いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

一生懸命働くことは神の御心に従っているということなのか

2019-09-12 22:30:38 | 賛美の心

  寄稿家:チェンヤン

  春雨の降り続く日、ヂャオ・シュンは飛行機で中国からアメリカへと出発しました。飛行機はニューヨークの空港に着陸しました。ヂャオ・シュンが荷物を持って空港のターミナルを出ようとしていた時、後ろから聞き覚えのある声が聞こえました。

  「あれ、ヂャオ・シュン兄弟じゃないですか?」スーツ姿の中年男性がヂャオ・シュンのところにやってきました。

  ヂャオ・シュンは興奮した様子で言いました。「ああ、ジム兄弟!アメリカで会うなんて、奇遇ですね」

  そして二人は車の中に座って話しました。ジムは言いました。「時間が経つのは早いなあ!2年があっという間に過ぎてしまったね。中国で宣教していたんじゃないのですか?どうしてこちらに?」

  「残念ながら、中国は無神論の国ですから。中国共産党政府は宗教の信仰を抑圧して、迫害するし、三自教会にさえ危害が及んでいます。中国共産党政府は、私が神の信者であることを知ったから、私を逮捕しようとしてどこまでも追いかけてきました。中国共産党から逃れて最後まで主に従っていくためには、全てを捨ててここに来るしかなかったんです」。

  「そうだったんですか。主に従うにあたって苦しむ意志をもたないと、前進していくのは困難になりますね。全てを捨ててここまで来るなんて、本当に強い信念をお持ちですね」。

  「主に感謝します!今日、私たちが苦しむことには意味があるんです。今、私たちは主のために労力を費やし、一生懸命に働いています。だから、主が再臨される時には天国に引き上げていただけるはずです」。

  ジムは一瞬考えてから深刻な口調で言いました。「兄弟、労力を費やして一生懸命に働いてさえいれば、私たちは天国に入れると言われましたが、私も以前はそう思っていたんですよ。でも、それから聖書の学習をしていた時、主イエスのこの言葉を目にしたんです。『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』(マタイによる福音書7:21)。私はこの言葉を読んで自分の考えに確信が持てなくなったんです。主は神の御心に従う者だけが天国に入れるとはっきり言っておられますが、主のために全てを犠牲にして、一生懸命に働いてさえいれば天国に入れるとは言っておられません」。

  ヂャオ・シュンは困惑して言いました。「確かに、主はそう言われてはいません。しかし、私は長年に渡って嵐や雨の中でも主のために布教活動をし、主の信者たちを牧養してきました。福音を説いていることを理由に、中国共産党に逮捕され迫害される危険に遭いながらも、ひるむことなく主に従ってきました。これは神の御心に従っているということではないのですか?」

  ジムは温かい口調で言いました。「兄弟、主を信仰して福音を説いていることを理由に中国共産党に逮捕されて迫害される危険に直面する時、それに苦しみ耐える意志を持つことは正しいのですが、主のために苦しみ、労力を費やし、一生懸命に働くことが神の御心に従っているとは言えません。私たちが神の御心に従っているかどうかの判断は、私たちの行動の意図、それが主に認められているかどうか、そしてそれが主の要件に沿っているかどうか等に基づいていなければならないんです。こういった条件を理解していないと、私たちの信仰は想像上の観念に過ぎないということになってしまいます。主イエスは一度こう仰いました。『その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」』(マタイによる福音書7:22-23)。この主の言葉に応じて、私たちは、長年に渡って宣教して働いてきた者たちがどうして最後に主から悪人として非難されてしまうのかを考えなければいけません。これより、彼らはそれぞれの動機と目的を持ちながら、表面的には犠牲を払って一生懸命に働いていたけれども、神の道には従ってなかったことが分かります。例えば、古代のパリサイ人は宣教して働くために海と大陸を横断し、神のために一生を費やし、たくさん苦しみにも耐えました。それにもかかわらず、主イエスは、彼らのことを偽善者である上に災いであると言って、彼らを非難し呪われました。これは、彼らの放棄と労力の費やしに神との取引や個人的な動機が伴っていたからです。彼らはこういったことを祝福と報いを得るため、そしてそれぞれの地位と仕事を維持するために行っていただけで、真の心をもって神を満足させるためではなかったのです。主イエスが働きと説教をしに来られた時、彼らは主の働きを受け入れることも、ユダヤの民を神の前に導くこともしなかっただけでなく、ユダヤの民を先導して主イエスを狂信的に非難そして抵抗させたのです。彼らは主イエスに対する偽証までしました。彼らの行いは、その全てが主の道に対する裏切りであり、彼らは主イエスを敵扱いしたのです。これ故に、主は、彼らのことを偽善者で災いであると言って、彼らを非難されたのです。パリサイ人の例から、一生懸命に働くことは必ずしも神の御心に従っているというわけではないことが分かります。大切なのは、私たちの個人的な動機や目的が何であるかを知ることなんです」。

