いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

霊的戦い:子供が病気にかかったが、私は神様の特別な恵みを見ました(I)

2019-09-26 19:06:13 | 賛美の心

  (あらすじ)神の新たな働きを受け入れて間もなく、サタンからの試練が相次いで彼女に降りかかりました。彼女の娘二人は共に病に罹ってしまいましたが、彼女は神の御言葉と兄弟姉妹の交流を通じてサタンの害悪と卑劣さを見抜き、祝福を得ようとしていた自分自身の動機についてもある程度理解することができました。娘たちは病に罹ってしまったものの、彼女はこの体験を通じて神の違った種類の恵みを知ったと心から感じたのです。

寄稿家:Lian Yan(アメリカ)

  「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブの手紙1章12節)

  窓の外では、夜空に明るい月がかかり、夜の静けさの中には日中の喧騒と騒音はありませんでした。それはとても平安な夜でした。私の娘はベッドの中にいました。彼女はしばらくの間、ぐっすりと眠っていました。彼女の顔に浮かぶ愛らしい笑顔を見ながら、私は彼女が病と戦った様子を相次いで思い起こしました。すると、様々な感情が心にこみ上げてきました……

幸運にも主の再臨をお迎えできました

  2018年4月、私は幸運にも主が再臨なさるという知らせを耳にして、しばらく探求し、調査した後、喜んで終わりの日の全能神の働きを受け入れました。私は世界中の人が読んで観賞できるようにインターネット上に掲載されている神の御言葉をたくさん読み、世の終わりの日の神の働きの証言をした様々な福音映画やその他の動画を見ました。私は終わりの日の神の裁きの働きが完結に近づいていることをその時初めて知りました。私は真理をもっと理解しようと、熱心に、渇望するように神の御言葉を読み、福音映画を見て、集会に参加しました。私は心がとても安らぎ、最高の気分がしました。

  ある時の集会の場で、兄弟姉妹たちはある説教を読み上げました、「終わりの日の神の働きの中で、更なる試練が人々に降りかかります。それはどうしてでしょう?それはサタンが人類を堕落させた上に、神の経営計画を妨害するために人間たちを神からもぎ取ることを企んでいるからです。これがサタンの目的です。神は人類を救うこと、そして人間をサタンの手から取り戻し、完全にし、神に立ち返らせることを望んでおられます。このため、霊的世界の戦いはとても凄まじいものであり、人類はその焦点となっているのです。人々が神の働きを通じて試練を受けるのがごく普通なことであるのはこのためです。神は人類を救おうとされますが、サタンは断固として人類を必ず堕落させるつもりでいます。サタンは簡単には諦めません。ならば、神はこの状況の中で人々を救うために何がおできになるのでしょうか?神はサタンの試練が人々に降りかかることを許す必要があり、それを通じて神はサタンの策略を暴露し、人々がそれを見抜き、それによって神の御言葉を受け入れ、神の側に立ち、神に立ち返り、神に従えるようにすることがおできになります。これは堕落した人類が本当に救いを受けるための唯一の手段です。このようにして神は人類を救ってくださるのです。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教 第十巻』の「御言葉『神の働き、神の性質、そして神自身 2』に関する説教(II)」より)。

  これを読んだ後、ジン・ヤン姉妹はこう話しました:「私たちが今、終わりの日の全能神の働きを受け入れることができるのは、神の特別なお引き上げと恵みのおかげです。終わりの日のキリスト、全能神は人々が救いを得ることができるように全ての真理を仰せられ、神の家を起点に裁きの働きをされました。神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れてのみ、私たちの堕落した性質は変わり、清められることができます。これは私たちがサタンの影響を完全に脱却し、神に完全にしていただくことができる唯一の方法です。神は私たちの愛であり、救いであります。しかし、サタンは失敗を好みません。それ故に、サタンは私たちを攻撃し、試すためにありとあらゆる状況、人々、出来事、そして物事を引き起こしているのです。時には私たちの家族を通じて私たちの邪魔をし、時には牧師と長老の広める虚偽を使って私たちを困惑させ、または私たちの家庭に不幸をもたらして災いを引き起こします。これは私たちを全能神から引き離す試みであり、そうすることで私たちを続けて弄び、傷つけようとしているのです。しかし、神の知恵はサタンの策略に基づいて働き、神はサタンの誘惑が私たちに臨むことを許し、それは神が私たちに対する試練でもあり、私たちの霊的背丈が成長することができ、人類を堕落させ、貪り食うサタンの邪悪な性質を見抜き、心の中からサタンを見捨て、更に神に従う信仰を固めることもできます。そのため、霊的戦いは真理を追い求める人にとって、救いと愛でもあります。

  この姉妹の交流を聞いた私は、完全に理解してはいなかったものの、強く心を動かされました。私は自分の人生の中で主の再臨を受け入れることができたこと、そして神に清めていただき、完全にしていただける機会を得ていたことがどれだけ素晴らしい恵みであるかと考えました。今後、どのような状況に直面しても、信仰を持ち続け、サタンの支配下には戻らず、神の側に立ち、神の救いの業を受け入れると、心の中で誓いました。

娘たちの発病

  ある日、私の次女が突然病気になりました。彼女は高熱を出して咳をしていました。最初は薬を少し飲ませておけば大丈夫だろうと思っていたのですが、意外なことに、彼女の咳は夜になる前に悪化していたのです。私はサタンの試練が自分に降りかかってきて、神からも試されていることに気が付いたので、神に不平を言うことができませんでした。しかし、それでも私は少し弱気になってしまいました。私は心配と不安に駆られながらこう考えました。「ああ、神よ!どうして私を病気にしてくださらなかったんですか?私の娘はまだ1歳です。こんな高熱が出ていたら私の娘は重篤にならないでしょうか?このような酷い咳をしていたら肺炎になってしまうのではないでしょうか?私の夫は今ここにいません。何か起こったら私はどうすれば良いのでしょうか?」心配な気持が次から次へと頭の中に押し寄せてきました。丁度その時でした、海外にいる13歳の娘から電話があり、彼女は弱々しい声でこう言ったのです:「お母さん、私病気なの。気分がすごく悪くて、泣きそうだわ……」私の娘たちは同時に病気に罹っていたのです。私は非常に弱気になってしまいました。私は心の中で格闘し続けました:「どうして娘が二人共病気なの?薬は効かないし、一体何が起こっているの?」その時、心の中で僅かに残っていた信仰が崩れ去り、私は涙しながら娘たちを守ってくださらなかったと言って神を非難してしまったのです。

