いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

神に頼って家族が阻む日々を乗り越えてきた(I)

2019-09-21 20:09:59 | 賛美の心

  著者は60代にして運よく神の御国の福音を受け入れることができました。意外なことに、彼女は信仰心のない家族からありとあらゆる形で邪魔をされてしまったのです。彼女は否定的な状況の中でどうやってサタンの妨害を突破して、神に頼りながらサタンに打ち勝ったという証しをしたのでしょうか?

マンマン(香港)

  私は60歳、以前は円満な家庭を持っていました。私の息子たちは私に対して素直で親孝行で、私の夫は熱心で責任感が強く、私は家族のまとめ役でした。それは全く申し分のない人生のように思えました。しかし、私はなぜ頻繁に虚しさを感じるのか、そして人間は何のために生きているのかが分かりませんでした。

  2017年3月、同じ村に住む村人が全能神の御国の福音を私に宣教してくれました。それ以降、私は神の御言葉を毎日読み、兄弟姉妹と頻繁に真理について交わり、神を礼拝しました。私の心は幸福感で満たされていました。三ヶ月の集会の中で、私は神の御言葉をたくさん読み、神は全人類の運命を支配されておられること、そして人々が虚しさの中を生きるのは彼らの心の中に神が宿る場所がないことが理由であるということを学びました。それと同時に、私は人生の意義と価値も発見し、人間は創造物として神を信じ、神を礼拝するべきであるということも理解しました。私は神に、私をお選びくださったこと、私が人生の真の道を見つけられるようにしてくださったこと、そしてそれまで生きた虚しい生活に別れを告げる手助けをしてくださったことを感謝しました。

  まるでかけがえのない宝物を見つけたかのように、私は自分の家族にも神の前に行って神の救いを受け入れて欲しいと思いました。なので、私は兄弟姉妹たちと一緒に私の長男に福音を説きました。その日、兄弟姉妹たちが彼に神の人類に対する愛と教えについて話すと、彼は深い関心をもって聞き入っていました。彼はまた自分が学んだことを私たちに話し、神の働きを調べ続ける意欲を見せてくれました。私は神の働きを調べることに意欲的な息子を見て、心の中で非常に嬉しくなりました。

  意外なことに、その翌日、息子は全能神教会に対する非難宣伝をインターネットから印刷してきて、激しい口調で私にこう言ったのです。「お母さんの行ってる教会に対してこんな非難宣伝が出てるじゃないか。よく見てみなよ!」息子はこう言った後、自分の部屋に行ってしまいました。息子の態度が急変したのを見て、私は彼がインターネット上の噂を信じてしまっていることを悟りました。しかし、私はこの否定的な情報は無神論を信じる中国共産党が全能神教会を中傷し、非難するもので、その全ては嘘であると心の中ではっきりと分かっていました。さらに、数か月間に渡って集会に参加し、兄弟姉妹たちと全能神の表す真理について交流をしていた私はかなり前から全能神は全てを支配して、私たちに全てを備えてくださる唯一の真の神であると確信していました。私は家族に何を言われても、しっかり神に従って行こうと思いました。

  ある日、私の長男は、私が集会に参加するのを邪魔するために、以前私に福音を説いてくれたあの姉妹に電話をし、彼女に向って暴言を吐いたのです。私はいつも分別のある息子がこのように急変した様子を見て途方に暮れてしまいました。それに、あの姉妹は恥ずかしい思いをしたに違いありません。私は強い罪悪感に駆られ、心の中で少し弱気になってしまいました。私は神に祈りました。「神様!私は心の弱さを感じます。あの素直だった長男が、どうしてあんな風に急変してしまったのか分かりません。息子はまるで一晩で別人になってしまったかのようです。神様!私はどうしてよいのか分かりません。どうか、私をお導きください。」こう祈りを捧げた後、私は神のこの御言葉を思い出しました。「あなたの周りの環境にあるすべてのものは、わたしの許しによってそこにあり、わたしがそのすべてを定めることを、あなたは知るべきである。わたしがあなたに与えた環境の中で、明確に見極め、わたしの心を満足させなさい。恐れてはならない。万軍の全能神が必ずあなたと共にいるのだ。神はあなたのしんがりとなり、神はあなたの盾である。」「ためらったり、落胆したり、弱気になったりしてはならない。霊において直接もっとわたしと交わり、辛抱強く待ちなさい。そうすれば、わたしはわたしの時に応じて必ず啓示を与えよう。……あなたの状況やあなたが直面する出来事に関わらず、このようにあなたが常にわたしに近づくなら、あなたが誰に、あるいは何に遭遇しようと、あなたは混乱することがなく、進むべき道が開けるだろう。」 神の御言葉は私に信仰と力を与えてくださりました。私は神の御心を分かってはいなかったものの、自分が置かれているこの環境は神がお許しになったものであることは分かりました。さらに、神はいつも私と共にいてくださり、神は私のしんがり、私の拠り所なのです。神を頼りにして前進している限り、神は間違いなく私を導いてくださると、私は信じています。