  「ジム兄弟、あなたの言ったことはとても実践的です。私は自分が一生懸命に働く動機や、その目的を調べることには注意していませんでした。私は、表面的には他の人たちよりも苦しんで、働いているように見えるだろうし、そうやって一生懸命に働いて努力することは、神の御心に適っているだろうとしか思っていませんでした。主は私のことを見ていてくださり、そして再臨なさる時には間違いなく私を天国に引き上げてくださると信じていました。でも、どうやら自分の追求と理解には欠陥があるようです。ジム兄弟、あなたと最後に会ってからたったの2年しか経っていませんが、主を信仰することについてたくさん学ばれたようですね。聖書の勉強をたくさんなさったのではないですか?」

  「私がこうやって少し教示できるようになった理由は、聖書の勉強に力を入れたことよりも、むしろそれは主の啓示と指導があったおかげなんです。それに、私は頻繁に福音ウェブサイトで記事を読んだり、福音映画を見ています。そうやってたくさん真理を理解したんです。後でリンクを送ってあげますよ。」

  ヂャオ・シュンはこれに驚き、興奮した口調で言いました。「ああ、なるほど!主に感謝します!ならば、神の御心に従うことがどういうことかは分かりましたか?私はこの疑問が重荷になっているから、答えが分かるまで落ち着けそうにないですよ」。

  ジムは続けて言いました。「神の御心に従うということは、神の道、神の言葉、そして神が表す真理の全て、すなわち、神が私たち人類から求めておられることに従うということです。私たちは神がお求めになること全てを行って、神の指示に厳密に従い続ける必要があります。これ故に、神の御心に従うということは、幾つかの言葉を実践するだけではなくて、真理をたくさんの側面から実践するということなんです。私が福音ウェブサイトで目にした節を読んであげますよ。『何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する』(『神の性質と神の業の結果を知る方法』より)。これらの言葉から、神が各時代の働きの中で仰せられる言葉は私たちに対する要件であって、私たちが歩むべき道であることが分かります。例えば、律法の時代では、人々は十戒に従って安息日を守る必要がありました。恵みの時代では、主イエスが贖いの働きをされた時、私たちは主の戒律に従い、主の言葉通りに体験し実践する必要がありました。私たちは神が用意してくださる全ての人々、物事、出来事、そして神が造ってくださる全ての状況を受け入れ、それらに従うことを学ぶ必要があります。試練や苦難に遭遇するときには、神の証を立てようとしなくてはなりません。そうすれば、私たちは神を愛して神の御心に従う人々になるんです。主イエスは私たちに『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』(マタイによる福音書22:37)と求められました。だからこそ、私たちはどうやって心、魂、思いを尽くして神を愛するのか、そのようにして働きの過程で神を満足させ、神に従うのかを考える必要があるんです。全てにおいて真理を求め、利己的な汚れと野心を持たずに神の御心に従いながら振る舞うということが、神の御心を行うということなんです。アブラハムを例にとってみましょう。神が彼にイサクを捧げるよう求められた時、彼は愛する一人息子を神にお返しようという誠実な気持ちで神の言葉に従いました。彼の絶対的な従順が功を喫し、神は彼の子孫が偉大な国家になるよう祝福されました。もう1つの例として、ぺテロは主のために一生懸命に努力して、働きながら、イエス様に従って一生を過ごしました。彼は主の御心と要件に厳密に従いながら教会を牧養しました。そして、彼は死ぬまで神に従い、神を極限まで愛することができたのです。この2人は神に従い、神を崇めました。このような人々こそ、心から父なる神の御心を行う人々なんです。