  私の娘たちの状況を知ったジン・ヤン姉妹は、すぐさま私の所にやって来て、娘たちのために祈りを捧げてくれました。彼女は神の御言葉のこの節を私に読んでもくれました。「神は業を行い、人間を慈しみ、見守るが、サタンは常に神の働きの邪魔をする。神が大事にする人間を、サタンも見ていてつけ回す。神がその人間を求めると、サタンは持てる力の全てでどんなことでもして神の行うことを阻もうとし、隠された目的を達成するため、あらゆる邪悪な方法で神の業を試し、邪魔し、挫折させようとする。サタンの目的は何であろうか。サタンは神が人間を得られなくなることを求めている。サタンは神が求める人間を求め、その者を自分のものとして支配し、掌握してサタンを崇拝させ、サタンと共に邪悪なことを行わせることを求めている。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないか。」(「唯一の神自身 4」より)「神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある──その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。」(「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

  彼女はこう話しました。「神の御言葉からサタンは神の敵であり、神が働いて救おうとされる全ての人を邪魔して妨害するためにありとあらゆる策を試みるということが分かります。これはその邪悪な性質が決めていることなのです。今あなたの子供たちが病に侵されているのはサタンが私たちを試しているが故のことです。サタンは私たちが自分の子供たちに対して深い愛情を持っていることを知っているので、私たちが傷つきやすい所を攻撃してきているのです。サタンはあなたの子供たちを病気にして、私たちを妨害し、私たちが神を非難し、神への信仰を失い、神から離れ、神に背くように仕向けようとしているのです。これより、サタンがどれだけ卑劣で邪悪であるかということが分かります。姉妹、このような事態に遭遇するのは霊的戦いとの繋がりがあります。これはサタンからの試練なのです。私たちはサタンの策略を見抜いて神の証を立てなければなりません。同時に、これは神からの試練でもあり、神の御前に引き上げられる人全員が通らなければならない道でもあります。試練を通じてのみ、その人の信仰の真偽、そしてその人が太って豊かな実であるのか、それとも実のないもみがらであるのかが明らかにされます。困難な状況を強いられない限り、私たちは誰もが自分たちのことを神に最も献身的で、かつ忠実な人とみなしますが、本当の霊的背丈は試練に直面する中で明らかにされるのです。これにより、私たちは自分の短所と欠陥に気が付き、これを通じて霊的な成長を遂げます。これ故に、神はサタンが私たちを試すことをお許しになるのです。このような働きは私たちにとって非常に有意義なものなのです。姉妹、あなたの子供たちの運命は神の御手の中にあり、彼女たちの病も同じなのです。私たちは子供たちを神に託す必要があり、彼女たちの病がどういう結果になろうとも、神を非難してはならないのです。神の采配に服従してのみ、私たちはサタンを辱め、神を喜ばせることができるのです。」

  私はこう言いました。「姉妹、あなたの交流は、これがサタンによる妨害であること、そしてサタンは私の子供たちの病気を利用して私に神を疑わせ、神に背かせようとしていることに気付かせてくれました。サタンは本当に邪悪です!今日神の御言葉を読んでいなかったら、私は神を非難しながら生き、神に背き、サタンにのみ尽くされていたことでしょう。私は神の御導きに本当に感謝します!」

  ジン・ヤン姉妹は頷きながら嬉しそうにこう言いました:「神に感謝です!これによってあなたの子供たちの肉は苦しみ、私たちの心は悲しい思いをしましたが、このような状況を通じてこそ、私たちはサタンの邪悪で、卑劣な性質を見抜くことができるのです。これは実を得ているということです。姉妹、心配は無用です。あなたの子供たちは神の御手の中にあります。私たちが信仰を持ち続け、神のために前向きに証を立てようとしてさえいれば、サタンは恥じをかいて逃げて行くでしょう。」

  神の御言葉を読み、この姉妹と交流したことで、私はこの状況にどう対応すれば良いのかを理解しました。私は急いで神に祈りました:「ああ、神よ!この姉妹との交流を通じて真理をお伝えてくださり、ありがとうございます。私はサタンの邪悪さと卑劣さを知りました。ああ、神よ!真理を十分に理解していなかった私はサタンに騙されてしまい、あなたを非難する心を持つようになってしまいました。私はあなたに悔い改めます。神よ!あなたは私の子供たちの運命を握っておられます。私はあなたに2人の娘たちを託します。あなたの証を立てられるように、どうか私に力と信仰をお与えください。アーメン!」私はこう祈りを捧げた後、心が大分落ち着きました。

  その夜、急に次女の熱がまた上がりました。最初、私は軽くパニックになりましたが、神に祈って心を落ち着かせることができました。私が彼女に解熱剤をあげると、少し経った後に、彼女の熱は下がりました。その翌日、長女の熱も下がり、彼女の容態も少し改善しました。二人の容態が相次いで改善していくのを見た私は更に厚く神を信仰するようになりました。