  その後、私は家族が仕事に行っている間に、姉妹数人と一緒に集会に行きました。彼女たちと顔を合わせると、私は心に温もりを感じ、最近直面した状況について話しました。彼女たちはそれを聞くと、神の御言葉の中から次の二節を私に読んでくれました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある——その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。」「あなたがたは常に目を覚まし、待っていなければならない。わたしの前にて、さらに祈らなければならない。いくつも存在するサタンの企てやずる賢い策略を見極め、霊を知り、人々を知り、どのような人や物事をも見分けることができなくてはならない。……教会がその建設段階に入ると、サタンに対する聖徒の戦いが起こる。サタンのさまざまな忌まわしさがあなたがたの前に明らかになる。あなたは進むのを止めて後ずさりするのか、それとも、わたしにより頼んで立ち上がり、歩き続けるのか。サタンの堕落した醜い素性を全て露わにしなさい。情に流されたり、憐れみをかけたりすることが一切あってはならない。死ぬまでサタンと戦いなさい!わたしがあなたの後ろ盾であるから、男子の精神を持たなければならない。」

  姉妹はこう言って交流しました。「おばさん、今日、私たちはこのような状況に直面しているのです。表面的には、あなたの息子さんは非難宣伝の影響を受けて、あなたが神を信仰することを他の家族の方と一緒に反対しているように見えます。しかし、この裏では、霊的戦いが繰り広げられていて、それはサタンの策略なのです。誰もが知っての通り、神の働きは人間を救うことですが、サタンは人間を堕落させようとします。サタンは私たちを神から離し、私たちに苦しみながら生活させるために様々な手段で私たちを誘惑し、私たちを傷つけて滅ぼすという目的を果たそうとするのです。神が人類を経営し始めて以来、サタンはいつも神の後をついて回り、神が救うことを意図される人々を全力で奪い取ろうとしてきました。なので、サタンは私たちが神を頼りにするのを見ると、負けまいと抵抗してきます。サタンは私たちの家族を通じて私たちの邪魔をし、心を乱し、攻撃しようとしてきます。サタンは私たちの家族を利用して私たちを妨害し、私たちに神を信仰することを強引に諦めさせ、その結果私たちがまたサタンの支配下に戻り、今まで通りそれに傷つけられ、踏みにじられ、神の救いを失ってしまうようにすることを目的としています。これがサタンの悪逆非道な動機です。しかし、神の御知恵はサタンの策略に応じて行使されます。神はこういった状況が私たちに起こることを許しておられ、それには神の善良な目的が込められているのです。神は私たちの信仰を完全にするために、サタンの誘惑を使って神を頼り敬う方法を私たちに教えてくださるのです。これは、ヨブがサタンに誘惑されて所有物すべてを失い、体中に腫物を被った時に、彼の妻が出て来てヨブを攻撃するサタンの役を担い、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ記2:9)と彼に言った時の状況に反映されています。意外にも、ヨブは彼女にこう言ったのです、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)。ヨブのこの言葉は、彼の神への信仰、および神を畏れる心は真なものであり、その状況の試練に耐えていたことを示しています。ヨブは、その心の中で、どのような状況、試練、苦しみに直面しても、決して神を裏切らなかったのです。ヨブはこのようにして実際に貫き通したことで、最終的にはサタンを辱め、世界中の人々ならびにサタンの前でも神に対する素晴らしい、顕著な証しをすることができたのです。元々、サタンは誘惑を使ってヨブの心を打ち砕き、神を信仰するのを止めさせようとしていました。しかし、ヨブはサタンの策略に引っかかり、神から離れることはありませんでした。それどころか、この機会を通じ、ヨブの神への信仰ならびに神を恐れる心は強さを増し、彼は神から認められる人となったのです。同様に、神は今、このような状況を通じて私たちを完全にすることを望んでおられます。だからこそ、私たちはこの霊的戦いに直面する時は、サタンの策略を見抜く必要があるのです。サタンから攻撃を受ければ受けるほど、私たちはサタンを辱めて神の御心を満たすために、神への信仰をより強く維持して、神の証しをもっと立てるべきなのです。」


キリスト教会讃美歌「万物は、神が定めた原則と法則によって生きている」

2019-09-20 19:44:19 | 賛美の心

 キリスト教会讃美歌「万物は、神が定めた原則と法則によって生きている」

数千年が経過したが
神から授かった光や空気を、人間は未だに享受している
神から授かった息吹を、人間は未だに呼吸している
魚、鳥、花、昆虫など、神が創ったものを
人間は未だに楽しんでいる
人間はすべてのものを楽しむ
神に与えられたすべてのものを
昼と夜は常に入れ代り
四季は変わることなく巡り来る
空飛ぶ雁は
冬に飛び去り、春に舞い戻る
水を泳ぐ魚は
棲みかである川や湖を決して去ることが無い
夏の日には
地上で蝉が楽しげに心のかぎり歌う
秋の日には
草の中でコオロギが風に合わせて優しく歌を口ずさむ
雁は群れをなし、鷲はいつも独りである
ライオンは生きるために狩りをし
ヘラジカは決して草花から離れることが無い
生きとし生けるものすべては
絶えず生まれ来ては過ぎ去る
一瞬のうちに百万の変化が生じる
しかし、彼らの本能と生存の法則は変わらない
彼らは神に養われ満たされて生きている
誰も彼らの本能を変えることはできない
誰も彼らの生存の法則を破ることはできない
誰も彼らの生存の法則を破ることはできない
『言葉は肉において現れる』より

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聖書の部屋のLINEアカウントが開設されました

2019-09-20 16:16:45 | 賛美の心

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神に頼って家族が阻む日々を乗り越えてきた(II)