  ヂャオ・シュンはこれに聞き入っていました。そして、彼は興奮した口調で言いました。「なるほど、あなたの話を聞いて初めて理解出来ました。神の御心に従うということは、神の言葉全てに従って、要望や要求を持たずに神の言葉通りに振る舞って、神を喜ばせるためにできることを全て行うということなんですね」。

  ジムは続けて言いました。「そうです、彼らと比べると、私たちは神の御心に全く従えていません。私たちは依然として、取引することをねらったり、汚れた心、動機、そして目的をたくさん持ちながら行動しています。私自身を例に挙げます。私は信者になってもう何年も経ちますが、説教をする際には、人から尊敬されようとして自己顕示したり、自分の証言をしてしまうことが未だにあります。自分は主のためにたくさん働きをこなしたと思うと、将来義の冠を授かることを期待して神に祝福を請いたくなることもあります。私は一生懸命に働いていても、主の言葉を実践できていなんです。だから、私が神の御心に従う人とみなされるはずがないんです」。

  これに共鳴したヂャオ・シュンは頷いて言いました。「あなたの言う通りです。私は長年に渡って主を信仰してきましたが、ただ表面的に働き、苦しむことばかりに集中して、主の要件に従いながら主の言葉を実践することには集中していませんでした。神に感謝します!今日、あなたの話を聞いて、本当にたくさん勉強になりました。犠牲を払って一生懸命に働くことが神の御心に従っているということではないと明確に理解できました。それに、私たちが天国に入る上で神がお求めになる基準、すなわち、神の御心に従うということについても少し理解できました。ジム兄弟、今日あなたと偶然会ってこの話しが聞けたのは、神のお気遣いがあったおかげですよ」。

  窓の外は晴れていましたが、ヂャオ・シュンとジムはまだ車の中で喋っていました…


聖書預言 2018年7月ブラッドムーンの再現-ヤ―ウェの大いなる恐るべき日来たる!

2019-09-11 16:29:51 | 賛美の心

ブラッドムーンの再現

  珍しい天文現象である皆既月食が2018年7月27日の夜20:22:54 UTC(協定世界時)に再び現れます。

  ウィキペディアによると、今回の皆既月食では、月の赤経は20°28’12’’、赤緯は19°、半影部分の光度は2.679、そして本影部分の光度は1.609になるそうです。天文現象は全体としてほぼ4時間も続きます。部分月食は235分間、皆既月食は102分間続き、今世紀で最長の月食となります。それと同時に、月は目を見張るような赤色もしくは赤茶色になり、これが「ブラッドムーン」と呼ばれる由縁となっています。

  今回の月食は北米の観測者たちは見ることができないと言われています。しかし、NASAゴダード宇宙飛行センターの月科学者ノア・ペトロ氏はアフリカ、中東、南アジア、そしてインド洋の大半の地域では天候が良ければ十分に見ることができるだろうと考えています。観測者は特別な機器は何も必要ありません。裸眼または一般的な望遠鏡でこの目を見張るようなブラッドムーンを見ることができます。

ブラッドムーンの頻繁な現れが世界の注目を集めています

  今回の皆既日食は長時間続くので、天文学者たちの注目を集めています。さらに、キリスト教徒たちはこれをうけて、「ブラッドムーンの再現か、ヤ―ウェの大いなる恐るべき日は近々到来するのだろうか?」と考えさせられています。

  インディアナ州のキリスト教伝道者であるポール・べグリー氏は、7月27日は世の終わりではないが、使徒言行録第2章とヨハネの黙示録第6章に記された聖句はブラッドムーンが終わりの日に現れると預言しているという見方ができると考えています。

  ブラッドムーンは過去に何度か発生しています。特に、2014年と2015年の間に現れたブラッドムーンはユダヤ教の重要な祝祭日と同時期に発生しました。それぞれが、2014年4月15日と2015年4月4日(ユダヤ教の過ぎ越しの祭り)、2014年10月8日と2015年9月28日(仮庵の祭り)に発生しています。このような驚くべき現象を受けて、私たちは聖書に記されているブラッドムーンに関する預言にもっと注目するようになります。

  ヨハネの黙示録第6章12節にはこの記録があります、「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり」。そしてヨエル書第2章29-31節はこの記録があります、「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」 これらの節から、フラッドムーンはヤ―ウェの大いなる恐るべき日が到来する前に現われることが分かります、すなわち、ブラッドムーンの現れは大災害の発生が近づいているというしるしなのです。

7つの封印が破られました、神の足跡はどこに?