正常な霊的生活について

2019-09-25 15:29:55 | 賛美の心

  信者は、正常な霊的生活を送らなければならない。これは神の言葉を体験し、現実に入るための基礎である。現在あなたがたが実践するあらゆる祈り、神への接近、歌、讃美、瞑想、神の言葉を理解しようとする努力は、正常な霊的生活の基準を満たしているであろうか。あなたがたのうち、これについて明確に理解している者はいない。正常な霊的生活とは、祈り、歌、教会生活、神の言葉を食べ飲みすることやその他の同様の実践に限らず、新鮮で活気ある霊的生活を送ることを指す。それは方法ではなく、結果である。ほとんどの人が、正常な霊的生活を送るためには、祈り、歌い、神の言葉を食べ飲みするか、神の言葉を理解しようと努める必要があると考えている。何かしらの結果があるか、真の理解があるかを問わず、単に外見的な運動を行うことに重点を置き、その結果には重点を置かない。彼らは、宗教儀式の中に生きる者であり、教会の中で生活している者ではなく、ましてや神の国の者ではない。この種の人の祈り、歌、神の言葉の飲み食いは、全て規則に従っており、彼らはそれらを行わずにはいられない。それらは流行に沿って行われ、自主的に行われたり、心から行われたりはしない。こういう人々がどれほど祈り歌おうとも、結果は何もないであろう。なぜなら、実践しているのは、宗教上の規則や儀式であり、神の言葉を実践しているのではないからである。方法に重点を置き、神の言葉を守るべき規則と捉えているだけであるので、神の言葉を実践しているのではなく、肉を満たし、他人に見せびらかすために行動している。こうした宗教的儀式と規則は、神ではなく人間に由来する。神は規則を守らず、律法を遵守することもない。神は日々新しいことを行い、実際的な働きを行う。毎朝の見張り、夕の祈り、食前の感謝の祈り、すべてに感謝する等の同じような実践に限定されている三自教会の人々のように、いかに多くを行ったとしても、あるいはいかに長時間行ったとしても、聖霊の働きを授かることはできないであろう。人間が規則の中で生活し、心が行動に注がれているのであれば、聖霊が働くことは一切ない。なぜなら、人々の心は規則に奪われ、人間的観念に奪われているからである。したがって、神は一切働きを行わず、人々はただひたすら律法の支配下で生活し、神の讃美を享受できないであろう。

  正常な霊的生活は、神の前で生活することである。祈りを捧げる時、心を神の前で静め、祈りにより聖霊の啓示を求め、神の言葉を知り、神の心を理解することができる。神の言葉を食べ飲みしている時、神がすぐに行うことを望んでいることについて一層明瞭かつ明晰に理解し、新たな実践の道を得て、保守性を回避することができるので、実践はすべていのちの進展を実現させることを目的とする。たとえば、祈りは美辞麗句を述べることや、自らの負い目を神の前でわめくことを目的とするものではなく、むしろ自らの霊を訓練し、神の前で自らの心を静め、万事に関する指導を求め、自らの心を日々新たな光へと惹かれてゆくものとし、受動的になったり怠惰になったりすることを避け、神の言葉を実践する正しい道へと進んでゆくことを目的とする。現在、ほとんどの人が方法に重点を置き、真理を求めていのちの進展を実現しようと努めていない。人々が逸脱するのは、この点である。また、新たな光を授かることができるにもかかわらず、方法が変わらない人々がいる。過去の宗教的観念を取り入れて今日の神の言葉を授かるので、彼らが受け容れるのは、宗教的観念が含まれる教義であり、現在の光を純粋に受け容れていない。したがって、彼らの実践は不純である。つまり、新たな名称の同じ事を行っており、実践がいかに優れていたとしても、それは依然として偽善的である。神は、毎日新たな事をするよう人々を導き、毎日新たな識見と認識を得て、時代遅れとなったり、単調となったりしないことを要求する。長年にわたり神を信仰してきたにもかかわらず、方法が全く変わっておらず、外見上は熱意に満ちて多忙で、神の前に来て静かな心で神の言葉を享受しないのであれば、何も得ることはできないであろう。神の新たな働きを授かる時、新たな計画を立てず、新たな方法で実践せず、新たな認識を求めるのではなく、過去の古い物事に固執し、自分の実践方法を変えること無く限られた量の新たな光のみを受けるのであれば、この種の人は名目上はこの流れにいながらも、聖霊の流れの外にいる宗教的なパリサイ人である。

  正常な霊的生活を送ることを望むのであれば、毎日新たな光を授かり、神の言葉の真の理解を追求し、真理に対する明晰さを達成しなければならない。あらゆる物事において実践の道が必要である。そして毎日神の言葉を読むことにより、新たな疑問が生まれ、自らの欠点を発見することができる。これにより、渇いて探し求める心が生まれ、その心により、あなたの存在の全体が動き始め、いつでも神の前で静まることができるようになり、遅れることを深く恐れるようになるであろう。この渇いた心、探し求める心、そして継続していのちに入るための覚悟ができれば、霊的生活への正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされることを受け容れることができ、進歩を望み、神により完全にされることを求める意志があり、神の言葉の一層深い理解を求め、超自然を追求せずに実際的な代償を払い、神の心への実際的配慮を示し、実際的にいのちに入り、自らの経験を一層正しく現実的なものとし、教義の空虚な言葉を求めず、また超自然の感覚を求めたり偉人を崇拝することもない人は全て、正常な霊的生活に入っている。こうした人々の行動はすべて、いのちのなかで一層の進展を実現することを目的とし、霊を新鮮で淀まない状態に維持し、常に前向きに入っていけるようにしようとする。たとえば、彼らが食前の祈りを捧げる時、それは強制されるのでなく、神の前で自らの心を静め、心で神に感謝し、神のために生きることを望み、自らの時間を神の手に委ね、神に協力し、神のために費やすことを望む。心を神の前で静めることができない場合、むしろ食事をせずに実践を続けるが、それは規則に従うことではなく、神の言葉を実践することである。食前の祈りを捧げる時に、意識的に何かの動作をして、これみよがしな人がいる。信心深く見えるかもしれないが、その胸中には「なぜこうしたことを実践する必要があるのか。祈りを捧げなくても大丈夫ではなかろうか。祈りを捧げても何も変わらないのだから、どうしてわざわざ祈るのか」といった疑念がある。こういう人は規則に従っており、口では神を満足させたいと言うが、心は神の前に来ていない。彼らがこのように祈るのは、神の前で心を静める実践のためではなく、むしろ他人を欺し、他人に見せるためである。まるで他者のためにとりなすが、自分自身はいのちに入ることができない牧師のように、純粋に偽善的である。宗教指導者そのものである。神は日々新たな言葉を述べ、新たな働きを行うが、あなたは日々規則に従い、神を欺こうとし、表層的に神と接している。それならば、あなたは神に反抗する者ではなかろうか。規則を守り、神に反抗しつつ、祝福を授かることができるであろうか。あなたには、神の罰がくだるのではなかろうか。