2019-09-19 18:50:25 | 賛美の心

  そして、姉妹は神の御言葉から次の二節を私に読んでくれました。「ノアの箱舟の時代を振り返って見よう。人類はひどく堕落し、神の祝福から迷い出てしまっていた。もはや神の配慮は得られず、神の約束を失ってしまっていた。闇の中を、神の光のないまま生きていた。そうして彼らの性質は放縦となり、おぞましい堕落に身を任せた。……ノアだけが神を礼拝し、悪を避けたので、神の声を聞くことができ、神の指示を聞くことができた。ノアは神の言葉の指示に従って箱舟を建て、あらゆる種類の生物を集めた。こうして一旦全ての準備が整うと、神は世界に破滅をもたらした。ノアとその家族7人だけが破滅を逃れて生き残ったが、それはノアがヤーウェを礼拝し、悪を避けたからであった。」「それでは現代に目を向けてみよう。ノアのように神を礼拝し、悪を避けることのできる正しい人はいなくなってしまった。それでもなお、神はこうした人類に対して恵み深く、この終末の時代においても人類の罪を赦す。神は神の現われを切望する人々を探し求める。神は神の言葉を聞くことができる人々、神の任務を忘れず、心と体を神に捧げる人々を探し求める。神は神の前で赤子のように従順で、神を反抗しない人々を探し求める。あなたが何ものにも妨げられずに神に献身するならば、神はあなたを好意の眼差しで見、祝福を授けるだろう。」

  姉妹はこう言いました。「おばさん、誰もが知っての通り、ノアの生きた時代は人間の悪と堕落で満ちていたため、神は洪水を使って人類を滅ぼすることにされました。しかし、人類を滅ぼす前に、神はノアに箱舟を造り、同時に人々に福音を宣べ伝えるよう命じられました。しかし、当時の人々はノアの言葉を信じず、神が洪水で世界を滅ぼされるなどなおさら信じませんでした。彼らは皆、ノアのことを気違いで愚かな者だと思いました。結果として、洪水が本当に起きた時、ノアの8人家族だけが箱舟の中に入って助かり、それ以外の者たちは全員が洪水によって滅びたのです。ノアのストーリーは現代の人々にどういった警告を促しているのでしょう?現在の人々の悪と堕落の度合いはノアが生きた時代よりも遥かに酷い状態にあります。しかし、異なる点として、終わりの日である今、神は深刻に堕落した人類を救い、人々に神の御声を聞かせ、人々が神の救いを得られるようにするために自ら受肉され、真理を表してくださっています。しかし、中国共産党による非難宣伝のせいで、多くの人々が真の道を求め、それを調べることを拒み、結果的に神の救いを受ける機会を逃してしまっています。おばさん、人間はあまりにも愚か過ぎると思いませんか?終わりの日の神の働きは、サタンの妨害とかく乱を通してありとあらゆる種の人々を暴露されました。心から神を信じ、真理を愛する人々は、全能神がすべてを支配して司る御方であると確信しています。それ故に、彼らはどのような誘惑やかく乱にさらされても、神への信仰を保ち、神から離れずにいることができます。そのような人々のみ、神が人間にお与えになる永遠の救いを授かることができるのです。にもかかわらず、真理を愛していない人々は、神への真の信仰を持っていない、もしくは臆する心を持っているが故にサタンに誘惑される中で神から離れ、神に背き、終わりの日の神の救いを失っています。最終的に、彼らはサタンの運命同様、神によって滅ぼされてしまうのです。」

  神の御言葉と姉妹の交流を聞いた後、私はこの理解に至りました。「今日私がこの状況に直面した時、表面的には自分の家族が私の神への信仰を反対しているように見えました。しかし、見えない所ではサタンが神と賭けをしていたのです。サタンは私が消極的で弱気な心の中を生き、神に背き、神から離れるようにするために、私の家族からの妨害を利用しようとしたのです。しかし、神はこの状況を使って私の神への信仰を完全にしてくださり、私が神を頼り、神の御言葉通りに実践し、サタンの使う様々な罠を見抜き、ついには神の証しをできるようにしてくださります。これにより、私は神の働きの御知恵と神の義なる性質を知ったのです。神に感謝します。神の御心を理解した後、私は内にこみ上げてくる力を感じた気がして、心の中で神に祈りを捧げました。「神様、あなたのお導きに感謝します。あなたは姉妹の交流を介して私があなたの御心を理解できるようにしてくださりました。神様、私は60歳を超えているのに、まだあなたにお選びいただき、あなたの御前に来れるなんて、本当に光栄です。これはあなたの御恵みで、あなたは私を高めて下さっています。あなたは、私のあなたへの信仰を完全にするために、この状況を使うことを望んでおられるのですね。神様、私はあなたを失望させたくありません。私はサタンを辱めるために、信仰によってあなたを頼りにし、あなたの証しを立てたいと思います。」