  ヨハネの黙示録が終わりの日に関する神の預言であることはキリスト教徒なら誰でも知っています。7つの封印について、ヨハネの黙示録第5章1-5節にこう記録されています、「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」。

  これらの節から、神のみが7つの封印を破り、巻物を開けるこということが分かります。最近、ブラッドムーンは頻繁に現れています。それは主イエス様が戻られ、封印を破られ、巻物を開かれたというしるしなのでしょうか?そうだとしたら、主は何処におられるのでしょう?主が明らかにされた奥義とは何なのでしょう?主が開かれた巻物とは何なのでしょう?これらは次回ブラッドムーンを目にする時にキリスト教徒が最も探求べき重要な質問であると思います。

  ブラッドムーンの現れは大災害の始まりです。近頃、戦争、地震、干ばつ、洪水、ウイルス等の災害が世界中で頻繁に発生しています。ヨハネの黙示録にある預言は既に成就しています。ヤ―ウェの大いなる恐るべき日は近々到来し、大災害の発生はすぐそこまで来ています。

  主イエス様はこう仰りました、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」マタイによる福音書7:7。私たちは、主イエス様が主を心から探求する羊たちを見放されはしないと信じています。兄弟姉妹の皆さん、私たちがすぐに主の足跡を見つけて主の再臨をお迎えすることができるよう、共に祈りを捧げ、主に助けを求め、私たちを啓き、動かしてくださるようお願いしましょう。私たちはこれを主イエス様の名に懸けて請います。アーメン!

  もっと見る:150年に一度しか見られない珍しい天象「血の色をしたスーパー・ブルームーン」は 何を予告しているのか


泥を振り落として、一歩一歩上がる

2019-09-10 22:56:39 | 賛美の心

  ある農夫は一匹の老いたラバがいて、ある日ラバはうっかりして井戸に落ちました。井戸が深いので、どうしても救い出せなく、農夫はあきらめて、ラバが深い井戸の中でもがいているのを見るに忍びないので、泥で深い井戸を埋めることに決めました。農夫はシャベルで泥を井戸の中に投げ入れ、ラバはついでに背中の泥を振り落とし、そして泥を踏んで上へ上がりました。ラバは絶えず泥を振り落とし、結局ラバの頑張り抜いたため、もともとラバを泥で埋めるつもりだったが、かえって新しい命を得る段階になりました。

  人生には多くの予想外の出来事があります。わたしたちはいつも思いがけない時に逆境にぶつかり、挫折、苦難に遭います。このような時、わたしたちの人性の弱さは往々にしてはっきりと現れます。わたしたちのうちのある者は尻込みしてしまい、続けて前へ進む勇気がなくなります。ある者は一度のつまずきで立ち直れなくなり、再び立ち上がるのに必要な根気を失ってしまいます。またある者は絶望に陥って、生きていく勇気さえ失ってしまいます。……わたしたちにとって、苦難は老いたラバを埋める泥のようなものです。しかし、わたしたちが「泥を振り落として一歩一歩上がる」精神と根気がなければ、最終的にきっと泥の下に埋められます。

  しかし、ある人たちは積極的に苦難に直面することができ、また苦難の中で自分を鍛え、自分の欠けたところを補い、自分の根気を鍛えることができます。「死地に置かれてこそ生きられる」というのがそのとおりです。失敗、つまずき、挫折、苦難はかえって、彼らの成功の土台になりました。経験した後、彼らはみな「苦難は、神がわたしたちに与えられた最もよい祝福です!」と感嘆します。

 

  ある時、人生は本当に不可思議です。本当の命の富は、苦しい試練を経験してはじめて得られます。順境にあっても真理を得られる人は一人もいません。試練を受けている時のヨブが言ったように、「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」(ヨブ23:10)。ヨブは神からの試練を逃れませんでした。彼は試練が彼の命を鍛えて、彼にもっと多くの真理を理解させることができると知っていたからです。苦しい試練の中で、神に対する彼の信仰、従順、畏れ敬いはみな昇華しました。

  本当に意義がある人生には、神が各段階でわたしたちに与えられる苦しい試練が欠かせません! わたしたちが神の導きに依り頼み、心をもって経験し、体験しさえすれば、きっと思いがけない収穫を得られます!