  神の働きは急速に拡大し、様々な宗派の宗教家や教会の礼拝を遵守する著名人を遥か彼方へと追放し、あなたがたのうちでことさら規則に従うことを好む専門家を四方八方へと追いやる。神の働きは延期不可能であり、何に依存することもなく、その進行が遅くなることもない。誰かを引っ張ったり、引きずったりしない。追随できない者は、たとえ何年従ってきたとしても見捨てられるであろう。どれほど資格のある古参であっても、規則に従うならば、排除されることは確実である。この種の人には、自己認識を得て、自ら進んで慎ましくし、旧来の物事に固執しないように勧める。自らの行動原理に従って他人に神の言葉を実践させることは、人々の心を掴むことではなかろうか。あなたの実践は規則に従い、人々に教会の礼拝を守るよう教えることである。あなたは常に自分の思い通りに人々に行動させるが、それは徒党を組んでいることではなかろうか。これは教会を分裂させていることではなかろうか。それならば、どうして厚かましくも神の心に配慮しているなどと言えるのであろうか。どのような資格があって、それが他人を完全にするためであると言えるのであろうか。そのような指導を続けるのであれば、それは人々に宗教儀礼を行うよう指導しているということではなかろうか。正常な霊的生活を送り、霊的な解放と自由を日々得ている人は、自由に神の言葉を実践し、神を満足させることができ、祈りを捧げている時も、単に儀礼や手順に従っているのではなく、遅れることなく日々新たな光を得ることができる。このような人が神の前で心を静めるために実践する時、心を神の前で真に静めることが可能であり、誰もそれを邪魔することはできず、誰も、どのような出来事や物事もその正常な霊的生活を制止することはできない。こうした実践は、人々に規則を与えて守らせることではなく、結果を得ることを目的とする。こうした実践は、規則を守ることではなく、人々のいのちにおける進展を目的とする。あなたが単に規則を守るだけの者であるならば、いのちは決して変わらないであろう。他の人々はこのような実践をするかも知れないし、あなたも最終的にはそうするのだが、それでは他の人々は聖霊の働きに遅れることなく追随できる一方で、あなたは聖霊の流れから排除されるであろう。それならば、あなたは自分を欺いているのではなかろうか。ここで述べた言葉の目的は、人々が神の前で心を静め、神と向き合い、神の働きが阻害されることなく人々に対して行われ、その結果を得られるようにすることである。

 

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偽キリストを見分けることを学んでこそ、主を迎えることができる

2019-09-24 20:00:42 | 賛美の心

  【編集者メモ】聖書には終わりの日には偽キリストが現れるという預言があります。では、主の再来を迎えつつ、偽キリストに警戒するにはどうすればよいでしょうか。用心して物事を避けるべきでしょうか。それとも神の声に注意深く耳を傾けるべきでしょうか。真偽を見分けるのが難しい時代に、主が来ると知らせる説教を聞いたときは、賢い乙女になり積極的に追求して調べるべきです。それが主の再来の迎え方です。

寄稿家:同心(マレーシア)

  今までに偽札を受け取ったことはありますか。多くの人が「ある」と答えるでしょう。私たちは偽札がはびこる時代に直面しているわけですが、偽札を受け取るのが怖いからといってお金を拒みますか。もちろん、拒まないでしょう。本物のお札と偽札とを見分けることができれば、むやみに警戒しなくてよいからです。では、主の再来を深く切望しているクリスチャンはどうでしょうか。偽キリストの出現問題をどのように扱うべきでしょうか。用心して物事を避けるべきでしょうか。それとも神の声に注意深く耳を傾けるべきでしょうか。このことは私たちが主を迎え入れられるか否かに関わっています。私はかつて偽キリストにだまされるのを警戒し、あやうく主を迎え入れる機会を逃すところでした。

  2017年12月のある日、叔母が教えに光があるからと言って、オンライン集会に誘ってくれました。叔母はその集会で、それまで聖書の中には答えが見つからなかった真理を幾つか理解し、神様の働きについてもある程度分かるようになったのでした。叔母はまた、私の従姉妹もこのオンライン集会に二年前から参加していると言いました。オンライン集会について聞き、興味がわいたので、私は迷わず誘いを受けました。初めて参加したときは時間がなく、簡単な会話だけで私は退出しました。後で叔母はこの教会は違うといつも繰り返し、嬉しそうに言いました。

  「主が戻って来られたのよ」

  「主が戻って来られたって?」

  この突然の知らせに私は驚いて目を見張り、叔母に尋ねました。

  「本当に?主はどこにいらっしゃるの?教えて」

  でも叔母は参加し始めてまだ二か月だったので、はっきりと説明できませんでした。姉妹の一人に聞くのに、次の集会を待たなくてはなりませんでした。

  その次のオンライン集会で、姉妹は主の再来に関係する預言をいくつか結びつけ、主イエスが既に再来しておられ、人類を裁き清めるため言葉を表す働きをするために受肉して来られていることを私に証ししてくれました。姉妹はさらに、神様の経営計画の目的、神様はいかにして人を救ってくださるのか、サタンはいかにして人類を堕落させたのか、人類はどうすれば罪を逃れて救いを得られるのか、人類の終着点といった真理の側面について私に話してくれました。神様の御言葉には権威と力があり、そのすべては真理であり神様の御声なのだと思いました。私の心はこの説教には聖霊の働きがあることを立証していました。なぜなら、これほど光を照らす説教ができる教派はないからです。それ以来、集会があるたびに仕事を終わらせるとまっすぐ叔母の家に行って姉妹の説教を聞きました。

  ある日の集会で、姉妹が讃美歌のビデオ「神は始まりであり、終わりである」を見せてくれました。ビデオの中の風景は荘厳で、出演している兄弟姉妹は生き生きとした声で歌っていました。歌詞も神様が所有するものと神様そのものを見事に解釈していました。私にとってそれは全く新しい体験でしたが、その画像はまるでどこかで見たことがあるかのように妙に懐かしく感じるのでした。それから姉妹は神様の名前について説教してくれました。神様は全能神という名を使って、終わりの日の人類の裁きと清めの働きをなさると言うのです。全能神の名前を聞いたとき、親しみの感覚はさらに強まりました。集会後、帰宅してWhatsAppを開きメッセージをチェックすると、所属教会の陳姉妹から「東方閃電の説教を聞いてはいけない」という注意書きと共に全能神教会のビデオが送られてきていました。私は「陳姉妹は何年も主を信じ、とても敬虔な信者に見えるのに、なぜ全能神教会の説教を聞かせたくないのだろう」と考えました。戸惑った私は、他に姉妹が送ってきたものを見てみました。それはすべて全能神教会を非難し、中傷する否定的なプロパガンダで、「5月28日の山東省招遠市の事件」の情報もありました。それを読んだ後、少し不安になりました。聖書に終わりの日には偽キリストが現れると書いてあったのを思い出し、私にはそれを見分けられないだろうからです。陳姉妹は長く主を信じていましたから、理由もなくこのようなものを送ってくるはずがありません。叔母はまだ主を信じて短い上、全能神教会と関わり始めてまだ二か月です。私は叔母が真理を理解していないために間違ったものを信じているのだと大変心配になりました。その夜、ベッドで横になりながら、何度も寝返りを打ちました。大きな葛藤を覚えたのです。私を導き、見分ける力を与えてください、と主に祈り求めました。