  私は神の証しを立てる決意をしました。しかし、サタンはまだ私のことを手放さず、私の家族を介して妨害を続けてきました。ある時、私の下の息子がたくさんの中傷的な宣伝情報を私に渡してきてこう言いました。「まずこの情報を読んでみてよ。長い間神を信仰したら家族のことがどうでもよくなって、家を出てしまうようになるって書いてあるよ。」私はそれを読まずに言い返しました。「兄弟姉妹たちがどういう状況で家を後にするか、あなたは知ってるの?何の問題もないのに、誰が家を出たがるっていうの?兄弟姉妹たちが家に帰ってこれないのは、中国共産党の迫害を受けているからじゃないかしら?」彼はさらに言いたい事があったようですが、私はもう話したくありませんでした。私は彼に言いました。「いい加減にしなさい、もう何も言わないで。私は疲れてるから、休みたいの。自分の部屋に戻りなさい。」私がドアを閉じても、息子はまだ諦めませんでした。彼は中傷的な宣伝情報を一枚ずつドアの下から通して中に入れてきたのです。噂がたくさん書かれた用紙を見ていると、私は「神への信仰」という映画を思い出しました。中国本土では、中国共産党があちこちで兄弟姉妹たちを探し回っています。結果として、彼らは地元から逃げ出すことを余儀なくされ、あちこちに散在しています。彼らが安心できる場所はありません。中国共産党による迫害のせいで、無数のクリスチャンたちが逮捕され、刑務所に入れられ、中には迫害されて命を落とした人たちまでいるのです。中国共産党はその独裁体制を守り、永久的な権力を持つという野心を実現するために、真理を表して人間を救うために受肉された全能神を激しく嫌い、気が狂ったように全能神教会を迫害し、抑圧しているのです。それはまた、真理を知らない人々を騙すために様々な虚偽を捏造するので、無数のクリスチャンたちが信仰心のない親族たちの迫害を受けることになり、最終的には家族が崩壊するという結果に至っています。にもかかわらず、中国共産党は家庭が崩壊するのは神への信仰が原因だと恥じも知らずに主張しながらこの事実を曲げるのです。彼らはこれを利用して無理やり私たちに信仰を捨てさせようとしてきます。サタンは本当に欺瞞的で、悪意に満ち、卑劣なのです。こう考えると、私は心の中でかなり確信を持てるようになり、サタンの策略に関する識別力を少し得ることができました。私は家族からどのような妨害を受けても全能神について行くと、心の中で決意をしました。

  ある夜、私の夫と息子が私の部屋に来て、神を信仰するなとまた言ってきました。私は彼らを無視しました。これを見た夫はすかさず激しい口調で怒鳴りつけてきたのです。「神の信仰を続けるなら、お前とはもう離婚だ!」この瞬間、私は神のこの御言葉を思い出しました。「宇宙で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか。」神の御言葉は少しずつ私の不安な心を落ち着かせてくれました。そして、私は心の中で静かに神に祈りました。「神様、私の結婚生活はあなたの御手の中にあります。私と夫が離婚するかどうかは、人間ではなく、あなたがお決めになることです。私はこのすべてをあなたに委ねます。」こう祈りを捧げた後、私は落ち着いてこう言いました。「私たちが離婚するかどうかは神次第です。離婚することになっても、私は神への信仰を続けます。」私が怯えていないことを悟った夫は、獰猛な表情をむき出しにてドアの方を指さしながらこう言いました。「神への信仰を捨てないなら、お前をこの家から追い出してやる。」夫がこう言ったのを聞いて、私は思わず少し不安になりました。「本当に追い出されたら、これからどこで住めばいいの」、と思いました。その時、私は又してもサタンの策略にかかっていることに気が付きました。これ故に、私は慌てて心の中で神に助けを請いました。「神様、私が今日家から追い出されてしまうかどうかはあなたの御手にあります。何が起こっても、私はあなたを信じ、あなたに従い、サタンには絶対に譲歩いたしません。」こう祈りを捧げた後、私は突然、この家の所有権を夫と共有していることを思い出しました。なので、彼は随意に私を追い出すことができる権利など法的には持っていないのです。そして直ぐに私は言い返しました。「私だってこの家の所有権を持っているのよ。この家庭の中で、私は家事をすべてこなし、自分の仕事をしてきたわ。時間がある時に神を信仰するのは私の自由よ。それに、香港では誰にだって信仰の自由は認められているわ。どうして私の邪魔をするのよ?以前、私は家にいてすることが無い時はとても虚しい気分がして、麻雀をしたり、近所の人たちと噂話して意味の無いことばかりしていたわ。でも私は今、全能神の御言葉を読んで、真理を理解して、人生の正しい道を発見して、心の豊かさを感じているの。なのに、あなたたちはいつも私の邪魔をしてくるわ。私の決断を尊重して、私の神への信仰を邪魔するのはもう止めてください。」私が神への信仰に固執するのを見た夫は言葉を失い、向きを変えて外に出掛けようとしていました。彼は行く前に、「神を信仰することは諦めてもらうからな」、と言いました。そして、彼は腹を立てながら出て行きました。私は思いました。「あなたにどんな風に邪魔されても、私は確固たる姿勢で神について行くわ。」外面的には、夫が怒りをあらわにして出て行っただけのように見えましたが、霊的世界ではサタンが恥じをかいていたことを私は知っていました。神に感謝します。私が神の側でしっかりと立っていられるように、神は私に信仰と知恵をお与えくださったのです。私は心から神に賛美と感謝を捧げました。