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聖書を読む4つの原則は、あなたが把握しているのか

2019-09-09 19:30:34 | 賛美の心

  聖書を読むことは、クリスチャンが毎日霊的生活を送るのにしなければならないことです。では、どのように聖書を読めば、よい効果を収めることができますか。あなたが四つの原則を把握したら、予想外の収穫を得られます。

第一に、神の即時的な言葉を読む
  神の即時的の言葉は神の最も新しい働きを代表します。それは神がわたしたちの当面の必要に応じてわたしたちに供給するものです。わたしたちがそれに聞き従ったら、神に良しとされることができます。例えば、旧約の時代にヤーウェ神は「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(出21:24-25)という条令を発布されましたが、主イエスは来て働かれた時、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:43-44)と言って、人の当時の必要に応じて、もっと適当な実行の原則を設けられました。もし当時の人がやはり律法の時期の神の言葉にしたがって実行すれば、神に良しとされることができません。神は新しい言葉を言い、新しい仕事をなさったからです。ヨハネの黙示録の多くの箇所に「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」と預言されています。だから、世の終わりに主は再来される時、また新しい言葉を言われます。わたしたちが神の最も新しい言葉を読めば、小羊の足跡にしっかりと従う人になります。それでこそ、神に良しとされることができます。

第二に、実際の問題に応じて聖書を読む
  毎日、わたしたちは大小さまざまなことに会います。もし順を追って聖書を読むなら、融通の利かない読み方をすることになり、容易にはよい効果を収めることができません。もしわたしたちが自分の問題に応じて聖書を読むなら、神の言葉から供給、導きを得ることができます。こうして、わたしたちの困難が解決されました。神の言葉はわたしたちの足のともしび、わたしたちの通り道の光ですから。例えば、もし現実生活の中でわたしたちが他人を容赦し、他人に我慢することができなければ、わたしたちは「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタ7:3)、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタ18:22)というような主の言葉を読むべきです。もし随意に一箇所の言葉を読むなら、わたしたちの問題は解決されることができません。だから、実際の問題に応じて聖書を読むことはとりわけ重要です!

第三に、心を落ち着けて神の前で心をもって祈り、神の言葉をかみしめる
  もしわたしたちが聖書を読む上で、心をもって祈ったり、神の言葉をかみしめたりしないなら、聖書を読んだ後、聖書の章節をいくらか覚えることができ、聖書の字句の表面上の意味を理解しているが、その真意が分からず、また神が言葉を言う時の御心が分かりません。こうして、どのように神の言葉にしたがって実行するかを知らなくなります。だから、聖書を読むことで収穫を得たいなら、心を落ち着けて神の前で心をもって祈り、神の言葉をかみしめることを、訓練しなければなりません。例えば、主イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)と言われました。もし主の言葉の霊的な意味を考えず、ただ文字どおりに理解するなら、わたしたちはただ、主はわたしたちが子供のようになると要求したと思っているだけです。だが、どうすれば子供のようになるかについて考えなければ、やはり実行の道がありません。もしわたしたちが祈りながら主のこの言葉をかみしめるなら、「子供のようになる」とは、誠実で、単純で、心を打ち明け、何の束縛も受けないこと、すなわち誠実な人になることを言っているのであり、誠実な人になってこそ、神に救われることができると分かりました。この時、自分の言行を反省すると、自分の毎日のうそがとても多く、自分が単純で心を打ち明ける人ではないと自覚します。こうして、主の言葉を実行して、誠実な人になることを追い求める力を持つようになります。だから、聖書を読む時、神の言葉をまじめにかみしめてこそ、効果を収めることができます。そうしなければ、わたしたちの理解しているものは永遠に文字の教理であって、命になれません。

第四に、神の言葉を通して神の性質を認識する
  聖書を読む時には、神の言葉の霊的な意味をまじめにかみしめるだけでなく、神の言葉を通して神の性質を認識する必要があります。わたしたちはやはり「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)という主イエスの言葉を例としましょう。わたしたちが主のこの言葉をまじめにかみしめれば、次のことを認識できます。神は誠実な人が好きです。これは、神の本質は信実であることを証明します。だから、誠実な人になってこそ、天の国に入ることができます。これは神の義なるきよい性質を明らかにしました。これらを認識した後、わたしたちは神を畏れ、神の言葉にしたがって実行するようになり、天の国に入ることに関する想像を捨ててしまい、主の御名をしっかりと保ったり、労苦して働いたりしたら、天の国に入ることができると思わなくなります。だから、神の言葉を通して神の性質を認識することは非常に重要です!

