を乗り越えていたので、それよりもさらに人数が増える文化祭では
さほど苦痛ではありませんでした。まだ遊説の時に比べると、開放感のようなものがありました。
しかし問題もありました。練習会場がものすごく田舎で不便な場所にあったのです。
練習会場が遠いのに、会社からいったん地元駅まで戻って車に乗って会場へ向かっていた私は、
練習担当のお姉さんに激しく非難されました。
でも、会社から練習会場へ電車とバスで行けば、確かに練習時間に間に合うように着くことができます。
いったん地元駅まで戻り、そこで駅に止めてある車に乗って会場に向かうと、いつも少し遅れてしまうのです。
でも、電車で練習会場に行けば、練習が9時に終わってバスや電車を乗り継いで帰ると
田舎であまり本数がないこともあるのですが、夜の12時前ぐらいの帰宅になってしまうのです。
私は毎朝6時に家を出て出勤していますので、寝る時間が3時間とか4時間になってしまいます。
それではとても体が持たないと思いました。
でも、担当のお姉さんは「確実に練習に遅れない方法をとるのが、(池田)先生の弟子としてあるべき姿」と言い、
私に車では来ず、電車とバスを使い、練習開始時間に間に合うように来なさいと言いました。
ただ、私は知っていました。
他の担当者がついてる子たちは、私と同じようにいったん車を取りに家に戻って遅れても何も言われていないことを。
文化祭は参加者もかなりの数になりますし、指導担当のお姉さんの数も多いです。だからいろんな人が集まります。
私の担当だったお姉さんのように頑なな人もいるのです。
このままでは会社を辞めるか文化祭に出るのをやめるかの選択をしなければならなくなると思った私は、
お姉さんのさらに上の幹部の人に相談しました。
すると、意外なほどあっさりと「車で来てもいいよ」と言ってもらえました。
その練習会場の最大の責任者のお姉さんの言葉ですから、間違いはアリマセン。
「練習時間に遅れるけど大丈夫ですか?」と聞いても、「練習が終わって電車とバスで帰るのは確かに大変だし」と
かなり柔軟に考えてくれました。そして、担当のお姉さんには私がちゃんと「指導」しておくと。
そして「幹部にも間違いはあるから、おかしいと思ったらいつでも相談して」とも言ってくれました。
その日以来、担当のお姉さんからは私が車で会場へ行っても何も言われなくなりました。
私は「幹部の人でも間違えることがあるんだな。これからは鵜呑みにせず、いろんな人に相談しよう」と思いました。
この「幹部も同じ人なんだから、間違いがある」という言葉は、
実はマインドコントロールを解けにくくする必殺の呪文だったりすることに、このときの私はまだ気付いていませんでした。
創価学会で活動すると、本当にいろんな人に出会います。
創価学会員でも人格的に素晴らしいと思える人もいました。しかし、そうでない人は山のようにいました。
普通はそうしたそうではない人に会えば、創価学会やその教えに疑問を抱きます。
しかし、創価学会では「幹部も同じ人なのだから、間違えることもある」と教えます。
まるですべてを抱擁するかのような良い言葉ではありますが、
これは創価学会がすべての責任を放棄する言葉でもあります。
裏を返せば、それだけ「間違える」人が多いということでもあったりします。実際には「間違いだらけ」だったりします。
「幹部でも間違えることはある」この恐るべき呪文のおかげで、幹部の態度に疑問を抱いたとしても、
創価学会の組織や教義にまで疑問を抱くことができない人を増やしてしまっているのです。
本当は創価学会の教義や組織のあり方がおかしいのに、すべての責任を幹部個人の人間的な未熟さの問題にすり替え、
一切の責任を創価学会や池田さんに向けさせないようにしてしまうのです。
「幹部でも間違えることがある」というこの言葉は、たとえば
「自分以外のすべての人が間違っていても、創価学会と(池田)先生は正しい」ということを正当化する
「すべてのおかしな幹部の行動、行為に疑問を抱く心を無効化してしまう」恐るべきザオリク級の呪文なのです。
マインドコントロールが完成した私は、熱心な活動家になりました。
選挙があればもちろん会社の上司にもFを頼むような勇敢さも身につけましたし、
当時、会友運動というのがあり、友人を創価学会の会友にしようというものなのですが、
これも上司を会友にすることができました。
それなりに怖い上司たちだったのですが、マインドコントロールというのは恐ろしいですね。
上司は私の勢いに怖じ気づいたか、もしくは気の毒に思ってくれたのでしょう。
今思うと、本当に恥ずかしいし、赤面物です。できることなら土下座して謝りたいです。
どうしてここまでの大胆なことをしたのか、思い返してみました。
そうだ、文化祭があったからだ、と思い出しました。
創価学会にはその「伝統」として、文化祭というものがあります。
古くは六段円筒という人間ピラミッドのもっとすごい版とかをやったり、
甲子園のスタンドで人文字を展開したりと、そういう文化祭があったのです。
これらは「人材育成=大量マインドコントロールの機会」として設けられていました。
小さな頃からこれらの文化祭の映像を見せられ、創価学会の子どもたちは
「青年部になったらこれに出られるように頑張りなさい」と親や婦人部の人たちに言われて育ちます。
創価学会の文化祭は、未来部の子どもたちにとっては憧れのものでありました。
某大型ホールで開催される文化祭が決まったとき、私はスタンドのメンバーとして選ばれました。
スタンドで色のついた板を操作しながら、イヤホンで無線の指示を受け、さまざまな絵や文字などを作っていくのです。