  ある日、夫は憤慨した態度を一変して、落ち着いた口調でこう言ってきました。「お前はまだ神を信仰するつもりなのか?もう止めてくれないか?お前には麻雀したり、賭け事をしてもらっていた方がいいんだ。神への信仰を捨ててくれさえすれば、今すぐに1億円あげるよ。休暇を取って、お前と一緒に世界中を旅行してもいいし、俺のお金を全部あげてもいい。」彼の言葉を聞いて、私は以前集会で読んだ神のこの御言葉を思い出しました。「被造物として、あなたはもちろん神を崇拝し、意味のある生活を追求するべきである。あなたが神を崇拝せず、汚れた肉体で暮らすならば、あなたは人間の衣装を身に着けたただの獣ではないだろうか。」私はこう思いました。「そうだわ、私は創造物として神を礼拝するべきなのよ。以前、神を知らなかった時、私は肉のために生きていたわ。物質的には必要な物を全て持っていたけれど、心は虚しく、意味の無い生活を送っていたわ。でも今日、神は私を神の前にお導きくださって、私が神の御声を聞き、全能神の表す真理を読み、そして自分の人生における方向性を見つけることができるようにして下さったのよ。これはお金で購入できるものじゃないわ。それに、お金ではいのちはおろか、真理を購入することも絶対にできない。お金と肉の快楽のために神への信仰と神に従うことを諦めてしまったら、私はあり得ないほどの愚か者になってしまうわ。主イエス様もこう言っておられるわ。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイによる福音書16:26)このように考えて、私は自分の選択を貫くことを心の中でさらに強く決意しました。私は夫にきっぱりとこう言いました。「もう私のことを説得しないでください。私は神を固く信じていますから。お金は自分のためにとっておいてください。私には必要ありません。」私がこう言ったのを聞いた夫はもう何も言いませんでした。

  神に感謝します。私は神に従う決意を心から固めた時、神の素晴らしい御業を目の当たりにしました。私が集会に行くのを家族が邪魔しなくなっただけでなく、ゆくゆくは家庭も落ち着きを取り戻したのです。今、私は規則正しく教会生活を送り、創造物としての本分を尽くしています。私がサタンの攻撃を打ち破り、神への証しを立てることができたのは、完全に神の御言葉による御導きがあったおかげです。全ての栄光、神にあれ!終わり。


聖書のメッセージ:一つの集会が聖書の新たな認識を私にもたらした

2019-09-18 18:06:16 | 賛美の心

  私の霊は暗闇の中でしおれていたが、偶然のきっかけから聖書学習特別クラスに出会った

  「ママ、ママ、どうしてまた寝ちゃったの」

  娘に目を覚まされて、またも祈りの途中で眠りに落ちたことを思い出し、私は大いに罪の意識を感じました。長く正座していたせいで感覚が麻痺していた両脚を叩いて立ち上がり、窓際に歩きました。夜空にかかる澄んだ明るい月を眺めていると、過去を思い出さずにはいられませんでした。

  私は若いころに神様を信じ始めてもう三十五年になっていました。聖書に熱中するあまり日曜学校の教師を務めるだけでなく、自分が所属する教会のクリスチャン青年団で管理者にもなり、いつも熱心に主に仕えていました。しかしこの数年間、自分の霊がどんどんしおれるのを感じ、聖書からもそれほど明るい光を感じられず、聖書学習クラスで兄弟姉妹を導くときも力を大いに奮い起こすことができませんでした。牧師が説教を通じて私に栄養を与えてくれるのを切望しましたが、いつも同じ古いことを説教するばかりで新たな光はまったくありませんでした。私は聞いた話に喜びを感じず、霊も供給を受けていませんでした。牧師の説教を聞きに来た信心深い人たちの大半は、単に宗教的な儀式を守って動作を繰り返すだけです。心から誠実に神様を崇拝していた人はほとんどおらず、教会の状態は一層悪化していきました。こうした状況に直面した私は、信仰を取り戻す道を見つけようと聖書の学習を続けましたが、何も発見できないままでした。当時、私はよくこう考えました。「私の霊はいま沈んでしまって、お祈りの途中で眠りに落ちる有様だわ。私はいまでも主の信者なのかしら。主は私をお見捨てになったのかしら」私は心の中で大いに苦痛を感じ、主を呼び求めて自分を導いてくださるようお願いし続けることしかできませんでした。

  2017年9月のある日、私はフェイスブックで王兄弟と出会い、その後聖書の認識についてしばしば話し合いました。王兄弟は聖書に関して特に純粋な認識を持っており、彼の交わりは光に満ちていました。それまで私を悩ませていた多くの問題を解決してくれた上、彼の言葉に耳を傾けていると自分の心が光で一杯になるように感じられました。私はさらに理解することができるよう、オンラインの聖書学習クラスに参加してほしいと率先して彼にお願いしました。オンラインのやりとりを一ヵ月あまり続けたころ、自分の霊が大いに供給を受けたように感じられ、聖書の預言と主の御心についてかなり理解するようになりました。また清水の泉のごとく私の心に流れ込み、私の干上がった霊を潤すような言葉もいくつか送られてきました。私はその集会を心から待ち望むようになりました。

聖書に記されていること以外に神様の発した新たな御言葉はあるのか
  ある日、兄弟姉妹が私のためにビデオを再生してくれましたが、その途中で出演者の全員が一冊の本を手にしているのに気づきました。しかしその本が聖書ではなかったので、私は驚かずにはいられませんでした。私は考えました。「聖書を手にしていないなんてどういうこと。主を信じるクリスチャンは聖書を読まなければならないのに。だって、聖書に記されている以外に神様の御言葉はないのだから。聖書を読んでいないのは、彼らが道に迷ってしまったということなのかしら」私の心は即座に疑いで一杯になりましたが、兄弟姉妹に恥ずかしい思いをさせないように異議を唱えることはしませんでした。オンラインでの集会が終わったあと、私は王兄弟にメッセージを送って自分の疑いを打ち明けるとともに、この聖書学習クラスに参加するのはもうやめようと決心しました。