  以上の、聖書を読む四つの原則が、兄弟姉妹たちが聖書を読み、霊的生活をする助けになればと期待しています。神がわたしたちを導いてくださいますように。わたしたちの命の成長がもっと早くなるように、神の言葉にもっと精を出しましょう。


物語:大いなる山、小川、強風、そして巨大な波

2019-09-08 17:51:57 | 賛美の心

  曲がりくねった小川があり、その小川は大きな山の麓へと流れ込んでいた。この山は小川の流れを遮っていたので、小川は「私を通してください。私の進む道にあなたが立って先へ進むことが出来ません。」と、か弱い小声で山に頼んだ。すると、山は「どこへ行くのか」と尋ねた。小川は「自分の故郷を探しています」と答えた。山は「分かった。私を超えて流れてゆくがいい。」と言った。しかし、小川は弱く、幼かったので、そのような大きな山を越えて流れることは出来なかった。そうしたわけで、小川は引き続き大きな山の麓に流れ込むよりほか無かった。

  強風が吹き込み、砂や塵を山のある場所へと運んできた。強風は大声で「私を通せ。」と怒鳴った。すると、山は「どこへ行くのか」と尋ねた。強風は「山の向こう側へ行きたいのだ。」と怒鳴り返した。山は「分かった。私の中心を割って通れるのであれば、通ってよろしい。」強風は様々な方向で吹き込んだが、どれほど強く吹き込んでも、山の中心を割って通ることが出来なかった。強風は疲れ、吹くのを止めて休んだ。そうしたわけで、山のそちら側は、そよかぜがたまに吹く程度であり、そこに居る人々はそれに満足していた。それは、山の人間に対する挨拶であった。

  海辺では、小波が砂州に優しく打ち寄せていた。突然、大波が現れ、山の方へと押し寄せて行った。大波は「そこをどけ。」と叫んだ。すると、山は「どこへ行くのか」と尋ねた。大波は留まること無く押し寄せながら「今、領地を拡大しているところだ。」と答えた。山は「分かった。私の頂を越えて通れるのであれば、道を譲ろう。」大波は少し下がってから再び山へ向かって押し寄せた。しかし、どれほど頑張っても、山の頂を越えられなかった。大波は仕方なく、次第に来た方向へと引き下がっていった。

  小川は何世紀にもわたって山の麓を優しく撫でて流れ続けた。山が造った経路をたどり、小川は大河と合流し、故郷である海へと流れ込んだ。小川は、山の慈しみを受け、道を見失うことが無かった。小川と山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。

  強風は何世紀経っても相変わらず山に吹き付けていた。強風は、それ以前と同様に山の所へと「訪れる」時に大きな渦を巻く砂を吹き込んだ。強風は山を脅したが、山の中を割って吹くことは出来なかった。強風と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。

  大波もまた何世紀経っても相変わらずで、領地を広げるのを止めなかった。大波は何度も山へと押し寄せたが、山は全く不動のままであった。山は海を見守り、そのために海中の生物が増加し、繁栄した。大波と大きな山は互いに信頼し合い、制限し合い、頼り合っていた。