  翌日、5月28日の山東省招遠市の事件のビデオを叔母に送り、懸念を伝えました。

  「主イエスはおっしゃいました。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24:23-24) 終わりの日には偽キリストと偽預言者が大勢現れて人をだますから、引きずり込まれないように気をつけなくては」

  叔母は私の注意に取り合いませんでした。その夜、仕事の後、叔母が私の店に立ち寄って調べ続けるようにと説得してきましたが、私はだまされるのではないかと恐れて断りました。でも叔母はもっと話を聞くべきだと言い張り、電話で私と交わるようにと従姉妹に連絡したのです。従姉妹は言いました。

  「全能神が表された御言葉を読むと、それは力強い真理の施しであると、どんな人もこのような言葉を表すことはできないと感じるの。私たちの心は全能神教会には真理と聖霊の働きがあると立証している。それならば、なぜ調べるのをやめなきゃいけないの?疑念があるなら、追求して調べればいい。でも調べるのを止めるわけにはいかないのよ」

  私は、「従姉妹は全能神を二年前から信じているけれど、何も変なことは起きていない。それなら、私ももっと話を聞いてみよう」と考えました。

  オンライン集会に出ると、姉妹が言いました。

  「神様の働きを調べるときは、中国共産党の嘘と噂をもとに調べるのではなく、第一に全能神の働きが神様の現れと働きであるかどうか、そして全能神が表される御言葉が真理で神様の声であるのかどうかを調べなければなりません。中国共産党が何年も嘘をでっち上げて人々をだましてきたこと、その名は中国でも海外でも嫌悪されていることを、私たちはみんな知っています。中国共産党の本質を見通せる人の数は世界で日々増えていますし、もはや誰も党を信頼していません。中国共産党は無神論の党でもあり、何よりも邪悪で神に抵抗しています。また一党制を敷いていて、大小問わず、あらゆる組織、機関を支配していて、それぞれが中国共産党の専制を守るためにものを言い、活動しなければならないのです。中国共産党の法廷に司法の独立という概念はありません。中国共産党の判事に自主性はなく、中国共産党の指示に従って行動しなければなりません。『5月28日の山東省招遠市の事件』の審議をしたのは中国共産党の法廷です。公平で正当だったなんてことがあり得ますか。『5月28日の山東省招遠市の事件』の裁判のあいだ、容疑者は全員、『全能神教会に関わったことはなく、何のつながりもありません』、『国が厳しく取り締まっているのは趙維山の全能神であって、私たちの「全能神」ではありません』と法廷で明言しました。容疑者の誰一人として全能神教会の会員であるとは認めていません。ではなぜ中国共産党の判事は容疑者たちが教会員であると主張したのでしょうか。中国共産党が宗教的信仰を攻撃するために全能神教会を中傷していることは誰が見ても明らかでしょう」。


聖霊の働きとサタンの働き

2019-09-23 22:59:59 | 賛美の心

  霊における事柄を具体的にどのように把握するのか。聖霊はどのように人間の中で働くのか。サタンはどのように人間の中で働くのか。悪霊はどのように人間の中で働くのか。そしてこの働きはどのように現れるのか。何かがあなたに起こる時、それは聖霊から来ておりあなたはそれに従うべきなのか、あるいは拒否すべきなのか。人々の実際の行いは人間の意志によるものを多く生じさせるが、人々が常に信じているものは聖霊から来ている。悪霊から来るものもあるが、人々はそれが聖霊から生まれたものだと考える。時に聖霊は人々を内側から導くが、人々はそういった導きはサタンから来るものだと恐れ、実は聖霊の啓示であるにも関わらず従おうとしなかったりする。よって、識別力なしには、こういった経験があなたに起こっている時にそれを経験することはできない。そして識別力なしにいのちを得ることはできない。聖霊はどのようにして働くのか。悪霊はどのように働くのか。人の意志から来るものは何か。聖霊の導きと啓示とから生まれるものはなにか。もし人の内で行われる聖霊の働きの規則を理解するなら、あなたの知識は増し、日々の生活の中で識別することができるようになり、実際の経験の中で神を知るようになり、サタンを理解し識別できるようになり、神に従い、神を求めることにおいて混乱することもなくなるだろう。そして思考がはっきりとした、聖霊の働きに従う者となるだろう。

  聖霊の働きとは積極的な導きと前向きな啓示の一種だ。それは人々が受け身でいることを許さない。それは慰めをもたらし、信仰と決心を与え、人々が神によって完全な者となれるようにする。聖霊が働く時、人々は盛んに成長することができる。受け身でもなく、強制されることもなく、積極的に成長する。聖霊が働く時、人々は喜んで、自ら進んで従おうとし、謙虚になることを喜び、内側では痛みや弱さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志によって汚されず、人の考えによって汚されず、間違いなく人間的な欲望や動機に汚されないのである。人々が聖霊の働きを経験する時、彼らの内面は特に清い。聖霊の働きを所有する人々は神の愛、兄弟姉妹への愛を体現し、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。聖霊の働きによって触れられた人々は正常な人間性を持ち、人間らしさをもって常に真理を追い求めている。聖霊が人々の内側で働く時、彼らの状態はより良くなっていき、その人間性はより正常になっていく。そして彼らの協力は愚かなものの時もあるかもしれないが、彼らの動機は正しいものであり、彼らの成長は肯定的で、邪魔をしようとしたりはせず、心には悪意がないのだ。聖霊の働きとは正常で現実的なものであり、聖霊は、人の通常の生活における規則にしがたって働き、正常な人々の求めに応じて啓き、導く。聖霊が人々の内に働く時、聖霊は人々を通常の人が持つ必要に応じて導き啓示し、人々の必要に基づいて施す。そして聖霊は人々が欠いているもの、欠乏しているものに基づき前向きに導き、啓示する。聖霊が働く時、この働きは人の通常の生活での規則に調和して行われるものであり、人々が聖霊の働きを見ることができるのは現実の生活の中でのみである。もし、日常生活の中で、人々が前向きな状態であり、通常の霊的生活を送っているのなら、彼らは聖霊の働きを持っている。そういった状態の中では、神の言葉を飲食するなら信仰を得、祈るなら霊的に励まされ、彼らに何か起きたなら彼らは受け身にはならず、それが起きている最中に神が彼らに学ばせようと課している教訓が何なのか見ることができ、受け身でも脆弱な状態でもなく、現実の困難の中にあっても、神のすべての采配に自ら従おうとするのだ。