  王兄弟からの返信にはこう記されていました。「姉妹、あの本は神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』です。そこには終わりの日のキリスト、つまり全能神が表現なさる新しい御言葉しか記されておらず、それは『御霊が諸教会に言うこと』とヨハネの黙示録で預言されているものです。全能神は終わりの日に姿をお見せになって働きを行なわれますが、すでに何百万もの御言葉を表現なさっていて、聖書の中にある数多くの真理や奥義だけでなく、神様の六千年にわたる経営(救いの)計画の奥義をもあらわされてきました。それらの真理は、長年にわたって主を信じてきたにもかかわらず、私たちがいまだに理解していないものです」王兄弟のメッセージを読んだ私はとても混乱してこう考えました。「私は三十五年間も主を信じてきたけれど、聖書に書かれている以外に神様の御言葉があるなんて聞いたことがない。それなのに、この『言葉は肉において現れる』という本には神様の発する新しい御言葉しか記されていないと言っている。そんなことがどうしてあり得るの」

  ちょうどそのとき、王兄弟がもう一つのメッセージを送信しました。「姉妹、私たちは三十年以上も主の再来を心待ちにしてきましたが、いま主イエスは全能神として本当にお戻りになりました。現在、主は全世界に御言葉を語られています。ならば私たちもそれを探し求めて考察すべきではないでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)主の再来の知らせを聞いた私たちが賢い乙女になって積極的に主を探し求めることを、主は望んでおられます。そうすることでのみ主をお迎えすることができるからです。主の再来の知らせを聞きながら、自分の観念に合致しないからといってそれを調べるのを拒むなら、私たちは主の到来をお迎えする機会を逃すことになるでしょう。そうすれば主の救いを失うことにはならないでしょうか」

  兄弟の言葉は私を目覚めさせました。私はこう考えました。「そうだわ。私は何年間も主を信じてきたけれど、その間ずっと主がお戻りになるのを待っていたんじゃなかったの。いま、主がお戻りになって再び御言葉をお語りになっていると誰かが証しをしている。それならきっと、まずそれに耳を傾けて考察すべきだわ。そうすることでのみ、主をお迎えすることができるのよ」

  その後、王兄弟が別のメッセージを送信しました。「『ヨハネによる福音書』第16章12-13節で主イエスはこうおっしゃいました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』ヨハネの黙示録でも数カ所でこう預言されています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録第2章、第3章)このことから、主はお戻りになるとき新たな御言葉をお語りになり、私たちがそれまで決して理解することのなかったすべての真理と奥義をお話しになることがわかります。これらの真理は聖書に記されていません。主が終わりの日にお戻りになったときに成し遂げられ、実現されることになっているのです。聖書に記されている以外に神様の御言葉や働きはあり得ないと考えるなら、どうしてこれらの預言が実現されるでしょうか。終わりの日に神様が発する御言葉が聖書に自動的にあらわれるなど、どうしてあり得るでしょうか。したがって、主をお迎えしたければ自分の観念を捨てて、何よりもまず終わりの日にお戻りになった神様の発する御言葉を読み、注意を払って神様の御言葉を聞かなければなりません。相変わらず聖書にしがみついて聖霊が諸教会におっしゃることを聞かないなら、かなりの確率で主をお迎えする機会を逃してしまうでしょう」

  このメッセージを読んだあと、私は突然理解し始めたように感じてこう考えました。「ああ、私はこれらの聖句を以前に何度も読んできたけれど、神様の御心がわからなかったのはどういうことかしら。主は『耳のある者は……聞くがよい』とおっしゃることで、私たちに要求をされているんじゃないかしら。お戻りになった主は私たちに御言葉をお話しになり、私たちは神様のお声を聞くことに集中して初めて、主をお迎えしてその足跡にしたがうことができるのよ」このように考えた私は王兄弟に急いで返信を送り、全能神の御言葉をもっと送ってくれるようにお願いしました。

  すると王兄弟は全能神が表現なされた御言葉をいくつも送ってくれましたが、その中には『あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである』や『神を知らない者はすべて神に反対する人々である』の各章もありました。私は神様の御言葉を読んで神様の働きについていくらか認識を持つとともに、人間の堕落の根源と、サタンがいかにして人間を堕落させるか、そして神様が人間を救うべくいかにして働きをなさるかを知るようになりました。また私たちが自分の観念や想像に頼ることで神様の働きを常に定めていることや、それが神様に抵抗する振る舞いであることも認識するようになりました。神様の御言葉を読めば読むほど心が明るくなり、全能神の御言葉には権威と力があって本当に神様のお声のようだと感じました。私はそれを考察し続ける決心をしました。