  物語はこれで終わりである。まず、あなたがたはこの物語について、どのような意見があるであろうか。また何がこの物語の主題であろうか。最初に山があり、それ以外に何が登場したであろうか。(小川、強風、そして巨大な波が登場した。)最初の部分では、小川と大きな山の間で、何があったであろうか。覚えているだろうか。(小川は大きな山の麓を流れていた。)小川は大きな山の麓を流れていた、というのは、小川と山の間の出来事であろうか。小川はどこへ向かっていただろうか。ここで大きな山と小川について議論するのは、何故だろうか。(大きな山は小川を守っていたので、小川は道を見失うことが無かった。小川と山は信頼し合っていた。)山は小川を守っていたと言うべきであろうか、それとも妨害していたと言うべきであろうか。(守っていた。)山は妨害していなかったであろうか。山と小川は共にあった。山は小川を守り、また山は小川の障害でもあった。山は小川を守っていたので、小川は大河へと流れ込むことが出来たが、同時に小川が様々な所へ流れ込んで洪水を引き起こし、人々に災害を起こすのを防いでいた。これが、この部分の要点だろうか。(その通りである。)山が小川を保護し、人々の家を守る障壁の役割も果たしていた。そして小川が山の麓で大河と合流し、その後海へと流れ込んだ。それは小川には不可欠なことではなかろうか。(その通りである。)小川が大河へと流れ込み、そして海へと流れ込んだ時、小川は何を頼っていただろうか。小川は山を頼っていたのではなかろうか。小川は山の保護に頼り、山は障壁としても機能していた。そのことが要点だろうか。(その通りである。)この物語において、山の小川に対する重要性が分かるであろうか。(分かる。)山は重要であろうか。(重要である。)神が山を高くしたり、低くしたりすることについて、神には計画があるであろうか。(ある。)そのことには計画があるであろう。これは物語の小さな部分であるが、単なる小川と大きな山から、人間は、神が小川と山を創造したことの価値と意味を理解することができる。また、神による小川と山の支配から、神の知恵と目的も理解できる。そうではないだろうか。

  この物語の次の部分は、何に関するものであっただろうか。(強風と大きな山に関するものであった。)風は良いものであろうか。(良いものである。)風が強すぎると、しばしば災害を引き起こすので、必ずしもそうとは限らない。強風時に戸外に居なければならないとしたら、どう感じるであろうか。どう感じるかは、その強さによるであろう。レベル2~3、あるいは3~4程度の微風であれば、せいぜい目を開いたままにしているのが困難となる程度であり、耐えることが出来るであろう。しかし、風が竜巻となる程の強さであった場合、耐えることが出来るであろうか。耐えきれないであろう。したがって、風が常に良いものである、あるいは常に悪い者である、というのは、誤りである。なぜなら、それは風の強さによるからである。それでは、ここで大きな山はどのような役割を担っているであろうか。山は風に対する一種の風防のようなものであろうか。(その通りである。)山が強風を受け、それをどのようにしているであろうか。(そよ風にしている。)その通り、そよ風にしている。そこに住む人々の大部分が、それに触れ、感じることが出来た。人々が感じたのは、強風であっただろうか、それともそよ風であっただろうか。(そよ風であった。)それは、神が山を造った時の目的の一つではなかっただろうか。それが神の意図であったのではないか。激しい風が砂を巻き上げ、それを防ぐものが無い環境に人間が生活したとすると、それはどのような生活であろうか。砂や砂利が舞い上がり、その土地には人間が住めないのではないだろうか。一部の人々は舞い上がった石が頭に当たったり、砂が目に入って見ることが出来なくなったりするであろう。人間は空に舞い上がったり、人間が立ち上がれないほど風が強く吹いたりするであろう。家は破壊され、様々な災害が起こるであろう。強風には価値があるであろうか。(価値がある。)その価値は何であろうか。わたしが、風は悪いと言った時、人々はそれに何の価値も無いと感じたかも知れないが、それは正しいであろうか。それを、そよ風に変えることには価値があるだろうか。湿度が高くむせかえるような時、そこに居る人々には何が必要だろうか。こうした人々には、気分を爽快にし、気持ちを落ち着けて改善するため、やさしく吹き渡るそよ風が必要である。たとえば、多くの人々で込み入った部屋に座っていて、息が詰まるような場合、何が最も必要であろうか。(そよ風である。)風通しが悪く空気が汚れている場所では、人間の思考が遅くなり、血行が悪くなり、頭脳の明晰度が落ちる。しかしながら、空気を循環させて換気できる場合、空気が新鮮になって人間の気分は格段に良くなる。小川や強風は災害を起こす可能性もあるが、山がそこにある限り、小川や強風は山によって人間に有益な物に変えられるのではないか。