  聖霊の働きによって成し遂げられる効果とは何か。あなたは愚かかもしれないし、あなたの内には識別力がないかもしれないが、聖霊はあなたの内に信仰が生まれ、あなたがいつもどれほど神を愛しても愛しきれないと感じ、先にどのような大きな困難があろうとも自ら協力したいと思えるように働くだけなのだ。問題が起こり、それらが神から来ているのかサタンから来ているのかはっきりとはわからないのだが、あなたは待つことができ、受け身にも怠惰にもならない。これは聖霊の通常の働きである。聖霊が人々の内に働く際にも彼らは現実の困難に向き合い、時には涙し、乗り越えられない問題に直面することもあるが、これらはすべて聖霊の普通の働きの一段階だ。たとえ人々がそういったことを乗り越えることができなくても、またその時には弱く不平を言ったとしても、のちになって神を絶対的な信仰をもって愛することができるようになるのだ。受け身であったとしても、それが人々の普通の経験から遠ざけることはなく、他の人々がなんと言おうと、あるいはどう攻撃しようとも、彼らは神を愛することができるのだ。祈りの中では常に、かつて神に借りがあったと感じ、そして神を満足させよう、再びそういったことに遭遇したなら肉を放棄しようと決心するのである。この力は聖霊の働きが彼らの内にあることを示すものであるし、これこそが聖霊の働きの正常な状態なのである。

  サタンから来る働きとは何か。サタンから来る働きにおいては、人々のビジョンは曖昧で抽象的であり、正常な人間性を持たず、彼らの行動の背後にある動機は間違っている。そして神を愛したいと願いはしても、常に心に自責の念があり、そういった自責の念や思いが内で互いに干渉し、彼らのいのちの成長を制約し、神の前に正常な状態を持てないようにする。つまり、人々の内にサタンの働きが始まるやいなや、彼らの心は神の前に平安を失い、自分でもどうしたら良いかわからず、兄弟姉妹の集まりが目に入れば逃げたくなり、他の人が祈る時に目を閉じることができない。悪霊の働きは人と神との正常な関係を壊し、人々がそれまで持っていたビジョンや、以前のいのちの入りへの道を混乱させる。心の中で彼らは神に近くことが決してできず、いつも彼らに分裂を引き起こし、足かせとなるような事が起こり、心は平安を見つけられず、神への愛の力はなくなり、霊が沈んでいく。こういったことがサタンの働きの顕現なのだ。サタンの働きは次のような事柄に現れる。堅く立っていることができずに証しとなることができず、それがあなたを神の前に落ち度のある者、神への忠実さを全く持たない者とさせる。サタンからの干渉により、あなたは自らの内に神への愛や忠実さを失う。あなたは神との正常な関係を剥ぎ取られ、真理や自らを改善することを求めず、後戻りし、受け身となり、自分を甘やかし、罪が広がるのをなすがままにし、罪を憎まなくなる。さらに、サタンからの干渉はあなたをふしだらにし、神があなたの中で触れたものは消えてしまう。そしてあなたは、神について不平を言って神に対抗し、そして神を疑うようになり、そこにはさらにあなたが神を離れる危険性もある。このすべてはサタンの働きである。

  日常生活であなたに何かが起きる際、あなたはそれが聖霊の働きから来るものなのか、サタンの働きから来るものなのか、どのように識別すべきだろうか。人々の状態が正常な時には、彼らの霊的な生活と肉における生活は正常であり、理性も正常で秩序がある。一般的には、彼らがこの時点で経験し、自らの内で知るようになることは聖霊に触れられたことによるものだと言える(神の言葉を飲食する際に洞察力を持ち、浅い認識を所有すること、あるいは何かが起きた時に忠実であること、何かが起きた時に神を愛する力があること—これらは皆、聖霊によるものである)。人の内における聖霊の働きは特に正常だ。人はそれを感じられないし、人自身から発したもののように思われるが、実際にはそれは聖霊の働きなのだ。日常生活では、聖霊はすべての人の内側に大きなことも小さなことも両方行われ、単にこの働きの度合いが様々であるというだけのことだ。ある人々は力量があり、物事を素早く理解し、聖霊による啓示は彼らの中で特に大きい。一方である人々は力量が乏しく、物事を理解するのにより時間がかかるが、聖霊は彼らの内側にも触れられ、彼らもまた神への忠実を遂げることができるようになる。聖霊は神を求める人々すべての中に働かれる。日常生活において人々が神に反対せず、あるいは反抗せず、神の経営に調和しないことは行わず、神の働きに干渉しないのであれば、神の霊は一人ひとりのうちに大なり小なり働かれ、彼らに触れ、啓示を与え、信仰を与え、力を与えて、彼らが怠惰になって肉の楽しみをむさぼるのではなく、積極的に成長するようにさせ、自ら進んで真理を実践しようとし、神の言葉を慕い求めるようにと動かすのだ。このすべては聖霊から来る働きである。