私の困惑は一掃され、聖書について新たな認識に達した
  次の集会のとき、私は兄弟姉妹に自分の困惑を話しました。「林姉妹、王兄弟、あなたたちは、神様は新たな働きをなさり、新たな御言葉を表現なさっていると言っています。でも私は、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つけることができ、クリスチャンは神様への信仰において聖書から離れることはできない、そうすることは真の道から外れることだからだと、牧師が言うのを小さいころからずっと聞いてきました。この問題についてあなたたちの意見を知りたいと思います。これについて私と交わってくださいませんか」すると林姉妹が次のように言って交わりをしてくれました。「姉妹、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることだという信仰において、私たちは宗教界の牧師や長老とともに歩んでいます。それは宗教界全体が抱いている信仰ですが、その見方は事実と一致しているでしょうか。神様の御言葉と一致しているでしょうか。主イエスがそのようなことをおっしゃったことはなく、聖霊がそれらの言葉をおっしゃったこともありません。ではその見方はいったい何を基にしているのでしょう。私たち自身の観念と想像から生じたのではないですか。私たち全員が知っているとおり、聖書は神様の働きにおける以前の二段階の記録に過ぎず、神様がいったん働きを終わらせてから神様に従った人たちの記憶を基にした、神様の御言葉と働きの記録です。それらの人たちがあらゆることを記録したのは絶対に間違いないと、あえて言うことができるでしょうか。さらに、聖書が編集されているあいだ、編者は互いに論争し、内容の遺漏もありました。そのせいで預言者によって伝えられた神様の御言葉の一部が旧約聖書に記されず、むしろ第二正典に収載されることになったのです。そのことは、漏れてしまったそれらの預言者による預言が神様の御言葉ではなかったことを意味するでしょうか。『ヨハネによる福音書』第21章25節にはっきりとこう記されています。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」主イエスは三年半にわたって働きをなされ、弟子を率いて行く先々で教えを宣べ伝えられ、働きをなされました。では、その間に主はどれほど多くの御言葉を語られたでしょうか。どれほど多くの働きをなさったでしょうか。したがって、聖書に記されなかった主イエスの働きや御言葉は数多くあると言えます。聖書に記されている主イエスの御言葉は氷山の一角に過ぎません。ならば、神様の御言葉と働きはすべて聖書に記されていると、宗教界の牧師や長老はどうして言えるのでしょう。そのように言うことは事実と真っ向から反していませんか。牧師や長老の言うことにしたがうなら、預言者によって伝えられながら聖書に記されていない神様の御言葉や、聖書に記されなかった主イエスの御言葉と働きを否定していることになりませんか。さらに、主イエスが働きをなさるべくおいでになった当時、新約聖書はまだ存在しておらず、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)というイエスによって表現された道も旧約聖書に記されませんでした。ゆえに、主イエスによる御言葉と働きは当時聖書から超えていたと言えます。よって、聖書から超えることは真の道から外れることだと、さも断罪するように言うことで、宗教界は主イエスの御言葉と働きをも断罪しているのではないでしょうか」

  そう言ったあと、林姉妹は神様の御言葉の一節を送信しました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。……これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奧義(1)」)

  そして林姉妹は交わりを続けました。「聖書に記されている内容はとても限られています。旧約聖書はヤーウェ神の働きの一部を記しているに過ぎず、新約聖書は主イエスの働きの一部を記しているに過ぎません。終わりの日における神様の働きについて言えば、聖書にはそれに関するいくつかの預言があるだけで、詳細な記録はそこにありません。神様はそれぞれの時代においてその時代の働きをなさるだけであり、次なる段階の働きを前もってなさることはありません。例えば律法の時代、ヤーウェ神は戒めと律法を守るよう人間に教えられ、神様を崇拝するよう命じられただけでした。恵みの時代になさろうとしている働きを前もって当時の人にお告げになることはなかったのです。同様に、主イエスは終わりの日である現在すでに戻られ、恵みの時代の贖いの働きを土台として御言葉を表現なさり、神様の家に始まる裁きの働きを行なわれ、私たちの堕落した性質を裁いてお清めになり、私たちが罪の束縛を完全に捨て去って神様によって清められ救われるようになさっています。この働きの詳細が、聖書の中に前もって記されていたはずはありません。したがって、「神様の御言葉と働きはすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることである」という宗教界の牧師や長老による発言は、神様の働きの事実と完全に真っ向から反しています。それは人間の観念と想像から生じたものであり、人々を欺くことが目的の嘘であり、馬鹿げた理論なのです」

  全能神の御言葉と姉妹の交わりは私を完全に納得させ、それを論破するのは不可能でした。私はこう考えざるを得ませんでした。「本当にそうだわ。神様は万物を包含なさり、神様の知恵は豊かで豊富にある。それなら、神様のすべての御言葉と働きがどうして聖書に制限されるでしょう。神様は聖書を超えて働きをなさる権利があります。つまり私たちの以前の認識は確かに間違いだったのよ」

  すると王兄弟が聖書の一節を送信しました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)そしてこう言いました。「聖書は歴史の記録であり、神様の働きにおける以前の二段階の証しに過ぎません。聖書に永遠のいのちはなく、いのちの源でもありません。聖書を信じることで真理やいのちが得られることは決してなく、聖霊の働きも獲得できず、まして真の救いを獲得するなど不可能です。神様だけが真理であり、道であり、いのちであって、神様だけが私たちのいのちの源なのです。神様への信仰において真理といのちを得たいと望むなら、神様の御前に出て、神様の現在の働きと御言葉を受け入れてそれに服従し、子羊の足跡につき従わなければなりません。そのとき初めて神様の救いを獲得できるからです。

  王兄弟の交わりを聞いたあと、私は突然光を目にしてこう考えました。「以前にこの一節を読んだとき、聖書には神様の証しとしての働きがあると理解しただけで、神様への信仰において聖書から離れてはならないと信じていたけれど、神様は真理であり、道であり、いのちであるという事実を見落としていた。いまようやく、聖書は単に神様の過去の働きの証しであって、神様をあらわすことはできず、中にいのちを含んでいないと理解したわ。真理といのちを得たいと思うなら、神様の足跡に丹念にしたがう必要がある。そのとき初めて神様の救いを獲得できるから。ああ、神様の新たな働きに対する自分の態度を振り返ると、探し求める心がこれっぽっちもなく、自分の観念にしがみついて神様の働きを拒むなんて、どれほど盲目で無知だったかいまようやくわかったわ。あくまでこのまま聖書にしがみつくなら、神様の救いを拒んでいることにならないかしら。私は終わりの日における全能神の働きを真剣に考察しなければならないのよ」