北朝鮮でそれっぽいのをやってましたが、あんな感じです。
ホールのアリーナ部分では、これまた北朝鮮っぽい組み体操や、女子部によるダンスや
創価学会芸術部の音楽演奏などが行われます。
これらはプロの人たちも関わっているので、参加した私たちもわくわくするような演出でした。
スタンドをびっしり埋め尽くした人文字隊だけで数千人。
その他参加者も数千人いるでしょう。
こうした実際の出場者の影には、その何倍もの裏方さんの存在がありました。
創価学会はこの裏方さんたちにも折伏や(聖教)新聞啓蒙などの過酷なノルマを与え、表舞台の参加者たちと同じ戦いを求めます。
「裏方も主役」ということを教えたいようなのですが、本当のところは「裏方もノルマは同じ」ということなのだと思います。
裏方さんは舞台を作る人や照明の人、さまざまな演出のナレーションを考える人、キャッチフレーズを考える人、
ロゴみたいなのもあったので、そういったもののデザイン。衣装のデザイン、衣装を作る人、音楽を編集する人などなど……。
すべてボランティアです。安上がりです。相変わらずコスパ抜群です。
また、スタンドの人文字部隊の練習の責任者、踊りの指導者、組み体操にも指導者が何人もいるでしょう。
こうした莫大な裏方の人たちにも、創価学会は「裏方も主役」として「同じノルマ」を強制するのです。
実際に出場する私たちは仕方ないにしても、
膨大な数の裏方の人までしっかりマインドコントロールする機会にしてしまっているのです。
「骨までしゃぶり尽くす」という言葉が浮かんでしまいました。
練習は、もうすでに遊説で苦しい練習を乗り越えていたので、それよりもさらに人数が増える文化祭では
さほど苦痛ではありませんでした。まだ遊説の時に比べると、開放感のようなものがありました。
しかし問題もありました。練習会場がものすごく田舎で不便な場所にあったのです。
練習会場が遠いのに、会社からいったん地元駅まで戻って車に乗って会場へ向かっていた私は、
練習担当のお姉さんに激しく非難されました。
でも、会社から練習会場へ電車とバスで行けば、確かに練習時間に間に合うように着くことができます。
いったん地元駅まで戻り、そこで駅に止めてある車に乗って会場に向かうと、いつも少し遅れてしまうのです。
でも、電車で練習会場に行けば、練習が9時に終わってバスや電車を乗り継いで帰ると
田舎であまり本数がないこともあるのですが、夜の12時前ぐらいの帰宅になってしまうのです。
私は毎朝6時に家を出て出勤していますので、寝る時間が3時間とか4時間になってしまいます。
それではとても体が持たないと思いました。
でも、担当のお姉さんは「確実に練習に遅れない方法をとるのが、(池田)先生の弟子としてあるべき姿」と言い、
私に車では来ず、電車とバスを使い、練習開始時間に間に合うように来なさいと言いました。
ただ、私は知っていました。
他の担当者がついてる子たちは、私と同じようにいったん車を取りに家に戻って遅れても何も言われていないことを。
文化祭は参加者もかなりの数になりますし、指導担当のお姉さんの数も多いです。だからいろんな人が集まります。
私の担当だったお姉さんのように頑なな人もいるのです。
このままでは会社を辞めるか文化祭に出るのをやめるかの選択をしなければならなくなると思った私は、
お姉さんのさらに上の幹部の人に相談しました。
すると、意外なほどあっさりと「車で来てもいいよ」と言ってもらえました。
その練習会場の最大の責任者のお姉さんの言葉ですから、間違いはアリマセン。
「練習時間に遅れるけど大丈夫ですか?」と聞いても、「練習が終わって電車とバスで帰るのは確かに大変だし」と
かなり柔軟に考えてくれました。そして、担当のお姉さんには私がちゃんと「指導」しておくと。
そして「幹部にも間違いはあるから、おかしいと思ったらいつでも相談して」とも言ってくれました。
その日以来、担当のお姉さんからは私が車で会場へ行っても何も言われなくなりました。
私は「幹部の人でも間違えることがあるんだな。これからは鵜呑みにせず、いろんな人に相談しよう」と思いました。
この「幹部も同じ人なんだから、間違いがある」という言葉は、
実はマインドコントロールを解けにくくする必殺の呪文だったりすることに、このときの私はまだ気付いていませんでした。
創価学会で活動すると、本当にいろんな人に出会います。
創価学会員でも人格的に素晴らしいと思える人もいました。しかし、そうでない人は山のようにいました。
普通はそうしたそうではない人に会えば、創価学会やその教えに疑問を抱きます。
しかし、創価学会では「幹部も同じ人なのだから、間違えることもある」と教えます。
まるですべてを抱擁するかのような良い言葉ではありますが、
これは創価学会がすべての責任を放棄する言葉でもあります。
裏を返せば、それだけ「間違える」人が多いということでもあったりします。実際には「間違いだらけ」だったりします。
「幹部でも間違えることはある」この恐るべき呪文のおかげで、幹部の態度に疑問を抱いたとしても、
創価学会の組織や教義にまで疑問を抱くことができない人を増やしてしまっているのです。
本当は創価学会の教義や組織のあり方がおかしいのに、すべての責任を幹部個人の人間的な未熟さの問題にすり替え、
一切の責任を創価学会や池田さんに向けさせないようにしてしまうのです。
「幹部でも間違えることがある」というこの言葉は、たとえば
「自分以外のすべての人が間違っていても、創価学会と(池田)先生は正しい」ということを正当化する
「すべてのおかしな幹部の行動、行為に疑問を抱く心を無効化してしまう」恐るべきザオリク級の呪文なのです。