  この物語の3番目の部分は、どのような内容であっただろうか。(大きな山と大波の話であった。)そのとおり、大きな山と大波の話である。この部分の舞台は海を見下ろす山で、山と、波しぶき、そして大波が登場する。この部分において、山は大波にとって、どのような存在であろうか。(保護するものであり、遮蔽物である。)山は保護するものであり、かつ遮蔽物である。そうではないか。大波を保護することは、海のこの部分が消滅するのを防止し、その中の生物が繁栄出来るようにすることである。遮蔽物としての山は、大量の海水が氾濫して災害を引き起こし、人間の家を破損させたり破壊したりするのを防いでいる。そうではないか。したがって、この山は遮蔽物でもあり、保護するものでもあると言える。このことは既に述べたように、山と小川、山と強風、そして山と大波との間にある相互依存と、それらの物がどのようにして相互に制限し合い、依存し合っているかの重要性を示すものである。

  これらの神の創造物の存続を支配する規則と律法がある。あなたがたは、この物語の出来事から、神が行った業を理解できるであろうか。神は宇宙を造り、その後の出来事を無視したであろうか。神は規則を設け、その規則がどのように働くかを計画した後、その規則を無視したであろうか。そのようなことがあったであろうか。(無かった。)それでは、どのようなことがあったであろうか。(神は管理している。)神は水、風、波を依然として管理している。神はそうした物事が荒れ狂い、人間の家を破損させたり破壊したりすることを許さないので、人間は引き続き地上で生活し、繁栄することが出来る。すなわち、神は、神が宇宙を造った時、既に存続に関する規則を計画していた。神がこれらの物事を造った時、神はこれらの物事が人間に資することを確認し、またこれらの物事を管理して人間にとって問題や災難とならないようにした。これらの物事が神により管理されていなかったとしたら、水は随所に溢れ出すのではないだろうか。風は随所に吹き荒れるのではないだろうか。神がこれらの物事を管理していなかったとしたら、こうした物事は規則により管理されず、随所に風が吹き荒れ、水が溢れかえるであろう。大波が山よりも高かったとしたら、その部分の海は存続出来たであろうか。海のその部分は存続し得なかったであろう。もし山が波と同じ程度の高さでなかったとしたら、海のその部分は存在せず、山はその価値と意味を喪失するであろう。

……

  大きな山と小川の部分に関し、この山はどのようなものであっただろうか。山には生物が繁栄しているので、山はそれ自体に存在価値がある。同時に、この山は小川を遮り、小川がとりとめもなく流れて人々に災害を及ぼすことの無いことが確実化される。そうではないだろうか。山が存在するおかげで、山は小川が流れる方向を示すと同時に、山の草木をはじめとする植物や動物などの生物を繁栄させることができる。山は小川の水を集め、山の麓を自然に流れさせ、そこで小川は大河へと流れ込み、最終的に海へと到達できる。この状況に存在する規則は自然により決められたものでは無く、神が創造した時に、特に定められたものである。大きな山と強風の部分に関しては、山には強風も必要である。山は、風が山に棲む生物に心地よく吹き当たることを必要とする一方で、風が被害を発生させないようにするため、山は風の吹く強さを制限する。この規則には、ある意味で山の義務がある。それでは、この山の義務に関する規則は、自然と決まったものであろうか。(そうではない。)そうではなく、この規則は、神が決めたものである。この大きな山には義務があり、強風にも義務がある。大きな山と大波の部分に関しては、山が無かったとしたら、大波は自分で流れる方向を探し当てていたであろうか。(そのようなことは無いだろう。)水もまた被害を発生させる。山には、それ自体に山としての価値があり、海にも海としての価値がある。このように、両者が相互に干渉せず、通常通りに存在可能な状況においては、両者は相互に制限もする。大きな山は洪水を起こさないように大波を制限して人々の家を守り、またこれにより海は海中に棲む生物を繁栄させることができるようになる。この環境は、自然に形成されたものであろうか。(そうではない。)これもまた神により造られた。これらの光景から、神が宇宙を造った時、神は山がそびえる場所、小川が流れる場所、強風が吹き出す方角と吹き込む方角、大波はどの程度の高さかが、予め決められていたことが分かる。神の意図と計画は、これらの物事全ての中にあり、それは神の業である。あなたがたは、万物に神の業が存在することを理解できたであろうか。

 

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