神様の働きを理解して主の再来を喜んでお迎えする
  その後、林姉妹が『聖書から出てくる』というタイトルの福音動画を見せてくれました。それは神様の御言葉の二節が主題であり、動画に登場する姉妹の交わりに私は引き込まれました。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)「過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より)

  動画の姉妹はこう語りました。「終わりの日における神様の働きは聖書で預言されているだけで、その実際の記録はありませんでしたが、それは人類が実際に必要としているものを基にしており、聖書という基礎を土台としてより深くなり、より高められる働きです。それはちょうど、おいでになった主イエスが旧約聖書にしたがって働きをなさったわけではなく、人類が求めるものと神様ご自身の計画にしたがって働きをなさったのと同じです。主は律法の働きを基に贖いの働きの一段階を終わらせましたが、言い換えれば旧約聖書を基に新たなより高次の働きの段階を終わらせたのです。働きのその段階において、主は旧約の律法を無効にされたのではなく、それを完全になさいました。そして同じように、神様は今日の終わりの日において、人類が必要とするものと神様の経営(救いの)計画を基にした主イエスの贖いの働きを土台として、別の段階のより新たな、より高次の働きをなさっていて、人類を清めて救うことができる数多くの御言葉をお発しになっています。神様はまた神様の経営計画の奥義をすべてあらわされています。これらは律法の時代や恵みの時代に神様が決しておっしゃらなかったことです。それらはまた、終わりの日に神様がお開きになっている巻物、お解きになっている七つの封印でもあります。これは黙示録に記された次の預言を実現しています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2:17)また黙示録第5章1節から5節にもこう記されています。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」これらの預言は主イエスが働きを終わらせるまで存在しませんでした。これらの預言が神様の成し遂げようとされていること、終わりの日に神様がなさろうとしている救いの働きに違いないことは言うまでもありません。現在、神様は肉となられ、御言葉を発するべくおいでになりました。神様は裁きと清めの働きの一段階をすでになされ、人々を救われるようにする数多くの御言葉をお発しになってきました。それらの御言葉は聖書に記されておらず、聖書の外にある御言葉です。これらの豊富ないのちの御言葉は、終わりの日に神様が人類に授けられたいのちの道であり、人類の救いの唯一の道です。私たちがそれを受け入れるのを拒むなら、神様のいのちの生きた水によって真に潤されることはできず、神様から真理もいのちも得られません」

  姉妹の交わりを通じ、神様の働きがずっと前進し続けていることを私はようやく認識するようになりました。律法の時代、ヤーウェ神は人類の生活を導き、いかに神様を崇拝するかや罪とは何かを人々に知らしめるべく、律法と戒めを公布なさいました。恵みの時代、主イエスは十字架につけられることによって人類を律法の束縛から贖われました。そして人は主イエスの救いを受け入れる限り、主の豊富な恵みと祝福を享受することができました。しかし、私たちがいまなお何度も罪を犯しては告白するという状況の中で生き、罪の束縛と足かせを振り払えないでいるのは否定できません。現在、再来なされた主イエス、すなわち終わりの日のキリストである全能神は裁きの働きをなさっており、私たちの罪深い本性が解決されるよう、また私たちが罪深い本性を自分から完全に取り除き、最後に神様の約束を獲得して美しい終着点へと入るのにふさわしくなれるよう、ご自身の御言葉を表現なさいます。終わりの日における全能神の働きは聖書を否定するものではありません。むしろ神様は、律法の時代と恵みの時代の働きを土台としてより新たな、より高次の段階の働きをなさるのであって、それがまさに私たち堕落した人類が必要としているものです。神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に神様から私たちに与えられたいのちの道であり、終わりの日の神様の働きを受け入れることでのみ、いのちの生きた水の供給を得られるのです。私はいまようやく、私たちが神様からいのちの供給を得られない理由と、暗闇に陥って聖霊の働きを失ってしまった理由を理解しています。それは私たちが聖書にしがみつき、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つかると考えているから、また終わりの日の神様の働きを受け入れるのを拒んでいるからなのです。

  全能神教会と接触するようになってから二ヶ月しか経っていませんが、全能神の御言葉が真理であること、私の混乱と疑問を解決できること、そして私の霊を供給してくださることを知りました。全能神は再来なされた主イエスであると私は確信するようになり、終わりの日の神様の働きを喜んで受け入れました。聖書にしがみついていたせいで神様の働きを拒絶していたことを振り返ると、深い後悔を感じます。私はそれほど傲慢で愚かだったのです。しかし神様が私を憐れんでくださり、兄弟姉妹が私にメッセージを送り、私と会って何度も何度も交わってくれたことを通じて、私が聖書の内幕とその実体を理解できるように、また神様が人類を救うべく一歩一歩働いておられることを理解できるようにしてくださり、私はついに自分の観念を捨てて終わりの日の神様の働きを受け入れ、神様の足跡にしたがい始めました。私を愛し、救ってくださったことに対して神様に感謝いたします。