  人々の状態が正常でない時、彼らは聖霊に見捨てられ、内側には不平があり、動機は間違っており、怠惰で、肉の欲にふけり、彼らの心は真理に敵対する。これらはすべてサタンから来るものだ。人々の状態が正常でない時、心の中が暗く、正常な理性を失っている時、聖霊に見捨てられ、自分の内に神を感じられない時、サタンが彼らの内側に働いている。人々の心のうちに常に力があり、常に神を愛するなら、物事が起きた場合にそれは通常聖霊によるものであり、彼らが出会う人々は神の采配によるものである。つまり、あなたの状態が正常である時、聖霊の偉大な働きの中にいる時であれば、サタンがあなたを揺るがすことは不可能だ。この礎に立っているならば、全てのものは聖霊によってもたらされると言える。そして、誤った考えを持ってはいても、あなたがたはそれを放棄することができ、従うことはない。これは全て聖霊の働きから来る。サタンが干渉するのはどのような状況だろうか。あなたの状態が正常でなく、神に触れられておらず、神があなたに働いておらず、心のうちは乾燥して不毛となっており、神に祈っても何もつかめず、神の言葉を飲食しても導き示されることも光に照らされることもない時―そういった時には、サタンがあなたの内に働きかけるのは簡単だ。言い換えれば、聖霊に見捨てられ、あなたが神を感じられない時には、サタンの誘惑による多くの事が起こる。サタンは聖霊が働くのと同時に働き、聖霊が人の内側に触れると同時に、人に干渉する。しかしそういった際には、聖霊の働きが先導的な立場にあり、正常な状態の人々は勝利することができる。これは聖霊の働きのサタンの働きに対する勝利である。聖霊が働く時、サタンの働きはほとんどなされない。聖霊が働く時、人々の中にはまだ不従順な態度があり、もともと彼らが持っていたものがまだそこにある。しかし聖霊の働きにより、人々は簡単に自分たちの本質的な事柄や神に対する反抗的な態度について―そういったものを自分たちの中から取り除いていけるのは徐々に起こる働きの中でのみだが―知ることができるのである。聖霊の働きは特に普通なものであり、聖霊が人々の中に働く時、人々はなお問題を抱え、泣き、苦しみ、まだ弱くて、はっきりとはわからないことがたくさんあるのだが、それでもそういった状態にある時、人々は信仰が後退しないよう自らを制止させ、神を愛することができるのだ。そして泣いたり、心が苦しくなったりするが、彼らはなお神を賛美することができる。聖霊の働きは特に普通のことであり、超自然的なことは全くない。ほとんどの人々は、聖霊が働かれ始めるとすぐにその状態が変化し、彼らの本質的な物は取り除かれると信じている。そういった考え方は誤りである。聖霊が人の内に働く時、人の受動的な性質はまだそこにあって、その人の霊的背丈は変わっていないのだが、聖霊によって光を与えられ、啓かれているので、より前向きになり、内側の状態は正常で、その人は急速に変化する。現実の体験においては、人々は主に聖霊かサタンかどちらかの働きを経験する。そしてもし彼らがこの二つの状態について理解できず、その違いを識別できないなら、現実の経験は不可能であり、性質が変化することが不可能なことは言うまでない。よって、神の働きを体験するための鍵とは、こういった物事を見抜けることであり、そうなることで、実際に経験することが容易になる。

  聖霊の働きは積極的な進歩だが、一方でサタンの働きとは後退と受動であり、神に対する不従順、神への反抗、神に対する信仰の喪失、そして賛美歌を歌うことや、立ち上がって踊ることさえしたくなくなってしまうことだ。聖霊の啓示から来るものはあなたに対して強制的なものではなく、特別自然なものだ。もしあなたがそれに従うなら、真理を得るし、もし従わないのならのちに非難があるだろう。もし聖霊による啓示なのであれば、あなたのすることは何も干渉や拘束をされることはなく、あなたは自由にされ、行動をもって実践する道ができ、何に対しても制約されることなく、神の心にそって行動できるようになるだろう。サタンの働きはあなたへの妨害となる多くのことをもたらし、あなたが祈りたくないようにさせ、神の言葉を飲食するのが面倒になるようにし、教会の生活に気が向かなくなり、あなたを霊的な生活から引き離す。聖霊の働きはあなたの日常生活に干渉はせず、正常な霊的生活の成長において邪魔することはない。あなたに起こる多くのことを、あなたはその時は識別できない。しかし数日後には、少し行ないで示すことができ、少し変化が現れて、あなたの内に何らかの反応が生まれ、これらの顕現を通して、自分の中の思いが神から来ているのかサタンから来ているのか、わかるようになる。物事の中には、あなたを明らかに神に反抗させ背かせ、神の言葉を実践させないようにするものがあるが、こういったことは皆、サタンから来ている。明白ではなく、その時にはそれが何であるか分からない物事もあるが、のちには、それらの表われを見て識別力を働かせることができる。どれがサタンから来ていて、どれが聖霊によって導かれているのかをはっきりと識別できるようになったなら、あなたは自分の経験の中で簡単に惑わされないようになる。あなたの状態が良くない時などには、あなたを受け身の状態から抜け出させるような思いを持つことがある。―これは、あなたの状態が好ましくない時に持つ思いには、聖霊から来ているものもあるということだ。あなたが受け身な時は、すべての思いはサタンから来ているというのは当てはまらない。もしそれが真実なら、いつあなたは積極的な姿勢に変われるのか。ある一定の期間ずっと消極的であると、聖霊はあなたに完全になるための機会を与え、あなたに触れ、その消極的な状態から抜け出させるのだ。

  聖霊の働きが何であり、サタンの働きが何であるのかを知ることで、あなたはこれらを、何かを経験している間の自分自身の状態と、また自分の経験と比べることができる。そのようにして、あなたの経験には原理と関わる真理がより多く生まれるだろう。これらを理解したなら、あなたは自分の実際の状態をコントロールし、あなたが出会う人や起こる物事[a]について識別できるようになるだろう。そして聖霊の働きを獲得するためにそれほど大きな努力をしなくてもよくなる。もちろん、それはあなたの動機が正しく、求めようとしており、また実践しようとしている限りにおいてである。このような言葉―原理に関わる言葉―があなたの経験の特徴であるべきだ。それなしには、あなたの経験はサタンの干渉に満ち、愚かな知識に満ちるだろう。聖霊がどのように働くのか理解できないのなら、どのように成長すれば良いのかも理解できないし、もしサタンがどのように働くのか理解できないのなら、自分の歩む足取りにどのように注意すれば良いのかも理解できない。人々は聖霊がどのように働くのかと、サタンがどう働くのかの両方を理解すべきである。この二つは人々の経験において不可欠な部分なのだから。

  あなたは他の何ものでもなく神だけを信じているだろうが、神との正常な関係を持っているだろうか。中には、大事なのはただ、神と正常な関係を持っていることだと言い、他者との関係がどうであるかを考えていない人がいる。しかし神との正常な関係はどのように現れるものなのか。こういう人々は実際ほんの少しの認識も持っていないというわけではないのではないか。神を愛する決意の度合い、そして真に肉を放棄したかどうかは、兄弟姉妹に対する偏見があるかどうか、そしてもしあるなら、それを脇へ押しやることができるかどうかだと言われているのはなぜか。つまり、兄弟姉妹との関係が正常であれば、神の前におけるあなたの状態も正常だということだ。兄弟姉妹の誰かが弱い時、あなたは彼らを嫌悪したり、軽蔑したり、笑いものにしたり、あるいは冷たい態度をとったりしない。もしあなたが彼らのために何かしてあげられるのなら、彼らに連絡をとってこう言うだろう。「私はかつて受け身で弱かった。教会の集まりにも出席したくなかった。でも私の内側に何かが起き、それを通して神が私に啓示を与え、鍛錬してくださった。私は心の中でとがめられ、恥ずかしく、自分は神を失望させており、前進するには本当に教会生活を送らなければならないといつも感じた。兄弟姉妹との関わりを深めれば深めるほど、神から離れては生きていけないとより感じるようになった。兄弟姉妹といる時は寂しくなかった。一人で部屋に閉じこもっていた時は、寂しく、友がいないと感じ、自分の人生は空っぽで、死を考えた。兄弟姉妹といた時は、サタンは働こうとはせず、私は寂しくなかった。兄弟姉妹の持つ神への愛がどれほど強いかを見た時、私は感銘を受けた。それでいつも兄弟姉妹と過ごすようになり、私の受け身の状態は自然と消えていった。」これを聞いて、彼らは家で祈るのは無駄だと感じるだろう。未だに兄弟姉妹との間に愛はなく、自分の人生は空っぽで、誰にも頼ることができず、ただ祈るだけでは十分でないとまだ感じるだろう。もし、あなたがこのように彼らと話すなら、彼らは実践するための一つの道を得ることになるのだ。もしあなたが彼らに提供できるものはないと感じるのであっても、彼らを訪問することはできる。これは教会のリーダーだけがすることではない。この働きをすることは兄弟姉妹一人ひとりの責任である。悪い状態の兄弟や姉妹を見たなら、訪問すべきだ。これはあなたがた一人ひとりの責任である。


人間の人生における6つの節目-成長:第2の節目

2019-09-22 23:31:07 | 賛美の心

  人間は、生まれた家庭により異なる様々な環境で育ち、自分の両親から様々な教えを受ける。これにより、ある者が成長して大人になるまでの条件が決定され、成長[b]は個人の人生における第2の重要な節目となる。この節目においても、人間には選択の余地が無いことは言うまでも無い。この節目もまた、事前に定められた既定のものである。

1.人間の成長時の条件は創造主により決定される。
  人間は、自分が成長する際に啓発や影響を受ける人物や要素を選択出来ない。人間は、どのような知識や技能を身に付けるか、何を習慣とするかを、選択出来ない。人間は、誰が自分の両親や親戚となるか、自分がどのような環境で成長するかに干渉する余地は一切無く、他の人々との関係、出来事、周囲の物事、またそうした物事が自分の発達にどのような影響を及ぼすかは、すべて自分で制御出来る範囲外にある。それでは、こうした事柄は誰が決めるのであろうか。こうした事柄を事前に決めるのは誰だろうか。人間には、こうした事柄を選択することも、自分で決めることもできず、また明らかに自然と決まるものでも無いので、こうした事柄の形成は創造主の掌中にあることは言うまでも無い。創造主は、各人の出生する具体的な状況を予め定めるのと同様に、各人が成長する具体的な状況も予め定めることは言うまでも無い。ある者の出生により、その者の周囲の人々や出来事、物事が変化する場合、必然的にその者の成長や発達もまた、それらの人々や出来事、物事に影響を与える。たとえば、貧しい家庭に生まれるが、裕福な環境で成長する人々がいる一方で、裕福な家庭に生まれるが、その家庭の財産が減ってゆき、貧しい環境で育つ人々もいる。出生が一定の法則により管理されている者はおらず、必然的な一定の状況下で成長する者もいない。こうした物事は人間が想像したり制御したり出来るものでは無く、人間の運命の結果であり、運命により決定されるものである。無論、根本的にそうした物事は、創造主によりその者の運命に予定されている。その者の運命の創造主による統治と計画により決定されている。

2.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる。
  ある者の出生の状況により、その者が成長する環境や状況の基本的な水準が決定され、その者が成長する状況は、その者の出生の状況の結果でもある。その者は、この期間に言語を学び始め、その者の心は新しい物事に数多く遭遇してそれを吸収するようになり、その過程においてその者は継続的に成長する。その者が聞く事柄、見るもの、心で感じる物事は、その者の内部の世界を次第に豊かにし、活性化させる。その者が遭遇する人々、出来事、物事、その者が学ぶ常識、知識、技能、その者が影響され、植え付けられ、教えられる考え方の全てが、その者の人生の運命に影響を与える。ある者が成長する時に学ぶ言語とその者の考え方は、幼年期を過ごす環境と不可分であり、その環境は両親や兄弟姉妹その他の人々、出来事、その者の周囲にある物事で構成されている。したがって、ある者の発達は、その者の成長時の環境により決まり、また成長時に遭遇する人々、出来事、物事により異なる。その者の成育時の条件は遠い過去に定められているため、その過程における生活環境も必然的に定められている。それは、その者が好みで選んで決めたものではなく、創造主の計画にしたがい、創造主の入念な采配と、創造主によるその者の人生の運命の統治により決定される。したがって、誰であれその者が成育時に出会う人々や遭遇する物事は、すべて必然的に創造主の采配と計画に関連している。人間はそうした複雑な相互関係を予測することも、制御することも、推測することも出来ない。ある者の成育環境には様々な物事や様々な人々が関連し、そうした広大な網の目のように広がる関連性を用意したり、指揮したりすることが出来る者はいない。創造主を除き、いかなる人間や物事も、様々な人々、出来事、物事の発生、存在、消滅を制御することが出来ず、ある者の発育を創造主により定められた通りに形成し、人の育成環境を形成し、創造主による経営の働きに必要とされる様々な役割を造り出して人間がその使命を完遂するための堅牢な基盤を固めるのは、極めて広大な網の目のような関連性である。


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